刑事が私事の約束事を守れなくとも、決して怒ってはいけない。
刑事はどんな私事の約束事があろうとも、まず仕事を優先させるということを絶対に忘れてはいけない。
刑事という職種を天職としている安積に心底惚れぬいてしまっている速水は、今更そんなことについて釘を刺されなくとも十分覚悟を決めている。
そう、刑事である安積と付き合うということは、つまりは約束事をすっぽかされても決して怒ってはいけないのだと、速水自身は十二分に理解している。
だから安積が速水との約束を果たせなかったとしても、安積の別れた妻でもあるまいし今更そんなことに怒る理由などない。
…ないのだが。
何事に対しても何処か醒めたようなところがあるこの男は、唯一『安積剛志』に対してのみ、どこまでも寛大でありながら同時にとてつもなく狭量でもあった。
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安積はとにかく困惑していた。
普段のポーカーフェイスが嘘のように、安積が速水の不機嫌さを前に困惑して狼狽えていた。
「速水…一体何にそんなに腹を立てている?」
「何を言ってるんだハンチョウ、俺は何時でも全てにおいて上機嫌で人生を謳歌してるぜ?」
「どの口がそれを言うんだ?」
「それはハンチョウにキスしようとして阻止されてる、この口だな」
「やっぱり機嫌が悪いんじゃないか…!」
ポーカーフェイスが売りの普段の姿が嘘のように困惑を隠さずに狼狽えている安積は、現在自分の上に伸し掛かっている速水を押し返そうと躍起になっている最中だった。
速水は安積に伸し掛かりながら、彼の身体に手を這わせつつ自然と唇を寄せていて。
安積はそんな速水から逃れようと身を捩り、今今奪われそうになっている唇を守るつもりなのか、速水のそれを己の手で塞いでいる真っ最中。
こういう状態になると止めろと言ってもまず聞く耳を持たない速水だが、今回ばかりは安積も折れるわけにはいかない理由があるからこそ、力で勝てる見込みがなくとも諦めるわけにはいかない。
だからこそ安積は必死になって抵抗してるものの、悔しいかな、日頃から鍛えている速水に勝てるわけがない。
「約束はするが守れる保証はないと、俺は最初から言っていただろう!」
勝てる見込みがなくとも、だからといってあっさり組み敷かれるつもりなど毛頭ない安積は、速水が機嫌を損ねているであろう理由について一応抗議してみるのだが。
相手は「何を言ってるんだ?」と首を傾げるばかりで、安積の指摘を鼻であしらいまともに取り合おうとしない。
「私は、わざと約束を破ったわけじゃない。事件が起きたから呼ばれた、それでここに来られなかったんだ」
「そんなことは知ってる」
「だったらどうしてそんなに怒って…」
「おいハンチョウ、お前さんまさか俺が『約束をすっぽかされた』から機嫌が悪くなってると、そう思ってるのか?」
さも意外だと呆れを隠さない問いに、そうだとばかり思っていた安積が言葉に詰まれば、速水は口を安積の手に塞がれたままま、わざとらしさでため息をついてみせる。
「な、なんだ」
「俺は刑事相手にそんなことで腹を立てるような狭量さは持ち合わせちゃいないぜ」
「……嘘を言うな」
人の制止も聞かずことに及ぼうとする速水を睨みつけるが、速水相手にそれが効果を見せるはずもなく。
一瞬だけ目を細め何かを逡巡した速水は一際顔を近づけると、低く絶対的な声音でもって安積に一言囁いた。
「俺は、どれだけ忙しくとも、必ず食事はしろと、そう言っておいたよな?」
「………………」
優しくそれでいて目だけはやけに鋭いままの笑顔で、さらに語句を区切ってはっきりと言われて、安積は瞬時に己の敗北を悟る。
「俺は、腹に入れさえすれば何でもいいと、言ったよな?」
「………い、言った」
「で、ハンチョウはそれに『判った』と、しっかり返事をしたよな?」
「………し、した」
「なのにお前は、俺との約束を反故にした。流石の俺も、これには普段の寛大さをお披露目できなくてなあ…」
安積は失念していた。
速水は『自分との約束』は守れなくとも逐一目くじらを立てるような性格ではないが、その反面『安積に関する約束』に関してはどんな理由があろうとも妥協するということがない。
…実際のところそれが一々反論を許さぬ真っ当な言い分であるため、安積としては極力守るつもりではいるのだが、如何せん夕べは事件が重なり正直食事どころではないと完全に抜いてしまっていた。
「ちゃんとネタは上がってるんだぜ、ハンチョウ?」
どうして知っているのかと驚き同時に困惑して口を噤んでしまった安積を見下ろし、速水は自分の事になるととことん鈍い安積の性格に失笑を隠せない。
安積剛志だけに対する見事な執着を見せる、速水の狭量さの賜物か。
臨海署(主に刑事課と交機隊)において、速水軍団(と、一部速水信者)および安積班(と、安積擁護派)から集められる『速水専用安積剛志連絡網』なるものが存在するのを知らぬは、この自分の価値を全く判っていない本人ばかり。
刑事の癖に、自分に非があると判れば直ぐに頭を下げる潔さを持ち合わせている安積だが、速水に対してだけはとことん素直になれずよく墓穴を掘っている。
速水としてはその唯一の反応にほくそ笑み、けれど妥協するわけにはいかないと逃げをうつ安積を一層追い込め己の下に封じ込めた。
「明日はちゃんと、朝から三食食べると約束するなら許してやる」
直球で身を案じてやれば申し訳なさが浮かぶのか、速水が妥協ではなく代替案を提供してやれば、安積は彷徨わせていた視線を戻し何度も頷いて現状を打破しようと試みる。
「た、食べる。ちゃんと食べてから行くからもう放せ…!」
「そうか。それなら…する事をしようぜ、ハンチョウ」
「は…なんでっ?!」
それにあっさりと応じたことで自由を取り戻せると思いきや、速水は伸し掛かっていた身体を退かすどころか完全に安積の衣服を剥き始める始末。
「明日、朝から食べるってんなら勿論泊まっていくしかないだろ。そしてうちに泊まるのに、まさかそのまま大人しく眠れるなんて思っちゃいないよな、安積?」
「冗談…ッ!」
「ふん、俺はこの手の冗談は言ったことがないんだ」
「威張るなー!!」
…結局いつも通り速水のペースで押し流されることとなり、安積の絶叫が嬌声に変わるまであとわずか。
【愛はいつも満席・完】