苦いから。
煙が駄目だと言うなら納得もできるのに、そんな子供のような理由で煙草が苦手だと。
それを初めて聞かされたとき、正直呆れることしか出来なかったのに。
「忠彦さん、上着掛けちゃいますから脱いで下さい」
「ん?ああ、悪いな」
珍しくもオフが続くとある日に、たまにはいいだろうと思って馴染みの居酒屋に和を連れて行った磯前は。
肴も申し分ない店だから、食事だけでも楽しめるだろうと思ったからこそ連れて行ってみれば、確かに酒が飲めない和でも十分満足できた…のは良かったのだが。
「はー、すっごく美味しかったです。料理は美味しいし、店主さんもすっごくいい人ですね」
「気に入ったんなら何よりだ。今度また連れて行ってやるよ。それよりも…おい、和」
「はい?」
「お前、酒や煙草だけでなく、苦いモンは殆ど駄目なんじゃねえか?」
とある小鉢を口にした時「ふにゃん」というか「へにょん」というか、何処か変に無理をしている引きつった笑顔が気になって、確信めいたものを感じながら問いかけてみれば。
和は磯前にばれていると思っていなかったらしく、満腹でほっこりと油断しているところに指摘され大きくびくんと肩を竦ませた。
「…バレてました?」
「お前程判り易いヤツが他にいるならお目にかかってみたいくらいにな」
「うっ」
指摘されギクシャクとした動きでこちらを振り返る和に磯前は軽く肩を竦めて見せると、しょうがねえなと呟いてから苦笑いと共に懐から煙草を取り出し口に咥える。
「それもあるんですけど…」
「?」
叱られると思ったのか、磯前の上着をハンガーに掛けていた手をそのままにこちらを窺い見る和を手招きすれば直ぐに側にやってきて。
言葉であやすでなく、何も言わずにただがしがしと頭を撫でてやれば、それだけで安堵した和は肩の力を抜いてぽつりと何かを呟いた。
「何だって?」
その呟きが小さすぎて聞き取れなかった磯前が聞き返せば、和は「だからー」と何故か拗ねた様子で改めて口を開く。
「忠彦さんが、すっごく美味しそうに食べてたし、それに…同じのを食べてみたかったんです」
無理をした理由が自分の舌鼓であると知らされて、たったそれだけの理由で苦手なはずの苦味に手を伸ばした事に怒りなど覚えるわけがなくて。
「…ったく、お前は…」
けれどそれに対してとっさにどう応えてやればいいのか思いつかず、磯前は紫煙を燻らせながら和の頭を撫で続ける。
「俺はお前のお子様味覚をとやかく言う気はねえんだ、ああいう時は自分が好きなモンを頼んどきゃいいんだよ」
「お子様って…酷いですー」
「酷いって言っても本当の事だろうが」
「う」
「今度興味を持ったら無理しねえで俺が食ってるのを摘むだけにしとけ。大体苦いからって理由で煙草が駄目だろお前」
「…はい」
咥えた煙草が揺れるほど磯前に笑われからかわれても、自分を見つめる本来鋭いはずの眼光と撫でてくれる手がこの上なく優しいからこそ、和はぼさぼさにされた頭でにこりと微笑み頷いた。
「あ、そうだ」
いつの間にか上着を抱き締めていた事に気付き、和は皺になると慌ててハンガーに手を伸ばして掛けようとした時。
和が動いた事と、磯前が腰を下ろしながら何時もの調子でゆっくりと紫煙を燻らせていたことで、今ではすっかり馴染んでしまった香りが和の鼻孔を擽った。
「どうした」
「あったなあって思って」
「ああ?」
新聞に手を伸ばし、何が「あった」なのかと煙草に指を添えて磯前が尋ねれば、上着をきちんと掛け終えた和の表情は何故か酷く晴々と嬉しそうで。
「平気なのがありました」
「平気…?ああ、さっきのアレか」
「はい。苦いのは確かに苦手ですけど、平気というか…好きなのもあるんですよ、僕」
「ほう、そんなモンがあるとは…」
自分を見上げる形になっていた磯前の側にちょこんと腰を落とし、和はきゅっと磯前のシャツを掴んで身体を寄せてから、不意を衝かれ無防備だった磯前の唇の端にそっと自分の唇を寄せた。
「………」
「えーと、これ、なんですけど…」
シャツは掴んだままとはいえ流石に照れくさいのか、和が顔を真っ赤にして「やっぱり苦いです」と舌を出してみせれば。
「それだけで味わってるとは言わねえだろが」
「わっ…ん、う…っ…」
磯前はすぐに主導権を奪い返し、触れただけで離れようとした和の後頭部に空いている手を回してぐっと引き寄せ、間近でそう囁いてそのまましっかりと唇を重ねてしまう。
唇を塞がれた和が何かもごもごと言っているのをあえて無視し、咄嗟の事に驚き逃げようとする舌がおとなしく応えるようになるまで散々口腔を味わいつくしたところで漸く解放してやれば。
「ふにゃ…」
「…感想は?」
「た、煙草の味がして苦いけど…やっぱりスキ、です…」
「上出来だ」
くたりと磯前に寄りかかる形になってもそれだけはしっかりと答える和に、磯前としては満足する以外になくて。
けれど満足するだけで終われるような筈もなく。
「俺も人のことを笑えねえよなあ」
「え……わ、わ、ちょ、ただひこ、さん!」
力の抜けた和を潰さないように気をつけながら押し倒して伸し掛かり、驚いて声を上げる唇を塞いでまた舌を滑り込ませれば。
「…んん…!」
「苦手なはずなんだが、こいつはどうにも…なあ?」
和の舌が煙草の苦味を覚える代わりに磯前の舌に広がるのは、和が最後に食べていたデザートの甘味。
「あ、や、ま、待っ…」
「待ったナシだ」
和が苦いものが苦手なら、逆に甘いものが苦手な磯前は。
煙が駄目だと言うなら納得もできるのに、ただ苦いからと言うそんな子供のような理由で煙草が苦手だと話す和に、正直呆れることしか出来なかったのに。
「…やっぱり甘いな」
自分の下で散々甘い声を上げる、どんな菓子よりもよっぽど甘い相手にはまり夢中になる自分にこそ呆れ苦笑するしかなかった。
【だけどスキ・完】