「あの、お願いがあるんですけど…」
ナニが楽しいんだか、(頻繁にでないにしろ)都合が合えば事あるごとに家にやってくるようになった坊主が。
いつものように着流しの作った料理を持参して(そもそも何であいつがこうもタイミングよく手土産を持たせてくるのか判らない)、もう片方の手には文庫本が数冊乗っていて。
急に結構な量の台詞付きの役が入ったから、それを覚えるまでちょっとばかし相手に出来んと断れば、おとなしくしているとそう聞き分けのいい返事をした矢先。
「ええと、邪魔はしませんから」
台本を覚えている最中の俺の側で、手にしていた文庫を読んでいいかと遠慮がちに聞いてきた。
「それくらいなら構わんが…多分煙草の煙が凄いぞ?」
「あ、大丈夫です」
「……そうか。なら好きにしろ」
「はい」
別に下手に声をかけられたりしなけりゃ、余程特殊か長くなきゃ気が散ることもないし。
それに坊主が本当に申し訳程度に俺に近づいて、それだけでもう十分と言いたげに文庫を読み出したから。
まあ、実際今まで坊主に特になにか迷惑を被ったわけでなし(危なっかしいんで心配かけさせられ続けてはいるが)、俺は特に気にせずしばらく台本へと意識を向けていたわけだが。
「……………」
ふとすぐ近くに、ほんのりと心地よい温かさを感じて頭を上げてみれば、いつのまにやら坊主が今いま触れそうな位置まで近づいてきていて。
ナニをやってんだお前は…と言いかけた俺は、目にした光景に思わず噴出しそうになったのを寸でで堪えた。
「…………ぅ……………」
坊主は手にした文庫を読みながら酷くその世界に入り込んでいるのか、役者の俺でさえ感心しそうになる慄きっぷりで顔面蒼白になっていたからだ。
(犬猫じゃあるまいし、怖いからってすり寄ってくるか?!)
雨の館で出会った当初から酷く怖がりだったこの子供は、相変わらずそれは治っていないようで。
そのくせ好奇心というか、怖いものはその理由を知らずには居られない損な性格が災いしているらしく。
怖いならばさっさと読むことを諦めればいいのに、性懲りもなく文庫を捲る手を休めようとはしなかった。
「おい」
だがこのままだと流石に坊主が気になって気が散るし、台本を覚えないことには構ってやることもままならないからと、とりあえずそっと声をかけてみれば。
「うひゃあッ?!」
坊主は文字通り【飛び上がって】俺にしがみ付いてきた。
「何やってんだ」
「う、あ、え…うわわわごめんなさい!!」
「ああ、そのままでいい。そのままでいいからとりあえず落ち着け」
「うう…」
蒼白から一転、茹で上がりそうなまでに顔を赤らめている割りに、触れている肌から感じ取られるのは物凄い勢いで脈打つ鼓動で。
一体何が原因なんだと、今までその世界に浸っていた文庫に視線を向ければ。
「高遠作品…」
坊主が読んでいたのは、あの着流しこと高遠日織の爺さん…高遠延二郎の手がけた北速水涼介シリーズの中の、俺が知ってる限りでは一番気味が悪いと思ったタイトルだった。
「お前、怖がりの癖に何だってこんなモン読んでんだ?」
俺が本気で呆れてそう問いかければ、坊主は俺にしがみ付いたまま深すぎるため息を吐いて。
あー、だの、うー、だの、言葉を逡巡しているのか困惑顔で俺を見ていたかと思えば、そのままぽつりと何かを呟いた。
「何だって?」
それがあんまりにも小さくて、俺が思わず眉を顰めて聞き返すと、坊主は「あうー」と羞恥に泣きそうになりながら、怖がりなくせに怖い(というか気味が悪い)小説を読み入る理由を口にした。
「日織が貸してくれたんです」
「……………端折らねえでもう一遍言ってみろ」
「日織が【陣野警部が一番活躍してる話でさあ】って言って貸してくれたんです」
もしやと思ってはいたが、まさかそのまんまだと思わず。
「それだけか?」
「…………」
「着流しはこれを貸す時、お前がとことん苦手な内容だって言わなかったか?」
「い、いいました」
だが、【陣野警部】に引っかかりを感じた俺は、しがみ付く坊主の頭を撫でながらそう聞き返せば、坊主は素直に頷いて、それから。
「でも、怖くても読みたかったんです」
雨に閉ざされた館で迎えるはずだった俺の死を防ぎ共に迎えた薄暗い朝、幼い頃の記憶の断片と重なった俺の姿に、感嘆の溜息を思わず漏らした時のように。
怖くても、俺が、【陣野警部】が側にいれば怖くないからと。
俺を見上げる坊主のその目にあるのは、何処までも純真で純粋な憧憬。
「………全く………」
「忠彦さん?」
「背中」
「…え、と?」
「いくら読みたいからってそんなへっぴり腰になるくらいなら、俺の背中に寄りかかってりゃいいじゃねえか」
「あの、僕は物凄くありがたいですけど、これで台本覚えられますか?」
「騒ぐ訳でなし、どうってこたねえよ」
その真っ直ぐ過ぎる憧憬が、俺にはあんまりにも眩しくて面映く。
柄にもなく赤くなっているだろう顔を見られたくなくて、俺は引っ付いたままの坊主の身体を無理やり背後へと移動させた。
「えーと、それじゃお言葉に甘えて…」
人の気も知らず、坊主は促されるままいそいそと俺の背中に自分の背中を預け、程なくして文庫のページを捲る音だけが響き始めると。
ほんの少しだけ高い体温を背中に感じながら、俺は何もなかったかのように台本へと意識を向けて、演ずる役を自分の中へと織り入れていく。
坊主から向けられる純真で純粋な憧憬を面映く思いながら、同時にそれがどんな世辞よりも嬉しいことを否定できなくて。
背中にかかる体温と僅かな重みに、何よりも安堵するのは俺の方だと。
その事に気付いたのは、俺が台本を覚え終えて、文庫を読んでいたはずの坊主が軽く寝息を立て始めた頃だった。
【安堵と憧憬・完】