どれくらいそうしていたのか判らない。
冷静に考えれればほんの数分のことだったはずなのに、その時の安積にとってそれは永遠とも思えるとてつもない長さで。
ヘルナンデスからは、絶対に、目を逸らさない。
拳銃を構えたまま微動だにせず、応援のパトカーのサイレンを耳に捉えてもなお動こうとしなかった安積が考えていたのは、たった一つのそのことだけだった。
「大丈夫かハンチョウ」
次々と駆けつけてきた各所轄の刑事や、更に遅れてやってきた国際薬物対策室の精鋭たちによって、一度逃がしかけたマル対を無事に逮捕出来たと同時に、サイレンの音に負けじと飛び交う喧騒と怒声の中、漸く拳銃を下ろした安積に速水が近寄って声を掛けるが反応がなく。
「安積?」
肩に手をかけ、自分の方へと強引に身体をひねらせる形で再度声を掛ければ、安積はそこで漸く「ああ」と淡々とした返事を返してきた。
…が、その声とは裏腹に、安積の表情は何故か彼らしくもなく途方に暮れているようで。
「どうやら無事じゃないみたいだな、ハンチョウ」
「…………」
呆れているわけでもなく、ましてはからかっているわけでもなく。
そのくせどこか憮然とした面持ちの速水に対して何かを言い返したくとも、今の自分にとって優先すべきことがほかにあるからこそ、何も言わずに視線を逸らすのだが。
「くそ…っ」
構えていた拳銃を下ろしたまでは良かったが、その後己の手から離れなくなってしまったことに気付いた安積は、背後で大騒ぎしている連中から隠すようにしてなんとか手を開こうとしていた。
「無理をするな」
「………お前に言われたくない」
速水が安積の肩に手を掛けていた方の手を下ろし、そのまま拳銃を離そうとしない右手に添えてやれば、あれだけ固く強張っていた安積の右手から強張りが解け、あまつさえそのままあっさりと指の力が抜けてしまう。
「………」
「ハンチョウ?」
「なんでもない」
無意識下のそれに安積自身は憮然としながらも、そこからは一連の動作で拳銃をしまい終えたところで、今の今まで命がけで対峙していた、連行される寸前の連中に顔を向けることが出来た。
「全く、今回の捕り物のせいで、私の寿命は確実に縮んだぞ…」
「あれくらいでか?」
運転手が速水だからこそのカーチェイスによる極度の緊張と、その直後に撃たれる危険を承知で犯人の乗った車に近づき拳銃を構え続けていたことによる恐怖で、安積の顔色は青いというよりも蒼白になっていたけれど。
速水はそれに関してはあえて何も言わず、今の安積と同じく憮然としていた表情を一転させ、いつものように片方の頬だけを歪める独特な笑みを浮かべてから、少しでも喧騒から逃れようと乗って来たスープラ・パトカーへと安積を促した。
発砲により窓ガラスが砕けはしたが、幸いそれ以外に破損はないスープラに乗り込み、とりあえず安積の緊張を解こうとまた肩に手を乗せれば、安積は被りを振ってから口元に手を当て目を閉じる。
「自分の気の弱さに、私は自分が心底情けなくて仕方がない」
「撃たれるかも知れない相手に向かって近づいたんだ、誰だって似たようなモンだろ。ハンチョウだけの話じゃない」
「だが、私は刑事なんだ」
安積は強行犯係の刑事である以上銃撃を受けるのはこれが初めての経験ではないし、それに安積自身昔は射撃大会の主だったタイトルを総なめにする程の腕前だったこともあって、今更ながらに拳銃の重さとそれが持つ意味に気付いたという訳ではなく。
「危険に晒されていたのは私だけじゃない。お前だってそうだったのに」
的ではなく人に向かって構えることに対しての純粋な恐怖と一緒に安積が思い出したのは、自分以外にも命の危険に晒されていた仲間が居たという点。
「犯人が捕まったこともだが。…お前に何事もなくて良かった」
速水に対し、まず一番最初に言うべきことだったと、安積はそう思っているのだろう。
口元に手をあて目を閉じたまま嘔吐感を堪え、その代わりとでもいうのか「お前が居てくれて助かった」と心の澱を吐き出すように呟くのを、運転席に座っている速水は前を見据えたまま何も言わずに聞いていた。
「ハンチョウ」
「……なんだ?」
しかしその沈黙も長くは続かず。
「俺はお前と心中などするつもりはないと、そう言っただろう」
「ああ、だから撃たれもせず良かったと…」
「そうじゃない」
いつもの茶化すようなものではなく、何処か硬さを含んだ声音で名を呼ばれたことに安積が手を口に当てたまま速水に目をやれば、前を見据えていた速水はいつの間にか安積を見ていて。
そしてその目が全く笑っていないことに、安積は妙な不安を覚えて眉間に皺を寄せた。
「俺があんな奴らの弾を食らうとでも?馬鹿を言うなよ、そんなヘマをするわけがないし、それに俺を誰だと思ってる」
「速水、だが」
「だがもへったくれもない。大体俺がさっき車の中でお前と心中するつもりはないと言ったのは、殉職なんぞしてたまるかという意味だ。
そもそも俺はおまえと一緒にしっかりと天寿を全うするつもりだし、どうしてそれが判らない?」
「…………」
何か速水の気に触ることを言ってしまったのかと、安積がそんな杞憂に困惑しかけていたのに、当の速水は全く違うことで癪に障っていたらしい。
「お、お前…人が真面目に聞いていれば何をふざけたことを…っ」
「ふざけてなんかいない。大真面目だ」
「これのどこか…!」
「いいかハンチョウ、俺はお前のことに関しちゃいつも大真面目なんだ。いい加減覚えろよ」
言葉の重さに呆然とする安積の右手を掴み、そのまま自分の方へと引き寄せて唇を押し当てる速水の目は言葉通り真剣なもので、それに射竦められた安積は声で制しようにもその後が続かない。
声で制するつもりが逆に視線で身動きを封じられ、掴まれ唇を押し当てられている手を引くことも出来ず。
「速水!」
喧騒の中でこちらに注意している者など誰も居ないとわかっていても、それでも状況の説明を求めいつ何時誰がやってくるか判らないから、安積は何重の意味も込めて速水の名を呼んだ。
「こんなところで馬鹿なことをするな!第一誰かに見られたら…」
「ああ、そうだな」
「だったらっ」
「お前の手下がやっとお出ましだ。さあハンチョウ、もう一仕事してこいよ」
「何?」
突然部下の名前を出され、速水に向けられていた怒りをそちらに向けられた安積が外の喧騒に耳を澄ませば、確かに自分の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
いつものようによたよたとしながら、それでも彼なりに懸命に駆けてくる姿を視界に捉えると、安積は速水の手を反射的に振り払うようにして取られていた右手を引き戻す。
「チョウさん!怪我はないですか!?」
「ああ、大丈夫だ」
それよりも一瞬だけ遅れて安積たちに気付いた須田が駆け寄ってくると、安積はいつもと変わらない普段どおりの口調で答えてから助手席のドアを開けた。
「ハンチョウ」
そして速水から逃げるように須田の方に行こうとした安積に、運転席に乗ったままの速水が引き止めて。
「しっかりとリラックス出来たろう?」
「…………!」
と、片方の頬を歪ませ憎たらしい笑みを浮かべながら、存分に含ませた言い方で顎をしゃくって喧騒の方へと促した。
さらに速水が右手を開きひらひらとおどけるように指を動かしていることで、それが何を言いたいのか瞬時に理解した安積は、須田が居る手前先ほどのように感情に任せて怒鳴ることもできず。
「……お前本当に嫌なヤツだな」
部下の手前怒りに似た羞恥を飲みこみ半ば唸るように言い捨てて、安積はそのまま喧騒の方へと歩きかけたものの、ふと大事なことを言い忘れていることに気付きくるりと振り返って速水の座る運転席へと戻ったところで。
「速水」
「ん?」
「一つだけ言わせて貰う。…須田は手下じゃない。俺の大事な部下だ」
と、それだけはっきりと言い切ると、状況が把握できずきょとんとしている須田を促し、淀みない足取りで喧騒の中へと向かう。
「チョウさん、何のことです?」
「なんでもない」
…振り返りはしなくとも、速水がスープラの中で盛大に笑っている姿が容易に想像出来てしまう安積だった。
それは事件解決の翌日、須田が安積の武勇伝として語っていたことの、一切語られることのなかった部分。
速水と安積だけが知る事実。
【 とあるカーチェイスの後で・完 】