思うことがあって、愛馬を厩番に預けると真っ直ぐにやってきた部屋の前で、ふと、どこかで覚えのある香りが鼻腔を擽った。
さて、これは何処で嗅いだ匂いだったかと廊下に立ち尽くして記憶を辿っていると、久しぶりにかの人の本当の笑い声が聞こえてきたものだから。
ああ、先客が居たかと些かの躊躇いのせいで遅れをとった自分に肩を竦めてみるものの、それでも中にいる部屋の主と来客相手に遠慮をする必要など何処にあろうかと、とっくに気付いているだろう二人に声をかけた。
すぐに返って来た声に招かれ、中に入ったところで目に飛び込んできたのは二人には似つかわしくない扇子が一つ。
そしてその側で、先ほど鼻腔を擽った香りが焚き染められている香炉。
なるほど、これはさっさと一人花を散らせたかの御仁のためか、とすぐに合点がいった。
自分の勘が中った事には満足するも、その中ったはずの予想に反して、肝心な部屋の主は妙にすっきりとした顔をしていて。
そのくせ客人の方と来たら、なんだか気負っていたものが折れて萎れているといった有様なのが見て取れた。
「…おいおい、一体何事だい?」
あんまりからかうなよと珍しくも諌めてやれば、部屋の主はさも心外だと声を上げ。
褒めただけだと至極真面目な表情で言うものだから、客人ときたら益々いたたまれなくなったのだろうか。
あとはお任せしました!…なんて叫ぶように言い残すと、物凄い勢いで部屋から出て行った。
咄嗟の出来事に、俺と部屋の主は思わず顔を見合わせて、それからどちらかともなく噴出して、肩を揺らして大笑い。
一体何を言ったんだと興味津々で問いかければ、自分でもまさかこうなると思ってなかったらしいこの人は、少しだけ照れくさそうに事の顛末を語ってくれた。
「それがですねえ…」
時折扇子に視線を移し、燻ゆる香の煙に指を絡めて語る、その顔を見て。
まだまだ以前のようにとは言い切れないが、この人はこんなにも清清しく笑えるようになったと、俺は知らず安堵の息を零した。
ああ、いいねえ。
俺が惚れたあんたの顔になってきたねえ、と。
名軍師らしく、この人は世の流れを読む能力や人の思考を悟る意味では酷く聡いが、自分のこととなると何故かてんで鈍い時があるから言葉を濁さず告げてやれば。
最初は固まって。
次に、赤くなって、そして直ぐにはっと何かを確認するように右往左往して。
何度も目の当たりにしたことのある、何かの襲来を怯えているようなその行動に、益々持って以前のこの人が戻ってきたと俺は腹を抱えてまた笑い出す。
「条件反射ってヤツか?」
「…誰のせいですか、誰の」
昔のように、この人に手を出すと何処に居ようと必ず邪魔をしに現れていた御仁を示唆し、香の煙に絡める指を自分の指に強引に絡めてやれば。
香を焚き染めていた意味を俺がやってきたことと結びつけて、困りましたねえ、とため息を零すだけ。
俺の手を解こうとはせず、けれど向こうから絡めることもせずに、ただされるがまま。
拒絶ではなく、許容でもなく。
あるのは困惑だけのこの人相手に、普段であれば上手い具合に事を運ぶのが常であるのに。
「…側に居たい。駄目かい?」
自分でない男を想うことすら、どうにも愛しくて堪らない。
堪らなくて、特に今日という日は想いが強すぎて側に居ること以外何も出来ないから。
「全く、あんたにこんな思いをさせて。散った後すら一筋縄ではいかない、とんでもない御仁だねえ」
香の煙にあんたの涙も乗っかればいいのに、と冗談めかして頬の雫を掬い取ってやれば、この人はただ「どうでしょうねえ」と笑ってはぐらかすだけ。
本当に、本当に。
他の男を想って涙を流すこの人の、自分の前だけで素直に見せる涙が俺は一番愛しくて堪らないんだ。
【扇、遙かなる君 慶次編・完】
けどこれはもう完全に慶次×左近なんじゃないかな…?
最初のネタから考えて、まさかこんな流れになろうとは。
でも正直書いててすんごい楽しかった。慶左大好きです。