041105 親鸞様のおことば 恩愛、甚だ絶ち難し
恩愛、甚だ絶ち難し、と言うこのおことばは、妻子がおられる生活をされた
親鸞様が大事にされたおことばのようです。
大島先生も、トラブルが絶えない家庭生活では、とてもありがたいおことばです。
と言われて、法話でよくお話ししてくれます。
この社会における人との付き合いの中で、恩になった人、そしてまたかわいい人がいるわけです。
恩になった人は、恩。かわいい人は、愛。この恩愛の人がいるわけです。
この恩愛の人との縁は、甚だ絶ち難い、と言うことなのです。
今の私の家庭は、ゴタゴタ続きの真っ最中なんです。
家内は交通事故で手をけがをして、人さし指を切断しました。
家内はマッサージの仕事をしていましたが、この事故の為、今のところ仕事ができないでいるわけです。
精神的にかなり落ち込んでいるようです。
家にいる時はテレビを見ているか、ゴロゴロ寝ているかです。
家にいるのがつらくなると、子供を連れてカラオケに行きます。
一日中遊んでいますよ。子供は大喜びでついて行きます。
しかし、昼と夜の生活時間が逆になってしまったんですよ。
つまり、夜は起きていて、昼間は寝ているわけです。
不健康だから、改めなさいよといくら言っても聞いてくれません。
本当にこまり果てておるわけです。
このようなことだから当然、私の食事はセルフサービスですよ。
おかげさまで、簡単な料理はずいぶんできるようになりました。
一番苦手だった魚を焼くことも、最近は焦がすことなく
ちょうど良い具合に、焼くことができるようになりました。
焼きながら時々、魚を、箸の先や、指で触ってみると、
焼き具合が判るんですよ。
ジュージュ、ジュージュと油が熱くなっているところを触るので、ちょっと勇気がいりますよ。
やけどをしないように気をつけてやってます。
食材はスーパーに行って、店員に手伝ってもらいながら、いろいろと買い込んできます。
自分の好きな物ばかり買ってくるわけです。独身生活みたいなもんですよ。
まさかぁ、この年になって、このような生活をするとは思ってもいなかった。
またまた、まさかの坂をころげ落ちています。
なんで、これでもか、これでもか、とつらい事ばかり、この身ばかりに、降りかかってくるんだ?
いいかげんにしてくれぇ、とついつい大声で、文句を言ってしまいますよ。
永遠の愛からは何の返事もないんだけどね、文句言ってます。
愚痴を言うわけでわないが、家の中はゴミの山ですよ。
子供は自分の部屋で遊ばずにテレビが置いてある食事をするところで遊ぶんです。
遊ぶのはいいんだけど、あとかたずけをしないから、そこらに物が、おきっぱなしなんです。
全盲の私にはこれが一番こまりもんですよ。
置いてある物に足がぶつかって、痛い目にあったり、転びそうになったりするわけです。
しょうがない、私が一つ一つ、手探りでかたずけることになるわけです。
本来なら、家に帰って来るとホッとするところなのに、
心が安らぐどころか、イライラしたりカリカリするわけですよ。
こんな家庭がどこにある、こんな妻がどこにおる、と怒ってばかりいるわけです。
いっそのこと、ここを出て、治療室か、アパートを借りて、生活しようかと、いつも思うんです。
本当に、逃げ出したくなります。
でも、治療室には風呂も無いし、台所も無い。
アパートを借りればいいけど、そんなお金は無い。
逃げる事もできない、どうする事もできない。
今のところ、私は八方ふさがりなんですよ。
この足の踏み場もない、ゴタゴタ続きのこの家におるしかないのかなぁ?
このように思うたびに、いつも、次の大島先生のおことばが聞こえてくるのです。
行っても、行っても、ここしかない。
待っても、待っても、今しかない。
今ここを、手を合わせナーム、といただく。
道おのずと開く。
このおことばで、その時の不足は一応収まって、救われます。
こんなことを、毎日のように繰り返す私なのです。
それにしても、家庭と言うところは、手を合わせ、ナムをしなければ、
とてもおちついておれないところですよ。
逆に言えば、手を合わせナムさせてくれるところなんだよね。
カリカリしたり、怒なったり、心配したり、涙を流したり、
こんなことを繰り返しながら、最後には手を合わせて、落ち着くところなんです。
つまり、家庭とは最後の最後に輝かせてくれるところなんだなぁ、といつも思うんです。
だから、ゴタゴタ続きのこの家庭も、おかげさま、と言うことですよ。
おかげさまで、私の家庭はトラブル続きです。
これが一番、私の手を合わせさせて、永遠の愛に寄り添わしてくれますから。
つまり、この家こそ、私が一番救われる場所だと言えます。
この家には、恩愛が渦巻いているからです。
手を合わせさせてくれるナムの大工場なんですよ。
ナムの心の大生産工場です。
ゴタゴタ続きの我が家庭こそ、永遠の愛が渦巻いているところです。
わたしの治療室では、手を合わせることは少ないけど、
家ではイヤでも、手を合わせさせてくれますからね。
とは言っても、またまた、腹も立つし、愚痴も言いたくなりますよ。
私が疲れて寝ているのに、一晩中、朝までテレビはつけっぱなしだもの。
本当に、どうなっているんだ、この家は、と大きな声で叫びますよ。
しかし、こんな所でも、私に、絶対滅びることのない、
永遠のものに、気付かしてくれるところなんです。
いろいろ気付かしてくれることは間違いありません。
それに気付かしていただいた時に、次の大島先生のおことばがいただけてきます。
どうにもならない時があります。
ジーっと待つしかない時があります。
おまかせするしかない時があります。
やがて開かれる時があります。
時は愛だからです。
わたしの今、この現在は良かれ、悪しかれ、
長い巡り会いの歴史を経て、今ここにあります。
これを世間や他人や運命のせいだとも言えず、
また自分のせいだとも言い切れない。
今この大いなる現在は、諸手を挙げて、
謙虚にいただく他にありません。
まじめに仕事をして、まじめに生活して行く人生も、
あるいは遊び続けて、人生を終えるのも、皆夢なんですよね。
夢幻といわれる、我らの人生です。
夢と言うことは、最後は皆一緒だと言うことです。
人生には良いも悪いもありません。
要するに、安心いっぱいの人生であったかどうかです。
つまり、ナムの心をいただいて行く、安心いっぱいの、満足した人生であったかどうかです。
ナムは手を合わせて、頭が下がる心です。
ナムは身も心も投げ出して、
大きな宇宙の、真の働きの、愛に包まれることです。
そこは誰でも、助かる場所なのです。
一人残らず、どなたでも助かる場所なのです。
そこは安心をいっぱいいただける場所なのです。
恩愛が渦巻く家庭こそ、ナムの心がいただける最高の場所なのです。
今、私の子供は太り過ぎています。
太り過ぎで、心臓に負担がかかっているのではなかろうか?
運動不足が加わって、糖尿病になっていないだろうか?
いつも心配なんですよ。
病気しておろうが、倒れようが、どうでもいいわい、と言う気持ちにはなれません。
やっぱり、我が子ですものね。かわいいのです。
ダウン症の子で、とっても優しいから、なおさらかわいいのです。
恩愛がそこにあるわけです。
普段は言うこと聞いてくれないから、かわいくないけどね、いざと言う時は、かわいいのです。
これが、恩愛と言うものです。
子供が病気になれば、いくらお金がかかっても、病院に入れて、治してあげたいものね。
この、かわいい、と言う糸をどこで切る事ができましょうか。
また、家内は今、精神的にもろくなって、乱れきっているんですよ。
苦しい中で、永遠の愛に支えられて、今、現在を受け入れてほしいと願っているけど、
いただけないでいるわけです。これだけは待つしかないようです。
今はどうにもならない、役のたたない家内だけどね、
昔は働き者で、良い性格で、前向きに生きていた人間だったんですよ。
私には恩があります。
二十五年一緒に生活してきた恩があるのです。
そこには目には見えない細い糸で結ばれているものがあるわけです。
それが恩愛なのです。
その恩愛を断ち切ることはなかなかできませんね。
恩愛、甚だ絶ち難し、なのです。
このように恩愛を感じたとき、次の大島先生のおことばがいただけてくるのです。
過去は拝むもの。
未来はまかすもの。
現在はいただくもの。
人は皆、それぞれにどうにもならないところを生きているのです。
一生懸命、生きているのです。
もし、許し合う事が無かったら、たちまち地獄になるでしょう。
責め合うより、許し合ったほうが平和で幸せなのです。
わたしが悪かったわ、いやぁ僕も悪かったよ。
私がいただいている、家族の生き様と言うものは、そう簡単には断ち切れません。
私達は夫婦です、親子です。縁は切れませんね。
だから文句を言い合っても、怒鳴り合っても、やっぱりいっしょにいるしかありません。
だから、家庭の中こそ、ナムの最高の道場だと思っています。
家族三人、ナムの心で繋ぎ合っているわけです。
この家族には怒鳴り合えるほどのご因縁があります。
そしてそこにはしっかりとした糸で結ばれた恩愛の家庭があるわけです。
これは、切っても、切っても、この縁は絶ち切れないものなんですよ。
恩愛甚だ絶ち難し、なのです。
だから、ここでナームと手を合わせ、頭を下げきって、渡って行く他にない、私なのです。
永遠の愛に支えられて、包まれて、行くしかない、私なんですよ。
だから、行っても、行っても、ここしかない。
待っても、待っても、今しかない。
今ここを、ナームと手を合わせていただく。
道、おのずと開く。
と言う、この大島先生のおことばが、私は大好きです。
これからも、このおことばで、何千回も救われていくことになるでしょう。
家庭は頭で画いたようには行かない。
だから、良いとか、悪いとか、そのような事は超えて、最後は、ただ一つ、
ナームと、頭を下げきって、この世を渡らなければならない、今の私なのです。
この世で起こる事は、全部納得できる事ばかりです。
なるほどなぁ、と思える事ばかりです。
結局、私は家にいても苦、アパート借りて、一人で生活しても苦です。
行っても苦、行かんでも苦です。苦から苦なんですよ。八方塞がりなんです。
同じ苦なら、この苦をナームといただいて、永遠の愛に包まれる。
そして、この人生を明るく豊かに感謝しながら渡る。
こんな永遠の愛の力をいただいて行きたいものです。
頭を下げきった人生が一番安心で救われるのです。
高い所にいる限り、家庭の中でも、職場の中でも、自分だけがつらいものです。
やっぱり、頭を下げて、手を合わせて、今をいただくことですね。
これが一番安心できます。
このことがよく判れば、次の大島先生のおことばがいただけてきます。
今に立ち、現在に生きる。
この現在の中には宇宙の総べての功徳が収まっている。
総べての幸福は現在にある。
只今と言うところに目が行かなければ、誰も幸せになれません。
幸せは向こうからは来ない。待っていてもこない。
幸せは今与えられている物に感謝する時に満ち溢れてくださる。
とにかく、無い物ねだりはやめよう。
今、与えられている物だけで感謝しきれないじゃないですか。
幸せはどこどこまでも、今ここをいただく心にあるのです。
人間、裸になったら、そこは無限。
いただいても、いただいても、いただき、きれない恵みがそこにある。
やはり、腹を立てて怒ったり、怒鳴ったり、
あるいは心配したり、涙を流したり、喜怒哀楽の中で、
平和な愛の光に照らされて、安心をいっぱいいただいて、救われたいですね。
今、ここをいただくと言うことは、ナムせずにはおれないと言う、自分を知ることになります。
つまり、俺が悪かった、と言う事に気付かしていただけます。
たとえば、今日まで自分が生きてきた中で、思った事、言った事、やってきた事、
これらを不思議なテレビカメラで、全部写し出されたらどうだろうか。
とてもじゃないが、人には見せられないですよ。
だからね、妻からおとうさん、と呼んでもらえる人間か?
子供からお父さん、と言ってもらえる自分か?
と言うことになってきて、誤り果てるばかりの私です。
この罪、深き者が、今、手を合わせて、ナーム、と頭を下げさせていただいた。
永遠の愛に包まれる、幸せまでいただいている。
私が、今ここで生きておれば、いろいろな事が起こってくる。
それらの総べての問題を、手を合わせる元にして、
いただいて行くこの幸せは、計り知れないものがあるのです。
ナーム合唱。
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