それは、始まってもいない恋



今日、ここへ和さんが遊びに来ますから。



日織からそう聞かされていた磯前は、いきなりの話で多少驚きはしたものの、彼なりに歓迎すると伝えていたはずだった。




…それなのに。





「ごめんなさい失礼しましたーッ!」





日織に伴われ大部屋にやってきた和は、開かれたドアから顔を覗かせると、足を踏み入れるよりも先に何故か赤面し。
その上意味不明な謝罪を残して、日織が引き留める間もなく脱兎さながらに逃げていってしまった。

「な、何だ…?」

一仕事終えて着流しからいつもの格好へと着替えていた最中の磯前が、驚きのあまりシャツに腕を通そうとした状態で日織を見れば、彼も和の行動が全くもって予想外だったらしく。

「えーと…磯前の旦那、役が抜けきれてなかったんじゃねぇんですかい?」
「…笑顔が常に胡散臭い手前ェにだけは言われたかねぇな」

確か今日も見事な殺陣やってましたよねぇ…と言う日織の呟きは、磯前に対する称賛であると同時に、本来の眼光の鋭さを皮肉ったもので。
だから、そのせいで和が逃げていってしまったのではないかと、そうからかったのだ。

「だが、俺から睨まれたと思って怯えたとして、何であの状態で坊主が赤面するんだ?」
「…さぁ…」


しかし結局和が何故逃げていったのかが判るはずもなく、二人は揃って開かれたままの扉を見つめるのだった。





二人が首をかしげている時、その逃げ出してきた和はと言うと。


「…ど、どうしよう…びっくりした」


磯前の居た控室から然程離れていない廊下の突き当たりで、耳から首からいたるところを茹で上がりそうなまでに真っ赤にしてながら、腰が砕けたようにその場に蹲っていた。

「うう…脱いだらあんな綺麗に筋肉がついてたなんて、詐欺だよー」

開けた扉から顔を覗かせた瞬間目に入ってた、歳相応…というかむしろそれ以上に均整の取れた磯前の身体に、和は何故か恥ずかしさのあまりそれを直視できず。

「でも…やっぱり格好良かったかも」

着やせして見えていた分かなり予想外だったせいか、和はそれを見て自覚するよりも先に、朱に染まってゆく顔を見られたくなくて。

だから和は挨拶ではなく、謝罪の言葉を残して逃げてきたのだった。

「ああ、いたいた」
「ひおり…」
「全く、アンタの行動パターンは、読めねぇくせに判り易いなあ」

慌てて逃げ出してきたものの、場所が場所なだけに下手に歩き回る訳にもいかず、和はそこに蹲って気持を落ち着けようとしていたら、程なくして日織が苦笑いしながら探し当てて。

「さ、改めて磯前の旦那に会にいきましょうや」
「…忠彦さん、怒ってない?」
「まさか。さっきのあれに驚きはしてましたが、磯前の旦那は別に怒っちゃいませんでしたよ」

和は自分の行動の意味が判らず戸惑っているしく、日織が屈んでその表情を窺えば、抱き締めてなだめたくなるような泣き顔になっていた。

「……え、と。僕、忠彦さんが着替えてたの、知らなくて。それで、びっくりしちゃって…」
「そんな事気にしてたんですかい?ふふ、和さんはやっぱり可愛いお人だなぁ。
大部屋の役者が人前で着替えるなんざいつものことなんで、そんな気にしねぇでいいんですよ」
「ほんと?」
「本当です」

だがそれが何であるのかを気付いたのは、和本人ではなく、ましてや見られた磯前でもなく、その場に居合わせこうして和を迎えにきた日織の方。

「さ。磯前の旦那のところに、旨いって評判のどら焼きがあるそうなんで、ありがたくいただくことにしましょうや」 
「う、うん…」

しかし、日織はそれがなんなのかを、和へ素直に教えてやるつもりはないらしく。
気にする事などない些細な事と、日織はさりげなく和の意識を和菓子にすり替えて、彼が信じて疑わない優しい笑顔そのままに手を差しのべて。
その手を取って立ち上がり、そこでようやく安堵の表情を見せた和に更に笑いかけると、日織は内心では苦笑したまま、彼を伴い磯前の待つ控室へと歩き出す。

「全く。最初に俺の着替えを見た時は、凄いほんとに鍛えてるんだーって感嘆の言葉しかなかったってぇのに、和さんは磯前の旦那のだと恥ずかしいんですねぇ…」
「え、なに?」
「なんでもねぇです。これからちょいと面白くなりそうだなぁ…と思いまして」
「?」

多分外れることはないだろうその予想に、ほんの少しだけ寂しさを覚えながらも、何があろうと和の味方であり続ける自信がある日織は、自分の言葉のせいで和が余計な意識を持たないように、肝心な言葉を冗談で誤魔化し隠してしまう。

「ねえ、さっきのやっぱり忠彦さん怒ってるんじゃ…」
「さあ?気になるなら、自分の目で確かめるのが一番でさぁ」
「うわわわ、日織待ってまだ心の準備がぁっ!」
『廊下で騒いでねぇで、さっさと入ってきやがれ!』

日織の思惑通り違う意味に取った和が叫び声を上げれば、磯前が絶妙なタイミングでそれを遮り二人を中へと招く。


「怖がらなくても大丈夫でさぁ。旦那は絶対、和さんを怒りません」
「で、でも」
「まぁ叱られるとは思いますが」
「何が違うのーッ?!」




フォローしているのか追い討ちをかけているのか微妙な日織に引きずられ、磯前の元へと連れて行かれる和はまだ気付かない。






どうして磯前の着替えを見て赤面したのか、そして磯前にそんな顔を見られたくなかったのか。
日織なら良くて、磯前には見られたくないその理由に、和本人が気付けない。







…気付けぬ者と気付かぬ者と。
二人をみている日織だけが気付いた、その事実。







【あなたをみてる・完】


磯前さんが半地下にしかいないじゃないか!ということで、
表に!表に置けるものー…と頑張ったら妙ちきりんなSSにー(汗)
もう!すげー大好きなのに書きにくいなこのおっさんは!
いや、裏にしか置けないようなネタは出るんだよ、うん…
ってこれも磯日和の表バージョンみたいなもんだった(撃沈)

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