「…………」
頭に叩き込んでいたのは、何時ものように時代劇の台本。
何時ものように斬られ役の、これまた何時ものように台詞ではなく、主役達を如何に見せるようにするかを重視しなければならない立ち回りのそれ。
主役の俳優は殺陣に関しては磯前も信頼している相手だから、実際に手合わせする前からイメージし易いと目を閉じて想像しては自分の位置を思い描いていただけなのに。
「……何やってんだお前」
ふ、と妙な視線を感じて台本の世界から意識を戻してみると、和が部屋の扉の陰に隠れるようにしてこちらを見つめていることに気が付いた。
「そんなところに居ねえで、こっちに来ればいいじゃねえか」
磯前の家に連絡もなしに和がやってくる事は別に珍しいことではなく、むしろいつでも来いと合鍵を渡してあるだけに、今日は大学が休みだったのかと何ら不審を抱かずに和を招くのだが…。
「和?」
何時もなら磯前の招きに嬉々として近寄る和が、何故か扉の陰からじっとこちらを見つめたまま動こうとはしなくて。
それに磯前は何事かと訝しむのだが、見慣れた筈の和の眼差しにいつもと微妙に違うモノが混じっている事に気が付き今度は別の意味で眉を寄せた。
「ふふ、和さんったら気に入った?」
「灯?」
が、そんな和の後ろからひょっこりと顔を覗かせたのが娘の灯で、しかも和の様子を訝しむどころかそうなるように仕掛けていたらしく、くすくすとさも楽しそうに含み笑いをしながら和を部屋の中へ促した。
「なんなんだ一体。大体お前今日は用事があるから来ねえって言ってなかったか?」
「言ったわ。そして今から行くの。でも、その前にちょっとね」
和と一緒の部屋に入ってきた灯の手には見慣れた小さなお盆があり、それがあると言う事はつまり息抜きに茶を淹れてきたとそういう事なのは判るのだが、それといつもと様子が違う和がどう繋がるのか、磯前には皆目見当が付かない。
それに和が好きだと言っていた茶請けにすら興味を惹かれずただ見つめているのだから、磯前としては何処か照れくさくて些か落ち着かない。
「和さん、お茶冷めないうちにどうぞ。ゆっくりして行ってね」
「あ、うん、ありがとう灯さん」
そんな心情すら見透かしているのか磯前を見てもくすくすと含み笑いを零す灯は、そのまま心あらずと見て取れなくもない和に近づきぽんと肩を叩いて声をかけると、後は宜しく頼むと言ってそのまま出て行ってしまった。
「………」
「………」
「で?」
灯が去ってから微妙な沈黙が降りた二人は黙って茶を啜っていたのだが、茶請けを頬張る和がいつものようににこにこと嬉しそうにしているのを頃合と見たのか、磯前は何の前置きもなく切り出した。
「で、って、何がですか?」
「何がじゃねえだろう。お前、さっき様子が可笑しかったぞ」
「可笑しい…?」
「ああ。俺が台本覚えてる姿なんぞ珍しくもねえはずなのに、扉の陰からこそこそ伺うようにして…。それに灯の奴も何か変なこと言ってたしな」
磯前が傍らに置いていた台本と、その際愛用していたモノに手を伸ばしながらそう言うと、和は「あ」と小さく声を上げて。
「……」
「和?」
また先程と同じように、いつもと違い…というよりもいつも以上に目を輝かせて見つめてくるものだから、磯前は本当に一体何なんだと思うしかなく。
「……カッコイイ、です」
「は?!」
突然顔を赤くしたと思えばほにゃりと破顔してこんな事を言うのだから、磯前はぎょっとして火を点けかけていたそれを危うく落としそうになってしまった。
「お、お前、いきなりなにを…」
「煙管、吸ってる、忠彦さん。すっごく、カッコイイ、です」
「……」
大げさでなく目を輝かせてそう言い切る和に呆気に取られている磯前の手にあるのは、今年の父の日は趣向を凝らしたといって先日灯から贈られたばかりの銀の延べ煙管。
それは仕事で役柄的によく使う竹の羅宇煙管ではなく、銀の絶妙な重さが手に馴染み、吸い口もまるで昔から愛用していたかのような具合で甚く気に入ったから、ここ暫く台本を覚える時は煙草ではなく煙管を愛用していたのだ。
「まさかと思うが、今日お前が来たのは…」
「え、えと、灯さんから呼ばれたから、ですけど」
しかも今すぐ来てと言われて、それが(己の姉とは違い)灯らしからぬ有無を言わせぬ口調だったために、和は一体何事かと大慌てでやって来たのだという。
息を切らせてやって来た和を玄関前で出迎えた灯は、笑顔と共に口元に人差し指を立てて音を出さないようにと注意を促し、磯前の居る部屋へと手招きして…あとは冒頭に戻る。
台本を覚えていたせいで全く気付けず、それにやってきた時刻を尋ねればかなりの時間を和から見つめていられた事を知らされた磯前は、娘の含み笑いの意味にも気付いてますます呆気に取られるしかなくて。
「ったく…」
「わっ!」
がくりと肩を落としそう呟く磯前は、当分これをネタにからかわれる事に頭を痛めつつ、それでもしっかりと和を引き寄せてから照れ隠しに頭をぐしぐしと乱暴に掻き撫でた。
それにすらも笑顔になってこちらを見つめてくる和に、結局磯前は自分もこれを見ることが何より嬉しいのだと認めるしかなく。
「忠彦さん?」
和の頭を撫でる手とは逆の手に持ったままの延べ煙管を持ち直し、改めて煙草盆の炭火へと雁首を近づけ火を点けて。
そっとゆったりと、刻み煙草の味を愉しむべく深く吸って紙巻煙草とはまた違う煙を吐き出してから、頭に手を置いたままの和へと顔を近づけて。
「こいつも惚れた弱みってやつなんだろうよ」
ふん、と軽く口の端を上げてそう言って、煙管と自分に見惚れ無防備に薄く開かれていた和の唇を己のそれで掠め取った。
それに和は一瞬何が起こったのか判らずぽかんとしていたが、離れ際に軽く感じた苦味にそれが磯前の舌だと気付けばぼっと火を噴きそうな勢いで真っ赤になり。
恥ずかしさにおたおたあわあわと狼狽えながらもやっぱり視線を外せないでいるその姿に、磯前は今度は和の間近で吸い口を含み、煙草本来の味を噛み締め美味そうに吸ってみせた。
…後日、和の携帯へ届いた灯からのメールに、煙管を咥え台本を読んでいる磯前の写真画像が添付されていた事は、二人の絶対の秘密。
【みつめていたい・完】