香水が滲むトワイライト/title by「約30の嘘」



「他に好きな奴が出来た。別れてくれ」
そう言われた時――ああ、来るべき時が来たなと。そう、思った。
目の前の磯前さんはすこし眉をしかめている。だけど目は逸らさないで、まっすぐにこちらを見ている。
辛そうで、哀しそうで、痛そうな顔で。きっと、今の僕よりもずっとひどい顔だ。
僕は、たぶん、無表情だ。悲しみも、怒りも、絶望さえも、浮かんでいないだろう。
だって、こんな日が来るって、僕は分かってた。きっといつか、磯前さんは、僕よりもずっと素敵な人と、幸せになるだろうって。
「……すまん」
謝ることなんて何もないのに。僕は思う。
磯前さんは、僕なんかには過ぎる幸せを本当にたくさん与えてくれた。抱きしめてくれて、頭を撫でてくれて、たくさん、愛してくれた。
そうして溢れるほどに与えられた愛は、きちんと、大切に、胸の奥にしまってある。
だから、僕は微笑んだ。磯前さんの眉間のしわがさっきよりも増えた気がするから、きっと下手くそな作り笑いになってるんだろう。
だけど、今の僕にできることは、笑うことだけだから。笑って、磯前さんを見送ることだけだから。
僕は、笑って、磯前さんを見つめて、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「……なに?」
「ちゃんと、目を逸らさないで話してくれて、隠さないでいてくれて、ありがとうございます。……僕は、大丈夫ですから」
笑おう。――笑え。磯前さんの顔が、涙でゆがんで見えなくても。
みっともなく、縋りついたりしないように。磯前さんが、ちゃんと僕を置いていけるように。
「磯前さんが、本当に大切に思う人と、幸せに。幸せに、なって下さい。それだけが、僕の願いです」
どうか、どうか。それだけを、願って――――


「……おい、何を寝ながら泣いてんだ」
肩を揺さぶられて、目が覚めた。
ぼんやりと歪んだ視界の向こう、心配げな磯前さんの顔が見える。辛そうでも、痛そうでも、哀しそうでもない顔。眉間にしわは、すこしだけ、あるけど。
「磯前さん……?」
「なんだ」
応えてくれる声は、いつも通りに優しい。
ああ、あれは夢だったのかな、とかすかに思う。夢で良かったと思う反面、あれはいつか来る未来を予言する夢だったのかもしれない、とも思う。
僕は目を閉じた。
「おい、また寝る気か? 嫌な夢でも見たんじゃねえのか」
「……磯前さん」
「……なんだ」
もし、――もしも。
「もしも、本当に好きな人ができたら」
「……ああ?」
「僕のことは気にしないで下さいね」
遠慮なく、振り向かないで、置いていって下さい。だって。
「僕は磯前さんが幸せなら、それでいいんですから」
たとえ、その隣にいるのが僕じゃなくても。胸が痛んで、心がつぶれて、涙が止まらなくても。磯前さんが笑っているなら、きっと僕は幸せだって、胸を張って言える。
磯前さんが笑っていてくれるなら、僕は――――


――突然、ごつっ、という衝撃が頭に来たと思ったら、目の前に星が散った。


「い、痛ああっ!?」
思わず目を開いて、頭を抱える。痛い、すごく痛い!
涙目で見上げると、磯前さんがげんこつを握って、僕を見下ろしている。……しかも、すごく怒って、る?
「あ、あの……磯前、さん?」
「目が覚めたか、阿呆」
涙をぬぐって、目をしばたたかせて、僕は起き上がった。げんこつのせいだろうか、目に入るすべてがやけにはっきりクリアに見える。目の前の、磯前さんも。
「ったく、どんな夢見てたか知らねえがくだらねえこと考えてんじゃねえよ」
「く、くだらないって」
「あのな」
磯前さんの渋面がぐっと近づく。

「俺はこれから先、お前以外の奴を好きになるような予定はねえよ」

言葉と同時に、すこし痛いぐらいに抱きしめられた。
「お前もいい加減、覚悟決めろ」
「覚悟……?」
こんな風に抱きしめられることはそんなに、ない。磯前さんはいつも優しく、包み込むように抱きしめてくれていたから。
「俺と、これからを一緒に生きる覚悟だ」
「……これから」
だけど今、背中に回る手はまるで、離さない、――逃がさない、と言っているようだ。
「俺はな、もうお前を手放してやる気はねえんだよ」
低い声が、耳元でささやいた。背中がぞく、としたのは、きっと、怖いからじゃない。
「……覚悟」
「そうだ、覚悟だ。お前がさっき言ったのとは逆に、もし、お前に好きな奴ができたとしても。俺は、もうお前を手放してやれねえ。そんな俺と、一緒にいる、覚悟だ」
それは、今なら手を離してやれる、と言っているように聞こえた。
事実、磯前さんの腕の力はさっきよりもゆるんでいる。僕が抵抗すれば、簡単に逃げ出せるだろう。
でも、僕は逃げる気なんてちっとも、ない。
僕は、磯前さんがゆるめた力よりも強い力を込めて、磯前さんの背中に手を回して、抱きしめた。
ぬぐったはずの涙が、また溢れる。


――本当は、あの夢の中で、僕はこうして縋りつきたかったんだ。行かないで下さいって、ずっと一緒にいて下さいって。
みっともなくても、疎まれても、磯前さんと一緒に生きられない未来なんて、考えられない。もし他の人が好きだって言われても、あの夢のようにはきっとあきらめられない。
だって僕は、磯前さんのことが、本当に好きだから。


磯前さんの肩に顔をうずめて、僕は言った。
「好きです、磯前さん。……だから、僕とずっと一緒にいて下さい」
「――ああ」
「僕だって、磯前さんのこと離してあげませんからね。後悔しないで下さいよ」
「……こっちの台詞だ、阿呆」
やさしい声。僕のためだけの声。抱きしめてくれる腕、煙草の匂い。僕のぜんぶが磯前さんのものであるように、磯前さんのぜんぶは、僕のものだ。
ぜったいに、誰にもあげない。




日頃お世話になっているsnow crystalの藤花さまより
当サイト7周年お祝いにと磯和SSを頂きましたー!
お祝いのお言葉だけでも十分嬉しいのに、何と磯和ですよ!?
メールを開いた時に吃驚して素で「ほわあ!」って叫びました。
滅茶苦茶嬉しいですありがとうございます、いやっほーい!!
嬉しい上にすっごく癒されました…やっぱり磯和が好きです私。


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