040910 大島一声先生のおことば 輝く命の営み
明るい、豊かな、安心いっぱいの生活を営むには、良きことばを沢山持つことです。
と大島先生は言われて、次のおことばをプレゼントしてくれました。
心とことばは一つ。
良きことばを持つ人は良き命を営む。
ことばは命、まず初めにことば有り。
そう言えば、心からと言うのはことばから始まりますね。
たとえば、ありがたいとか、おかげさまですとか、あるいは退屈だとか、つまんないとか、これらのことばは人の心をちゃんと言っていますよね。
だからね、どのようなことばを持って生きるか、これは一番大事なことだなぁ、と、最近つくづく思うようになりました。
私の人生における大きなテーマの一つに、ことばがあるんですよ。
真から発することばによって、私の命は輝き、はつらつと生きて行く事ができるんです。
私の命は良いことばによって生かされるもんなんですね。いつも良き命のことばに触れて行きたいもんです。
命の営みと言うのはどこから始まるんだろうか?
それは心より始まり、またその心はことばより始まるんですよ。
それでは、その日の人間であると言う、輝く命の営みはどんなことばで始まるんだろうか?
それはなんと言っても、朝一番にいただくことばでしょう。朝は一日のスタートですからね。
大島先生は朝一番にいただくおことばを、いくつかプレゼントしてくれています。
今朝、私が朝目が覚めて、まずすぐにいただいたおことばは、次のおことばでした。
朝、目が覚めてみたら、生きていた。死なずに生きていた。
生きる為の一切の努力を忘れて、眠りこけていた私なのに、目が覚めてみたら生きていた。
宇宙が始まって以来、一度も無かった一番新しい朝のど真ん中に生きていた。
朝の奇蹟、ありがとうナーム合唱。
私の人間としての命の営みは、朝一番、このことばをいただいてスタートしました。
今朝、新たにいただいた命、ありがとうと手を合わせていただきました。
全宇宙が全力をあげて、今朝の私の命を支えてくれました。
この今支えられている私の命は、毛細血管を含め、血液が流れている血管の長さは十万キロに及ぶそうです。
これは、地球を二周りする距離になりますよ。
その、血液が流れている血管のどこが切れても、人間としての営みは直ちに壊れてしまいます。
奇蹟とはどんな事を言うのだろうか?
それは病気が治ったとか、占いが当たったとか、そんな小さな事ではないですよね。
この十万キロに及ぶ血管が、どこも切れることなく、血液が流れ続けて、朝目を覚ますことができた。
これが大奇蹟と言うことではなかろうか?
だから毎日、今朝の大奇蹟ありがとう、と手を合わせて感謝できるんですよ。
昨夜、腹いっぱい食べて、酔うほど飲んで、良い気分で布団に潜り込んで、後は全部おまかせだった。
その間、泌尿器も、消化器も、呼吸器も、ちゃんと休むことなく、
働いてくださって、朝目を覚ますことができたわけですよね。
この朝の、最高の恵みをいただいても、手を合わせることができませんか?
これを感謝できずにおる命は、砂漠に水を注ぐような、砂漠の命と言えるかもしれませんよ。
朝目が覚めて、命に合唱できると言うことは、安心いっぱいで始まる一日なのです。
夜が来て、眠れて、そしてまた朝が来る。こんな幸せがどこにあろうか?
これが判らない人は、それを失った時に、初めて判るんですよ。
全盲になって、やっと見えるありがたさを知った私です。
でも、今は動く手がある、足もある、歩けて物が取れる。
こんなすばらしいいただきものを、人は一生気付かないで行くんですよね。失わないと判らないのです。
私も、目の光を失う前に、次のように言えたらよかったなぁ、
何が無くとも、五体満足で生きてさえおればと思いませんか?とね。
いま、生きている命と言うものの尊さを知っていただきたいんだよね。
今朝、天地いっぱいの恵みをいただいて目が覚めた、この命はいつでも今が天地いっぱいなのです。
いつでも、どこでも、今生かされている命なんです。
これが、目が覚めてみたら生きていた、よかったなぁ、と言うこのことばから、今日の命が始まるわけです。
妻よありがとう、子よありがとう、母よありがとう、と言うことばもここから出てくるもんです。
感謝から始まる一日は安心いっぱいなんですよ。
ここで、朝の喜び、と言う大島先生のおことばがいただけてきます。
今朝もまた尊い命をありがとう。
何物にも変えられない今朝の命がありがたい。
見えて、聞こえて、立てて、歩けて、どこも痛くない。
こんな奇蹟の朝をありがとう、最高の幸せをありがとう。
生きていることはすばらしい。
もったいない、もったいない、今日の命がもったいない。
立てて、歩けて、見えて、聞こえて、
太陽がいっぱい、空気がいっぱい、ご恩がいっぱい、幸せがいっぱい。
私は何も持たずに、この世に生まれ出て来たんですよね。
それ以来、母のお乳を何万回もただ飲みしてきました。
そして、太陽も、空気も、水も、飲み続け、吸い続けてきました。
しかし、母のご恩も、世間のご恩も、太陽のご恩も、皆使い捨てにしてきて、それでもまだ不足を言っている私です。
裸で生まれ、何も持たずに生まれ出て来た私が、今、出て来る家があって、帰る家がある。
人並みに結婚して、子供をもうけて、そして今朝もまた、尊い命をいただけている。
そして立てて、歩けて、手が動く。こんなすばらしい今朝の命を、全宇宙が支えてくれている。
しかし、私はまだありがとう、と言えずに、あいも変わらず不足を言っている。
不足を言いながらそんな自分にはっと気付いて、今朝の奇蹟ありがとう、朝のご挨拶遅れて、ごめんなさい、と言いながら手を合わせる私でした。
いくら恵まれても、ありがとう、と言えない命は砂漠に水を注ぐような、砂漠の命と言えます。
つまり、物は豊かでも心は滅んで、砂漠のようなもんだと言うわけですね。
なぜ、そのようになるのだろうか?
それは、命に生きていないからですと、大島先生は言われて、次のおことばをプレゼントしてくれました。
命は心です。
心に良きことばを持たない人は枯れていく。
命の輝きは良きことばの魂に火を付けた人のみに開かれてくる。
物よりもことばが命には深い営みとなる。
今、私の持っているお金が、仮に何十倍、何百倍に増えたとしても、
私の命の光と言うものは、何も出て来ないんだよね。。
逆に、私の持っているお金が、全部無くなったとしても、
真から生まれてきた、ことばを持っていれば、蓮の花が泥沼から咲くように、
私の命は輝いて行くと、大島先生から教えていただきました。
真から生まれたことばは不滅なんですよ。また、そのことばで、人は何かを感じるもんですね。
現代の人は無感動、無関心と言われますが、本当に鈍感になってしまったのかなぁ?
自然界で山を見ても、花を見ても、無感動、無関心なのでしょうか?そんなことないですよね。
昔の人は、枯葉に一滴の水滴が付いているのを見て、
月も星星もその中に納まっている、広い無限の世界を感じ取った人がいたわけですよ。
また古池にカエルが飛び込み、その水の音を聞いて、
広大無辺の世界を感じ取り、ことばに残した人もいるわけですよね。
私も、真に触れたことばを、沢山いただいて、無限の世界を感じ取って行きたいもんです。
これが、私にとって、一番安心できる世界なんですよ。
山は木を育て、洪水を防ぎ、動物達も育てている。
河は魚たちを育て、田畑に水を送り、その水はまた地下水となり、私の命を支えている。
野原は草木を育て、虫たちの住み家となって、生かし育てている。
空気も、太陽も、大自然も、全力をあげて私の命を支えてくれています。
これだけでも、広く、大きな世界を感じ取れて、手を合わせて感謝したくなりますね。
砂漠の命にならないようにしたいもんです。
しかし残念なことに、会う度に愚痴ばかり言っている人がいるんですよね。
不足や愚痴を言い続けている人は、最後には生きがいも無い、死にがいも無いと、病院のベットで寝ながら、
死ぬまで愚痴や不足を言い続けて行くことになるわけですよ。
これでは、入り口も出口も無い真っ暗闇のせかいですよ。
誰がその闇の世界を造ったのか?
それは、昔から次のことばで伝えられています。
火の車造る大工なけれども
己が造りて、己が乗り行く。
このように言われて来たんですよね。
つまりこれは、皆、自分の業(ごう)だと言うんです。
業(ごう)と言うのは自分の性格みたいなもんです。自分の性格で苦しんでいるわけです。
私も、自分の業(ごう)で泣かされ続けてきましたよ。
自分の生まれ持ってきた性格は変えようがありません。
これだけはどうにもなりませんね。泣かされて、苦しんで、行くしかないわけですよ。
だからね、真に触れたことばが、私には絶対必要ですよ。心は和み、手を合わせることができますからね。
この苦しみから解放させてくれるのは、真から生まれたことばだけなんです。
それにしても、ある物を見て、その見た物を拝める人と、拝めない人がいるんですよね。
拝めない人は、物の影にあるものを見ることができないんですよ。見えない部分を感じ取ってほしいですね。
その物を支えているもの、あるいはその、生かされている場所などを受け取ってほしいです。
受け取れない人は、当然ながら、感謝もできないわけですよ。
拝める人は、その存在に気付いて、すなをにその存在を受け取ります。
自分を支えてくれているものが良く判るんですね。
これが判れば、当然おれが、と我(が)を立てる、言い方はしなくなりますよ。
命の営みにおいては、おれが、と言うのは間違いのようです。
私のこの命は何によって支えられているのかなぁ?
このようなことを感じ取っていると、具体的に、私の生活に現れて来るものは、感謝と懺悔ですね。
つまり、ありがとう、ごめんなさい、と言うことが私の命に営まれてきます。
これが本当に生きている証だといただけているんですよ。
これは、命の潤いであり、生きて悔い無き命であり、死して悔い無き命なんです。
私の人生、これで十分満足されているんです。
これは物や、金などでは、出てくるものではないですね。
体にダイヤモンドを山のようにぶらさげても、わたしの心はかびついてくるのです。
これは不思議と言うほかありませんね。ありがとう、と、ごめんなさい、がなければ、だめなんですよね。
これが無くなったら、私の肉体は立派に維持できても、心は枯れて行くんですよ。
ありがとう、ごめんなさい、はナムの心です。私の命の営みはナムすることによってのみ、輝くんです。
ナムの心を、しっかりといただいて行きたいものです。ナーム合唱。
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