年末の旅行前、日織には相当な勢いで叱っていたのに、僕には気を付けて行ってこいと渋面のままそう言って頭を撫でてくれたあの人に。
旅行自体は何事もなくとは言い難かったけど、それでも無事帰国した僕は力一杯ただいまを言いたくて、そして抱き締めてもらいたくて。
「ただいま戻りました!」
家に訪ねて行って玄関で姿を見るや否や、僕は気が急いていたのか叫ぶようにそう言った後、お土産を渡すより先に胸に渾身の力で飛び込み抱きついてみれば。
「おう、帰ってきたな」
「……?」
身長はそんなに変わらないのに、非力な僕と違ってよろける事なく抱き締め返してくれたその人から感じられる、微妙で些細で…確かな違和感。
「いきなり抱きついて来たと思ったら、人の顔見てきょとんとしてどうした。
まだ時差ぼけしてんのか?」
そう言ってくつくつと喉を鳴らして笑う仕草も、子供をあやすように僕の頭を撫でてくれる節くれだった手も、旅行前となんら変わらない大好きなそのままなのに。
旅行前と比べて、一つだけ足りないものがある。
「ただひこ、さん?」
「何だ?」
僕がこの人に抱きつく度に、必ず鼻孔を擽るはずの香りが。
この人が僕を抱き締めてくれる時に、包みこむように動くあの香りが。
家の中に微かに残っているだけで、今抱きついている、会いたくて会いたくて仕方のなかった忠彦さんからそれが香ることはなく。
「匂いがしない…」
「は?」
多い時には日に三箱も空けてしまうような忠彦さんからいつも香るはずの煙草の匂いがしなくて、会えなかった間それが恋しかった僕はいささか呆然としてしまう。
「僕が向こうに行ってから、禁煙したんですか?」
「…ああ、そのことか…」
自分でも呆れるくらいか細い声で問掛ければ、忠彦さんは少しだけ視線を泳がせてから再度僕の頭を撫でてくれて。
「禁煙なんかしてねえよ」
「でも…」
「むしろ早く吸いたいんだ、いい加減靴を脱いであがれ」
と、苦笑いしながら僕の問いに答えることなく促した。
「お前がこうして帰ってきたからな。漸く吸える」
「え?」
「してたのは禁煙じゃなく願掛けだ。…何処に行こうがお前が変な騒ぎに巻き込まれるのは避けられないし、それにもう諦めてるからな。だったらとにかく元気で無事に帰ってくればそれでいいってな」
「……」
そう言って、忠彦さんは僕の前でいつもの煙草にいつもの仕草で火をつけて。
僕が向こうに行っている間本当にずっと断っていたらしく、ゆっくりと美味しそうに紫煙を吐き出した。
「さて、向こうで何があったのかじっくり聞かせろや。
さっき抱き付かれた時気付いたが、お前随分痩せて戻って来ただろう。事の次第によっちゃあの馬鹿を叱り飛ばすだけじゃ間に合わんだろうがな」
「あははは…」
久しぶりに煙草を燻らせる姿に見惚れていたら、ちょっと照れくさくなったのか忠彦さんは旅行の話をしろと呟いて。
そこから続けられた言葉に、話す前から日織が忠彦さんに叱られること『だけ』は決定している事に僕は思わず笑ってしまう。
「お土産も、お土産話も一杯あるんです」
向こうで巻き込まれた事件のせいで、食が進まなかったり不安で眠れなかったり恐怖でどうにかなりそうだったり、日織のせいで本当に色々散々な目に遭ったけど。
こうして低い声と焦がれた香りにも包まれて、本当に帰ってきたんだと実感出来て、僕は漸く本当の意味で安堵する。
…安堵ついでに、いつもより甘えちゃってもいいですか?って言ったら、忠彦さんはなんていうのかな。
【香りの想い・焦がれた香り 完】