夏の日差しも和らいで、朝晩はめっきり肌寒さを感じられるようになった、そんな季節。
『えんちょーせんせー』
ここ高遠幼稚園では、コツコツと園長室のドアを叩く小さな音が聞かれます。
「…ああ?」
お遊戯時間で皆色々好きなことをやっている時間に、突然園児からの訪問。
園長室で一人書類とにらめっこしていた園長先生は、一体何事かと眼鏡を外して顔を上げました。
『はいってもええ?』
「別に構わんが…どうした」
声から推測するに、ドアをノックしているのは峰塚さんちの双子のどちらかで。
ただ双子なだけにどちらかまでは区別がつきかね、だからこそ園長先生がすぐに返事をして招きいれてみるのですが。
「おじゃまします」
よいしょ、と園児にはちょっと重めのドアを開けて入ってきた子供はどちらなのか、園長先生には直ぐに区別がつきませんでした。
…なぜなら峰塚さんちの双子は姉と弟の姉弟ですが、何故か弟も女の子の恰好で登園していることを思い出したからです。
「さてお前さんはどっち…」
『あやめちゃんどこー!?』
「………」
しかしその疑問は直ぐに解決しました。
和先生が今にも倒れそうなぐらい必死な声で、姉であるあやめちゃんを探しているのが聞こえてきたからです。
「おう、こっちにいるぞ」
「園長先生!」
「うふ」
大して動じた様子もなくにっこりと微笑むあやめちゃんに肩を竦めてみせてから、園長先生は和先生を落ち着かせようとドアを開けて外に声をかけました。
「ああ良かった…!黙っていなくなるからびっくりしたよ!」
「うち、ちゃんというてきた」
「ほう?」
園長先生の記憶では、あやめちゃんはお遊戯の時間普段はおとなしくあやとりをしたり絵本を読んでいることが多いはずなのに。
しかし今日に限って何故かふらりと部屋を抜け出し、こうして園長室に一人やってきた理由が気になるところです。
「えんちょーせんせーのとこいってくるって、ちゃんとなごせんせにいうてなっていってきた。…しゃちょーに」
「…………」
「…………」
が、あやめちゃんが行き先を告げた相手というのは、幼稚園で飼っているオウムの『社長さん』で、それを聞いた和先生は怒るに怒れず園長先生は苦笑を隠しきれず無言になってしまいました。
「…うち、アカンことした…?」
「う、ううん!ごめ、ごめんね気がつけなくて。ちゃんと言って来たんだよね、偉いね」
けれどその無言を捉え違えたあやめちゃんは、ちょっとだけ不安そうに表情を曇らせて和先生を見上げてきました。
「社長さんからきちんと伝言を受け取れなくてごめんね?」
「…………」
怒っていないよとそう言う代わりに和先生があやめちゃんをきゅっと抱き締めてあやしてみせると、あやめちゃんは自分からも和先生に擦り寄ってから小さな声で「ごめんなさい」と謝ります。
「それよりも。…おまえさん、俺に何か用事があったんじゃねえのか?」
ごめんねを言い合う二人を傍らで黙って見ていた園長先生でしたが、放っておくと何時までもそのままになりそうだったので、あえて二人の頭にぽんっと音がしそうな仕草で手を乗せて、あやめちゃんが此処にやって来た理由を聞き出すことにしました。
「そうだ。…園長先生に何かご用があったの?」
「………これ」
それで漸く自分が何をしに此処にやってきたのか思い出したのでしょうか。
あやめちゃんは園長先生の手を頭に乗せたまま抱きついていた和先生の腕からちょっと身体をずらすと、ずっと園児服のポケットに入れっぱなしにしておいたものを取り出します。
「ん?」
「あやとりの糸?」
それは綺麗な赤い色のあやとり紐で。
手先が器用なあやめちゃんのお気に入りのそれは、よく見ると結び目が解けて一本の紐になっていました。
「ああ、結べばいいのか」
それを差し出された園長先生は、結び直してやればいいのかとそう思って手を伸ばしかけるのですが…。
「ちがう。むすぶのは、こっち」
「え?」
「何?」
あやめちゃんは物凄く意味ありげに「にまあ」…っと笑いながら、片方の端を自分の頭に乗せられていた園長先生の右手小指に結んでしまいました。
「………どういうこった?」
「もう片方は、こっち」
園長先生の疑問に答えず、どこか嬉しそうに再度紐を結んだのは和先生の左手小指。
つまりそれの言うところは…。
「あかいいと」
「…………」
「…………」
恋人同士が繋がれているという、目に見えない赤い糸の代わりなのでしょうか。
園児とはいえさすが女の子、ませてるなあ…などと関心している場合ではありません。
「あああああああやめちゃ……!」
これ、これどういう意味!?と和先生は(園児の手前は一応隠していることになっているので)園長先生との事をあやめちゃんにばれているのかと軽くパニックを起しかけてしまいますが、園長先生といえば全く動じる気配もなくて。
「で。用件ってえのはこれだけか?」
「ううん」
あやめちゃんの「にまあ」とした笑いを人相の悪い笑みで返し、一人焦っている和先生を頭に乗せていた手で軽く引き寄せて落ち着かせます。
「もう一本、あるん」
「それはどうする気だ?」
「こうするー」
そういってあやめちゃんは和先生の右手小指に紐の端を結んでしまうと、もう片方は自分の左手小指に結んで欲しいと園長先生に差し出しました。
「うちは、なごせんせいのいちばんがえんちょーせんせーでもええの」
「………」
「でも、おんなのひとのなかでは、うちがいちばんになりたいんよ」
「ふむ…」
これが壮一郎先生であったなら、おままごとの延長にあると軽く受け流してしまったかもしれませんが。
…生憎と園長先生にはこれと似たような経験があった上に、あやめちゃんがとても真剣な眼をしていたので流すことをしませんでした。
「これでいいのか?」
「ありがとー」
硬直している和先生をひとまず置いておくことにした園長先生は、乞われるままに差し出されたあやめちゃんの左手小指に赤いあやとり紐を結んでやります。
「えんちょーせんせー」
「なんだ」
「うち、えんちょーせんせー「も」だいすきやから」
「そうか」
「なごせんせー、いっしょにすきになってええ?」
「ああ」
自分そっちのけで何やら二人して物凄い相談…というか約束事をしているのに気付いた和先生ですが。
ああじゃないですよ、何言ってるんですか!と突っ込みを入れようにも、揃ってこちらを見る目が余りにも威圧的だったため、射竦められたように全く言葉が出てきません。
「じゃあ、えんちょーせんせー。…やくそくしてな?」
「上等だ」
やくそく、という言葉と同時に差し出されたあやめちゃんの右手は指きりの形を取っていて、それに対して園長先生は自分の空いている左手小指で応じるのですが。
外から聞こえてくるお友達の賑やかな笑い声や先生達の声を遠くに感じながら、両手の小指を赤い糸で結ばれた和先生は一人どうにも反応出来ず。
「ははは、和先生も昔あやめさんと同じ事を園長先生にやったことがありましたっけねえ」
お茶を持ってやって来た日織さんが苦笑と共にそう呟いた言葉に、ぎっと睨みつけることしか出来なかったとか。
…園長先生があやめちゃんを誤魔化したりしないのは、子供の本気が如何程のものかを和先生で十分知っているからこそなんですよ。
【赤い糸と約束と・完】