縄文時代の世界観 梅原 猛

(梅原 猛 三方町縄文博物館館長)


   縄文時代の人達がどのような生活をしていたか。

つまり、何を食べ、何を着、どのような社会生活をしたかということは、考古学にとってある程度、推察できます。

  この縄文博物館は鳥浜貝塚の発掘を記念して作られたものでありますが、この鳥浜貝塚は縄文時代の解明に画期的な一ページを刻んだものでありました。

  この鳥浜貝塚は縄文前期を主体とした遺跡ありますが、そこから見事な木製品が出てまいりました。縄文時代の遺物として土器は大変有名でありますが、木器は腐り易く、多くの遺跡において殆ど残っておりません。しかし、この貝塚は湿地帯にありましたので、幸い数千年にわたる木器がそのまま残ったのでございました。そして又、縄文時代の舟も何艘か出土おります。

  この鳥浜貝塚の発掘によりまして、縄文文化は土器文化のみではなく、木器文化でもあり、しかも山の文化のみではなく、海の文化でもあることが明らかになったわけです。

  このように物資生活におきましては考古学によってある程度明らかにすることができます。しかし、精神生活においては考古学だけではとても明らかにすることが出来ません。考古学においては、物資生活だけで説明できないものは何時も宗教遺跡として片付けられるのであります。

  その宗教が一体どのような宗教であったかということは、物質についての学問である考古学ではあまり論ぜられないのが常であります。従って、縄文時代の人間がどのように世界というものを理解したか、そして、どのように宗教を持っていたかということは、物質の学問であることにこだわる考古学者はあまり論じてはおりません。

 私は考古学者ではなくて哲学者であります。哲学者というものは人間の精神生活に深い関心をもつ者です。今の人間がどのように生きたらよいか。どのような思想をもって現代の世界に臨んだらよいのかということをもっぱら研究している人間なのです。

  そういう哲学者は過去の世界を論ずるにも過去の人間がどのような世界観を持つかと言うことに最も関心をもちます。

  世界観を決めるのは宗教であると言ってもよいのですが、その当時の人間が如何なる宗教をもったかということが哲学者の私の一番の関心事であります。それゆえ私は縄文時代に深い関心を持っていますが、そこで一番問題となるのは縄文人の世界観と言うことです。

  縄文人がどのような思いで生きていたか。彼らは如何なる宗教を持っていたか。それが私の関心事であります。

 そういうわけでありまして、私は縄文人の世界観について今日はお話したいと思います。これはまだ日本においては十分答えられていない、と言うよりは問われていないことではないかと思います。

  この、まだ解決されていないというよりは問われてもいない問題に答えを与えるのは容易なことではありません。

  今日ここで皆さんの前にはっきり私が答えを出せるとは思いませんが、おおよその見当だけはつけておきたいと思います。いつか近い将来に、この問題についての詳細で正確な答えを私なりに出したいと思います。

 このような、まだ十分答えられていない問題に答えるにはその方法が大切であります。新しい学問が出来るには新しい方法が必要であります。今までと同じよう見方をしていたら未解決の問題に答えがでるはずはありません。新しい方法によって未解決の問題にもはっきりした答えが出るわけです。

  この未解決の問題を解決する私の学問の方法について、まずお話をしなければならないと思います。

  私は哲学者であります。哲学と言うものは、先に申しましたように「人生如何に生きるべきか」を問う学問でありますが、同時にあらゆる学問を総合する学問であります。それは部分知ではなくして全体知の学問であります。それゆえ、今この問題を明らかにするために多くの知を総合する必要があります。

  多くの知の総合によって初めて、この問題に対する回答の手掛かりを得ることが出来ると思います。私はこの問題を考えるに当たって幾つかの学問が必要だと思います。それについて論じたいと思います。

  勿論、このような問題を明らかにするためには考古学が必要でありますが、考古学のみではこのような問題に対する回答が得られるとは思いません。その問題を考えるために必要な学問を考えていきたいと思います。

1、               自然人類学

自然人類学というものは人類の身体的特徴に関する学問であります。ここで問題となっている縄文人につきましても自然人類学はたいへん興味深い学説を提供しています。

2                        文化人類学あるいは民俗学

人間はただ肉体的存在ではありません。それは精神的な存在でもあり、その意味で文化をもっております。縄文時代の文化がどんなものであるか。文化は習俗というかたちで後世にのこります。この習俗を捉えるのには民俗学であります。

  日本の各地には様々な伝承が残っています。その伝承のなかの遠く縄文時代まで遡る伝承もあります。その伝承を手掛かりにして縄文時代の文化、ひいては思想や宗教をも類推することは可能であります。

    3、  文献歴史学

日本には八世紀に作られた「古事記」「日本書紀」という歴史書があります。「古事記」「日本書紀」は遠い過去のものとして神話を語ります。神話は大和朝廷ができた以前の昔の物語です。縄文時代は大和朝廷ができた時代を遡ること、はなはだ遠いとはいえ、縄文時代にまで遡るような遠い遠い過去の記憶が含まれていないとは言い切れません。

  不幸にして日本の歴史学者、とくに進歩的と称する歴史学者は戦後、津田左右吉の「応神天皇以前の記紀の記事は、六世紀の大和朝廷の支配者たちが自己の権力を合理化するための全くのフィックションだ」という説を採用したために、記紀の記述を全く歴史的事実として取り上げようといたしません。この状況はソクラテスやイエス・キリストの存在も否定した、十九世紀の啓蒙史学の日本版と言うべきものですが、二十世紀の歴史学は伝承の中にも真実が含まれているという立場をとります。例えばバイブルにも遠い中東地方の歴史が語られていることが考古学によっても明らかにされました。

  日本の記紀にも遠い日本の、ひょっとしたら縄文時代にまで遡るような日本の祖先の記憶が含まれているかも知れません。私は、縄文人と世界観を考えるにあたって、記紀をも利用すべきであると考えております。

4、               考古学

勿論、考古学は縄文人の世界観を明らかにするためは何よりも有用な学問であります。そして最近、新しい縄文時代の遺跡が次から次へと発掘されています。そのような縄文時代の発掘の進展と共に、縄文時代の物質生活はほぼ明らかになったといえます。

  今まで狩猟採集をし、流浪していて、文化の低いと考えられていた縄文人が実は定着していて、しかも可也高い精神文化を持っていたらしいということは明らかになってまいりました。縄文人の世界観を考えるにあたって何よりも考古学から学ばねばなりません。考古的な遺跡に矛盾するような学説は採るべきではありません。

  それに加えて最近、この縄文博物館の設立に大変大きな貢献をした安田喜憲君などによる環境考古学も著しく発展しております。環境考古学は当時の植生が如何なるものであったかなどを科学的に解明するものでありまして、このような環境考古学の補助なしには考古学の発展は不可能と言うことであります。

 以上の四つの学問がこの問題解決をするためにどうしても必要な学問でありますが、その他に私は一つの学問を付け加えたいと思います。

5、               アイヌ・沖縄学

  私は縄文文化を日本の基層文化と考えます。基層文化というものは日本文化の根幹をなしていて、今もなお大きな影響をもっている文化を言います。日本の歴史を考えると、縄文時代が始まったのは一万三千年ほど前に縄文土器というものが使われます。縄文文化は狩猟採集文化であります。

  狩猟採集と言うのは人類の古い文化で、生産力の基礎を狩猟、つまり獣をとったり魚をとったりすることと同時に、採集、即ち木の実や草、山菜を採り、それを主な食料とする文化であります。人類は長い間、このような狩猟採集生活においては人類は自然の一員で動植物と仲良く共存していたと言えます。

  しかし、人類は約一万三千年ほど前から農業を始めました。つまり、畑を作り、田を作り、そこに穀物を撒き、その穀物を主要な食料とすることが始まりました。大体ユーラシア大陸の西側では小麦農業が始まったのは一万二千年前であるといわれます。ユーラシア大陸の東側、中国において稲作農業が始まったのはそれより少し前、一万三千年ごろであることが最近明らかになってまいりました。

  そして、西方においては牧畜が小麦農業とともに盛んになりました。農業は植物及び動物を人間の意思によって栽培し飼育する生産方法であると言えます。そして、東側つまり中国におきましては、牧畜に代わって興ったのが養蚕であります。西側の小麦農業・牧畜の文明に対して、東側は稲作・養蚕の文明であります。

  ところが、中国大陸、長江の中流におきましてこのような稲作農業が始まったとほぼ同じ頃に、どういうわけかこの日本列島におきまして縄文時代が始まり、土器が作られるようになりました。縄文文化は土器を伴った狩猟採集文化としてもはなはだ発展した文化であると言えます。

  しかしそのような文化があるせいか、この日本列島においては農業の輸入がはなはだ遅れて、約二千年前に稲作農業が日本に入ったわけであります。最近、稲作農業が日本に輸入された弥生時代をさらに数百年前置く見解が主張されていますが、数百年前に置いたとしても稲作農業の渡来は、はなはだ遅れたことになります。

  そうすると、土器を伴った狩猟採集文化即ち縄文文化は約一万年の間、日本に続いているのです。そして、稲作文化が入ってきたのは約二千年前、どんなに古く見積もっても約三千年前であります。縄文時代即ち狩猟採集時代は、稲作農業時代即ち弥生時代から江戸時代までの二千年或いは二千五百年の四、五倍であります。

  この一万年間という長い間に、私は、日本の基層文化がこしらえられ、このような文化が後の文化に大きく影響を与えていると思われます。

  民俗学者の柳田國男は大変面白いことを言っております。それは山の神が田植えと共に森山から田にやってきて、田の神となり、稲刈りが済むと、また山に帰って山の神になるということです。

  縄文の神様である山の神が、田植えと共に田の神即ち弥生の神様となり、また稲刈りが済むと山に帰って、もとのような縄文の神様になるというわけです。

  私は日本の神様には必ず森があることに注意したいと思います。寺は必ずしも森を必要としません。しかし、神社には必ず森があります。これは日本において神様のいるところは必ず森があります。これは日本において神様のいるところは必ず森でなくてはならないということを意味します。これは縄文の神と弥生の神との連続性を示すものであります。

  神道というものはこの縄文の山の神・森の神の崇拝にもとを発するものであると思います。そして、弥生時代以後に山の神・森の神が田の神にもなるわけでありますが、このことは縄文の神が弥生時代にも生き残り、現在の日本人にも神として崇拝されていることを示すものであります

  さて、縄文文化が日本の基層文化であるとするならば、このような文化を最もよく保全しているのは一体どのような人間でありましょうか。先に申しましたように縄文人は狩猟採集生活をしています。

  彼らは稲作農業を拒否しています。日本人の大部分はこのような大陸から渡来した稲作農業を採用しました。そのような稲作農業を根幹として弥生時代ができ、そしてその上に立った権力がいわゆる大和朝廷であります。

  しかし、この大和朝廷の儀礼に逆らい、稲作農業を採用しなかった人達がいました。それはエゾ(蝦夷)といわれる北方の民であります。東夷(あずまえびす)というようにエゾは日本の東半分にいたわけであります。やがてエゾは追われて、東北地方にのみ居住しましたが、ついに東北地方からも追われて、江戸時代には北海道だけに住みます。

  このエゾの子孫がアイヌであると考えられます。とすれば、このアイヌの人達こそ狩猟採集文明、つまり日本の伝統を堅く守ってきた縄文人の遺民であると言わなくてはなりません。

  とすれば、縄文人の世界観を考える中ではアイヌの人達の世界観が最も参考になるのではないでしょうか。アイヌの人達は宗教をはなはだ大切にします。このアイヌの宗教の中に縄文人の宗教を解くカギが含まれていると考えるべきではないでしょうか。

  縄文の遺民はアイヌの人ばかりではありません。琉球即ち沖縄の人もやはり縄文の遺民と考えなくてはならないと思います。沖縄も稲作農業に向かない土地でありまして、沖縄に稲作農業が本当に定着したのは鎌倉時代以後であると言われます。

  アイヌと沖縄に縄文文化は強く残ったと考え、これらの文化を手掛かりとしながら縄文時代の文化を考えるべきではないでしょうか。

  自然人類学において大変興味深い説があります。自然人類学の埴原和郎氏によれば、モンゴロイド即ち黄色人種に二種類あるということです。一つは古モンゴロイドと言われるものです。それは昔ながらのモンゴロイドの身体的特徴をもっている人間であります。埴原氏によれば、それは目が大きく、二皮眼で、鼻は高く、口は大きく、顔の凹凸が深く、しかも胴体に対して手足は長い。毛深くて、しかもワキガのある人が多いということです。それに対して、新モンゴロイドという人類があります。

  これは今から四万年から三万年前に地球が大変寒冷となり、アジアの北に生活する人がその寒冷地に適応するために身体的変化を遂げたということです。外気に当たる面積を少なくするために顔の凹凸を少なくし、目を小さく、鼻を低く、口も小さくした。そして、髭があると事故を起こしやすいので髭も少なくなり、表面積の多い手足を短くし、胴体を長くしたというわけです。

  つまりそういう寒冷地に適応した肉体的特徴をもった人類が生き残り、モンゴロイドは大きな身体的変化を蒙ったということであります。これはちょっと信じられないような説ですが、自然人類学の説として間違いない説だと言われます。

  日本人を見ていると、アイヌ人に、そして次に沖縄人に、そしてその次には東北の人や離れ島に住む人たちに古モンゴロイド的体質の人が多く、反対に近畿を中心として平野部に住む人に新モンゴロイド的な身体的特徴を示した人が多いということです。言われてみると大変思い当たるところが多いように思われます。そして確かに、たとえば関西の人にはそういう顔の凹凸が少ない人が多いようです。

  「源氏物語絵巻」などで美人とされる女性は、目は細く、鼻も小さく、口も小さい。あまり顔の凹凸は無いけれど、しかし、整った顔の女性であります。

  自然人類学において縄文人の人種的特徴を最も所有しているのがアイヌの人たちであるとすれば、アイヌ人こそ、やはり混血の進んだ日本人の中で最も縄文人の身体的特徴を保存していると言えます。こういう人たちの宗教や文化を参考にしながら縄文文化を考えていくことによって、縄文文化の本質が明らかになるのではないでしょうか。

  アイヌの人たちの思想や宗教ということを考えながら、縄文時代の考古学的な事実を考えたいと思います。縄文文化と言うものは一万三千年前から始まりますが、これが大いに栄えたのは縄文中期であります。縄文中期において最も優れた土器を産出するのは諏訪湖の周辺であります。

  この、今から五千年から四千年前、縄文中期と言われる時代においては諏訪地方が日本の文化の中心地方であったと思われます。この諏訪地方で作られた土器、例えば井戸尻考古館にある土器を見ますと、模様の中心はヘビ、特にマムシであると思います。

  ここでマムシが神として恐れられ崇められたことがはっきりわかるのです。マムシの崇拝ということがこの時代の宗教であったことは間違いありません。なぜマムシが神として崇拝されたのでありましょうか。

 日本人にとって神は人間の力を遥かに超えた強い力を持つものであります。それはまず、災害として、その恐るべき力を現すのであります。例えば、オオカミは大きな神、或いは真神と言われますが、それは人間を食い殺すからであります。雷もまた稲妻によって人を殺すので、神也(神鳴)、或いは鳴り響く神として崇拝されるわけであります。

   ヘビもとくに毒ヘビはオオカミと言って怖れられ崇拝されます。

 このように、人間を殺すような力を持ったものを祀ることによって、かえって人間を守る神にしようとするのが日本の神道の本質であると私は思います。日本では祟る(たたる)神を祀ることによって守り神にするところに日本の神道の本質があると私は考えます。例えば、菅原道真は無実の罪によって流罪になり、朝廷を恨み、その恨みをはらすために様々な災害や疫病を引き起こす祟り神でありました。その祟り神の害を防ぎ、かえって自家の守り神にしょうとしました。

  それが、神の中では日本で一番崇拝されている天神様の起源であります。

  諏訪地方の勝坂式と言われる縄文式の土器は素晴らしいエネルギーにあふれていますが、そこにはそのようなヘビの崇拝があったと思います。そして、そのような土器は信濃川を下って、新潟県の十日町などの見事な火焔土器になりました。これはまさに岡本太郎の言う「芸術の爆発」であります。

  縄文土器を弥生土器と比べると大きな差異があります。縄文土器には土器全面に紋様があります。しかし、弥生土器はそのような紋様は殆ど無く、例えば口の辺りとか壺の首のあたりにわずかな線があるのみです。縄文土器には空間の恐怖というようなものがあるように思います。

  何も紋様のないところには悪霊が入ってくるのを怖れるかのように全面に紋様をつけます。特に口の部分、あるいは底の部分、つまり外部から悪霊が入りやすいところには非常にダイナミックな紋様をつけます。

  私はそれを見ているとアイヌの人の着ていた衣服のことを考えないわけにはいきません。アイヌの人たちの衣服には襟の辺り、あるいは袖のあたり、これはやはり、そこから悪霊が入ってくるのを防ぐためでありましょう。

  縄文土器にもそのような紋様があります。それはやはり悪霊の入るのを防ぐためだと思われます。縄文は木の霊を紋にしたのであります。又、貝殻、主としてハイ貝の紋をつけたものもありますが、これらの木或いは貝には強い霊力があり、その霊力によって下界からの悪霊の侵入を防ぐためであると思います。

  弥生時代にはこのような紋様のない土器が作られますが、それはそういう宇宙に瀰漫(びまん)する悪霊に対する恐怖を克服した、ある種の合理的信仰によるものであると私は思います。

  縄文時代の文化的遺産として、土器と共に重要なのは土偶であります。土偶には、ハート形土偶、ミミズク形土偶、遮光器土偶とか、色々な種類がありますが、そこには共通の幾つかの特徴があると思います。

1 土偶はすべて成年の女性であり、妊娠していること

  土偶は全て女性であることは間違いありません。男性の土偶は決して存在しません。そして、女性であっても子供の土偶や老婆の土偶はありません。その多くはお腹の大きい女性であります。はっきり妊娠が目立つ女性もありますし、目立たない女性もありますが、すべて妊娠していると見て差し支えありません。

2        土偶はすべて異様な顔をしている

 ハート形、ミミズク形、遮光器土偶など、土偶の顔ははなはだ大きな違いがあります。しかし、異様な顔をしていることは否定できません。遮光器土偶というものは土偶が大きな遮光器のような眼窩を持っていることです。

  しかし、そのような眼窩にもかかわらず、遮光器土偶においても瞼は堅く閉じられています。このように、形ははなはだ違っているのに、しかも全てが異様な顔をしているのは共通の特徴であります。

3        土偶には必ず胸のところから腹のところまで裂かれた縦一文字の傷がある

その傷は深くえぐられている場合と盛り上がっている場合がありますが、必ずこの縦一文字の線があることが土偶の特徴であります。

4        土偶は多く破壊されている

土偶は完全なかたちでは見つかったものはありません。全ての土偶は必ず破壊されていて、手と足がバラバラであります。博物館の中にはそれが修復されているものもありますが、本来、土偶はバラバラにされるべき運命にあったものであると思われます。

5        土偶には丁寧に埋葬されたものがある

土偶は色々なかたちで見つかっていますが、その中にはちょうど人間の墓のごとく、土抗が作られて、丁寧に埋葬されたものもあります。これは必ずしも多くの例ではありませんが、この少数といえども丁寧に埋葬されたものがあることは大変大切なことです。

  土偶は以上のような五つの特徴を持ちますが、私には長い間、この土偶の正体がわかりませんでした。だいたい縄文時代には人間を写実したような像がありませんけれども、それは、写実をしたならばその像に人間が乗り移り、その人間が支配されるという考え方によるものと思われます。

  あるヨーロッパ人のアイヌの研究者が、それまでアイヌ人の人たちとの間に大変親密な関係を作ったのに、ひとたび写真を見せたら、その関係が大変険悪になったことを報告しています。

  写真はその人の魂を奪って、その人を自由にするとアイヌの社会では思われていたからです。私は鏡が怖れられたのはそのような縄文人の恐怖によると思っていますが、縄文時代に獣の像はありますが人間の像がないことは、こういうような恐れと深く関係しているのであります。

 しかし、とすれば一体この像は何か。私は長い間それを考えていまして、そして、この謎は今までどのような学者によっても解明されていません。それゆえ、10年程ずっと私はこの問題を考えてきました。

  しかし、アイヌのばあちゃんとの対話によって長い間の私の疑問が解けました。そのばあちゃんは浦川はる というばあちゃんです。

   ばあちゃんの話によれば17歳までアイヌ語を使う社会で育ったということですが、17歳のときに奉公にでて、それから日本語をしゃべるようになったということです。久保寺逸彦さんというアイヌ学者がばあちゃんに会って、アイヌのことを聞いたところ、ばあちゃんは昔のことを思い出したというわけであります。

  藤村久和さんという、私がアイヌのことを教えられた学者がいますが、この藤村さんとも親しくて、このばあちゃんは藤村さんへのアイヌの知識の提供者であったわけです。私も藤村さんとともにはるばるばあちゃんを訪れ、色々なアイヌのことを聞きました。

   ある日、私はばあちゃんに次のようなことを訊きました。「ばあちゃん、アイヌの小さい子どもが死ぬとどのように葬られますか」と。「それはなあ、小さい子どもはふつうの人のように葬られないよ。

  アイヌでは全ての人はご先祖さんが又あの世からこの世へ帰って来たと考えるのだよ。ご先祖さんが遠い遠いあの世から帰ってきたのに、一年や二年や三年で死んで、またあの世へ行くのは可哀想だと考えて、壺に入れて家の入り口のところへ埋めるんだ。人がよく通るところへ、次の子になって生まれてくれという思いで逆さに埋めるんだよ」とばあちゃんは言いました。

  それを聞いて私は、縄文時代において子どもが壺に入れられて家の入り口に逆さに埋められているのを思い出しました。恐らくそれは、はるばると遠いあの世から帰ってきた祖先の霊に申し訳ない、その霊に再び母の胎内に帰って次の子になって生まれて来いという願いゆえであるに違いない。

  入り口に埋めるのは、人のよく踏むところ、即ちセックス(性)をよくして、次の子になって生まれて来いという願いを表すものであろうと思ったのです。

 私は縄文の秘密がアイヌの風習によって説明されるのに勢いを得て、「それでは妊婦が死んだときにはどのように葬られるのか」とばあちゃんに訊いたのです。するとばあちゃんは「ああ、それは大変だよ、あまり人には言えないけれど、普通の葬式をして、一旦妊婦を埋める。しかし、翌日、そういう霊を司っている婆さんが墓へ行って妊婦の亡骸を掘り出し、妊婦の腹を切って胎児を取り出し、胎児を妊婦に抱かせて葬るんだ。これは大変なことで、半端な人間に語っちゃいけないとされているんだけれど」とばあちゃんは言いました。

 このばあちゃんの言葉によって私は積年の謎を解くことができました。あの土偶は実は生きている女性の顔ではないのではないか。あれは胎児をお腹に宿しながら死んだ女性であり、そのような、死んだ女性があのように異様な顔をしているのではないか。そう考えると私には土偶を構成する五つの条件が全て解けるように思われたのです。

 「1 土偶はすべて妊娠した女性である」という条件、及び「2、土偶は全て異様な顔をしている」という条件はそれによってすっかり明らかになります。この異様な顔をしている女性は目は呆然と見開いているか堅く閉じられているか、どちらかです。

  いずれも死んだ人間の顔であると見て差し支えないでしょう。遮光器土偶のような大きな眼窩がついているのはアイヌのユーカラにあるように目のある死人というのは再生可能な死人であり、目のない死人というのは再生不可能な死人であり、その死んだ女性の再生が可能であるように大きな眼窩をつけたものでしょう。しかしその目が堅く閉じられているのは死人としては当然でしょう。

 そして、「3、全ての土偶が、バラバラに壊されている」という理由も明白です。アイヌに残っている信仰においても、日本に残っている信仰においても、この世とあの世はあべこべであり、この世で完全なことはあの世で不完全であり、この世で不完全なものはあの世で完全であり、完全な人間としてあの世へ真理を送るために、この世では土偶の体を壊してバラバラにしたものでしょう。今の日本の葬儀においても、死人に供えたものは茶碗でも割って供えることが行われています。

  又、死者のものを火で焼くのも、あの世に完全なものを送ろうとする願いによるものでしょう。

 4、土偶にはすべて縦一文字の傷がある」ということも、まさにこの、アイヌに最近まで行われていた妊婦を葬る意識を示すものでしょう。腹を断って胎児を取り出し、胎児を妊婦に持たせて、親子共にあの世へ送る。これは胎児を宿しながら死んだ女性への深い愛情であるに違いありません。

 土偶には葬られているというものもあるということは、まさに土偶がこのような妊婦を葬る儀式として使われたことを示すものでありましょう。この、実際に葬られた妊婦と胎児の墓と、丁重に葬られた土偶の葬り場との関係はよくわからないが、多分、そのような葬儀の一端として使われたものであるに違いありません。

 こうしてみると、私は土偶は胎児を宿したまま死んだ妊婦の葬儀のために用いられたものと考えざるを得ませんが、妊婦の腹の中に閉じこめられた退治の霊こそ最も恐れられたものであるに違いないのです。祖先の霊がわざわざ、はるか遠いあの世からこの世に帰ってきた。

  しかも妊婦が死んで、妊婦の腹の中に閉じ込められた胎児の霊こそ最も恐れられたものであるに違いないのです。祖先の霊がわざわざ、はるか遠いあの世からこの世に帰ってきた。しかも妊婦が死んで、妊婦の腹の中に閉じ込められたままであるとすれば、胎児の霊はもはやあの世へ帰れない。それはおそらく恐るべき祟りを生ずるに違いないのです。

  それで、あえて妊婦の腹を断ち切って、その胎児の霊を妊婦に抱かせ、妊婦と共に安らかに遠いあの世へ旅立たせるようという愛情によって、土偶は作られたに違いない。

 私はそのような説をある雑誌に発表すると、福島県の或人から、「そのような、胎児を妊婦から取り出して葬る例が明治時代に福島県にあった」ということを知らせていただきました。

  それを読むと、福島県には妊婦が死ぬと胎児を取り出し、藁人形を作り、妊婦と胎児を藁人形と一緒に葬る習慣があり、それが死体遺棄罪に当たるというかたちで刑事事件になった例があることがわかったのです。その藁人形はまさに土偶の代わりをするものではないか。

 土偶はこのようなものである明らかになりましたが、こうしてみれば縄文時代のいわゆる宗教的儀式というものが、ほぼこのような理論で説明できると私は思うのです。

  ストーンサークルはサークル状に並べられた石の群れの集合体でありましょう。一つのサークルには縦の直立した石を横に並べられた石が囲んでいるという形をとるものが多い。

  そして、そのような石の塊が又楕円形に並べられる。それは何であるか。私は、それはセックスの行為を示すものであり、直立した石は男根であり、周囲の横に円形に並べられた石は女陰であると思うのです。まさに男根が女陰に挿入されている性行為そのものを表したものであると思う。

  そして、そのような性行為を表した石がサークル状に見事に並んでいる。そのサークルの中には、その下に墓が作られたものがあり、それは死体の頭のところに壺が逆さに置かれ、その壺の底には穴が開いている。それは死体から霊が天に昇り、あの世に行くのを示しているが、ストーンサークルはあの世から祖先の霊がセックスによって帰ってくることを示すものでしょう。それは生死の循環を示すものであると私は考えます。

縄文人はそのように、人間ばかりか、全てのものの霊は死ねば必ず天の一角にあるあの世へ行く。そして、あの世でしばらくの生活を行って、この世へ帰ってくると考えるのです。日本の至るところにある貝塚、その貝塚というものは文字通り、貝の霊を墓場である。貝は人間に身を与えるために、人間の世界に訪れたマラプト(客人)です。それをアイヌ語でシマンゲというのです。それが日本語ではミヤゲとなります。

  即ち、ミヤゲをもってやってきて、人間に身を与え、あの世へ帰って行くものだと考えられたのであります。そして、あの世へ帰った霊は、人間に手厚く扱われたことをあの世の貝に伝え、又翌年それでは俺も行くかと貝がやってきて、どっさり獲れることを祈って作られたものであると私は思います。

縄文社会においては人間は特別なものではありませんでした。それは生きとし生けるものと本来同じものであり、本来、生きとし生けるものと共生すべきものでありました。

  そして、生きとし生けるものはすべて、この世とあの世の間の無限の循環を繰り返す。

 この北陸地方に特殊な縄文時代の遺跡があります。それはウッド・サークルの遺跡あります。ウッド・サークルの遺跡の主なものは金沢近郊のチカモリ遺跡、能登の真脇遺跡、そして、糸魚川の近くの寺地遺跡です。それは木をサークル状に並べる遺跡です。特に真脇遺跡はその中でも最も巨大な遺跡です。堅い、腐りにくいクワの木を半分に割って、10本のヒノキの丸い方を内にして並べたものであります。

  その柱はいったい、何を意味するでしょうか。私はやはり、柱は天と地を結ぶもの、神が柱を下って人間のところへやってきて、人間も柱を上がって神のところへ行く。柱はそういう天と地、神と人間を媒介するものであると思います。これらの遺跡には柱を何年かごとに立て替えた跡があります。真脇遺跡からは、無数のイルカの死骸などが出てきました。そのサークル状に囲まれた空間は神秘的な儀式が行われる場所であったに違いないのです。

  それは天と地を結ぶ遺跡、神と人間を結ぶ神事の場所であったに違いないのです。そのような柱の遺跡が、諏訪神社の
6年に一回、巨大な柱を建てる儀式や、20年に一回、お遷宮をする伊勢神宮の神事と結び付いているに違いないと思います。そこには世界を循環で考える方があります。

 このように考えますと、縄文時代の世界観は生きとし生けるものとの共存の世界観であり、そして生きとし生けるものがすべて、この世とあの世の間を循環する世界観であるということがわかります。

  この共存の世界観は、近代の世界観である、人間が一方的に生きとし生けるものを支配し、その支配することが人間とって幸福であり進歩であるという近代の人間中心的な進歩史観とは全く違います。

  この「生命の永久の循環」という考え方は、生命と言うものを遺伝子と言い換えれば、まさに現代の科学の解明した世界観であり、これこそ今後の人類に必要な世界観であります。

 このように考えると、縄文人の世界観は決して過去の世界観ではなくして、むしろ我々が取り戻さなくてはならない、未来の人類が生きていくために是非必要な世界観であると思います。

  それゆえに、この縄文博物館は単なる過去を研究する博物館ではなく、現代に警鐘を鳴らし、未来に向かっての新しい世界観を提供するような役目を果たさなければならないと思います。

福井県立若狭歴史民俗資料館・2002年

(「縄文人の世界観」・日本人の原像を求めて  三方町縄文博物館館長

梅原 猛)
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