「……暗石さん」
例によっていきなりやってきた坊主は、今回ばかりはちょいと様子が違っていて。
煮え切らないのとも違う何か言いたげな様子に、俺が無言で部屋へと招き入れれば。
「暗石さんは、どちらかと言えば日織と仲がいいんですよね?」
「いいっていうか…他のやつらからしたら、一方的に懐かれてるって感じなんだがな」
その原因は、こいつが今一番信頼しているであろう着流しに関することで。
だが迂闊に他の連中に相談も出来ず、あいつと一番面識がある俺の所にこうして相談に来たらしい。
「着流しがどうした」
不気味な洋館で胸糞悪い殺人なんて事に出くわして、尚且つこの館へ招かれた連中がほぼ何らかの形で狙われていると気付いた時。
…この本気で不運としか言いようのない闖入者は、ただ単に怖いからという、ありえなさ過ぎる理由で魔の手から皆を守り続けて。
そうしてつい先日自分も守られた今、こいつの事だけは信ずるに値すると、そう身をもって知ったから。
だから俺は言い淀む言葉の続きを促して、少しでもこいつの心労を取り払ってやろうと、そう思っただけなのに。
「あの。暗石さんは、日織の扇子を触ったことがありますか…?」
「…………………」
この状況下で、あえて口を出さずにいたことを坊主に言われてしまい、俺は表情を取り繕うこともできず咥えていた煙草を落としそうになった。
「…………」
「黙ってるって事は、知ってたんですね。その…日織の扇子が実は鉄扇だったって」
「………まあな」
知っているというよりは、偶然知ってしまったって方が正しいんだが。
このご時世、着流しが普段着ってだけでも十分異質な存在だってのに、あいつは何故か扇子を模した鉄扇を携帯していて。
偶然知った時は、単に役で使う小物か何かだと思っていたそれが、その後何度か手にする機会に遭遇して、しかも主に演ずる役が役なせいか、顔をあわせる回数が増えるに従い、何故か変に懐かれることとなっていて。
……お陰で俺は、あいつが伊達や酔狂で鉄扇なんかを携帯している訳ではないのだと、知りたくもないことを知ることになっていた。
「でも、あの状況で黙っていたって事は、暗石さんは日織を本気で疑っては…いないんですよね?」
しかし、否定をせずに苦虫を潰したかのような表情で坊主を見ていたら、それは意外にも安堵を促すものだったらしい。
坊主は明らかにほっとした表情で息を吐き出すと、泣き笑いのような情けない顔になっていた。
「疑ってない訳じゃねえんだがな。あそこであいつの扇子のことを話して無駄に猜疑心を煽るより、黙っていた方がいいと思っただけだ」
「はい」
「だが、疑いを解いた訳じゃねえぞ」
「それでもいいんです。だって暗石さんが黙っているのは、日織のあれが人を襲う為の武器じゃないって知ってるからでしょう?」
「…………」
自分の言葉に今度こそ緊張が解けたのか、坊主は泣き笑いの表情のままぽろりと涙を零し、それが頬を伝えば後はなし崩しに幾筋も涙は溢れて。
「お前が泣くこたぁないだろうが」
「でも、」
「でも、も何もねえよ。俺はあいつの鉄扇が護身用だって知ってるだけで、だからってそれが斑井のおっさんを殺してないって証拠にはならん」
「それでもいいんです。…僕以外の人が、ちょっとでも日織を疑ってないなら、それでいいんです…」
ぼろぼろと零れる涙をどうにかしてやりたくて、子供をあやすみたいに頭を撫でてやったのに。
坊主はそれに怒るでなく、逆に更に涙を溢れさせてしまう。
「…………ふ、えっ……ぅ…」
「……お前は、本当にあいつを信じてんだな」
「………だ、…って、だって……」
「ああ、何もそれが悪いってんじゃねえよ。むしろ…お前はそのまま、あいつを信じてやれ」
信じていているからこその不安だったのか、着流しを疑いきれていない事を知って安堵の涙を零す坊主に、この俺こそが酷く安心して。
「それに此処から出る時にお前が泣き止んでねえと、それこそ俺があいつに鉄扇で殴り殺されかねん」
「ッう」
冗談めかしてそう口の端を上げて笑ってみせれば、坊主は慌てて目を擦り涙を止めようと躍起になって。
ぐりぐりと、そんな音がしそうなくらい強く頭を撫でて茶化してやれば、今度こそ坊主の両目から溢れていた涙が止まった。
「くっ、真に受けてんじゃねえよ」
「くらいしさんてばー!!」
そして俺にからかわれた事に気付くと、坊主は今自分が泣いていたことも忘れてむきになって俺に食ってかかってくる。
「ぼ、僕真剣に悩んでたんですよ?!」
「…ああ、だがもう「悩んでた」って過去形なんだろ?ならもう大丈夫だろうが」
「………はい」
俺の思惑通り、ともすれば不安に繋がることを話したことで何か吹っ切れたらしい坊主は、ここへやってきたときよりは遥かに元気を取り戻していた。
「なあ、坊主」
「はい?」
「俺が言えた義理じゃねえが。…俺の分も、着流しを信じてやってくれ」
疑い切れないのではなく信じ切れない自分の歯痒さを、俺は多くない言葉にして坊主に託す。
多分、いや恐らくそれは俺だけに言えた事ではなく。
この子供以外、誰一人として自分以外を信じられないだろう、この閉じ込められたこの雨格子の館で。
「はい」
俺を微塵も疑いもせず、そう力強く頷いて見せる坊主の心の強さが、俺は酷く羨ましかった。
【二つのジレンマ・完】