縄文の海へ

 陸上動物である人間にとり、海を越えることは一大革命を意味した。未知の世界に船出するための技術と陸地発見の目算、そして勇気がどの程度あったとき、人は決断を下したか。

 遥か一万年以上も前の縄文時代、人々は数百キロメートル以上離れた海を越えた。まさかと思うのは、縄文の技術を見下す現代人のおごりなのかもしれない。

 海を越えた縄文人の知恵と技術を考えることは、われわれに探求心豊かな想像力を与えてくれる。

 縄文時代、船が航海に利用されたことは相違ない、しかし、残念ながら証拠となる木は朽ちて残ることはあまりない。縄文前期の鳥浜貝塚は低湿地であったため、木造船やツバキの木製かんざしなどがしゅつどした。

 

 縄文時代の遺跡から出土した船は全てくり舟である。くり舟は一本の木をくり貫いて作られたものである。舟底部からの高さはせいぜい1mであり、これでは外洋航海に適した構造をもっているとは言いがたい。積載能力も限られており、数人の人間と数百キロ程度の荷物しか運搬できなかったものと思われる。

 くり舟の積載能力と外洋航海の可能性を高めるうえで、どのような技術が用いられたと考えられるだろうか。

 第一は、舷側板をくり舟に継ぎ足して波の影響を軽減する方法である。舷側板を接合する方法には、底部の板と舷側板に孔を開けて紐やロープで固定する方法が考えられる。現代のように船くぎを使う技術は縄文時代には考えにくい。舷側板が船底部に着装されていたとすれば、木に孔が開けられていたはずである。残念ながらそのことを示す証拠は今のところない。舷側板を装着しても、水漏れ防止が重要な技術となる。

 ミクロネシアのカヌーでは、ココヤシの外皮の繊維、サンゴを焼いてつくった「しっくい」、バンノキの幹からでる白い樹液を混ぜたものを隙間に塗り込める。バンノキはクワ科の植物であり、おなじ仲間としてイチジクを想像できる。

 北海道アイヌが三丹交易に用いたイタオマチップと呼ばれる船では、水漏れ防止用に淡水産の水草がパッキングとして利用された。

 鳥浜貝塚からは既に漆を塗った木製品が出土する。漆自体が防水・防湿効果をもつので、船の防水に利用された可能性がある。

 三内丸山ではアスファルトが利用されていたので、案外船に用いられたかもしれない。しかし今のところ、漆を塗り、アスファルトを用いた船材は見つかっていない。

 第二は連結法である。くり船を二艘ないしそれ以上横に連結して安定させ、更に上部に甲板状の板を置くことによって飛躍的に積載能力を高めることができる。この場合も船を連結させるために、船同士を固定するための技術が必要となる。

 甲板用の平板の製作が困難であっても、船を連結する技術はあったのではないか。いわゆるダブル・カヌーの発想である。

 連結した船から予想されるのが言うまでも無く筏の存在である。丸太や竹材を紐などで連結した筏による海上移動が行われた可能性が大変大きい。くり船や舷側板をつけた船などは、波の水抵抗によって破損したり真二つに割れることがある。しかし、筏は波のエネルギーを見事に吸収する柔構造を持っている。

 縄文時代における外洋航海の可能性を船の問題から見ると、船自体の型式や構造について有力なデーターはあまりない。しかし、われわれはあまりにも現代の船や動力に依存した近代的な大型船を念頭において外洋航海を考えていないだろうか。

 縄文時代においても、海を越えた活動が頻繁に行われた。

(秋道 智弥 海洋民俗学 国立民族学博物館教授)

丸木舟

まるきぶね 1本の木をくりぬいてつくった舟。独木舟とも書き、刳舟(くりぶね)ともいう。木を加工して大きな浮力をえる点が筏(いかだ)とは根本的にことなっている。後世に鋼鉄船まで発達する、船の初期形式の典型。現在でもオセアニアや東南アジア、アフリカなど世界各地でみられる。磨製石斧がつかわれる新石器時代になると造舟技術も進歩し、焼き石を木にのせて穴をつくるくりぬき法も併用された。のちに青銅器・鉄器の使用でさらにつくりやすくなった。

丸木舟のカヌー

人類が最初に舟をつくったときは、ほとんどが丸木舟だった。写真は太平洋岸北西部で北アメリカの先住民がつかっていたもので、大木の幹をくりぬいてつくられた。

丸木舟

かつおぶし形にくりぬいた丸木舟は、世界各地でつくられ、現在も使用しているところがある。筏(いかだ)や葦舟などとともにもっとも原初的な舟である。

日本の丸木舟

日本では縄文時代〜鎌倉時代によくつかわれ、全国でこれまでに140隻以上が発掘されている。そのうち縄文時代のものが8割以上を占め、伊豆半島などから伊豆諸島へ丸木舟をつかって渡海するなど、外洋航海にも使用されていたと考えられている。弥生時代になるとくりぬいた材木を組み合わせてつくる「準構造船」が出現、航海距離がのびて大型化もする。しかし、小型の船としては鎌倉時代ごろまで丸木舟が使用されていた。

丸木舟は平面図の形によって大きく2つの形式にわけられる。1つは細長い長方形をした割り竹形で舟の前後は細く加工せず底は原木のままで上部をくりぬいたもの。もう1つはかつおぶし形をしているもので、1本の丸太の上部をくりぬき、舟の前後をけずり、ほそくとがらせたタイプ。割り竹形より発達した形式で、このタイプの発見例は多い。とくに関東地方の縄文時代の舟のほとんどを占め、弥生時代には割り竹形がほとんどといっていいほどみられなくなる。

日本最古の丸木舟は縄文時代前期の福井県鳥浜貝塚と千葉県の加茂遺跡出土のもので、これまでもっとも丸木舟の出土が多かったのは千葉県、とくに九十九里浜沿岸の中小河川流域である。出土地点の標高や出土状態、形、舷側板の大きさなどから、河川・内湾用の舟と沿岸漁業・交易用の舟にわける説がだされている。

鳥浜貝塚 とりはまかいづか 福井県三方上中郡(みかたかみなかぐん)若狭町鳥浜にある縄文時代の低湿地遺跡。三方湖の南、2つの河川が合流する地点で発見された。時期は草創期から前期までで、前期の貝塚がある。

1925(大正14)に河川改修工事で土器などが出土したが調査は実施されず、62(昭和37)の揚水ポンプ場建設時に発掘調査がおこなわれた。86年まで自然科学方面の支援もうけながら調査がつづけられ、遺跡の範囲は東西約60m、南北約100mで、かつての湖につきだした半島状の丘陵に集落がつくられていたことがわかった。

標高0m以下の湿地帯のため、通常ならのこらない木製品、動物遺体、植物種子なども豊富に残存していた。木製品では数隻の丸木舟、50本以上の櫂(かい)、装飾された美麗な弓、石斧の柄()、漆塗りの櫛(くし)などがあり、石製品では石鏃、磨製石斧、打製石斧など、骨角器類にはやす、銛(もり)、針、装飾品などがあった。

さらに、植物の種子類の中に栽培植物であるヒョウタンやエゴマ、ゴボウ類などがあったため、少なくとも縄文時代前期にアジア大陸からこれらの植物類がもたらされた可能性が高まり、縄文農耕論に新たな問題をなげかけた( 縄文文化)

また、河川につきだすように柱穴遺構が発見され、その周辺から糞石(ふんせき)が大量に出土したため、これがトイレではないかと推定され、日本の「トイレ考古学」発祥の遺跡ともなった。資料は現在、県立若狭歴史民俗資料館で公開されている。                          

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