「ようハンチョウ、やっと本格的に目が覚めたか」
本当に今更なことに気付き振り返る安積の後ろにいるのは、手渡すつもりで持った靴べらを片手に、漸く気付いたのかと言いたげに口の端を上げていつものふてぶてしい笑みを浮かべている速水。
自宅であるからこそ気が緩んでいたのと、他署での長の帳場に借り出されて疲れきっていたこともあるのだろうが、現役の刑事のくせに、夜中に誰かが自宅に入ってきたことにも気付けず朝まで熟睡しきっていたことに、安積は自分の呑気さを呪いたくなってしまった。
「お、お前、まさか朝方にベイエリア分署を出て、そのままここに来たとか言うんじゃないだろうな…?」
「当たらずも遠からずといった所だ。実際引継ぎをしてからも、書類の仕上げに忙殺されて残業をしてきた。お陰でここに来てからあまり時間は経ってない」
「なら、こんなところに寄り道して俺を構っている場合じゃないだろう。早く帰ってちゃんと身体を休めろ」
「大丈夫だ、居間のソファを借りて一眠りはした」
「お前は馬鹿か!?」
安積の記憶違いでなければ、確か速水は昨日第二当番だったはず。
そのため例え定時上がりだとしても深夜まで仕事をしていたはずなのに、どうして大崎にある自分のマンションに帰らずこんなところいて、しかもさも当然と安積の朝食を作りあまつさえ送り出しているのか。
派手な部分が目立ってしまうが故に誤解されがちだが、速水の在籍する交通機動隊の職務は、捕り物よりも実は書類作成にばかり時間を取られている刑事の安積と似た様なもので。
勤務時間内の殆どが書類作成に忙殺されることは判ってはいるが、いざ外に出るパトロールでは暴走車や暴走族相手にカーチェイスを繰り広げ、時には乱闘まがいの捕り物にまで発展するような命の危険を伴うものだからこそ、安積は万全の体調を整えることが第一だと心配しているのに。
しかし当の速水は全く気にした様子もなく、それどころかわざわざ貴重な時間を削ってまで安積の世話をするのが当然といった様子だった。
「先に言わせて貰うが、折角預かっている合鍵を使わなかったら勿体ないだろう。
それにハンチョウがここ暫く他署の帳場に借り出されていてベイエリア分署に戻ってこないのが悪い。いや、戻ってきてはいるようだが、それは俺が居ない時ばかりだ」
「仕方がないだろう、こっちにだって都合というものがある。大体それが理由だとしたら、お前は本当に只の馬鹿だぞ」
「馬鹿とは失礼だな、俺はお前さんに心底惚れ抜いてるだけの、ただのいい男だ」
「つまりは本物の馬鹿なんだな」
ここにかつて存在した家庭というものを失った安積が、無意識下で意固地なまでに守ろうとしているこのマンションでは絶対不埒なまねはしないと、そう約束していることは律儀に守り通して。
その上わざわざ食材まで買い込んでやって来て、どう見繕っても寝心地の良くないソファで仮眠を取った上、安積より先に起き出して朝食を作りこうして見送ろうとまでしている。
「何だ、ハンチョウには迷惑だったのか?」
「そ…そうじゃない。驚いただけだ。それにきちんと朝食まで作ってもらって、感謝はしている。だが、それがお前に負担がかかるようなことでは困るんだ」
「負担?これの何処が。それに俺は暫く会えなかった分を含めてお前を構いたくて仕方がないんだ。そのお前が出勤してしまう以上、せめてここの掃除と洗濯をしてやらないことには帰る気もないね」
「…速水。頼むから俺のことよりも帰ってちゃんと身体を休めてくれ。ソファで寝ても身体の疲れはとれない上に増しただけだろう」
馬鹿を連呼された上に、どうにも叱られているような事に速水が心外だと言いたげに眉を潜めるが。
徹夜で帳場に詰めたり、そしてそんな中で寝床もままならず刑事課のソファで仮眠を取ることの辛さを、刑事である安積は嫌というほど知り尽くしているから。
素直に「言い過ぎたと」言葉を訂正して、そして怒っているというよりもそれ以上に心配しているのだとそう口にすると、そこで速水は漸く合点がいったらしい。
「……つまり。ハンチョウは俺のことを心配しているんだと、そう捉えていいのか?」
「あ、ああ、そうだ」
「ふむ…そうか、心配してくれるのか。それは嬉しいことを聞いた」
「とにかく。俺のことより身体を休めろ。いいな?」
「ハンチョウ」
何かを考え込むような仕草で問われ安積が反射的に頷いてみせると、そこに不意討ちで屈託なく微笑まれたものだから、速水のそんな笑顔に対して密かに弱い自覚がある安積は取り繕うこともできず赤くなってしまう。
気恥ずかしくなった安積は逃げるように玄関を出ようとしたが、それでも速水に呼ばれて律儀に足を止めるあたりが安積らしい優しさだった。
「お前が心配してくれるから、まず一旦戻って寝ることにする。だが、掃除と洗濯は譲れんから結局は大崎からまたここに戻ってくることになる」
「なんだってお前は、こうも人の世話を焼きたがるんだ…」
「言ったろう、俺はお前を構い倒したくて仕方がないんだと。あと「人の」ってのを訂正しろ、俺が構いたいのはお前だけだ。他のヤツなんかどうでもいい」
「………こんな冴えない中年男を構い倒して何が面白いんだ。やっぱりお前は馬鹿じゃないか。わかった。掃除も洗濯も、お前の好意に甘えることにする。だが、俺の言うことも聞け」
「なんだ」
「わざわざ帰らなくてもいい。その代わり、俺のベッドを使っていいからきちんと休むんだ」
「………」
頑として世話を焼くことを主張し続ける速水に、自分の生活能力の低さも起因していると常々思っていた安積はそっとため息をついて。
玄関先でのやり取りの結果いい加減時間に余裕がなくなってきた現実に、今回ばかりは自分から折れる方が良いと判断を下す。
自分のために世話を焼いてくれるというのなら、それで気が治まるというのなら今回くらい素直に甘えるのもいいだろう。
「…いいのか?」
「勿論お前が嫌でなければの話だ。流石にふかふかとは言い難いが、それでも柔道場に敷き詰められた布団よりは快適なのは保障する」
「誰が嫌だなんて言った。むしろ大喜びだ」
「それならいいが…あ、面倒だとかそう思っても、間違ってもソファなんかで寝るんじゃないぞ」
安積としてはまず第一に速水にきちんと休んでもらうことが大前提だから、自分が言ったことの大きさや速水の確認にも気に止めず、ただそれだけ釘を刺してドアを開ける。
「気をつけてな」
「ああ」
それだけは言い切って満足した安積は、気のせいか何処か妙に弾んだ声に見送られて心の中で引っかかりを覚えるも、確かめるために戻る時間もないのでいつものように電車を乗り継ぎ臨海署を目指すことにした。
「…ありゃあまだ寝ぼけてるな。ここは本来、俺でさえ不可侵だったはずのお前の城だぜ、安積?」
安積が去ったあとの玄関で、速水がどうにも堪え切れないといった様子で笑い転げていたことを知るのはそれから半日以上経ってからのこと。
ベッドの主である安積の温もりと残り香のあるそれを使うことを許された速水が、いつもの署内パトロールで大層機嫌よく刑事部屋に現れて、無駄に安積に顔を近づけ『お前のお陰で随分気持ちよく眠れた』と意味深く笑ってからのこと。
…それは頭の回転しきっていない朝は、自分が本音に従ってとんでもないことを言ってしまう傾向にあるとことと。
そしてそれと同時に、実際には自分でも驚くほどに速水を受け入れ心を許している現実に、安積自身が漸く気付いた瞬間だった。
【朝のひととき・完】