誰か、誰か。助けて下さい。
誰か…というより誰でもいいから助けてと、女難の相に見舞われた哀れな男は、その事だけを切に叫ぶ。
「私を抱きなさい」
ことの始まりはこの一言だった。
用があるから日向の事務所に待機していなさいと呼び出され、それに何の警戒も持たずにのこのこやって来た男に向かって。
最凶最悪の性格を持ち合わせたいと美しき長い髪の魔女は、死刑宣告でもするように情事の誘いを口にした。
「……」
あまりにも突拍子のない誘いに、哀れな(でかい)子羊は、一切の思考能力を停止させて魔女を見ている。
「女から誘っているというのに、何ともだらしのない男ね…」
この哀れな子羊なる男の性格を考えたら、すぐに分かりそうなことをあえて毒づいて。
そして魔女は、自分の向かいにあるソファに座ったまま、ぽかんと口を半開きにして惚けて固まっている男に一瞥をくれてやる。
しかしこんな反応を示すだろうとは予測していたから、すぐに機嫌を直して彼の元へと足を向ける。
そしてそのまま色鮮やかな朱い唇を寄せ、男の薄いそれを優しく奪おうとしたのだが…。
「いけまセン!」
「……」
まさにその瞬間、固まったままだった男の呪縛が解け、彼は素早く逃げを打つ。
「何よ。私の口付けが気にいらないとでもいうの?」
「違いマス!」
「なら別に逃げなくてもいいじゃない」
「違いまセンが、イケマセン!」
「何訳の判らないことを言ってるのよ…」
忌々しげに魔女は軽く舌を鳴らすと、逃げる男の襟首を、その細腕のどこからそんな…と言いたくなるような力で掴んで、勢いよくソファに引き戻す。
そして再び逃げられる事がないようにと、男の両足の間に片膝を立てて覆い被さるように伸しかかる。
「また私をからかう事をして…ッ!」
「人聞きの悪いコトを言わないの。私は貴方が好きなだけよ、可愛い大きな坊や」
魔女は怒る男の頬をそっと撫で、甘い声でそう囁き続きを迫る。
「ふみこサンは、コータローさんが好き、言ってたじゃないですかっ!」
だが、物凄い量の冷や汗を浮かべながらも、顔を真っ赤にしてこんなことを叫ばれて。
魔女は美しく整えられた眉を顰めて動きを止める。
「あら…よく分かっているじゃない。
そう、私が求めているのは、あのイイ男になりかけの元気な少年よ」
「ならば…!」
「ならば、何?」
「私にこんな事をけしかける、良くないです…!!」
「……」
男の言っていることはもっともだ。
しかし魔女に、『もっともな』理由は通じない。
「あなた…馬鹿だ馬鹿だとは思っていたけれど、本当に救いようのない馬鹿だったの?
それともまさか、この私に女を感じないとか言うんじゃないでしょうね…?」
「ふみこサンに魅力を感じない、そんな男なんてイマセン!」
「ならいいじゃない。たとえ他に好きな男が居たとしても、今の私は目の前にいる『あなた』に男としての魅力を感じているのよ?一体それの何がいけないの」
「ぅう…」
男の冷や汗を静かに拭い、魔女がまるで諭すように優しく咎めると、哀れな子羊はぐっ…と言葉に詰まってしまう。
「あなた、私が好きなのでしょう?その自分が好きな女にこうやって迫られて、どうして躇い拒む必要があるの。おかしいじゃない」
それはあくまで、『天上天下唯我独尊』な魔女の理屈だ。
そんな魔女に迫られている、常識と平穏を好む、哀れな子羊なる男の理屈ではない。
「いいこと?今私は貴方に心はやれないけれど、この身体は好きにしていいと言っているの。
あなただって男なんだから、好きな女の身体だけでも欲しいと思わない?」
「そそそそそんなコトは…ッ!」
真っ赤になって否定する子羊を、魔女はこれ以上ない位に顔を寄せて黙らせる。
「まさかあなた…女にここまで言わせておいて、恥をかかせるワケじゃないでしょうね…?」
「じょ、女性に恥をかかせたくはないですが、私には無理ですぅぅぅッ…!」
魔女に道士服の襟元の隙間から指を滑り込ませられ、大きな身体を哀れな程に硬直させ、殆ど半泣き状態になりながら、それでも(デカイ)子羊は必死に制止の言葉を叫ぶ。
「綺麗事を言っても、所詮男は男、だしね…」
そう言って滑り込ませた白い指先を、魔女がつつっ…と動かせば、哀れな子羊は自分が毎晩のように与えられている、嫌というほどに覚えのある感覚にその身を竦ませ震わせて。
「私、貴女を満足させられる自信、全くアリマセンッ!」
と、恥も外見もなく、まさに捨て身で逃げをうつ男がここに。
「……」
男の捨て身の抵抗に、この場の空間がびきびきびきッ!と音を立てて氷りついた。
「そんな事を言って逃げようなんて…いい度胸をしているじゃない、可愛い大きな坊や…ッ!」
「イタっ!」
捨て身で誘いを断った男は、極寒のオーラを背後に従えた魔女に頭を一発思いきりはたかれ。
「なら、私があなたを満足させてあげようじゃないの!」
「アイゴォォォー!!」
怯んだすきを見逃さない彼女に、間髪置かずにばっ!と襟元を肌蹴けさせられ、絶体絶命(…?)の危機に、哀れな子羊はありったけの声量で叫ぶ。
「暴れたら典雅さが足りなくてよ?」
「そんなモノ足りなくて構いまセンっ!」
「こういう時は、男でもおとなしく戴かれるものなのよ、可愛い大きな坊や」
場所は日向&玖珂探偵事務所応接室。
時間は夕刻、事務所の主と助手は留守。
そして入口のドアの鍵は開いたまま。
「折角可愛がってあげるんだから、そんなに泣かないの」
「そういう問題違いますぅっ!」
音を消していた金の携帯には、一通の未読メールと『もうすぐ戻る』との留守録へのメッセージ。
「さぁて、どうやって可愛がってあげようかしら…」
「誰か助けて下サイぃぃぃッ!」
偉大な魔女の手腕に哀れな子羊が堕ちるのが先か、はたまたここの主のどちらかが戻るのかが先か。
…それは全て、神のみぞ、知る。
【月の色人・完】