欲しいと思っていた雑誌の最後の一冊を目の前で買われてしまったり、何もないところでつまずいてなんとか踏み止まったのはいいけれど、荷物を思い切りぶちまけてしまったり、結構自信のあった論文を教授に突っ返されてしまったり――まあそれらは全部僕の今日一日の体験談で、つまり今日の僕は泣きたくなるほどツイていなかったのだった。
とどめに今、雨に降られているのに傘を持っていなかったりして、ここまで来たらもう、笑うしかないと思う。
重い足を引きずってようやくアパートにたどり着くと、そこに見覚えのある背中を見付けた。あれは……。
「磯前さん!」
僕の声に気付いたのか、その背中がこちらを振り返る。と、目が合った瞬間、顔をしかめられた。
「……何やってんだお前は。そんな濡れ鼠になりやがって」
今日は雨が降るって散々天気予報で言ってただろうが――と呆れたように言われたけど、今日は寝坊したせいで天気予報を見られなかったから全然知らなかった。
朝は晴れてたし……。思えば今日は朝からツイてなかったんだなぁ……。
遠い目をしていると、磯前さんは怒ったような顔をして僕を手招いた。慌てて駆け寄る。
「阿呆、何ぼーっとしてんだ。さっさとカギ開けて中に入れ。風邪引くだろうが」
「は、はい」
……実はさっきからずっと寒気がしてたりするんだけど、黙っておくことにした。せっかく磯前さんが来てくれたのに、心配かけたくないもんね……。
カギを取り出そうと鞄に手を突っ込んだところで、手首を掴まれた。ハッとして顔を上げると磯前さんの厳しい表情と目が合った。
「い、磯前さん……?」
「……遅かったか」
磯前さんは僕の額に手をあてて、ため息をついた。バ、バレてるし……!
僕は慌てて頭を下げた。
「す、すいません」
「阿呆、何で謝る」
「だ、だって迷惑かけちゃいそうで……」
「別に迷惑なんかじゃねえよ。……いいからカギ貸せ。このままじゃ余計具合が悪くなっちまうぞ」
「はい……」
言われるままにカギを差し出す。磯前さんはカギを受け取ると手早くカギを開け、僕を部屋に入れてくれた。
「風呂……は止めといた方がいいな。大丈夫か、着替えられるか?」
「は、はい。大丈夫です」
ちょっと頭がくらくらして来たけど大丈夫だ、うん。
タオルで頭と体を拭いて着替えを終えると、磯前さんが布団を敷いてくれていた。
「ほら、布団に入ってろ」
「はい、ありがとうございます」
「別にいい。大丈夫か?」
「は、はい。大丈夫です」
「……」
うなずく僕を見て、磯前さんは何故かやれやれと言いたげな顔をした。な、何だろう……。
「あのな、和」
磯前さんは僕の額にそっと手を置くと、静かな声で言った。
「しんどい時や疲れた時には、"大丈夫"なんて言わなくていいんだよ」
「え……」
「しんどいならちゃんとそう言え。迷惑なんかじゃない。……こっちだって、お前がして欲しいことをしてやりてえんだからよ」
「……磯前さん……」
――うわ、どうしよう。熱のせいか、ただでさえゆるい涙腺がさらにゆるんだみたいだ。
たちまち涙で曇った視界に、今日一日のツイていなかった出来事がよぎっていく。
実は結構ダメージ受けてたんだなぁなんて他人事のように思いながら、僕は額に置かれたままの磯前さんの手に自分の手を重ねた。
目を閉じる。
「磯前さん」
「ん? なんだ?」
優しい声が、耳に心地好い。
「……僕、今日ちょっと、ツイてなくて」
「ああ」
「ひとつひとつは大したことじゃないんですけど、重なると結構キツかったっていうか」
「ああ」
「……ちょっと、しんどかったです」
「そうか」
ぽんぽん、と、胸のあたりにいたわるような優しいリズム。そのくすぐったさに、またちょっとだけ泣きそうになりながら。
「磯前さん」
勇気を出して、僕は磯前さんを呼んだ。
「なんだ?」
「あの……」
「ん?」
「……今日、これからずっと、そばにいてほしい、んですけど……」
語尾がだんだん小さくなる。それは、いつもなら絶対に言わないわがままだった。
目を開けて、恐る恐る磯前さんを見上げてみる。無理だって言われるのを覚悟しながら。
――だけど。
「……なんだ、そんなことでいいのか?」
磯前さんはあっさりと、僕のわがままにうなずいてくれた。
そうして僕の額に恭しくキスをすると――
「――仰せの通りに。お姫様」
……ほぼゼロ距離で微笑まれて、熱が更に上がるところだった。
それから磯前さんは約束通りずっと僕のそばにいてくれた。
それこそお姫様みたいな扱いをされてしまって、……内緒だけど、このまましばらく熱が出たままでもいいかな、なんて、割合本気で思ったりもして。
なんだかんだで、終わってみれば、今日の僕は実は結構ツイていた――らしい。
【幸せの結末・完】