――冷蔵庫の中に、卵があったのだ。
別にそれだけなら何も驚くことはない。磯前が思わず動きを止めてしまったのは、卵が3パックも積み重なっていたからだ。
磯前は、卵は別に嫌いではない。嫌いではないが、一人で住んでいるというのに3パックも買い込むほどに好きなわけでもなかった。――と、いうより、買った覚えがない。
……灯だろうか、と磯前は思った。
娘である灯は、時折磯前の元を訪れ、夕食の支度や洗濯などをやってくれる。買い物も、主に彼女がしてくれているのだ。
磯前は灯に電話をかけてみることにした。
――コール2回で、すぐに娘の快活な返事が返ってきた。相変わらず元気だな、と軽く苦笑しながら、磯前は本題を切り出した。
「なあ、卵が3パックも冷蔵庫に入ってるんだが、あれは何かの冗談なのか?」
『あら、見つけちゃったの、お父さん』
灯の非難めいた言葉に、磯前は思わず眉をしかめた。
見つけちゃったの、と言われたって、冷蔵庫を開けたらすぐに卵が積み上げられていたのだ。あれでは嫌でも目に入る。それとも冷蔵庫を開けるなとでも言うのか?
そう言うと灯は、そうじゃないけど……と、彼女にしては珍しく言葉を濁した。
「……何か隠してることでもあるのか?」
『えーっと、私自身の隠し事じゃないんだけどね……』
要領を得ないことをつぶやいて、灯は受話器の向こうで小さくため息をつく。それが軽く笑っているような音でもあったから、磯前はますます眉をしかめた。
「おい、灯――」
『まあ、明日になったら分かるから! 私の口からは言えないのよ、ごめんね、お父さん!』
呼びかける磯前を遮り、息もつかせずそう言って、灯は一方的に電話を切ってしまった。
仕方なく、受話器を戻しながら、磯前は灯に言われた言葉を繰り返した。
「……明日になったら分かるだと?」
□■□
――そして、次の日。
仕事が休みだった磯前が、縁側で新聞など読んでいた時だった。
ぴんぽーん、とインターホンが鳴り、そういや灯は今日来てないんだったな、と腰を上げて玄関へ向かうと、そこには和が立っていた。
驚いたが、こうして和が訪ねてくることはそんなに珍しいことでもない。……というより、わりとよくあることだった。
磯前は時に、いっそ和がここに住んじまえばいいと思うことがある。
そう言ってやったら、和は頷くのだろうか、それとも……。
――まあ上がれ、と和を促して、ふたりは連れ立って居間へと戻った。
「……それで、どうしたんだ。今日は大学、休みなのか?」
「はい。それで、忠彦さんに僕の作った卵焼きを食べてもらおうと思って」
「卵焼き……? ああ、それでか」
冷蔵庫の中の卵3パックと、灯の言葉を思い出して、磯前は頷いた。
「……実は内緒で練習してたんです。灯さんに教えてもらって」
そう言って照れたように笑う和に、磯前も思わず目を細める。
きっと練習中、何度も失敗したり、灯に叱られたりしたんだろう。和の料理の腕は磯前だって知っていた。料理にスキルがあるとすれば、和のそれはマイナス値だということも。
それでも懸命に頑張ってくれたのだと思うと、磯前は口元が勝手に笑みを形作るのを止められなかった。
「……それで、少しは上達したんで、今日食べてもらおうと思って、灯さんに卵をお願いしてたんです」
「お願いしてたんですってお前……3パックもあったぞ? 1パックありゃ充分だろうが」
磯前の言葉に、和はへにゃり、と眉毛を下げた。
「……充分、だといいんですけど……」
「ああ? ……大丈夫か、お前」
「だ、大丈夫です……多分」
しごく不安な言葉をつぶやくと、和は立ち上がり、そのまま台所へと姿を消した。
――――そして一時間後。
出来上がったものは、かろうじて卵焼き、と呼んでも良いと言える出来だった。
和は己の悲しい危惧通り、卵3パックを見事に使い果たし、何とか卵焼きを作り上げたのだった。
じっと見つめてくる和の視線を感じながら、磯前はその卵焼きをぱくりと一口食べた。そしてゆっくりと咀嚼する。
口の中に広がる味は、今まで食べた卵焼きのどれとも違っていた。
甘くもしょっぱくもなく、かと言って辛いわけでもなく――
――まあ、平たく言えば味がなかった。卵をそのまま焼いただけの味であった。
「ど、どうですか……?」
おそるおそる尋ねる和を、磯前はじっと見つめた。きっとこの卵焼きは10人が食べれば10人が「食べられなくはないけど美味くもない」という評価を下すだろうと思った。
けれど、磯前は美味いと思った。崩れた卵焼きを食べながら、しみじみと、美味いな、と思ったのだ。
もしかしたらそれは、惚れた弱みというやつなのかもしれないけれど。
――それでも磯前にとって、それは世界一の卵焼きだった。
磯前は、彼には珍しい穏やかな微笑みでもって頷いた。
「美味いぞ」
そう言ってやると、ホッとしたように和も笑う。
その嬉しそうな笑顔を見ながら、磯前は、口の中の卵焼きの味がさっきよりももっと美味くなっていることを実感していた。
卵焼きの"本当"の味は、完食した磯前ひとりの心の中に納められて――
それから和は卵焼き「だけ」は、美味く作れるようになった、らしい。
【世界一の卵焼き・完】