「ゴドーさん」
名を、呼ばれる。
「あのですね、ゴドーさん」
名を呼ばれる度に、未だどこか氷ったままの俺の心は、春の日溜まりのようなその声にゆっくりと、しかし確実に溶かされる。
「…この資料なんですけど……って、どうかしましたか?」
その暖かさが心地よくて。けれどそれは麻薬のように溺れてしまいそうで。
「ゴドーさん、さっきからぼんやりしてますけど。もしかして風邪ひきましたか?」
もっと。
もっと、俺の名前を。
「ゴドーさんは、風邪でも気を付けないと。
下手に薬は飲めないし…何ならしょうが湯でも飲みます?」
その声で、俺だけの名前を。
「ゴドーさん、聞いてます?
じゃなきゃ返事もできないくらい、具合が悪いんですか?」
他の誰でもないアンタの声で、俺の名前を呼んでくれ。
「…なぁに、ちょいと傷が気になってな」
「傷?…ゴドーさん、けがをしてたんですかッ!?」
「してたぜ」
軽く答えれば焦りの色をそのままに、場合によっては恐らく救急車を呼びかねない剣幕で。
心無し震える手が指がおそるおそる俺に触れる様も、こいつから俺以外の他を一切を遮断してしまっていると思うとどうにもたまらない。
「い、何時?」
「夕べ…いや、深夜か」
「…何処を」
「お前さんがそれを聞くのかい?」
「え…?」
間近で怪訝そうに俺を見つめる成歩堂に、にやりと口元だけで笑みをくれてやると、俺は無言で無防備な背中に手を回し軽く爪を立てて引っ掻いた。
「痛いッ!」
「俺の傷はこんなんじゃないんだぜ、バンビちゃん?」
「ーーーーッ!」
とたんに意味を理解したらしく、真っ赤になって俺をにらみつける。
「心配して損しましたよ、ゴドーさんッ」
怒って怒鳴るそれでさえ、成歩堂が俺の名を呼んでいる事に代わりはなくて。
「責任とって看病してくれよ、所長サン」
「責任て何ですか、責任って!それにしがみ付けって言ったの、ゴドーさん…」
「………ほう?」
「……………………ぅ…………………」
拗ねてこの場を去ろうとしている成歩堂に、俺は物分かりの良い年上の男気取りで詫びの代わりに軽く口付けを繰り返す。
「痛いなら、僕にあんなことしなきゃいいのに……」
「そいつは無理な相談だな。今の俺は、アンタを補充しなけりゃ生きていけない」
「………それってコーヒーのことでしょうが」
ぶちぶちと文句を垂れながら、それでも成歩堂は隣に座って俺の背中を撫で始める。
本当は。
みっともないくらい、こいつに縋って泣きついて。
俺以外のほかの誰も見るなと叫びたくて。
もういっそ、俺以外の何も考えられないようにしてしまいたいと。
そう思っている自分を自覚しているからこそ。
「………いっそアンタを食べることが出来たらいいのになァ?」
「ゴドーさんが言うと、全く洒落になってません」
冗談でどす黒い本心をひた隠しにして。
未だに何処かで俺に一線を置こうとする成歩堂を、しっかりと逃がさないように。
…明かせぬ想いに飲み込まれないように。
「なあ」
「はい?」
「俺が好きか?」
「……………ッ……?!」
不意に愛を告げれば、未だに慣れず固まるその身体を抱き締めて。
「俺はアンタが好きだぜ。『龍一』」
「………ぁ…………ン…………ッ………」
気休めにしかならない愛を囁いて、こいつの優しさを今日も貪り食らう。
……なあ。優しい優しい残酷な所長サン。
本当は、俺の側でない何処かに行きたいんじゃないのかい?
慣れない愛を応えながら、本当に俺を見てるのか?
そう、何時も怯えているのは俺の方。
差し伸べられた手を、何時までも疑っているのは俺の方。
何時までも何時までも、自分で作った闇の中から抜け出せないでいる。
……たった一度でいい。
自分から愛を囁いて、俺を求めてくれれば。
それだけで、俺はアンタを傷つけなくて済む。
恋焦がれたが故に時折躊躇う一瞬が、どれだけアンタを傷つけているのかわかっているから。
「なあ…もう一度俺に勇気をくれないか、『龍一』…」
だから。
なあ、成歩堂。
アンタの全てが俺を生かしも殺しもするんだと、早く気づいてくれ。
どうせ長くないこの先、俺はいっそ成歩堂の為だけに生きて、そして成歩堂の手で殺されたいんだ。
「そうすれば、アンタは俺だけを見るだろう?」
成歩堂の為だけにみっともなく生きて。
そして。
死に行く時俺は、その心を抱えて地獄に堕ちたい。
【アカセヌココロ・完】