子供の頃の記憶なんて、あてにならないことが多いかも知れないけれど。
子供の頃の記憶だからこそ、いつまでも憧れであることは、紛れもない事実。
「お前…すげえな」
「え?」
「それ、15年以上前のドラマだぞ。よく覚えてたもんだ」
子供の頃に憧れた陣野警部が、今自分の目の前に居る暗石本人だと気付いて。
朧げに思い出し自信なさ気に尋ねてみれば、肯定された上に感心されて。
和が興奮気味にその事を伝えれば、窓の外を眺めていた当の暗石は、肩越しに振り返って少しだけ照れたように笑ってみせた。
そして。
「どうした」
和は興奮しすぎたのか、自分がどれだけ陣野警部が好きだったかとうまく言葉に出来ずしどろもどろになっていたかと思えば、何故か急に黙り込んでしまい。
そんな変化に気付いた暗石が和の方へ振り返れば、何故かその和はじっと暗石を見つめているだけ。
「俺の顔に何かついてんのか?」
「い、いえ!そうじゃなくて…」
「?変なヤツだな」
じいっとそんな擬音がしそうなほど、まるで穴が開くんじゃないかと思われるまでに自分を凝視する和に、暗石は片眉を顰めて肩を竦めてみせるのだが。
「あの、暗石さん」
「なんだ」
「あの、ですね」
「だからなんだ」
「……僕、暗石さんと直にお会いしたのって…今回が初めてです…よね?」
「ああ?」
この館で出会ったのが初めてには間違いないのに、和は何故か酷く自信なさげにこんな確認をとってくるものだから、暗石としても怪訝な声で返事をするのも無理はない。
「何処かですれ違ったとか、屋外ロケを見てたってんなら話は別だが。
だが、こうして面付き合わせるような会い方はしたことねえな」
「ですよねえ…」
しかし和本人がさらにそう思っていたらしく、あっさりと引き下がってなにやらまた一人で考え込んでしまう。
「何か違うドラマの方で見覚えがあるんじゃねえのか?役自体大したことないが、それでも時代劇になると、出てる本数は俺ですら正確には覚えてねえからなあ」
「うーん、僕の姉が物凄い時代劇ファンなんで、色々見せられてるからそれは全く否定しないんですけど。…でも、…時代劇じゃ…ない……ような……?」
「……………」
緊張を解くことの出来ない館の中で。
連日殺人を阻止するために奔走して、しかも今日も徹夜で暗石を護った和は精神的にも酷く疲労しているのか、靄がかかったような記憶にもどかしさが拭えないらしい。
「坊主。お前さん部屋に戻ってもうちっと寝とけ」
「へ?」
「へ、じゃねえよ。目の下にクマ出来てるぞ。なんなら助けてもらった礼に、【おはよう】とでも囁いて起してやろうか?」
だが暗石としては手繰り寄せきれない曖昧な記憶よりも、それを思い出そうとしている和そのものが心配になったらしく。
もう大丈夫だからと、冗談を口にしながら和を部屋へ戻そうとしたまさにその瞬間。
「それ!!」
「は?」
「もう一度言って下さいッ!!」
「は…あ?」
何やら考えこんでいた和が急に大声を上げ、その上酷く真剣な面持ちで間合いを詰めてきた。
「もう一度って…」
「挨拶です!」
「……挨拶って…【おはよう】か?」
「…………っ」
訳が判らないながらも、せがまれるままに磯前が「おはよう」と言えば、今度こそ和は、只でさえ大きい瞳を感涙で見開いた。
「おい坊主、本当にどうした?」
「同じ」
「なにが」
「僕が大好きだった教育番組のオオカミさんと、同じ声ッ」
「……………はあ?」
思い出した!と興奮気味に言い切る和に対して、暗石はぽかんと口をあけて見返すことしか出来なくて。
「…坊主。俺は役者だが、オオカミの役なんぞしたこたあねえぞ?」
本人は全く持って真剣であろうことだけは理解していたから、出来る限りの配慮でもって言葉を選んで否定した。
「大体オオカミってなんだ」
「え…違うんですか?」
「生憎、俺は二本足で言葉を話す生き物の役しかしたこたねえな」
「…………あれー………絶対そうだと思ったのに……」
「疲れてる上に、大分昔の記憶じゃ曖昧になってても仕方ないだろうが。
大体お前が保育園に通ってるくらいの時の記憶なんざ、何かと勘違いしてもおかしかねえよ」
「うう…すみません…」
明らかに落胆の色を隠せないでいる和に、暗石は気にするなと彼なりに優しく声をかけ、そして今度こそ本当に部屋に戻るように促した。
「そんな勘違いするくらい、お前はその番組が好きだったのか?」
「そりゃあもう!」
「ふん、違ったとはいえ、お前がそんなに好きだったオオカミさんとやらに間違えられて光栄だ」
「うー…やっぱり似てるのになあ…」
「判った判った。どれだけ好きだったかは後で聞いてやるから、まずは部屋に戻って寝ろ。着流しが心配する」
「はーい…」
「じゃあな。夕べはありがとよ」
暗石は明らかに落胆してしまった和の頭を撫でてやり、助けられたことに再度礼を述べて自室へと戻らせて。
「………ったく………」
扉が閉まる音を確認した途端、暗石はらしくない緊張に深々と溜息をつくしかなかった。
「あの坊主、本気ですげえ…。危うく正体がバレるところだったじゃねえか」
そう。
先ほどの和の記憶の通り、陣野警部を演じた頃よりも昔に暗石本人でさえ忘れかけていた、声優として教育番組へ出演した事があって。
まさに【オオカミさん】であった暗石は、まさか当事その番組を見ていたであろう子供に、そのことをずばり言い当てられるとはついぞ思わず。
ちょっとした理由から名前を出さずに出演していただけに、とっさに「そ知らぬふり」を演じてみたが実際は内心穏やかではなく、先ほどの陣野警部の件と合わせて和の記憶力に舌を巻いていたのだ。
「あー…さっきはちょいとしくじったな」
寝不足と肉体的以上に精神的な疲労が勝っていたためか、つい暗石が和の「保育園に通っている頃」と具体的に指摘したことに気付かれずに済んだが。
多分あの和のことだから、起きた頃にはそのことに気付くかも知れない。
「……ま、悪い気はしねえがなぁ」
どんな役であれ、あれだけ純粋な賞賛を受けることに、気分を害することなどあるわけがなく。
もし、やはり【オオカミさん】が暗石であると、和がきちんとした確信を持って部屋を訪ねるようなら。
生きてこの館を出られた暁に、別名で声を当てていた理由も込みで教えてやってもいいと、磯前はそんなことを考えてベッドへと横になる。
そして。
「ああ、あれですかい。
ええ、和さんの言う通り、あれは暗石さんが声を当てていたはずでさあ」
業界でも当事番組に関わっていたごく少数の人物しか知らないはずの事を、何故か日織が至極当たり前のように知っていて。
それで揺ぎ無い確信をもって、和が興奮気味に暗石の部屋を訪れるのはすぐ先の話。
子供の頃の記憶なんて、あてにならないことが多いかも知れないけれど。
毎日無機質な目覚ましの音や、優しくも厳しい母親の声でなく、この暗石が声を演じていた【オオカミさん】で朝を迎えていたから。
そんな子供の頃の記憶だからこそ、いつまでも憧れであることは、紛れもない事実。
【宝物の記憶・完】