台所から聞こえてくる楽しげな恋人と娘の会話を聞くともなく聞きながら、磯前忠彦はふう、とため息をついた。
今、彼の頭を支配していることはただひとつ。「煙草が吸いたい」――それだけだった。
吸いたければ吸えばいいようなものだが、現在磯前は「減煙中」の身。そのため煙草は一日に一箱と決めており、そして今日の分が、残りあと一本なのだ。
ここで煙草を吸ってしまえば、夕食後に煙草を吸えなくなってしまう。
食事の後の煙草が何よりの楽しみである磯前は、結局我慢することにして、気を紛らわせるためにテレビをつけた。
――しかし、内容が一向に頭に入って来ない。自分はこんなに煙草に依存していたのかと驚きながら、磯前は苛々と指で机を叩いた。
誰かと約束をしているわけではないのだ、こんなに苛々するぐらいなら煙草を吸えばいい。そうは思えど、台所から聞こえてくるふたつの笑い声を聞けば、煙草に手を伸ばせなくなってしまう。
弱えな俺も……、と磯前が遠い目をしていた時だった。
「磯前さん、ご飯もうすぐできますよー」
ひょっこりと、和が顔をのぞかせた。そのままとことこと磯前の方へやって来る。
「今日は灯さん特製の肉じゃがですよ。僕も手伝ったんですけど……あ、味付けはもちろん灯さんがしてくれましたから、安心して下さい。美味しいですよ」
磯前の前に膝をついた和は、にこにこと笑っている。
「………………」
「…………磯前さん?」
どうしたのかと、和が首を傾ける。
そんな和を無言で見つめていた磯前は、無言のまま、ふいに和を抱きしめた。
「えっ、わっ、ど、どどどうしたんですかっ、磯前さん!」
あからさまに動揺してわたわたと慌てる和の背中を、磯前はぽふぽふと叩いて落ち着かせる。
次第に腕の中で大人しくなっていく和の体を抱きしめながら、磯前は、先程まで自分の中で渦巻いていた苛々が消えていくのを感じていた。
「……ほらな」
「え? な、何ですか?」
いや、と答えてやりながら、磯前は笑う。
――――やっぱり、お前がいるなら大丈夫だ。
【苛々に効く薬・完】