3 2004年・早春 〜 苦悩


     【 メールカウンセリング 】

 ポッキーとの関係が落ち着いたと錯覚したのはつかの間だった。

 年明けすぐにポッキーの親戚犬(といっても血統書の一部に同じ犬がいるとかが多い)やその友達犬の集まる新年オフ会が行われた。papaは仕事だったので私とポッキーで参加した。
 オフ会では開催ごとに親戚犬が増え、小さな雪の公園にボーダーの群れが疲れ知らずでディスクで遊びまわっていた。
 が、その中で一匹異質なボーダーがいた。
 ポッキーである。

 ポッキーは子犬の頃いろいろと社会化の努力をしたにもかかわらず、成長するにつれて他の犬を見るととにかく吠える犬になってしまった。
 私は実家のシェルティを飼っていた時、犬の育て方の知識もなく、当時近所に犬も少なかったことから、そのシェルティの社会化をほとんどしていなかった。さらに悪いことに、そのシェルティが子犬の頃、自分から大きな犬に近寄っていったら突然吠えられ噛まれてしまったことから、他の犬が苦手な犬になってしまった。なので私は「他の犬と仲良くできる犬」という犬にとても憧れており、ポッキーには実家の犬のようにはなってほしくなく、子犬の頃は社会化を意識して行動していた。
 しかし子犬の頃に良い友達犬にもめぐり会えず、しかもポッキーが近寄っていっても突然吠えられることが何度かあり、もともと他の犬に会うとウハウハするタイプではなかったが、成長すると慣れるどころか苦手で吠える犬になってしまった。

 そんなポッキーが1歳を過ぎた頃、我が家でインターネット生活が始まり、情報が増え犬のサークルの存在を知り、そこで親戚犬の存在も知り、犬の集会に参加するようになったのだが、何度か参加してやっとその場に2、30分いれば、他の犬と一緒にいても吠えることが少なくなってきていた状態だった。
 しかしやはり他のボーダーとは様子が違い、例えば他のボーダーは他の犬と仲良く出来るし、誰かがディスクを投げればワッとおもしろいように犬はその人のところに集まってディスクを追っかけるのだが、ポッキーはおどおどしながら他の犬のオシリのにおいをかぎに行くのが精一杯で、ディスクは絶対に飼い主の私が投げたものしか取りに行かないし、しまいには雪の上なのに私の足元で丸くなって座り込んでしまった。
 他のボーダーとは明らかに違っていた。

 そんなオフ会の次の日の朝、一時は落ち着いたかに見えていたポッキーの足洗い時の唸りが復活した。

 去年のあの事件以来唸ったり大丈夫だったりの微妙な状態だったのだが、その日の朝に足の雪を落とそうとシャワーを当てたら、鼻に深くシワを寄せて歯を剥き出しにして、あんなにかわいい顔がどーしてこんな顔になるんだろうというくらいに恐ろしい形相をして唸られたのだ。
 毎日不安を抱えていた私は怖さよりも悲しみに襲われて、歳甲斐もなく声を上げて泣いてしまった。
 ついこの間まで何でもなかったことなのに、嫌な事とはいえすぐに終わることなのに、どうしてそんな顔をするの・・・
 私がワンワン泣いているとポッキーは急にオロオロした様子になり、身体を低くして私の目の前にやって来た。まるで「ごめんなさい」とでもいっているように。しかし「ごめんなさい」とは思っているはずはなく、せいぜい「まずいな〜」ぐらいで、しかもたちの悪いことに自分から私の目の前にやって来てお腹を見せた(いわゆる服従ポーズ)とはいえ、その身体に手を伸ばそうとするとその格好のまま唸りだすのだ。服従なんてしていない。さらなる悲しみだった。

 その出来事があって、年末に掲示板の上で相談していたイギリス在住の獣医の先生に、正式に(有料)個別のメールカウンセリングを受けることになった。
 ポッキーの生い立ちから現在にいたるまで、家庭環境も含めた問診表の記入から始まり、ポッキーのカウンセリングよりも私やpapaのペットに対する考え方など飼い主のカウンセリングが多かった。
 しかしこれはとても大切な事なのだそうだ。

 この頃もポッキーの足洗いは微妙な状態だったが、だんだん足洗い以外の場面でも危険な状況が見られるようになってきた。papaの、ポッキーには何も関係のないちょっとした動きに反応して、突然唸りながら肘や袖に飛びついてきたりした。
 その時はまだ、私に対してすることはなく、私の方が安全であった。
 なので足洗いをはじめポッキーに対する世話は全て、出来る限り私がやっている状態だった。

 そして不安定ではありながらも大きな変化はなく、穏やかに見えた日々が続いた。


     【 恐れていた出来事 】

 二月初めの日曜日「近くの河川敷でディスクの内輪の練習会」という誘いがあり、この日も参加した。数時間それぞれ愛犬とディスクをしたり遊んだりして過ごし、そろそろ寒くなってきたから終わろうかとなったが、近くに自宅がある女性が、みんなでウチにおいで、と誘ってくれた。
 ポッキーが他人の家で吠えないか、他の犬の家で突然オシッコをしないか、と心配で迷ったが、「大丈夫、おいでおいで」と言われ、私自身はとても行きたかったので、じゃあ・・と他の犬や飼い主さんと一緒にお邪魔した。
 ポッキーは少々落ち着かない感はあったが、オシッコをすることはなく、私は少し安心してお喋りに楽しんでいた。

 そして最悪の事態が起きた。
 家に誘ってくれた女性のところにポッキーがいるのを見た時、とてもまずいことが起こっていた。
 その女性が座ったままポッキーと対面して静止し、緊張した空気が流れているのを感じた。
 『ポッキーが唸っている?!』
私は焦った。事前の状況は全く解らなかったが、100%そのようだった。
 「やってもいい?」その女性は言った。
それは「自分の犬ではないけれど叱っていい?」という意味であることはすぐに理解できたので
 「はい」と即答した。
 その女性は素早くポッキーのマズルを片手でつかみ「イケナイ!」と叱った。
 すると、その女性がマズルをつかんだ手を離したとたん、ポッキーは唸り声を上げてその手に噛み付いた・・・のだが、それは一瞬の出来事で、実は私はその時、女性は手を引いていて表情ひとつ変えていなかったので、ポッキーは噛もうとして噛めなかったのだと思ってしまった。

 その場には先に帰った人もいて、私とポッキー、その女性とその人が飼う二匹のボーダー、他にもう一人とその人の犬、計人間三人と犬四匹がいた。
 人間も犬もみな息を止めて、その女性とポッキーを見つめていたようだった。
 重く、変に静かな時間が流れた。

 ポッキーはやはりその女性の手を噛んでいた。
 女性は顔色ひとつ変えなかったが、左手の親指からダラダラと血を流しながら、それでもまだポッキーを叱ってくれていた。その傷口は今まで私やpapaが噛まれた時よりももっと深く、酷いものであった。

 ポッキーがとうとう他人を噛んでしまった

 その後の私は頭の中がだいぶ白くなっていたが、大したことないから、と嫌がるその女性にお願いして、夜間救急病院に行ってもらった。犬に噛まれたので細菌感染があるかもしれないということで縫うことはせず、傷口の消毒と抗生物質の数分の点滴で終わった。
 事の発端は、歯の会話をしている時にその女性が何気なくポッキーの唇をめくって歯を見たところ唸ったことに始まり、その後食べ物を目の前にして、食べ物への執着が強いポッキーに何かがあったらしかった。直接の理由は今でもはっきりとはわからない。
 仕事中だったpapaに連絡するとすぐに病院へ来てくれたが、後で「何で練習が終わった時に帰らなかったんだ!」と真剣に怒られた。
 いつもは私がpapaに怒ることばかりだが、その時は逆であった。

 メールカウンセリングには利点がある。
 相手の顔が見えないから、言いづらいことでも躊躇なく話せるのだ。
 
 その出来事を先生にすぐにメールで報告すると、すぐに返事が返ってきてこういわれた。
 私も猛省したが、その女性やみんなに、ポッキーは飼い主を噛んだことがあるということを恥ずかしがらずに、大丈夫だろうと勝手に楽観せずに、絶対に事前に言っておくべきだったこと。
 今回のことでポッキーがその女性に対して激しく敵意を見せるかもしれないので、今後注意すること。(これは後日全くなかったことがわかったが、そのようになる犬もいるらしい)
 ポッキーには罪はなく、むしろ怖い思いをしてかわいそうなこと。(つまり飼い主が悪い)
 全てまったくその通りであった。

 そして次の日からまたもや、朝の散歩後足洗い時の唸りが復活した。


     【 ポッキーが怖い 】

 当時すでにカウンセリングの先生の指示により、ポッキーの行動や様子を生活パターンに合わせて記録しておく「ポッキー日記」なるものをつけ始めていたが、後で読み返してみるとその日を境にさらに状況が悪くなっていくのがわかる。
 毎日何かしらpapaや私が唸られた。
 papaがポッキーの近くで手を動かしたり、物を持って立ち上がったりするとすぐに反応し、瞬時に腕や腰に飛び掛ってくるのは以前からで、このような行動は私に対してはやらないことだったのが、とうとう私に対してもやるようになってしまった。
 papaに対してやる攻撃行動は、時間が経つと私に対してもやるようになってしまった。
 「私なら大丈夫」という事が、どんどんなくなっていった。

 また以前は唸って終わり、唸るだけで済んだことが多かったが、唸ると必ず噛み付かれるようになってしまった。
 ポッキーの「噛み付きモード」のスイッチが簡単にONになり、その回数が増えていった。

 嫌なこと → 唸る → 噛み付く → 満足して終了
という法則がポッキーの中で確立されてきてしまった。
 最悪のパターンである。

 カウンセリングではこの法則を崩す事、スイッチをONにさせない事を指示され、試行錯誤、ONになる前にハウスに行かせるなどさせて、いろいろと努力したがなかなか決定的な手ごたえが感じられなかった。
 こうしてドつぼにはまっていった・・・

 しかしこんな状況であってもポッキーは何故か、毛切り、つめ切り、ひげ切り、といったお手入れは、大人しくさせてくれた。身体に少しでも触れようとすると、とたんに唸るくせに、何故か横にならせてマズルを軽くつかみひげを切ることが出来た。機嫌が特に悪くなければ目ヤニも取れた。
 また私の後をストーカーのようについて歩き回ったり、私が床に座ると身体をべったりと密着させて座ったり、私の口元や手を舐めまくったりしていた。
 コマンドは100%ではないけれど(100%ならこんなことにはならない)ある程度従うし、常に私たちのことを注目し、ボーダーの習性なのかもしれないがアイコンタクトが出来ないなんてことは全くなかった。
 私のことを噛むくせに何で甘えてくるんだ、そんなに唸るなら私の近くに来なければいいのに、と腹が立つこともあった。
 何でもない時は、普通の犬に見えるのだ・・・

 しかし私にはだんだん「ポッキーが怖い」という気持ちが生まれてきてしまった。
 何故かポッキーは朝が特に機嫌が悪く、私は毎日朝が来るのが怖くなってしまった。朝起きてポッキーのいる一階に下りていくのがユウウツだった。

 「怖い」ものといつも一緒にいる、ということはストレスである。(ポッキーも同じだろうが)
 私はこの頃から時々ふと「安楽死」について考えるようになってしまった。


     【 飼い主の問題 】

 その時は本気でポッキーを安楽死させようなどとは思っていなかったが、将来を悲観すると時々頭をよぎるのだ。
 犬や猫の安楽死が「安楽」ではないことは知っていたので、いくら噛み癖が酷くて怖くて痛くて苦しくて、と言ってもポッキーが二酸化炭素ガスで窒息して苦しみながら死んでいくことを想像すると、そんなことは出来る訳がなかった。
 しかしこのような事を自分が考えるようになっただけでも、自分という人間性にショックだった。いつもネット上の『犬の十戒』を眺めては涙を流し、気を取り戻そうとしていた。

 この時期私は胃に穴が開くのでは?と思うくらい(しかし元来丈夫な身体なので開かなかったが)いろいろなことを考え、悩んだ。
 ポッキーのことを考えるのだが、それをつきつめていくと自分自身の内面の問題に行き着くのだ。

 私は子供の頃から今まで、犬、鳥、ハムスターなど数は少ないが何かしらペットを飼っていて、大の動物好きだった。なので不治の病で痛みに苦しんでいるならともかく、「安楽死」など「飼い犬に手を噛まれる」同様私の中にはありえない言葉だった。変な話、何かの過ちや激情で私が誰か人間を殺すことは絶対にない、とは言い切れないけれど、私が自分で動物を殺す、ということは考えられないし、私にはありえないことだった・・・はずだった。
 しかしポッキーが私たちのせいでこうなってしまって、昔は絶対に考えられなかった事を今は考えている、考えられている。
 自分自身に対してショックだった。

 ポッキーに対しての接し方を振り返った。
 比較的物事を覚えることが早く、いい子にしたい、いい子のはずだ、と思うあまり、いつしか褒めることを忘れ、いけない事や悪いことをすると「させないようにする」よりも「したら叱る」、そして出来るのが当たり前、出来ないと「何故出来ないの?」という感覚になっていたようだった。
 今ではご褒美用におやつもたくさん用意して使っているが(普通はおやつがなくても言葉や撫でることがご褒美になるのだろうが、ウチにはそれが出来ないので)、去年末まではご褒美用のおやつなど家には無かった。

 どうして上手に褒めて育てられなかったのだろう?
 上手に褒めて育てることが出来なかった私は冷たい人間なのだろうか?
 私には何が余計で、何が足りなかったのだろう?

 褒めないで叱りすぎた、と考えた時、私は私自身も子供の頃親にそんな風にしつけられた気がする、と思った。
 今子供の虐待が社会問題になっているが、自分も親に虐待されて育った親は、知らず知らずに自分もまた子供を虐待してしまうことがあるらしい。
 私も自分の半生を振り返ってみて、親に虐待されたことは全くないけれど、叱られた記憶はたくさんあるけれど、褒められた経験を思い出せなかった。私もほんの子供の頃は、勉強や大人の言うことをきくことがよく出来る子供だったのだが、よく考えるとその事で親に褒められた記憶がないのだ。
 姉には、姉が叱られている時に私のことを引き合いに出して私のことを褒めていたらしいが、私が直接褒められた記憶がないのだ。テストの点や通信簿が良くても、親の言うことを守っても、出来るのが当たり前だった。それと関係があるとは言えないのだが、私は近所でも評判の「厳しい家」で成長するにつれて、親に反抗するようになり・・やっぱりいい歳した大人になっても良い親子関係は築けなかった。
 それを考えた時「私もポッキーも同じか?!」と思い、もしかしたら私は自分がされたことを知らず知らずにポッキーにしていたのでは、と思ってガク然とした。
 私は反面教師に出来る、と思っていたのに・・・。

 私は「権勢症候群」を心配し、いろいろなしつけの情報を集め、自分なりに勉強していたつもりだった。
 ポッキーをいい子にするために、良かれと思ってしつけていた。
 しかしポッキーは最悪な結果となり、私の今までの勉強や努力は一体何だったのだろう?という虚無感。

 「噛む犬」になるなんてそうそうない事なのに、私たちは、私は、何がいけなかったのだろう?
 何が足りなく、何が余計で、何が違うのだろう?他のたくさんの「噛まない犬がいる家」と「噛む犬がいるウチ」は雲泥の差だけれど、私たちは何がそうなるほど違うのだろうか?ほかの家と雲泥の差な内容のしつけはしていないはずなのに。
 ポッキー中心の我が家で、いつもポッキーのことを第一に考え、私なりに本当にかわいがって大切に育ててきたつもりだったのに。
 何故?何故?
という疑問と
 それはきっと私という人間に何か欠陥があるからだ
と自己嫌悪を繰り返すのだった。

 ちょうどこの頃の私は仕事の方でも忙しく、でも疲れて帰って来ても玄関に入るのが怖く、家にいても気が休まらず、いつもポッキーに神経を尖らせていてた。またpapaよりも私の方が噛まれる危険が少ないために私がポッキーの多くの世話をしなければならず、心身ともに疲れ切っていた。そのため始終papaとは些細なことでケンカになり、ポッキーへの対応にしてもpapaとはどこか方針や心構えがズレているようで口論ばかりしていた。papaだって私が家にいない時には長時間散歩に行ってくれたり世話もしてくれ、papaなりに頑張ってくれてはいたのだが。
 でも私ひとりだけがいろいろと頑張っているような気がして、孤独で、悲しくて、苦しかった。



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