---ヘッドがきたよ、もうぼくらおやくごめんだよ!
---ただいまよりつうじょうしょくむにもどります!
---いちどうかいさん!
---はい、みなさんもかいさん!
真打登場に真っ先に反応したのは、恐らくその真打の代わりに安積係長たちを守っていた神南くんたちです。
---ぜんいんしゅうごう、ならえ!
---しゅっぱつしんこう!
黄色いテープを巻きつけたまま、さながら電車ごっこの要領で縦一列にならんだ神南くんたちは、お役ごめんとばかりに仲良く去って行くのですが、去り際に遠巻きにして癒しを受けていた署員の皆さんをそれぞれの職場に戻すことも忘れません。
何故かと言うとヘッドが係長の側に居るなら、自分たちが張り巡らせているテープなどなくても大丈夫な事を知っているからです。
ヘッドくんと神南くんたちでは埒の明かなかった野村署長は相変わらずその場から動こうとはしませんが、それでもカメラは一応下ろしています。
「安積君を独り占めするのはどうかと思うんだが」
「残念なことに、ハンチョウもハンチョウくんも一人だけですから。複数で所有することなんかできゃしません」
「だが皆で寝顔を眺めていただろう」
「眺めていただけです。静かに眺めるだけならハンチョウが起きるわけでナシ、全く構いやしないんです」
皆が持ち場に戻り始めたせいか次第にいつもの喧騒に近づきつつあるざわめきの中、ヘッドは躊躇なくソファに近づいて野村署長を牽制していますが、一応相手を敬っているのかいつもよりは柔らかい言い方のようです。
敬っているというより、チョウさんをベイエリア分署に引っ張ってくれた張本人だからだよねえ…という須田チョウの突っ込みも忘れてはいけません。
確かに野村署長の功績…というか駄々がなければ、ヘッドが本来の仕事に戻ってもそこに安積係長は居なかったのかもしれないのですから、形はどうであれヘッドは署長を「一目置くべき上司」としてみているはずです。…多分ですが。
「本当であれば、署長権限で安積君を直接私の下に引っ張ってきてもいいんだが…流石にそれでは彼を困らせるだけだ」
「よくお分かりで」
随分と歯に衣を着せぬ言い方に、強行犯係(というか、まだそこに残っていた刑事課)の面子がぎょっとして署長を注目するも、ヘッドは肩を竦めただけで驚くことはなくて。
むしろ分別ある上司として当然と頷けば、署長は怒りをあらわにすることもなく係長たちの寝顔を見て微笑んでいます。
…微笑んでいるだけなのですが、暗に「もうちょっとくらいサービスしてくれてもバチはあたらんだろう」と無言のプレッシャーを与えているように見えるのは気のせいではないのでしょう。
「…仕方ないですね。写真に残さない、ということを約束していただけるんなら、今回だけ特別に珍しいハンチョウをお見せしましょう。どうです?」
「ほほう?」
ヘッドはそれに負けたというよりも、さっさと一番厄介な署長を後腐れなく追い出したかっただけなのでしょうか。
「ハンチョウ、そろそろ起きろ」
---ハンチョウ、そろそろおきろ。
署長に対して大げさに肩を竦めたかと思えば、こちらを見守っている刑事課の皆さんを見渡して意味ありげにほくそ笑んで見せると。
この騒動の中熟睡している安積係長の肩に手を掛け軽く揺さぶり、皆の視線が集中しているのを承知で仮眠の時間は終わりだと耳元に囁きました。
ヘッドくんも同じように、とはいえこちらはハンチョウくんの頬をもにもにと突付くようにして起こしにかかっています。
ちょっと速水さん近すぎます公衆の面前ですよ!という動揺を見せたのは安積班の中では村チョウだけで、須田チョウは勿論桜井巡査も平然としています。
いつの間にやら戻ってきていた黒木巡査のみちょっと目を見開いて反応が違いましたが、彼の場合は驚愕というよりもヘッドに対する羨望や嫉妬その他諸々が葛藤している結果なのでこの際置いておきます。
他の刑事課の皆さんでさえ、ちょっと当てられて赤くなっている程度で今更驚きはしません。むしろヘッドよりも係長をガン見しています。それでも誰も仕事をしろとは言わないのですから、ちょっとだけ臨海署の行く末が不安です。
「よく眠れたか?」
「ん…」
---ねぐせついてる。
---ん…。
もそもそと緩慢な仕草で起き上がった安積係長は、ヘッドの顔が随分と近い場所にあっても特に反応を示すことはなく。
自分の頭の重みでちょっとつぶれかけているすだくんに手を伸ばし、膝の上に抱き上げるともにゅもにゅっとまるでコリを解してやるようにお腹を揉んでやる係長は、ヘッドの問いかけにもまだ夢現状態のようです。
手は動いているのですが、どうにもまだちょっと頭の回転が復活していないようです。側にヘッド以外のお偉いさんが居ることに全く気付いていません。
もう片方の膝の上で同じようにぼんやりとしたままのハンチョウくんは、ヘッドくんが寝癖がついてしまった髪の毛を一生懸命撫でて直そうとしていることになすがままになっていました。
「おはよう、ハンチョウ」
---ハンチョウ、おきた?
---ハンチョウくん、おきた?
「…ああ、おはよう」
何も知らぬ振りをしてわらわらっと足元に集まってくる神南くんズに囲まれ、揃ってつぶらな瞳で見上げられ。
その可愛らしさに係長は全く以って無防備に、ほんわりと柔らかく微笑んでみせたのです。
係長は別に笑わないわけではありません。何かがおかしくてつい笑ったりもします。自嘲気味に笑ったりもします。
ただ大声で笑うといったことがないだけで、苦笑も失笑も含め係長が笑うこと自体は珍しくはないのですが、こうも無防備な笑顔というのは珍しい限りです。
「………!!」
強行犯係以外の刑事課の皆さんはあまり耐性がないので、揃いも揃ってきゅんとさせられ身悶えています。
加えてただでさえ魅力的な係長の声が寝起きで変に掠れていて、不意打ちで聞かされたその威力は計り知れませんでした。
これには安積班の面子でさえ「はぅっ!」と息を飲みました。黒木巡査に至っては一人どふっと鼻血を噴いています。物凄く判りやすいです。
さすがの野村署長だとて(係長の寝顔を滅多に拝めないせいで)皆さんと同じようにときめいてしまっています。
ときめきついでに、自分のポケットマネーで刑事課のソファを最高級のものに取り替えてやろうとまで計画している始末です。
そんなことに金を出すくらいなら、署長賞のおまけで貰える金一封の金額を上げてやればいいのに…と思わなくもないですが、それも係長が該当した時にだけ金額が引き上げられるのでしょう。
「流石だな」
「いえいえ」
言葉に偽りのない珍しい係長を見ることが出来た野村署長は、「いきなり居なくなったと思ったらこんなところで何やってるんですか!」と大慌てで呼びに来た次長に軽く手を上げて応えると、来た時と同様に優雅に微笑を浮かべたまま満足気に刑事部屋を去って行きました。
「結局のところ、速水さんがこのチョウさんを皆に自慢したかった…ってことじゃないよねえ?」
「否定は出来ないな」
「むしろそのまんまじゃないんですか?」
「…係長が…寝惚けて…あんなに可愛らしい笑顔を…(またしても鼻血噴出)」
「ああもう、黒木いい加減にしな!鼻血が止まんないなら鼻つっぺでもしてるといいよ?」
安積班の面々は、野村署長が去って行った以上にヘッドの思惑にうんざりしつつ、それでも自分たちがその恩恵に与れたことに対しては喜びを噛み締めています。
「…だれか、いたのか…?」
「気のせいだろ」
「…それよりも、どうしてお前がここに居るんだ」
「どうしてとは心外だなハンチョウ、お前を起こしに来たに決まってるだろう」
「バカなことを言ってないでさっさと下に戻れ」
眠気覚ましの珈琲を渡されて、抵抗なく受け取る係長はまだなんとなくぼけぼけしていますが、そろそろ頭が回転し始めたのでしょう。
ヘッドが居ることに軽く眉を顰めると、下を放っておいて何やってるんだと叱咤され、先ほどまでの騒ぎを露も知らず追い出しに掛かりました。
ほんの僅かな仮眠時間で、臨海署が上へ下への大騒ぎになっているということを露ほども知らないのは、当の本人である安積係長とハンチョウくんだけなのでした……っていうお話なんですよ。
【当人だけが知らぬこと・完】