島左近にとって、どう転んでも自身に災難しか降りかからない司馬昭モデルの衣装に着替えてみれば、案の定嬉々としてこちらに向かってくる面子に血の気が引いて。
それでも王元姫の機転で司馬昭を人身御供に逃げ出して、ほんの僅かな時間で奇跡的に辿り着いた魏陣営を通り過ぎれば、そこで優雅に寛いでいたとある夫婦(というかその妻の辛辣な皮肉)に反応した己の主君がまず脱落して。
通り過ぎたのが魏陣営であるということは、必然この勢力を見定めて共に進軍しているかの麗しき崇高な女仙が騒ぎを聞きつけ、原因を知るや否や典雅にかつ寸部の隙もなく武器を構えればそれだけでまた一人脱落し。
あと少し、あとは豊臣もしくは蜀陣営に居るであろう切り札になる人物を見つけられれば…という所で万事休す。
「そん、な」
「………」
「はっはっは、これでもう鬼ごっこは終わりだねえ」
信じられない、と目を見張る元姫に対し、ああもう、これだから嫌だったんだ、と眼だけで語る左近の前に彼は居た。
「私たちを追いかけていたはずの貴方が、どうして私たちの前に居るの」
そう、左近達を追いかけていたはずの慶次が何故後方ではなく前方に立ち塞がっていたのか。
慶次という人物を良く知らぬ元姫は仕方のない事だが、彼女よりは遥かに彼の事を知る左近にしてみれば至極簡単なからくりだった。
「松風…」
「流石左近、御名答。嬢ちゃんは勿論左近もその実足が速いからねえ、アンタの殿さんと違い俺が追いかけるにゃちょいと分が悪いのはハナっから判ってたさ。
それならまず左近が逃げ込みそうな所を先読みして、後は松風に追わせりゃ待ち伏せくらいどうということはないぜ?」
赤兎馬に負けず劣らずの名馬中の名馬である松風なら、闇雲に走って探すような愚行はせず、自然に慶次の意図を汲んで左近の足音を聞きわけ最短距離で先回りしてみせることなど雑作もないこと。
平時の左近ならばそこまで読んで逃走を図っただろうが、生憎逃げ出した時にそんな余裕は微塵もなかったのが招いた結果がこの様である。
「全く…。変な事に巻き込んじまってすみませんでしたね、元姫さん。俺の事はもう良いですから、司馬昭さんの所に戻ってください」
「そんな、左近殿」
「大丈夫、三人まとめてだとお手上げですが、まあ、この人だけですし。なんとかなります」
「……でも」
「そんなに眉間に皺なんか寄せちゃ駄目ですよ。折角の綺麗な顔(かんばせ)が台無しになっちまう。さ、俺は大丈夫ですから行ってください」
「………左近殿を困らせたら、許さない」
「まかしときなって」
苦笑を滲ませて司馬昭の元へ戻らせようとする左近に対し、元姫がなおも何とかすべく武器を構えようとすれば、それをやんわりと遮るのもまた左近で。
諦めではなく、何処か呆れとも取れる苦笑が腑に落ちない元姫は、左近よりもさらに立派な体躯の慶次を見あげキっと睨みつけのだが。
それに対して慶次は気分を害した様子もなく、にこりとまるで童のような人好きのする笑顔を見せるものだから、元姫は何も言えず「役立たずの子上殿にお説教してきます」という言葉を残して去って行くのだった。
「………で?」
「ん?」
「殿や伏儀さんのように、まさか本気で悪戯目的で俺を追いかけて来たんですか、アンタ」
「はっはあ、本当に左近は頭が切れるねえ!」
何度も振り返りつつ戻る元姫を並んで見送る左近だったが、その姿が見えなくなると同時に視線を合わせる事無く慶次に問いかければ。
何も言わずとも粗方自分が先読みまでして追いかけて来た理由を悟っている様子に、慶次は得物を抱え直して先ほどと同じように童のような笑顔を向ける。
けれどその笑顔の中にある、左近を見つめる瞳はまるでその欠片も見せることなく真髄を射ぬいていた。
「悪戯目的だけだったら、それで問題なかったんだけどねえ」
「……」
「元の世界は勿論の事、俺は『この世界』のアンタも放っておくなんて出来やしないのさ」
「っ!」
あまりにもさりげなく、そしてすばやく己を引き寄せる太く逞しい腕に左近は予想が当たっている事に警戒心を顕わにするも、それでも慶次の腕の力が弱まる事はなく。
判っているから、自覚があるからこそ先を言うなと、左近が鋭い眼光で睨みつけても射ぬく視線がぶれる事がなく、止めるより先に宵闇色の髪に手を差し込んで頭も引き寄せて。
そうして慶次が左近の耳元で囁いた、その言葉は。
「生きてる。皆生きてる。アンタの大事なモンは皆生きてるだろう?」
「………!」
こんな荒唐無稽な世界に飛ばされた際に左近が一番歓喜して、そして信じられなくて、でも真実であると確かめまた歓喜するを繰り返す、それ。
非常時に何を馬鹿な事を、とずっとひた隠しにしてきたはずが、慶次自身もまた、左近の宵闇色の髪を何度も梳いて自分だとて同じなのだとそう声なく語るから。
「こんな世界だがね。ちょっとくらい、俺に付き合って息抜きしたってバチは当たらんさ」
「慶次さんはいつも息抜きしてるでしょうが。……ああもう、何でアンタにはこうも簡単にバレるんでしょうね…って、いや、言わなくていいですけど」
「何だい、いつも通り言わせてくれたらいいじゃないか」
「結構ですよ。…言わせたら最後、慶次さん俺の制止振り切って好き勝手始めるでしょう?」
「はっはっは、やっぱりそっちもお見通しか」
得物ごと腕に抱きこんだままの左近の髪を飽きもせず梳き続ける慶次に、そこから逃げ出すことを諦めたというよりも受け入れた左近もまた、彼の獅子の鬣のような黄金色の髪を梳いて返して。
「さて、慶次さん」
「ん?」
「この俺を息抜きに誘うからには勿論、十二分に愉しませてくれるんでしょうね?」
と、左近が口端を上げて挑発するように問えば、慶次は梳いていた宵闇色の髪をひと房指に絡めて、軽く引いて口づけて。
「おうさ、まかしときな」
と喉を鳴らして笑って答えれば、後は何の差し障りのない二人の影が重なり合うのは直ぐの事。
…ただ、流石の慶次も左近を他の場所に連れ出す事だけは忘れなかったのは、二人から少し離れた場所で草を食んでいた松風のみが知るところ。
【月に叢雲花に風・完】
マイナー路線まっしぐらだろうが何だろうが大好きです、ハイ。