愛が満杯


迷子尋ね人相談事、交通違反に酔っ払い、喧嘩その他諸々と、一日中人の出入りが激しく二十四時間常に賑わっている、ここ東京湾臨海署一階にて。



「只今ベイエリア分署内一部区域が暴風雨圏内に入っております。関係者の皆様方、何卒落雷にご注意下さい」



臨海署に入ってすぐのところにある受付の真後ろ…すなわち交通課と同じエリアに在籍している交通機動隊から、屋内らしからぬ特別天気予報が出され署内を駆け巡っていた。
屋内なのだから、何も本当に雨や風に見舞われるわけではない。勿論落雷などあるわけもない。言わずもがな、暴風雨というのはものの例えである。
が。


---ざわっ---


その場に居るか居ないかで(署長以下管理職を差し置いて)署員達の覇気に多大な差が出ると言われている男…速水直樹警部補が現れた時、そこはいつもの喧騒ではない大きなどよめきに包まれた。
というよりも、臨海署内に暴風雨を齎らさんとしている張本人であるからこそ、一般市民はともかく署員一同の間に目に見えて緊張が走ったのだ。
…しかし「さわらぬ神になんとやら」で速水から視線を逸らし各々の仕事に取り組もうとしていた面々は、偶然見てしまったとあるものに目が釘付けになってしまい、怒声という名の雷を浴びせられる恐怖も忘れ速水を凝視してしまう。

「なんだ、皆そろって人の顔見て目を剥きやがって。そんなに暇なら俺が直々に鍛えてやろうか?」
「ヘッド。皆すでに十分忙しいですから止めて下さい」
「あぁ?」

自分が注目を浴びている理由なら嫌でも判っているくせに、わざと不思議がっている振りをしながら周囲に聞こえるよう声を上げる速水に、話を振られた部下の山県は全く動じることなく手元にある書類を差し出した。
そんな山県とて、周囲の好奇の目と驚愕のどよめきの原因が気にならないと言えば嘘になる。
しかし相手が相手であることと、何より騒ぎの原因となっているものの理由を確かめなくとも予測がつくので、あえて問いただすことを避けているのだ。

「戻られた早々に申し訳ありませんが、隊長から催促されているもの全部をここに揃えてあります。もしこれから二階に向かわれるのでしたら、その前に処理をお願いします」
「二階ねえ…」

周囲をざわめかせている原因を隠そうともせず、山県の差し出した紙の束をさも面倒くさそうに受け取る速水は、部下から二階と言われて唐突に喉を鳴らして笑い出した。

「あの、なにか…?」

臨海署内に特別天気予報を発生させるほど、速水はいたく機嫌が悪かったくせに。
いつもの署内パトロールにでも出掛けていたのか、ふらりと居なくなったと思えば、戻ってきた時にはこうして何故か酷く上機嫌になっていて。
さらに「なんでもない」といいながらもくっくっと意味ありげに笑っているものだから、いささか不安を感じた山県が心配そうに…というよりも、その速水の顔に存在する赤い跡にちらりと視線を向ける。

「…ヘッド」

そして山県は自分の背後からひしひしと伝わってくる期待と不安、つまりは彼が触れまいとしていた皆のどよめきの原因をはっきりさせるべく口を開いた。

「からかうのも大概になさった方がよろしいかと」
「何を言ってんだ?」

一応周囲を憚って誰と言わずに釘を刺す山県に、喉で笑ったまま部下を見返す速水の目は、笑っていながらも突き刺すような鋭いもので。

「お言葉ですが。顔にはっきりと、指の形までわかる見事な平手の跡をつけてきてそれはないでしょう」

けれど伊達に腹心の部下として速水についているわけではない山県は、それが単純に人を試す時のものだと知っているものだから、萎縮することも、ましてや怖気づくこともなくあっさりと指摘してみせた。

「大体捕り物でもなし、ヘッド相手にそんなことをしでかす度胸がある人間が、この署内の何処に居るっていうんですか。
そもそもヘッドを引っ叩いて無事な人間なんて、あの方以外一体誰がいるんです?」
「言うじゃねえか」

淀みない山県の指摘に背後のざわめきが大きくなるが、ずばりとした指摘を気に入ったのか、速水は山県の肩を叩いて一人云々と頷いて見せた。

「なぁに。ちょいとばかり面白くない事が続いてたんで、こっちに顔を見せる暇もない刑事どもを冷やかしに行ったんだが…」
「……」

臨海署の花形であり、天下の交通機動隊が暇な訳がない。
外に出なくとも、署内に戻れば提出しなければならない書類が山程待っているのだから、本来他の課に構っている暇などあるわけがないのに。
それなのに速水ときたらいつものように机を離れ、二階の刑事部屋に顔を出してきたらしい。
そんな速水の言う面白くない事というのは、ここ臨海署の所轄内で見つかった変死体のために帳場が立っているせいで、彼が目当ての人物が全く顔を見せなくなっていることだ。
皆それに気付いていたからこそ、速水の逆鱗に触れていらぬ雷を落とされないようにと注意報が飛び交っていた。

「そうしたら、たまたま当直室でアレが仮眠してるってんで、時間も時間だし俺が直々に起こしに行ってみたわけだ」
「………」

まあ、そんなことだろうと思いました。
言葉のオブラートに包むという心遣いがあるわけのない、簡潔極まりないそれを聞いただけでその先を聞きたくないと思った山県の心情を他所に、速水は書類を持っていない手で目の前の部下の肩を抱き、周囲(というよりも速水小隊の全員)に聞こえるように話し出した。

「俺が直々に起こしに行ったってのに、アレがあんまり起きないもんだから、ちょっとからかってやろうとしたんだがな。…思わぬ反撃を食らってこのザマだ」
「何をやらかしたんですか」
「別に変なことはしちゃいない。起きないなら起きるまで色々と…」
「良識の範囲内でお願いします」

げんなりとした内心を微塵も見せず突っ込みを入れる山県は、聞き耳を立てるだけでは満足いかなくなったらしい速水小隊の面子が自分の背後に集合したこと気付きつつ、それでも律儀に上司に続きを促した。
…背後の隊員達が「何をしたんだろ」と妙に期待を込めて囁きあっているのが気になるが、好奇心に殺されては適わないと口を閉じている。
この上司相手にそんなことを一々気にしていたら神経が持たないということを、それはそれはよーく知っている山県の懸命な判断だった。

「なんだ、信用がないのか。鼻を摘んでやれば、流石に息苦しくて起きるんじゃないかと思って試しただけだぜ?」
「鼻をって…子供じゃないんですから…」
「仕方ねえだろ。なかなか起きないアレが悪い」
「…目を覚ました時、怒られなかったんですか」
「だから見事にひっ叩かれた。ま、拳でなく平手打ちだったから、一応手加減してくれたんじゃねえか?第一相変わらず寝起きが悪くて寝惚けてたしな」
「本っ当に、ほどほどに、なさって下さい」
「何を言ってやがる。俺の単なるハンチョウに対する愛情表現だ。気にするな」
「 無 理 で す 」

上機嫌の速水に対し、ごっそりと気力を削がれた速水軍団を代表して山県が言い切れば、速水は「人生何事も経験だぜ?」と随分と斜めな助言を与え、余裕綽々で自分の席に着いてしまう。

(安積係長、やっぱりヘッドのせいで怒っていたのか…)

速水が戻って来る前に、外階段前で山県が見かけた時あまり感情を表に出す事のない安積らしくなく、とてつもなく怒りを露わにして階段を駆け上がっていったから。
それで強行犯係で何かあったのかと思い、いつものように速水へ報告しようとしていた山県は、その原因が速水自身だと知らされ大いに脱力することしか出来なかった。

「おい、暴風雨注意報は解除になったのか?」
「一応解除でいいと思いますが」

速水が山県を解放して自分の席に着いたとき、階上にいたのか内階段から降りてきた及川が他の隊員たちの様子を見遣ると、言いにくそうに声を潜めて山県を課の隅へ連れ出し方へ問いかけてきた。

「てことは…ヘッド、やっぱり安積係長に何かやらかしたんだな」
「どうしてそう思うんです?」
「…須田がさ、変な顔をしながらヘッドを二階に上げないように止めててくれって言うんで、また何かあったのかと思ってさあ」

安積の機微に聡い安積班の面子は、仮眠を取って気力を取り戻すどころか怒気をまとって戻ってきた安積に対し、その原因が速水あるのだと瞬時に悟ったのだろう。
そこでこれ以上自分達の敬愛する上司の感情を乱し、加えて血圧を上げる原因を排除すべく、須田が(たまたま刑事課の前に居た)及川を捕まえ強く懇願してきたということになる。



「……キンパイ出てくれないですかね」
「……キンパイでもなんでもいいから、ヘッドが喜んでとっ捕まえに行きそうな、全員出動するくらいの事件が起きねえかなあ」




いくら須田に懇願されても、そしてその要望に応えてやりたくとも、速水が真面目(?)に書類仕事をこなしている以上、自分たちにあの上司を止める手段は一切ない。


なので不謹慎と知りつつも、確実な足止めの手段として、自分達が間違いなく駆り出されるような事件が起きることを祈る二人だった。




【愛が満杯・完】


前回の更新から随分間が空いてしまいました。ごめんなさい。
(赤い果実の季節だけは、毎年どうにもならないのですよー)
久々の更新がまさかのヘッドと愉快な速水軍団ネタに。
ヘッドが段々おかしな45歳になってゆく…ドラマ版に毒された?
個人的に速水軍団のNo.2は及川氏、No.3が山県氏だと
思っているんですが、本当はどっちが階級(または年齢)が上
なんでしょうか。読本には出てなくて判らなかったですセンセー。
戻る?