大切なこの人の眠りを妨げないように。
「……ん……」
「…お、っと……!」
昏々と眠っていたはずの和の側を、風呂上りの日織が極力気配を消して通った際。
身じろぎすらしないだろうと思っていた身体が僅かに動き、それにより布団からはみ出た腕を危うく踏みそうになって。
日織は思わず声をあげてしまいつつも踏鞴を踏んでそれを避けてみたものの、罰が悪そうに和を窺い見れば。
「ん…、ひおり。どうか、したの…?」
どうやら起してしまったようで、和は日織が顔を顰めてしまうくらい酷く掠れた声でか細く呟いた。
「すみませんね、起しちまって。ちょっと躓いただけです」
「だいじょう、ぶ…?」
「ええ。躓いただけですよ。…さ、俺のことより、寝ててくれて構いませんから」
「…うん…」
和がぽやっとしているのは、先ほどまでの余韻か寝起きのせいかは判りかねるけれど。
それでもあれだけ泣かせた後だからと、そんな意味合いを含ませて和の側に跪き髪をかき上げながら囁きかければ、和は素直に従って目を閉じた。
「そ…だ、ひお、り…」
「なんです?」
「あのねえ…」
寝ぼけているのか疲労困憊でもう目を開けたくないのかこれまた判断付きかねるのだが、それでもか弱くとはいえ和に手招きされれば日織が応じない訳がなく。
「えへへ…あのねえ…」
「はい?」
「…ひおり、いろっぽいねえ…」
「……は?」
括っていない髪が和にかからないように片手でかき上げつつ顔を寄せれば、和は日織が耳を疑うようなことをへらっと笑いながら言うだけ言って、そのままことりと眠りについてしまった。
「ちょいと和さん、一体何事で…ってああ、もう寝ちまったか…」
流石に動揺を隠し切れない日織が慌てて和に真意を問いただそうとするも、幸せそうにくうくうと小さな寝息を立てている彼を起すことは忍びなく。
そんな日織の脳裏に過ぎったのは、二人で夕飯の買い出しに来た帰り道のこと。
『大丈夫ですかい、和さんッ』
『だ、大丈夫じゃない…』
家を出た時は、回り道をして帰りたくなるような気持ちの良い夕方前だったのに。
然程時間をかけずにスーパーを出たはずが、空は見上げなくとも今にも泣き出しそうな気配。
ならば泣き出される前に帰宅するのみと、二人は(というか和のみ)全力で走ってみたところで時既に遅く。
『なんでこんな無茶な雨になるかなぁっ!?』
和が珍しくも八つ当たり状態で叫びたくなるほど、当たる雨の粒が痛いとしか言いようのない夕立に見舞われてしまった。
あまりの雨に走る事を諦め、商店の軒先で雨宿りすることにしたのだが…。
『すぐに止みそうですが。しかし随分派手に降りやがりましたねぇ』
『うん…あ、髪結い直すなら、日織の荷物持ってようか?』
『重くねえですかい?』
『女の子じゃないんだから平気だよ。大体この状態じゃ下に置けないんだし』
「…確かに。じゃあちょいとばかしお願いします」
濡れた髪が気になった日織が、買い物袋を持ったまま組紐に手を伸ばすのを制して受けとったのに。
『すみませんね。すぐ済みますから…』
『……』
『和さん?』
何故か和は、濡れた髪をかき上げながら謝る日織を見つめたままぽかんとしていた。
『和さん、どうしたんです?』
『へ…?ぅ、わっ!』
本気で呆けてしまっている和をいぶかしむように、日織が髪に手をやったまま片眉を潜めて身を屈めたところで、和は距離の近さに我に帰る。
『俺の顔に何かついてるんですかい』
『な、何でもないよ』
『…和さん?』
『本当に!何でもないから!』
『……はあ……』
和はぷるぷると首を振って何でもないと言い切るくせに、余りにも顔が真っ赤になっていて。
説得力がなさすぎるために日織はどうにも納得が行かったのだけれど、まさか往来でいつものように問いただすことも出来ず、結局有耶無耶になっていたそれ。
「…全く。そういう嬉しい事は、もうちょいとばかし色っぽい時に言ってくれやしませんか」
あの時の和は自分がが濡れた髪をかき上げる仕草に見惚れていたのだと知った日織は、無防備に寝入る和を複雑な表情で見下ろした。
「例えば、さっきみたいな、ねえ?」
とはいえ今日これ以上抱いたら、アンタ壊れますし。
散々鳴かせ喘がせていた日織の呟いたこんなにも物騒な言葉を、和が知らなくて良かったかも知れない。
【濡れた髪をかきあげる・完】