「………」
そんな磯前の言い草に、日織は珍しくも一瞬だけきょとんとして。
「……ずるいですよ、旦那」
「何がだ」
「ずるいもんはずるいんです」
「訳がわからんぞ」
すぐに拗ねた子供のように眉間に皺を寄せては、はっきりとした理由も言わず何度も「ずるい」を繰り返す。
「本当に、旦那だって和さんが好きなくせに」
「だが、お前の言うそれとは違う」
「そいつぁ嘘ですね。誤魔化そうったってそうはいかねえや」
「誤魔化してどうすんだ」
やり取りの合間にも段々と見慣れた形になっていく蕎麦を満足そうに見ながら、磯前はそろそろ完全に湯を沸かす頃合かと、手の離せない日織に代わりコンロにかけられていた大鍋の火を最大にする。
「こういう時だけ、物分りの良い大人の振りをするんですから。だから旦那はずるいってんです」
「俺が物分りがいいんでなく、お前の諦めが悪すぎるだけだ」
「しょうがねえでしょう。俺にとって和さんは特別なんですから」
「そんなこたぁ百も承知だ」
「だったら」
「俺はな、そういうのを全部ひっくるめた上で、それがお前だって事をとっくに承知してんだよ。そうでなきゃいつも気の遣い方が最悪なまでにヘタクソで、何から何まで面倒なお前の相手なんかしてられるか」
と、なおも食い下がるのを簡単にあしらい、蕎麦のせいで両手の塞がっている日織の顎を掬い上げると。
「坊主がお前よりも成瀬を選んだからってな、いい年して何時までも拗ねてんじゃねえ。だからお前はまだまだガキだってんだ」
「…だん、……」
叱る意味を込めて眼光鋭く睨みつけ、これ以上ぐだぐだ言うなと念を押してから、最後に慰めるように軽く唇を重ねてやった。
「ん…、旦那」
「なんだ」
「…折角の蕎麦が乾いちますからね、今はこれくらいでいいですよ」
「そうか」
ただ重なっただけのそれで、とりあえずは満足したらしい日織が自分から身体をずらし、そのまま蕎麦を切る手を再開すると。
「坊主の事とは違って、随分物分りがいいじゃねえか」
「旦那を見習ってみただけでさあ」
「ふん、言ってろ」
これでひとまず飯時は大丈夫だと踏んだ磯前は、抱いたままだった猫をそっと床に下ろし、そのまま何とはなしに日織の頭を撫でてやる。
「全く、何時でも面倒くせえヤツだ」
「面倒臭くてすみませんねえ」
そして蕎麦が茹で上がる前に着替えてくると告げると、日織に背を向けて猫共々台所から去りかけたのだが。
「…ああそうだ。おい日織」
「はい」
「さっきの坊主の事だがよ」
「なんです?」
あれだけで、日織は一通りの鬱憤は吐きだしたらしく。
台所を振り返り様わざと話を蒸し返してみても、日織が頭を上げることなく蕎麦を切る手に集中していたため、磯前は漸く完全に渋面を解いて普段の表情に戻ると。
「例えばの話、だが。俺から手を出すんじゃなく、ましてやお前が変に嗾けるんでなく。ただ純粋に坊主が自分で俺に助けを求めてきとしたら…その限りじゃねえかもなぁ」
と、にやりと人の悪い笑みでもって、結局は日織の読みが正しかったことを認めてやった。
「…………なんですか」
一人台所に残された日織が、その答えに満足そうな笑みを浮かべ。
「これだから、俺は旦那が大好きなんですよ」
先ほどまでとは打って変わって、随分と上機嫌で蕎麦を切っていたのは言うまでもない話。
…それはまた、日織の手綱を取ることに関しては、磯前だとて和の引けを取らないとも言う話。
【 愛恋傍観者・完 】