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香川県の戦跡 (下の名称をクリックして記事へジャンプ)

探訪日   名称 探訪日 名称 
2020/12/28 人間魚雷回天/神龍(さぬき市津田)



 徳島県の戦跡 (下の名称をクリックして記事へジャンプ!)

探訪日   名称 探訪日 名称 
  2020/11/01 民間航空発祥地碑(小松島市)
2020/11/01 和田島空襲(小松島市) 2020/10/28 看護婦の服(小松島市〇病院) 
2020/09/26
三河家住宅の倉庫屋根(徳島市) 2020/09/22
モラエスの碑(阿波踊り会館前)
2020/09/22  松江大佐の住居跡碑(徳島市) 2020/09/20
徳島海軍航空隊の周辺(松茂)
2020/09/14 「鳴門」の碑(鳴門公園)  2020/09/07
徳島県忠霊塔徳島市
2020/09/05
市場飛行場(市場町) 2020/09/05
砲弾(市場町建布都神社
2020/08/30
予科練生救助顕彰碑島田島 2020/08/30
忠魂碑(堂の浦小鳴門公園
2020/08/26 狼煙場跡(大神子・阿波藩 2020/08/24 砲弾(佐那河内村・朝宮神社
2020/08/24 忠魂碑(佐那河内/妙見神社隣) 2020/08/24 砲弾(佐那河内村・大宮八幡宮)
2020/08/20 忌部神社の砲弾(眉山)  2020/08/16 忠魂碑(旧・相生町延野)
2020/08/13 営外宿舎(松茂 2020/08/08 真光寺の十六地蔵尊(貞光
2020/08/08 山城支所前防空壕(山城町 2020/08/01 名田橋北県下空襲初犠牲(藍住)
2020/07/19 板東俘虜収容所(鳴門市) 2020/07/05 日の峰神社・洞窟3(小松島市)
2020/06/07 日の峰神社・洞窟2(小松島市) 2020/06/04 日の峰神社・洞窟1(小松島市)
2020/06/03 忠魂碑(小松島市中田町)
2020/05/10  斉田照空隊(鳴門市斉田大池)
2020/05/04  岡宮の塚穴防空壕(板野町) 2020/05/02 パラボラアンテナ鉱山壕(眉山
2020/04/26 三島神社上防空壕(眉山) 2020/04/15 姫田隧道(鳴門市大麻町姫田)
2020/04/08 機銃底盤、弾薬仮置場(阿南) 2020/02/05 勝瑞城跡(藍住) 
2020/02/05 海軍送信所(藍住)  2020/02/03 佐古山鉱山・佐古採石場 (眉山)
2020/01/30 木津防空壕 (鳴門) 2020/01/18 敬台寺の防空壕・被災墓石(眉山 
2020/01/16
徳島戦災犠牲者慰霊塔(城山) 2020/01/09 蔵本駅(徳島市蔵本町)
2020/01/08 防空壕(眉山金毘羅さん付近) 2020/01/05 松茂町歴史民俗資料館(松茂町)
 2020/01/03 眉山ドライブウェー中腹防空壕 2020/12/20 護国神社(雑賀町) 
2019/12/18 船場橋起工碑(西船場町) 2019/12/16 松根油採取跡(津田)
209/12/15  父の像(城山) 2019/12/15 子供平和記念塔(城山)
2019/12/15  駆逐艦追風のマスト(徳島城)  2019/12/14 さざれ石(八万町王子神社) 
2019/12/14  モラエス像(眉山) 2019/12/14 満蒙開拓青少年義勇軍碑(眉山)
2019/12/07 城東高校の塀(中徳島町) 2019/12/06 蔵本連隊跡(徳島市蔵本町) 
2019/12/04  西部ニューギニア慰霊碑(城山) 2019/12/04 城山の防空壕跡
2019/12/04  城山の貝塚城山) 2019/12/01 高原ビルの窓ガラス(東船場町) 
2019/11/26  空襲の灯篭(眉山町滝薬師 2019/10/30 蒲生田岬電探基地(阿南市) 
2019/10/09  横須水上機桟橋(小松島市)  2019/09/07 弁天山砲台跡(小松島市)/海軍特攻艇(震洋)基地跡
2019/08/13 那賀川鉄橋空襲跡(阿南市) 2019/07/20 原爆展(文化の森博物館


  2020/12/28 人間魚雷回天」と「特攻ロケットグライダー神龍実物大模型
香川県さぬき市津田町津田・羽立峠(はりゅうとうげ)

 羽立峠/入口看板 回天/測定  神龍/測定
     

 石碑  山本五十六の言葉 (表)「百年兵を養うは唯平和の為なり

(裏碑文)ハワイ空襲の機動部隊指揮官には「日米交渉成立セバ機動部隊ハ即時帰還終結スル如く行動スベシの指示が与えられていた。
所がこれに異を唱える者が「小便をしておる途中で止めよと云うに等しい。襲撃するしかない」と云ったのを耳にした山本司令長官は「百年兵を養うは唯平和の為なり。従えぬ者は直ちに辞表を提出して国元に帰れと申し渡しました。


人間魚雷回天
実物大模型 2007年9月建造
 元海軍兵科第3期予備生徒 三好○○  (石碑より)
 正面 後ろ 潜望鏡  菊水紋 悲母観音 
         
 
特攻ロケットグライダー
神龍じんりゅう)

 遠景  前部  胴体 操縦席  四国靖国の祠 
         
    看板@説明より
幻の特攻兵器「神龍」
終戦間際、引田町(現;東かがわ市)出身で海軍15期飛行専修予備学生の中山○○元海軍少尉は「神龍」に搭乗するための訓練を終えていました。然し、「神龍」そのものが試験飛行に問題があったものの軍の命令で急ぎ製造に取掛りできたのが数機8月20日で既に戦は終わっていました。若し中山少尉が特攻で出撃していれば発進後10分以内の命でした。

看板A説明より
Q1
終戦間際、米軍の本土上陸を阻止しようにも物資がなく、有効な兵器を造れませんでした。そこで、まだある木材と帆布(テント用の布)を使い、美津濃グライダー製作所でロケット推進のグライダーを作りました。試作機は試験飛行に成功しました。この事実を後世に伝えたいと、実物大模型を製作した次第です。因みに、模型の製作費は300万円です。

Q2
 搭乗者は?
(答え)
岩瀬○○○、私の小学校の恩師で、香川県東かがわ市引田出身の中山先生と同期の第15期海軍飛行専修予備学生、同第2期予備生徒等、約1000名の予備士官が搭乗特攻する予定でした。飛行訓練は従来からある若草型や光式グライダー等で終えて、特攻グライダー神龍ができるのを待っていました。

Q3 攻撃はどのようにしますか?
米軍が上陸する海岸から2〜3Kmの山に隠しておくかトラックで運び組み立て、まず左右のロケットを吹かし200mの高度に達すると、100kgの爆発の安全ピンを外し、上陸用艇やM4戦車等敵を発見次第、中央のロケットを点火加速して体当たりします。

看板
B説明より
Q4 なぜこんな無謀な戦争をしたのでしょうか?
直接の原因は、(以下略)

Q5
 これからの日本は?
今の日本の国の有りようは、(以下略)

 (看板や石碑の個人名は情報保護の観点から一部伏字にしました。)
見学中、車3台(オッサン)が来たが、降りて模型を見るでもなく立ち去った
たぶん、模型を見に来た人が悪さをしていないか見に来たんだと思う(監視カメラで見ているんだろうか)
下の道を奥へ行くとソーラー発電のパネルが多数設置してあるから、不審者が来たら余計に警戒して見回りもしているんだと思う。

「回天」を一目見て「オッキョイ・長い・これなら米艦を沈められる」と思ったが「自分が乗れ」と言われたらイヤだw。

「神龍」の模型もあったが、必ず死ぬ兵器、人間爆弾。
「回天」「神龍」とも、「現代のトランジスターやICを使った電子兵器」が、75年前には「人間搭乗自爆兵器」。


けんど、竹槍持って突撃したり、爆薬背負って戦車の下に飛び込むよりは、道具を使っている分「機械的、科学的」というか兵器と言う感じがする。
しかし、神龍で戦えというのも無理があるが、「木と帆布」を利用して作れとなったらこうなるんだろうか?
  



2020/11/01 和田島空襲(小松島市和田島町)
 (鳴門予科練生遭難事件を調査したのと同じT氏発表を基に現地調査)

@昭和20年5月2日の犠牲者(米機の銃撃)旧今津村大手海岸(那賀川町)  2名(女1・男1)
A同上          (同上)  旧坂野町東大手海岸(小松島市) 3名(男2・女1・負傷1)

@Aとも大手海岸沖で南から北へ岸近くを航行中、南から来襲した米機の銃撃を受けた。

B昭和20年6月22日正午頃「米機の爆撃」 犠牲者3(男2・女1・負傷1)旧坂野町和田島(小松島市)
南から来襲した米戦闘機の爆撃で犠牲となった(矢印の方向)

※Bは家が立ち並んでいるので詳しく調べてない→人の家の周りウロウロするのはイヤ。

B近くにいた爺さんに聞いたが「ほんな昔のことや知らんw」。
75年前、戦争に負け「軍国主義のことはアカン、これからは民主主義や」「軍隊のこと言うたら進駐軍に捕まって監獄に入れられる」
「戦争に負けた負の遺産は親も子に言わない=親も子には教えとらんし、子も親に聞いてない」
今の中途半端なトッショリは知らん
「75年前だから85才以上の
「大年寄」「大ドッショリ」でないと知らん」。
昔は
大年寄も家でおって息子の嫁に世話してもろとったけんど、今は介護施設に入っとる。
家におるんは施設に入る前の「コンマトッショリばありで、戦争の遺跡は知らないのじゃ。

12.7o機関銃弾に当たったら手や足は吹き飛び、大穴が空いて死ぬと思う!

   
@空襲地点1  A空襲地点2 B爆撃地付近 出島野鳥園 出島恐竜公園  コートベールゴルフ場


2020/10/28 日本赤十字社の救護員(看護士/看護婦)の服(小松島市/●病院)
     
 ↑説明文より
日本赤十字社の救護員の制服として規定され、重要な式典や勤務上の外出などに着用。(明治32年から昭和時代まで着用)
                            ←説明文より→

日本赤十字社の救護員の看護衣として規定され、陸軍病院や病院船で実際に看護をするときに着用。(明治25年〜戦後まで着用)
 

婦人従軍歌
(明治27年) (作詞/加藤義清:作曲/奥好義)

(一)火筒(ほづつ)の響き遠ざかる 跡には虫も声たてず    吹き立つ風はなまぐさく 紅(くれない)染めし草の色

(二)わきて凄(すご)きは敵味方 帽子飛び去り袖(そで)ちぎれ  斃(たお)れし人の顔色は 野辺の草葉にさも似たり

(三)やがて十字の旗を立て 天幕(テント)をさして荷い行く    天幕に待つは日の本の 仁と愛とに富む婦人

(四)真白に細き手をのべて 流るる血潮洗い去り       巻くや繃帯白妙の 衣の袖は朱(あけ)に染み

(五)味方の兵の上のみか 言(こと)も通わぬ敵(あだ)までも    いとねんごろに看護する 心の色は赤十字

(六)あな勇ましや文明の 母という名を負い持ちて        いとねんごろに看護する 心の色は赤十字 


婦人従軍歌は日清戦争時、駅で赤十字の看護婦(今は看護士という)たちを見て感動した加藤義清が作詞、奥好義が曲をつけたんじゃと。
「敵(あだ)までも」の敵は、このときは(中国の清国兵)だったが、太平洋戦争ではアメリカ・イギリス・中国・オランダ・オーストラリア・ソ連兵だろう。
従軍歌ということは、婦人(看護婦・女の人)も戦争になったら従軍するんじゃ→看護士さんは他人事ではないぞぅ

戦争に負けて外地におった看護婦は、えらい目におおたんだろうなぁ



 2020/09/26 三河家住宅の倉庫(岩屋)の屋根が山の形になっている(徳島市富田浜)  
山型の倉庫屋根  住居
     
敷地の中の建造物は国の重要文化財となっている。
詳細は、ネットで「三河家住宅」と検索すれば出てくるのでここでは説明しない。

住宅横の岩屋(倉庫)は、コンクリート製で屋根が山の形になっている。
上空から見たら小さな山に見えるので空襲から免れるかも?


2020/090/20 徳島海軍航空隊の周辺戦跡(松茂町  
   燃料置場
現在、自衛隊が使用中。
設備は赤楕円形で見えなくしています。
 弾薬庫 射撃場付属
現在、民間会社が建物を使用中。
東の道路から
 射撃場/着弾場痕跡なし
現在は一面、さつま芋畑。
 徳島補給工場第十一航空廠痕跡なし
一般住宅が建っているため一部見えなくしています。
 機銃陣地痕跡なし
三宝荒神社
 機銃陣地痕跡なし
当時は土手があり3個の陣地
 銃弾を廃棄した池

痕跡なし/草ボウボウ
 機銃陣地痕跡なし

当時、南北に3〜4個の土嚢陣地

 高角砲陣地 痕跡なし
現在、クリーンセンターあたり。

燃料置場/弾薬置場のみ残っているが、他は痕跡が残っていない。

ここ松茂基地からも
特攻「白菊隊」が出ていますが、前進基地の鹿児島県「串良海軍航空基地」に集合し、沖縄特攻に発進したそうです。
現在、串良町のHPでは滑走路は直線道路となり、道路両側に桜を植えて桜並木とし、串良平和公園として残しているそうです。
白菊」とは飛行機の名称で、搭乗員(パイロット)を養成する練習機。
最大速度230km・乗員5人・7.7mm機銃1/爆弾60kg(30kg2) (零戦21型は最大速度530km余りだから半分の速度)

松茂の飛行場は海の近くにあるため空襲になったら攻撃される。
昭和20年3月頃から、西方の市場町に第2飛行場を作っています。
市場飛行場の項参照。 
 


2020/090/07 徳島県忠霊塔 (徳島市・西部公園

忠霊塔 塔への階段  園内  さくら百景  徳島県忠霊塔の由来碑 
忠霊顕彰記念  ドイツ兵の墓   手水舎 皇紀ニ六百年記念  大日本国防婦人会  大日本婦人会国府町支部のコンクリ椅子
眉山西方の西部公園に徳島県忠霊塔が建っており、元は陸軍墓地だったそうです
第一次大戦時、捕虜になったドイツ兵の墓が北側にありました。



2020/090/05 市場飛行場/徳島海軍航空隊第二基地/市場牧場」 市場町 
飛行場の碑 東端の地碑 西端の地碑  飛行場跡(田んぼで痕跡なし 洞窟群への道 
松茂の飛行場は海に近いけん、アメリカ軍にやられてしまう。
もっと内陸の市場町に飛行場を作らんとアカンいうて飛行場を作ったそうです。

市場中学校の道路対面、阿波市シルバー人材センターの敷地内に「市場飛行場跡記念碑」が建っている。
滑走路の東西には、「市場飛行場滑走路東端の地」と「市場飛行場滑走路西端の地」碑がある。
丁度、稲が実り刈り取っている所もあったが、一面田んぼで飛行場の痕跡は残っていないそうです。


市場飛行場跡記念碑碑文
太平洋戦争末期、戦局が著しく悪化しつつあったとき、軍はこの地に急遽、市場飛行場(徳島海軍航空隊第二基地)の建設を決定した。
昭和20年三月より四月にかけ、当該地域住民のうち三十数戸には家屋取り壊しを、八十数戸には家屋明け渡しを命じた。
突然の命令に住民は一時、自失呆然となったが、お国のためならとお互いに励ましあい助け合いながら、長年住み慣れた我が家や田畑に愛惜の念を残しつつ、約五百人以上の人々が家無き人となり、親類縁者を頼って疎開した。
これに伴い、軍は施設部隊を投入するとともに、市場町並びに隣接町村より勤労報国隊が、また、学徒動員による奉仕隊が派遣され、田畑や除去家屋の宅地は滑走路や誘導路となり、同年六月には、海軍航空隊が駐屯し訓練を開始、残余の農地も耕作はほとんど不可能となる。
同年八月十五日終戦となる。
戦後の国家には当該住民を救済する力も方策も見当たらず、住民は戦後の極度の食糧難、物資の不足と経済的インフレに耐えながら家屋の再建、或いは、軍靴に踏み荒らされた家屋の修理、
滑走路などの田畑の復旧に全力を尽くした。
長い年月を要したその労苦は誠に計り知れないものがある。
ここに戦後五十年の記念日を迎えるに当たり、この飛行場にかかわった人々の流した汗と涙の労苦を、今後永く記念するとともに、永遠の平和を願い、町当局の絶大なご支援を頂き、往時の滑走路のほぼ中央にこれを建てるものである。
平成七年八月十五日
市場飛行場立退者の会長・・・
立退者の会役員 ・・・・・・・・・・・・・・・・
立退者世帯名簿 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

高速道トンネル  洞窟群 (道路から9箇所の山を削った跡が見える) 
           
市場中学から真直ぐ高速道路のある山の方(北西)へ行くと、高速道の(高架とトンネル)がある
この付近に飛行場の隧道(洞窟/トンネル)が多数掘られている
道路から見ると全部土で埋まっていて、山を掘った痕跡だけが分かる。
写真では木や葉が邪魔で山土を掘った痕跡は分からないが、全部で9個の跡が目視できた。


2020/090/05 砲弾」 建布都神社 たけふつじんじゃ市場町香美    
神社の森 拝殿 砲弾
         
市場警察署の南、吉野川の堤防の近くに「建布都神社(たけふつじんじゃ)がある
鳥居をくぐって左側、砲弾が石の台座の上に置いてあり、石には「
日露役戦利品」と彫ってある
下の台座の石にも彫ってあるが読み取り不明

砲弾の天辺は穴が開いている
砲弾は(
直径21cm高さ54cm)


2020/08/30 予科練習生救助顕彰碑(鳴門市島田島・田尻浜) 
「淡路島
毎年、八月になったら「淡路島の春日寺で予科練同期生が法要をした」とオッキョウにニュースに出る
空襲された住吉丸は淡路島へ曳航され、阿那賀の春日寺に大勢の戦死者を弔い、桜が丘に観音像を建てた。

「鳴門」
「鳴門」側にも潮流に流された一部の遭難者を、鳴門の人々が救助し死者は鳴門側に埋葬した
これは、鳴門側の記録である。
鳴門市島田島・田尻浜の碑 救助の様子  田尻浜から淡路 
 北泊・普光寺 北泊から淡路方面 
北泊の普光寺(ふこうじ)の裏山→予科練習生の埋葬地

北泊からも、淡路島がハッキリ見えます。

この港からも救助船が出ました。
   

当時の記録では、潮は満潮で播磨灘(瀬戸内海側)に流れており、後に引き潮となり太平洋側に流れた。
鳴門の島田島田尻浜にも自力で泳ぎ着いた者、溺死・戦死した者、負傷者や漂流中に救助された者がいた。
地元民は浜へ駆けつけ、敵機の飛ぶ空を警戒しながら、遭難者を引き揚げ、引き揚げた兵隊を火を焚いて温め(敵機が来ると海水を掛けて火を消し、また火をつけ)、炊き出しをし、傷の手当、戦死者を寺へ運んで仮通夜をしたりと世話をしたと当時の人の体験談があります。

救助した舟は
木製櫓漕ぎ漁船かんこ舟/一丁櫓のいわし舟との記載もあり)
救助図には(大上猪之吉さん等が少年兵救助之図)とある
 「大島田の漁師」

「鳴門市島田島・田尻浜」に碑が建っている

「碑文」
大東亜戦争(太平洋戦争)の終結を目前に控えた昭和二十年八月ニ日宝塚海軍航空隊甲種飛行予科練習生百九名は杉本海軍大尉指揮の下に鳴門要塞増強工事の任務を帯び、鳴門市撫養港を木造機帆船住吉丸で出航し、鳴門海峡を淡路島阿那賀港に向かっていた。
正午過ぎ、鳴門市島田島の沖合約ニキロに差しかかったとき、米軍機二機の空襲を受け、船体は大破して、たちまち五十六名が戦死、生存者は鳴門海峡に飛び込み急流に奔放されながら漂流した(十名は船に残留)
これを知った、鳴門市粟田、北泊、大島田、室の地元民が敵機の飛び交う海上を漁船で出動し必死の救助の結果一十七名を救出したが、他の一十六名は若い生命を失い、計八十二名の戦死者が出た
当時、我が国は、軍機保護の立場から厳しい報道管制下にあり、この悲惨な出来事は長年埋没されてきた。
近年、この史実が明らかとなり人心がすさみがちになる戦時下に置いて、我が身の危険をも顧みず決死の覚悟で多くの生命を救った人間愛は、世の人々に深い感銘を与えた。
ここに、世界の恒久平和を祈念するとともに、慈愛に満ちた勇気ある鳴門市民の行為を、後世に永く顕彰する。
平成三年十ニ月吉日
顕彰碑建立実行委員会



−解説−
昭和20年3月、宝塚歌劇団は海軍に接収され宝塚海軍航空隊となり予科練教育を行っていた。
昭和20年8月、14才〜17才の予科練習生は、淡路島南部の陣地構築工事をするため撫養港より出発。
100人余リが船倉に詰め込まれ立錐の余地もなく、武器も持たないところをグラマン2機の機銃掃射を受けた。


碑は「慟哭の海」だが、「悔恨の海」という題でNHKが昭和58年に四国各県で放送、次いで全国放送したドキュメンタリー番組がある。
内容は「予科練生き残り同期生12名が鳴門の救助住民を38年ぶりに訪問し再会/遭難海上で慰霊/空襲時とその後」。

鳴門の人が救助したと分かったのは、T氏(個人名は許可なく載せん)の調査からで、救助した人とされた人がようやく結びついた。

グラマン戦闘機」は「F6Fヘルキャット戦闘機」(米グラマン社)で、12.7mm機関銃×6門装備。
初戦時の日本軍の無敵零戦に対抗するため開発、2000馬力のエンジン(零戦は1000馬力)。
本機は格闘戦より、頑丈な機体でスピードを生かした一撃離脱戦法、急降下で退避する
一方、軽量化した機体の零戦は 一定以上のスピードになると空中分解するため追いかけられない。
(零戦52型は、急降下制限速度740 km/h )

那賀川鉄橋空襲の「F4uコルセア戦闘機」(米チャンスボート社)も同じく12.7mm機関銃×6門搭載。
12.7mm機関銃の威力は、鉄橋の厚い鉄板を貫通し、弾痕は指が入るくらい大きく、ある所は鉄板がくの字にゆがんでいる。
この重機関銃で人間が撃たれたら、手や足に当たってもまず助からないと思う!

本HPの2019/08/13那賀川鉄橋の空襲弾痕12.7mm機関銃の穴は人差し指が入る)を参照


 2020/09/13 「鳴門の漁師」が出たついでに、「鳴門」の碑 (宮本村雄原作・文部省唱歌)

鳴門公園・千畳敷に宮本村雄の詩碑が建っており、裸島は大鳴門橋の橋脚がある。
「鳴門」碑 渦潮 (うずしお)  大鳴門橋 裸島   飛島
         
−碑文−

「鳴門」 (宮本村雄原作・文部省唱歌)

阿波と淡路のはざまの海は  此処ぞ名に負う鳴門の潮路
八重の高潮かちどき揚げて  海の誇りのあるところ
山もとどろに引潮たぎり   たぎる引潮あら渦を巻き
巻いて流れて流れて巻いて  空にとびたつ潮けむり
裸島より渦潮見れば    胸も波だち眼もくらむ
船頭勇ましこの潮筋を    落し漕ぎゆく木の葉舟


1922年文部省の懸賞募集に応じ当選、15年にわたり「鳴門」という題で国定読本に掲載、
小学校唱歌としても親しまれた。
【宮本村雄:1892年 徳島県鳴門市生まれ】 −この解説は鳴門市のHPより引用−

−余談−
碑まで行くのに道をまちがえて右往左往。
鳴門公園の左のレーンに入りトンネルをくぐれば千畳敷へ行けたのに、右に曲がったばかりに登山道を登って展望台に上がったり、エスカレーターに乗ってさっき登った横の展望ビルに上がったり、登山道から千畳敷へ山道を歩いたぞ
山を歩きながら見たら下に大きな千畳敷に行ける道があったのに!(渦の道の入口もあった)
行く前にネットで地図見とったのに、「観光用の地図」は正確でないけんアカンw


鳴門海峡は「満潮・引潮」で川みたいに流れて、渦が巻っきょる。
75年前、引潮で右側太平洋の渦巻きの方に流されよる予科練生を助けに舟を漕ぎ出したとはえらいもんじゃ
空を米機が飛んどっただろうから、海の上は隠れる所がないけん助ける方も命がけだ



2020/08/30 小鳴門公園・忠魂碑(鳴門市瀬戸町堂浦)

  
  
 小鳴門新橋
小鳴門公園 阿波十五景
之一碑
忠魂碑  砲弾型の石柵  展望台   
       
 堂浦の道路沿いに、ちょっと変わった形の「小鳴門公園の門」がある
門をくぐり山道を上がると石碑阿波十五景之一碑があり、忠魂碑が建っているが柵は砲弾型の御影石でできている

その横を通り越し進むと小さな展望台がある
そこからは赤い大きな橋(
小鳴門新橋)が見える
帰りに撮った写真を掲載、真下から高い橋を見上げたら迫力あるぞ!

「小鳴門公園の門の説明文」
小鳴門公園のレトロな洋風門
この門は、大正十五年(西暦1926年)地元瀬戸小学校創立五十周年記念事業として、小鳴門公園が整備された時期に、瀬戸村堂浦の矢野伊太郎氏他、地域の有志が協力しあって、東京より優秀な建築技術者を招き、技術指導を受け、公費で建立しました。堂浦の岩瀬友助氏九十六歳 他談
当時、瀬戸地域には約十カ所のレンガ製造所が存在し、その赤レンガを利用して外部装飾し、全体のデザイン性や施行技術の素晴らしさとともに、地域の歴史を物語る貴重な歴史的建造物として、平成三十年八月に文化庁より現地視察を受け、価値ある建造物文化遺産として高評価を得ました。
よって、地域や鳴門市の遺産、観光資源として地域ぐるみで末永く維持・保存されることを願います
令和元年五月吉日
レトロな洋風門を守る会有志一同


2020/08/26 狼煙場跡(のろしばあと幕末の阿波藩(大神子)
   
狼煙場跡(のろしばあと)
 南望の広場 看板  津田山と眉山  和田島の自衛隊方面
       
 往復約1Hかけて整備された登山道を登り降り(膝が痛いw)。
どん詰まりの「南望の広場」の横にある、石垣で囲んだ四角形の「狼煙場跡・のろしばあと

看板には

「阿波藩では異国船の来航を見張るために、海部郡から徳島に至る沿岸の要所に遠見番所を設けたが、
それらの番所で発見した異変を速やかに徳島城まで報告する手段の一つとして、各地に「のろし場」が築造された。
大神子の物は元禄年間に築かれたといわれる」

無線・電信・電話がないから煙を上げて遠くから知らせるのジャ
ここからは、和田島や徳島の眉山がよう見える

江戸時代、日本には帆掛舟しか無かった
石炭を焚いて走る外輪船を見て空砲をドンドン鳴らされたら、さぞビックリしただろう

アメリカのペリー艦隊は下記砲を複数搭載
口径8インチ(20.3cm)鋳鉄製前装滑腔砲、炸裂弾も発射可
口径10インチ鋳鉄製前装滑腔砲
32ポンド砲(14.5kgの鋳鉄球形弾を発射


2020/08/24 砲弾(朝宮神社) /佐那河内村井開
   
道路から 階段 拝殿 山の上の風車   



 
桧の神木  砲弾  砲弾の彫り込み 砲弾  
       
 階段の右側、台座はなくコンクリートの上に置いてある
砲弾には「明治四十年四月 日露記念 奉納 星山宇平」と彫り込みがある
日露戦争の戦勝記念で大きな砲弾(
直径30cm)を置いたんじゃ


2020/08/24 忠魂碑(妙見神社横)/佐那河内村中辺
妙見神社 忠魂碑  百度石 

   
 妙見神社の横に忠魂碑があり、ここも尖塔方形型の石碑
百度石には「支那事変従軍記念 国府 ○○○○」と彫ってある     

2020/08/24 砲弾・乳銀杏・梛木(大宮八幡宮/佐那河内村下高樋)
   
神社正面 砲弾  弾頭  弾尻  



 
梛木・下に砲弾  梛木・下に砲弾 乳銀杏   乳銀杏
       
 直径30cmの砲弾(日露戦争記念)が梛木(ナギの木)の下にある
梛木は下に大穴が開いており、サルスベリのように薄い皮がむけた所からツルツルの幹が出とる。
砲弾の大きさは「徳島市の陰部神社/佐那河内の朝宮神社」と同じ。
先がちょっと欠けとった

乳銀杏(チチイチョウ)の大木があり、幹から乳のように気根(きこん)が垂れ下がっている
気根=普通、根は地中に出るが幹や枝から根が下に出てきている

二つの気根が横に並んで垂れとる所を見たら、人間の乳が垂れとんを連想する(貧乳ではない)
 


2020/08/20 忌部神社の砲弾」 「明治天皇像 「神武天皇像 (眉山
    
忌部神社 砲弾正面 横から 弾頭 弾尻 長さ 
      
吉の川像  吉の川像銘板  明治天皇像     神武天皇像  
             
眉山の忌部神社に砲弾が奉納されている
日露戦争記念で,石の台には(戦利品 御奉納)と彫ってある。
砲弾は
直径30p・高さ81p、3段の基礎石の上においてある(正面から見たら左に傾いとるぞ)

この砲弾がそうとは言えんが、日露戦争が終わり国は戦勝記念でロシアの砲弾を全国の学校(一部)神社・寺に展示せぇと配ったそうな。
日本軍の二十八糎榴弾砲(28センチりゅうだんほう)は要塞砲で弾丸重量は200kg余、最大射程距離は約8km、
日露戦争時は203高地を砲撃し、同高地を占領後は旅順港内の露艦隊を砲撃したそうじゃ
1945年の終戦時には、各地の要塞に配備されとったらしい

眉山中腹遊歩道をを北に行くと「
相撲取りの吉の川像」・「明治天皇像」・「神武天皇像」があった
    

2020/08/16 「忠魂碑」 旧・相生町延野
    
忠魂碑(忠霊塔)
 
真中の忠魂碑は尖頭方錐型で先がトンガッとる(昭和27年7月と横に彫ってあった)
他の石碑は表面に苔が生えて判読できない。
子供の頃、母と掃除に来た覚えがある(忠魂碑の後ろの山の草刈りをしたが、斜面で足が滑らんようにしたんを思いだした!)
     

2020/08/13 「徳島海軍航空隊(士官・下士官・将校)の営外宿舎」→官舎 (松茂町)
   
士官・下士官宿舎 将校宿舎(建物なし空地)
  (士官・下士官宿舎)は平屋の二戸一(にこいち)住宅。
現在もそのまま二戸一で住んどる家、二戸一を半分に切っとる家、更地になっとる所、草ボウボウの空地、トタンで壁を巻いとる家・建物を壊し新築になっとる家などさまざま。
家の前の路地は細い75年前のまま。
将校宿舎は二つとも更地になっとった。

人が住んどったりして個人情報のため詳しぃには載せとらんし、どこにあるかも載せとらん。

人がおる住宅街は気ぃ使うw
やっぱり、誰ぇもおらん山の防空壕や見にイッキョる方が気ぃ使わんでええw
    



2020/08/09 「十六地蔵尊」疎開児童16人を供養する地蔵(貞光の真光寺)
   
真光寺入口 本堂 看板 看板 十六地蔵尊  台の刻印
     
 昭和19年9月20日、大阪市大正区・南恩加島国民学校児童24人(3−4年生の男子)が寺に疎開してきた
昭和20年1月29日、夜、本堂から出火し児童16人が焼死
戦後、貞光町の有志が児童の霊を慰めるため16地蔵尊の建立をしたそうです。
 



2020/08/09「お狸大明神防空壕」山城支所前の防空壕(三好郡山城町)

車で行ったけんどホンマに遠かった!
池田の町通り越して、高知の方へ走っていく
(池田で思い出すけんど「特定記録の局長はん」元気にしょんかぁぁぁぁ〜〜〜〜!)
「祖谷口」通り越して「小歩危」の手前
、「JR阿波川口駅」のある町まで行ってきた。
山城支所(昔の山城町役場)の道路7m対面にある防空壕。

昭和19年5月、山城谷村役場がここに移転してきたんやと(案内板より)
「空襲で大事な文書がのうなったらイカン」と役場前の岩山に防空壕を掘った。
今、空壕内部には「お狸大明神」という祠をまつってある。
奥行きが3.6mと浅いけんど、「石が堅ぁてこれ以上掘れんだ」らしいぞ。
    
鉄道橋と川口橋 川口橋 山城支所 看板 防空壕・正面
         
防空壕・横から 防空壕と祠  防空壕・内部  正面長さ  内部長さ
 



2020/08/01 名田橋北詰(藍住町名田)米軍機による空襲で徳島県下初犠牲者が出る

当時の新聞記事
「昭和20年3月20日午前3時頃、B−29一機来襲し郷土上空を旋回の後、板野郡方面数カ所に照明弾および小型爆弾を投下したが、損害は極めて軽微であった」

実際は藍住町名田橋北詰の民家に
爆弾7発が投下され、1発が家を直撃、3人が犠牲になりました。
下は、名田橋北交差点付近の写真→この近辺に爆弾が落ちた(個人情報のため名田橋の写真だけ)

近所の人に聞くと「名田橋は当時かかっておらず、渡し船だった」と云います(仮設の賃取橋があったという説もあり)
調べると名田橋は1963年3月完成・古くから付近に「名田の渡し」があり石碑があるそうです。
名田渡船で連絡している所に今の永久橋を架設したそうです。

名田橋全景    北詰交差点 東側から交差点を望む
帰りに石井のTさん宅へ寄り昔話をしましたが、帰りに野菜をたくさんいただき有難うございました。これからも元気に散歩してください。  


2020/08/09 「板東俘虜収容所長・松江豊寿大佐の住居跡」碑
 阿波銀ホール(徳島県郷土文化会館)の北側
   
遠景 表・武士の情け
 碑文
人間愛を貫いた武人 松江豊寿(トヨヒサ)
この地には、徳島と板東のドイツ人俘虜収容所長だった松江豊寿陸軍大佐(1872〜1955)の住居がありました。
松江大佐は、戊辰戦争に敗れた会津藩士の家に生まれ、幼いころより敗者の悲哀を心に刻みながら育ちました。
陸軍士官学校を卒業後、軍人として誠実に勤務し第一次世界大戦当時は中国チンタオで日本軍に敗れたドイツ俘虜の収容所長を務めました。「俘虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために立派に戦ったのだから、武士の情けを持って遇したい」との信念で部下や地元住民に働きかけ、俘虜の人間としての権利を守るために心を砕きました。その結果、約千名を収容した板東収容所では様々な所内活動が活発に行われ、小さな「ドイツ村」に虜囚文化が花開きました。ベートーベンの「第九交響曲」日本初公演はその象徴的できごとでした。松江の温情と助言に応えてドイツ人たちは彼らの持つ進んだ技術や文化を地元住民に伝えました。西洋式農業、酪農、畜産、音楽、建築、製パン、スポーツなど各分野で日本人の弟子が育ちました。ドイツ人も日本から多くのことを学んでいます。板東の人々は彼らを「ドイツさん」と親しみを込めて呼び、敵味方を越えた友情が芽生えました。俘虜収容所という特異な環境の中で、言語、習慣、文化の異なる二つの国民が共生し、心を通わせ、庶民レベルの異文化交流の輪を広げた史実は、世界でも稀な特筆すべきできごとと高く評価されています。松江豊寿は、退役後郷里会津若松市の市長に推され、後東京で八十二歳の生涯を閉じました。碑文 林 啓介=作家
この顕彰碑は、板東俘虜収容所を舞台とした映画「バルトの楽園」の制作や、「日本におけるドイツ年」更には松枝没後五十年に当たることから、これを機に松江豊寿の功績と博愛の精神を末永く称えるため、
地元の内町地域住民の手により建立するものである。平成十七年十一月三日 発起人代表 内町まちづくり協議会 会長 ○○○○


2020/07/19 板東俘虜収容所

大麻比古神社近くの板東俘虜収容所跡を見てきた
ドイツ兵が住んどった兵舎跡・門柱・給水施設・模擬の橋・便所跡・慰霊碑・将校宿舎跡など
ドイツ橋は奥の大麻比古神社本殿奥にあるけん場所が違うんじゃ
思たよりコンマイ橋だったぞ

収容所跡の山を登って行ったら高速道路の鳴門西PAに出たぞ
ドイツ館と賀川豊彦記念館は外から見ただけじゃ

「道の駅第九の里」板東俘虜収容所から移築した兵舎  
  
兵舎第五棟跡 兵舎第六棟跡
     
門柱の看板 門柱 第二給水施設跡 酒保付属の便所跡
       
第一給水施設  ドイツ兵慰霊碑  ドイツ橋   製パン所跡
 


2020/07/05 B日乃峰神社下登山道・鳥居上30mの洞窟(たぶん防空壕)

神社下の登山道にある鳥居から30m上に洞窟がある
ここは未完成かもしれない(上の洞窟は埋められているが浅いようだ)
右と左の入口があり(埋められている)神社下の洞窟に形状が似ている
入口が一つ埋まっても、もう一つの入口から外に出られる
シダが密生しとったけん、鎌で刈って洞窟まで行った
コンマイやぶ蚊がようけ寄ってきたぞ

 登山道中間鳥居 穴への脇道  下側の洞窟  側の洞窟跡  
       
2020/08/03 日乃峰神社下登山道下の人家まで降りる

他に洞窟がないかと下まで下りたが、見当たらなかった。
アスレチックの縄梯子の設備ががあるが何かは不明。
下りていく左側に金長神社本宮がある。
プレートには昭和14年、新興キネマ制作の金長阿波狸合戦がヒットしたのでお礼に神社を建てたとある

 アスレチックの網の設備  金長神社本宮
   


2020/06/07 A日乃峰神社の車道の鳥居から手前30m・車道北へ入り30mの洞窟(たぶん防空壕)

登山道を上がってきたサングラスのオッサンに聞いて見に行った。(2つの防空壕があると言うとった。)
日の峰神社へ行く車道の、鳥居から30m手前・登山道30m歩くと右側におっきょい口がポッカリ開いとる。
岩をくり抜いとって垂直の壁が奥まで続いとる
入口(上横幅140cm・下横幅70cm・高さ140cm)(入口天井奥まで750cm・入口下奥まで840cm)
洞窟中間横幅狭い所120cm・広い所170cm)(内部高さ180cm)
入口と前の道にシダが密生して行けんだけん鎌で刈ったけんど、やぶ蚊がようけ飛んできて刺された。
折角、穴を苦労して掘ったのに草だらけではかわいそうじゃけんのぅ。

鳥居から30m 入口 内部  奥の天井
 
 奥の下 中から 
       

2020/06/04 @日乃峰神社・南下の登山道・洞窟(たぶん防空壕)
眉山の徳島市が掘った防空壕に似とる
中に入らんだんで分からんけんど、入口が二つあって、中でつながっっとるようじゃ
(上側洞窟が3m奥で下側洞窟方面に直角に曲がっとる)
横穴式防空壕は、入口が2個あれば爆弾で入口が一つ埋まっても、もう一つの入口から出られる
実際、空襲で入口が埋まってしもて酸欠で死んだ人がおったんやと。
 
   「上側の洞窟」
横幅(入口130cm・奥70cm)高さ70cm
入口より3m奥で左(下洞窟方面)に直角に曲がっているが
「曲がって行き止まりになっとる・下洞窟とはつながっとらん(2020/08/03調査)」
下写真で懐中電灯の光が正面の壁に当たり反射しとるのが伺えると思う!
不覚にもメジャーで奥行の長さを測るのを忘れていたのじゃ


洞窟は土石で埋められていると思われ当時の高さは不明

「下側の洞窟」
横幅・120cm・高さ35cm
入口は木と土で埋められていて当時の高さは不明
まっすぐ奥へ続いており5mまでは計ったがそれ以上あるようじゃ
日乃峰山展望台碑 日乃峰神社   上側の洞窟と内部  曲がって行き止まり 
      
 下側の洞窟と内部   
         


2020/06/03  小松島市中田町桜馬場公園内の忠魂碑
建立は大正15年小松島在郷軍人分会。
同昭和3年の昭和天皇即位記念で玉垣を建設した碑も建っていました。

忠魂碑は 明治時代からの(日清・日露・日中・太平洋戦争)の戦死者を祀る碑。
塔の形は尖頭方錐型いうて先が尖っとる、軍人の持つ剣の形なんやと!

2020/05/10 徳島海軍航空隊斉田照空隊陣地跡(サーチライト・探照灯陣地) 撫養町斉田大池
 
「B-29がようけ飛んできょうるぞ・斉田の照空隊、探照灯の準備をしとけよ!以上」−松茂の基地から入電−

以前、鳴門市木津へ行ったとき聞いたら「大池に軍隊がおった言うんを聞いたことある」と散歩中のオバハンが言よった
大池の斉田照空隊は鳴門の人は知っとる人が多いんとちゃうか

鳴門霊園の道を真っすぐ行くと突き当りが鳴門市営球場
今回は途中左に曲がり上がって行った



尾根道の左側(南方向)に行くと棒杭山展望台に出る(徳島平野が一望できる←眉山がよう見える)


尾根道を右(北西の方向)に行くと掘った跡がある探照灯の施設を作っていたのだ。

山の中で穴や溝掘りしたん見せてもらうけんど、大変な労力をかけとる「エラカッタのぅ」
今回は全部見ていないので次回もう一回見に来よう

B-29は1万メートルを飛ぶというが、150センチ探照灯は有効照射距離8千メートル。
2千メートル届かんやないか?(しかし、山の上に置いたら距離が近くなる!)

松茂基地周辺に山がないから、一番近い鳴門斉田の山にサーチライトを置こうとしたんだろうか?

探照灯には電気がいる(発電機・変電設備)他に兵舎など
けんど、今は ここは変電機があったとこちゃうか?・この穴はサーチライトの管制器を置いたとこちゃうか?など
山を掘った跡が何だったかはわからん(便所だったかも知れん)

南の山の溝(3m×15m 丸く掘った跡 丸く掘った跡 北の山の溝(3m×15m
 


2020/05/04 岡宮の塚穴)防空壕←現存せず・板野町・岡上神社(岡宮神社)の南

岡上神社(岡宮神社)南の古墳(塚穴)を利用して大防空壕を作ったけんど、今は住宅街になっとって分かれへん。

(当時の新聞記事より)
1944年(昭和19年)8月、板野郡板西町大寺字岡宮部落会は史跡(岡宮の塚穴)を改築し
150人収容のトンネル式防空壕を完成させた(総延長16間3尺=約30m)
同年/8/25署長・町長・警防団長など有志が多数出席し完成式を行ったとあります。

帰りに、近くの(板野町の歴史の里)まで行きましたが、(コロナウィルス緊急事態宣言のため休館)
竪穴住居や瓦窯がありました。
ブランコや滑り台の遊具は、黄色いテープを張りめぐらせ使用禁止になっていました。

 
 岡上神社の大楠   岡上神社  住宅街 竪穴住居  瓦焼き釜 
           


2020/05/02(2回目探索)眉山中腹、旧パラボラアンテナ近く・鉱山廃坑跡洞窟(不明)

2020/4/27に行った今ある山頂のおっきょいパラボラアンテナのことではなかったんじゃ。
三島神社から登山道を上がる眉山中腹に、今は無いけんど昔はアンテナがあったようじゃ
大きな岩の後ろにコンクリートの基礎(四角い敷地)が3っつある
近くの鉱山跡は2つとも見つからんだ。(1975年にはあったようじゃけんどな)。
戦時中は、鉱山跡などを積極的に防空壕に活用しとったようじゃ。
山道を下りるとき膝が痛かったけんど、上がる時は痛ぅなかったのだ。
 大きな岩 コンクリートの旧アンテナ基礎   基礎の下の山  登山道中間の山

眉山山頂茂助ヶ原に布陣していた第6中隊の陣地退避壕物資貯蔵所
(不明)
見当たらない(1975年現存)。
パゴダの西側 山頂下の駐車場 

明治天皇聖徳仰碑
教育勅語発布40年記念で昭和7年(1932年)竣工
徳島県民十数万人の勤労奉仕・寄付で2年かけて完成じゃと
東郷平八郎いうたら日本海海戦でロシアのバルチック艦隊の前を東郷ターンした人じゃ

明治天皇の歌も、映画で見たけんど昭和天皇が日米開戦の御前会議のときに読んでたなぁ

明治天皇聖徳仰碑  東郷平八郎の筆  明治天皇の歌 四方の海

皆はらからと思う世に

など波風の

立ちさわぐらむ
     


剣山神社 
 


2020/04/26・2020/05/13 佐古の「三柱神社」「三島神社」上の防空壕探索
   三柱神社から上がるとコンクリートの塀で階段が塞がれとる 階段がない
三柱神社       
 

横の細道を進むと三島神社に入る

 勤労奉仕碑 三島神社境内には紀元2600年勤労奉仕碑がある

昭和15年は神武天皇の即位2600年目。(皇紀2600年)
全国的な記念事業で、ここ三島神社も勤労奉仕で境内の整備をしたようです。
 
 


珍しい姿勢の左右の狛犬  入口の狛犬は徳島市指定有形文化財で、「頭が腰より低うて飛び掛かる姿勢」をしとる。
普通は頭が高うて座っとるのに、襲いかかる姿。ここのは特に低い。
   
ここから眉山山頂へ上がる細道を行くと、左山麓に三カ所の防空壕があったらしい。
道から山に入って木の間を探索するもこれというのはない。
掘った跡らしきものはあったが不明・陣地跡らしき跡も散見されたが不明。
眉山には陸軍が配備され、大小様々の塹壕を掘って陣地構築をしていたようです。
内地防衛軍の「第2総軍第15方面軍第55軍歩兵第155師団歩兵第455連隊第1大隊第4・5・6中隊」「第2挺身中隊」「菊水部隊の独立歩兵第731大隊」が陣取っていたようです
  


防空壕跡? 陣地跡?  山を掘った跡が何カ所かあり何かあったと思うも

洞窟があるわけでなく不明

  
 


2020/05/13 分かれ道の中間の防空壕を再度見に行く。 
ここは、左右2つの入口があるが中でつながっている。
右側は崩れて土が落下し積もっているが上に隙間がある(中に鳥の羽が落ちている)

(左右洞窟の横幅全長8,5m)(左入口幅2、4m・内部洞窟横1、2m高さ1.6m)(中間土幅2.7m)
(左外入口幅2、5m・左奥入口幅2、2m・山の上まで高さ2、7m・上部全横幅3.3m)
 左右の洞窟  左の入口 左・中を見る  右の入口(崩れ)  右側・上の隙間 
         

    2020/04/15 徳島海軍航空隊(姫田隧道)飛行機格納庫・弾薬庫・燃料庫

鳴門市姫田大森滝尾山の薬師堂
2021/04/18

再調査
洞窟・爆風除けの測定をする/洞窟内は水で湿り、積もった土でジュルジュル・蝙蝠の糞が落ちている
入口格子下には犬(?)の糞がある

メジャーと服に泥が付着して汚い/ビデオ撮影は後で確認したら5m以内は写っていた
 

山の斜面の竹と木とツルの間を、服・荷物が木や竹に引っかかりながら木をまたいで這いまわる
「ススメ!ススメ!ヘイタイススメ!」
一番目の隧道)竹藪の中(思たより中は広いw・オッキョイw)
薬師堂裏のすぐ右横にあるレンガ造りの隧道(山を掘りレンガをトンネル状に積み土を被せる)。

入口は鉄筋の格子で入れんようにしとる・井戸のようなものが前にある(湧き水抜きか?)。
隧道前には爆風除けのレンガ基礎の胸壁


一番目の隧道(レンガ造り)  胸壁 井戸? 
 
二番目の隧道)ここも竹藪の中
竹藪を藪漕ぎして見に行くが、物スゴゥしんどかった。
ここも立派なレンガの隧道で中は同じく入口より広い

同じく、前には爆風除けのレンガ基礎の土盛り。
東側に二つ崩れた隧道跡があるそうだが、人家に近いので行かんだんでよ。
西側の池の方にも崩れた跡があるそうじゃけんど見に行かんだ
 二番目の隧道(レンガ造り) 竹と木の中  胸壁(爆風除け) 
         


2020/04/08 25mm3連装機銃の台座(底盤)、弾薬仮置場阿南ふれあい館)
「今は草ン中で休んどるんけんど、75年前はグラマンと戦いよったんじゃのぅ!」

久しぶりに戦跡見てきたぞぅ
小勝島に設置されていた海軍の25mm機銃3基の内一基を移設して仮置きしてある
三連装いうても底盤(台座)はまん丸でコンマイ、よう三連も載せれたもんじゃ
旋回手が方角、射手が俯仰角をハンドルを回して狙う
飛行機は速いけん、二人が手でハンドルグルグル回して狙うんではなかなか当たらんわのぅ!

三連装の要員は9人、2人乗せて周りを7人がグルグル回っとったんじゃ

小勝島には現在は四国電力の西日本最大の石炭火力発電所(入場禁止)がある
75年前には秘密の(海軍特攻基地)があったんじゃと
第6特攻戦隊第22突撃隊の司令部があり咬竜・海竜・回天などの特攻艇があったそうじゃ

余談じゃけんど、四電が1968年-1979年、小勝島対岸の蒲生田岬尻杭に
原子力発電所」を作ろうと計画しとったときがあるんじゃ
けんどこれは県民の反対で取止めになっとる
阿南教育委員会の看板 コンクリート製底盤 弾薬仮置場 


2020/02/04 勝瑞城跡(藍住)北側
見性寺・勝瑞義冢碑・三好氏の墓・濠・土塁・矢竹が植えてある
勝瑞城跡 南側
発掘中らしい、広い芝生の中に濠・礎石建物・枯山水庭園・館内区画溝があった


2019/02/04 徳島海軍航空隊送信所(藍住)

戦時中は海軍航空隊の無線送信所で、現在は民間企業が買い取って使用
工場建物は戦時中のものらしい、近辺にはアンテナや支線のコンクリート土台が残っているそうですが個人所有なので探しませんでした(梨畑や畑の中) 


2020/02/03 佐古山鉱山・佐古採石場

雑木林の下、日陰で育つアオキが密生しとる。
佐古採石場(青石の採取)の一角に銅鉱山の入口。
戦争時、銅を再採取しようと旧坑道まで260メートル掘った時点で終戦・未完成。
入口は崩れとって周りの石垣だけ。空襲の度に佐古の人がようけ避難しとったそうです。

2020/01/30 徳島海軍航空隊・木津防空壕(木津隧道)

カブで行ったんでとにかく寒かった。帰って鼻水が出て、風邪薬をのんだぞぅ。
散歩中のオバハンに地図を聞いたけんど、「あんた誰で?」と怪しい人扱い。
昔、ここに防空壕があったことは全然知りまへんw。
いろいろな所へ行き、トッショリに聞くけんど知らん人は多いのぅ

木津城の山(西に木津城山公園があります。)鳴門市火葬場の対岸
海軍の壕で、当時は1.5キロの長さがあったそうです。
竹藪の中にあり、入口は埋まってしまい掘った痕跡があるけんど不明
    
         
      帰り道
道路脇にあった六地蔵→
 
 


2020/01/18 敬台寺の防空壕 (徳島市が掘った防空壕)

入口は埋まっているそうですが多分写真の
赤←の所だと思います
貫通する予定だったそうですが終戦で未完成です
反対側の北側入口は、山の上から見ましたが分かりませんでした。
 
       
同、敬台寺の蜂須賀家正室の墓(空襲により墓石がヒビ割れしたそうです)
         


2020/01/16 徳島戦災犠牲者慰霊塔城山頂上付近)1955/07/04建立
昭和20年7月4日の徳島市大空襲の慰霊碑・碑文には1700人余りが犠牲になったとある。
   
         
城山山頂
徳島大空襲でここにあった護国神社も焼けて再建したが、2003年雑賀町に移転
     
       


2020/01/09 蔵本駅の長ぁいプラットフォームと泪さくら(くらもと桜)

蔵本に連隊があったんで、蔵本駅は輸送の重要駅、ようけつないだ列車が発着しとったそうです。
そのため、プラットフォームも他の駅と比べて非常に長い。
端から端まで歩いたけんどホンマに遠い。
桜の木があり標識に(泪桜)とあるが、入隊・出征する兵隊や家族の別れの「涙の桜」。
桜は植え替えられたようで若く細い。
(平成21年の写真は太い幹の桜です)
蔵本駅舎 列車が入ってきた 蔵清水  案内版
プラットフォーム  プラットフォーム  泪桜 泪桜


2020/01/08 「光仙寺−観音寺」中間の山腹の横穴式防空壕

陸軍・急造の護土兵団(第155師団・本部は新町国民学校)
第二大隊第五中隊(宿営地は八万小学校)が
徳島大空襲「1945年(昭和20年)7月4日」以前に掘った横穴式防空壕
部隊は、空襲後眉山中腹の竹林院前方に移駐(本部は竹林院)
移駐理由は、空襲で街が焼け海まで丸見えになったため眉山に後退配備

●一回目の訪問
墓の上にあり、貫通しており10メートル以上はある(金網も無く中に入れる)
向こう側の光が見えるが、中には入らなかった(青いコンテナが置いてある)
観音寺庭園側に貫通しているらしい。


2020/01/11 二回目訪問
一回目はスリッパで行ったけん中に入らず、山登りして反対側も見んだ。
今日は靴履いて気合い入れて行ったぞ。(崩れて生き埋めになったらハイそれまでよ)
中にいると貫通した観音寺側の穴から光が漏れてきょうる。
立ったまま歩けるから170センチ以上の高さがある。横幅も両手広げれるから広い
観音寺側の穴は狭いが、中は横幅・天井も北側の入口側より広いぞ
(穴の中から観音寺庭園が見える)
洞窟上の山は平たい所がある(山を削った跡)

         
         


2020/01/05 松茂町歴史民俗資料館

特攻機白菊の展示があると思い行ったけんど、ほれは無かった
昔、子供の時見た懐かし物が一杯あった。
お膳・おひつ・オクドハン・籾踏(からうす)などなど
イヤー!おもろかったw・帰り、隣の図書館も寄ってきたぞ
         


2020/01/03 眉山ドライブウェー旧第一ゲート付近の横穴式防空壕

ちゃんと「大東亜戦争・防空濠跡」と標識が立っている
第二大隊により掘削・迫撃砲陣地であったが砲は未配備のまま終戦を迎えた
金網で中に入れないが、昔は奥行20m-30mあった
今の入口は、ドライブウェー工事のため洞窟途中が現在位置になっている
奥は入口より広かった(中に入れんので現在は分かりません)
 


2019/12/20 護国神社神社はどこも駐車場も境内も広い 
「戦死した人の写真・服靴帽子・双眼鏡・弾丸、寄書」などなどようけ展示しとるのぅ
         


2019/12/18 船場橋起工碑
空襲による火災の熱でヒビが入ったらしい。
石がヒビ割れするとは、どんだけ熱かったんじゃろうのぅ
 
     


2019/12/16 松脂(マツヤニ)採取跡(津田)

戦時中、飛行機の燃料用に根からは松根油を採っていた
幹からはマツヤニ(松脂)を採っていた
たくさん「松の木」があるのに一本しか見つからなかった 
当時、日本には燃料がないけん、松から油を作ろうとしたんや
実際は松根油からは飛行機は飛ばなかったそうです。
     


209/12/15 父の像【城山力(ちから)ありそうや
護国神社に像の小型原型がありますw
 


2019/12/15 子供平和記念塔【城山】昭和23年竣工
祈・世界平和がつづくように
「全国の各小中学・米国・皇太子」寄贈の石を貼りつけている


2019/12/15 駆逐艦・追風のマスト【城山】 
 
マスト  マスト  マスト  説明文  鷲の門 


2019/12/14 さざれ石(文化の森総合公園内の王子神社・ねこ神さん)

君が代の歌にある「さざれ石」いうもんが置いてある。
君が代は・千代に八千代に・
「さざれ石」の・巌となりて・苔のむすまで
普通「おっきょい石がこまぁになる」が、逆に「こんまい石がおっきょい石になる」んじゃと
さざれ石  ネコ神さん  立札  ネコ人形  神社鳥居 


2020/09/22 モラエスの碑/像    
   
 阿波踊り会館前 新町小学校の像    潮音寺の墓 錦竜水 
碑文( 阿波踊り会館前)
ヴエンセスラオ デ モラエスは一八五四年ポルトガルのリスボンに生れ海軍中佐マカオ港務副司令を経て神戸総領事となった。大正二年その職を辞して亡妻ヨネの郷里である当市に来りヨネの姪
コハルと共に純日本的生活に浸りながら文筆に親しんだがやがて同女とも死別の後は両人の追慕と著述に孤独の余生を送り一九二九年(昭和四年)七月一日逝去した。著書に「日本精神」「徳島の盆踊」「おヨネと小春」等二十冊あり「日本の魂に取替えた人」と評される程に日本を心から愛し「故国の銀河を遠く離れて燦と輝く明星」と讃えられた麗筆でわが国の文化や人情風俗などを広く海外に紹介した。碑の付近一帯は翁が朝夕好んで逍遥したゆかりの地である。昭和二十九年七月一日 徳島市長 ○○○○  

なお、三人(コハル・モラエス・おヨネ)の墓は「阿波踊り会館」北側の潮音寺に並んで建っていました。
近くの「錦竜水」の水汲み場も写真を撮りに行ったが、二人ほど水を汲みに来ました。
 


2019/12/14 モラエス像 (眉山

ポルトガル人で日本に来て領事を務めた。
辞めた後、徳島に住んどったんじゃと
 モラエスと犬 ガゼボ  パゴダ遠景  眉山より南方 


2019/12/14   満蒙開拓青少年義勇軍の碑(眉山)

子供の頃、満蒙開拓義勇軍の引率者で「中国行とった」いう人のこと、聞いたあるなぁ!


2019/12/07 城東高校(空襲で焼け残った塀)一部だけ保存してある 


2019/12/06 蔵本の歩兵連隊跡 (今の徳大医学部の所が兵営 )

兵舎の生活=イヤだのぅ
 
 石碑
   
 
右→
土塀跡かも?
という人もいますが
不明です
  右→
昔もこんな溝が
あったいう人が
いますが不明
です
   


2019/12/04 西部ニューギニア戦没者慰霊碑(城山西)

現在、西部はインドネシア領・東部はパプアニューギニアの独立国
日本から5千キロも離れとるんじゃと
ようそんな遠いとこ行ったなぁ


2019/12/04 城山の横穴式防空壕跡(東側)助任川方面当時は奥行10mあった

徳島市が掘った横穴式防空壕(国庫補助あり)
徳島市土木課設計・工事主体は岡田組・朝鮮人労務者が昼夜三交替工事
徳島市民の動員は、危険で狭く大勢入れても進捗しないためしなかった
手ノミで穴をあけダイナマイトで掘り進む工事方法だったが、岩盤が堅く一日数十cmしか掘れないときがあったそうです


 
     
2019/12/04 城山の横穴式防空壕跡(西側) 機関車がある方

徳島市が掘った横穴式防空壕(
奥行30mはあったらしい)
近くにいた老人に聞いたが知らなかった。
近所の人でも知らない人は多い。

     
       
     
東側と西側を貫通してつなぐ予定だが未完成で終戦。


2019/12/04 城山の貝塚 遺跡の洞窟
貝塚  貝塚   貝塚   鳥居龍蔵の碑 
       


2019/12/01 東船場町高原石油ビルの窓ガラス

1945年7月4日、B29が徳島市を空襲。
その時の火事で窓ガラスにヒビが入っとる。  
 
       


2019/11/26 焼夷弾が当たった灯篭(滝薬師)

B29の焼夷弾が当たって欠けた、常慶院滝薬師にある灯篭を見てきたんでょ。
本では春日神社とあったが春日神社ではなかったんじゃ。
通りかかった人に聞いたが、「焼夷弾が当たったんでないか」という敷石2箇所も見たのだ。
 

2019/10/30 蒲生田岬・電探基地跡

旧海軍の電波探信儀(レーダー)基地跡を見てきた。
いうても土台しか残ってないけんどな。
資材を山の上まで運びあげるんもエラカッタだろうなぁ。
  
 蒲生田岬の灯台
 
           
電探基礎跡           


2020/11/01 民間航空発祥 (小松島市ステーションパーク・遊歩道沿い
小松島は民間航空発祥地なんじゃと
碑文
民間航空発祥の地碑
一・飛行日 大正二年十二月十五日
一・飛行  現在地より午後一時に日の峰山麓千代の松原へ向け発進す
一・着陸地 日開野町接待所
一・機種  カーチス式複葉機
一・操縦士 生原知重氏金磯町出身
一・生原知重氏略歴 明治三十七年十六歳にて単身渡米サンチャゴカーチス飛行学校に入学。
世界で第二二四番にて万国飛行免許状を得,大正二年八月飛行機購入の上帰国す。
飛行時年令二十七才
小松島ロータリークラブ創立四十周年記念事業としてこれを建つ 平成六年五月

  複葉機写真  操縦士写真  汽車のモニュメント



2019/10/09 小松島市・横須海岸の水上機桟橋

横須から複葉水上機が大阪の堺まで飛んでいっきょったようです。
戦時中は、小松島の海軍もここで練習しとったとか

2020/10/28再訪問
桟橋は4列あり、コンクリートがほぼ完全な状態で残っている
横の積石は波の影響で掘れ込んでている所もある。

 
横須海岸  南から1列目  南から2列目  南から3列目 南から4列目  


2019/09/07 小松島市・金磯の弁天山砲台跡
弁天山砲台説明文より)
江戸時代後半になると日本の近海には黒船がよくあらわれ、紀伊水道や小松島沿岸にも、外国の黒船がしきりにあらわれ、その付近の測量などをし、こちらの船が通ると、小舟を出して進路を変更させたり、作業が終わるまで船を通さなかったり、いろいろ横暴な態度が見られるようになった。1863(文久3)年、多田家九代の祖宗太郎は海岸の防備のため、私費を投じてこの山に砲台を築いた。大砲八門を備えた立派な砲台であった。宗太郎はこの砲台を藩に献上した。藩主斉裕は、その功績をたたえ、家来の身分に取り立て、兵隊40人に砲台を守るように命じた。兵隊たちは、毎日訓練に励み、その監視は明治二年、砲台が廃止されるまで一日も休むことなく続けられた。大砲八門の他、火薬庫、兵舎、番所、道具舎、射撃訓練場などを備えた弁天山砲台は、紀伊水道から大阪湾、瀬戸内海をにらんだ守りの中心であったといわれている。(金磯町協議会)

 金磯弁財天 金磯弁財天   金磯弁財天 金磯弁財天説明板
       
金磯弁財天  アコウの木   アコウの木・説明  弁天山砲台説明
       
 弁天山砲台説明  階段 頂上(遥拝所 ) 頂上(遥拝所 )
       
頂上(遥拝所 ) 頂上  頂上(遥拝所 ) 頂上(遥拝所 )
       
頂上 頂上(遥拝所 ) 南海岸階段  
       
   南休憩所  南の海岸  南の海岸 
        
    
金磯弁天山・海軍特攻艇「震洋」格納洞窟跡
兵隊像2体    兵隊像2体(腰にゴボー剣・軍帽)
明治42年3月19日・中郷村県前若連中奉納
 海軍隧道(北) 北隧道  北隧道(海側に貫通している)
    穴の中は暗くて写真に写らん
照明をつけんとアカン
 
海軍隧道(南) 南海側 南海側 南陸側(崩れている) 
     
隧道(洞穴)高さ2.5m、幅2.5m、奥行40m、
1845(
S19年)2月〜終戦掘削、極秘工事。
南北2本のトンネルを海側に掘り、横に連結する予定で、8割方完成していたそうな。
海軍は特攻艇「震洋」を格納する基地を弁天山に作っていたのではないかという調査がある
現在、南側のトンネルは落盤している。(上にコンクリート製の橋がかかっている)(北洞窟の海側入口落盤.隙間あり
弁天山頂上(祠あり)は「宮城遥拝所」だったそう。
   引き潮時、弁天山を海側から回り、海側からの洞窟の写真を撮ろうと思っている。
今までは、潮が引いていなかったり、引き潮なのにカメラを忘れたりうまくいかない。


2019/08/13 那賀川鉄橋の空襲弾痕12.7mm機関銃の穴は人差し指が入る)
    
    F4Uコルセア戦闘機 (チャンスボート社)

特徴)逆ガル翼
昭和20年7月30日、鉄橋に差しかかった列車が米戦闘機に攻撃され、乗客に死者負傷者が出た
米機の武装(
機銃 12.7mm×6門(弾数計2千発余)(有効射程2km)(最大射程6km)
今も厚い鉄橋の鉄板に穴が開き、へこみ、リベットが飛び鉄板がねじ曲がっとる。
「弾丸の12.7mmは
ブローニングM2重機関銃が使う弾で、厚い鉄板や貫通すんじゃ。恐るべし」
弾跡は、散歩中のジイヤンに聞いてようやく見つけることができたのじゃ。


「平和之碑文


太平洋戦争末期、奪回された南の島々を拠点に本土への空襲が激烈となり、都市という都市はB29の空襲で焼野原と化し、県都徳島市も一夜にして壊滅状態となる。
四国の長閑なわが町にも惨禍の爪痕が刻まれた。
昭和二十年七月三十日、午後四時満員の乗客を乗せた五両編成牟岐行きの列車が中島駅を発車、那賀川鉄橋に差しかかったとき、突然甲高い爆音とともに艦載機グラマン二機が飛来、列車めがけて投爆と機銃掃射を浴びせた。
列車の天井も座席も吹っ飛び、車両は大きく傾き鉄橋の上で立ち往生、その動かぬ標的に容赦なく機銃掃射を繰り返す。
鉄橋の線路つたいに逃げまどう者、たまらず川にいくつもの悲鳴が落ちていく、車内は一面肉片が散乱し血の海と化す。
三十余名が死亡、二十余名の重軽傷者を出す。
ただちに、警防団、婦人会、町内会の人々による、必死の
救援が始まり、死者は横井製材の土場に安置し、重傷者はトラックで共栄病院へ、軽症者は益崎医院へと迅速果敢に活動。
その夜、西光寺で営まれた仮通夜で冥福を祈る。
時は流れ33年後、法要が盛大に行われ、参列者の体験見聞記の小冊子「憶!七月三十日」が作られた。
平成十年、県婦人会の戦争を語り継ぐ会で「那賀川鉄橋列車爆撃」と題して紙芝居を発表、以来毎年夏には小中学生や一般の方にも語り続けられている。
戦乱に明け暮れた日々を必死に生き抜いてきた女性ゆえに、真剣に平和を願うものである。
戦争の愚かさと残酷さ、悲惨を繰り返さないよう平和の尊さ、命の大切さを次の世代に語り継ぐための戦後六十周年を記念し、石碑に刻みここに平和の碑を建立する。
平成十七年十二月吉日

事業概要
那賀川鉄橋列車爆撃 1945年7月30日 死者30余名 負傷者20余名
三十三回忌法要 1978 7月30日 小冊子「憶!七月三十日」中島老人会作
県戦争を語り継ぐ会 1998 那賀川町婦人会 紙芝居制作発表「那賀川鉄橋列車爆撃」
石碑建立 2005 60周年記念事業
那賀郡那賀川町婦人会

     


2019/07/20 原爆展(徳島県博物館・特設展示)

人と比べてもそんなにおっきょい爆弾でないが、ひとつの街を破壊する。
(広島と長崎で数十万人が犠牲になっとんじゃと)

 実物大の原爆の写真と人の比較 焼けた三輪車と鉄カブト


調査時の持物   
筆記用具(鉛筆と紙)
地図・タブレットPC
巻尺(30メートルと5メートル)の2個
懐中電灯
カメラ・三脚
草刈用カマ・折畳ノコギリ(チョウナ←重たいけん持って行くん止めた)

 Q&A
 問1
「なんで地図とか載せとらんのぇ?どこにあるか分からんでぇ
答え
「ヤフー地図やグー地図でも人が作ったもん著作権とかあるけん許可得るんがタイソウやけん載せとらん」

問2
どこで調べて見に行っきょんで?
「図書館の本や、インターネットで調べていっきょる。」

問3
写真がコンマァて分かりにくいし、家がハッキリ写っとらんでぇ
答え
「これも、個人情報あるけん見た所の写真そのまま載せとらん。道路や橋・景色だけのときもある。
ほれに、HPが100Mの容量オーバーにならんようにコンマァに数すくなぁにしとんでよ。

問4
字ぃだけでは分からんでぇ。(焼夷弾・機関銃、B-29・探照灯・F4Uコルセア)の写真や出してよ。ほうせんと分からんでぇ
「ネットで見たらようけ出とるけんど、著作権あるけん出しとらんのでょ。
 本やネットで、山のこの穴が「配電室、無線室、砲陣地だった」と書いとっても、そのまま書かんようにパクリせんようにしとる。
気ぃ使いヨンジャ」
  

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