若いうちは、恥も勘違いもやれるだけやっておくに越したことはないと。
年をとってからでは笑って済まされないことも、若いうちなら大抵は笑い話になるものだからと。
磯前は、そう常々思っていた…はずだった。
「ねえ、聞いてんですかい、磯前の旦那ぁ」
…そう、思ってはいたのだ。
「嫌なんです…和さんに嫌われたら、俺はもう、悲しくて寂しくて死んじまいまさぁ!」
こんな、珍しく酔っぱらって自分に絡んでくる、着流しの青年の主張を聞かされるまでは。
相談があるとそう日織に呼び出され、ならばと磯前が待ち合わせに選んだのは馴染みの居酒屋で。
店全体はこじんまりとしていても、奥の座敷は微妙な具合で隣との間と壁の仕切りがされているあたりが相談事に丁度良く。
先に着いた磯前が、自然とそちらに腰を落ち着け先に一杯引っ掛けていたら、程なくして日織がやってきたのだが。
「オイ、何事だ」
「旦那…」
普段は人の良い、温厚そうなやんわりとした笑みを絶やさぬ日織が。
今日に限って陰気というか陰湿というか、とにかくいつもとはまるで反対の面持ちだったために、流石の磯前も日織を見つめたまま驚きを隠せない。
「まず、座れ。お前みたいにデカいのがつったっていたら邪魔になる」
だが日織の笑みは、相手よってはそれ自体が一種の防衛手段である事を知る磯前は、それを忘れている日織の様子にただならぬものを感じとり、すぐにやってきた店員へ適当に注文を伝えては追い返すと。
「何があった」
そして単刀直入に日織の口を割らせようとしたのは、決して間違った対応ではなかったと後々も断言できるのに。
「という訳でして…」
「……」
本人にしてみればよほどの悩みだったのか、話終える頃には珍しくぐだぐだに酔っぱらってしまった日織と、それに対し聞き出した磯前はといえば、事態を把握すると同時に頭を抱える羽目に陥っていた。
「ったく、情けねえな」
「…どこいくんです」
しかし盛大に溜め息を吐いたあげくに面倒臭そうに腰を上げる磯前に、非難するように据わった目付きで日織が睨む。
「あのな、酔っぱらった歩く人間凶器をほったらかして消えたりしねえから、安心しろ」
「……」
「用をたして、ついでに煙草を買ってくるだけだ。何か文句あるか」
「ねえです…」
辛気臭い相談ごとのせいでもう煙草がなくなったのだと、そう言って空き箱を握り潰して見せれば、日織は目の前の灰皿に山積みされた吸い殻に気付き素直に頭を下げる。
…ぐだぐだに酔っぱらってはいるが、それでも磯前に対しての最低限の礼儀は忘れていないらしい。
「全く、馬鹿らしい」
自販機の前まで来て、目当ての銘柄をわざと一つだけ買い求めた磯前は、日織の相談事を思い出しては眉間に皺を寄せ。
馬鹿馬鹿しいと心底思いながらも、日織にとって和絡みのことは全てが一大事だと承知しているからこそ、呆れ馬鹿にもするが突き放しはしない。
「ま、これも一つの貸しだな」
そう呟いてから、磯前はおもむろに胸ポケットから携帯を取り出して、そして只今ぐだぐだに酔っぱらっている日織に対する、特効薬にも劇薬にもなり得る人物へと連絡を入れる。
『和さんが綺麗だから好きだって褒めてくれた髪を切らなきゃなんねえなんて…なんで俺は役者なんかやってるんでしょう』
日織の悩みは、役作りの関係で髪を切らなければならないというものであり。
だが、長髪にこだわりがあるのではなく、単純に和が【好き】という点でぐだぐだになっているだけだから、磯前としては心底馬鹿馬鹿しくて仕方がないのである。
「ったく、坊主に変な迷惑かけてんじゃねえよ」
日織のことだから、少しでも和を悲しませたくなくて、本人に相談も出来ずに一人悶々と悩んでいたのだろうが。
だが、そんなことは和に尋ねなくとも悩むだけ無駄な事なのだと、磯前でなくとも判ることだから。
「坊主は手前ェを選んだんだろうが。ちったぁしゃんとしやがれってんだ」
磯前や他の面子からすれば、日織が無理矢理自分達から和を奪い取ったようなものだとしても、それでも日織の手を取り側にある事を望んだのは、他ならぬ和本人なのだから。
「ったく、馬鹿馬鹿しい」
若いうちは、恥も勘違いもやれるだけやっておくに越したことはないと。
年をとってからでは笑って済まされないことも、若いうちなら大抵は笑い話になるものだからと。
磯前は、そう常々思っていたけれど。
…まるで的外れな青年の主張を聞かされ振り回されて、出てくるのは呆れと深い深い溜め息ばかり。
【青年の主張・完】