小林秀雄文庫について
小林秀雄が持つてゐた大量の蔵書の一部は、成城学園に 「小林秀雄文庫」として保存されてゐます。その経緯は、 「成城国文学」に掲載された青柳恵介さんの論文に詳しく書かれて ゐます (「教育研究所にて保管している「小林秀雄文庫」について」、 『成城国文学』20巻2004年3月)。 これによれば、昭和五十一年に、山の上の家から八幡様の 前に引越した際に、蔵書の大半は処分されたが、残され た1490冊については、白洲明子さん、信哉さんから、成城 学園の教育研究所に寄贈されたのださうです。なほ、美術書は、 レコードと共に清春の白樺美術館に贈られたとの事です。
小林秀雄の残した本には、傍線が多数引 かれてをり、稀ではありますが、短い書き込みも見つかります。 さうした個所を集めてみると、何かおもしろい事が分るのでは ないか。そんな考へも浮かびますが、上記の青柳さんの論文には、 以下のやうな一節があります。
ダンボール箱に番号をつけ、該当する番号のカードにその 箱に収める本の書名を記す作業から本を運ぶ作業まで、明子 さんは終始手伝って下さった。「本は活用されてはじめて価 値があるのだから」と言って下さったが、同時に活用の方法 に一つの条件をつけられた。
「父が最も嫌がっていたこと」として、明子さんの強く言明 されたことは大略次の如きことである。自分の公表した文章 はおろそかにされ、断片的に書いたメモや葉書の一文を継ぎ 接ぎして自分の文章が引用されること。また、とるに足りな い瑣細な資料から何事かを詮索されることである。いささか、 飛躍するようであるが、私は明子さんの言を聞きつつ、小林 氏の「西行」の一節を反芻していた。《凡そ詩人を解するに は、その努めて現さうとしたところを極めるがよろしく、努 めて忘れようとし隠さうとしたところを詮索したとて、何が 得られるものではない。》さもありなん、小林氏の意志はは っきりご家族に受けつがれている、と感じた。
傍線箇所の蒐集は、まさに、上に引いた、小林秀雄が「最も嫌 がつてゐたこと」そのものだと言ふべきでせう。 また、小林秀雄は、時に本にメモを挿む習慣があつたらしいの ですが、さうしたメモは、ご家族が全て処分されたのださうで す。だとすれば、傍線や書き込みの持つ意味は、さらに小さな ものになると考へるべきでせう。
とは言へ、小林秀雄自身が引いた傍線があるのとないのとでは、 本を手に取つて見たときの印象が大きく異なることは、否定で きません。
併し、音樂の方に上手にからかはれてゐさへすれば、手紙に からかはれずに濟むのではあるまいか。手紙から音樂に行き着 く道はないとしても音樂の方から手紙に下りて來る小徑は見付 かるだらう。
この『モオツァルト』の一節を気ままに応用すれば、本文を尊 重することさへ忘れなければ、そこから本に引かれた傍線に下 りて行くことで、何かを得ることができるかも知れない、とは 言へないでせうか。 以下にご覧いただくのは、さうした思ひから書いた 感想文です。
全集など
残された本をざつと見渡すと、幾つかの全集が目につきます。愛読者の方はよくご存じのやうに、小林秀雄は、全集を読むことを勧めてゐました。『讀書について』(昭和14年)では、かう書いてゐます。
或る作家の全集を讀むのは非常にいゝ事だ。研究でもしようといふのでなければ、そんなことは全く無駄事だと思はれ勝ちだが、決してさうではない。讀書の樂しみの源泉にはいつも「文は人なり」といふ言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するには、全集を讀むのが、一番手つ取り早い而も確實な方法なのである。
(第五次全集、第六巻77頁)
「小林秀雄文庫」には、誰の全集が残されてゐるのでせうか。以下に「全集」といふ名がついてゐるものを列挙してみます。同じ「全集」でも、一巻のものから数十巻のものまで、量は様々です。(「全集」以外の名称のものは括弧内に書きました。)
新井白石
上田秋成
岡倉天心
荻生徂徠
鏑木清方
賀茂真淵
熊沢蕃山
契沖
津田左右吉
中江藤樹
中原中也
富士谷御杖(集)
藤原惺窩(集)
正宗白鳥
本居宣長
アラン(著作集)
ベルグソン
G・K・チェスタトン(著作集)
ジャン・コクトー
ドストエフスキー
エリオット
フロイド(選集)
ウィリアム・ジェイムズ(著作集)
ユング(著作集)
パスカル
プラトン
ヴァレリー
ヴィリエ・ド・リラダン
小林秀雄自身の全集は、第4次の「新訂小林秀雄全集」がありました。日本人の全集の多くは『本居宣長』関連のものです。
この他に、フランスのガリマール社が出してゐる Pleiade といふ叢書は、上質の紙を使つて1冊に1千頁以上を収め、フランスのみならず、世界の著名人の著作を集めてゐますが、この中で小林秀雄が残してゐたのは、次のものです。
アラン(3冊)
ボードレール(作品集)
デカルト(作品と書簡)
フローベール(作品集2冊)
マラルメ(全作品)
メリメ(小説集)
プラトン(全作品2冊)
ランボー(全作品)
ヴェルレーヌ(全詩作集)
出版社は別ですが、似たような体裁の本としては、ベルクソンの著作集も残されてゐました。ベルクソンについては、この他に主な著作全ての原著の単行本があり、死後に出された "ECRITS ET PAROLES" も3冊揃つてゐます。
以上のリストを見ると、多くは小林秀雄の作品で一度は言及された人達ですが、例外は、鏑木清方と富士谷御杖の二人です。その他の人でも、全集は残されてゐるのに、作品には殆ど名前が登場しない場合があります。チェスタトンはその例で、昭和24年に「芥川龍之介作品集」の内容見本のために書いた『感想』に、次の一文があるだけです。
芥川氏の作品は、學生時代非常に愛讀した。自殺された時、「芥川龍之介の美神と宿命」といふ文章を書いた。大學生時代である。今はどこへやら紛失して了つたが、僕の最初の評論である。内容は、もうよく覺えてゐないが、當時、バアナアド・ショオを論じたチェスタアトンの論文にひどく感心して、それを頭において芥川論を書いたのはよく覺えてゐる。
(第五次全集、第九巻128頁)
ヴィリエ・ド・リラダンも、昭和52年に書かれた「ヴィリエ・ド・リラダン全集」の内容見本に名前が出てくるだけですが、この文章を読むと、小林秀雄にとつては、思ひ出深い人であつたやうです。
學生時代、フランスのサンボリストの文學を耽読たんどくしてゐた。手前勝手な夢想を追ふひどく怠惰な學生だつたので、學校の講義などは、出來るだけ敬遠する事にしてゐたが、辰野先生のリイル・アダンの「コント・クリュエル」の講義には、その魅力に心を奪はれてゐた。
(第五次全集、第十三巻395頁)
(なほ、綴りを見れば、「リイル・アダン」といふ二語の続きなのですが、普通には続けて「リラダン」と読まれるやうです。)
この他、メルロ・ポンティの主な著作も、ほぼ揃つてゐます。また、全巻が揃つてはゐませんが、全集や著作集が2冊以上あるのは、ヘーゲル、マルセル、河上徹太郎、手塚富雄です。
福澤撰集
『福澤撰集』は、岩波文庫の一冊で、昭和13年7月発行の第二刷です。「小林秀雄文庫」に残されてゐる福澤諭吉の本は、これ一冊です。この本には、『福澤全集諸言』『學問のすゝめ』『帝室論』『瘠我慢の説』『明治十年丁丑公論』『女大學評論』『新女大學』の他、『時事論集』といふ題の下に幾つかの短い文章が収められてゐます。本には、鉛筆と青インクで傍線や○印などが付けられてゐて、少なくとも二度は読んだことが窺へます。
福澤諭吉は、小説家や画家などの芸術家を除けば、明治以降に活躍した日本人のうちで、小林秀雄が詳しく論じてゐる唯一の人物だと言へるでせう。小林は、先づ、『福翁自伝』を読んだやうです。1937(昭和12)年の『福翁自傳』に、次の様に書いてゐます。
この本は實に面白い。近頃は讀書の癖がすつかりよくなり、寢床の中で本を讀むなどといふ事も絶えてないが、こいつはつい床の中まで持ち込んで寢そびれちまつた。
福澤諭吉の全集は十七巻に上る浩瀚かうかんなものださうだが、この自傳を讀んで別に他の著作を讀みたいといふ氣は起こらなかつた。今日の讀者の心を未だ捕へる事が出來る要素、彼の著書のうちにあるさういふ要素は、悉ことごとくこの自傳の裡うちに凝つてゐるに相違ないといふ印象を受けた。あのあわたゞしい時勢にあわたゞしく考へ、巧みに時の流れに飛び乘つたこの啓蒙思想家の思想に大したものがあらう筈がないといふ風に漠然と考へてゐたが、この本はそれをはつきり掴ませてくれた。自分はたゞ文明文明と叫んで來た男だ、と彼は正直に書いてゐる。
「別に他の著作を讀みたいといふ氣は起こらなかつた。」と書いてゐるのですが、小林秀雄は、この後、『學問のすゝめ』、『文明論之概略』などの著作を読み、語ることになります。福澤の名は、短く言及されたものも含めて、以下の作品に登場してゐます。
『福翁自傳』
1937(昭和12)年 7月
『文藝批評の行方』
1937(昭和12)年 8月
『疑惑 I』
1938(昭和14)年 4月
『批評家と非常時』
1940(昭和15)年 8月
『感想』
1941(昭和16)年 1月
『歴史と文學』
1941(昭和16)年 3月〜 4月
『沼田多稼藏「日露陸戰新史」』
1941(昭和16)年 4月
『知識階級について』
1949(昭和24)年10月
『「ヘッダ・ガブラー」』
1950(昭和25)年12月
『考へるといふ事』
1962(昭和37)年 2月
『福澤諭吉』
1962(昭和37)年 6月
『天といふ言葉』
1962(昭和37)年11月
『常識について』
1964(昭和39)年10月〜11月
福澤諭吉に対する見方も、この間に、かなり変はつてゐるのですが、この変化は、先づ、『文明論之概略』を読んだことで生じたやうです。
先日、福澤諭吉の「文明論之概略」を讀んで、著者の精神が今も尚新しいのを痛感した。當時、文明といふ言葉が流行した樣に、今日では文化といふ言葉が流行してゐるが、當時、文明といふものを見た福澤諭吉の眼力の樣な生ま生ましい眼力で、今日の文化批評家が、文化といふものを見てゐるかどうか、僕には甚だ疑問に思はれた。
(『感想』)
ここでは、「當時の民心の騒亂、事物の紛擾」を前にして、さうした時代に生きる事が、「恰も一身にして二生を經るが如く一人にして兩身あるが如し」といふべき「僥倖」だと観じた福澤諭吉の「非凡な眼力」について、詳しく述べてをり、その後の作品でも、繰返しこの点に言及してゐます。
そして知識人の選良が期せずして到達した大問題は、わが國の傳統的文化と新しい西洋の文化とをどういふ具合に統一したらいゝかといふ事であつた。漱石も鴎外も一生涯この問題に惱んだ。福澤諭吉も言つた樣に、日本の知識人の生は二重になつてゐる。この大問題を離れてこれからの日本の文化はない。何故かといふとそれは日本人自ら解決するより外はない日本の文化の個性だからだ。
(『知識階級について』)
不平を言つても始るまい。寧ろ、福澤諭吉の樂天主義は、今日でも未だ有益だと思つてゐる方がいゝだらう、彼の考へによれば、われわれは、西洋文明といふ異物の到來によつて、「恰あたかも一身にして二生を經るが如き、一人にして兩身あるが如き」幸運を經驗してゐる。これは「既に體を成したる文明の内に居て、他國の有樣を推察してゐる西洋人輩」には到底味ふ事の出來ぬ日本の識者の僥倖げうかうである、といふ。處で、彼の樂天主義の美點は、彼が次の樣に考へるところにある。僥倖とは何か、「僥倖とは、即ち實驗の一事」である、自國にあつて、他國が實驗出來るといふ好機を掴んでゐるといふ事だ、「二生相比し、兩身相較し、其前生身に得たるものを以て、之を今生身に得たる西洋文明に照して、其形影の互に反射するを見ば、果して何の觀を爲す可きや」。
(『「ヘッダ・ガブラー」』)
なほ、上の引用文で「實驗」とあるのは、今の言葉の科学的実験といふ意味ではなく、実体験といふ意味に取るべきでせう。江戸時代の文化を生き、そして今や西洋の文化を生きることを余儀なくされてゐる、さうした明治時代の日本人の有り様を述べた言葉だと思ひます。かうした日本の文化と外国の文化との間にあつて、二重の生活を強ひられるといふ問題は、小林秀雄自身の問題でもあり、また、本居宣長の問題でもあつたと言へるでせう。
戦後の1962(昭和37)年の『福澤諭吉』は、福澤を主題に論じた文章ですが、ここでは、さらに、『學問のすゝめ』『痩我慢の説』『丁丑ていちう公論』『福澤全集緒言』 『福翁百話』が出てきます。『福翁百話』以外は、「小林秀雄文庫」に残された『福澤撰集』に収められてゐる文章です。
このあたりになると、福澤に対する評価は、『福翁自傳』の頃の「巧みに時の流れに飛び乘つたこの啓蒙思想家の思想に大したものがあらう筈がない」といふものとは、殆ど正反対になつてゐます。
言ふまでもなく、福澤諭吉は、わが國の精神史が、漢學から洋學に轉向する時の勢ひを、最も早く見て取つた人だが、この人の本當の豪えらさは、新學問の明敏な理解者解説者たるところにはなかつたのであり、この思想轉向に際して、日本の思想家が強ひられた特殊な意味合ひを、恐らく誰よりもはつきりと看破してゐたところにある。
(『福澤諭吉』)
福澤は、西洋文明に心醉し、巧みに時勢に乘じた人であり、彼の實學は世を益したが、思想家としては淺薄を免れないと考へる人も多いやうだが、私は採らない。何はともあれ、優れてゐた人間であつた事は確かなら、その優れてゐた所以を研究すれば、私には足りるやうである。くどいやうだが繰返す。彼は、生れ合はせた時と場所との爲に、實にさつぱりと己れが捨てられた思想家だと思ふ。
(『天といふ言葉』)
* * *
小林秀雄は、福澤諭吉について語ることで、何を言はうとしたのでせうか。1962(昭和37)年に、「考へるヒ ント」の一つとして書かれた『福澤諭吉』について、少し詳しくみてみませう。
『福澤諭吉』の最初の四つの段落では、上に触れた「一身にして二生を経る」といふ「僥倖」について、『文明論之概略』の緒言を基に述べてゐます。第五段落からは、『學問のすゝめ』に話が進み、「私立」といふ考へ方が主題となります。今の言葉では、「私立」といふのは、「公立」の対語として、学校の形容くらゐにしか使はれま せんが、福澤の言ふ「私立」は、官に依存せず、国民が自らの力で立つ、といふ考へから出てゐる言葉です。
この段落の初めの、「彼の「學問のすゝめ」は、洋學のすゝめではなかつた。」といふ文に、注目すべきでせう。福澤諭吉は洋学を勧めた、といふのが一般的な見方ですから、一見、非常に逆説的な言葉です。しかし、小林秀雄は、「洋學はすゝめるまでもない急激な流行であつた」ので、むしろ、福澤の眼に映つてゐた問題は、「西洋者流は時流には乘つたが、自覺を缺いて」をり、「獨立の丹心の發露」といふものが見られないことであつた、と考へるのです。「彼等の人格は分裂してゐるのだ。」
福澤諭吉の直面してゐたのは、小林秀雄も引用してゐる部分ですが、
民間の事業十に七八は官の關せざるものなし是れを以て世の人心益其風に靡き官を慕ひ官を頼み官を恐れ官に諂ひ毫も獨立の丹心を發露する者なくして其醜體見るに忍びざることなり
といふ当時の日本の現状でした。福澤は、「日本には唯政府ありて未だ國民あらずと云ふも可なり」とも言つてゐます。(『福澤撰集』から引用してゐます。岩波文庫版『学問のすゝめ』では、41頁。)
これらの文は、『學問のすゝめ』の四編「学者の職分を論ず」にあります。福澤には、一国の力は国民の独立心を基礎としてゐるといふ考へがあつて、その独立心を育てることこそ、学者の使命だと考へてゐたやうです。
小林秀雄は、かうした福澤の考へを十分に理解してゐたと見て良いでせうが、その関心は、変化の激しい世の中で、人は如何に生きるべきか、といふ倫理的な問題にあつたやうに見えます。
「學問のすゝめ」は科學方法論ではないし、「文明論之概略」は、新文明説入門でもない。福澤諭吉といふ人間が賭けられた啓蒙書なのである。過渡期とは言葉ではない。保守家と洋癖家との議論の紛糾ではない。自らが、めいめいの工夫によつて處すべき困難な實相である。處すべき實相を答案の用意ある問題にすり代へてはならぬ。過渡期は外に在る議論の對象ではない。「一身にして二生を經る」君自身の内的な經驗そのものである。これが福澤の説いた「私立」本義であり、彼の啓蒙が目指したものだ。これは難かしい事であつた。今日ではもう易しい事になつたと誰に言へよう。過渡期でない歴史はない。
(第五次全集、第十二巻、333頁)
小林秀雄は、また、福澤諭吉が、西洋文明の優れた点を強調しながらも、日本の独立といふ基本的な課題から眼を離さなかつた点に、読者の注意を促してゐます。「福澤としては、慶應義塾の學生の爲に」で始まる第十六段落に引用された『福澤全集緒言』の一節は、かうした福澤の考へを良く示したものだと言へるでせう。
鳥羽伏見の戦の後、江戸に還つた徳川慶喜を追ふ形で、東征軍が江戸に迫つた折、外国公館と縁のある人々の中には、その雇用者であるといふ証明書を貰つて、「官軍乱暴の災」を免れようとする人達がをり、福澤諭吉の許にも、米国公使館から、証明書を出す用意があるとの話が届いた際の、慶應義塾内での議論で出された意見です。
米大使の深切は實に感謝に堪へずと雖も、抑そもそも今 囘の戰亂は我日本國の内事にして外人の知る所に非ず。吾々は紛れもなき日本國民にして禍福共に國の時運に一任するこそ本意なれ、東下の官軍或は亂暴たらんなれども、唯是れ日本國人の亂暴のみ、我々は假令ひ誤て白刃に斃たふるることあるも、苟いやしくも外國人の庇護を被りて内亂の災を免れんとする者に非ず、西洋文明の輸入は我々の本願にして、彼を學び彼を慕ひ畢生ひつせい他事なしと雖も、學問は學問なり、立國は立國なり決して之を混淆こんかうす可らず
(第五次全集、第十二巻、336頁)
この発言をしたのは、福澤の友人で慶應義塾の塾長にもなつた小幡篤次郎の実弟、仁三郎で、福澤は「十餘年前米國遊學中に病死」と註を付してゐます。なほ、原文では、「米大使」は「米公使」です。
とは言へ、福澤諭吉が単純な愛国主義者ではなかつたことは勿論で、小林秀雄は、『痩我慢の説』を取り上げながら、この点についても丁寧に書いてゐます。
「痩我慢の説」は、「立國は私なり、公に非ざるなり」といふ文句から始つてゐる。物事を考へ詰めて行けば、福澤に言はせれば、「哲學流」に考へれば、一地方、一國のうちで身を立てるのが私情から發する如く、世界各國の立國も、各國民の私情に出てゐる事は自明な筈である。これは「自然の公道」ではなく、人生開闢かいびやく以來の實状である。 この物事の實を先づ確めて置かないから、忠君愛國などといふ美名に、惑はされるのである。高が國民の私情に過ぎぬものを、國民最上の美コと稱するのは不思議である。世人は、物を考へ詰めるのを嫌がるから、「哲學の私情は立國の公道」であるといふこの不思議な實社會の實状が見えない。
(第五次全集、第十二巻、339頁)
「哲學の私情は立國の公道」といふ明察を保持してゐなければ、公道は公認の美コと化して人々を醉はせるか或は習慣的義務と化して人々を引廻すのである。これは事の成行きであり勢ひであつて、これに抵抗しないところに、人間の獨立、私立があるわけがない。
(第五次全集、第十二巻、340頁)
精神の自立をすゝめようとする福澤の目には、「古の政府は民の力を挫くじき、今の政府は其心を奪ふ。古の政府は民の外を犯し、今の政府は其内を制す」といふ有樣が見えてゐた。「學問のすゝめ」は「必ず我輩の任ずる所にして、先づ我より事の端を開く」事であり、「政府の能くする所に非ず、又今の洋學者流も依頼するに足らず」と考へてゐた。これは「痩我慢の説」と成らざるを得ないものである。「痩我慢」といふ言葉は俗語だが、福澤の、この言葉の使ひ方は「哲學流」なのである。といふのは、福澤の考へによれば、例へば、「士道」といふ高級な言葉は、人々に有難がられて、直ぐ俗化するが、「痩我慢」と言つて置けば、これ以上俗化する心配は要らない、といふ意味だ。
(第五次全集、第十二巻、340頁)
「痩我慢」といふ俗語を用ゐた福澤諭吉の意図を、ここまで踏み込んで考へた人は、少いのではないでせうか。
* * *
『福澤諭吉』は、『學問のすゝめ』の十三編「怨望の人間に害あるを論ず」に関する論で締めくくられてゐます。末尾の部分を読むと、小林秀雄の眼に映つてゐた当時の日本の問題が何であつたかが、浮かび上がつて来るやうに思はれます。
この怨望といふ、最も平易な、それ故に最も一般的な不コの上に、福澤の「私立」の困難は考へられてゐた。もし、さうでなかつたら、彼は「私立」を説いて、「獨立の丹心」とか「私立の本心」とかいふ言葉が使ひたくなつた筈もなかつた。「士道」が「民主主義」に變つても、困難には變りはない。「士道」は「私立」の外を犯したが、「民主主義」は、「私立」の内を腐らせる。福澤は、この事に氣附いてゐた日本最初の思想家である。
「民主主義」が「私立」の内を腐らせるといふ部分を読んで、小林秀雄が民主主義を否定したと早合点する人もゐるかもしれませんが、真の民主主義に必要な私立を説かうとしてゐたのだと考へるべきでせう。
しかし、やはり、誤解はあつたやうです。同じ年の十一月の「考へるヒント」には、『天といふ言葉』といふ題で文章を書いてゐますが、その中に、かういふ一節があります。
前に、福澤諭吉の思想に觸れた折、彼の豪さは、單に、西洋文明の明敏な理解者、紹介者たるところにあつたのではなく、そのこちら側の受取り方なり受取る意味合ひなりを、誰よりもはつきりと考へてゐた處にあつた、外來の知識は、私達に新しい活路を示したが、同時に、新しい現実の窮境も示した事を、見抜いてゐた點にあつた、それに就いて、管見を述べたのだが、未知の讀者から批判や質問を受けて、問題の微妙を改めて感じた。
(第五次全集、第十二巻、367頁)
小林秀雄にとつて福澤諭吉とは如何なる人物であつたかを示す文を、この文章から、いくつか引用してみませう。
福澤といふ人は、思想の激變期に、物を尋常に考へるには、大才と勇氣とを要する事を證してみせた人だ。彼の思想の力或は現實性は、面倒な意味でのその實證性或は論理性にあるより、むしろ普通の意味で、その率直性にあつた、と私は考へてゐる。
(第五次全集、第十二巻、367頁)
福澤の文明論に隱れてゐる彼の自覺とは、眼前の文化の實相に密着した、默してゐる一種の視力のやうに思へる。これは、論では間に合はぬ困難な實相から問ひかけられてゐる事に、よく堪へてゐる、困難を易しくしようともしないし、勝手に解釋しようともしないで、たゞ大變よくこれに堪へてゐる、さういふ一種の視力が、私には直覺される。「恰も一身にして二生を經るが如」き經驗とは、その直かな表現なのである。
(第五次全集、第十二巻、368頁)
福澤は、東西文明の激突によつて生じた文明の紛糾の條件なり原因なりを分析し、その解釋解法を求めた人ではない。私達が出會つた文明の紛糾自體の形に、眼を据ゑた人だ。見れば見るほど、その姿は日本獨特のものと映り、その個性を、そつくり信じた人だ。彼は、恰も、林檎を描かうとして林檎の個性を見て信ずる畫家のやうに、文明の歴史的個性を見てこれを信じたのであり、この無私なヴィジョンのうちだけに、活路を見出した。自分の弱點を正すには、他人の美點が參考になるといふやうな中途半端な事を考へた人ではない。
(第五次全集、第十二巻、369頁)
かうした福澤諭吉のヴィジョンの力は、格別なものではない、と小林秀雄は言つてゐます。
生活力の強い、明敏な常識を持つた人々が、その個人的な窮境を打開するのと同じやり方であり、これを福澤は、思想人として、はつきり自覺してゐたまでだ。
(第五次全集、第十二巻、370頁)
そして、この言はば当り前のやり方を見失つてゐる「今日の思想家」について、懸念を表明するのです。
さういふところに在る決斷なり無私なりが、今日の思想家氣質には、解りにくいものとなつてゐるのではないか、と私は思ふ。今日では、もはや、さういつた樂天的精神は、思想家には許されぬ、と言ふかも知れないが、これは樂天的精神といふやうなものではなく、思想家の鹽しほとも言ふべき、無私の精神なのである。これが、解りにくゝなるとは面白くない傾向だ。本質的な意味でシニスムを缺いた無私が、通俗的な意味で樂天的と見えるやうな、そんな知的雰圍氣のなかで、私達は平氣で暮してゐるのではあるまいか、と私は疑ふ。
(第五次全集、第十二巻、370頁)
この疑ひが、そもそも小林秀雄が福澤諭吉を取り上げた動機であつたやうにも思はれます。
小林秀雄が読んだ『福澤撰集』には、傍線等で印が付けられてゐるものの、作品では言及されなかつた個所も多いのですが、最後に、その中で興味深いものを、二つだけ挙げて置きませう。
一つは、『福澤全集諸言』で、福澤が自らの「俗文主義」について述べてゐる部分です。この辺りには幾つか印が付されてゐるのですが、その一つに、以下に引く、蓮如の「御文章」を文章を書く際の手本として参考にした、と述べてゐる個所があります。小林秀雄は、文筆家として、福澤の文章修業に興味を持つたのではないでせうか。あるいは、仏教が日本語の文章の形成に果たした役割に注目してゐたのかも知れません。
又余が若年十七八歳の頃、舊藩地豐前中津に居るとき家兄が朋友と何か文章の事を断ずる其談話中に和文の假名使ひは眞宗蓮如上人の御文章おふみさまに限る、是れは名文なり云々と頻りに稱贊する余は傍より之を聞て始めて蓮如上人の文章家たることを知りたれども其御文章とは如何なる書籍にや目に觸れたることもなく唯一時長者の文談を聞流しにしたるまでのことなりしが其後數年を經て江戸に來り洋書翻譯を試るときに至りて前年の事を思出し右御文章の合本一冊を買求めて之を見れば如何にも平易なる假名交りの文章にして甚だ讀易し是れは面白しとて幾度も通覽熟讀して一時は暗記したるものもあり之が爲めに佛法の信心發起は疑はしけれども多少にても假名文章の風を學び得たるは蓮如上人の功コなる可し
(『福澤撰集』10頁)
もう一つは、『帝室論』の中で、日本文化の保存に皇室が大きな役割を果たすべきだ、と述べた部分です。小林秀雄は、皇室の在り方に強い関心を懐いてゐましたし、日本文化の例として福澤が何を列挙してゐるかにも関心を持つたのではないか、と想像されます。
太陽暦を用ひて五節句を廢し三百藩を廢して城郭を毀ち神佛混淆を禁じて寺社の風景を傷ふたるが如きは今更恢復するも難からん又今の事實の利害に於て恢復す可らざるものもあらんなれば是等は姑く不問に附して爰に我輩の特に注目する所は日本固有の技藝にして今日これを保存せんと欲すれば其事難からず之を放却すれば遂に其痕を絶つの恐あるもの即是れなり日本の技藝に書畫あり彫刻あり劒槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸禮式、音樂、能樂、圍碁將棋、插花、茶の湯、薫香等其他大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔繪塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀劒鍛冶の術等我輩は逐一これを記し能はずと雖ども其目甚だ多きことならん是等の諸藝術は日本固有の文明にして今日の勢既に大なる震動に逢ふて次第に衰へんとするものたれば之を其未だ滅了せざるに救ふは實に焦眉の急と云ふ可し如何となれば藝術は數學器械學化學等に異にして數と時とを以て計る可きものにあらず規則の書を以て 傳ふ可きものに非ず殊に日本古來の風にして假令ひ規則に據る可きものにしても所謂人々家々の秘法に傳はる者多くして其人に存するが故に其人亡れば其藝術も共に亡ぶ可きは當然の數にして今日僅に其人を存し然かも其人は將さに自然に亡びんとするの時なればなり今この急を救ふの策果して如何す可きや之を今日の文部省に托す可らず之を托せんとするも省の資格に於て行はれ難きもの多からん況や國會政府たるの後に於てをや唯冷なる法律と規則とに依頼して道理の中に局促し以て僅に國民の外形を理する政府の官省が目下の人事に不用なる藝術を支配して特に之を保護獎勵せんとするが如き全く想像外の事にして唯此際に依頼して望むべきは帝室あるのみ帝室は政治社會の外に立て高尚なる學問の中心となり兼て又諸藝術を保存して其衰頽を救はせ給ふ可きものなり
(『福澤撰集』204〜205頁)
なほ、福澤諭吉の作品は、慶應義塾大学のサイトで読むことができます。検索機能も付いてをり、とても便利です。
アラン『藝術論集』
アラン『藝術論集』は、桑原武夫訳で、繰返し読んだためでせうか、表紙やと びらが取れてしまつてゐて、出版社や発行年月を確認すること ができないのですが、国会図書館のデータによれば、桑原武夫 訳の『藝術論集』は、岩波書店から1941年に出されてをり、 同じ年に、小林秀雄は「アランの「藝術論集」」といふ文章を 書いてゐるので、「小林秀雄文庫」の本は、これだと推測され ます。
小林秀雄とアランの出会ひについては、「アランの事」(第五 次全集第3巻70〜74頁)に書かれてゐます。フランス書院 といふ本屋で『精神と情念に関する八十一章』を見つけ、「こ んな表題をつける人は並みの學者ぢやないといふ氣がふとして 買つて歸り、一氣に讀み茫然として偉い男だと思」ひ、「早速 辰野先生の家に行き、アランといふ人がゐるが、他に本があつ たら貸して欲しい」と頼んで、『思想と年齢』を借りて読み、 「アランといふ人がほゞわかつた氣がした」とあります。『八 十一章』は、後に、『精神と情熱とに關する八十一章』といふ 題で、翻訳、出版してゐます。
小林秀雄がアランに言及してゐるのは、上記の「アランの事」 が最初ですが、年代順に並べると、以下の作品や対談にアラン の名が登場してゐます。
アランの事
1934年
「文學界」編輯後記7
1935年
演劇について
1936年
「精神と情熱とに關する八十一章」飜譯
1936年
「精神と情熱とに關する八十一章」譯者後記
1936年
湯ヶ島
1937年
フロオベルの「ボヴァリイ夫人」
1937年
「デカルト選集」
1939年
アラン「大戰の思ひ出」
1940年
アランの「藝術論集」
1941年
私の人生觀
1949年
「ペスト」 I
1950年
現代文學とは何か 對談
1951年
文學の四十年 對談
1965年
「精神と情熱とに關する八十一章」譯者あとがき
1978年
これから分るやうに、小林秀雄が、アランについての文章を発 表したのは、1978年に創元選書の一冊として復刊された 『八十一章』のために書いた「訳者あとがき」を除けば、19 50年が最後で、その他には、対談で言及してゐるだけですが、 アランについての関心は持ち続けたやうです。 1981年7月に講談社から出た『小林秀雄全翻訳』の解題で、 郡司勝義氏は、かう書いてをられます。
「神々」「芸術二十講」「定義集」など、アランは、小林氏 の今日でもなお愛読してやまない著者の一人である。
「小林秀雄文庫」には、アランの著作やアランに関する本が 30冊残されてをり、この郡司氏の発言を裏付けてゐます。以 下に、それを、出版順に列挙してみませう。 なほ、以下に示す年月は、「小林秀雄文庫」に残されてゐた本 が出版(ないし印刷)された年月です。小林秀雄が入手したの が二版以降のものであることも多いので、初版の出版年月とは 必ずしも一致しません。小林秀雄が、ここに示した年月に、そ の本を入手したとは言へませんが、それ以降に手に入れたこと は確かです。
『バルザック』
アラン 小西茂也訳
1940年9月
『藝術論集』
アラン 桑原武夫訳
1941年(?)
『人間論』
アラン 鈴木清訳
1941年9月
『情念について』
アラン 小西茂也訳
1942年7月
『信仰についての談話』
アラン 松浪信三郎訳
1942年8月
"Spinoza"
Emile Chartier (Alain)
1949年1月
『わが思索のあと』
アラン 森有正訳
1949年3月
『文学論』
アラン 片山敏彦訳
1950年2月
『哲学入門 思想・上』
アラン 吉田秀和訳
1951年1月
"Alain"
Andre Maurois
1951年2月
"Preliminaire a l'Esthetique"
Alain
1951年12月
"Hommage a Alain"
La Nouvelle Revue Francaise
1952年8月
『神々』
アラン 井沢義雄訳
1956年10月
"Pour Connaitre la Pensee d'Alain"
Georges Pascal
1957年1月
『幸福論』
アラン 石川湧訳
1958年12月
"Alain - Lecteur de Balzac et de Standhal"
Judith Robinson
1958年4月
"Les Arts et les Dieux" (Pleiade)
Alain
1961年9月
『アラン著作集6 イデー −哲学入門−』
渡辺秀訳
1964年2月
"Les Passions et la Sagesse" (Pleiade)
Alain
1964年2月
『アラン著作集3 情念について』
古賀照一訳
1964年6月
『アラン著作集4 人間論』
原亨吉訳
1964年6月
『アラン著作集8 わが思索のあと』
田島節夫訳
1964年7月
『アラン著作集2 幸福論』
串田孫一他訳
1965年9月
"Propos" (Pleiade)
Alain
1965年10月
『アラン著作集1 思想と行動のために−哲学概論−』
中村雄二郎訳
1966年5月
『アラン著作集7 教育論』
八木冕訳
1966年5月
『アラン著作集5 芸術について』
矢内原伊作訳
1974年3月
『精神と情熱とに関する八十一章』
アラン 小林秀雄訳
1978年12月
『經濟隨筆』
アラン 橋田和道訳
1979年7月
『音楽家訪問』
アラン 杉本秀太郎訳
1980年1月
最初に読んだといふ"Quatre-vingt-un Chapitres sur l'Esprit et les Passions"は残つてゐませんが、アランについての文章 を発表しなくなつてからも、アラン関連の本を読み続けてをり、 1960年代には、著作集やPleiade叢書を入手してゐて、アラ ンの著作を体系的に読まうとしてゐたことが窺はれます。
リストにある、橋田和道訳『經濟隨筆』は非売品で、訳者が自 費出版されたものだと思はれます。橋田氏は、奥付に、昭和9 年生、兵庫県出身、小樽商科大学卒、日新火災海上保険(株)勤 務、とあり、仕事の傍ら、翻訳された方のやうです。「あとが き」を読むと、フランスにある「アラン友の会」の会員となつ てをられ、不明な点はフランス人のご友人に尋ねられたことが 分り、アランに対する思ひの強さと、翻訳に対する真剣な態度 には、頭が下がります。小林秀雄の愛読者でもあつて、贈呈さ れたのではないではないかと想像されます。
なほ、アランが芸術について書いた本には、"Systeme des Beaux- Arts"(『芸術の体系』1920年)と"Vingt Lecons sur les Beaux-Arts"(『芸術二十講』1931年)の二つがあり、ここ で取り上げる桑原武夫訳『藝術論集』は、前者を訳したもので す。
* * *
アランが"Systeme des Beaux-Arts"を書き始めたのは、『精神 と情念に関する八十一章』と同様に、第一次世界大戦の戦場で した。終戦後に書き足され、1920年に出版。1926年の 改訂版では、9つの註が追加されてゐます。桑原武夫訳『藝術 論集』は、この1926年版が底本です。
この本を、小林秀雄はどう読んだか。「アランの「藝術論集」」 は、短い文章なので、全文を読んでみませう。
藝術を愛する人々は、美といふものを定義しようとも證明し ようともしない、愛してさへゐれば、そんな必要がないからで はなく、愛してゐることが美の定義も證明も不可能だとはつき り教へてくれてゐるからである。
これはわかり切つた事實であるが、このわかり切つた事實に 即して、美學といふものを工夫しようとした人がない。アラン はそれを試みた。
彼は藝術に關する獨特の説といふやうなものを編み出したの ではない。さまざまな藝術が、實際に有する動かす事のでき ぬ組織システムを 忠實に記述し説明しようと試みたのである。
一つ一つの藝術作品に對する自分の直接な確實な趣味判斷を 信じて、これを純化する事。これが、各種の藝術が、めいめい の獨特の内容と形式を持つて、自足してゐる所以ゆゑんを 知る唯一の道である事。
又、その事だけが、諸藝術の間の本當の關係を自ら僕等に教 へるといふ事。さういふ事を納得させる仕事、アランは、これ を坑道を掘り進めて行つた殆ど地下的と言つてよい仕事と言つ てゐる。
(第五次全集 第7巻262頁)
桑原武夫訳には、アラン本人が「日本の読者の為に」と題した 序文を寄せてゐます。上の引用に出てくる「坑道を掘り進めて 行つた殆ど地下的と言つてよい仕事」といふアランの言葉は、 この序文にあるものです。
「各種の藝術が、めいめいの獨特の内容と形式を持つて、自足 してゐる」といふ点については、アラン自身が、この本の序文 に、「芸術の体系」といふ本の題名に関する注意といふ形で、次 のやうに述べてゐます。
本の題名にだまされることのないように。わたしの述べる考 えは、あらかじめ設定された上位の概念に依存するものではな いし、すべての芸術を簡潔なことばで定義するような一般概念 に通じるものでもない。わたしとしてはむしろ、ちがいと分離 と対立のさまを示すことに努め、もって、可能なかぎり作品そ のものに── 一つ一つが確固たる自足した存在としてある作品 そのものに──即つきしたがおうとしたのだ。しかし、主 題となる芸術がゆるぎなく存在するものであったがゆえに、分 離や対立やちがいを通して相互の緊密なつながりが浮かび上が り、本の全体が「体系」の名にふさわしいものとなった。
(長谷川宏訳『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、13頁)
2008年1月に出された長谷川宏氏による翻訳で、"Systeme des Beaux-Arts"が、現代の日本の読者に身近なものとなつたの は、嬉しいことです。長谷川氏は、その「訳者あとがき」で、 桑原武夫訳『藝術論集』に触れてをられるので、一部、引用し てみます。
桑原武夫訳『芸術論集』は、難解なアランの文章を初めて日 本語に移した苦心の作で、私は一九六○年前後に手にしている。 読んでよく分かったとはいえず、やや時が経ってプレイヤード 版に収められた『スタンダール』や『バルザックと共に』や 『定義集』などとともにこれを原文で読み、着眼のおもしろさ と語り口の自在さに一驚したのだった。
翻訳するならアランの代表作の一つ『芸術の体系』に限ると 思った。ただ、すでに日本語訳がある本だから、新訳として出 すことにどれだけの意味があるのかが疑問だった。そこで、桑 原武夫訳『芸術論集』の改訂版『諸藝術の体系』を取りよせて 読んでみた。
訳文がいかにも堅苦しい。桑原武夫は、大いに話題を呼んだ あの『第二芸術論』などに見るかぎり、気取りのない、率直明 快なもの言いのなかに適度にユーモアも交まじえるといっ た文章家なのに、『諸芸術の体系』の訳文に限っては、原文 に即つきすぎた直訳調で、とてもすらすらとは読み進めない。
が、いざ訳そうとしてアランのフランス語に向き合うと、論 の脈絡をたどるのは容易なことではない。躓つまずいては 前の段落へ、さらにもう一つ前の段落へと還り、また、そこを 飛ばして先へと進み、論の切れ目まで来て改めてそこへ還って いく。そんな行きつ戻りつをなんどもくりかえした。そして、 そうやって文意を読みとる上では、堅苦しい桑原武夫訳『諸芸 術の体系』に大いに助けられた。原文と照らし合わせながらこ の訳本を読むと、そうか、そんなふうに読むのか、と納得させ られるところが何箇所もあった。そうは読めない、わたしはこ う読む、というところも少なくはなかったのだが。
なほ、『アラン著作集5 芸術について』に収められてゐるの は、"Systeme des Beaux-Arts"ではなく"Vingt Lecons sur les Beaux-Arts"(『芸術二十講』1931年)の翻訳です。
* * *
アランの『藝術論集』あるいは『芸術の体系』は、非常に興味 深い本ですが、私にはこれを十分に論じる用意がありませんの で、小林秀雄が『藝術論集』に印をつけたところに基づいて、 幾つか抜き出しながら、そのさはりをご紹介することとします。
『藝術論集』には、最初から最後まで、あちこちに全部で二百 余りの印が付けられてゐます。傍線の場合もありますが、ペー ジの上の余白に、横棒を引いたり、山形の印をつけたりしてゐ る場合が大半です。黒インク、青インク、鉛筆、赤鉛筆の四つ が使はれてをり、同じ場所に違ふ色で印が付されてゐる場合も あるのは、何度か繰り返し読んだからでせう。尤も、四種の筆 記用具を使つてゐるので読んだのは四回とは限りません。
先づ、第一巻「創造的想像力について」です。この巻は、言は ば総論で、芸術を考へる際の、アラン流の基本的な物の見方が 述べられてゐます。アランが戦場で書いたのは、この第一巻の 原形で、いくつかの章は、そのまま使はれてゐるやうです。最 後の第十章では、アランが考へる様々な芸術が列挙されてゐま す。下に掲げるのは、第七章「材料について」の一節です。
ここで肖像畫家の仕事を考へてみよう。彼がこれから取りか かる作品に使用すべき色彩を豫めすべて心の中で決めておく譯 にゆかぬのは明かである。觀念は彼が制作するにつれて湧いて 來る。あたかも繪の觀賞者におけると同じやうに、觀念は後か ら生まれて來る、そして畫家自身もまた生まれつつある自己の 作品の觀賞者だといふのがより正確であらう。そしてこれこそ 藝術家に固有なことである。天才は天與の恩寵を受けてゐて、 自ら驚くといふのでなければならない。美しい詩は先づ企畫の うちにあつて、それから作られるのではなく、美しいものとし て詩人に現れる。美しい彫像は彫刻家に、彼がそれを作つてゆ くにつれて、美しいものとして現れる。
第二巻は、「舞踊と化粧について」と題され、身体を使ふ芸術 が取り上げられてゐます。軍隊の舞踊、軽業師、衣装、流行な どを芸術として論じるのはアランらしいところでせう。第八章 「化粧について」の一節を見ませう。
自分はありのままに判斷される望みはないと諦めてゐる人が 多い。それは自分と他人との間に、動物性がその表徴と僞瞞の とばりを擴げてゐるからである。自分の思ふことを言はうと欲 するならば、心に浮ぶことをみな言つてしまつてはならない。 同樣に自己のありのままの姿を示さうと欲するならば、まづ外 見を抑制し、同時にそれを習慣と均衡に從つて構成しなければ ならない。さうしてはじめて、猿ではなしに一箇の人間が現れ てくるのである。
そして女の自然のままの姿は、恐らく人間にとつてなほ一そ うよそのものであらう。女はより弱く、より落着きを缺き、よ り變りやすいものであるから。だから諸君が女の真の表徴を捉 へ得るためには、その女は化粧してゐなければならない。化粧 し、變らぬ姿を示し、衣服をまとふその程度が少ければ、それ だけその女は諸君にとつてよそのものであり、當の女自身にと つても亦よそのものとなるのである。
後半の部分は、長谷川宏氏の訳では次のやうになつてゐます。 なほ、章題は「装飾について」と訳されてゐます。
さて、女性の自然なすがたは、男性のすがたよりも弱く、落 ち着きがなく、不安定なものだから、違和感が大きいはずだ。 だから、まわりがその人らしさをつかむには、装飾が欠かせな い。装飾が少なく、安定性に欠け、着衣の部分が少なくなると、 まわりの違和感がそれだけ増すし、当人も同じ違和感を感じる。
(『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、100頁)
第三巻「詩と雄辯について」からは、第二章「記憶術としての 詩について」の一節です。
詩は洗煉され規制された不可變的な雄辯であつて、共有的な 思想に適するものである。もし他にまさつて緊密な、豐かな、 心を打つものの言ひ方がありとするならば、誰しもこの貴い形 式を忘れまいといふ欲求を感じるであらう。かうした形式が豫 め知られてゐる律動(リヅム)に、またある昔の反復に出會ふ と、記憶力に安全感を與へる。これは書物なしの朗讀になくて はならぬ條件である。詩が印刷されてしまふと、かういふ精神 の喜びはさほどに感じられなくなる。思想といふものは對象を もたぬ限り浮浪的で形をなさぬものであることを決して忘れな いやうにしたい。想像力がほかの言葉で邪魔をし、やがて全く 無關係な思想が生まれてしまふのだ。殆んど讀書せず、また決 してものを書かぬ人々においては、對象の知覺が失はれるとす ぐに精神の彷徨状態、眞の錯亂を看取することができる。多く の人が、よく知りぬいてゐる機械の前では器用なばかりか、發 明的でさへあるのに、權利、平等、正義、幸福、情念などに關 するわづかの探求を試みても、幼稚きはまる思想を暴露するの はこの故である。
第四巻「音樂について」 第十章「音樂的表現について」から。
そこで私の思ふに、音樂の路は常に夢想から行動へ導くもの である。或ひは悲しみから信念へといつてもよい。私は信念と いつて希望とはいはぬ。希望は自己の外に救ひを求めるに對し、 信念は自己のみで力を有し、あらゆる恐怖の覊絆を脱して冒險 のうちに身を投じるからである。そして音樂は常に情念の動き を、それを癒やす動きへと連れ戻しつつ、詩以上に純粹化する やうに思はれる。だから、もし表現とは精神がいま一度救はれ たといふ事實を常に示すものであるならば、音樂は純粹表現で ある。もし人が自己を抛棄してしまひ、自己を再び捉へること をしないならば、内的生は各人のうちにおいてどうなるだらう か、考へてみるがよい。われわれが自分自身について有する意 識のうちにおいては、われわれは自己を支配するといふ行爲に よつて自己の存在を再構成するといふ條件の下に置かれてゐる。 すべて意識は覺醒である。そしてここでの逆説は、感情は認識 を豫想する、といふことである。自己の再把握なくして感じる 者は、感じてさへゐないのだ。純粹の恐怖は自己を認識しない。 全き絶望も同樣である。要するに表現し得ないものは感じられ たのではない。叫び聲や痙攣は自分自身をしか表現しない。そ して恐ろしさとは正にかうした表徴、何も意味しない表徴の靜 觀に伴はれる感情である。しかし表現が生まれるのは、人間の 形が再び現れる瞬間においてである。そして音樂は恐らく最も 純粹な、最も脆弱で最も力強い、最も容易に形をくづされ易い 人間の形である。
第五巻「演劇について」 第七章「涙について」から。
憐憫といふものは、行動がそれを擦りへらすのでない限り、 堪へ難いのが常である。行動を伴ふことなく、しかも反省され 味はれる觀客の憐憫は、涙なき絶望に至るものであらう。崇高 の感情といはれるものは、これに反し、外的な支へを必要とせ ぬ一つの希望、さらに適切にいへば、各人が自己の制御と超克 の力に對してもつ信念である。そして悲劇の力のすべては、あ のやうに身近かに又あのやうに遥かに感じられる不幸の眺めに よつて、超人的宇宙的な情念の激勵によつて、これらの禍をす べての禍に結びつける象徴によつて、しかもそれらのもののう ちにある秩序そのものによつて、そしてこれらすべてを結びつ ける詩的な力によつて、われわれをかかる境地に導き、またそ こにおいてわれわれの助けとなる。かくして純潔と勝利がこれ らの廢墟の上に据ゑられる。純粹な涙の意味するところはかく の如きものである。偉大な作品はだからわれわれを怖れさせた り、われわれに苦痛を與へるやうな卑しい眞似はせず、觀物の みによつて、對象の地位にまで引き下げられた不幸によつて、 われわれを恐怖と憐憫とから一瞬の間清めてくれる。アリスト テレスの言はんとしたのは疑ひもなくこのことである。
この部分は、原文が、次から次へと例を挙げる形で書かれてゐ て、文法構造の違ふ日本語に移し難い部分なので、長谷川宏氏 の訳もご紹介します。
同情は、行動によって消費されるのでないかぎり、つねに耐 えがたいものとなる。行動に出ることなく、その上、反省と趣 味に身を任せる観客の同情は、いうならば、涙なき絶望へと行 き着きかねない。それとは逆に、崇高な感情は外的な支えのな い希望であり、もっとうまくいえば、事態を支配し克服する自 分の力を信じるような心の状態である。実際、悲劇の力はすべ てわたしたちをそうした状態へと導く。遠近さまざまの風景や 不幸、超人的で宇宙的な狂乱、さまざまな悪をすべての悪と結 びつける象徴、いやさらに、物事の秩序そのもの、そして物事 一切を結びつける詩の力によって、わたしたちがそうした状態 にむかうのを助けるのだ。かくて、悲劇の廃墟の上に、純粋さ と勝利が確立される。それが純粋な涙の意味だ。だから、すぐ れた作品はわたしたちに恐れや苦しみをもたらすような野卑な ことはしない。恐怖や苦痛は舞台上にあらわれるだけだ。対象 の次元に降りてきた不幸によって、こちらは一時的に恐怖や同 情から浄化されるのだ。アリストテレスの言いたかったのもお そらくはそういうことだった。
(『芸術の体系』光文社古典新訳文庫、221頁)
なほ、「遠近さまざまの風景や不幸」と訳されてゐる部分は、 桑原武夫訳にあるやうに、「こんなに近くにありながらこんな に遠い風景や不幸」とするほうが分りやすいでせう。また「恐 怖や苦痛は舞台上にあらわれるだけだ。」といふ部分は、桑原 訳のやうに、「見世物となり、対象物となつた不幸によつて」 浄化する、と読むことも可能でせう。
第六巻「建築について」 第五章「裝飾について」から。
同じ理由によつて、燒繪硝子の藝術は鉛の骨組を隱さうとし てはならない。第一それは不可能である。誤魔化しのきかぬか うした藝術は、きはめて僅かの手段しかもたぬ陶器裝飾の藝術 と同じく、彫刻家や畫家にとつて眞の學校といふべきである。 それにまた裝飾の本質は、裝飾せんとするものの形に先づ從ふ 點にある。ここで裝飾の藝術と書かれた言語の作品との間に著 しい類似が認められる。語句の凝つたものは、何時も醜いもの だが、それはかういふ譬へが許されるならば、石材の繼ぎ目を 隱さうとし、事物を描くために語を歪めることに存するのであ る。かういふ表徴によつて、やがて亡ぶべき作品か否かの見分 けがつく。何故なら普通言語の單語と文章法によるつながりが、 ここでは硬い石と漆喰に相當するからである。そこですべて束 縛のない裝飾は醜いといふ考へにもう一度戻ろう。衣裳は殆ん ど何時の場合にも、他の裝飾されたものよりスティルに富むこ と、また何故着色刺繍が、單に繪畫たるにすぎぬ繪畫よりも容 易に人を喜ばすか、それらの理由はここに存するのである。し かし衣裳の必要から生まれた羅紗地が刺繍を一そう美しく見せ ることもまた何人にも氣付かれることである。着物の縁取りの 希臘紋 (grecque) も飾つてある時より、人間が着用して動いて ゐる時の方が一そう美しい。かういふ種類の考察も、あらゆる ことがそこに持出され、また支持された〔かうした藝術上の〕 問題においては、極めて有益である。あらゆる藝術の歴史は、 相續いで現れ、また理解できかねるやうなさまざまの趣味の過 ちを通して、傑作から傑作へと進展するものである。しかしと もかくそこから一つかなり明瞭な教訓が生まれる。即ち餘り自 由に過ぎる藝術は常に路を踏み迷ふといふことである。藝術は 作品の修飾であり、すべて作品は職人のものだともいへよう。 何故なら、自由が作品の外にあるものでないことは明かであり、 また人は、あたかも必要に迫られてコを行ふやうに、必要に迫 られて裝飾し、美をつくるのであるから。要するに一つの形は 常に何ものかを捉へ、また包むのでなければならない。言ひか へれば、形が物でなければならない。
第七巻「彫刻について」 第三章「運動について」から。
ところで生きた人間は彫刻のやうに靜止の姿を保つことはで きない。人に見詰められてゐる時は殊にさうである。自己の思 想を他人に隱すために、いなむしろ自分自身に隱すために、行 動するといふのが自然の動きである。だから社交界は影の王國 にすぎぬ。沈默と孤獨によつて人間を人間に示すには、彫刻家 によつて素朴にも發見されたあの石の立會人を必要としたので あつた。彫像のうちには多くの無關心が存することに注意した まへ。色彩によつて描かれた肖像は媚態をもち、眼付きによつ て自己を守ることができるが、彫刻は何人をも見ようとしない。 人間は行動のうちに自己を示現する、といふのが定り文句だが、 私はむしろ人間はそこに自己を隱すといひたい。行動は行動自 身をしか表現しない、究極において場所的變化をしか表現しな い。愚しい脚本が行動にみちてゐる所以である。それに行動は まだしもよいが、不動の行動、これ以上うつろなものが又とあ らうか。だからかの打ち、走り、又は脅す石膏製の人間どもの うちには、常に狂亂の相がある。そしてそれらを考察すること によつて、恰も水の砂のうちにおける如く、思想は行動のうち に失はれることを理解し得るであらう。實際、これらの興奮し た人間の姿においては、すべてが外的である。すべてが飜譯さ れる、即ち取るに足らぬものである。
第八巻「繪畫について」 第四章「壓制について」から。
恐らくスタンダールと共に、「繪畫よ、さらば。自由はさら に尊い」といはねばならぬかもしれない。しかしながら自由は、 氣分ユムールの表出を許すことによつて、顔をくずすもの である。氣分はある時は無邪氣な虚榮心を、ある時は疲勞を、 しばしば狂亂と絶望を描き出すが、深みもなく、持續の保證も 伴はない。多くの場合途方にくれた、いつも俗惡な動物的表情 である。内的生が表徴によつて食ひつくされるのだ。そこで畫 家は顰め面に引きとめられ、戲畫が生まれる。しかしまたそこ では繪畫の有する諸手段は全く無用に歸する。壓制者はその上 禮節を強制し、またそのことによつて、畫家が把握する種類の 美を強制するといふ美點をもつてゐる。儀式的なものや宗教上 の行もこれとほぼ同一結果に至る。だから畫家が好んで冥想、 恍惚状態そして祈祷を再現したのも偶然ではない。これらの感 情には通俗的な表現がないからではない。容易な反證が眼にと まりすぎる位だ。ただ人間の顔はさうした際には、強烈な表徴 から解放され、生きることの最も深い理由、即ち對象なき信仰 のみがそこに現れるからだ。
第九巻「デッサンについて」 第三章「運動について」から。
ところでデッサンの線も亦われわれを身振りと運動に誘ふ。 線が殆んど實質をもたぬ時において殊にさうである。何故なら すべて細部はわれわれを引き止めるから。かくしてわれわれは 線によつて運動を知覺する氣持にさせられる。要するに藝術家 は、彼の決意によつて、われわれを誘引し、またさらに疑ひも なく、さうすることによつて自分自身も再現せんとする運動に よつて導かれつつ、線の形によつて、われわれの氣持を急激な 又は緩慢な行動に向はせる。かくして美しいデッサンは今にも 動き出しさうに何時も感じられる。これに反してすべての繪畫 は、運動を模寫せんとする時でさへ、その繪のもつ諸細部のた めに凝視の前に停止する。凝視が色に問ひかけるからである。 空ろなデッサンのもつ力がここで理解されるのだ。ここでは形 は運動によつて、運動は線によつて示される。デッサンの關す るすべての規則は、即ちスティルの諸規則は、ここから由來す るのである。
第十巻「散文について」 第三章「散文と雄辯」から。
何故なら、散文藝術のすべては、その各部分がその所を得、 相互に支持し合ふに至るまで、讀者の判斷を定着せしめぬこと にあるのだから。そして昔の人がこれを束縛を解かれた文章と 呼んだのは、かくして散文の讀者は自由であつて、勝手に歩み、 好きな時に立ちどまり、好きな時に歩みかへす事実を巧みに言 ひ現したものである。しかしながら散文は、もしその歩みによ つて又その鋭い筆致によつて、その豫想外の句切りによつて又 その逆説的な閃きによつて、判斷の對象を眼とともに歩くやう にして、あの佇立または見なほしにまで讀者を誘ひ得ぬならば、 それは一つの藝術とはいひ得ないであらう。かくて演説的語句 の構造は方向を定められて居り、誘ひゆくものであるに對して、 散文の構造は注意力を分散させ、擴大させながら、しかも常に それをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、 散文と雄辯の間には、推論と判斷の間におけると同樣の相違が 存することが解るのである。しかし、この相違は多くの人には 目新しいかも知れない。もし特にこの點をはつきりさせたい讀 者がゐるならば、私はデカルトとモンテーニュを薦める。
アラン『藝術論集』の魅力は、それぞれの芸術の特徴を際立た せる筆者の手腕にあるので、短い引用だけでは、うまく伝へら れません。是非、手にとつてご覧ください。
* * *
小林秀雄とアランには、仕事の仕方や関心の対象など、共通点 が多くあります。すぐに気がつく表面的なものだけでも、ジャー ナリズムとの係りが深く、短い文章を発表する傍ら、何冊かの 大きな本を書いてゐること、アランは哲学、小林秀雄は文学と いふ別々の分野から出発しながら、二人とも芸術全般への深い 関心を持つてゐること、晩年に神話を研究したこと、等が挙げ られるでせう。
勿論、両者には大きな相違点もあります。政治思想の面では、 小林秀雄が政治との係りを避けたのに対し、アランは積極的に 参加しようとしました。思想的な傾向も、アランは個人の自由、 平等、非宗教を主張する「ラディカル」の立場で、反権力の姿 勢を明確にしてゐますが、小林秀雄は、大まかには、保守的な 思想家だ言へるでせう。戦争が起きたらどうするか、といつた 具体的な問題に直面した際の対応を見ると、二人の差は、それ ほど明瞭ではなくなるのですが。
二人が育つた文化的な環境も大きく異なつてゐます。アランは 西洋文明の中心国フランスに生れ、プラトン、デカルトなど、 フランス人の誰もが学ぶ古典を糧として自らの思想を形成しま した。他方、小林秀雄が生れた日本は、明治以前の漢文を中心 とした教養が失はれる一方、急激に流入した西洋文明は未消化 だといふ、文化的な混乱状態にあり、小林自身も、自らの精神 的な基盤を求めて彷徨(さまよ)ふことを余儀なくされました。
また、文章の書き方も対照的です。アランは一度書いたことは 消さずに文章を完成させ、気に入らなければ最初から書き直し たと言はれてゐますが、小林秀雄の文章は、最初に書いたもの を削りに削つて出来てゐます。文章を書くことが、あらかじめ 出来上がつた構想に基づき内容を論理的に展開するといふ機械 的な作業ではなく、その度ごとの勝負だと考へてゐた点は、共 通してゐますが。
これらの違ひはあるとは言へ、小林秀雄は、彼が取上げた偉人 の中で、誰よりもアランに似てゐると言へるのではないでせう か。小林秀雄を「東洋のベルクソン」とか「昭和の本居宣長」 とか呼ぶことは無理だと思ひますが、「日本のアラン」だと見 るのは、必ずしも牽強付会ではないでせう。
かうした二人の関係は、これまでにも指摘されてゐます。例へ ば、ウェブで閲覧可能な以下の論文でも、両者の係はりについ て述べられてゐます。
野村圭介氏によるもの:2点
「アランと小林秀雄 −読書についてー」
1979年7月『早稲田商学』278号
「アラン・小林秀雄・自然」
1985年1月『早稲田商学』309号
小川亮彦氏によるもの:3点
「翻訳, そして, 散文の論理 : 小林秀雄におけるアランの受容について(I)」
1993年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』10号
「初期文芸時評とフランス文学 : 小林秀雄におけるアランの受容について(II)」
1994年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』11号
「<語り手>の造形と一回性のpoesie ―「無常といふ事」の成り立ち― 小林秀雄におけるアランの受容について(III)」
1995年3月筑波大学比較・理論文学会『文学研究論集』12号
いづれも大変参考になる論文ですが、ここでは、野村圭介氏の 文章を、一部ご紹介しませう。
戦争中から戦後、そして『本居宣長』の現在に至るまで、周 知のように小林秀雄は、もの言わぬ美術の世界、とりわけ我国 の古典の世界にいよいよ深く沈潜していく。彼はもはやアラン を語ることはない。私の誤りでなければ、たった一度だけ「私 の人生観」(昭和二十四年)の中でアランに言及している以外、 小林が彼にふれて書いたものをしらない。しかし、この唯一の 例外は特記するに価する。何故ならそれは、小林が折に触れく り返し執拗に説き、今なお説いて倦まないこと、すなわち歴史 を外側からながめ、諸々の補助概念によって把握し合理的に整 合された歴史など形骸にすぎぬ、今現に生きている自分を離れ て歴史などはない、歴史を知るとは己れを知ることだ、といっ た彼の根底的な信念といおうか、思想に密接につながるもので あるから。
(「アランと小林秀雄 −読書についてー」)
戦後から現在に至る、成熟し円熟した小林秀雄の思想に、私 はアランのそれと同一のものをしばしば強く感じる。アランに 言及したものはごくわずかである。がしかし若年期のランボオ の嵐が静まった後、ジッドよりも、ヴァレリーよりも、さらに はベルグソンよりも、その他如何なるフランスの文学者哲学者 よりも、小林はアランに深い親近感を懐き、確かな信頼を寄せ てきたのではないかと、ひそかに私は感じている。
(「アランと小林秀雄 −読書についてー」)
しかし筆者は,あまりここで,影響云々を言いたくはない。 ほかならぬ小林秀雄の言い草を借りれば,「影響といふ便利な 言葉を乱用し」たくない。むしろしばしば,その空しさを思う。 考えてみればいい。いや,別に頭をひねる必要はないだろう。 二人の文章を,一つはフランス語,一つは日本語の文を,各々 一頁でもよい,虚心に読んでみれぱ,耳をすましてその「肉声」 を聞いてみれぱ,二人がどれほどにも異なった文体を持つか, 異なった文勢を持つかがわかるだろう。ほとんど長調と短調ほ どにも違う。二人がまるで別の個性,別の資質であることがわ かるだろう。時代も環境も風土も違う。伝統も違う。が,それ にもかかわらず,この二つの偉大な精神は,というより私が愛 読してやまぬ二人は,時に,いやしぱしぱと言っても良い,そ の声を唱和させる,応和させる。その様さまを,筆者は美 しいと思う。その照応を,うれしく感じる。
(「アラン・小林秀雄・自然」)
これらのご意見に、私は共感します。
Andre Maurois "Alain"
Andre Maurois の"Alain"は、1950年にDOMAT社から出された本で、小林秀雄文庫に残されてゐるのは、1951年2月に印刷されたものです。佐貫健氏による日本語訳が、みずす書房から1964年に出てゐます。
アンドレ・モーロワ(1885-1967)は、アランの教へ子の一人で、この本は全体で約150頁の小さな本ですが、師アランの生涯と思想を、手際良く纏めてゐます。目次は、以下のとほりです。
I
Existence d'Alain
アランの生涯
9
II
Une Philosophie de l'Esprit
精神の哲学
23
III
L'Essence et l'Existence
本質と存在
39
IV
Ulysse nageant
漂ふオデュッセウス
49
V
Passions et Sentiments
情念と感情
63
VI
Leviathan
リヴァイアサン
77
VII
Les Beaux-Arts
芸術
93
VIII
Les Dieux
神々
107
IX
L'Artisan en chambre
室内の職人
125
X
Socrate n'est pas mort
ソクラテスは生きてゐる
141
小林秀雄は、自分が関心を持つた人物については、本人の全集を読むだけではなく、その人物に関する本も集めて読むことを心掛けてゐたやうです。モーロワの本以外にも、雑誌 La Nouvelle Revue Francaise のアラン追悼特集"Hommage a Alain" 、アラン友の会の会長を務めた Georges Pascal による"Pour Connaitre la Pensee d'Alain" 、Judith Robinson "Alain - Lecteur de Balzac et de Standhal"が文庫に残されてゐます。青インク、鉛筆、赤鉛筆で付けられた印などを見ながら、頭に浮かんだことを書いてみませう。
第1章「アランの生涯」には、印が付された個所はありません。アランは自らの生活については多くを語らうとしませんでした。語つたのは「思索のあと」です。小林秀雄も、アランの伝記的な部分は重視してゐなかつたのかも知れません。
最初に印が付けられてゐるのは、第2章「精神の哲学」の以下の部分です。
これらの印は本物であり、この世界には他に何も無い。各瞬間にあるのは、この果てしない外観とそこから私に届く印だけだ。内面の生活は外面の生活であり、さうでなければ何物でもない。「さうだ。人は誰でも毎朝、世界を築き直す。それが目覚めであり、それが意識だ。そして、毎朝、哲学者は二重の目覚めで、この目覚めに驚き、魂の魂を再び得る。」(p.32)
この場合、どこで知覚が始まるのか。どこで夢が終はるのか。トランペットや嵐は本当だつた。しかし、これらの印の周りに、夢見る者は気ままに途方もない空想を築き上げて、それが事実かを確かめようとしない。眠りで活動から身を引いてゐるからだ。この世界の他に夢はない。現実の客体の知覚の外側にあるやうな意識などない。狂人は、決して目覚めることがなく、自分の身体が送つてくる印を気ままに解釈して、経験によつて引き起こされ得る印を勘定に入れない人間だ。しかし、狂人も、存在してゐるものしか見ない。(p.33)
しかし、精神を普遍的な力学の名によつて否定することはできない。普遍的力学は精神の思ひついたものだ。意志を、それ自身が綯つた綱によつて縛ることはできない。判断力は、判断は存在しないと判断することはできない。
普遍的な力学は、受け入れねばならない。これによつて理解するか、全く理解しないか、しかないのだから。(p.35)
ここでモーロワが説明しようとしてゐるのは、アランの精神や意識についての考へです。精神は世界を離れてあるものではない。「内面の生活は外面の生活であり、さうでなければ何物でもない。」「現実の客体の知覚の外側にあるやうな意識などない。」他方で、精神は目覚めてゐる。世界の中に身を置いてゐるが、世界と一つなのではない。送られて来る印を判断し、それに基づいて行動してゐる。物理学は、あたかも全てが機械的に決められてゐるかの如く考へるが、それは精神には当て嵌まらない。小林秀雄は、かうしたアランの考へに賛同してゐたのではないでせうか。
第3章「本質と存在」では4個所に印や短い書き込みがあります。本質と存在の関係や、理性と悟性の関係が主題になつてゐるのですが、これらが問題になる背景が日本人には分り難いところがあります。
この思考を拒む海が、この周囲の世界がなければ、思考は無かつただらう。本質は、存在と分離されると、中身のない形となる。世界が我々の思考の唯一の調整者である。悟性は、抵抗する自然から切り離されると、理性と成り、証明しか見なくなる。吾々はアランが証明を軽蔑してゐたことを知つてゐる。海や世界は証明を軽蔑する。だが、弁証論者は対象を忘れる。知識を欠いた、知識に関する不思議な知識である。(p.40)
我々は運動を選ぶ。良からう。それが我々の作品であることを知つてゐれば、それで結構だ。危険になるのは、弁証論者が本質から存在へと飛び移らうとする時だ。我々は、世界は線、原子、運動によつて出来てゐるかといふ問を発することで、真実から存在へと移る。宇宙の本質は、我々を、存在といふ名の現実の状況に近づけるものでは全くない。(p.42 「本質と存在」とフランス語の書き込みあり。)
悟性の顔を持つ内在する神が現れる。ところで、悟性はこの世界のものではない。悟性は我々に宇宙に問へと教へ、答へるのは宇宙だ。もし、その答が悟性の法則を否定すれば、悟性はその否定を説明し、否定は否定ではなくなる。しかし、どこかに充分な理性が姿を見せたら、物そのものの中の理性、要するに物の中で考へてゐるある種の神だが、存在は本質の中に消えるだらう。証明の証明は世界の終りだらう。(p.43)
ストイック派のやうに、この世界は理性だと言ふことは、すべての諦めの元であり、全ての、あるいは殆ど全ての悪の元だ。悪を慎む敬虔な聖者一人に対して、悪をなす者は数知れない。彼等は、これは神の世界の秩序であり、打克ち難い意志だと自らに言ふのだから。政治にとつて最大の危険は、雲から雨が降りやまず、社会が危機に瀕してゐるのに、原因が待つてゐてくれると考へることだ。悟性は、大人しく限られたものだが、この何の意図も持たない海を見て、我々に勇気を持てと勧める。そこでは、明かに、我々を溺れされる波が、我々を運ぶこともある。もし我々が泳げば。(p.44 「理性と悟性」とフランス語の書き込みあり。)
生松敬三、木田元両氏の対談『現代哲学の岐路−理性の運命−』にある木田氏の以下の説明は、これらの問題が取上げられる訳を理解するのに役立つのではないでせうか。(講談社学術文庫版 p.233-234)
二十世紀の哲学者で「実存」という言葉に重要な役割を与えたのは、ハイデガーとヤスパースでしょうね。二人とも少しずつ違った意味で使っているけど。そして、彼等はこれをキルケゴールから借りてきているし、キルケゴールはまたシェリングから借りてきたものらしい。
もともとシェリングは、理性的な認識によって把握可能な事物の「本質エッセンティア」つまり、その事物の「何であるか」に対して、そうした合理的な把握を拒む事物の事実存在、つまり「実存エクシステンティア」、「それがあるという事実」を哲学の主題としてとり上げようとしたわけです。
僕はそれをこう考えています。つまり、事物が「何であるか」ということ、たとえば、机であるか椅子であるかということは、その形相エイドスによって決められる。ところが、「それがあるかないか」を決定するのは質料ヒュレーでしょうね。ところが、西洋の伝統的な哲学は、形而上学的な原理(イデア・神・人間理性)と結びつく形相エイドスによって決定される事物の「本質存在エッセンティア」だけを問題にし、質料ヒュレーつまり自然によって支えられているその「事実存在エクシステンティア」は問題にしないできた。あるいはできないでしまった。それを問題にしようとしたのが、シェリングの「積極哲学」だったわけです。だから、シェリングの場合、根源的自然の復権という志向と結びついて、「実存エクシステンティア」が重視されることになる。
ハイデガーの言い方を借りてもっと正確に言えば、存在が「本質存在」と「事実存在」に分裂する前の、あるいは「ある」が「である」と「がある」とに分裂する前の原初の単純さを回復しようというのが、シェリングの狙いだったわけでしょうね。そうした「存在」の二義性は、事物の存在を「形相エイドス」と「質料ヒュレー」とに分けてとらえ、自然を単なる「質料マテリア」として見る形而上学的思考様式のもので生じてきたものだから、形而上学の克服はおのずから根源的自然の復権となり、「事実存在」の権利回復となるわけですね。
小林秀雄は、アランの本を西洋哲学の手引きの一つとしても使つてゐたやうです。
第4章「漂ふオデュッセウス」でモーロワが説明してゐるのは、この世界の中で生きる私達がどのやうに真実を見出すか、といふ問題に関するアランの考へです。この章で小林秀雄が印をつけてゐるのは、以下の部分です。引用部分に名前が出て来ることからも分るやうに、アランはカントの考へを基礎にしてゐます。
天体の運動法則は簡単な式で表現できる。しかし、幾何学者の服がこんなにぴつたりと自然に合ふのに驚く人達は、数学の道具の柔軟性や様々な手段を知らない。これは次第に複雑になつて、輪郭をそれだけ上手く描くのだ。彼等の二つ目の誤解は、自然が、数学の式の外で、何か現実のものであり、さうだとか違ふとか言ふと考へることだ。この誤りは、科学が既に半ば形にしたものを、我々が自然と呼ぶことからくる。自然は何も言はない。何物でもない。(p.53)("nature"の書き込み)
自然と思考との一致は、さうなる他はない。といふのは、我々は自然を思考の形式を通してしか知ることができないからだ。詳しくは「カントに関する手紙」を参照して欲しい。(p.54)
議論は彼に、そして私にも、一つの真実しか教へなかつた。即ち、議論からは誰も学ばない、といふことだ。そこでは誰もがソフィストになり、証明を受けつけようとしない。この用心はもつともだ。議論が上手の人間に答へられないといふことは、何かを証明するだらうか。証明は無知の仲間だ。学者は対象を観察する。
弁証法は、世界が無ければ何物でもない。推論は知覚がなければ何物でもない。「軽率な鳩は、真空のなかではもつと巧く飛べるだらうと考へるかも知れない。しかし、努力しても進まないのだ。」とカントは言つた。(p.56 "preuve"、"Kant"の書き込み)
しかし、我々の公的、私的な生活で、必然性は決して十分だとは感じられない。ここでは多くの物事が結果に係るので、その瞬間に、考へのなかでそれらをまとめることは無理だからだ。また、我々が、ある出来事が不可避だと前もつて考へる時には、我々の考へは抽象的だ。「何が起きるかは分らないが、それは不可避だ。」この考へを否定することは出来ない。捉へどころのない考へなのだから。(p.58)
自由意志を、機械的な分析が可能な、介入する力として言ひ表してはいけない。それは、ただ、全ての人間が自分自身であることを意味する。(p.59)
抽象的な議論で真実に至ることはできない。現実との関はりの中でそれを見出すしかない。科学でさへも、いくつかの原理から全てを演繹するものではなく、数学といふ道具を柔軟に使ひこなし、次第に複雑な自然の輪郭を描き出す。科学は、このやうに人間の営みの一つなので、それが前提としてゐる法則性、必然性は、私達の生活全体を規制するものではない。だから、私達は、自分で決める必要がある。かうしたアランの考へは、先に引いた『現代哲学の岐路』の中で木田元さんが解説してをられるニーチェの思想を思はせるところがあります。アラン自身は、ニーチェを褒めてはゐませんが、小林秀雄がニーチェの愛読者であつたことはよく知られてゐます。
「力への意思」という概念は、「生きた自然」というときのその「生レーベン」のそうした構造的本質を言い当てようとするものなんでしょうが、そうなると、この意志というのは、つねにおのれが現在どこにいるかを見積り、自分が昂揚していくより高い段階を見積っていなければならないわけです。その見積りの目安が「価値」なんで、したがって価値定立の働きは、生レーベンに本質的に属する機能だというわけです。ついでにいうと、生がその現段階を見積るためにおこなう価値定立作用が「認識」であり、それによって設定される目安が「真理」と呼ばれ、昂揚してゆく可能的段階を見積るためにおこなう価値定立作用、それが「芸術」であり、それによって設定される目安が「美」と呼ばれるのだとニーチェは言います。だから、「生」にとっては「認識」より「芸術」の方が、「真理」より「美」の方がより価値が高いというわけです。生の本質にはそうした二重の価値定立作用が属していることになりますね。ですから、ニーチェの「生」とか「意志」とかは、盲目的どころか、きわめて計算高いものだということになります。
(講談社学術文庫版 129頁)
第5章「情念と感情」で印が付されてゐるのは、次の一個所だけです。情念を抑へるためには、頭で考へるのではなく、身体を動かすことが有効だ、といふのは、アランが繰返し説いたところです。
これに対する治療法は行動だ。唯一の恐れは、恐れの恐れだ。考へを変へるのに十分な動きをする、非常に簡単な動きをして、待つことで硬直した筋肉を緩める、この治療法は、身体と心を同時に癒す。(p.64)
第6章「リヴァイアサン」でモーロワは、アランの政治論を説明してゐます。ここでも、判断するとは「誤つた考へを立て直す」ことであり、与へられた規準によつて物事を量ることではありません。
正義を愛する心から、大抵の人は、他人を裁いたり打算に屈したりに力を使ふ。これは、この正義が身についてゐないからだ。正しい考へといふものが、子供の頃や自然から来た誤つた考へを立て直すことでないとすれば、それは帽子や着物のやうに、すぐに取れるものだ。曲がつた棒といふ誤つた考へがなければ、屈折といふ正しい考へはない。(p.79 "idees"の書き込み)
アランは、公証人、弁護士、教授のやうに説得することで生活する人は、誰でも「ブルジョワ」と呼び、大工や靴屋、織工のやうに作ることで生きてゐる人は、「プロレタリア」と呼ぶ。だから、政治家は、マルクス主義者であつても、いつでもブルジョワであり、芸術家は、その作品が生きるために説得をする必要がないほど立派であれば、プロレタリアなのだ。(p.82-83)
「抵抗と服従、これが市民の二つの徳だ。服従に依り、彼は秩序を保つ。抵抗により自由を確保する。抵抗しながら従ふ、これが秘密の全てだ。服従を壊すのは無政府状態だ。抵抗を破壊するのが圧政だ。」これが完全な市民である。常に権力に対してをり、必要な時には協力する。(p.91)
人間を相手にして口先で生きてゐるのが「ブルジョワ」で、物を相手にして手を動かすのが「プロレタリア」だといふ分類法や、市民には抵抗と服従の二つが必要だといふ政治論は、アランの考への中でも印象に残る部分です。小林秀雄は、この分類で言へば「プロレタリア」を重んじてゐました。『文學と自分』(昭和13年)のなかで、文学者は「口説の徒」だと言つてゐますが、読み返してみると、「プロレタリア」としての口説の徒であることが分ります。
文學者は、思想を行ふ人ではなく、思想を語る人だ。今日の樣に、實行の世の中になると、文學者なぞは、口説の徒ではないか、といふ人が増える。そんな事を言ふ人が増えても減つても、文學者は昔から口説の徒たる事にいさゝかも變りはないので、口説の徒で充分であると信ずる者を動かす事は出來ませぬ。文學者にとつて、思想の價値は、それを巧く書くか拙く書くかといふところで定まつて了ひます。どう書くのが巧妙であり、どう書くのが拙劣であるか、それだけで、もう底の知れぬ大問題であつて、この點で失敗して了へば、辯解の餘地なぞ全然ないのであります。譬へて言へば、大工が家を建てる樣なもので、家を拙く建てて了へば、人間を住まはせるといふ目的なぞナンセンスである。建て方は下手だが結構雨露は凌しのげるではないかといふ樣な辯解は意味を成さぬ。それと同じ事です。
(第五次全集第七巻129頁)
他方、アランは「ブルジョワ」を否定したゐたわけではありません。彼自身が、言葉で人を動かす教師だつたのですから。また、アランは政治に強い関心を持ち、自ら深く関与してゐました。政治が相手にする人間の集団は、物のやうにしつかりとした抵抗を持たず、変化して止まないものですが、それだけ余計に、それを扱ふには高い技術を要求するものだと考へてゐたやうに思はれます。
第7章「芸術」で小林秀雄が印をつけてゐるのは、以下の部分です。
作品が生れるのは、物の抵抗が感動と結び付いた時だ。抽象的な考へ、テーマのある小説では、工場製の文学しか出来ない。ここでも下から上へと進む。決して上から下ではない。肖像画家は明確な考へから出発することはない。描くに従つて考へが出てくるのだ。見物人のやうに、描いた後から来ることさへある。天才は、自らが驚かねばならない。(p.95)
この制約は自然なもので、精神を支へる。無味乾燥な文体は、頭の働きだけから出て来るので、自然と精神の調和を忘れさせる。だから詩人が最初の思想家なのだ。上から、論理だけで真実を探さうとする者は、常軌を逸する。(p.99)
ある種の考へのうねりが、彼を岸辺に戻すのだ。かうして彼は自分自身を恐れず、感じることを学ぶ。この力強い術が、その他の術では為し得ないほど、人を鍛へる。といふのは、一番恐れるべき状況、動揺が伝染し留まるところをしらない群衆(パニックを考へれば良い)の中で、興奮の縁にある時にも、この術は人に自らを制御する力を与へる。自意識を学ぶのは、ここかも知れない。(p.100)
真の散文は説得しようとはしない。証明しようとはしない。考へさせるのだ。(p.104)
小説は自由意志の詩だ。(p.105)
これらの文章でモーロワが説明してゐるアランの考へは、作品には物の抵抗が必要であること、詩人が最初の思想家であることなど、小林秀雄の文章に出て来てもをかしくないものばかりです。真の散文は説得するのではなく考へさせるのだ、といふのは、『本居宣長』を書いた時の小林秀雄の気持ちを代弁してゐるやうにも思はれます。
第8章「神々」では、子供時代の持つ意味についてのアランの考へが説明された部分に、多くの印が付されてゐます。
宗教はどこから生れたか。我々が自分の感動、希望、恐れを、答へることのない世界の姿の中に探すといふことからだ。(p.108)
我々は子供時代にお伽話の世界を知り、乳の川がチョコレートの岩の間を流れる桃源郷に生きた。確かに我々はこの楽園を失つたが、忘れてはゐない。魔法の絨毯での旅は、母親の腕で運ばれ、欲することなく、また理解することなく次々に素晴らしいものを発見する子供には、日常の経験であつた。(p.109)
魔法使ひや魔女の世界は、想像される以前に、事実だつた。(p.110)
勇気はお伽話の王様で、子供時代の神だ。これは人が自分を、仮面を着けず、自分以外には障害物を持たない騎士だと見る時代だ。最初に勇気があつた。子供は正義、友情、誠実を信じる。人間の救ひは、これらの徳を自分の中に探し続けることにあるだらう。これらの徳はこの世界のものではないからだ。(p.111)
『神話学序説』といふ本の中でアランは、こんなことを言つてゐます。
私は、この問題を、ここでは下側から説明してみる。デカルトの言葉で言へば、私達は皆、人間になる前に子供だつたので、誰もが、酷く間違つた考へ、空想的な考へ、それでゐて一番自然な考へから出発して、縺れを解くといふ仕事をせねばならない。この指摘は遠くまで連れて行く。といふのは、全てが経験から得られたとする知識の理論は、子供時代の経験を忘れてゐれば、空つぽ同様だからだ。子供時代の経験は、子供の力をはるかに超えてをり、いつでも例外なく一番人を欺くものだからだ。そして、子供は自分が何を言つてゐるか分らないうちに話し始めるといふ単純な事実は、私達の自然な知識が最初は全く言葉の上のものであることを説明するに足る。
("Les Arts et les Dieux" p.1108)
第9章は「室内の職人」と題されてゐて、冒頭には「私たち詩人は、室内の職人です。」といふポール・ヴァレリーの言葉が添へられてゐます。この章に小林秀雄は、一つも印を付けてゐません。そして、この辺りは、ページの切り方も乱雑になつてゐます。この本もさうですが、以前のフランスの本は、ページの端が切り揃へられてをらず、上端や前端をペーパーナイフで切りながら読む形になつてゐました。小林秀雄も、普通のところは道具を使つてきれいにページを切つてゐるのですが、第9章のあたりだけは指先で無理に切つたかのやうに、切り口が乱れてゐるのです。
想像するに、小林秀雄は、この部分を筆記用具もペーパーナイフもないところで読んでゐて、先が知りたいので、体裁には構はず、指でページを切つたのではないでせうか。だとすれば、この辺りに印がついてゐないといふことは、必ずしも、小林秀雄が関心を持たなかつたといふことは意味しません。むしろ、その逆かも知れない。小林秀雄が眼を止めたであらうと想像される個所をいくつか抜き出してみませう。
批評家としてのアランは、意図的に、偉大な作家、偉大な作品に向かつた。しかし、彼は、偉大さは主題にあるのではないと知つてゐた。「本物の詩人で、偉大な主題を必要とする者はゐない。偉大な主題とは、偉大な主題などない、といふことだ。」(p.126)
文体とは何か。文体は散文の中の詩情だ。思想が説明しないことを表現する一つの方法だといふことだ。私は、仕草や感情の表はれのやうな、身体的な表現の方法だ、とさへ言ひたい。霊感による方法で、自然の動きによつてしか表はすことが出来ず、それでゐて思想に完璧さを与へる。・・・文体は文章を地面に置く。文体は、文章の均衡、耳ざはりの良さなど、文章の法則を思はせるやうなもの全てを否定しさへする。例へば、プルーストにある、鮮やかで繊細な文末は、この作家の文体とは何の関係も持たない。・・・(p.127 この部分は、全文、アランの文章の引用)
私はアランがバルザックの文体を分析するのを見るのが好きだ。彼は、ヴォケー館についての短い一節を書き写す。「一方では・・・若く生き生きとした人物が、美術や奢侈のすばらしさに囲まれてをり、昂揚した頭には詩が満ちてゐる。他方では、汚辱や、情熱がその筋や仕組みだけしか残さなかつたやうな顔に囲まれた、陰鬱な光景・・・」 (p.128)
最終の第10章「ソクラテスは生きてゐる」では、以下の部分に印が付されてゐます。
何も不可能なことは無い、とアランは言ふ。現実の行動に身を投じ、人の力と諸君の素質の範囲で、諸君は望むものを得るだらう。「それは間違ひだ」と諸君は言ふだらう。「私はあんなに強く望んだものを何も得てゐない。」間違へないやうに。望むことは夢見ることではない。望むとは、思ひ切つて進み、辛抱強く続けることだ。誰もが望むものを得るといふのは、この意味においてだけだ。若者はそれを信じない。自分の真の願望を知らず、また、動かないで願ふだけだから。(p.145)
私は、かなりの素質を持ちながら、取るに足らない低い地位しか得られなかつた人を見た。しかし、彼等は何を望んだのか。遠慮なく物を言ふことか。彼等はそれを得た。諂(へつら)はぬことか。彼等は諂つたことはないし、諂つてもゐない。助言と、判断と、拒否による権力か。彼等にはそれも可能だ・・・」アランはアランたることを望んだ。そして、さうなつた。(p.146)
悲観主義は伝染する。私が隣人を不正直だと思ひ、警戒を見せると、彼は疑り深く、不正直になる。聴衆を馬鹿にする講演者は聴衆から馬鹿にされる。ソクラテスは下層の奴隷も理解できると考へた。だから彼は奴隷にも理解された。人間に、その隷属状態ではなく自由について語る、恐れではなく希望を教へる、これが賢者の秘密だ。幸せになると誓はねばならない。スピノザはうまい言ひ方をした。幸福は徳の報酬ではなく徳そのものだ、と。幸福は義務だ。(p.147)
アランは現代のソクラテスだ、といふ人もゐます。だとすれば、この章の題は、アランは生きてゐる、と読み替へることもできるでせう。アランはアランたることを望んだ、に倣へば、小林秀雄は小林秀雄たることを望んでゐた、と言へるでせうか。あるいは、さう強ひられてゐたのだ、と言ふべきでせうか。
以上、小林秀雄文庫の Andre Maurois の"Alain"をめくりながら頭に浮かんだことを書いてきましたが、実は、小林秀雄は、モーロワといふ人物を余り評価してゐませんでした。モーロワは、全集第7巻に収められた三つの作品に出てきますが、たとへば、次のやうな調子で語られてゐます。「日本の一文士」は、小林秀雄自身を指してゐます。
日本の一文士が、フランスの敗れた眞相に通じてゐては、をかしいではないか。しかし、モオロアの通俗歴史小説家的才能が、手際よく料理した、フランス敗北圖も信用する氣になれない。
僕は、してやられ度くはないのだ。さう思つて見れば、この本には、アンドレ・モオロアといふ男が見えるだけだ。巻頭の寫眞にあるやうな顔、聰明さうな、好色さうな、甘つたるさうな顔をした男が。
(第5次全集第7巻181頁)
この本を読んだのも、モーロワの考へに興味があつたからではなく、アランの近くにゐた人物にアランがどのやうに見えてゐたかを知りたかつたからでせう。モーロワのアラン評には、基本的に同意してゐたと思ひますが、同時に、戦争を前にした態度の違ひに現れてゐるやうな、師と弟子との間の大きな差も感じてゐたやうな気がします。
フロム『革命的人間』
エーリッヒ・フロムの『革命的人間』は、谷口隆之助訳により 東京創元社から現代社会科学叢書の一冊として、昭和40(1965)年6月 に出されたものです。 「小林秀雄文庫」の多くの蔵書からこの本を3冊目として選ん だのは、私がフロムを愛読してゐるといふ個人的な理由からで、 この人が小林秀雄にとつて重要な意味を持つてゐたからではあ りません。これまで小林秀雄全集に収められた作品には、フロ ムの名は一度も出て来ません。
エーリッヒ・フロム(1900年3月23日 - 1980年3月18日)は、マル クスとフロイトの思想を元に社会を分析したフロイト左派と呼 ばれる人達の一人で、1934年にドイツから米国に移住してゐま す。自由といふ孤独に耐へきれず全体主義に走る現代人の心理 を分析した『自由からの逃走』(Escape from Freedom, 1941)が 良く知られてをり、真に人を愛するには人格の成熟が必要だと 説いた『愛するといふこと』(The Art of Loving, 1956)は世 界的なベストセラーになりました。
『革命的人間』の原著は"The Dogma of Christ"といふ論文集で、 1963年に出されてゐます。日本語訳では、別の論文である「革命的人間」を題名に してゐます。その目次を下に示します。「キリスト論教義の 変遷」と訳されてゐるのが、原著の題名の論文です。数あるフロムの著作の中から、 小林秀雄が何故この本を選んだのかは分りませんが、関係のあ つた東京創元社から持ち込まれたのではないかと想像されます。 書評でも書いて貰はうと考へたのかも知れません。
著者まえがき
1
現代の人間情況
7
性と性格
19
革命的人間
45
精神分析は科学か、党派か?
69
医学と現代人の倫理
87
心理学の限界とその危険性について
113
予言者の平和観
125
キリスト論教義の変遷
139
訳者あとがき
241
フロムは、小林秀雄とほぼ同じ時代に生きて、マルクスやフロ イトの思想を元に、現代社会の歪みを批判した人でした。ユダ ヤ教、キリスト教についての造形も深く、スピノザもよく読ん でゐたやうです。その説くところには、小林秀雄と共通した部 分も多くあります。
とは言へ、小林秀雄は『革命的人間』を余り熱心に読まなかつ たかも知れません。これまでに取上げた二冊では、複数の筆記 用具で傍線などが付されてゐましたが、この本では青インクで 印が付けられてゐるだけです。本棚に残されてゐたからには、 何か感ずるところがあつたのでせうが。
この本には20個所ほどに傍線等が付されてゐるのですが、そ のうちの幾つかを抜き出してみませう。原文の傍点は太字にして あります。
ひとにたいする愛もまた稀有の現象である。自動人形は愛を もたない。疎外された人間は配慮をもたない。いわゆる愛の専 門家たちや結婚相談の担当者たちが称賛するのは、それぞれが 正当な技術でおたがいを操作しあう二人の人間の間の連繋なの である。その愛は本質的には自己中心癖なのであり、堪えられ ない孤独からの避難所にすぎない。
(「現代の人間情況」13頁)
この批判的気分に加えて、革命的人間は、権力への特殊な関 係をもっている。彼は夢想家ではないから、権力がひとを殺し、 強制し、ゆがめることのできるものであることを、知らないの ではない。しかし彼は別の意味で、権力にたいして特殊な関係 をもつのである。彼にとって、権力は決して聖化されないもの であり、決して真理や道徳や善の役割をしてはならないもので ある。これは今日のもっとも重要な、すくなくとももっとも重 要な問題のひとつである。すなわち、権力にたいするひとの関 係の仕方の問題である。それは、権力とはなにかということを 知ろうとする問題ではない。またそれは、権力の役割と機能と を軽視する──レアリズムの欠如の問題でもない。それは、権 力が聖化されるか否か、また、ひとは権力によって道徳的に動 かされるかどうか、の問題である。権力によって道徳的に動か されるひとは、決して批判的気分に生きているひとではないの であり、決して革命的人間ではない。
(「革命的人間」60頁)
今日の多くの科学者たちは、そんなことはたわごとだと考え ており、《人間の本性》というようなものは存在しないと考え ている。彼らは、すべてはわれわれの生活環境に依存する、と 考えているのである。もしあなたが首狩り族ならば、あなたは ひとを殺すことをこのみ、狩りとった首を縮ますことに喜びを 感じる。またもしあなたがハリウッドで生活していれば、あな たは金もうけをこのみ、新聞にのることを喜ぶ。・・・・・・という のである。これはすべきだ、これはすべきでない、というよう なことを命じるものは、決して人間性のうちにあるのではない、 と彼らは信じている。精神分析家や精神医学者たちは、それと は異なった報告をしうるであろう。彼らは、人間の本性に属し、 そして、われわれの身体と同じように、もしそれ本来の法則が 犯されるときには必ずなんらかの反応を示す基礎的な要素が、 人間のうちにあることを、表明しうるのである。もしわれわれ の身体に病理的経過が生じれば、われわれは苦しみを感じる。 それと同じように、もしわれわれの心に病理的経過が生じれば、 ──すなわち、人間本性のうちに深く染みこんでいるなにもの かを犯すようなことがわれわれの心のうちに生じれば──また 別のことが生じる。すなわち、われわれは良心のやましさをも つ。
(「医学と現代人の倫理」90頁)
ひとは、自分自身をも他人をも、物として、たんなる商品と して、体験する。彼は生命力を有利に投資すべき資本として体 験するのであり、そしてもしそれが利益をあげるならば、彼は それを成功と呼ぶのである。われわれは、人間のように動く機 械をつくり、そして機械のように働く人間をつくりだす。十九 世紀の危険は、奴隷になることにあった。二十世紀の危険は、 奴隷になることではなく、われわれがロボットになってしまう ことにある。
(「医学と現代人の倫理」100頁)
子供たちが何度くりかえしてもあきずにまりと遊ぶことがで きるのは、彼らがそれについて考えるのではなく、それを知る からなのであり、彼らがくりかえしてそれを知ることができる というのは、すばらしい体験である。
ひとりのひと、一本の木、また他の何かの現実を知っており、 そしてその現実に応えるこの能力は、創造性の本質である。私 は、男も女もそしてわれわれ自身も、このように知りそして応 えることができるようになることが、今日の倫理問題のひとつ であると信じている。このことのもうひとつの側面は知るとい う能力である。すなわちひとりのひとを対象として知るのでは なく、関係という行為のうちにおいて知ることである。いいか えれば、われわれは、自然科学的な方法にのみよらずに、人間 を理解する新しい人間の科学のための基礎をすえなければなら ない。それは、みずから固有の位置をもち、そしてまた人類学 や心理学の多くの領域にたいして固有のものであるが、しかし また、愛の行為において、感入の行為においてひとをひととし て見る行為において、それは独特のものである。すべてこれら の目的よりもより重要なことは、人間をもう一度正しい位置に もどすことであり、手段を手段とし目的を目的とし、知性の世 界や物的生産の世界におけるわれわれの達成が、ひとつの目的 のための手段に供されるときにのみ、意味をもつ、ということ を認めることである。十分な意味での人間の誕生ということは、 ひとが十分に自分自身となることであり、十分に人間らしくな ることである。
(「医学と現代人の倫理」108頁)
心理学は、人間がなんでないかということをわれわれに示し てくれる。しかし、人間とはなんであるか、われわれのひとり ひとりがなんであるか、ということについては、心理学は何を も語り得ない。人間の魂は、各個人の独自の核は、そのままと しては決してとらえられず、また記述され得ないものである。 それは、それがただ誤解ではないという意味においてのみ知ら れ得るのである。心理学の公的な目標は、このようにゆがみや 幻想をとりのぞくという消極的なものである。決して人間存在 についての完全な知識を獲得するという積極的なものではない。
しかし、人間の秘密を知るためのもうひとつの道がある。こ の道は思惟によらず愛によるのである。愛は他のひとへの積極 的な浸透であり、そこで知ろうとする欲望は合一によって終わ るのである。(これが ahaba に対する daath という意味での 愛ということの聖書的な意味である)。融合の行為において私 はあなたを知り、私自身を知りあらゆるひとを知る。──そし て私は思惟においては何も知らない。
(「心理学の限界とその危険性について」118頁)
人間を知るという問題は、神を知るという神学的な問題と平 行している。消極神学は、神についての積極的な陳述が不可能 であるということを前提としている。神について知りうること は、ただ神がなんでないかということだけである。マイモニデ スがいったように、神がなんでないかを知れば知るほど、私は ますます深く神を知るのである。またマイスター・エクハルト もこういっている。《人間はたとえ神がなんでないかというこ とに十分目ざめているとしても、一方神がなんであるかという ことは知り得ない。》このような消極神学のひとつの帰結が神 秘主義なのである。もし思惟において、神についての十分な認 識をもち得ないとするならば、もし神学が最善のかたちにおい ても消極的なものであるならば、神についての積極的な認識は、 ただ神との合一の行為においてのみ達成されうるわけである。
(「心理学の限界とその危険性について」120頁)
心理学の限界について語ることは、この限界を知らない場合 に生じる危険を指摘することにある。現代人は孤独であり、お びえており、そしてほとんど愛することができない。隣人に近 づこうとしながら、隣人とあまりにも離れすぎており、無関係 の状態にあるので、近づくことができない。隣人との表面的な 結びつきは種々あり、たやすく維持されるが、核から核への 《中心的関係》はほとんど存在しない。ひとは接近を求めて知 識を得ようとする。知識を得ようとして心理学を見いだす。心 理学がおたがいのあいだの愛や親しさや結合のための代用物に されるのである。むしろそれは、孤独な疎外されたひとのため の隠れ家となるのであり、決して結合の行為への一歩とはなら ないのである。
(「心理学の限界とその危険性について」121頁)
ベルクソン論『感想』を、引用されたベルクソンの文章に注目しながら辿る作業の、番外編として、この中断された作品全体についての、私の感想を述べてみたいと思ひます。
『感想』といふのは、不思議な作品です。何故、あのやうな読みにくい作品になつたのか、さうした読みにくさを辞さない書き方で、何を目指してゐたのか、何故、中断したのか、様々な疑問が浮かびます。一つづつ、考へてみませう。
1 何故、あのやうな読みにくい作品になつたのか。
『文學界』2002年9月号の、福田和也、山城むつみ、岡崎乾二郎の三氏による座談会に、こんな発言があります。
福田氏 ただ、『本居宣長』は読めるようにはなっている。ベルグソンの場合は読めるようになっていない。(219頁)
山城氏 率直に言って、『感想』は小林を考える上ですごく大事ですが、『感想』そのものを読物として読むときには、僕はやはりどこか我慢して読んでいるからね。(232頁)
これは、多くの読者の率直な感想だと思ひます。それほど読みにくい作品になつた理由の一つは、この作品の、かなりの部分が、ベルクソンの文章の翻訳あるいは要約と言ふべきものから成つてゐる、といふことでせう。
どんな名人が訳しても、原文の流れや生き生きとした調子を別の言語で再現することは難しい。一度、原文といふ植物が育つ前の種の状態まで遡り、そこから芽が出て、文章に育つ過程を、移す先の言葉といふ異なる土壌でやり直す、とでも言ふべき作業が必要になります。さうした努力を払つても、文法や単語の含意の違ひなどによつて、うまく行くとは限りません。
これに加へて、ベルクソン論としての全体の構造が明らかにされてゐない、といふことも、読みにくさの一因でせう。これは、小林秀雄の文章で、一般的に言へることですが、体系的、論理的な枠組みを決めてから書き始めてゐる、とは思はれません。雑誌への連載といふ形式上の制約もあるでせうが、むしろ、意識的に、さうした書き方を避けてゐると見えます。第三章には、かう書かれてゐます。
實は、雜誌から求められて、何を書かうといふはつきりとした當てもなく、感想文を始めたのだが、話がベルグソンの哲學を説くに及ばうとは、自分でも豫期しなかつたところであつた。これは少し困つた事になつたと思つてゐるが、及んだからには仕方がない。
この文章も、読み方が簡単ではないもののやうに思はれ、文字どほりに理解してよいのかどうか迷ひますが、確かなのは、小林秀雄が、ベルクソンの主要著作を読み返す作業を始めたことで、『感想』の、特に第七章から第三十一章あたりの文章は、その過程で(再)発見した注目すべき文章を、そのまま、又は、要約して載せて、注釈を加へた、といふ風に見えます。
さうした翻訳や要約は、時には、一つの章全てと言つて良いほど、長い場合もあるのですが、これらの引用を纏める大きな議論の流れが明確には示されてゐないために、何を言ひたいのかが途中で分からなくなつて仕舞ふといふ嫌ひがあります。
また、「ベルクソンそのまま」ではないか、何も新しい知見や意見が書かれてゐないではないか、といふのも、特に、引用の多い前半を読んだ読者が抱く、一般的な感想でせう。ベルクソンの文章が、地の文に溶け込んでゐる書きぶりの部分では、小林秀雄が解説してゐるのか、ベルクソンの語りが続いてゐるのか、迷ひます。ベルクソンを知つてゐる読者には、細かな誤訳や用語の不正確が気になり、ベルクソン自身の本を読んだ方が増しだ、と思ふ人も少なくないでせう。
さらに、全体の構成が分からないので、繰返しが多いと感じる読者もあると思ひます。小林秀雄自身は、次のやうな言ひ方をしてゐるのですが。
扨さて、私の文章は、音樂で言へば、どうもフーガの樣な形で進むより他はないのを、書き出しから感じてゐるのだが、ベルグソンの文章の二重性については、既に書いた。
(第五章)
読みにくさに関連した、もう一つの特徴は、ベルクソンのテキスト以外の話題が殆ど出てこない、といふことです。他の作品では、ドストエフスキーの場合に「作品」と「生活」があつたやうに、伝記的な記述が含まれてゐるのですが、ベルクソン論の場合には、遺言の話が出てくる程度です。書かうにも、材料が見当たらなかつたのかも知れません。
また、ベルクソン以外の人物も、あまり登場しません。『本居宣長』では、契沖、徂徠などの先学や、上田秋成のやうな論争相手が登場して、舞台が賑やかですが、『感想』は、ベルクソンの一人芝居に近いものとなつてゐます。例外的に、モーパッサンやフロイトなどの「ワキ」が登場する章は、他の章よりも読みやすく、小林秀雄の文章も、流れが良くなつてゐるといふ印象を受けるのですが、如何でせうか。
2 読みにくさを辞さない書き方で、何を目指してゐたのか
『感想』が書かれた当時には「殆ど忘れられて了つて」(第二章)ゐたベルクソンについて、一般的な誤解を解きたい、この重要な思想家を蘇らせたい、といふ目的を持つてゐたのは、確かでせう。第三章では、かう言つてゐます。
私の感想文が、ベルグソンを讀んだ事のない讀者に、ベルグソンを讀んでみようといふ氣を起させないで終つたら、これは殆ど意味のないものだらう、といふ想ひが切である。
しかし、ベルクソンの一般的な解説書を書かうとはせず、ベルクソンの文章に密着した、独特の書き方を採りました。それが、独特の読みにくさを生んだのですが、小林秀雄自身が、かうした問題点を意識してゐなかつたとは考へられません。それでも、敢へて、さういふ書き方をしたのは何故でせうか。
『文學界』2002年9月号に掲載された郡司勝義さんの「一九六〇年の小林秀雄」には、平野謙氏による『感想』は「祖述」だ、との批判を受けた、小林秀雄の次のやうな言葉が紹介されてゐます。
ベルグソンを一行でも讀んでゐたら「祖述」かどうか、すぐ判つただらうに、世の中に無責任の横行これに過ぎたるはない。だが、年月が經つて同じことを繰返すのも、この世のことだね、昔、僕が「『罪と罰』について」(昭和九年)を連載したとき、大宅壯一といふ大知識人が新聞で同樣の發言をして僕を嘲つたものだ。彼らは祖述が寧ろ生産的な營みだとは、全く知らないし、知らうともしない。これは僕の發明だといつていいものだ、フランスでは見かけるが、わが國では僕が初めてだ、他にあつたとしたところで僕のやうに工夫をこらしてはゐない。(241頁)
小林秀雄が凝らした工夫といふのが、どの辺りにあるのか、正直なところ、私には、はつきりと見て取ることができないのですが、その一つは、ベルクソンの文章を、いかに読者に伝へるか、といふ問題に係るものだつたと想像されます。
『感想』が、私達が普通に期待するベルクソン論と異なるのは、ベルクソン思想の概要、その歴史的な意義、などの情報が、少なくとも、すぐにそれと分かる形では、書かれてゐない、といふ点でせう。「ベルクソン早分かり」の類とは全く逆です。また、ベルクソンに対する批判的な文章は、一つも無い、と言へるでせう。第三章には、次のやうな文があります。
ベルグソンのかういふ言葉も、彼が、いつたん言葉を投げ棄ててから、拾ひ上げた言葉だと納得しなければ、曖昧な言葉と映るだらう。事實、多くの人々が、ベルグソンの自由の觀念の曖昧と矛盾とを難じた。ベルグソンにしてみれば、豫期してゐた事が起つたに過ぎまい。自由の思想は、言葉では割り切れない。だが、殘念ながら、普通、人は、考へるより語る樣に出來てゐる。
小林秀雄は、ベルクソンの擁護を目指してゐるのですが、そのために、議論は一切しない、とでも決心したかのやうです。ベルクソンについて抽象的に語ることでは、口先だけの議論を増やすだけで、ベルクソンに関する誤解を解くことにはならない、と考へたのでせう。第三十一章では、かう書いてゐます。
彼の簡潔な經驗談は、讀むだけならば直ぐ終つて了ふのだ。文は讀者の経験を要求してゐる。訴へられてゐるのが、單なる知識へではなく、經驗へ、特に或る内的經驗へである、と讀者がはつきり氣附くなら、この短文も、何處へやら果てしなく續くと感ずるであらう。これは、恐らくベルグソンの全集についても言へる事だ。彼の思想の驚くべき特徴である。
言はば、ベルクソンの文章の「心」ではなく「姿」に注目して、哲学書としてではなく「比類のない體驗文學」(第二章)として読むことを目指してゐる、さうした読み方を読者に促してゐるのではないでせうか。そのために、ベルクソンの文章を地の文に組み入れたり、「 」を付けて引用したり、試行錯誤が行はれてゐるやうに見えます。
また、かうした書きぶりは、小林秀雄のベルクソン観に基づいたものであり、ベルクソンについて書くには最適の方法だと考へて採用したものと思はれます。第二十七章にある以下の文章は、ベルクソンの作品を前にした小林秀雄自身の態度を示したものとして読むことも可能でせう。
この考への行き着くところ、當然、ベルグソンには、哲學とは經驗そのものだと言ひ切れた。彼の目指したものは、綜合的な學ではなく、人間的な全體的な經驗であつた。知的なシステムではなく、知的な努力であつた。彼の仕事の方法が定義し難いのは、方法を頼むより先づこれを捨ててみたところから來てゐるとさへ言へよう。實在に近附かうとして、一切の人爲的な機械的な近附き方を拒絶したところで、彼は實在の前に、殆ど手ぶらで立つ。其處で、直觀も悟性も、無垢な力を取返すのであり、其處に、いつも立還つてゐなければ、どんな學も、自ら編んだシステムのうちに死ぬのである。
それでは、『感想』は、ベルクソンの文章を詳しく読むだけの作品なのか。さうではないと、私には思はれます。例へば、第四十九章以下で、ベルクソン思想と量子力学との親和性について述べた部分は、独創性のある部分ですし、小林秀雄が書きたかつた事の一つではないかと思はれます。
更に、未完に終はつたので、断定は難しいのですが、ある一貫した主題を持つて書いてゐたと思はれます。第一章で、小林秀雄は、自らの母親に係る神秘的な経験の反響について、かう述べてゐました。
それは、言はば、あの經驗が私に對して過ぎ去つて再び還らないのなら、私の一生といふ私の經驗の總和は何に對して過ぎ去るのだらうとでも言つてゐる聲の樣であつた。併し、今も尚、それから逃れてゐるとは思はない。それは、以降、私が書いたものの、少くとも努力して書いた凡てのものの、私が露あらはには扱ふ力のなかつた眞のテーマと言つてもよい。
事件後、發熱して一週間ほど寢たが、醫者のすゝめで、伊豆の温泉宿に行き、五十日ほど暮した。その間に、ベルグソンの最後の著作「道コと宗ヘの二源泉」を、ゆつくりと讀んだ。以前に讀んだ時とは、全く違つた風に讀んだ。私の經驗の反響の中で、それは心を貫く一種の樂想の樣に鳴つた。
『二源泉』で扱はれた主題が、神秘体験、「彼の世」、死後の存続といつた問題であり また、これらと価値観との係りの問題であることを考へると、小林秀雄が『感想』といふ何気ない題の文章で、「何を書かうといふはつきりとした當てもなく」と言ひながら、書き始めたのは、「露はには扱ふ力のなかつた眞のテーマ」そのものであり、ベルクソンが『二源泉』で扱つた問題に他ならない、といふ見方も可能だと思ひます。
「眞のテーマ」を書くためにはベルクソンが手掛かりになる、ベルクソンを徹底的に勉強し直さう、さう考へてゐたのではないでせうか。『本居宣長』に十年以上の歳月をかけたことからしても、五年余り書き続けられた『感想』は、まだ道の半ばであつた、と見ることができるでせう。ベルクソンの著作の中で、心と身体との関係を論じた『物質と記憶』を詳しく論じたのも、『二源泉』へと進む準備であつたとすれば、納得できるのはないでせうか。
3 何故、中断したのか
小林秀雄自身は、岡潔との対談『人間の建設』の中で、質問に答へて、次のやうに述べてゐます。
書きましたが、失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。そのときに、またいろいろ読んだのです。そのときに気がついたのですが、解説というものはだめですね。私は発明者本人たちの書いた文章ばかり読むことにしました。
(第五次全集、第十三巻 172頁)
この「無学」は、相対性理論に関するものを指すと理解するのが素直だと思ひます。第四十九章で、相対性理論をめぐるベルクソンとアインシュタインの論争について、「いづれ觸れねばならない」と書いてゐますし、上に引いた文章で、「解説」とあるのも、文脈から、物理学理論の解説書を指してゐると読めます。
ベルクソン自身が苦労した相対性理論が、当面の大きな障害であつたことは確かでせう。しかし、それだけでせうか。目前の山の先には、さらに高く険しい峰が聳えてゐるのを感じてゐたのではないか。この先は、明確な根拠もなく、空想を逞しうしてゐるだけであることをお断りした上で、小林秀雄には、キリスト教の問題が、辿りつかねばならぬ遥かな高みとして見えてゐた、と言ひたいと思ひます。
『感想』が『道徳と宗教の二源泉』を目指してゐたことを、前提として話を進めますが、ベルクソンは、この本で、キリスト教の聖者達の神秘体験を手掛かりにして、神の存在や死後の存続の問題を扱つてゐます。その中で、キリスト教こそが完全な神秘体験であり、例へば仏教は、そこまで至つてゐない、といふ判断を下してゐます。この部分を、小林秀雄はどのやうな気持で読んだでせうか。
仏教をひとつの神秘主義だと見なすのになんら躊躇も感じられないだろう。しかし、我々はなぜ仏教が完全な神秘主義でないかを理解するだろう。完全な神秘主義は、行動であり、創造であり、愛であろう。
もちろん、仏教は慈悲を知らなかったわけではない。それどころが、仏教は極めて荘厳な言葉で慈悲を勧めた。仏教は戒律だけではなく、模範も示した、だが情熱を欠いていた。ある宗教史家が全く正当に言ったように、仏教は「全的にして神秘的な献身」を知らなかったのである。我々はそれに付言して、−恐らく、結局は同じことになるが−仏教は人間行動の効験性を信じなかったと言おう。仏教は人間行動を信頼しなかった。そうした信頼だけが力となり、山をも動かし得るのである。完全な神秘主義はそこまで進んだろう。
(平山高次訳、岩波文庫版、275頁)
ベルクソン自身も、当時のユダヤ人が置かれた状況を考へて、改宗まではしなかつたものの、葬儀ではカトリックの司祭に祈つて貰ひたいといふ遺言を残してゐます。
小林秀雄は、キリスト教についても、相当に勉強してゐたやうですが、自ら信じるには至りませんでした。岡潔との対談では、こんなやりとりをしてゐます。
岡 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。
小林 この頃そう感じて来ました。
岡 それでよいのだと思います。しかたがないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。
小林 同感はするが、そういうことがありますね。だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。私は「白痴」の中に出ている無明だけを書いたのです。レーベジェフとイヴォールギンという将軍を書いたのです。どうしてドストエフスキーがあれほど詳しく、あの馬鹿と嘘つきと卑劣な男を書きたかったか。あんな作品は世界の文学に一つもないと思いまして、それで分析したのです。それで頭のないトルソになったのです。
(第五次全集、第十三巻 195〜196頁)
ドストエフスキーの場合と同じやうに、ベルクソンの場合も、キリスト教が最後のところで障害になるのではないか、さういふ予感が小林秀雄にあつたのではないでせうか。
他方で、小林秀雄には、他に書くべき人物がゐた。勿論、本居宣長です。先に言及した「一九六〇年の小林秀雄」で、小林秀雄が、戦後間もなく講演を行ひ、その要旨が大阪版「毎日新聞」に載つたことが紹介されてゐます。郡司さんは、その全文を引いてをられますので、孫引きしてみませう。
”藝術の役目はわれわれの意識なり知覺なりと現實−つまり内的なリアリティーとの間のヴェールを破ることだ”とベルグソンはいつてゐる、ヴェールとはわれわれの知性が張り廻らすもののいひである、人間ははじめに行動があり、次に行動を規制するものとしての知慧が生まれる、外的なリアリティーから政治的、社會的な生活に不必要なものを知性が取り捨てる、これがヴェールの役割なのだ、この幕を掲げて現實をぢかに魂で受けとめ、いはば言語に絶し色彩を超えた美的經驗を、人間に與へられたところの限りある不自由な言葉を用ひ、繪具を驅使して再現するのが藝術なのである、かうした美的經驗はまた現實の歴史の動かし難い生命を見出すのに大切な見方でもある
たとへば古事記をかういふ見方で再現したものが古事記傳である、美しい民族の神話だ、どこか間違つてゐるといふのでそれを合理的に解釋することは古事記の美しさをこはしてしまふ、かう考へてくると美的經驗に對する信仰と實證精神とは些かも矛盾しない
國民が擧げて政治的にならうとしてゐるこれからの時代には歴史の眞實の姿をゆがめられぬ形のまま掴むためにかういつた史觀の把握は特に重要と思ふ、何故ならば將來はより科學的な歴史がヘへられより實證的に歴史が分析されるであらうが歴史の現實の美に心打たれる精神が缺けてゐるとすれば史觀によつてたじろがない嚴かな歴史の姿は見失はれ、歴史以外には存在しない傳統といふものも忘れられがちになるであらうから
(『文學界』2002年9月号 253頁)
ここには、小林秀雄の戦後の仕事が目指した所が、明確に示されてゐると言へるでせう。そして、そこにベルクソンと宣長の『古事記伝』が並んで登場してゐるのです。『道徳と宗教の二源泉』に踏み込むには、キリスト教といふ難所がある。しかし、宣長であれば、それがない。日本人の自分が、残された人生で、先づ書くべきなのは宣長だ、さう考へて『感想』の中断を決めたのではないでせうか。
それに、小林秀雄は、宣長とベルクソンには、深い共通性があると考へてゐました。上に引いた講演要旨で、「美的經驗に對する信仰と實證精神とは些かも矛盾しない」といふのは、古事記伝について述べてゐるのでせうが、この言葉は、ベルクソンにも、そのまま当て嵌まるでせう。ベルクソンを語り続けることで目指してゐたものは、宣長について書くことでも、言ひ表すことができる、と考へたのかも知れません。
『本居宣長』をめぐつての、江藤淳との対談でも、「古事記伝」とベルクソンの哲学の革新との間の、本質的なアナロジーについての発言がありますが、上に言及した岡潔との対談では、かう言つてゐます。
そういう意味で宣長さんの考えた情緒というものは、道徳や宗教やいろいろなことを包含した概念なんです。単に美学的な概念ではないのです。
(第五次全集、第十三巻 185頁)
道徳や宗教! さうだとすれば、小林秀雄が『本居宣長』で書かうとしたのは、『二源泉』でベルクソンが扱つたのと同じ問題であつたと考へられるでせう。『本居宣長』は、小林秀雄の『道徳と宗教の二源泉』なのではないでせうか。
第一章
この冒頭の章は、小林秀雄の文章の中でもとりわけ深い印象を与へるものです。「おつかさん」の死とその後に起こつた不思議な出来事から話が始まり、ベルクソンの最後の著作『道徳と宗教の二源泉』を「ゆつくりと讀んだ」ことを述べ、彼の遺書に言及します。
遺書から書き出す点といひ、「恥かしかつた」といふ小林秀雄の文章ではめづらしい言葉が登場する点といひ、『本居宣長』を自然に連想させます。『本居宣長』は冒頭の遺書に戻る形で終へられたのですが、『感想』は中断され、その結末は知る由もありません。ただ『二源泉』から書き出されたことから、そこに戻るつもりだつたのではないかといふ想像はできます。『Xへの手紙』にあるやうに、「眞つ先きに結論を書いて了」ふのが、小林秀雄の「不幸な性癖の一つ」であるとすれば。
この章で引用されてゐるベルクソンのテキストは、遺書です。ベルクソンの死後に刊行された"Ecrits et Paroles"といふ文集の前書きで引用されたものです。私が持つてゐるのは"Ecrits et Paroles"そのものではなく、これに掲載された文章を含め、様々な機会に収録されたベルクソンの発言などを集めた"Melanges"といふ本なのですが、その 前書きにも、同じ部分が引用されてゐます。(脚注)
ご承知の方が多いと思ひますが、この遺言にも係はらず、ベルクソンの講義録や書簡集が出版され、前者は、法政大学出版局から翻訳も出てゐます。第4巻のギリシャ哲学講義には、プロティノスについての講義もあり、ご本人が何と仰おつしやらうと、覗いて見たくなります。
第二章
第二章では、先づ、第一章に続いて『道徳と宗教の二源泉』の末尾の部分について語られます。小林秀雄はこれを遺言と見るのですが、特徴的なのは、その内容よりも「一種身振のある樣な物の言ひ方」に注目してゐる点です。これは、小林秀雄が「詩人と共通するやり方」だと言つてゐるベルクソンの方法を、そのまま応用したものだと言へるでせう。「ベルグソンを愛讀した事のない人には、感じは傳へ難いのだが」といふ言葉にも、実際の具体的な体験を尊重する小林秀雄の考へ方が窺へます。
そして、ベルクソンは、「所謂いはゆる哲學上の大問題が、言葉の亡靈に過ぎぬ事が判明したなら、哲學は「經驗そのもの」になる筈だ」と考へたと、小林秀雄は言ふのですから、両者の親近性は明らかでせう。このベルクソンの言葉は、『思想と動くもの』の「緒論第一部」に出てきます。岩波文庫から出てゐる河野与一さんの訳(木田元さんが一冊に纏められたもの)から引用してみませう。
私は、哲学の問題は事によると提出の仕方が悪かったのではないか、しかしまさにこの理由によって、それらの問題を「永遠なもの」すなわち解決のできないものと信ずるにはおよばないのだと考えた。哲学は、エレアのゼノンがわれわれの悟性によって考えられているような運動及び変化に固有な矛盾を指摘した日から始まった。運動および変化の悟性的な表現によって惹ひき起こされたあの難問を、ますます細緻さいちになる悟性のはたらきによって克服し回避することに、古代及び近代の哲学者の主要な努力がついやされた。こうして哲学は事物の実体を、時間を越えて、動くもの変わるもののかなたに、したがってわれわれの感覚や意識が認めるものの外に求めるようになった。いったんそうなれば、哲学はさまざまな概念の多かれ少なかれ人工的な配置、仮設的構造にとどまるほかなかった。哲学は経験を超越すると称した。しかし実は、さらに深めることのできる、したがって啓示に富んだ、動いている充実した経験の代わりに、この同じ経験というよりもむしろそのもっとも表面的な層から取り出した、抽象的な普遍観念の体系、固定し乾燥した、中身を抜いた抽象物を置くことしかしなかった。これはちょうど蝶が抜け出してくる繭について議論し、飛びまわり変化し生きている蝶の存在理由および完成が皮殻の不変化にあると主張するようなものである。逆に、皮殻を取り去り、蛹を目覚めさせよう。運動にはその動きを、変化にはその流動を、時間にはその持続を取りもどさせよう。解決のできない「大問題」は皮殻だけにとどまるものかもしれない。大問題は運動にも変化にも時間にも関係がなく、ただこれらのもの、もしくはその同類のものに対してわれわれが誤ってとっている概念的表皮に関係があるだけだろう。そうすれば哲学は経験そのものになる。持続は本来の姿をとって現われ、連続的な創造、新しいものの絶えざる湧出になる。
(岩波文庫『思想と動くもの』20ページ〜、一部勝手に変更しました。)
小林秀雄は、哲学が「單純な一行爲」であるといふベルクソンの言葉も引用してゐます。これは『思想と動くもの』に収められた「哲学的直観」に出てくる言葉です。また、長くなりますが、同じ邦訳から、その言葉を含む段落とその前の段落を抜き出してみます。
科学は行動の補助手段です。行動は結果を目的としています。そこで科学的悟性はその欲する一定の結果に到達するためにはどういうことをしなければならないか、もう少し普遍的に言うと、一定の現象が生ずるためにはどういう条件を与えなければならないかということを問題にします。科学的悟性はさまざまな事物の配置から配置の変更へと進み、一つの同時性から別の同時性へ進みます。したがって必然的に科学的悟性はそのあいだに起こることを無視しなければなりません。そういうことを扱うとしても、そのうちで別の配置、やはり同時性を考察するためであります。起こってしまったものをとらえるのを使命とする方法をもっているので、一般に言って科学的悟性は起こりつつあるものに立ち入り、動いているものをたどり、事物の生命である生成を取り入れることができないのであります。この後の方の任務は哲学に属しています。科学者は運動に対しては不動の姿を見てとり、繰りかえされないものに沿って繰り返しを集めるほかなく、事象を人間の行動に服従させるためにそれが展開する次々の面の上につごうよく事象を分割することに注意するものであるから、どうしても自然を相手に詭計きけいを用い、自然に対して警戒と闘争の態度をとらなければならないのに反して、哲学者は自然を仲間扱いにしています。科学の方法はベイコンが提出しているように、命令するために服従することであります。哲学は服従も命令もしません。哲学者は同感を求めます。
この視点から見ても、哲学の本質は単純の精神であります。哲学的精神はそれだけ見てもその業績を見ても、哲学を科学と比較するにしても、一つの哲学をほかの多くの哲学と比較するとしても、われわれにはやはり複雑は表面だけのことであり、構造は付属物であり、綜合は外観であることがわかります。哲学するということは単純な行為であります。
(岩波文庫『思想と動くもの』193ページ〜、一部勝手に変更しました。)
ベルクソンの『意識の直接與件論』について、小林秀雄は「誤解を恐れずに言ふなら」との条件付きではありますが、「哲學者は詩人たり得るか、といふ問題」を提出したものだと言つてゐます。この章には、私の調べた限り、『意識の直接與件論』の文章が引用されてゐる部分はありません。この論文に頻出する「持續」(duree)といふ言葉に言及してゐるだけです。重要なのは、この言葉について、小林秀雄が次のやうに述べてゐることでせう。
これは單なる觀念ではない。彼が直接に見た實在の相なのである。問題を見たがまゝに提出しようとする彼のその手つきなのである。彼も亦詩人の樣に、先づ充溢する發見があつたからこそ、仕事を始める事が出來た。
次に小林秀雄が引くのは、「それは、私が、言葉による解決を投げ棄てた日であつた」といふ文で、これは『思想と動くもの』の「緒論第二部」に登場します。その前後を、河野与一さん訳の岩波文庫で見てみませう。
私が真の哲学的方法に眼を開かれたのは、内的生活のなかに経験の最初の領域を見いだした後、言葉による解決を投げ棄てた日である。その後のあらゆる進歩はこの領域の拡大であった。論理的に結論を延長し自分の研究の範囲を実際には拡大せずに別の対象に適応することは、人間の精神に自然な傾向であるが、けっしてこれに負けてはならない。
(岩波文庫『思想と動くもの』133ページ、一部勝手に変更しました。)
続いて小林秀雄は、「持続」と同様に有名なベルクソンの用語「直観」を取り上げ、「この言葉にしても、今言つた困難な事實の正視から直接に生まれたものであ」ることに注意を促してゐます。「精神による精神の直接な視覺(vision)」といふ言葉も『思想と動くもの』の「緒論第二部」を踏まへたものです。その前後は、次のやうになつてゐます。vision は「視野」と訳されてゐます。
そこで私のいう直観はなによりも内面的持続に向かう。それが捉えるのは、並置ではない継起、内部からの成長、未来にまたがる現在における過去のとぎれない延長である。それは精神に対する直接の視野である。あいだに挿はさまるものは一つもなくなる。空間を一面とし言語を他の面とするプリズムを通した屈折はなくなる。
(岩波文庫『思想と動くもの』46ページ)
小林秀雄が書いてゐるやうに「ベルグソンは、直觀といふ言葉が、感覺的な意味に解されるのを好まなかつたから、哲學的直觀 (intuition philosophique) といふ言葉も使」つてゐます。具体的には、『思想と動くもの』に収められた講演の題名になつてをり、この講演の中で二度出てきます。その他の場所では直観 (intuition) です。「いづれにしても、この言葉は、精神を對象とする經驗では、物質を對象とする經驗の場合に成功する悟性の機能だけでは間に合はぬ何ものかがある、さういふ事實の率直な容認から直ちに生まれた、といふところが大事」なのは、小林秀雄の言ふとほりでせう。
「山坂を登るとは、彼が自分の哲學の方法を言ふ時に、好んで用ひた比喩であつた。」と書かれてゐますが、例として『思想と動くもの』の「緒論第二部」出てくるものを以下に二つ掲げておきます。
自我の外では、物を知るための努力は自然であって、それが次第に容易となり、法則を適用していく。内部に向かうと、注意が絶えず緊張していなければならないし、進歩はますます骨が折れてくる。自然の坂を登るような気がする。
(岩波文庫『思想と動くもの』60ページ〜)
してみると、精神が自分自身を振りかえる時にも、やはり悟性であろうか。人は事物に自分の欲する名を与えることができるし、繰りかえして言うが、精神が精神を認識することを今まで通り悟性作用と名づけたいということにも私はたいした不都合を認めない。しかしそれならば、たがいに逆になっている二つの悟性作用があることを特に断っておかなければなるまい。というのは、精神が精神を考える場合には、物質との接触で得たさまざまな習慣の坂を登っていかなければならず、それらの習慣を人は悟性的傾向と呼んでいるからである。それならむしろ、人が普通は悟性作用と呼んでいない作用には別の名を付ける方がいいのではないか。私はそれを直観だというのである。
(岩波文庫『思想と動くもの』117ページ)
「何故、精神は、外國にゐて内にゐる樣に感じ、我家に還れば、外國にゐる樣に感ずるか」といふ言葉、「人間の己れに關する無知は、生活の、行動の必要に應ずる自然的傾向であり」云々といふ言葉も、『思想と動くもの』の「緒論第二部」に出てくるもので、この章の後半は、「緒論第二部」を中心に展開されてゐるのが分かります。
第三章
第三章では主に『意識の直接與件論』について論じられます。当時、岩波文庫から出てゐる翻訳は、服部紀氏によるものでしたが、現在店頭に並んでゐるのは中村文郎氏訳です。この章の初めで、小林秀雄が「流行遲れのベルグソンには、不易なものがある、といふ風な言ひ方は止めにしたい。」と 書いてゐます。この章が雑誌に載つたのは1958年ですが、中公文庫版の澤瀉久敬さんの『ベルクソンの科学論』に付された解説で中村雄二郎さんは、そんな時代の状況を、かう書いてをられます。
在世当時とくに一九世紀末から二○世紀の三十年代まで絶大な影響力をもっていたベルクソンの哲学も、第二次世界大戦という時代の大きな断絶を経た戦後世界では、サルトルをはじめとする実存主義の華々しい登場の蔭に光芒を失ったかにみえた。
中村雄二郎さんが、これに続くパラグラフで書いてをられるやうに、生物などの複雑なシステムについての研究が進むに連れて、ベルクソンの考え方の重要性が再認識されてゐるやうです。とは言へ、現在でも、自然科学者は、相変はらず明確に区別できる物体間の直線的な因果関係といふ考へによつて研究を進めてゐる場合が多く、それが生命の姿を見えにくくしてゐるやうに思はれます。遺伝子解析などの新しい研究手法が出てきたために、基本的な考へ方は変へないまま、新しいデータを取るのに忙しいやうに見えますが、早晩、根本的な考へ方の問題にぶつかるのではないでせうか。自然科学者も、もつとベルクソンを読むべきだと考へます。
さて、小林秀雄のベルクソン論は、少なくとも実際に書かれた部分だけを見れば、主として『物質と記憶』と、これに関連する論文を扱つてゐます。『意識の直接與件論』は、この第三章のほかには、第十二章、第三十二〜三十三章で言及されてゐる程度です。ただ、小林秀雄がベルクソンを論じることで言はうとしたことの一つは、この章にも明確に表れてゐるのではないでせうか。
2002年9月号の『文學界』に郡司勝義さんの「一九六〇年の小林秀雄」といふ論文が載つてゐます。その中で郡司さんは、小林秀雄が恩師の辰野隆から勧められて幸田露伴の『努力論』を読んだ話や、『物質と記憶』から読みとつたものは何かを訊ねたときに、「生命ッてね、努力なんだよ、かうやつて毎日生きてゐることは、身體が努力してゐることなんだよ。」と言はれた話などを紹介してをられます。人が生きるとは、自然に流されるのではなく、努力することだといふ考へ方は、この章の随所に現れてゐますが、次の一節もその一つでせう。
自我の表層を、容易に知覺するのも、自我の深層を困難に打ち勝つて掴むのも同じ自我だと悟るのが難しいと言ふのだ。何故難しいかと言ふと、そこに至る道は、經驗上、自己集中、自己反省といふ言はば反自然的な道を辿るより他はなく、これは、眞の持續のうちで思惟する難しさに他ならないからだ。困難を避ければ、人間は人間たる事を、人格たることを止めるであらう。定義出來ない自由を敢へて呼べば、「人格の印を荷ふ行爲」となる。自由とは、自我の全體性を取戻すことだ。取戻さなければ自由はない。
露伴の『努力論』は2001年に岩波文庫から新しい版が出ました。私の個人的な趣味では、「旧字・旧仮名で書かれた作品の表記の現代化」なぞは無用なお世話ですが。
第四章
第四章は、論文集『思想と動くもの』の序論を中心に議論が展開されます。この章の冒頭で、ベルクソンが目指したのは表現の厳密性であり、それは説明がその対象に固着してゐるといふ意味であることを述べてゐますが、その基になつた議論は『思想と動くもの』「序論 I」の冒頭部分にあります。ここに出てくる「風呂敷」といふのは、おもしろい比喩ですが、これは日本人向けに小林秀雄が考へたもののやうです。
「上と下、輕と重、乾と濕、そんな風に呼ばれた要素的概念をアプリオリに構成する事が、自然現象の説明とされてゐたのである。」といふあたりは「序論 II」を踏まへたものです(河野与一訳、岩波文庫版では66ページ)。ベルクソンは、ギリシャの哲学を念頭に置いて書いてゐたに相違ありませんが、陰陽五行などの中国哲学を連想させ、これを強く批判した本居宣長も思ひ起こされます。
この引用部分の少し後で、ベルクソンは、彼が主張する経験に基づいた哲学が、単純な結論や根本的な解決を約束するものではなく、解決は不完全で結論は暫定的なものであるが、その確かさは次第に増すのだと述べてゐます。その例として彼が取り上げるのは、「精神は身体よりも後に生き残るか」といふ問ですが、小林秀雄はこれには言及してゐません。
『創造的進化』の有名な砂糖水の事例をもとに、「時間に關する尋常な人間經驗の二つの面」があり、その一方を科学が、他方を哲学が精緻化するのだ、といふ方向に論を進め、「序論 II」に戻つて、少し長い引用をし、それを元に次のやうに述べてゐます。
ベルグソンの影響は、ベルグソニアンに於いて一番淺薄であるかも知れないし、眞の影響は、彼が望んだ通り、靜かに、強く、少しも目立たぬ處で行はれてゐる樣にも思はれるからである。
前回、中公文庫版の澤瀉久敬さんの『ベルクソンの科学論』に付された中村雄二郎さんの解説の一節をご紹介しましたが、それに続く部分で、中村さんは、かう述べてをられます。
けれども、人々のそのような速断を覆すように、相継いでベルクソンの再発見が行われた。その主なるものだけを挙げても、一、その<時間>の観念は、サイバネティクス理論のうちで大きく見直された、二、宇宙についてのその<創造的進化>の壮大なヴィジョンはテイヤール・ド・シャルダンの新しい宇宙進化論を鼓舞した、三、知覚の能動的な側面をとらえたその<運動図式>(行動への身体の身構え)の考え方をメルロ=ポンティは<身体図式>(実存的身体の基盤)の考え方によって継承、発展させた、四、そのトーテミズムについての考察は、レヴィ=ストロースによって構造主義的な思考の一つのすぐれた先駆とされた。
(中公文庫版『ベルクソンの科学論』177ページ〜)
この章は、文学性と科学性とを合はせ持つベルクソンの文体の例として、これも『思想と動くもの』に収められてゐる「ラヴェソン論」からの引用で締めくくられてゐます。(河野与一訳、岩波文庫版では356ページ)
第五章
第五章は、ベルクソンが使つた直観といふ言葉が主題になつてゐます。日本語では、直観と同じ音で「直感」といふ言葉があり、普通は、論理的で緻密な考へに対して、好い加減な思ひつき、といふ意味で使はれてゐますが、小林秀雄がこれまで努力といふことを強調して来たことからも分かるやうに、ベルクソンの説く直観は「直感」とは全く異なるものです。ちなみに、フランス語で intuition といふ言葉の意味には、大きく次の二つがあります。
(哲学で)論理に依存しない直接的な知識の形
(普通に)確かめられないこと、まだ起こつてゐないことについての、はつきりとした、あるいは、ぼんやりとした感じ
とは言へ、ベルクソンが「直觀といふ言葉を使ふのに長い間ためらつた」のは、哲学的な用法と日常の用法が混同されるのを恐れたからではなく、哲学の分野に限つても、直観といふ言葉が様々に使はれてゐたからなのは、この章の初めに書かれてゐるとほりです。小林秀雄は、直観とは「世界を統一的に理解しようとする哲學者達」がするやうに「一段高級な概念と化す」べきものではなく、日常経験のうちに萌きざした「一種の視覺ヴィジョン」であると述べて、第二章と同じく、具体的な経験の重要性を強調してゐます。
このあたりまでが、論文集『思想と動くもの』の「序論II」を元に論じられ、これ以降は、同じ論文集の「哲学的直観」からの引用が続くのですが、ここで小林秀雄は小さな誤解をしてゐるやうに思はれます。具体的には全集の41ページの末から42ページにかけての、以下の部分です。
誘惑は、哲學的直觀が、經驗つまり意識のうちに何處までも深く這入り込めると妄想するところから來る、とベルグソンは考へる(L'intuition philosophique)。經驗の二面性は、何處までも附きまとふ。意識への直接な反省が、自己への直觀が、物質の内部へ、生命の内部へ、要するに實在全體の内部へ、樂々と限りなく侵入出來ると考へるとしよう。それには先づ意識は物質の隨伴現象に過ぎない、物質に加へられた附隨物アクシダンに過ぎないと考へられねばならないが、さういふ假説が、事實に反する事は「物質と記憶」で、充分に證明した、とベルグソンは言ふ。
ここでは、直観が物質や生命の内部に入り込むことが、「楽々と限りなく」といふ条件つきではありますが、不可能だと解されてゐます。しかし、ベルクソンの原文では、意味が逆になつてゐるやうに思はれます。
実は、河野与一さんの訳でも、小林秀雄が読んだやうに訳されてゐるのです。河野与一さんは、岩波文庫の『思想と動くもの』の解説で木田元さんが書いてをられるところによれば「古今の十数ケ国語に通暁し、語学の天才と謳われ、その豊かな学殖がいまだに語り草になっている」人ださうで、そんな方の御説に素人が異を唱へるのは無謀といふものですが、ともかく、卑見を述べてみませう。問題の部分の訳は、かうです。
こうして意識が自分自身の奥底を探るに従って、物質や生命や事象一般の内部にいっそう深く入るでしょうか。もしも意識が物質の上に属性として付けくわわったものだとすればそういう事実を認めることもできましょうが、そういう仮説は普通見られている側面からすると虚妄もしくは虚偽であり、自分自身と矛盾しもしくは事実と矛盾するということは、私は前に示したつもりです。
(岩波文庫『思想と動くもの』192ページ)
問題は、ここで「認める」と訳されてゐる contester といふ語です。この言葉は「異議を申し立てる」、「認めない」と訳すのが普通で、ここでも、さう解するのが良いと思はれるのです。「認めない」と読めば、ベルクソンは、意識が自分自身の奥底を探ることで、物質や生命の内部に一層深く入ることができると考へてゐたことになります。この方が、上記の引用部分の前に書かれてゐる、科学と哲学とを二つの異なる経験であるとして、前者では意識が外の向かつて拡がるのに対し、後者では意識が内に向かつて深まるといふ議論とうまく繋がるのではないでせうか。
ここを逆に取つたために、このあたりの小林秀雄の論の進め方には無理があるやうに感じられます。これは想像ですが、小林秀雄は、河野与一さんの翻訳を参照してゐた可能性もあります。郡司勝義さんの『小林秀雄の思ひ出』によれば、河野与一さんは、殆ど読む人がゐなかつた『感想』を「最初から最後まで丹念に熟読してゐる人」であつただけではなく、小林秀雄は、河野さんに「時に応じて文献も整へてもらつたことも多々あつ」て、「さんざんお世話に」なつたと語つてゐたさうです。 (『小林秀雄の思ひ出』20ページ〜)
ともかく、「哲學的直觀とは、この接觸であり、哲學とはこのはずみ(elan)である」といふ言葉などを引用しながら、小林秀雄は、ここで、ベルクソンの言ふ哲学が、科学や日常の知覚とは違つて、「自己集中の方向」をとり「内方に向つた經驗」を得るものであることを述べてゐるのです。
第五章の後半では、ベルクソンのヴィジョンに「科學は抵抗するものとして現れるが、藝術は、いつもそれを吸引するものの姿をとる。」と述べて、芸術の話に移ります。「さういふものに到らうとして、彼は、言葉を取り集めてゐるのではないので、さういふものが分裂して言葉になる事が、本當は示したいのである。」とか、「指す物を誤れば、抽象的言語も、科學的な明確を誇りつゝ、低級な文學的比喩に墮するであらうし、一見比喩と見える表現も、對象が適切に選ばれてゐれば、言ひ代へれば、比喩によつてしかこの對象は掴めぬといふ痛切な意識によつて比喩が使用されてゐれば、嚴密な明瞭な表現となるだらう。」など、注目すべき文章がちりばめられてゐます。
話は、ベルクソンと同様に芸術を重んじた哲学者ショーペンハウエルへと進み、一見、両者の思想は異なるものと見え、ベルクソン自身もショーペンハウエルについては否定的な意見しか述べてゐないが、実際には共通点が多いと指摘されてゐます。「もし、ベルグソンが、例へば、バークリの哲學に對して行つた樣な照明を、ショーペンハウエルの仕事に對して行つたなら、到るところに、親近を見附けたであらう。」とありますが、これは「哲学的直観」にあるバークリについての記述を指してゐると思はれます。
後半では、再び「序論II」からの引用が見られる他、「変化の知覚」の一節への言及などもありますが、いづれも『思想と動くもの』に収められた文章です。
第六章
第六章は、長い章で、第五次全集で10ページ近くあります。ショーペンハウエルの美学に言及した後、ベルクソンの芸術論が展開された『笑ひ』へと話が進みます。現実を見るといふ芸術の働きを論じる過程で、『物質と記憶』に触れ、後半は「レアリテに於いて見るといふ事とイデアリテに於いて見るといふ事が現れてゐる」例として、『想像的進化』が取り上げられます。
『笑ひ』は、岩波文庫版の訳者の林達夫が解説で書いてゐるやうに、モリエールの喜劇を中心に論じたものです。従つてその言葉を借りれば「一種のモリエール論でもあり、フランス古典喜劇論でもある。『笑い』の読者はモリエールに通暁していなければならず、モリエールに興味をもつものはこの書を読むことによってモリエール的喜劇の方向とその喚起する笑いの源泉とについて深い理解をもつに至るであろう。」といふことになります。
『感想』との関係では、これに続けて、林達夫がかう書いてゐることも注目されます。
ベルクソンは、これまで纏った美学を書いていないから、この書はまた彼の美学的、いや、芸術学的見解を知るうえにも貴重な文献をなしているといえる。特にその第三章における芸術の本質を論じている箇所は、『意識の直接的与件についての論文』(『時間と自由』)第一章における美的感情を問題にした箇所と共にこの点で重要であることを注意しておこう。
なほ、ここで、「これまで纏った美学を書いていない」とあるのは、この訳本の初版が出された1938年には、ベルクソンが存命だつたからです。
脱線しますが、林達夫といふ人は恐るべき学者で、「改版へのあとがき」といふ副題の解説「ベルクソン以降」を読むと、その学識の広さ、深さに驚かされます。浅学の私は、エピグラフとして掲げられた「笑いはその正体が明かされるには、掛け値なしに一五〇頁の論文を要求し、それにその論文はアカデミーの文体ではなしに化学の文体で書かれなければならぬ。」といふスタンダールの引用に続いて、フロイトとベルクソンがそれから約七十年で、「いずれも二〇〇頁そこそこの」笑ひ論を書いた、と聞かされるだけで、感じ入つて仕舞ひます。
さて、『感想』では、『笑ひ』について、第九章から第十一章でも詳しく論じられてゐますが、第六章で引用されてゐるのは、林達夫の言ふ「第三章における芸術の本質を論じている箇所」です。(岩波文庫では139〜145ページ)
これに続く「物は見ない、物の名を呼ぶ。」で始まる段落(第五次全集では50ページ〜)では、『物質と記憶』にあるリボーの法則の解明について語られてゐます。『物質と記憶』の記述を縦横に引用してをり、また、ベルクソンは同様の表現を繰り返し用ゐる傾向があるので、どの部分が引用されてゐるのか正確に決めるのは困難です。
リボーの法則といふのは、物忘れが固有名詞、普通名詞、動詞といふ順に起こるといふもので、人の名前が思ひ出せなくなるといふのは、中年以降の皆さんにはお馴染みの現象ではないでせうか。ベルクソンは、この現象を、「記憶の障碍は、或る運動機構の障碍であり、記憶を、現在の行爲に接合する機能の衰弱であ」るといふ理論から説明してゐるのです。
『物質と記憶』への言及は、これだけで、「言葉の帳とばりは、殆ど信じ難いほど厚い。」で始まる段落から、話は『笑ひ』での芸術論へと戻り、
言葉そのものが創られた必 要の蔭に、物は隱れて了ふ。帳は、自然と私達との間ばかりではなく、私達と私達自身の意識の間にも、介在してゐる。有效な行爲に固着した生活地盤のうちで、私達は、物に對しても外側に、私達自身に對しても外側に生きる事に慣れ切つてゐる。詩人や藝術家とは、この帳が、薄くなり、透明になつた人達だ
といふベルクソンの基本的な考へ方が紹介されます。
この帳を上げて、現実そのものに直面するためには、「有用な習慣との或る斷絶」、あるいは「一種の生の非物質性」が必要になるとされ、ベルクソンは、これを、「イデアリスムが精神にある時、レアリスムは作品にあり、人が現實レアリテに接觸出來るのは、ひとへに觀念性イデアリテによるものだ」と表現してゐます。小林秀雄が、この表現について、
成る程、言ふところに、一見、少しも曖昧なところはない。だが、少し奥の方をのぞき込めば、忽ち彼の全哲學が顔を出すだらう。例へば、少しも言葉の意味を弄する事のないイデアリテとは何か、レアリテとは何か。それこそ、彼の全哲學の研究題目ではないか。又、例へば、感覺とか知覺とかいふさゝやかな言葉を取上げてみても、彼の綿密な觀察によつて、最も正確とされた意味合でしか使はれてはゐないのである。
と述べてゐるところに注目すべきでせう。
小林秀雄は、さうしたベルクソンの正確な表現の例として、『創造的進化』の「眼といふ器官の進化に關する觀察と意見」を取り上げるのですが、実際にこの部分に言及するのは第七章で、第六章では、『創造的進化』第一章「生命の進化について 機械性と目的性」の前半で論じられてゐる生命と機械論、目的論との関係について述べられてゐます。
ここでのベルクソンの主張は、小林秀雄が引用してゐない部分ですが、次の一節に示されてゐるのではないでせうか。
このように見てくると、変化の連続性、過去が現在に保存されること、本物の持続、生きものはどうもそうした属性を意識と共有するらしい。もっと踏み込んで、生命は意識活動と同様に、発明であり不断の創造であるとまでいえるであろうか。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫版 45ページ)
機械論も目的論も、全てがあらかじめ与へられてゐるといふ点では共通で、世界には根本的な新しさといふものはあり得ないことになるのですが、現実に我々の眼の前にあるのは、絶えざる創造だと言ふわけです。
第5次全集別巻Iでは55ページに「消耗的發生」といふ聞き慣れない言葉が出てきます。原文では catagenese といふ語ですが、イタリックになつてをり、元々は Cope といふ学者の本からベルクソンが持つて来た言葉のやうです。岩波文庫版(58ページ)では「下向発生」と訳されてゐます。逆の「上向発生」は anagenese で、小林秀雄は、この言葉を使つてゐませんが、「無機物中に存する劣等なエネルギーを同化し構成的な發生力と化し、生活體の組織を構成する現象」がこれです。
同じページにある「レトルト」は、化学実験などで使はれる容器の名です。下記のサイトの図にあるやうに、先の尖つた口を持つガラス容器です。 http://www.bekkoame.ne.jp/~benzen/sozai/kigu/kigu.htm
小林秀雄が、ベルクソンの言葉を借りて「組織學者や發生學者になれば、進んで言はばそのレトルトまで觀察の對象にしなければなるまい。」と言つてゐる部分は、科学の進んだ現在でも有効な考へ方ではないでせうか。例へば、遺伝子の塩基配列は解明されましたが、遺伝子の選択的な発現を説明するためには、遺伝子の配列だけでは足りず、細胞全体を考へる必要があることが明らかになりつつあると聞きます。
第七章
第七章では、第六章で予告されたやうに、ベルクソンの正確な表現の例として、『創造的進化』の「眼といふ器官の進化に關する觀察と意見」が取り上げられるのですが、その前に、小林秀雄は、生物の眼の進化に関するベルクソンの分析の元には、まづ直観があつたことに注意を促してゐます。
『形而上学入門』の文章を使ひながら、「直觀から分析への道は開けてゐるが、分析から直觀へ達する方法は一つもない」といふのが「ベルグソンの思想の根本にある考へである」ことを示し、物の運動を外から眺める場合には、認識は相対的なものに止まるが、想像力によりその物の中に入り込めば、絶対的な認識が得られる、と述べてゐます。
かう書いて仕舞ふと、「もう、解つた、君の思想は直觀派の思想だ、といふ讀者の聲」が聞こえて来さうです。そこで、『形而上学入門』の中で、ベルクソンが自らの方法論の原理を述べた部分から、いくつか引用を付け加へて置きませう。
外的ではあるが直接われわれの精神に与えられている事象がある。
この事象は動きである。実在するのは、できあがっている物ではなく、ただできていく物であり、維持される状態ではなく、ただ変化する状態である。
われわれの悟性は、その自然な傾きに従う際には、一方では固体的な知覚、他方では安定的な概念によってはたらく。
われわれの思考によって動きのある事象から固定した概念を抽き出せるということはわかるが、固定した概念をもって動きのある事象的なものを元どおり構成する方法は一つもない。
哲学することとは思考の仕事の習慣的な方向を逆転することである。
以上の引用は、河野与一訳『思想と動くもの』岩波文庫版の292〜296ページから抜き出したものです。同版では、論文の題名は『形而上学入門』ではなく『哲学入門』となつてゐます。
また、ここで「事象」と訳されてゐる言葉は realite ですが、ベルクソンの時代のこの言葉を「事象(性)」と訳すことには問題があり得ることを、この訳書に付された解説のなかで木田元さんが述べてをられます。ここでも、「実在」または「現実」と訳した方が解りやすいかも知れません。
小林秀雄の文章に戻つて、第七章の最初の長い段落の終りあたり、第五次全集では61ページの末に、「彼の否定の裏には、生氣のない知識と化して了つた生物學上の概念や定義を、ダーウィンやラマルクの持つてゐたに相違ない直觀まで連れ戻さうとする努力が隱れてゐるとさへ言へる。」といふ文があります。これは岩波文庫版では298ページあたりの記述を踏まへたものだと思はれますが、ベルクソンは、この部分での「直観」といふ言葉の使ひ方について、注を付してゐます。その一部をご紹介しませう。
この言葉で、思考の哲学的なはたらき、主として精神による精神の直接の認識、副次的には物質のうちにある本質的なところを精神によつて認識するはたらきを指すことにしている。
(河野与一訳『思想と動くもの』岩波文庫 409ページ)
小林秀雄が言ふ「ダーウィンやラマルクの持つてゐたに相違ない直觀」は、後者の副次的な意味で使はれてゐるのです。同じ注でベルクソンは、続けて以下のやうに書いてゐます。
その後私は次第に正確を期するために、悟性作用と直観、科学と哲学をもっとはっきり区別しなければならなくなる。
つまり、1902年の『形而上学入門』では、二つの意味で直観といふ言葉を使つてゐたが、1911年の『哲学的直観』や1922年の『序論 II』では、「精神による精神の直接の認識」といふ主な意味に絞つて直観といふ言葉を使ふやうになつたといふ訳です。
小林秀雄は「一貫して目指されゐるのは、直觀の裡うちにあつての生物學者と哲學者との握手である。」と言ふのですが、直観といふ言葉を、上記の主な意味に絞つて使ふ場合には、科学と哲学との違ひが強調されるので、混乱が生じる恐れがあるかと思ひ、ベルクソン自身の注をご紹介しました。
第七章の最初の長い段落の最後に、小林秀雄は、かう書いてゐます。
ベルグソンによつて吟味された、當時の生物學家の最新知識の上に、今日、どの樣な最新知識が附加されようと、彼によつて、一たん開かれた道を閉ざす力はない。直觀は、定義上、これに何かを附加する事は出來ない。
(第五次全集、62ページ)
この文章は、難解です。「彼によつて、一たん開かれた道」とは何を指すのか。「直觀は、定義上、これに何かを附加する事は出來ない。」といふ時、小林秀雄は、どのやうな直観を念頭においてゐたのか。どなたか、これらの疑問に答へて頂けると、大変うれしいのですが、いづれにしても、現代の読者としては、ベルクソンの議論が、最新の生物学の知識に照らして、有効性を保つてゐるのかを考へざるを得ません。
第七章の第二段落から、第九章の前半まで、『創造的進化』の眼に関する分析について述べられます。第七章で取り上げられるのは、岩波文庫から出てゐる真方敬道氏による翻訳の81ページから91ページあたりの記述です。これはベルクソンが、進化は機械的なものか、あるいは何か目的性を持つものなのか、を論じてゐる部分で、人間と帆立貝の眼の比較をする狙ひを、次のやうに述べてゐます。
生命はさまざまな向きの進化の線上に似もつかぬ手段である種のおなじ器官を製作するものだ、ということがかりに確立できれば、純粋な機械論は論破されうるものとなり、また目的性も、私の解する特殊な意味でならば、ある面で立証できることになろう。なおその立証力は、私のえらんだ進化の諸線の開きかげんや、その線上に見られる相似な構造体のこみいりぐあいに比例することであろう。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、81ページ)
ここで述べられたベルクソンの主張が、現在の生物学の知識によつても、支持されるものかどうかは、疑問です。例へばリチャード・ドーキンスの『盲目の時計職人』では、自然の中で似たやうな構造を持つ器官の例がいくつも見られるといふ同じ現象を取り上げて、これは、進化によつて複雑な構造を持つ器官が作られ得ることの証左である、といふ全く逆の解釈をしてゐます。
(但し、ドーキンスの意見が全て正しいとも思はれません。特に、彼自身が自分の立場だと述べてゐる「階層的還元主義」といふ考へ方は、 homo faber として存在することで人間の思考が持つてゐる偏りだとベルクソンが指摘してゐるものの典型的な例だと言へるでせう。)
また、これは私見ですが、人間の眼と帆立貝の眼の構造が細かな点まで似てゐることについては、見るといふ基本的な機能は同じであり、それを実現するための構造も似たものになること、遠くは同じ祖先から進化した人間と帆立貝が持つてゐる眼の材料は、似た性質を持つものであり、それを用ゐて実現される構造も似たものになること、などからも説明が可能だと思はれます。
小林秀雄が、第五次全集では63ページ以降で整理してゐる有性生殖が利益か不利益か分からないといふ議論も、遺伝子を交換することで多様性を実現することにより、環境への適応性を高めるといふ意味で、動物にも植物にも、利益になり得ることは、多くの人が認めるところでせう。
さらに、ベルクソンはダーウィンの進化論を狭く考へ過ぎてゐるといふ気がします。小林秀雄の文章で言へば、次の部分にそれが現れてゐます。
逃れる道は、この小變異は、有機體が、將來の建設の爲に据ゑた待ち石の如きものであると考へる事だ。單なる物の譬へではない。淘汰の假説が、其處で坐礁するなら、説明の爲に採らざるを得ない絶對的な假説である。ダーウィンは、自ら立てた原則を踏みにじる。
(第五次全集、65ページ)
ベルクソン自身の言葉では、かうなつてゐます。
目に見えぬ変異が眼の機能を妨げないのなら、補いの変異が生じない限りそれはまして眼の機能を助けはしない。すると、どうしてその変異は淘汰のはたらきで保存されるのか。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、92ページ)
しかし、淘汰されるのは、機能の妨げられた個体であり、機能が同じ程度であれば、子孫を残す確率には変はりがないのですから、「將來の建設の爲に据ゑた待ち石」は、十分に有り得ると思はれます。この場合、「待ち石」が誰かによつて意図的に置かれたものでないことは、勿論です。その後に生じる、補完的な変異により、高い機能や新しい機能を持つことで、それが結果的に生かされることになるので、「待ち石」である最初の変異の時点では、その効果は誰にも分からないのです。
ベルクソンがこのやうな勇み足とも言ふべき論を成したのは、ダーウィンの進化論を機械論の一例として取り上げてゐること、機械論では説明できないものについての強い意識を持つてゐたこと、などに起因するものでせう。部分から全体を説明するといふ還元論の考へ方では生物をうまく捉へられないといふベルクソンの問題意識は、現代でも有効性を保つてゐると思ひますが、この論点は小林秀雄が第八章で扱ふ部分に、よく表れてゐると思ひます。
第八章
第八章では、前章に引き続いて『創造的進化』の文章を引用しながら、眼といふ複雑な構造の出現が機械的な考へ方で説明できないことについて述べられます。真方敬道訳の岩波文庫版では、97ページから122ページの部分です。この章では、殆ど全ての文章が『創造的進化』からの引用や要約から成つてゐると言つても過言ではありません。勿論、文章は、内容ではなく形式も重要です。たとへ似たやうな表現を使つてはゐても、小林秀雄の文章の調子は、ベルクソンの文章とは大きく異なるものです。
さて、第七章までの部分で、偶然な内的原因では複雑な器官の出現が説明できないことが示されたとして、第八章の前半では、外部環境の直接な影響で説明できないかが検討されます。結論については、当然のものかも知れませんが、興味深いのは、それに至る道筋です。
例へば、第五次全集では68ページにある「原因」といふ言葉についての議論です。生物学者がこの言葉を使ふときに、知らず知らず、この言葉が持つ異なる意味の間を行き来してゐるといふ指摘は、抽象的な言葉による議論の危険性を示した、鮮やかな分析だと思ひます。
後半では、見るといふ単純な働きと眼といふ器官の複雑さとの対照から、単純さが事物そのものであり、複雑さは我々の感覚や悟性に由来するものであることが述べられます。
私達は、「自然は人間の如く、部分部分をとり集めて全體を作る働きをしてゐるといふ考へ」から逃れることができないが、「生命は、要素の集合や累加によつて發達しない、分離と分割とによつて發達する」といふ指摘は、物理化学的な分析を中心とする生物学に欠けてゐるものを示唆する、大変重要なものだと思ひます。
多細胞の動物でも、多くの場合、子孫を残すためには、一度、受精卵といふ一個の細胞に戻り、それが分割を繰り返して成長するといふ迂路をたどる必要があるのですが、この事実には、分離と分割によつて成長するといふ生命の特質と結びついた、何か本質的な理由があると思はれます。
小林秀雄は、ベルクソンの言葉を借りつつ、そのあたりの事情を次のやうに表現してゐます。
有機化の働きは、何か爆發の樣なもので、その出發に際して必要な場所も材料も、出來る限り小さなものでなければならない。まるで、有機化の力は、いやいやながら、空間に這入つて來たとでもいふ樣な樣子をしてゐる。
第九章
第六章から始まつた『創造的進化』についての議論は、この第九章の前半、第五段落で締めくくられます。小林秀雄は、第四段落で「ここで、ベルグソンは、有名な「生命のはずみ」 (l'elan vital) といふ言葉を使ふ。」と書いてゐます。 (第五次全集、77ページ末から。)(脚注)
「生命のはずみ」とは何か、なぜ機械論を否定するのか、といふ点については、小林秀雄は直接言及してゐませんが、以下の部分にベルクソンの考へがよく現れてゐるのではないでせうか。
進化の必要条件が環境への適応であることについては私になんの異存もない。種は自分にあてがわれた生存条件に折れて出ないなら消滅することはみえすいている。けれども、外部環境は進化が念頭におかねばならぬ勢力だとみとめるのと、それを進化の主導原因だと主張するのとは同じでない。後者は機械論の主張である。それは根源のはずみの仮説、すなわち生命にいよいよ複雑な形態をとらせながらいよいよ高い使命にそれをつれてゆくある内的衝力を仮定する私の考えを頭からしりぞける。それにもかかわらずこのはずみは歴然としている。化石種を一目みれば私たちに明らかなように、生命は原始的な形態のなかで関節不随になるという自分にとってはるかに楽な道を選んだなら、進化などしないかあるいはごくせまい範囲内の進化ですんだのであった。
(真方敬道訳『創造的進化』岩波文庫、132ページ)
ドーキンスであれば、そこに「根源のはずみ」を考へる必要などなく、様々な原因による遺伝子の確率的な変化と、環境(それには外敵や獲物との関係も含まれますが)との相互作用の結果で、より高度な生物が生まれることは十分に説明できる、と言ふでせう。遺伝子の変化は確率的に起きる現象で、特定の方向は持たないが、変化が保存され、ある環境の下では、特定の性質を持つものが多く子孫を残すことで、一定の進化が生じるのだと主張するはずです。
しかし、進化といふ現象の個別の現れを、環境から説明することは可能だとしても、そもそも何故、生物は現状を維持することに満足しないで、進化といふ一種の努力をするのか。そこには、何か生きようとする、生き延びようとする精神的な力のやうなものが働いてゐるのではないか。ベルクソンの主張は、そんな考へに基づいてゐるやうに思はれます。
第四段落の終はり、第五次全集では78ページの半ばまでが『創造的進化』からの引用を中心に構成されてをり、第五段落は、小林秀雄自身の言葉で語られてゐます。
扨さて、こゝまで來れば、ベルグソンが、見るといふ事に附した二重の意味は、もはや明らかであらう。
第五段落の冒頭のこの文は、第六章で、『創造的進化』からの文章の引用を始める前に書かれた、次の文に呼応してゐるものでせう。
ベルグソンはさういふ言葉は使つてゐないが、人間の眼は、言葉を弄する事なく肉眼と心眼との複眼だと言へる、さういふ趣が現れてゐると考へるからである。
(第五次全集54ページ)
「ベルグソンの努めたところは、ヴィジョンといふ言葉に、その全幅な意味合を囘復する事であつた。」といふ部分は、第四章、第五章で取り上げられた『思想と動くもの』のなかで語られるヴィジョンといふ言葉を念頭においたものだと思はれます。例へば、次の文章にある「ヴィジョン」です。
だから、ベルグソンは、直觀といふ言葉を、いろいろな意味に使ふであらうが、持續のうちで考へるといふ事を、その基本的な意味としたい、と言ふ。彼の言ふ直觀とは、認識の一種といふよりむしろ、前に引用した「ラヴェソン論」の中にもある樣に、哲學者に要求された視覺ヴィジョンの一種なのである。
(第五次全集41ページ)
第九章の後半、第六段落からは、『笑ひ』に話が戻ります。『創造的進化』とは直接的な結びつきを持たない話題で、突飛な印象を持ちますが、敢へて関連をつけるとすれば、結果としての肉眼を分析するのではなく、肉眼が創り出された所以のものへの直観を求めたやうに、笑ひの形式的な定義ではなく、をかしさを作り出す手段に注目するといふ、言はば動的な分析である点が、両者に共通だと言へるかも知れません。
もし定義や定式の中に、笑ひを閉ぢ込めようとすれば、忽ちモリエールに捉へられる、と、ベルグソンは、よく承知してゐるからだ。
(第五次全集79ページ)
この第六段落は、文中にもあるやうに、『笑ひ』の序文と後記を踏まへて書かれてゐます。また、最後の二つの段落は、をかしみ一般、形のをかしみと動きのをかしみ、をかしみの膨張力について述べた、『笑ひ』第一章が念頭に置かれてゐます。いづれも、『笑ひ』の文章を引用してゐるといふよりも、ベルクソンの文章の断片が、小林秀雄自身の文章の中に鏤ちりばめられてゐるといつた風情のものです。
小林秀雄はベルクソンが笑ひを分析するやり方を音楽の基本テーマとヴァリエーションに譬へてゐますが、これも、形式的、論理的で固定された定義ではなく、強張りといふ単純なテーマが様々に展開されるといふ動的な分析であるところが重要だと思はれます。
性急な理論的定義は用をなすまい。用をなさないばかりではなく、それは、をかしさといふ一種の生き物に貼附された一種機械的なものであつて、笑ひの種となるだらう。
(第五次全集82ページ)
第十章
『感想』で『笑ひ』を中心的に論じてゐるのは、第九章の後半から第十一章です。『笑ひ』は、その序文でも述べられてゐるやうに、ベルクソンが『パリ評論』に発表した三つの論文を基礎としてをり、三章構成となつてゐます。小林秀雄は、このうち、第一章「おかしみ一般 形のおかしみ 運動のおかしみ おかしみの膨張力」と第三章「性格のおかしみ」を取り上げてゐて、第二章「状況のおかしみと言葉のおかしみ」からの引用はありません。この章は九つの段落から成りますが、前半、第五段落の途中までが『笑ひ』第一章からの引用を中心に構成され、後半は第三章からの引用が核となつてゐます。
第一段落を詳しく辿つてみませう。この段落は、岩波文庫版の訳では、29〜30ページに対応した部分です。次のやうな文章が見つかります。
大事なのは、たゞ對象を見る事なのである。美しくないと言へるものでもない、醜いと言へるものでもない、たゞもう不恰好なもの、畸形なものの樣々の形を見てみよう。
ベルクソンが、繰返し忠告するのは、一つの事である。せむしが、諸君の前を通る、たゞ眼だけを使つて、眺め給へ、反省してはいけない、特に推理などしないで置き給へ、先入觀を抹殺し給へ、直接な印象だけを求め給へ、さうして得られるヴィジョンを吟味すれば、それは、強張つて、ある姿にならうとしてゐる人間、言つてみれば、顔をしかめる樣に、身體をしかめてゐる人間、まさにさういふヴィジョンであらう。
ここで小林秀雄がベルクソンの口を借りて述べてゐるのは、理屈でものを見るのではなく、先づ、感じ取ることが重要だといふ考へ方です。それも「見る」、「直接な印象だけを求め」る、といふやうに、言はば、純粋な感受性の働きが強調されてゐます。
小林秀雄が、昭和6年に書いた「文藝批評の科學性に關する論爭」の一節が思ひ出されます。
一體、主觀とか客觀とかいふ言葉も無我夢中で使はれてゐる言葉中の王樣です。われわれが作品を前にして、われわれの裡(うち)に起る全反應、或は生理的全過程を冷然と眺めるのが何が主觀的なのですか。それは純然たる客觀物です。藝術鑑賞にある程度の修練をつんだ人なら、誰でも自分の印象の一系列を客觀物として眺めてをります。
(第五次全集 第二巻 67頁)
反省や推理ではなく、先づ、直かな印象を重んじること、これが、文芸批評家として出発した頃からの、小林秀雄の一貫した方法であると思はれます。特に、人間の心の問題を扱ふのには、かうした方法が不可欠だと考へてゐたのではないでせうか。そして、これが独り善がりではないと述べてゐる点にも留意すべきでせう。
この段落は、さうした小林秀雄の核となる信念を披瀝したかとも見えるものなのですが、その大部分は、『笑ひ』にあるベルクソンの文章を使つて書かれてゐるのです。下に『感想』と『笑ひ』の該当部分を比較した表を載せておきますので、ご参照下さい。小林秀雄とベルクソンとの共通性、あるいは前者が後者に負ふものの大きさが感じられると思ひます。
『感想』 第十章 第一段落
何故、ひよつとこ面が、をかしいか。せむしが、をかしいか。こんな簡單な問題にも、人々が手を燒かねばならないといふのも、滑稽と醜とを區別するものは何であるか、醜に何を附加したら滑稽となるか、といふ風に、問題に正面から取組まうとするからである。醜を定義するのは、美を定義するよりは易しいとでも言ふのであらうか。大事なのは、たゞ對象を見る事なのである。美しくないと言へるものでもない、醜いと言へるものでもない、たゞもう不恰好なもの、畸形なものの樣々の形を見てみよう。或不恰好な形は、笑ひを挑發する特權を持ち、他の不恰好な形は、笑ひを拒絶してゐる、といふ工合に、不恰好は、二種の姿に、自ら分れて行くのを感ずるであらう。ベルグソンが、繰返し忠告するのは、一つの事である。せむしが、諸君の前を通る、たゞ眼だけを使つて、眺め給へ、反省してはいけない、特に推理などしないで置き給へ、先入觀を抹殺し給へ、直接な印象だけを求め給へ、さうして得られるヴィジョンを吟味すれば、それは、強張つて、ある姿にならうとしてゐる人間、言つてみれば、顔をしかめる樣に、身體をしかめてゐる人間、まさにさういふヴィジョンであらう。この種の實驗を重ねてゐると、まともな恰好をした人間が、眞似してみせる事の出來る不恰好は、滑稽になる事が出來るといふ法則に導かれるであらう。
『笑い』 第一章 三 第一〜第三段落
いちばん単純なものから始めよう。滑稽な顔つきとは何であるか。顔のおかしな表情はどこからくるか。ここで、滑稽を醜から区別するものは何であるか。かように提起されたこの問題は、これまで思い思いの解決しか得られなかった。どんなに単純に見えても、この問題は正面から近づこうとするには、既にあまりに捕捉し難い問題である。まず醜ということから定義してかかり、それから滑稽がこれに何を附け加えるかを究めなければならぬであろう。ところで醜を分析することが美を分析するよりもずっとやさしいというわけにはいかぬ。だが、我々はこれからしばしば我々に力を藉かす或る細工を試みてゆこう。原因が明らかに見えるくらいまでに結果を拡大して、いってみれば問題を肥大化させてみよう。そこで醜を加重してみよう。それを不恰好となるくらいまでに押し進めてみよう。そしてどうして不恰好なものからおかしなものに移るかを見てみよう。
或る不恰好が他の不恰好よりも或る場合、笑いを喚び起こしうる悲しむべき特権をもっているということは争われぬ。細かい点に立ち入るまでもない。ただ種々の不恰好を吟味してみて、次に、一方には自然がおかしみの方に方向をもっているものと、他方には絶対におかしみとは隔離しているものと、二通りのグループにそれらを分類することを読者にお願いしておこう。我々はそれが次の法則を引き出すことになるであろうと考える。まともな恰好をした人間が真似することのできる不恰好はすべて滑稽になることができる。
すると傴僂せむしはまともに身を持していられない人間の効果を与えないであろうか。その背は厭な皺を作ったのだったかもしれぬ。物質の強情っぱりによって、こわばりによって、一度身についた習慣をそのまま捨てないでいるのかもしれぬ。ただ諸君の目だけで眺めるようにつとめてみたまえ。反省しないでおきたまえ、そしてとりわけ推理しないでおきたまえ。既得のものを抹殺したまえ。素朴な直接なずばりそのままの印象を求めるようにしてみたまえ。そうすれば諸君が再把握するのは、まさしくこの種のヴィジョンである。諸君は諸君の前に、こわばって或る姿勢になろうとしている男を、そして、もしそう言いうるなら、自分のからだをしかめようとしている男をもつであろう。
<注>
下線部は、『感想』に、ほぼ同一の文が見られる部分。
ゴチックの部分は、原文では傍点。
しかし、論理的な頭の動きを抑へて物を直かに見る、といふ方法論を知るだけでは無意味でせう。その方法でベルクソンが何を見付けたか、その発見をどのやうに表現したか、それを追つてみなければ、現実の豊かさや、これに迫るベルクソンの個性的な動きを知ることはできません。
さうした例として、小林秀雄は、「表情的な顔を笑ふ事は出來ない」といふ事実から、「私達が、優美と呼ぶところには、必ず、物質の中に入りこむ非物質性のヴィジョンがある。」といふ指摘へと進むベルクソンの議論や、「よく似た二つの顔は、別々に眺めれば、少しもをかしくないのだが、並べて見ると、似てゐるといふので、をかしくなる」といふ、パスカルの謎が、ベルクソンのこの考へ方を応用すれば、きれいに解けることなどを紹介してゐます。この辺りのベルクソンの分析は見事で、まだお読みでない方には、是非、ご一読をお勧めします。『笑ひ』は、岩波文庫で200ページほどの、小さな本ですので、是非、全文に当たつてみて頂ければと思ひます。
さて、上に一部を引用しましたが、第二段落には、次のやうな一節があります。
心は、重力の作用も受けず、輕く、しなやかに、止まる事を知らず動いてゐるのだが、この心の翼のはばたきが、肉體に傳はり、肉體は活氣づく。私達が、優美と呼ぶところには、必ず、物質の中に入りこむ非物質性のヴィジョンがある。
ここで小林秀雄が紹介してゐるベルクソンの文章は、岩波文庫の林達夫訳では、34ページにありますが、単なる比喩ではなく、『物質と記憶』や『創造的進化』で述べられた、精神と物質の関係についてのベルクソンの見方を、笑ひといふ事象に例を取りながら、改めて説いたものだと考へるべきでせう。心は、脳の働きによつて生まれる随伴現象ではなく、明確な実体性を持つ、とする二元論の見方です。
また、第三段落から、第四段落にかけて、ベルクソンの演繹が、一直線に進むのではなく、ルーレットの曲線を描くやうに進むことが、これもベルクソン自身の言葉を使ひながら、述べられてゐます。単なる論理の展開ではなく、要所、要所で、立ち止まり、次の道を探るといふ、かうした考への進め方を、小林秀雄は「基本和聲の動揺と發展」といふ音楽の言葉で説明してゐるのですが、別の見方をすれば、生物の進化に似てゐると言へるかもしれません。思考自身が、一歩先に進まうと努力してゐる生き物のやうに思はれないでせうか。
第五段落からは、笑ひの社会的な性格について述べられます。この段落のはじめに書かれてゐるやうに、ベルクソンは『笑ひ』の第一章で、笑ひ一般を論じた際に、その社会的な性格を指摘してゐたのですが、小林秀雄は、この段落以降にまとめて論じてゐます。
ここから第十一章の途中まで続く議論は、『笑ひ』の第三章「性格のおかしみ」からのものが中心になつてゐます。岩波文庫版の解説で、林達夫は、この訳本を贈られた木下杢太郎が「その引用して思索の材料にした古典文学」についての知識がなかつたので、むづかしくて参つたといふ感想を漏らした旨、書いてゐますが、逆に言へば、モリエールの劇に通じてをられる方々には、この書物は一層の楽しみをもたらすのでせう。
《脚注》
「生命のはずみ」といふ言葉が書かれてゐるところ
真方敬道氏による岩波文庫版の訳を読むと、この前後には「生命の根源のはずみ」といふ言ひ方はありますが、「生命のはずみ」といふ言葉そのものは見当たりません。実は、原語の本では、このページの上端に「生命のはずみ」といふ小見出しが付いてゐるのです。真方敬道氏の訳では、目次の小見出しは訳されてゐますが、本文の小見出しは省略されてをり、訳本の4ページに、その旨、書かれてゐます。小見出しではなく、「柱」といふ表現になつてゐますが。
ベルクソンの他の本も、同様の体裁になつてゐて、欄外に小見出しがついてゐるのですが、これは、訳本によつて訳されてゐたり、ゐなかつたりします。例へば、河野与一氏訳の岩波文庫版『思想と動くもの』では、訳されてゐません。緒論の第一部、第二部では、はじめに小見出しのやうなものが纏めて訳されてゐますが、これは、原本でも同様になつてをり、原本ではそれに加へて、各ページの上に、その章の題名と小見出しとが交互に書かれてゐるのです。
岩波文庫でも、中村文郎氏による『時間と自由』の訳では、小見出しが訳されてをり、原本では章の題名だけとなつてゐる目次にも付け加へられてゐます。
第十一章
『笑ひ』の引用は、第十三章、第十五章にも出て来ますが、集中的な引用は、この第十一章で終はります。第六段落に小林秀雄自身が「努めて彼自身の言葉を辿つて書いてゐる」と記してゐるとほり、この章でも、文章のかなりの部分が『笑ひ』からの引用や要約と言ふべきものから成つてゐます。
逆に、小林秀雄自身の言葉で書かれた部分は、分量としては少ないのですが、そこには注目すべき意見が述べられてゐるやうに思はれます。例へば、第二段落の最後に、かうあります。
世人が虚榮心(vanite)と呼んでゐる、放心してゐる自己愛といふ一種の正氣の狂氣をよく觀察し給へ。異様な光が、滑稽の問題を照すであらう、とベルグソンは言ふ。こゝで、彼は、後年の彼の思索を待つてゐる道コ問題の底知れぬ穴を、讀者にのぞかせるのであつて、これは、この試論に現れた、最も深い思想だ。
小林秀雄の『笑ひ』についての論には、『意識の直接與件論』や『物質と記憶』の延長として、芸術論をからめながら、人間の認識における直観の役割について論じる部分と、笑ひの社会的側面や倫理を論じて、『道徳と宗教の二源泉』を目指す部分の、二つの大きな軸があると言へるのではないでせうか。
後者の論は、第十章の第五段落から始まり、第十一章の第七段落まで続いてゐます。『笑ひ』の末尾を「逐字譯」で引用した部分は、その中核を成すと言へるでせう。最後の第八段落は、「扨て、ここまで來ると、話は元に戻らなければならない。」といふ文章で始められ、これ以降、話は、芸術と哲学がその根底に直観を持つといふ点で共通してゐるといふ、前者の流れに戻るやうに見えます。小林秀雄が、『感想』を『道徳と宗教の二源泉』から書き出し、最後はそこに戻るつもりだつた、といふ私の空想が当たつてゐるとすれば、第十章、第十一章あたりの文章は、さうした展開を思ひ描きながら書かれたといふことになるのですが・・・。
ベルクソンは、笑ひの持つ棘について、繰り返し述べてゐます。小林秀雄の引用してゐるところでは、第五段落の次の部分がその一例です。テレビに笑ひばかりが目立つ今日、この文章を読むと複雑な気分になります。
社會生活の強張りは、社會に對する一種の不作法であるが、これに應ずる笑ひは、これに輪をかけた不作法であらう。笑ひのうちに、人間の好意を認める事は難しい。成る程、笑ひは快樂だが、われを忘れた喜びは笑ひの序幕に過ぎない。やがて、笑ひは、傲然と居直り、相手を操人形と見なして、その絲をしつかり握るであらう。この思上りにのうちには、エゴイスムの少量があり、エゴイスムの背後には、何かしら人爲的な、苦がいもの、自分の笑ひに、更に理由をつければつけるほど、いよいよ動かし難いものになつて來るペシミスムの芽生えと言つた樣なものが見附かるであらう。
この章では、『笑ひ』の他に、「パリ・ジュールナル」に載つた談話からの引用もあり、小林秀雄は、これについて「彼の著作のうちには見られぬ、明瞭な發言」だと述べてゐます。さう言ふ小林秀雄自身も、講演や座談会の場では、著作の場合よりも、自分の狙ひについて率直に述べてゐるといふ気がしますが、如何でせうか。
この引用で始まる最後の段落では、社会を本来の環境とする喜劇との対比で、「敢へて言へば、社會と絶縁しようとする傾向を持つ」悲劇を取り上げてゐます。小林秀雄が『笑ひ』を論じるなかで取り上げてゐる、直観を得るための努力と、社会の倫理的基盤の解明、といふ二つの問題は、個人と社会の係はりといふ、小林秀雄自身の基本的な主題に繋がるものであり、ここでは、前者が悲劇的なもの、後者が喜劇的なものといふ形で述べられてゐる、と言へるかも知れません。
第十二章
第十二章は、前章に続いて、モーパッサンの『ピエールとジャン』の序文の話から始まります。小林秀雄はこれが気に入つてゐたと見えて、この序文そのものや、その内容について、以下のやうに、繰り返し書いてゐます。
『様々なる意匠』(1929年)
『小説の問題 II』(1932年)
『現代詩について』(1936年)
『山本有三「眞實一路」を廻って』(1938年)
『ゴッホの手紙』(1952年)
『感想』(1955年)
『蓄音機』(1958年)
『井伏君の「貸間あり」』(1959年)
第二段落では、"Ecrits et Paroles"に収められた「哲學」、原題は"La Philosophie Francaise"から、実証主義に関する部分を引用してゐますが、話はすぐにモーパッサンに戻り、第三段落では、モーパッサンに語りかけるベルクソンの言葉を想像して書いてゐて、『感想』の中でも特異な部分になつてゐます。
第四段落は、『笑ひ』の解説で林達夫が言及してゐた『意識の直接與件論』の第1章の美的感情に関する部分を扱つてゐます。
藝術作品には、その作者との何とも定義し難い類似が感じられるものだが、これは、作者はその精神状態を、表現(exprimer)してゐるのではなく、暗示(suggerer)してゐるからであり、それといふのも、作者が、表現する事の出來ないオリヂナルな精神状態を見てゐる爲だ。
といふあたりは、『ピエールとジャン』の序文でモーパッサンが書いてゐるフローベールの教へと通じてゐるやうに思はれます。
第十三章
第十三章の冒頭は『笑ひ』からの引用で始まり、芸術家の目指す個性的なものが、何故、人々の心を打つのか、といふ問ひが扱はれてゐます。
ベルグソンの答は、簡單である。彼の信ずるところでは、天才の印しとは努力の印しなのだ。作品は、これに接する私達に、作者がやつた樣に正直に物を見る努力を促す。この各自の努力によつて、作品が一樣に眞と認められるに至る。作者の眞率は、私達に傳はらざるを得ない。なるほど作者の見たところを、私達は再び見る事は出來まい。少くとも全く同じ樣には見る事は出來まい。併し、作者がまさしく見たのなら、見るに要した作者の眞率な努力を、私達は模倣せざるを得ないのである。
最初の段落の後半に出てくる「精神的聽診」といふ言葉は、『思想と動くもの』に収められた『形而上学入門』に出て来る言葉です。この言葉が出てくる部分を引用してみませう。
してみると、テーヌのようないわゆる「経験論」とドイツのある汎神はんしん論者たちのきわめて超越的な思索との距離は、人が考えているよりは、はるかに少ないものである。この二つの場合、方法は類似している。翻訳の要素が原文の部分でもあるようにそれを使って推理するのである。ところが本当の経験論は、原文そのものにできるだけ迫ってその生命を深くさぐり、一種の精神的聴診によってその魂が鼓動しているのを感じようと志すものであって、この本当の経験論が真の哲学である。
(岩波文庫版『思想と動くもの』河野与一訳 272ページ)
ここで比喩的に「原文」といふ言葉で指されてゐるのは、第一段落の末尾で、小林秀雄が同じ『形而上学入門』から引用してゐる部分の「我による我の單純な直觀」に当たると考へて良いでせう。
第二段落で、再度『笑ひ』に触れた後、『精神のエネルギー』に収められた『知的努力』へと話が進み、第十四章まで続きます。小林秀雄が言ふやうに、この論文は『笑ひ』の2年後に書かれたものですが、その内容は、ベルクソン自身が「この前の著作」として言及してゐる『物質と記憶』に続くものとなつてゐます。
『知的努力』からの引用は、ほぼ、ベルクソンの本文の筋に沿つた形で進められてゐます。第十四章(第五次全集122ページ)で、小林秀雄自身、「私は、ベルグソンの言葉を、要約が不可能なまゝに辿つてゐるのだが」と言つてゐるとほりです。第三章をたどつた際に、郡司勝義さんが小林秀雄に『物質と記憶』から読みとつたものは何かを訊ねたら、「生命ッてね、努力なんだよ」と言はれた話をご紹介しましたが、努力といふ言葉は、『感想』のキーワードの一つだと言つて良いのではないでせうか。
小林秀雄によれば、『知的努力』でベルクソンは、「知的努力の知的特徴を、直かに明らめようと努める」のですが、第五段落では、思ひ出すときに例をとつて、「努力が伴ふ場合は、精神の、一つの面から他の面への動きが觀察される。」といふ考へ方が紹介されます。ここで言ふ精神の一つの面から他の面への動きは、『物質と記憶』に登場する有名な円錐形で、水平な断面が上下する動きに対応したものだと考へてよいでせう。(田島節夫訳の白水社版では183ページ、合田正人、松本力訳のちくま学芸文庫版では232ページ)
同じ段落では、「動的図式」といふものが登場します。これは、後で何回も登場する重要な概念なので、小林秀雄の文章で確認しておきませう。
ベルグソンは、樣々なイメージに展開するこの單純な表象を、動的圖式(schema dynamique)と名附ける。そんなものを假定したいのではない。事實の觀察は、さういふものがなければならぬ事を告げてゐるので、たゞこれをはつきり定義しようとすると、大變難しいだけだ、と彼は言ふのである。
続いて、さうした「図式」を説明するために、ベルクソンが挙げた例として、「めくら將棋」の指し手には「それぞれの對局が、獨特の顔附をもつたものと見えてゐる」ことや、ベルクソン自身がある学者の名前を思ひ出さうとした際の経験が紹介されます。
最後の二段落では、物を理解する際の心の働きが分析されます。結論だけを引用すれば、かうなります。
私達は、これらの觀念、つまり抽象的な諸關係から出發して、その想像上の物質化、假定的な言葉の形體化に進み、これを、見てゐるもの聞いてゐるものの上に置く。解釋するとは再構成する事だ。イメージとの最初の接觸が、抽象的な考へに、その方向を印する。この考へが、次に、心に浮かぶイメージに發展し、これが、今度は、知覺したイメージに接觸し、その行跡を辿り、その上にかぶさる。この重なり合ひが完全な時に、知覺は完全に解釋される。
最後から二番目の段落にあるやうに、「本當の解釋となれば、一方では、知覺やイメージと、他方では、それらの意味との間を往來する。」わけですが、この動きは、思ひ出す時の「精神の、一つの面から他の面への動き」に対応するもので、「意味」は「動的図式」に当たると言へるでせう。
第十四章
第十四章では、前の章に続いて『知的努力』が論じられます。この章は九つの段落から成りますが、その大半は「ベルグソンの言葉を、要約が不可能なまゝに辿つてゐる」もので、さうでないのは、上記の引用を含む、第七段落の前半だけです。それも短いものですから、全文を引用してみませう。
私は、ベルグソンの言葉を、要約が不可能なまゝに辿つてゐるのだが、辿りながら痛感するのは、彼自身も言ふ樣にこれは理論ではない、所謂テオリーといふものから一番遠いものだ、といふ事だ。知的努力といふ概念が説明されてゐるのではなく、知的努力といふ直感された事實を確かめようとする努力が表現されてゐると言つた方がよい。圖式とかイメージとかいふ言葉が定義されてゐるのではない。さういふ言葉自身が、己を明瞭化しようと努力してゐる。この樣な文體には讀む人の誤解が避けられぬ事は、恐らくベルグソン自身が一番よく知つてゐるであらう。讀者によつては、言はば、ベルグソンの文章を逆樣に讀み、圖式とイメージとの二元性が、どうして無理にも必要なのか、而も同時に、兩者の要素の一つが他の要素に働きかけるという樣な事を、どうして思ひ附きたがるのか、と訝いぶかる人もあらう。
『知的努力』を読むときに引つかかるのは「図式」と「イメージ」(仏語ではイマージュ)といふ言葉ではないでせうか。これらの日本語が持つ語感から出発してベルクソンの議論を理解するのではなく、現実に与へられてゐるどのやうな事実を、これらの言葉で表さうとしたのかを思ひ描くことが肝腎だと思はれます。
イメージ(イマージュ)については、後年、小林秀雄自身が江藤淳との対談の中で説明してゐます。(『「本居宣長」をめぐつて』 第五次全集では第十四巻540ページ〜。対談は現代仮名づかひで書かれてゐるので、それに従ふ。)
常識人は、哲学者の論争など知りはしない。観念論や実在論が、存在と現象とを分離する以前の事物を見ているのだ。常識にとっては、対象は対象自体で存在し、而も私達に見えるがままの生き生きとした姿を自身備えている。これは「imageイマージュ」だが、それ自体で存在するイマージュだとベルグソンは言うのです。(略)
ところで、この「イマージュ」という言葉を「映像」と現代語に訳しても、どうもしっくりしないのだな。宣長も使っている「かたち」という古い言葉の方が、余程しっくりとするのだな。
「古事記伝」になると、訳はもっと正確になります。性 質情状と書いて、「アルカタチ」とかなを振ってある。「物」 に「性質情状アルカタチ」です。これが「イマージュ」の正訳です。大分前に、ははァ、これだと思った事がある。ベルグソンは、「イマージュ」という言葉で、主観的でもなければ、客観的でもない純粋直接な知覚経験を考えていたのです。更にこの知覚の拡大とか深化とか言っていいものが、現実に行われている事を、芸術家の表現の上に見ていた。宣長が見た神話の世界も、まさしくそういう「かたち」の知覚の、今日の人々には思いも及ばぬほど深化された体験だったのだ。
ベルクソンのイマージュについては、いろいろと難しい議論があるやうですが、基本的には「現実に形を持つて、この世の中にあるものの、私達に感じられる姿」を指すのだと考へて良いのではないでせうか。
図式の方は、逆に、未だ形を持つには至らないが、さうした形である「イメージを期待するところに成り立つ」ものです。小林秀雄が引用するベルクソンの言葉を使へば、かうなります。
イメージが閉された状態にあるところを、圖式は開かれた状態にしてみせる。イメージが出來上つた、動かぬ状態で示すところを、動いて何かに成る關係で示すのが圖式である。
この章を締めくくるのは、「生命の特徴である非物質的なものの増大する物質化といふものに、出來る限り近附いてみたのである。」といふ、『知的努力』の末尾の言葉ですが、イメージが物質的なものかどうかは議論があるとしても、図式は確かに非物質的なものであると言へるでせう。
なほ、小林秀雄が述べてゐる「アルカタチ」といふ言葉は、『古事記伝』「書紀の論ひ」に出て来ます。
漢籍心カラブミゴゝロを清く洗アラひ去サリて、よく思へば、天地はたゞ天地、男女メヲはたゞ男女メヲ、火水ヒミヅはたゞ火水ヒミヅにて、おの\/その性質情状アルカタチはあれども、そはみな神の御所爲ミシワザにして、然るゆゑのことわりは、いとも\/奇靈クスシく微妙タヘなる物にしあれば、さらに人のよく測知ハカリシルべききはにあらず。
(岩波文庫版32ページ)
第十五章
第十五章は、第六章で引用された『笑ひ』の一節から始まります。第二段落以降は、『思想と動くもの』に収められてゐる『変化の知覚』からの引用を中心に話が展開し、第十六章の終り近くまで続きます。この章での『変化の知覚』からの引用は、原文を順に辿るといふのではなく、前後を組み替へながら行はれてをり、一つの引用も短めで、十分に咀嚼したものを使つてゐるといふ感じがします。
『変化の知覚』は、もともとベルクソンがオックスフォード大学で行つた講演で、新たな説を唱へてゐるといふよりも、知覚を掘り下げる芸術家に倣つた哲学の方法や、ゼノンの逆説に見られるやうな現実の運動と固化された分析との矛盾など、従来からの主張を、変化の知覚といふ問題を中心に展開した趣の文章となつてゐます。
この章で小林秀雄が整理してゐる、変化といふものについてのベルクソンの主張では、次の部分が注目に値するのではないでせうか。
現實の變化は不可分のものだが、私達は、これを、一つゞきの別々な状態が、時間のうちに並んでゐるものとして扱ふ習慣になつてゐる。
外の物も動いてゐるし、内の物も動いてゐる。何處に、私達は行動のきつかけを求めればよいか。状態と呼ぶ不動を求めるより他はない。比喩は簡單すぎる嫌ひがあるが、平行な二つのレールの上を、同じ方向に、同じ速度で走つてゐる二つの列車は、それぞれの乘客にとつては不動であらう。
二つ目の文の「比喩は簡單すぎる嫌ひがあるが」といふ部分は、ベルクソンの文章にはなく、小林秀雄の付した注釈です。また、ここに出てくる列車の譬へは、以下のやうに書かれてゐます。
実を言うと、不動ということが運動の欠如を意味するものだとすれば本当の不動というものはない。運動は事象そのものである。われわれが不動と呼んでいるものは、二つの列車が二つの平行なレールの上を同じ方向に同じ速度をもって進んでいる場合に起こる事とよく似た状態である。その場合二つの列車はそれぞれもう一つの列車に乗っている旅客にとっては不動である。しかしこの種類の事情、概して例外的な事情が、われわれに規則的な正常な事情のように思われるのは、それによってわれわれが物にはたらきかけ、また物がわれわれにはたらきかけることができるようにするからである。
(『思想と動くもの』河野与一訳、岩波文庫版224ページ)
「事象」は、河野与一流の realite の訳で、「実在」といふ訳語の方が一般的でせう。運動こそが実際に在るものだといふわけです。
我々が物に働きかけるためには、現実の時の流れに同調する必要がある、といふベルクソンの主張は、精神医学者の木村敏さんの『時間と自己』を連想させます。この本で、木村さんは、分裂病(最近の用語では統合失調症)、鬱病、癲癇といふ精神病における時間感覚について、かう書いてをられます。
いささかの誤解は覚悟の上で公式化して言ってしまえば、分裂病者はいつも未来を先取りしながら、現在よりも一歩先を生きようとしている、と言ってよい。
(『時間と自己』中公新書 72ページ)
鬱病者のレマネンツ的な秩序とのかかわりかたを支配している時間は、自己自身におくれをとらないように、とりかえしのつかない事態にならないように、これまでの住み慣れた秩序の外に出ないでおくという、いわばきわめて保守的な、ハイデッガー的にいえば既存性を存在の唯一の根拠にしているような時間である。
(同 107ページ)
癲癇の患者や癲癇に親和性をもつ人の意識が現在の体験と強く結びついていて、過去や未来の意識が相対的に弱まっているということは、アウラ体験のような特殊な病的状態についてだけではなく、その日常生活における意識のもちかたや行動のしかた一般についても言えることである。
(同 148ページ)
ベルクソンは、人が物に働きかける場合を想定してゐるのに対し、木村さんのお話は、専ら対人関係に係はるものだといふ違ひはありますが。
第十六章
第十六章は、前章に引き続き、『変化の知覚』からの引用が中心となつてゐます。最後の段落では、同じ論文集『思想と動くもの』に収められた『形而上学入門』の文章への言及もあります。
第十五章に比べると、この章の前半では、一つの引用が長くなつてゐます。例へば、この章の最初の2頁半は『変化の知覚』の第二講演の一部(岩波文庫版『思想と動くもの』では、229頁末から)を話の筋に沿つて辿る形で書かれてゐます。この部分は、小林秀雄が、「要約が不可能なまゝに辿」らざるを得ないと考へた、といふことなのでせう。
実際、ここには、ベルクソンの驚くべき主張が述べられてゐます。小林秀雄の言葉では、かうなります。
變化には、いろいろな種類があるだらうが、變化の下に、變化する物が隱れてゐる、そんな變化はない。變化は、これを支へる何か支柱の樣なものを必要とするものではない。運動でも同樣で、運動にはいろいろあるが、自らは動かぬ不變なものが動く、そんな物はない。つまり運動といふものは運動體を含むものではない。
何か動きがあるのに、あるのは動きだけで、動いてゐる物はないのだ、と言はれると、誰もが驚くでせう。この部分には、ベルクソン存命当時から、いろいろと反論が出てゐたやうで、小林秀雄は直接には言及してゐませんが、原典ではベルクソン自身が注を付してゐます。岩波文庫版『思想と動くもの』では、406頁にありますが、以下、拙訳でお示しします。
私はこれらの見解をこの講演と全く同じ形で採録するが、その後の著作で提供した応用や説明にも係はらず、恐らく当時と同じ誤解を惹き起こすだらうと承知の上である。ある存在とは作用である、といふことから、その在り方は、はかないものだと結論できるだらうか。人が、存在は「基体」にありとする場合に、私以上のことを言つてゐるのだらうか。「基体」は、それを決めるもの、つまり、その本質とは、その作用に他ならないと前提されてゐるのだから、何も決められたものを持たないのに。このやうに考へられた存在は、少しでも、それ自身のもとに在ることを止めるだらうか、実在する持続とは、過去の現在における存続と、展開の不可分な連続を意味するのだとすれば。全ての誤解は、私の実在する持続といふ考への応用例に、空間化された時間の観念をもつて当たることから来てゐる。
誤解されやすいといふのは、小林秀雄が思想家について語るときに、よく出てくる主題の一つです。『感想』でも、これまで読んできた部分に、言葉はいろいろですが、次のやうな文章が見つかります。
自分の沈黙について、とやかく言つたり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待する愛讀者や、自分の斷簡零墨まで漁りたがる考證家に、君達には何もわかつてゐない、と言つて置き度かつたのである。
(第一章、最終段落)
ベルグソンのかういふ言葉も、彼が、いつたん言葉を投げ棄ててから、拾い上げた言葉だと納得しなければ、曖昧な言葉と映るであらう。事實、多くの人々が、ベルグソンの自由の觀念の曖昧と矛盾とを難じた。ベルグソンにしてみれば、豫期してゐた事が起つたに過ぎまい。
(第三章、第四段落)
動く事物から固定した概念に向ふ道は開けてゐるが、固定した概念から動く事物に行く道はない、とベルグソンは、はつきり言ふのだが、いくら言つても言ひ足りない事だが、と斷つては、又しても同じ事を繰返す。もう、解つた、君の思想は直觀派の思想だ、といふ讀者の聲が、いつも著者に聞え、著者は、この讀者を信ずる事が出来ないからだ。
(第七章、第一段落)
笑ひの正體は、極めて嚴密な方法によつて分析されてゐる。そして、この彼の斬新な方法が、當時、多くの誤解を生んだ事は、この書の序文と後記とを讀めば、あきらかなのである。誤解は、言ふまでもなく、をかしい事物に出會ひ、外側から目につくその一般的特性を寄せ集め、をかしさといふ圓周を描いてみせようとする陳腐なやり方で滿足してゐる理論家の側から起つた。
(第九章、第六段落)
圖式とかイメージとかいふ言葉が定義されてゐるのではない。さういふ言葉自身が、己れを明瞭化しようと努力してゐる。この樣な文體には讀む人の誤解が避けられぬ事は、恐らくベルグソン自身が一番よく知つてゐるであらう。
(第十四章、第七段落)
第十七章
第十七章では、最初の二つの段落で『思想と動くもの』に収められた論文について言及した後、いよいよ『物質と記憶』へと話が進みます。書かれた部分の『感想』について言へば、この『物質と記憶』についての論が大きな部分を占めてゐます。小林秀雄がベルクソンについて語らうとしたことの一つが、この著作を巡る何かであつたことは確かでせう。
第一段落では、『ラヴェソンの生涯と業績』にある絵画論について述べた後、『変化の知覚』の末尾の「その中に我らは生き、動き、また在るなり。」といふ言葉が引用されます。聖書の『使徒行伝』十七章二十八節のこの部分は、原著ではラテン語なのですが、日本聖書協会の訳ではかうなつてゐます。
我らは神の中うちに生き、動きまた在るなり。
ちなみに、英訳では "For in him we live, and move, and have our being." となつてをり、前後を読むと、"him" は、"the Lord" あるいは "God" を指してゐるのが分かります。
第二段落で、小林秀雄は、かう書いてゐます。
この人間が世界の中に生きてゐるといふ事實に即して認識論が書けなければ、認識論とは、知識の遊戲に過ぎまい。だが、もし書けるとするなら、その研究は、ある意味で、人間の身分を越える事にもならう。「物質と記憶」は、その試みであり、當然、これは極めて難解な著作となつた。
「人間の身分を越える」といふのは、かなり大胆な表現ですが、ベルクソン自身、『思想と動くもの』の中で、これに似た言ひ方をしてゐます。以下の二つは、その例です。
直観はどこまでいくか。それを言うことができるのは直観だけである。直観は糸をにぎっている。その糸が天まで登っているかそれとも地面のいくらか離れたところでとまっているか、それを見るのは直観である。前の場合には哲学の体験は偉大な神秘家の体験と結びつく。われわれはわれわれなりに真理がそこにあると認めたつもりでいる。後の場合にはこの二つの体験はたがいに孤立したままでいるが、それだからといってたがいのあいだに矛盾はない。いずれにしても哲学は、われわれを人間の分際から高いところへもちあげたことになる。
(『緒論 第2部』岩波文庫版74頁)
しかし海の底に投げ入れた測深器が付けてもどってくる流動体も、太陽が乾かせばすぐに固体的で非連続の砂粒になる。持続の直観もこれを悟性の光線に当てると、やはりすぐに凝結してはっきりした動きのない概念に変わる。事物の生きている動きのなかに、悟性は現実的もしくは潜在的な停止点を定めようと努め、出発と到着とを記す。自然のはたらきをしている人間の思考にとって大切なのはそれだけである。しかし、哲学は人間の分際を超えるための努力でなければならない。
(『哲学入門』岩波文庫版300頁)
第三段落以降は、『物質と記憶』の第七版の序文、及び第一章の最初の部分について、抄訳とも言へる形で論が進められてゐます。逆に、同様の表現がベルクソンの著作には見当たらず、引用や要約とは言へない部分は、第三段落、第四段落の後半「ベルグソンが、特に、イマージュといふ言葉を使ひたいといふのも、」以降、それに、最後の段落の「何處までもつきまとふものは「コギト」の亡靈である。」以降の三個所くらゐです。
これらの個所には、繰り返し「コギト」といふ言葉が出て来ますが、ベルクソンの主要な著作の中には、この言葉は見つかりません。"Melanges" の索引によれば、この論集に収められた様々な文章のなかで、数カ所に登場することが分かります。そのうち、最も詳しいのは、『感想』の第十二章でも言及されてゐる "La Philosophie Francaise" の冒頭で、デカルトの哲学について論じてゐる部分です。その一節を、手元に翻訳がないので、拙訳でお示しします。 ("Melanges" 1159頁)
この自然に関する哲学の下には、精神についての理論、あるいは、デカルトの言ひ方では、「考へるといふこと」(Pensee)についての理論を発見できるだらう。考へるといふことを単純な要素に解きほぐさうとする一つの努力である。この努力は、ロックやコンディヤックの研究に道を拓いた。特に、そこで見ることができるであらう思想は、考へるといふことが先づ存在し、物質はそれに加へて与へられ、物質的な世界は、厳密には、精神による表象としてしか存在しないことがあり得るだらう、といふものである。考へるといふ行為が最初なのだ。これがデカルトの cogito である。現代のイデアリズムは全てここから来た。特にドイツのイデアリズムが、さうだ。
第十八章
第十八章では、『物質と記憶』の第一章、白水社版田島節夫訳の32〜39頁、ちくま学芸文庫版合田正人・松本力訳の26〜34頁に当たる部分を、ほぼベルクソンの話の流れに従ひながら、論じてゐます。『物質と記憶』に対応する個所が見当たらないのは、第六段落の末にある、以下の一節くらゐです。
このやり方は、ベルグソンに特有のものであつて、目指されてゐるものは常に實在の姿なのだが、實在の過不足のない分析などは、彼に信じられてゐないので、分析が一つの方向に行き過ぎたところは、反對の方向に行き過ぎた分析が修正するといふ説明法を、彼は好んで使用する事になる。彼の著作の精妙と難解は、こゝに由來する所が多く、特に「物質と記憶」は、その點で解説者を困却させる。
「實在の過不足のない分析などは、彼に信じられてゐない」といふのは、現実の複雑さと、言葉による表現の制約を考へれば、当然とも言へるでせうが、重要な指摘だと思ひます。困却させられてゐる「解説者」といふのは、小林秀雄自身を指すのでせう。
『物質と記憶』は、身体と精神との関係を論じた著作ですが、ベルクソンが19世紀末に提示した独創的な視点は、科学が大幅な進歩を遂げた今日においても、この難問を考へる上で、大きな示唆を与へるものだと思はれます。その基礎となるのが、
腦膸と脊膸との構造を比較してみれば充分だが、腦膸の機能と脊膸のシステムの反射作用との間には、複雜の度合の違ひはあつても、性質上の相違はないのである。
といふ観察です。ここから、
全動物界にわたり、神經系統は、動物の行動の必然性を減少するのを目當てに作られてゐる。とすれば、神經系統の進化に規定されてゐる知覺の進化も亦、ひたすら行動を目指すもので、認識を目指すものではないと考へていゝではないか。知覺自體が豐富なものになつて行くといふ事は、たゞ單に、生物が事物に對して行爲する際、その自由選擇に委ねられた非決定帶の増大を象徴するものではないのか。
といふ指摘が出てきます。普通、知覚とは対象物に関する情報を得るといふ認知的な働きだと考へられてゐますが、ベルクソンは、それを否定するのです。
それでは、意識的な知覚はどのやうに生まれるか。ここでベルクソンは、「純粋知覚」といふ「私のゐる場所に居り、私と同樣に生活し、しかも現在だけに没頭し、凡ての記憶を放棄して、物質の直接的な瞬間的なヴィジョンを捉へる、さういふ生物の持つ知覺」を想定した上で、かう主張してゐます。
現存から表象に移るのに、現存に何かを加へる必要があるとするなら、物質から知覺への推移は不可解な神秘とならう。だが、逆に、第一の用語から何かを引き去れば第二の用語に移れる、即ち、イマージュの表象は、單なるその現存より小さいものとすれば、話はまるで變つて來るだらう。何故かといふと、現存のイマージュが、自身の一部の放棄を強ひられさへすれば、その單なる現存は、表象に變ずるに充分だからだ。
ここでは、最初に引用した小林秀雄の注意にあるやうに、記憶を持たない知覚といふ、単純化がなされてゐるのではありますが、現実とは、意識的な知覚よりも、ある意味で、より豊かな相互作用を持つイマージュなのだ、といふ主張は、やはり驚くべきものだと言へるでせう。
細かくなりますが第五段落末に、「知覺が空間を處理する程度は、行動が時間を處理する程度に正確に等しい事は明瞭である。」といふ文章があります。原文は、la perception dispose de l'espace dans l'exacte proportion ou l'action dispose du temps. となつてをり、合田正人・松本力両氏の訳の「知覚は行動が時間を自由にするのとちょうど同じだけ空間を自由にするのだ。」が、原文の意味に近いと思はれます。
(田島節夫氏の訳と、合田・松本両氏の訳は、それぞれのスタイルを持つてをり、読者により好みはいろいろでせうが、この部分については、合田・松本両氏の訳の方が良いと考へます。)
第十九章
第十九章では、前章に続いて、『物質と記憶』の第一章の残りの部分を論じてゐます。論の展開は、必ずしもベルクソンどほりではなく、少しでも分かりやすく紹介しようといふ小林秀雄の意図が感じられます。冒頭には、次の一節があります。
從つて、物が在るといふ事と物が意識的に知覺されるといふ事との間には、性質上の相違はない。あるのはたゞ程度の差である。
小林秀雄は引用してゐませんが、ベルクソンは、別の個所で「われわれの知覚は、純粋な状態では、まさしく諸事物の一部をなしているだろう。」といふ言ひ方もしてゐます(合田正人・松本力両氏訳79頁。田島節夫氏訳では75頁)。これも、純粋知覚といふ条件付きの議論ではありますが、普通に考へられてゐる物と知覚との関係とは、全く異なる主張です。特に「意識的」といふ言葉には、読者として抵抗を感じるのではないでせうか。
少し先を読むと、ベルクソンは、意識について、一般的な考へ方とは異なる見方をしてゐることが分かります。例へば次のやうな文です。
誰も心理状態の本質的な特性は意識にあるといふ考へから、容易に離れられない。從つて、心理的状態が、意識されないやうになるには、心理的状態が存在しなくならなければならぬと考へる。無意識と心理の非存在とを同義に扱ひながら、無意識の心理の意味するところを納得する事は難しい。だが、もし、意識とは現在の特徴的な刻印である事、即ち現實に生きられてゐるもの、つまり、活動してゐるものに他ならぬとすれば、活動しないものがもはや意識に屬さぬからと言つて、それを必ずしも、もはや存在しないものとなす道理はないではないか。
(『感想』第二十四章 第五次全集189頁)
第三章の「無意識について」といふ節にある文章ですが、意識が、現在に活動するものの特徴だとすれば、冒頭に引いた部分の意味も分かりやすくなると思はれます。
続いて、これも非常に重要な指摘がなされます。この部分は、ベルクソンが第一章の末で行つてゐる要約から、先回りして引用されてゐます。
物質が何か神秘的な力を秘めてゐると考へる理由など少しもない。例へば、神經組織といふものも、物質に違ひないし、ある性質の色彩も持ち、抵抗も持ち、凝集力も持つた物塊であるが、其他、私達の知覺しない樣々な性質を持つてゐるにせよ、要するに物理的性質を所有するに過ぎず、從つて、運動を受取つたり、阻んだり、傳達したりする作用以外のものがある筈はない。
精神作用は脳神経の活動の産物である、といふのが、今日の常識的な考へ方ではないかと思はれますが、ベルクソンの主張は、これと真つ向から対立するものです。神経は、あくまで物であり、神経であるに止まるので、そこから、魔法のやうに精神作用が生まれる筈はない、といふのです。
第三段落では、かうした考へ方こそが、「直接經驗による常識の考へ方」であるとの主張が述べられます。アランはベルクソンに対しては否定的な態度を取つてゐた人ですが、この段落で述べられてゐる議論などは、アラン自身の『精神と情念に関する81章』の一節(第四部第六章「心と体の結びつき」)の内容とよく似てゐるといふ気がします。
第五段落で、机上の本を例に取り、それが見えることと、大脳内の過程との関係が論じられてゐますが、次の一節の、知覚を知るには脳だけではなく関係する全てを考へる必要がある、といふ指摘は、今日でも検討に値するものではないでせうか。
私達は、在る本に私達の可能的動作を讀むのだ。本から發する光線も、網膜も、大腦も、私達の知覺活動といふ一つの聯絡ある全體を形成してゐるのであつて、そのほんのさゝやかな部分である大腦内の過程が、知覺全體と等價だとする理由はない。私達は、外界の運動を受納し、これを利用する必要上、神經系を持つが、その機能が知覺を發生させるわけでもなし、神經系の如何なる點にも、意識的中心が存在してゐるわけでもない。
これに続く一文は、『創造的進化』を予想させるものだと言へるかも知れません。
知覺の發生の原因はといへば、神經要素の連鎖、これを維持する爲の器官、及び生命一般を發生する原因と同じものだと言ふより他はない。
この段落で小林秀雄が纏めてゐるベルクソンの説が正しいのだとすれば、現代の「心の哲学」で難問だとされてゐるバインディング問題なども、「感覺的刺戟と呼ぶところのものが、知覺を作り出すといふやうな無理な説明」が生んだ幻の難問だといふことになりさうです。
第六段落から第九段落では、「延長ある知覺が、どうして延長のないものと思はれる感情に移るかといふ問題」が扱はれます。その際に鍵となるのが、知覚の主体が「決して數學的點ではなく、身體であり、これは、自然の中の他の物體同樣に、外的原因を持つ作用にさらされてゐる」といふ事情です。
この辺りは、ほぼベルクソンの論の進め方をなぞる形で書かれてゐます。確かに、ベルクソンの論理の展開は鮮やかで、素直に辿る以上の説明はないやうにも思はれます。例へば、以下の部分など。
身體の行動能力(これを神經系の複雜の度合が象徴するのだが)が、大きくなればなるほど、それだけ知覺のとゞく範圍はひろがる。といふ事は、私達の身體と一つの知覺對象との間の距離は、事實上、身にふりかゝる一つの危險の大小或は自らの希望實現の遠近を測る尺度だといふ事だ。從つて、或る間隔によつて身體から分離されてゐる、身體以外の對象に關する知覺は、常にたゞ或る潛在的作用を示すに過ぎない。しかし、この對象と私達の身體との距離が縮まるに從つて、言葉を代へれば、危險がいよいよ差迫り、利益がいよいよ近附いて來ると、潛在的作用は、現實的作用に變ずる傾向を示して來る。この傾向が極限に達したと假定しよう。つまり、距離が零となり、知覺對象が私達の身體と一致し、身體自身が知覺の對象となつたとする。さうなれば、それはもう潛在的作用ではない、全く特殊な知覺で現される現實の作用であらう。これが即ち、アフェクシオンである。
「アフェクシオン」を小林秀雄は「情」、「感情」あるいは「感じ」と訳してゐます。辞書に拠れば、affection は幅広い意味を持つ言葉ですが、ここでは、快や苦を伴ふ心理状態、或いは、感性や感情に影響を与へる変化を指すと考へてよいでせう。
第二十章
第二十章は、『物質と記憶』第一章の最後の部分から始められ、Ecrits et Paroles I に収められた討論会の記録「精神生理學的並行論と實證的形而上學」でのベルクソンの発言に言及しながら、『物質と記憶』が書かれた狙ひについて論じてゐます。
最初の段落では、『物質と記憶』第一章で提示された、「腦膸は行動の具であつて、表象の具ではない」といふ「心理學を越えて精神生理學に向ふ」議論と、「私達は、眞實、私達の外部に於いて、知覺のうちに身を置き、直截な直觀のうちに、對象の現實性にふれてゐる」といふ「心理學を越えて形而上學に向ふ」議論の双方について、記憶の研究が、その正否を検証する鍵を与へることが、述べられてゐます。第二章以降で、記憶についての研究を分析する意味が示されてゐるのです。
第二段落からは、「精神生理學的並行論と實證的形而上學」を元に、『物質と記憶』執筆に至るベルクソンの思考過程が、この討論会でのベルクソン自身の発言を引用しながら、論じられてゐます。この討論会の記録は、白水社から出てゐるベルクソン全集の第八巻に、「心身平行論と実証的形而上学」といふ題で収められてゐます。
ベルクソンは、ここで、記憶に関する観察から、生命の意味といふ大きな問題まで進む道筋が見えると述べてゐます。
この觀察は、やがて、そのまゝ、生命の意味するところ即ち心と肉體との區別の眞の意味、並びに、兩者が協力し統一する理由を、順を追つて、實證的に決定する可能性を示すものではあるまいか。其處から、生命が私達の思想にもたらす、全く特殊な制限が、次第に明らかになつて來るのではあるまいか。
坂下さんが、小林秀雄MLで、篠原資明氏の『ベルクソン』(岩波新書)に言及してをられました。著者の「はじめに」によれば、この本は「われわれがどこから来たのか、われわれは何であるのか、われわれはどこへ行くのか」といふ問ひに、ベルクソンを手がかりとして「大まじめに取りくんだ記録である」といふことですが、上に引用した部分を読むと、ベルクソン自身が、『物質と記憶』を書くにあたつて、同様の大きな目標を持つてゐたことが分かります。
細かな話ですが、翻訳に関する点について一言。第三段落に、次の下りがあります。
そこでベルグソンは、精神と物質とのまさに交叉點を現してゐる記憶の問題に着目し、失語症の研究に五年間を費した。ところが、これを、彼は、敢あへて失語症といふ文學の皮をはぐのに五年間かゝたと言ふのである。それほど、偏見をすてゝ、事實を吟味するといふ事は難しい事だつた。
真ん中の一文は、原文では、以下のやうになつてゐます。
La litterature de l'aphasie est enorme. Je mis cinq ans a la depouiller.
"depouiller" といふ動詞は、「皮をむく」といふ意味もありますが、「分析する、詳しく調べる」といふ意味にもなり、ここでは、後者で読むのが、正しいと思はれます。"litterature" も、「文学」の他に「文献」といふ意味を持つので、「文學の皮をはぐ」ではなく「文献を精読する」となるでせう。小林秀雄は、そこを勘違ひして、深読みをしてゐるわけですが、さうした誤りを犯したのは、ベルクソンの姿勢をよく理解してゐたからだとも、言へるのではないでせうか。
最後の段落で、小林秀雄は、ベルクソン自身の言葉を踏まへながら、かう書いてゐます。
こゝに現れたベルグソンの自信は、哲學には、その固有な實證的方法があるといふ、この空前な思想家の確信を、そのまゝ語つてゐる。哲學は、實在の説明について、單純な決定的な概念のうちに、自己を完成したいといふ希ひによつて、己れを誤り、他からも誤られて來た。ともに、實在の究明を仕事にしてゐるなら、科學に完成のないやうに、哲學にも完成はなくてもよいし、恐らくあり得ない。
ベルクソンの著作には、sui generis といふ言葉がしばしば登場します。「独自の、独特の、他に比較するもののない」、といふ意味を持つラテン語ですが、これは、既存の概念や言葉に引き摺られて議論を進めるのではなく、現実の持つ独自の姿を見つめるべきだ、といふ考へ方の現れだと言へるでせう。上記の小林秀雄の誤解も、かうしたベルクソンの思想を熟知してゐたが故のものだと思はれます。
この章の最後にある次の下りでは、「精神生理學的並行論と實證的形而上學」でベルクソンが『物質と記憶』を書いた目的を語つたやうに、小林秀雄が『感想』を書いた理由の一つを語つてゐます。
この著作を要約してみる事など思ひも寄らないが、ベルグソンの著作のうちで、最も獨創的なものでありながら、恐らく一番讀まれてゐない事を考へる時、彼の劃期的な知的努力の描いた曲線に、若干の切線は引けたら引いてみたいと思ふのである。
第二十一章
第二十一章からは、『物質と記憶』第二章に話が進みます。ベルクソンは、第二章の冒頭で、以下の三点の主張を示し、順に解説して行きます。
過去は、1)運動機構、2)独立した記憶、といふ異なる二つの形で保存される。
現に在る物の再認は、その物から生ずる場合は運動により、主体から発する場合は表象により、行はれる。
時間に沿つて並んだ記憶は、次第に、生まれつつある活動、あるいは、可能な活動へと移る。脳の損傷は、この活動を損ふが、記憶を損ふことはない。
小林秀雄がこの章で扱ふのは、最初の二点を論じた二つの節で、「記憶の二形式」、「運動と記憶」といふ題が付されてゐる部分です。
第二段落から第五段落では、学課の暗唱といふ例をとり、同じ記憶といふ言葉で指されるものには、表象としての記憶と、運動機構としての記憶があることが述べられます。記憶といふ一つの言葉が指すものの中に、実は、全く性質を異にする二つのものが含まれてゐるといふ指摘は、極めて説得的で、前回述べた、既存の概念や言葉に引き摺られて議論を進めるのではなく、現実の持つ独自の姿を見つめるべきだ、といふベルクソンの考へ方が、実際に適用された良い例だと言へるでせう。
ベルクソンがここで区別してゐる二つの記憶は、最近の心理学の用語で、「エピソード記憶」と「手続き記憶」と呼ばれてゐるものに当たると思はれます。
第六段落以降は、「これは見た事がある、といふ感じ」、即ち、再認の問題が扱はれます。ベルクソンは、ここでも運動傾向としての自動的な再認と、表象によつて行はれる努力が必要な再認の二つを区別してゐて、前者については、以下のやうに述べられてゐます。
感覺が訓練されるとは、感覺的印象とこれを利用しようとする運動との間に、結合が出來上つて行く事に他ならぬ。實際、日常生活で一番普通な物の再認とは、これを使用する方法を知るといふ事だ。私達はみな、再認を考へる以前に再認を行つてゐる。眼前の品物は、その品物が存在してゐるといふだけで、もう私達を何等かの動作に導く。品物を熟知してゐるとは、さういふ事だ。この場合、私達に、再認感を與へるには、運動傾向だけで十分なのである。
後者については、例へば、かう書かれてゐます。
對象の姿を確かめようとする努力は、逆に私の側から發する。私の記憶心像、現存しないものの表象を、いかにして現在に關係附けようかとする努力から發する。注意を集中する再認は、現存する運動機構によらず、現存しないものの表象によつて行はれる。
かうした二種類の再認があることについて、ベルクソンは、見てゐるものが何だか分からなくなる精神盲と呼ばれる病気や、言葉を見たり聞いたりしても意味が分からなくなる言語盲といふ病気の例を、その証左として挙げてゐます。
『物質と記憶』は、ベルクソンの著作の中でも難解なものとされてゐますが、この章の末尾に、小林秀雄が記してゐるやうに、議論は、いよいよ核心に触れてきます。
ベルグソンは、再認の事實を吟味し、こゝに至つて記憶の問題の中心につき當る。現存と非現存との間には、中間的段階など考へられはしない。では、過去の表象の保存とは何を意味するのか。それは、現在の運動機構とどういふ關係にあるのか。即ち精神と物質との關係の問題である。當然、彼の研究の難解は、この邊りから始まる。
なほ、ちくま学芸文庫版の合田・松本両氏の訳では、「これは見た事がある、といふ感じ」の部分が、「「既視感」(deja vu) の感情」と訳されてゐます(118頁)。「既視感」は、最近の用法では、初めて経験することなのに、細部まで、いつか経験したことがあるという気がして、場合によつては、次の展開も予想できると思はれるやうな経験を指すことが多く、フランス語の音で「デジャヴュ」などとも言はれてゐます。ベルクソンが、ここで述べてゐるのは、かうした「既視感」のことではなく、単に、「これは見た事がある、といふ感じ」です。
最近の意味での「デジャヴュ」については、ベルクソンは「誤つた再認」(fausse reconnaissance) といふ言葉を使つてをり、『精神とエネルギー』に収められた「現在の思ひ出と誤つた再認」といふ論文で、この現象を扱つてゐます。極めて興味深い内容の論文ですが、『感想』でも、第二十八章以降で取り上げられてゐますので、そこで触れます。
第二十二章
第二十二章では、前回ご紹介した『物質と記憶』第二章の冒頭で示される三つの主張の三番目「時間に沿つて並んだ記憶は、次第に、生まれつつある、あるいは、可能な活動へと移る。脳の損傷は、この活動を損ふが、記憶を損ふことはない」に話が進みます。この問題を、『物質と記憶』では、「記憶と運動」、「記憶の現実化」といふ二つの節で扱つてゐるのですが、この章では、前者が取り上げられます。
ベルクソンは、この節の始めに、ここで扱ふ問題の重要性を確認し、記憶の分析との関係を示す文章を置いてゐます。その最初の部分は、かうです。
我々はここで、論争の本質的な点に触れてゐる。再認が注意を伴ふものである場合、即ち、記憶のイマージュが現在の知覚と規則正しく結びつく場合に、知覚が機械的に記憶の出現を決定してゐるのだらうか、それとも、記憶が自発的に、知覚の前に出てくるのだらうか。
この問への答に、確定されるべき脳と記憶の関係が懸つてゐる。
ベルクソンは、実際に記憶の分析に入る前に、知覚と注意と記憶の間の一般的な関係に言及するのですが、小林秀雄は、この部分から、第二十二章を始めてゐて、ベルクソンが冒頭に置いた上記の文章に続く部分を、順序を変へて、第四段落に持つて来てゐます。話の流れを分かりやすくするための工夫でせう。それ以外の部分は、ほぼ、ベルクソンの論じる順序に沿つて話が進められてゐます。
さて、小林秀雄がこの章の前半に置いた部分では、注意とは何かが論じられます。その要点は、以下の部分だと言つて良いでせう。
精神と對象とは、注意の作用で、緊密に聯合してゐる。それは、精神に向ふ知覺心像と空間に投射される記憶心像とが、相前後して走つてゐる切れ目のない輪道だ。
「輪道」は、circuit の訳で、ものの周囲、円形の道、電気回路などを指します。
章の後半では、いよいよ、言語の聴覚的記憶の障碍を例に取り上げて、次の二つの仮説のどちらが正しいのかが確かめられます。
仮説其の一
もし或る刺戟の運動が、知覺中樞に至り、その運動が、他の皮質中樞に傳はり、其處に記憶が發生するといふのが事實なら、記憶は、嚴密な意味で、腦膸の一機能に過ぎない。
仮説其の二
腦膸に於いても、世界のあらゆる所に於いても、運動が運動以外のものを發生させる道理がないなら、知覺の運動は、身體に、或る態度を發生させるに止まる。
それぞれの仮説で、脳の損傷が記憶の障碍につながる仕組みが、異なります。
仮説其の一では、
腦膸の損傷によつて惹起される記憶の障碍は、記憶が腦膸の損傷局所に存し、局所とともに破壞される結果だらう。
仮説其の二では、
腦膸の損傷は、或る時は、身體が或る對象に向つて、心像を喚起するのに適當な態度を採る事を妨げる事もあらうし、又、或る時は、記憶と現実との連鎖を切斷し、言ひかへれば、記憶が現實化する最後の段階である行動の段階を破滅させ、記憶の實現を妨げる事もあらう。だが、いづれにしても、現在の運動或は未來の運動の準備が出來なくなるだけであつて、腦膸の損傷は、實際には、記憶を破壞する事はない。
ベルクソンは、第二の仮説を支持してゐるわけですが、その証明のために、言語の聴覚的記憶の障碍を取り上げて、「聽覺的再認には、先づ感覺運動の自動的過程があり、次に、記憶心像の能動的な、言はば、中心から離れる投射が行はれる事を確めようとする」のです。冒頭に述べたやうに、「感覺運動の自動的過程」と「能動的な投射」の二つの問題が、「記憶と運動」と「記憶の現実化」といふ二つの節で扱はれてをり、それぞれがこの章と次の二十三章で論じられてゐるのです。
第七段落以降の分析は、極めて説得的なものだと思はれます。例へば、以下のやうな部分。
耳を新しい言葉の諸要素に慣らすといふ事は、聞えた生のまゝの音を變へる事でもなく、これに記憶を加へる事でもない。發聲筋肉の運動傾向を、聽覺的印象に對して整調する事だ。つまり運動の隨伴を完成する事だ。
もし、生のまゝの聽覺は、事實、音響の連續に他ならず、又、正常人の状態にあつては、習慣の結果發生する樣々な感覺運動の諸連絡の役目は、聞えて來た音響の連續を分解するにある、といふ事に注意するなら、事實は、自ら明瞭になるだらう。意識のメカニスムの損傷は、この分解作用を妨げるから、對應する知覺に、はまり込まうとする記憶の突進を、はつきり禁止して了ふのである。故に、損傷の及ぶところは、「運動圖式」の上だけだと考へる事が出來る。
この他にも、興味深い指摘がたくさんありますので、是非、『感想』の本文に当たつて頂ければと思ひます。また、『物質と記憶』の該当部分も参照なされば、小林秀雄が濃縮してゐるベルクソンの周到な議論を、生で味はふことができるでせう。
言葉についての注釈を一つ。第五段落に、「腦皮質の確定した囘轉」といふ語がありますが、この「回転」は脳の一部を指す解剖学上の用語で、英語では gyrus、「回」とか「脳回」とも訳されます。脳のしわとしわの間の凸になつた部分を指します。
第二十三章
この章でも、「既に書いたが、注意を伴ふ再認作用は」で始まる第四段落を除き、ベルクソンの話の流れにそつて、議論が進められます。
この章で列挙されてゐる論点の多くは、今日でも有効性を失つてゐないと思ひます。さうした論拠によつてベルクソンが示さうとしてゐるのは、注意を伴ふ再認は、外部の刺激によつて機械的に生じるやうな受動的な働きではなく、主体的、能動的な働きだ、といふことです。第三段落では、かう言つてゐます。
相手の話を理解しようと、言葉に聞き入る時、私達は、決して、印象がその心像を求めるのを傍觀してはゐまい。私達は、進んで精神の或る態度を採つてゐる事を感ずるだらう。相手の話の内容の如何に應じ、特に語句の動きの變化に從ひ、變化する内的な運動傾向を感ずるだらう。言はば、相手の話し方に應じて、こちらの知的作用の調子を整へようと構へる態度である。聞き手の側は、或る運動圖式をこしらへて、これによつて、相手の發音の抑揚に傍線を引き、相手の思想の曲線の曲り具合を辿り、こちらの思想を導かうとするのだ。
第四段落では、次のやうに表現されてゐます。
他人の計算を理解するとは、自分でそれを再びやつてみる事だ。同樣に、他人の話を理解するとは、耳に聞こえた音の連續を知的に再造する事だ。
「再造」といふのは、耳慣れない言葉ですが、reconstituer といふのが元の言葉で、「再構成」といふのが今の読者には分かり易いでせう。人は、自分をシミュレータとして使ふことによつて、他人の考へを理解してゐるのだ、といふ主張だと言ひ替へる事もできるでせう。
最近の研究で、ミラー・ニューロンと呼ばれる脳細胞が発見されました。最初は猿で見つかつたのですが、人間にも同様の細胞があると言はれてゐます。このニューロンは、自分が動作するときに活動するだけではなく、他人が同じ動作をするのを見てゐるときにも活動するといふ性質を持ち、他人の動作を理解するために使はれてゐると考へられてゐます。ベルクソンの主張(の一部)は、かうした最近の研究によつて裏付けられたとも言へるのではないでせうか。ミラー・ニューロンについては、例へば下記のサイトをご参照ください。
『脳科学辞典』「ミラー・ニューロン」
第二十四章
第二十四章からは、『物質と記憶』の第三章に話が進みます。最初の段落は、小林秀雄による解説です。
これまでの處でも、既に明らかなやうに、ベルグソンの記憶の分析には、心理學的分析を超えて進まうとする一貫した努力が見られる。心理學が否定されるのではない。その成果の、徹底的な、言はば、精神的消化が行はれる。例へば、再認作用は、心理學者にとつては、知覺心像と記憶心像とが出會ふ場所であらうが、哲學者にとつては、現在と過去とが出會ふ場所であらう。しかし、ベルグソンに問題なのは、どちらの立場に立つかではない。二つの立場を取るに至る一つの同じ精神にある。同じ精神が見もするし、考へもする。觀察を超えて思索しようとする努力と、辯證の殻を破つて觀察に至らうとする努力とは切れ目のない輪道を描く。彼の記憶の分析が、歩一歩複雜なものになるのは、この輪道の意識による。そして、又、この意識は、心理學と哲學との間の關聯は、現實に存する、私達の現實の經驗の與件である、といふ確信に基く。
ベルクソンは、第一章の最後の節で、第二章以降の議論の進め方を提示してゐます。小林秀雄も、『感想』第二十章で、この部分に言及してゐました。「腦膸は行動の具であつて、表象の具ではない」といふ「心理學を越えて精神生理學に向ふ」議論と、「私達は、眞實、私達の外部に於いて、知覺のうちに身を置き、直截な直觀のうちに、對象の現實性にふれてゐる」といふ「心理學を越えて形而上學に向ふ」議論が、それぞれ、第二章、第三章で展開されるのです。上に引用した部分は、これを念頭に置いて書かれたものでせう。
もう一つ、この中で、小林秀雄が努力といふ言葉を強調してゐることが目を引きます。ベルクソンにとつて、考へるといふことは、対象の現実の姿を捉へようとする、対象に即した、独自の努力であつた、と言ひたいのだと思はれます。
第二段落からは、第三章の最初の三節、「純粋記憶」、「現在とは何か」、「無意識について」でのベルクソンの議論を辿る形で文章が進みます。このあたりは、目を見張らせるやうな主張が次々と示され、非常に刺激的な文章となつてゐます。小林秀雄の文章では、次のやうな部分です。
だが、生活人の經驗は、現在と過去とは程度の差だとは、私達に告げてはゐない。現在は、生き生きと私達の興味を引き、私達を行動に誘ふが、過去は本質的に無力だ、と明言してゐる。
このやうに、私の現在が、本質上、感覺・運動的なものであるとは、私の現在は、私の身體についての意識に成立してゐる事を意味する。
更に、一般的に言へば、實在そのものに他ならぬこの生成の連續に於いて、私の知覺が、この流動體中に行ふ殆ど瞬間的な切斷によつて、現在の瞬間は成立する。この切斷面こそ、私達が物質界と呼ぶものに他ならない。
物的對象を知覺する事を止めれば、それは存在しなくなると考へる如何なる理由もないやうに、知覺される途端に、過去は消滅して了ふと考へる理由は、何處にもない。
まさに形而上学的な議論で、雲を掴むやうな話だと思はれる方も多いかも知れませんが、私には、非常に魅力的な部分です。
この章の末尾に、「この書の初めで、意識的な外的知覺が分析された場合、一般に客觀性といふものに關するベルグソンの考へは既に明瞭に示されてゐる。」とあります。これは、ベルクソン自身の「この作業の一部は、この著作の第一章で、客観性一般を扱つたときに、為されてゐる。」といふ言葉を踏まへたもので、第一章の「物質の問題への移行」といふ節を指すものと思はれます。
第二十五章
第二十五章では、前章に続いて、『物質と記憶』第三章の「無意識について」、「過去と現在の関係」と題された二節の議論が紹介されてゐます。
最初の四つの段落は、私達にとつて、事物と記憶とが、何故全く異なる在り方をしてゐると感じられるのかの説明です。ここも大変に興味深い指摘に満ちてゐます。挙げ始めると切りがないので、敢へて、二個所だけ選んでみませう。
空間は、私達の近い未來の圖式を、一擧に、私達に提供してゐるものだ。この未來は、際限なく流れて行く筈のものだから、この未來を象徴する空間は、不動のまゝの姿で、際限なく擴がつてゐるといふ特徴を持つ。
よく觀察してみれば、記憶も亦同種の連鎖を成してゐるもので、私達が決心し、決定する時に、常に現れる私達の性格なるものは、まさに、私達の過去全體の現実的綜合である事を知る筈だ。
基本にあるは、周囲からの脅威を避け、獲物を捕へるといふ、実用のために発達した私達の知覚が、対象の見え方を制約してゐるといふ考へ方です。
第五段落以降は、有名な円錐の説明です。これまで論じられてきた私達の外に拡がる世界と、記憶との関係が、一つの図で示されるのです。
このあたりは、小林秀雄も、殆どベルクソンの文章を辿ることに終始してゐますので、私が付け加へることは何もありません。興味を持たれた方は、是非、ベルクソンの本文にも当たつて頂きたいと思ひます。
最後の段落に、かうあります。
私達の過去は、現在の行動の必要に制限されてゐるから、姿を隱してはゐるが、この必要に興味を失ふ状態に、私達があれば、忽ち意識の境界を越えて動き出すのである。
ベルクソンは、睡眠時に失はれたと信じてゐた記憶が甦つたり、窒息死しさうになつた人が自分の一生が目の前に展開されるのを見る、といつた例で、かうした記憶の保持を裏付けようとするのですが、最近、米国では、そのやうな特別な状態でなくても、自分の一生を詳細に思ひ出すことができる人達が注目されてゐるやうです。
英文ですが、ご関心のある方は、次のサイトをご参照ください。 Highly Superior Autobiographical Memory
第二十六章
第二十六章では、前章に引き続き『物質と記憶』第三章の「過去と現在の関係」といふ節の途中から、同章の最後までが論じられてゐます。前半は、一般観念といふものの分析です。ベルクソンは、円錐で示された精神と身体との関係を、一般観念(抽象観念)は如何にして可能かといふ昔からの哲学の問題に応用してゐるのです。
一般にベルクソンの本では、『笑ひ』の中に出てくる「美とは何か」といふ議論のやうに、本の主題に関する議論の中に、哲学の様々な問題が織り込まれてゐます。うつかりすると読みすごして仕舞ひさうなものもありますが、実は、それぞれが大きな問題を論じてゐることも多いのです。
一般観念の問題について言へば、ベルクソンの議論の特徴は、「一般化する爲には、先づ、個々の物から共通な性質を抽象しなければならず、さういふ抽象が可能な爲には、一般化する方法を知つてゐなければならぬ」といつた言葉の上の議論に終始するのではなく、「私達の周圍の事物が、私達の生活の要求に應ずるその側面だけを、先づ見せてゐる」といふ生物の置かれた状況や、「實に多樣な知覺装置が、樣々な中樞の仲介で、すべて同一の運動装置に結ばれてゐる」といふ神経系統の構造などの、具体的な事実から一般観念の由来を説明しようとする点にあると言へるでせう。
第三段落には、次のやうが主張が紹介されてゐます。
類似が現れるのには、決して心理學的な性質の努力を待つまでもないことだ、物理學的法則に從ひ、客觀的に作用する類似といふ力を認めれば充分だ
最近の心理学で、盲視(blind sight)といふ現象が注目されてゐます。本人は見えないと言ふのですが、その見えない対象を単なる偶然以上の確率で識別できるといふ不思議な現象なのですが、ベルクソンの議論は、かうした事実を考へる際にも、いろいろと示唆を与へて呉れるやうに思はれます。盲視については、このサイトをご参照ください。
この章の後半では、「諸関連の連合」以下の六つの節での議論が要約されてゐます。ご関心のある方は、ベルクソンの文章とあはせてお読み頂ければと思ひます。
第二十七章
第二十七章では、「餘談にわたるが、數言を費したい。」として、フロイトが登場します。第二十六章まで続いてきた、ベルクソンの文章を丹念に辿る一連の章は、読んでゐても、少し疲れるところがあるのですが、この章では、著者も一息いれて、自身の考へを自由に語つてをり、文章が楽に流れてゐるやうに思はれます。
『本居宣長』では、宣長だけでなく、何人も人物が登場して、「思想劇」が展開されます。小林秀雄らしさが発揮されるのは、あちらの方だといふ気がするのですが、如何でせうか。
「問題は、哲學といふものの考へ方にあつた。」で始まる第四段落では、ベルクソンの「フランスの哲学」に拠つて仏独の哲学の特徴を比較してゐます。フランス哲学は、哲学用の専門語を発明する事を避けて、新しい観念の表現にも生活人の日常語の新しい使用法を心掛けて来たことと、優れた哲学者が優れた科学者であつたのは、極く当り前な事であつた、といふ二つの特性を持つといふのです。
前者の特性は、自ら哲学を生みだしてゐる国だからこそ持つてゐるもので、日本の様に輸入思想で間に合はせてゐる国では、日常語とは懸け離れた翻訳語を使はざるを得ないのかも知れません。
第五段落では、『思想と動くもの』の序論を引きながら、ベルクソンの方法について述べてゐます。
彼の目指したものは、綜合的な學ではなく、人間的な全體的な經驗であつた。知的なシステムではなく、知的な努力であつた。彼の仕事の方法が定義し難いのは、方法を頼むより先づこれを捨ててみたところから來てゐるとさへ言へよう。實在に近附かうとして、一切の人爲的な機械的な近附き方を拒絶したところで、彼は實在の前に、殆ど手ぶらで立つ。其處で、直觀も悟性も、無垢な力を取返すのであり、其處に、いつも立還つてゐなければ、どんな學も、自ら編んだシステムのうちに死ぬのである。
小林秀雄は、1961年に現代の思想について講演し、その録音が、テープやCDで発売されてゐますが、その中で、近代の思想で一番大切な事件は、『物質と記憶』と『夢判断』といふ二冊の本だと言つてゐます。どちらの本も、精神が単なる脳の並行現象ではないといふことを示した、と考へたからでせう。
第二十八章
第二十八章では、フロイトからベルクソンに話が戻つて、『精神のエネルギー』に収められてゐる二つの論文、「夢」と「現在の思ひ出と誤つた再認」とが論じられます。これを取り上げる理由は、第七段落にかう書かれてゐます。
扨さて、廻り路をしたが、こゝで、ベルグソンの「夢」に觸れたいと思ふのは、これまで述べて來た、記憶と知覺、精神と身軆との關係に關する、彼の考への根本が、彼が夢について語るところによつて要約されてゐるからだ。
第一段落に、小林秀雄は、ベルクソンが「自分の夢の觀察は、まことに不完全なものだ、と斷つてゐる。」と書いてゐます。これは、「夢」の末尾にある次の部分を踏まへたものでせう。
夢について私がお話ししたかった考察は以上の通りです。それはまったく不完全なものです。この考察は、今日われわれが知っている夢、われわれが想起することができ、どちらかといえば浅い眠りのときに見る夢についてしか妥当しません。深く眠っているときにはおそらく別の性質の夢を見るでしょうが、眼が覚めたときたいしたものは残っていません。私は、そのときの視覚像は過去にもっと拡がり、もっと細かい過去を示すものだと考えたいのです。しかし特に理論的な、したがって仮説的な理由によってそう考えたいのです。このような深い眠りについて、心理学はその努力を傾けなくてはなりません。それは単に無意識的な記憶の構造と機能を、深い眠りに関して研究するだけではなく、《心霊研究》にかかわるもっと神秘的な現象を深く調べるためでもあります。私はこの領域にあえて入って行こうとは思いません。しかし、心霊研究協会が疲れを知らぬ熱意をもって集めた研究に、私は何らかの重要性を認めないわけにはいきません。
(『精神のエネルギー』レグルス文庫版129頁)
第三段落では、「現在の思ひ出と誤つた再認」に従つて、失語症や麻痺のやうに一見して能力が欠けてゐることが分かる病に限らず、妄想、固定観念のやうな病の場合でも、積極的なものはない、といふ考へが説明されます。
第四、第五段落では、狂気と似てゐる夢の場合でも、積極性や創造性を認めるのは誤りで、むしろ、「夢の世界とは、尋常な内的世界の立つてゐる「基體」なの」だといふことが指摘されます。ここで「基體」といふ言葉は substratum の訳ですが、現象の基礎にあるものを指します。
夢は、「純粋記憶」の現れで、ある意味では、より本質的な在り方だと言へるかもしれませんが、目覚めた心よりも<有難い>ものだとは考へられてゐません。第五段落では、かう書かれてゐます。
眼覺めた状態とは、遂行すべき行爲を缺き、爲に擴散した精神全體の、壓縮と、制約との結果に他ならない。夢見る自我は、覺めた自我より擴大してはゐようが、緊張してはゐない。後者が前者より複雜で微妙な性質を持つと考へるのが自然なら、説明を要求されてゐるものは、夢よりも寧ろ覺醒であらう。
この辺りのベルクソンの書きぶりはなかなか微妙で、単純な構図には描きにくいものですが、それが彼の見た実際の我々の在り方なのでせう。小林秀雄は、最後から二番目の段落で、かう書いてゐます。
ベルグソンの説明に、曖昧を感ずる人もあらう。だが、「物質と記憶」で、記憶と知覺とは輪道を描くといふ考へが述べられてゐた事を思ひ出して欲しい。認識は、記憶と知覺との二要素から構成された或るものではない。記憶と知覺とが、同じ輪道を追ひつ追はれつしてゐる運動である。分析出來ぬ運動を、せめても描寫したいといふ努力が、このやうな語り方となる。
第六段落では、フロイトとの比較で、ベルクソンの考へ方の特徴が示されてゐます。
(フロイトの考へでは)無意識は、語るべき「思想」を持ち、充足すべき「願望」を持つ。併し、ベルグソンからすれば、それは言葉の濫用と言ひたかつたかも知れない。彼の信じたところによれば、欲するとは、目を覺ましてゐるのと同じ意味であり、思想とは知的努力以外のものを指さなかつた。
第七段落にはプロティノスが登場します。「夢」からの引用を元に組み立てられた文章ですが、ベルクソン自身が、プロティノスからの引用であるかのやうな書き方をしてゐます(レグルス文庫版「夢」では115頁)。ただ、私の調べたところでは、この部分にぴつたりと合ふ文章をプロティノスの『エンネアデス』の中に見つけることはできませんでした。詳しい引用元について、ご存知の方があれば、ご教授頂けると幸ひです。(*1)
第二十九章
第二十九章では、前章に引き続き、「夢」と「現在の思ひ出と誤つた再認」からの引用や要約を中心に話が進められます。最初の四段落で「夢」が、その後で「現在の思ひ出と誤つた再認」が取り上げられます。
小林秀雄は、第四段落で「夢」についてのベルクソンの説を次のやうに纏めてゐます。
私達は、皆、いつでも現在の知覺といふ覺醒の尖端を持つた夢といふ過去の圓錐體のうちに、ゐるのだ。精神が生きるとは、夢から覺めようとする不斷の努力であり、深い夢も淺い夢も、この爲に、私達が通過しなければならなかつた意識の、緊張度を異にする面である。私達は、或る夢から覺める事は出來るが、夢といふ圓錐體から覺める事は出來ない。夢から覺めるとは、夢を棄てる事ではない。擴大した夢を収縮させ、ゆるんだ夢を、引きしめる事が出來るだけだ。
第五段落からは「誤つた再認」に話が移ります。第二十一章のところで書いたやうに、ここで「誤つた再認」といふ言葉が指してゐるのは、最近の言葉で「デジャヴュ」と呼ばれてゐる現象です。第五段落では、ベルクソンの文章の冒頭部分を踏まへて、この現象を、以下のやうに説明してゐます。
例へば、或る人と話をしてゐると、突然、かつて、同じ人と同じ場所で、寸分違はぬ話をしたことがあるといふ確信が起り、又、突然我に還る。誰も知るやうに、この經驗は、一種不氣味なものであり、かつて見たことがある光景だといふ正常な再認とはまるで性質を異にする。全く同じ光景に、全く同じ條件で再び處した、過去をもう一度生きてゐるといふ經驗だ。現象は、一面は記憶であり、他面では知覺であるやうに、二重映しに經驗されるのだが、現在の印象とこれに似た過去の印象との單なる混同、ではない。混同するのにも、これに氣がつくのにも、多少の時間を要する、知的錯誤ではない。普通、ほんの僅かしかつゞかぬが、この過去と現在とが二重になるといふ、突如として起る經驗は、知性のみならず、感受性も意志も、ともに動かされる獨特の性質を持つた心理的經驗で、後に、夢のやうな印象を殘す。これが強く長くつゞく場合には、現實は、夢の色を帶び、多かれ少かれ自分自身から脱却し、自分が自動人形と化したやうな感を覺え、今語つてゐる事も、不可避であつたし、これから爲る事もどうしやうもなく決つてゐるといふ感情に浸る。
この現象を説明するのに、ベルクソンは、先づ、記憶は知覚と同時に形成されるのだ、といふ主張を展開します。一見、突飛な感じがする説ですが、第七段落以降に展開される理由づけは、非常に説得的で、これ以外の主張はあり得ないといふ気にさせられます。
第三十章
第三十章では、前章に引き続き、「現在の思ひ出と誤つた再認」が取り上げられます。小林秀雄は、この章の冒頭に、かう書いてゐます。
ベルグソンの分析を辿り始めたら、行くところまで辿つてみなければならない。要約不可能な彼の思想が、分析の仕方そのもののうちに現れて來るからである。
この言葉どほり、この章は、ベルクソンの文章を辿ることに終始してゐます。仏文の著作集 ?uvres では915頁の末から921頁の頭まで、宇波彰氏訳のレグルス文庫版では、154頁から162頁にあたる部分が、ほぼ原文の流れにそつて翻訳されてゐると言つても過言ではないでせう。
それほど、ベルクソンの文章を、そのまま読者に読んで欲しいといふ気持ちが強かつたのだとすれば、そんな文章を前に、あれこれと言ふのは野暮なので、細かな点ですが、翻訳として気になる部分を中心に、いくつか気づいた点を述べます。
第二段落の冒頭に、「知覺し、働きかける現在の實在に、私達の生は、たゞそのほんの一部を食ひ込ませてゐるのだが、」といふ一節があります。これは、『物質と記憶』に登場する円錐の図を思ひ描きながら読むと、分かりやすいでせう。この部分だけを見ると「知覺し、働きかける」のが「現在の實在」であるかのやうにも読めますが、原文では「私達の生のほんの一部」が主語になつてゐます。
同じ段落に、次の一文があります。
これらは、私達と他者達との間の、變化する關係を、刻々に記録するものだし、私達の行爲を決定し、方向づけるものだ。
これに対応する部分の原文は、かうなつてゐます。 ( ?uvres, p.916, l.5- )
elles notent a chaque instant la relation changeante de notre corps aux autres corps;
"notre corps"が「私達」、"autres corps"が「他者達」と 訳されてゐるのですが、"corps"といふ語は、日本語の「からだ」と同じやうに、心との対比で、物質的な身体を指すのが原義で、そこから物体といふ意味も持ちます。英語の"body"と同様です。ここでも、人間の間の関係ではなく、私の身体と外界の物体(他者の身体を含む)との関係を指すと読む方が良いのではないでせうか。
第三段落は、次の文で終はつてゐます。
だが、知覺と記憶とが全然異なるものだといふ事を、こゝで容認するより寧ろもつと先に進まう。
対応する原文は、次のとほりです。 ( ?uvres, p.917, l.6- )
Mais nous passons outre, plutot que de consentir a une distinction radicale entre la perception et le souvenir.
"passons outre"を「先に進む」と読んだのですが、ここは「無視する」といふ意味に取るのが良く、その場合には、例へば次のやうに訳せるでせう。
だが、私達は、知覚と記憶との根本的な違ひに同意するのではなく、これ(=前に挙げられてゐる視覚の記憶を失つても、見えなくはならない等の事実)を無視する。
《脚注》
言及されてゐるプロティノスの文章
"?uvres" の Notes Historiques によれば、Enneades, VI, 7, § 5-7 を指すらしいのですが、ウェブで読むことができる英訳で該当箇所をみても、ベルクソンの書いてゐるやうな詩的な記述は見当たりません。仏訳の方が、より近い感じになつてゐるので、元々いろいろな読み方ができるテキストを、ベルクソンは深く読んでゐるといふことなのでせうか。
第三十一章
第三十一章では、前章に続いて、「現在の思ひ出と誤つた再認」の文章が辿られます。仏文の著作集 ?uvres では921頁から、宇波彰氏訳のレグルス文庫版では163頁から、この論文の末尾までの部分です。
小林秀雄が、そのまま辿りたくなる気持ちになるのも分かるやうな気がするほど、ベルクソンの文章は説得的だと思はれます。「現在の思ひ出」などといふ、一見極めて逆説的な表現を用ゐながらも、それが、「僞物の再認」を的確に説明するものであることを、納得させるのです。
第二段落では、通常の再認作用が、「現在の知覺に伴ふなじみの感情」と「現在の知覺が繰返すやうに思はれる過去の知覺の喚起」といふ二つの形で行はれることが指摘され、「僞物の再認」が、そのいづれとも異なるものであることが述べられてゐます。最近の心理学の言葉で言へば、前者は手続的記憶、後者はエピソード記憶に当たるでせう。
この段落に、「やはり私は、私の机や、私の本を、言はば、この思ひ出の席をはづしてもらふ風に再認する。」といふ一節があります。「この思ひ出の席をはづしてもらふ風に」といふ部分は、原文に対応する部分が見つかりません。レグルス文庫版の訳も、必ずしも原文には忠実ではないやうです。ご参考までに、以下に原文と拙訳をお示しします。
S'ils evoquent le souvenir precis d'un incident auquel ils ont ete meles, je les reconnais encore comme y ayant pris part, mais cette reconnaissance se surajoute a la premiere et s'en distingue profondement, comme le personnel se distingue de l'impersonnel.
(?uvres p. 922)
これら(私の仕事部屋、机、本を指す)により、これらが関係したある出来事の明確な思ひ出が呼び起こされることもあるが、私はこれらを、その出来事に係つたものとして再認することもある。しかし、この再認は最初の思ひ出に重なつて出てくるもので、個人的なものと個人には係はらないものとが異なるやうに、これとは根本的に異なる。
「人々は、私達の現在とは、何はともあれ、私達の未來の豫見であるといふことに、十分注意を拂つてゐない。」で始まる第七段落に、次の文があります。
この飛躍が、すべての心理状態に、その個別的な姿を一またぎに通過する事を許してゐる。まことに、これはいつも變らぬ事實であつて、私達は、この個別的な姿が留守だといふ事に實によく氣附いてゐる。不斷なじみなものの出席より、姿が見えもしないものの缺席の方をよく承知してゐる程だ。
この部分に相当する原文は、かうです。
Cet elan donne a tous les etats psychologiques qu'il fait traverser ou enjamber un aspect particulier, mais si constant que nous nous apercevons de son absence, quand il manque, bien plus que de sa presence, a laquelle nous sommes accoutumes.
(?uvres p. 927)
レグルス文庫版では、次のやうに訳されてゐますが、この方が、原文の意味に近いのではないでせうか。「特別な側面」といふのは、「独特な姿」とでも訳した方がよいといふ気はしますが。
この飛躍は、それが横断したり越えていくすべての心理状態にひとつの特別な側面を与える。しかしこの特別な側面はあまりにも恒常的なので、われわれが慣れてしまっているその存在よりも、それが欠けている不在をわれわれは認めることになる。
(『精神のエネルギー』レグルス文庫版171頁)
次に出てくる、「日頃なじんでゐる言葉が、これに注意を固定すると、忽ち異様な性質を帶びて來る」といふ例は、「飛躍」(elan)の力で意味を考へながら読んでゐるときの言葉が、われわれが慣れてゐる恒常的な姿であり、注意を固定すると、それが欠けてしまひ、異様な性質といふ形でわれわれがそれに気づく、といふ具合に対応するのではないかと思はれます。
「「僞物の再認」に見舞はれた殆どすべての患者は、」で始まる第八段落に、Jacques Chevalier の"Entretiens avec Bergson"の一節が引用されてゐます。「自分は常に不屈不撓ふたうの經驗派アンピリストであつた」といふベルクソンの言葉です。これは1938年3月2日の対話で、ベルクソンが、シュヴァリエの質問に応へて、自分が如何にして神を見出したか、あるいは、如何にして神に見出されたかを語つた部分に出てきます。
このシュヴァリエの本は、ベルクソンを語るのに欠かせない本といふべきでせうが、1959年に出てゐます。『感想』第三十一章が「文藝春秋」に掲載されたのは、やりみずさん作成の年譜によれば、1961年の2月です。小林秀雄がこの本を読んだのは、この章が書かれる少し前だつたのではないでせうか。
引用された文が含まれる段落は、次のやうになつてゐます。ご参考までに、拙訳とともに載せておきます。
Pour moi, j'ai toujours ete un empiriste irreductible. Seulement, je prends l'experience tout entiere : l'experience exterieure d'abord -- l'experience interne ensuite, telle qu'elle se produit chez tout le monde -- et enfin telle qu'elle se rencontre chez quelques ames qui apparaissent comme des ames privilegiees, des ici-bas admises a l'au-dela.
(Jacques Chevalier "Entretiens avec Bergson" p. 279)
私はと言へば、常に不屈の経験主義者でした。ただ、私は、経験の全体を捉へるのです。先づ、外的な経験。次に、全ての人に生ずるやうな内的な経験。そして、最後に、特権的な魂として現れ、既に地上において天上に入ることを許された何人かの魂において見られる内的経験です。
第三十二章
第二十八章から続いた「現在の思ひ出と誤つた再認」の話が前章で終はり、第三十二章では、ベルクソンの文章に密着する述べ方から少し離れて、複数の著作に言及しながら、ベルクソンの方法といふものの性格を論じてゐます。
最初の二つの段落では、『意識の直接與件論』の英訳に付されたプロティノスの著作集『エンネアデス』第三巻八章四節の言葉を取り上げ、次のやうに書いてゐます。
こゝで言ひたいのは、次のやうな事だ。「理解して默つてゐるべきであつた」とは、彼の全著作の巻頭に隱されてゐたと言つてもいゝ、と。
同じ段落に、次の一節があります。
プロチノスは、ベルグソンが、早くから敬愛してゐた哲學者であつた。コレージュ・ド・フランスに於ける「プロチノス講義」がなされたのは、「物質と記憶」が書かれた直後である(一八九七−九八)。彼が、彼の「デュレ」を確信して、最初の仕事を始めた時、「エンネアド」の「ロゴス」を想つてゐたと想像することも出來るであらう。
小林秀雄が、「エンネアド」の「ロゴス」について、どのやうに学んだのかは不明ですが、ベルクソン自身が、イギリスとスペインで行つた講演で、これについて語つてゐます。イギリスの方は、1914年4月から5月にエジンバラ大学で行つた 《The Problem of Personalities》 と題された連続講演 (Melanges, p.1051-)、スペインの方は、マドリッドでの1916年5月6日の講演です(同、p.1215-)。両者は、よく似た内容となつてゐますが、前者に従つてベルクソンがプロティノスのロゴスをどのやうなものと見てゐたかを、脚注にまとめましたので、ご参照ください。
第三段落は『思想と動くもの』の「序論II」からの引用で、これに続く段落の冒頭に、以下の文があります。
これで明らかなやうに、ベルグソンは、最も確實と信じられる自身の經驗を擴大しようと努めただけだ。悟性による論理を擴大するには努力は要らない。それは努力といふよりむしろ注意力の問題である。だが、経験を擴大するのには、その都度、精神の緊張と集中とを新たにしなければならない。
これを読むと、『樣々なる意匠』の次の一節が思ひ出されるのですが、皆さんは如何でせうか。
「自分の嗜好に從つて人を評するのは容易な事だ」と、人は言ふ。然し、尺度に從つて人を評する事も等しく苦もない業である。常に生き生きとした嗜好を有し、常に?剌たる尺度を持つといふ事だけが容易ではないのである。
(第五次全集第一巻134頁)
自分に直接与へられてゐるものから、すなはち自分の経験から出発するといふのは、ベルクソンと小林秀雄に共通の方法だつたと言へるでせう。
第六段落から第九段落では、『意識の直接與件論』に話が戻り、この著作に見られるベルクソンの方法の特徴について見解を述べてゐます。重要だと思はれる部分を、いくつか引いて置きます。
何故私達は自由であるか、と質問するのは空しい、と證明するのは、彼には容易な仕事ではなかつた。だが、さう證明し、默つてゐるのは、もつと難しい事であつた。彼が誰よりも深くさう信じてゐた事は、彼の以降の全勞作が證してゐるやうに思はれる。
この手續きなしに精神を緊張させて、物を見れば足りた思想家の眼には、自由が形而上學的問題であると同時に心理學的問題であるといふやうな事より、自由の經驗は一つであるといふ事の方が、遥かに重要と見えてゐた。
自由は事實だ、といふ證明から、讀者は何か新しいものが得られたか。自由に關するどんな知識が増したのか。自由といふ解り切つた事實に、今更のやうに驚くのは、讀者には難しい事であつた。何故なら、それは自由を經驗して沈默してゐる事に他ならなかつたからである。
この部分には、繰り返し「沈黙」といふ言葉が出て来ます。これは、単に「言葉による解決を放棄した」といふことではなく、『感想』の最初の章に登場する、ソクラテスのダイモンの沈黙や、ベルクソン自身の「最後の本を出してから十年近く」の沈黙とも繋がるものではないかといふ気がします。「沈黙」といふ言葉は、『感想』のキーワードの一つかも知れません。
最後の段落の冒頭に、
敢へて、言へば、彼の書いた方法論はすべて、彼の作を讀んだ大多數の讀者の當惑の産物である。
とあります。「敢へて、言へば」といふ制限付きではありますが、かうした断定ができるのかどうか、私には良く分からないのですが、
彼の第二作、「物質と記憶」も、亦何の前置きもなく書かれたが
とあるのは、文字どほりに理解すれば、誤りだといふべきでせう。『物質と記憶』には、最初から序文がありました。そこでベルクソンは、この著作の出発点が、第三章にあつたことなどを述べてゐます。白水社版の翻訳では訳注に、ちくま学芸文庫版の翻訳では、本文の後、第七版の序文の前に、この初版の序文がついてゐますので、ご参照ください。
第三十三章
第三十三章では、前章に引き続き、『意識の直接與件論』が取り上げられます。引用は、第二章の「真の持続」、「自我の二つの様相」の二節、第三章の「物理的決定論」、「心理的決定論」、「自由行為」の各節、及び、末尾の「結論」からですが、それらが元の順序とは無関係に、自在に引用されてゐます。この著作におけるベルクソンの主張を、一度本文を消化した上で、自らの言葉で再整理したものだと言へるでせう。
冒頭では、「近代人にとつての自由の問題は、古代人にとつてのエレア派の詭辯と同じものだつた」といふ結論を引き、かう述べてゐます。
結論は、プロローグに戻るだらう。何故、私達は運動するのか、何故、私達は自由なのか、と自然に訊ねてはいけなかつた。口を利く習慣を持たぬ自然に、無理に口を割らせようとしたが無駄であつた。自然は、かういふ不遠慮な不注意な問ひには、決して口を割りはしなかつた。
前の章でも引用されたプロティノスの言葉を、少し変へて、再び持ち出してゐるのですが、この言葉を英訳本に付したのが、「著者の同意によつたもの」であることは、英訳者の F. L. Pogson が訳者序文で述べてゐますので、確かでせうが、小林秀雄のやうに「二十年前の著作に、同じ題辭を冠せても差支へなかつたと考へた」とまで言へるのかどうか、私には分かりません。Pogson 自身は、この言葉が、ベルクソンの哲学体系を一言で表すとは言へないものの、その精神の一部を推察させるものだと考へてゐたやうですが。
ただ、ベルクソン自身が、言葉の扱ひについて、非常に注意深い態度を取つてゐた事は、様々な文章からはつきりと読み取ることができます。そして、誤解を避けるためには、沈黙も辞さなかつたことも。
さうしたベルクソンの考へ方を示した手紙を、先日、偶々読みましたので、ご紹介します。(1909年7月24日付、G. Prezzolini 宛)。この中でベルクソンは、純粋哲学の問題についての公開の論争には反対であるといふ立場を示し、熟考の後に出された本については、反対意見がある者が、自らの著作等で、その理由を示せば議論は終りで、後は人々が自分自身の意見を決めるだけだ、と述べてゐます。それ以上の議論は、真実を損なふ恐れがあるといふのです。考へをより正確に、明確にするのは、言葉の上の人工的な努力によるのではなく、経験と自然な成熟によるべきだ、といふのが、その理由です。
従つて、ベルクソンは、自分の批判者が、大きな誤りや誤解をしてゐて、それが広まる恐れがある場合以外は、反論をしなかつたし、さうした場合にさへ、何も応へなかつたことも一度ならずある、と書いてゐます。
ところで、このベルクソンの手紙は、実は、彼の手紙を公開したいと言つて来た Prezzolini に対する断わりの手紙なのです。彼の遺志に反して出された書簡集をもとに彼の考へを云々するのは、ベルクソンが最も嫌つた事には違ひないのですが、あくまで著作をよりよく理解するための手立てといふことで、ご勘弁いただきませう。
第三十四章
第三十四章では、前章に続いて『意識の直接与件論』が取り上げられ、『思想と動くもの』の「序論」、「哲学的直観」へと話が移つて行きます。『意識の直接与件論』からの引用は、最初の二つの段落に出てきますが、これらは引用といふよりも、ベルクソンの述べた所を小林秀雄が自らの言葉で語り直してゐるといふ方が近いでせう。例へば、第二段落に次のやうな一節があります。
私の心のドラマは、私が演じてゐるのであつて、私はこれを演じながらでなくては、これを理解しない。動きのあらゆる條件を考へるといふ事が、さういふ動きをするといふその事だ。
これは、『意識の直接与件論』の第三章に出てくる、哲学者ポールが重要な場面での決定を求められてゐるピエールの判断を予測できるか、といふ例を踏まへた文章でせう。(?uvres p.121-、岩波文庫版『時間と自由』では、221頁以降)
第二段落から第三段落にかけて、『思想と動くもの』の「序論」の表現が顔を出した後、同じ論文集の「哲学的直観」の中で、ベルクソンが直観の力を、ソクラテスに付きまとつたダイモンの声に比してゐる部分が紹介されます。そして、第四段落では、ベルクソンの文章について、次のやうに書かれてゐます。
彼のデモンによる限りのない訂正を前にしながら、彼のデモンに誘はれるのを感じないなら、彼を讀まぬに等しいのである。彼の文章は、彼の精神の怠惰による夥おびたゞしい概念の切線が棄てられてゐる事を語るとともに、彼の精神の緊張も自我の曲線を明示し得ないでゐる事を語つてゐる。思想は言葉で割切れぬといふ意識が、常に一貫して彼の文章のリズムをなす。
いかにも小林秀雄らしい文章ですが、概念の切線といふ比喩は、「哲学的直観」に出てくるものです。 (?uvres p.1348、岩波文庫版『思想と動くもの』170頁)
『感想』の第五章にも登場した「哲学的直観」を読み返してみると、改めて、ベルクソンと小林秀雄の共通点を感じます。この中で、ベルクソンは、真の哲学者が語らうとしてゐることは、ただ一つである、とか、直観を概念で表現しようとすると平板で、陳腐なものになつてしまふ、といつた主張を述べてゐるのですが、これは、小林秀雄が『政治と文學』の中で、ドストエフスキーに言及してゐる部分と酷似してゐます。
ドストエフスキイは、翌年死にました。彼は豫言などといふものを好まなかつた人間である。かやうに激しい調子の文章は、彼の全作品中、他にはないのであります。注意すべきは、彼は既に一聯の大作によつて言ひたい事は凡て言つてゐたといふ事だ。彼は恐らく豫言などはしてはならぬ、と考へてゐたのであり、この強い豫覺を、一つの沈默の力として、自分の創作動機のなかに秘めて來たのである。彼は自分の作品が多くの人々を動かした事を知つてゐたが、作品の根柢にある理想を、明らさまに語れば、お目出度いと笑はれるに違ひない事もよく知つてゐた。
(『政治と文學』 第五次全集第十巻82頁)
さらに言へば、上の引用の最初の部分は、『感想』第二章の次の文章と、非常によく似てゐます。
ベルグソンを愛讀した事のない人には、感じは傳へ難いのだが、假りに、よくない言葉で言つてみれば、かういふ一種豫言めいた、一種身振のある樣な物の言ひ方は、これまでベルグソンの書いたもののうちには、絶えてなかつたものなのである。
小林秀雄にとつては、ドストエフスキーもベルクソンも、小説と哲学といふ分野の違ひはあるものの、ある表現し難い直観を、言葉といふ材料を使つて何とか表はさうとする文学者であつたのでせう。
最後の段落では、「ベルグソンの表現に於ける"image"といふ重要な問題」が取り上げられ、「イマージュは、ダイモンから受けついだ禁止、否定の力を持つてゐるわけで、この力によつて姿を現すと言つてよい。」と述べられてゐます。第三十五章以降、『感想』は、再び『物質と記憶』を中心に、主として、心と身体の関係についての論が展開されることとなるのですが、この段落は、そこへのつなぎの役割を果たしてゐるやうに見えます。
第三十五章
第三十五章から、再び『物質と記憶』が主題となりますが、小林秀雄は、先づ、『精神のエネルギー』に収められてゐる「意識と生命」からの文章を引用しながら、『物質と記憶』といふ本の難しさの所以を説明してゐます。
ベルクソン自身は、この本を読む前に、第七版の前書きと、『精神のエネルギー』の中の「魂と身体」に眼を通すことを勧めてゐます("Entretiens avec Bergson", 22 mai 1921)が、その「魂と身体」は、『感想』第三十八章で登場します。
第二段落にある次の文章は、小林秀雄の『物質と記憶』の読書体験を語つてゐて、非常に興味深いものではないでせうか。かうした率直な発言は、少ないと思ひます。
經驗的事實は動いてゐる。その動きの樣々な方向が忠實に辿られるから、記述の複雜が現れるので、辯證による觀念構成上の複雜など何處にもない事が、彼は言ひたいのである。この著作の要約が不可能な所以も、其處にあるのだが、私のやうな尋常な愛讀者にしてみると記述の複雜に心屈し、要するに何が言ひたいのかと呟きたくなる。それと言ふのも、精密な分析を辿りながら、やがて著作の思索の建築は、その構造を明瞭に明かすであらう、と知らず知らずのうちに期待してゐるからであらうと思ふ。例へば、或る複雜な装置の或る部分の構造が徹底的に分析される、次にこれと全く無關係に見える或る部分の構造の分析が現れる、さういふ風に次から次へと部分、部分の構造が明かされて、終ひに、さてこれで全装置は圓滑に動く筈だ、と著者から言はれる。動く筈だが、さて動力は何處にあるのか。私はそんな風な讀み方をした。そんな風には決して書かれてはゐないと納得するまで、繰返し、した。
逆に言へば、小林秀雄自身は、「さてこれで全装置は圓滑に動く筈だ」といふやうな、精密な分析を辿れば、やがて著作の思索の建築が、その構造を明瞭に明かすやうな、そんな文章を書いてゐた、あるいは、書かうとしてゐた、といふことなのかも知れません。
「既に言つた事だが、」で始まる第三段落以降は、『意識の直接与件論』と『物質と記憶』との関係に話が移ります。
最後の段落では、シュヴァリエの『ベルクソンとの対話』から、『物質と記憶』を書き終へた後の自分の状態に関するベルクソンの次のやうな話を紹介してゐます。
激しい疲勞の結果、放心状態に陷り、不眠症に惱んだ。尋常な手段では駄目だと悟つて、休暇をとり、數週間、一人で、アンチーブの岬を旅し、注意力の再ヘ育を自己に強ひ、諸對象を固定させて、これを記述しようと努めたものだ、と言ふ
郡司勝義さんは、「一九六○年の小林秀雄」(『文學界』2002年九月号)で、第三十五章執筆当時の小林秀雄について、かう書いてをられます。
このあたりの小林の氣力の充實は、素晴しい。前年の病みほうけて體力が最低に瀕しながら氣力だけで持たせてきた所からは恢復し、やつと心身ともに自分のものとなつたと確信した爲であらう。
また、同じ文章の中で、郡司さんは、上に引用した部分に触れながら、『感想』を中断した時の小林秀雄について、次のやうに述べてをられます。
小林は、昭和三十八年六月に、ベルグソン論を打ち切ることにしてソヴィエトへ旅立つた。連載打切りを知らされたのは、小林の出發後旬日ほどして小林邸を訪れたとき、留守番役の夫人からで、大へん驚いた。それを中村光夫に傳へると、にこにこ笑ひながら「あれだけやつたことだ、小林さんのことだ、いづれ續きはやりますよ、それを樂しみにしてゐようぢやありませんか」と言ふ、そのことをありありと思ひ出す。
この旅行は、あたかもベルグソン論の第三十五章(昭和三十六年七月號)で、小林の言つた如くであつた、とその時私は思つた。
小林秀雄が、『ベルクソンとの対話』を読みながら、この部分に眼を止め、引用したのも、知的努力のための体調管理に関する自らの経験から、何か感ずるところがあつたからなのでせう。
《脚注》
ベルクソンの人格に関する講演の概要
ベルクソンによれば、人格の問題とは、身体を意識したり、過去を思ひ出したり、未来を想つたりと、様々な姿を示す我々の人格が、どのやうにして一つの纏まりを持つのか、といふ問ひです。
哲学の基本的な目的は、複雑な世界を一つの視点から見て取ることであり、ギリシャの哲学者たちは、個々の事象を「概念」により纏め、これをさらに一つの理念に集約しようとしました。他方、近代の科学や哲学は、様々な出来事の相互関係を統一的な法則にまとめ、さらには一つの原理に還元しようとしてゐます。
かうした方法により、「知性」は満足を得るのですが、自らの独立を主張する「意志」は、これに反発します。ベルクソンは、この相異なる二つの要求を満たすのが、これからの哲学の進むべき道だと考へるのです。
プロティノスの直面した問題も、我々の人格は、いかにして、一方では一つであり、他方では複数であるのか、といふものでした。彼の出した答は、「低次の性質」では複数であり、「高次の性質」では一つなのだ、といふものです。もともと人格は一つで不可分のものなのですが、ある種の堕落、あるいは、逸脱により、複数になるのです。我々は、皆、かうした二つの状態を経験します。後者の状態では、分化や物質化の方向へと進み、前者では、精神的なものへ、統一へと向かふのです。つまり、人格の統一性は、他の人格の統一性と一致する傾向を持ち、人は神そのものと一つになるといふ傾向を持つのです。
プロティノスの哲学は、一方で内的な時間を細かく分断されたものと捉へ、他方で人格の統一を信じるといふ立場の形而上学が、必然的に至るものなのですが、そこでは我々は、「権利としての de jure」在り方と、「事実としてのde facto」在り方といふ、二つの形を持つことになります。「権利としての」我々は時間の外にあり、永遠な存在で、「事実としての」我々は時間の内にあつて、知覚し、行動するのです。また、「事実としての」在り方は、「権利としての」在り方の衰へた形、劣化した形として捉へられます。
かうした形而上学の中心にあるのが、「ロゴス」といふ概念です。この言葉は、語ることと推論の双方を意味し、現代の言葉に翻訳できないものなのですが、役者の役を指すこともあります。語ることは、一つの考への複数の(そして不十分な)等価物です。推論は、直観の複数の等価物です。語ることも推論も、言はば、巻物を繰り広げるのです。役者が自分の役を演じてゐるのも、同じことです。かうして、人間の心は「ロゴス」なのです。それが、永遠のイデアを繰り広げるものだからです。
以上、11回の講演の最初の3回の内容を、掻い摘んでご紹介しました。この講演は、英文でベルクソンの思想を簡単に知るためには、非常に有用なものだと思はれます。最初の3回分の原文を載せておきましたので、ご参照ください。
第三十六章
第三十六章では、『物質と記憶』の鍵となる概念「イマージュ」が取り上げられてゐます。本文からの直接の引用は殆ど見当たらず、「第七版序」の文章が中心となつてゐますが、それも短いもので、引用に頼るのではなく、自らの言葉で語らうといふ姿勢が見えます。
第二段落に、かうあります。
「第七版序」を見ても、この本に關する讀者の根本的な誤解が、第一章から生じてはゐないか、と著者は考へてゐるやうに思はれる。
その、第一章でベルクソンはイマージュを論じてゐるのです。
小林秀雄も引用してゐるシュヴァリエとの談話には、ベルクソンが、『物質と記憶』の一つの章を、早く出し過ぎたために、他の部分と切り離されて読まれ、誤解されたので後悔してゐる、と述べてゐる部分がありますが("Entretiens avec Bergson", 24 mars 1930)、これは、この第一章を指した言葉でせう。
同じ段落に、「彼は、第一章で、自分の仕事の出發點を粗描したのだが、」といふ一節があります。これは、論理的な順序を述べたものとしては正しい指摘ですが、『物質と記憶』の当初の序を読むと、ベルクソンの考へが展開された順序は別だつたことが分かります。以下に引くのは、この序の最初の部分です。
私たちの仕事の出発点は、本書の第三章に出てくる分析であった。私たちはこの章で、記憶という適切な例にもとづいて、精神の同一の現象が、夢想と行動とのすべての中間段階をあらわす種々異なった意識の平面に、同時にかかわりをもつことを明らかにする。身体が関与するのは、これらの平面のうちの最終のものにおいてであり、また最終のものにおいてだけである。
しかし精神生活における身体の役割をこのようにとらえると、あるいは科学的、あるいは形而上学的なすこぶる多くの困難が生ずるように思われた。こんどは、これらの困難を分析することから、本書の残りの部分が生まれたのである。
じっさい、私たちは、一方では、記憶力を脳の機能としか見ない学説を検討して、そのため、大脳官能の局在性にかんするきわめて特殊な若干の事実を、できるだけくわしく解釈しなければならなかった。こうしたことが、部分的に、本書の第二章の目的をなしている。しかし他方、私たちは、心の活動とその物質的開花との間に、かくも截然とした区別を設けたので、あらゆる二元論が惹起する種々な異議申し立てに、かつてない激しさで直面しなければならなかった。そこで、どうしても私たちは、身体の観念の根本的検討を企て、物質にかんする実在論と観念論の理論を対面させて、両者の共通の要請をとり出し、結局は、すべての要請をとり除くことで、身体と精神の区別をいっそう明らかに認めつつ、しかも同時にその結合の機構にいっそう深く立ち入って見ることができないかどうかを、追究せねばならなかったのである。
(田島節夫訳、白水社版、287〜8頁)
三番目の段落の後半で、「そこで、どうしても私たちは、」以下に書かれてゐるのが、『物質と記憶』の第一章においてベルクソンが行つた作業です。
本文に戻つて、第三段落の後半に、私には理解が困難な部分があります。
單に、物がさう見えてゐるのと物をどう呼ぶかとは違ふ。物のイマージュは、物の表象ではない。物の表象を得ようとする動きは、直接に經驗されてゐる物を意識的知覺に化さうとする動きであり、爲に、普通、意識的知覺は、記憶の要素や感情の要素の混入によつて、複雜に構成されたものとして現れてゐる。表象は、この構成作用に由來するもので、これは、有效に行動するといふ實用的目的を持つ。この目的によつて、生きた豐かなイマージュは、その何物かを失ひ、固定され、組織されるわけで、それが表象能力としての知性の役割である。知性は、物のイマージュを、私達に與へる事は出來ない、物の表象を與へるだけだ。從つて、ベルグソンの言ふイマージュとは、かくかくと知覺される、或は知覺され得る限り、事物自體の直接經驗を暗示するものであり、事物のどんな説明でもない。
ここでは、イマージュと表象とは別ものであり、表象は知性の作用だといふことが述べられてゐます。「表象」は、"representation" の訳だと思はれますが、さうだとすると、ここに書かれてゐるやうな記述は、ベルクソンの文章には見当たりません。小林秀雄の言ふ「表象」は、知性による概念的な表現を意味してゐるやうにも読めるのですが、ベルクソンは、表象といふ言葉を、例へば次のやうに、これとは全く異なる意味で使つてゐます。
物質的世界とよばれるこのイマージュの体系を考えよう。私の身体はそれらのうちのひとつである。このイマージュをめぐって表象、すなわち他のイマージュへのその起こりうべき影響が配列される。
(田島節夫訳、白水社版、66頁)
反対に、もし表象そのもの、すなわち知覚されるイマージュの全体から出発するならば、事態はおのずから明らかになる。私の知覚は、純粋な状態で、私の記憶から切りはなされている場合には、私の身体から他の物体へと進むのではない。それはまず諸物体の総体の中にあり、ついで徐々に自己を限定して、私の身体を中心にえらびとるのだ。
(同、71頁)
同じ段落にある「私達は、物の中で物を知覺し、知覺された物は、私達の中に現前してゐる。」といふ文の「私達の中に」といふ句もさうですが、この章を読む限りで言へば、小林秀雄の用語法は、必ずしも厳密ではない、といふ気がします。
第三十七章
第三十七章で小林秀雄は、ベルクソンが1895年に行つた常識についての講演(*1)を引きながら、常識と哲学との関係について述べてゐます。
ここで「常識」と訳されてゐるのは、講演の題にもなつてゐる bon sens といふフランス語です。他方で、『物質と記憶』に出てくる「常識」は、sens commun です。フランス語の辞書では、両者の意味は、次のやうに説明されてゐます。
bon sens: 科学的な推論によつては解決できない問題を前にして、心を騒がせることなく、うまく判断する能力
sens commun: 全ての人に共通な判断や行動の仕方(で、bon sens と同じ意味)
前者については、「良識」と訳されることもありますが、小林秀雄は、1964年の『常識について』の中で、かう述べてゐます。
良識とか善識とかいふ言葉があります。フランス語のボン・サンスの譯語だが、これは、極く新しいもので、恐らく昭和に這入つてからの新語でせう。いづれにしても、日本語として、未だ熟してはゐないし、これから熟しさうもない。常識といふ言葉があれば、事は足りるからです。コンモン・センスに見合ふフランス語は、サンス・コマンだが、ボン・サンスの意味合ひは、これとはつきり區別する事はむつかしいやうです。
(第五次全集、第十三巻、81頁)
小林秀雄が、bon sens と sens commun を、どちらも「常識」と訳してゐるのは、かうした理由からでせう。
第三段落に「ベルクソンが、常識を私達には極く自然な一種の無知と呼ぶ理由も其處にある。」といふ文があります。文脈からして、これもベルクソンの常識についての講演にある言葉だと思はれるのですが、「私達には極く自然な一種の無知」にぴつたりと合ふ部分は見つけることができませんでした。無知 ignorance といふ言葉が出てくるのは、次の一節だけなので、この部分を念頭に置いてゐたのかも知れません。("Melanges" では、362頁。拙訳を付しました。)
Et pour tout dire, il parait avoir moins de rapport avec une science superficiellement encyclopedique qu'avec une ignorance consciente d'elle-meme, accompagnee du courage d'apprendre.
要するに、常識は、表面的には百科事典のやうな博識よりも、自らの無知を意識して学ぶ勇気を忘れない無知と、近い関係にあるやうです。
この「極く自然な一種の無知」といふ表現は、第六段落にも出て来ます。
してみると、ベルグソンが、常識を、極く自然な私達の一種の無知と言ふ時、彼は、私達が餘儀なくされてゐる一種の無私を、又思つてゐたと考へてもいゝやうである。
第七段落に、次の文があります。
のみならず、社會が私達に要請してゐるものの本質が何であらうと、自己は、常識と呼ばれる有效な行動の方向に向ふ努力を餘儀なくされてゐる。この姿全體に、直觀的な照明を與へることは極端に難しい。ベルグソンは、この難しさは、殆ど苦痛に似てゐる、と言つてゐるが、彼は、何も哲學的直觀といふものを特に假定したいのではないので、自己の享うけてゐるこの強い惰性に逆行する苦痛を、率直に言ふに過ぎない。
ここに出てくる「この難しさは、殆ど苦痛に似てゐる」といふ言葉も、小林秀雄が、どの文章を念頭に置いてゐるのか、分かり難いものです。ベルクソンが、これと同じ言葉を使つてゐるのは、調べた限りでは、『思想と動くもの』の「序論 II」なのですが、そこでは、従来の哲学が設定した枠組みから外に出て、常識によく似た立場から物を見直すことの難しさを語つてゐるので、上の引用部分とは、指すものが違つてゐます。
この章での常識と哲学との関係についての議論は、一読しただけでは良く分からない、複雑な説き方になつてゐます。小林秀雄の関心は、『物質と記憶』についての理解を深めることにあり、上記の講演だけではなく、『思想と動くもの』の「哲学的直観」なども含めて、ベルクソンの言ふ常識を幅広く捉へようとしてゐるやうにも見えます。議論が複雑になつてゐるのは、そのためかも知れません。
上記の講演だけに絞れば、ベルクソンの考へ方は、かなり明快なもので、常識と哲学とは、その働き方は良く似てをり、(ベルクソンは、かういふ言ひ方はしてゐませんが)言はば、共通の源を持つもので、両者の違ひは、常識が実用の世界で働くのに対し、哲学は思弁の世界で働くといふ点にある、と纏められるのではないでせうか。(Melanges では、369頁の末から370頁にかけてをご参照ください。)
第三十八章
第三十八章では、『生命のエネルギー』に収められてゐる「魂と身体」、「生者の幻と心霊研究」の二つの文章が取り上げられてゐます。それぞれ、1912年と1913年に行はれた講演を元にした文章です。最初の九つの段落は「魂と身体」から、最後の二段落は「生者の幻と心霊研究」から、引用しながら書かれてゐます。
第三十五章のところで述べたやうに、「魂と身体」は、ベルクソン自身が、『物質と記憶』を読む前に、同書の第七版の前書きとともに眼を通すことを勧めてゐる文章です。
小林秀雄の引用は、「魂と身体」の最初の三分の一からなされてゐますが、その後のところで、ベルクソンは、科学の主張する脳と精神の並行関係に替はる説として、脳の観察により知ることができるのは、精神の全てではなく、そのうちのしぐさや態度、身体の動きとして表現できる部分であり、完成途上の、あるいは生まれつつある運動に係る部分に過ぎない、といふ考へ方を提示してゐます。
ベルクソン自身が認めてゐるやうに、この意見は暫定的なもので、蓋然性の高さを主張するに過ぎませんが、当時の科学で知り得た事実から導き出されたものであり、事実に関する知識が増すにつれて、より精密になり得るものだ、といふ点が重要です。
書簡集に収められたシュヴァリエへの手紙を読むと、ベルクソンが、あくまで事実から出発するといふ点を、自らの哲学の基盤であると考へてゐたことが分かります。1926年3月2日付の手紙で、シュヴァリエの著作で修正すべき点を列挙しながら、次のやうに言つてゐるのです。
読者には、私(ベルクソン)が、霊に関するある種の真実を探してをり、かうした真実の存在をアプリオリに前提としてゐる、いづれにせよさうした真実を発見しようと躍起になつてゐる、そして、これらの様々な文章の断片に収められてゐる主張は、その探究の道程だ、といふ印象が生まれます。これは、自分が得た結論が持つてゐると、その当否はともかく、私が考へてゐる、特別な確実性を、損ふおそれがあります。これらの結論が説得力を持つとすれば、それは、まさに、この種の意図や躍起のないところで、それとは完全に無関係だと見られてゐた、あるいは、科学を全く別の方向に進めてゐた実証的な研究を契機として得られた結論であるからなのです。
(Correspondances, p.1184)
ただ、科学は客観的だと言はれてはゐるが、それが捉へる事実は、変化を続ける世界を、決められた運動を続ける構築物として見たものであり、一面的なものだと言へるでせう。科学で世の中の全てが分かるといふ考へ方には、かうした反省が欠けてゐるのではないか。最後の段落で、小林秀雄は次のやうに纏めてゐます。
精神界の出來事が、まさしく測定を拒んでゐるやうに、私達の平常心に經驗されてゐるのなら、私達の常識は、率直に測定を捨て、經驗的事實の具體性に着く。測定の方法に陷没してゐて、このやうな事實を再考してみる餘地はない。公平にあらゆる經驗的事實から出發してゐると信じながら、實は、好みの事實から出發してゐるに過ぎないのではあるまいか、さういふ根柢的な疑ひが起る餘地はない。
量子力学や最近の宇宙論では、自然科学もニュートン力学のやうな決定論を脱してゐるといふ見方もできるでせう。他方で、生物学や心理学においても、相変はらず要素還元的な議論が幅を利かせてゐるといふ事情も見受けられます。ベルクソンの考へと量子論や相対性理論などの現代物理学との関係については、第四十九章以降で論じられます。
第三十九章
第三十九章とこれに続く章で、小林秀雄は、『物質と記憶』第一章の内容を、引用ではなく、自らの言葉で整理してゐます。『感想』で、『物質と記憶』が扱はれてゐる章を見ると、第十七章から第二十六章までと、第三十九章から第四十九章まで、といふ大きな二つの塊があり、第五十四、五十五、五十六の三章が、締めくくる形になつてゐます。また、二つの塊は、いづれも『物質と記憶』の第一章から順に説き進めてゐて、最初の塊では第三章まで、次の塊では第四章まで進んでゐます。(『感想』のベルクソン引用 主として引用されてゐる作品の表を参照)
大まかに言ふと、最初の群では、『物質と記憶』の文章を、高橋里美訳による岩波文庫版も参照しながら、丁寧に辿つてゐるのに対し、第二の群では、小林秀雄自身の言葉で、ベルクソンの主張を纏めながら示してゐると言へるでせう。
小林秀雄が岩波文庫版の『物質と記憶』を、何度も読み返したことは、ボロボロになつた本の写真とともによく知られてゐますが、『感想』の文章の中でも、それが窺へる部分が、最初の群には幾つか見られます。例を挙げると、
"image"を例へば「形像」と譯してみても始まるまい。
(第十七章、141頁)
といふ文がありますが、高橋里美訳では、この「形像」といふ言葉が使はれてゐるのです。
また、第十九章(154頁)には、次の一節があります。
だから、彼は、自分は、自分は、知覺を問題にする際に、こと更に假説を立てず誰にも看過出來ぬ事實を式述しようと努めるだけだ、と繰返し強調するのである。
ここに見られる「式述」といふ言葉ですが、普通の辞書では見つけられません。調べた上で申し上げるのではありませんが、小林秀雄も、『感想』以外では使つてゐないのではないでせうか。私は、最初、誤植ではないかと思つたのですが、高橋里美訳では何度も登場します。formuler や enoncer などの訳語として使はれてをり、「言ひ表す」、「述べる」といふ意味のやうです。
岩波文庫版の高橋訳は、大正三年(1914年)の翻訳を、「文學士服部紀君の助力」により、修正して昭和十一年(1936年)に出し直したもので、文語的な表現の多い古い文体で書かれてゐます。例へば、上に引用した「式述」の登場する部分は、次のとほりです。
蓋しこのことは決して假説ではないのである。吾々はたゞ如何なる近くの理説も看過することができぬ事實を式述するに止る。
(岩波文庫版『物質と記憶』52頁)
他方で、ベルクソンに関する小林秀雄の意見は、第二群の章において、より多く見られます。第三十九章では、例へば、次のやうな部分が挙げられるでせう。
この根柢的な意識の吟味を避けて通るやうな認識論を、ベルグソンは少しも信用しなかつたし、認識論は、生命の理論と離す事が出來ぬといふ彼の確信も、この平凡な意識經驗の綿密な吟味の必然の歸結であつた。
(第二段落末)
全く臆説を交へないといふ點で、これらは科學の假説ではあつたが、又、ベルグソンには、それは、私とか物とかいふ言葉が發生する場所まで行つたといふ意味があり、彼は自然の沈默に行きつき、そこで、理解して沈默したと言つてもいゝ。
(第四段落)
第四十章
前の章に続いて、『物質と記憶』第一章の内容を、自分の言葉で説明してゐます。ところどころにベルクソンの原文と同じ言ひ回しも出てきますが、断片的で、特定の部分をそのまま引用してゐるといふ部分は、殆どありません。唯一、少し長い文章が、ほぼベルクソンの文章に沿ふ形で書かれてゐるのは、末尾に近い次の部分でせう。
實際、外的知覺を説明しようと思ふどんな心理學者でも、先づ、少くとも外界は存在し得ると考へなければ、どうにもなるものではあるまい。それは結局、一切の事物の潛在的知覺を假定してゐなければ仕事は始まらぬといふ事だ。これをはつきり頭に入れて置かないで、仕事にかゝるから、假定した一切の物のうちから、身體といふ物を選び、その中に、腦膸といふ物を選び、こゝに知覺中樞があり、こゝに外界からの刺戟が到達すると考へるや、忽ち最初の假定を忘れ、外界との共通點を紛失した純粹知識としての物の表象を考へ出す。
木田元さんの『現象学』に、次のやうな一節があります。引用されてゐるのは、メルロ=ポンティの言葉ですが、上に引いた部分と、全く同じ主張だと言へるでせう。
われわれが知覚によって生きているこの世界、これこそが科学による客体的世界の構成の出発点でもあればその不断の足場なのでもある。「われわれはもはや、知覚とは端緒における科学だとは言わないで、逆に、古典科学とはおのれの起源を忘れて自らを完結したものと思い込んでいる知覚のことだと言おう。」だからこそ、この起源に立ちもどって、客体的世界の権利と限界とを見きわめる必要があるのである。
(岩波新書、140〜1頁)
また、第二段落にある以下の部分も、同じ事を述べてゐると思はれます。
ベルグソンが、知覺を、大腦内の或る過程の産物とする、當時の支配的な思想に、眞つ向から反對したのも、それが、知覺に關する生きた經驗を寸斷して殺し、それにも氣附かぬところに基くと見たからだ。知覺經驗に即して見れば、大腦内の或る過程とは、知覺作用のほんのさゝやかな一部に過ぎない。知覺を説明しようとして、特にこれを取り上げる事は、これを知覺作用全體と等價なものとする事だ。大腦も、外界の他の樣々な物と同樣に一つの物であるとは、常識には解り切つた事だ。
ちなみに、メルロ=ポンティとベルクソンの関係について、木田さんは、かう書いてをられます。
『行動の構造』以前のかれ(*)の思想形成の過程は、フッサールやハイデガーの著作を読んだという以外、われわれにはほとんど知られていない。ただ、おそらくは現象学の研究に先立って、ベルクソンの影響を強く受けていたことは推測しうる。いったいに、ベルクソン哲学が現象学のフランスへの移植の土壌を準備した、ということは注意されてよさそうである。フランス人の手になるあるフランス哲学の解説書に、「ベルクソンはドイツ人がフッサールからハイデガーへ移ることを準備させ、フッサールはフランス人がベルクソンからサルトルへ移ることを可能にした」と書いてあったが、この時代にベルクソン哲学が果した役割は十分に評価されねばならない。メルロ=ポンティも、かれが繰りかえしてなしたベルクソン批判にもかかわらず、現象学者であると同じくらいベルクソニアンであったと見るべきであろう。
(同125〜6頁)
(*)メルロ=ポンティを指す
ベルクソンやメルロ=ポンティのやうな物の見方は、極めて説得的だと思はれるのですが、今日でも、科学の世界では、相変はらず、脳の働きだけで知覚を説明できる、といつた類の議論が行はれてゐます。バインディング問題のやうな「難問」が出てくるのも、科学が、自らが暗黙のうちに前提としてゐるものを、十分に反省してゐないためではないでせうか。
哲学の側でも、もつと分かりやすい言葉を使ひ、科学との対話を進める姿勢が必要でせう。ベルクソンは、まさに、それを目指した哲学者でした。
《脚注》
白水社版『ベルグソン全集』第8巻「小論集1」収録の「良識と古典学習」
第四十一章
第四十一章でも、前の章に続いて、『物質と記憶』の第一章が取り上げられてゐます。前の章よりも引用が増えてゐるやうですが、小林秀雄が自分の言葉で語る部分が多いのは、同じです。例へば、次のやうな部分は、ベルクソンの語り口とは異なる、小林流の表現だと言へるでせう。
相互作用の沈默の流れのうちに、私達は投げ出され、生きる爲に、この流れに抗し、これを利用したいと願つた。生物のこの大きな願ひにより、私達は、流れを掴まへる役目をする榮養器官を持ち、流れを利用する役を負ふ運動器官を、遠い昔から進化させて來た。
(第二段落)
知覺自體が何者かを問ひはしない。それは生命自體のやうに沈默してゐるだらう。自然は、そんな質問に口を割りはしない。私達の内に知覺があるのではない。與へられた巨大な知覺のうちに私達がゐるのだ。
(同上)
このやうな部分は、小林秀雄が『物質と記憶』をどのやうに読んだかを知るためには、とても有用なのですが、ベルクソンの思想を知るといふ観点からは、少し注意が必要になる場合もあります。例へば、第二段落の末にある、次の一文です。
彼は、經驗的事實に即して確言出來る事だけを言ふのである、私達の知覺の方が、むしろ生き物の行動の力の、運動の非決定或は受け入れた運動を追ふ行爲の、明らかな説明であり尺度である、と。
後半に引用されたあたりは、原文では、次のやうに書かれてゐます。
mais la perception nait de la meme cause qui a suscite la chaine d'elements nerveux avec les organes qui la soutiennent et avec la vie en general: elle exprime et mesure la puissance d'agir de l'etre vivant, l'indetermination du mouvement ou de l'action qui suivra l'ebranlement recueilli.
(?uvres, p.212)
そうではなく知覚が生まれるのは、神経要素の連鎖とともにそれを維持する器官、あわせて生命一般を生ぜしめるのと同じ原因からである。知覚は生活体の行動力、すなわち受けた興奮に後続する運動ないし行動の不確定を表現するものであり、これを示す尺度なのである。
(田島節夫訳、白水社版74頁)
小林秀雄が、「明らかな説明であり尺度である」と書いた部分は、「表現するものであり、これを示す尺度なのである」となつてゐて、「説明」といふ言葉は使はれてゐませんし、「明らかな」といふ形容詞も見当たりません。また、小林秀雄は「私達の知覺」といふ言葉を使つてゐますが、ベルクソンは「知覚」といふ、より一般的な言ひ方をしてゐます。
細かな違ひではありますが、翻訳について注文の厳しかつたベルクソンが、この部分を翻訳として読めば、修正を求めたのではないかと想像されます。日本語を読めたとして、の話ですが。
最後の段落の冒頭にある次の一文は、非常に重要な指摘だと思ひます。
從つて、ベルグソンの考へでは、知覺と感覺とには本質的な區別があるのであり、知覺が諸感覺から構成されてゐるといふやうな考へを許さない。
しかしながら、現代の科学的な認識論でも、知覚が諸感覚から構成される、といふのが、依然として暗黙の前提になつてゐるのではないでせうか。原因としての感覚があり、結果として知覚が生じるといふ考へ方です。例へば、網膜から出て視神経を伝はる信号が、脳のどの部分に届くか、といふ分析に、それが見られます。
この考へ方が様々な困難を生むことは、ベルクソンが指摘してゐるとほりですし、彼が指摘した問題点は、依然として未解決のまま残されてゐるのですから、前提から考へ直すことが必要ではないかと思はれます。
第四十二章
第四十二章は、『物質と記憶』第一章についての最後の章です。引用文の多くは、「記憶の問題への移行」及び「物質と記憶」と題された、第一章の最後の二節から取られてゐます。
これらの節でベルクソンは、第一章で示した純粋知覚といふ考へ方を整理し、この考へ方から、脳は行動の道具であり表象の道具ではないといふ、心理学的な結論と、純粋知覚により対象の実在に直接ふれることができるといふ、形而上学的な結論の、二つが導かれ、記憶の問題を調べることで、これらの結論が正しい事が検証されると、述べてゐます。
この部分は、第十九章と第二十章で、一度、取り上げられてゐますが、小林秀雄自身が、「重要だから繰返す」と書いてゐる、最初の段落を除いて、以前は言及してゐなかつた部分を取り上げたり、自らの言葉で、ベルクソンの考へ方を整理したりしてゐます。
例へば、第二段落は、初めて言及される部分です。
常識は、物質界が、その現れてゐるがまゝに在る事を容認してゐる。その事は、常識が、物質界を、知的に構成してみようとはせず、たゞこれをそのまゝ體驗してゐれば、それで不足はないといふ、その基本的な態度を語つてゐるのである。又、それ故に、常識は、物質とは全く異なる精神の存在を信じてゐる。
この後半の部分とほぼ同じ文章が出てくる『物質と記憶』 の文章は、かうなつてゐます。
本当は、唯物論を論破する手段が存在するし、それもただ一つだけ存在するだろう。それはつまり、物資が、まったくあらわれるとおりに存在するということを明らかにすることだ。このことによって物質は、あらゆる潜在性、かくれた力をとりのぞかれ、精神の現象は独立の実在性をもつこととなろう。しかしそのためには、唯物論者と唯心論者が一致して物質から取り去ることによって、後者は精神の表象にしてしまい、前者は延長物の偶然的な装いとしか見ようとしない諸性質を、物質にそのまま残しておかなければなるまい。
これはまさに物質にたいする常識の態度であり、またそれゆえに常識は精神を信ずるのである。
(田島節夫訳『物質と記憶』84頁)
第二段落の最後に「感覺と呼ばれる現實行爲」といふ言葉が出て来ますが、「感覺」の原語は、第十九章で、「感じとか情」と訳されてゐた affection です。哲学辞典を見ると、「触発」といふ訳がついてゐますが、詳しい説明がないと、この言葉だけでは何のことか分かりません。いづれにせよ、日本語には対応する概念がないので、一言で翻訳するのは無理な言葉のやうです。
第三段落でも、以前には触れなかつた部分を取り上げてゐます。
事實、現に在る物の直觀は、この上に蔽ひかぶさる記憶全體から見れば、ほんの瑣細ささいなものであり、私達が、この瑣細なものを無視するのは、私達は、私達の決斷を指導するのに、實用上、記憶に頼るのが、遥かに便利であり、有益だからだ。言ひかへれば、現存する實在の直觀の代りに、類似の直觀の囘想で間に合はせ、結局、知覺を記憶喚起の一つの機會に過ぎぬものとして生活してゐる。
第四段落では、次のやうな言ひ方で、ベルクソンの考への特徴を挙げてゐます。
ベルグソンの物質の考察は、飽くまでも、私達の物質への働きかけ、物質に對する私達の身軆の職能といふ立場からなされるのだから、この働きかけのうちで、知覺と記憶とが協力してゐるなら、記憶を出來るだけ取除いてみれば、純粹と呼んでいゝ知覺が得られる筈であり、この純粹知覺は、私達に物質自體を與へるものと考へた。そこに、彼は、知覺と對象とに共通な非人格的な基礎がある、と見た。
さういふ次第で、ベルグソンの記憶理論は、知覺理論を貫いてゐた同じ考へによつて貫かれてゐる。既記の通り、彼の知覺の考察では、私が見るといふ事が問題ではなく、私が何を見ないかが問題であつた。私のさゝやかな知覺から出發して、外物全體の知覺に達する道はない。知覺全體から出發して、私達は生活行爲の要求に從つて、經驗を重ね、自己中心の知覺を形成するに至つたのである。記憶の場合でも同じ事で、記憶の實在を許して、これを考察すると、記憶全體は與へられてゐて、これについての説明は無用とする事に他ならぬ。私達の過去全體は、權利上、存續してゐるが、事實上、私達の身軆とともにある意識は、この全體のうち、行爲に役立つものしか引止めぬ組織をなしてゐるから、説明を要するのは、知覺にあつて、空間的な自己制限であつたやうに、記憶の時間的な自己制限、即ち忘却である、といふ事になる。
「記憶全體は與へられてゐて、これについての説明は無用とする事に他ならぬ。」といふのは、面白い指摘だと思ひます。
末尾にある、「腦膸は、記憶の原因であるよりむしろ結果なのだ。」といふ文は、これだけを取りだして読むと、驚いて仕舞ふやうな主張ですが、ベルクソンの文章では、この部分は、「脳髄は」ではなく、「脳髄の過程は」となつてゐて、それであれば、より納得しやすいでせう。
なほ、ちくま学芸文庫版の『物質と記憶』では、誤植だと思ひますが、この「(脳の過程は)記憶力の原因といふよりはむしろ結果であること」といふ一節が抜けてゐます。
第四十三章
第四十三章から、『物質と記憶』第二章に話が進みます。扱はれてゐるのは、第二十一章とほぼ同じ、「記憶の二形式」と「運動と記憶」の二つの節です。第二十一章が、ベルクソンの文章を丁寧にたどる形で書かれてゐたのに対し、自分の言葉でベルクソンの主張を纏めようといふ書き方が出てゐるのは、第三十九章以降、一貫してゐます。
例へば、第四段落には、以下のやうな文章が見られますが、これは、『物質と記憶』には出てこない言葉で書かれてゐます。
生きるとは、過去と現在とを統一する事だ。精神を肉體に對し、肉體を精神に對し、整調する事だ。この統一や整調は、ほつて置いて、自然に、成就するものではない。生きるとは、この成就に努力してゐるといふその事である。意識と肉體とは、併存してゐて、容易に結合する事物ではない。心身の調和とは、異質のものの調和であり、なるほどこれは普通な健康状態だが、調和は不安定で、常におびやかされてゐる。健康は、疲勞や苦痛の代償なくして得られるものではない。調和を囘復しようとする努力は、空氣の重さに氣附かぬやうに、それと氣が附かぬ間にも、間斷なく行はれてゐるものだ。記憶といふ心理現象を透けて、ベルグソンに見えてゐたものも亦この生命の營みであつた。
第五段落の、次の文章も同じです。
極限を考へれば、表象的記憶は、過去の精神に一致し、習慣的記憶は、現在の行動に一致するだらうが、實際には、私達は、言はば記憶の兩活動の中間的状態を生きてゐる。それぞれの記憶作用は、その本來の純粹性の幾分かを捨てて、互いに區別し難く融合してゐる状態を生きてゐる。或は、私達は、生きようと努めてゐるからこそ、互に異なつた記憶作用の力線の微妙な平衡を保持してゐるのだ。生きるとは、精神的に生きる事でも身軆的に生きる事でもない。兩者の關係を生きる事だ。
「意識と肉體とは、併存してゐて、容易に結合する事物ではない。」といふのは、かなり極端な二元論の意見ですが、ベルクソンの主張にそつたものであり、また、常識の主張だとも言へるでせう。
「私達は、生きようと努めてゐるからこそ、互に異なつた記憶作用の力線の微妙な平衡を保持してゐるのだ。」といふ一節からも窺はれるやうに、小林秀雄にとつて、生きるといふのは、努力することであり、だからこそ、精神と肉体との調和、即ち健康を保つ難しさが、強く感じられたのではないでせうか。
なほ、第二十章で、La litterature de l'aphasie est enorme. Je mis cinq ans a la depouiller. といふ文章の理解に誤りがあることを書きましたが、この章では、その部分は、「その病的症例に關する豐富な事實記録の點檢に没頭した。」といふ形で修正されてゐます。(第五段落末尾)
第四十四章
第四十四章では、『物質と記憶』第二章の残りの2節、「記憶と運動」と「記憶の現実化」が扱はれ、続いて、『精神のエネルギー』に収められてゐる「現在の思ひ出と誤つた再認」、更には、『生命のエネルギー』に収められてゐる「魂と身体」が言及されてゐます。
最初の四つの段落で『物質と記憶』、「潛在的な過去が、神經組織といふ運動器官を介して、」で始まる第五段落からの四つの段落で「現在の思ひ出と誤つた再認」、そして最後の段落で「魂と身体」について、それぞれ述べてゐます。
この章で扱はれてゐる『物質と記憶』の部分は、以前に、第二十二、第二十三の二章で取り上げられてゐました。また、「現在の思ひ出と誤つた再認」については、第二十八章から第三十一章で、詳しく述べられました。この章では、これらの内容を、より簡潔にまとめてゐます。「魂と身体」は、第三十八章でも取り上げられましたが、この章と、続く第四十四章では、その時には触れられなかつた部分が引用されてゐます。
第二段落に、次の一文があります。
熟慮反省(reflexion)を伴ふ再認とは、文字通りに反射(reflexion)の作用を伴ひ、又これが主役を演ずる過程なのである。
第二十二章では、この部分について、次のやうに書かれてゐて、reflexion といふフランス語の持つ二重の意味が明示されてゐませんでした。
ベルグソンは、私達の現實の注意作用を、あるが儘に觀察すると、どうしても、これは語原通りの意味で、一つの反射(reflexion)を假定せざるを得ない、とする。
第四十三章で触れた、「その病的症例に關する豐富な事實記録の點檢に没頭した。」といふ部分もさうですが、第三十九章から始まつた、『物質と記憶』を第一章から、自らの言葉で論じ直す作業では、ベルクソンの原文に、より大きな注意が払はれてゐるやうに思はれます。
第四十五章
第四十五章では、前の章に続いて『生命のエネルギー』に収められてゐる「魂と身体」から引用し、同じ論集の「生者の幻と心霊研究」の一節に触れた後、『物質と記憶』に話が戻ります。「魂と身体」からの引用は、過去と現在との境界が、普通に思はれてゐるほど明瞭なものではない事を、単語の発音を例にとつて説明した部分です。これも、ベルクソンの議論にしばしば現れる非常に説得的な例の一つだと思ひます。是非、ご一読をお勧めします。
細かな翻訳の話を一つ。最初の段落に次の文章があります。
私達の内生活全體は、意識の最初の目覺めで口が切られた一つの章句の如きものだ。章句には、句點ヴィルギュルはあるが、點ポアンで切られてはゐない。
普通、句点「。」は一文の終りを、読点「、」は一文中の切れ目を示す記号です。フランス語では、前者がポワン(point)、後者がヴィルギュル(virgule)です。上記の文では、ヴィルギュルに「句點」、ポアンに「點」といふ訳が当てられてゐて、通常の使ひ方とは、少し違つてゐます。他方で、手元にある『スタンダード佛和辭典』(1973年発行の21版)を見ると、ポアンは「句読点」、ヴィルギュルは「コンマ、句点」といふ訳がついてゐます。「読点」といふ言葉が、あまり一般的ではないので、かうしたのかも知れません。
「生者の幻と心霊研究」の一節といふのは、第三段落にある以下の部分です。
腦中樞も、これに結ばれた感覺装置も、廣大な潛在的な知覺の野を限る器官なのだ。この器官の働きによつて、外部からの無秩序な影響に、言はば運河が作られ、こちらからの外部への影響にも方向が定まり、私達の行動の有效性が保證される。
このとほりの文がある訳ではないのですが、「運河」といふ特徴的な言葉が出てくるのと、論旨が同じであることから、さう考へました。『物質と記憶』でも、一番最後に、"canaliser"といふ言葉が出て来ますが、文脈が違ひます。
『物質と記憶』については、第三部の最初の三節、「純粋記憶」、「現在とは何か」、「無意識について」からの引用を中心に書かれてゐます。第三段落の次の文は、その内容を要約したものと言へるでせう。
そこで、ベルグソンには、無意識といふ問題は、知覺に於いても、記憶に於いても同じ意味を持つのである。と言つても、、少しも特別な意味ではない。對象を知覺する事を止めれば、それは存在しなくなると考へるいかなる理由もないやうに、知覺される途端に過去は消えて無くなると考へるいかなる理由もないといふに過ぎぬ。私達の現在の状態に、記憶全體が粘着してゐるのは、私達が現に知覺してゐる對象に、私達に知覺されない全對象が粘着してゐるのと同じ關係にあるので、無意識は、どちらの場合でも、同じ役を演じてゐる。
翻訳の問題を、もう一つ。第五段落に、次の文があります。
私の身軆とは、過去に影響する物質と過去が影響する物質との間に介在する運動の中心である。
私の身体が影響を与へられるのは、過去の出来事だとしても、影響を及ぼすのは未来のことですから、違和感のある文章です。
Place entre la matiere qui influe sur lui et la matiere sur laquelle il influe, mon corps est un centre d'action,
といふのが原文ですが、物質に影響され、また、影響を与へてゐるのは、「私の身体」です。"lui"や"il"といふ代名詞が、この文章の前にある「過去」を指すと誤読したので、上記のやうな訳になつたのでせう。
ともかく、小林秀雄は、このあたりでは『物質と記憶』の原文を参照しながら書いてゐる事が分かります。
第四十六章
第四十六章では、『物質と記憶』第三章の「無意識について」と「過去と現在の関係」の二節が取り上げられてゐます。この部分は、以前に第二十五章で扱はれた部分と、ほぼ一致してゐます。やりみずさんの年譜によれば、第二十五章が発表されたのが1960年6月、第四十六章は62年7月ですから、約2年が経過してゐることになります。
二つの章を読み比べてみると、殆ど同じやうな文章が出て来る部分もあります。例へば、以下の部分。
私達の周圍の事物は、私達が、これに働きかけ或はこれから働きかけられる可能的作用の總體、そのいろいろな程度を現してゐる。これは、既に證明濟みだ。この可能的作用の期限がいつ切れるかは、對應する對象の遠近に現れてゐるのだから、空間上の距離は、希望や強迫の時間上の接近に比例してゐる。このやうに、空間は、私達の近い未來の圖式を、一擧に、私達に提供してゐるものだ。この未來は、際限なく流れて行く筈のものだから、この未來を象徴する空間は、不動のまゝの姿で、際限なく擴つてゐるといふ特徴を持つ。(第二十五章)
空間線上にある對象は、私達が對象に對して行ひ得る作用或は對象から私達が受けねばならぬ作用の樣々な程度を現してゐる。この可能的作用の期限が切れる時刻は、私達と對象との遠近に正確に比例してゐる。つまり、空間上の距離は、強迫あるいは希望の時間上の接近に比例してゐる。言ひかへれば、空間は、私達に、接近する未來の圖式を一擧にして與へるのだ。空間が、私達に、未來を語つてゐる以上、空間は、不動のまゝで、際限なく擴つてゐると私達に思はれるのも當然である。(第四十六章)
しかし、第二十五章では、ベルクソンの原文を丁寧にたどる傾向が強く、殆ど要約や翻訳と言へる形になつてゐるのに対して、第四十六章では、ベルクソンの述べんとするところを、小林秀雄自身の言葉で纏めてゐるのは、これまでの章と同様です。
要約が進むと、ベルクソンの文章に、直接対応する部分を見つけることができなくなります。冒頭の節は、その一例です。
既に言つたやうに、鉛直な時間線と水平な空間線との交點だけが、私達の意識に與へられた點である。意識には、空間線上にある凡ての物は現れぬが、際限なく物が併存し保存されてゐる事を、私達は疑はない。つまり、意識外の存在も、客觀に關する場合は明白に思はれる。ところが、眼を時間線に轉ずると、つまり、事、主觀に關すると、さうはいかなくなる。其處に生起する諸状態は、生起の順序に從つて、時間のうちに消えて無くなるやうに思はれる。これは明らかに私達の錯覺であるが、この錯覺は、私達の生活の本能的な功利性に深く根ざしてゐる。
内容的にみると、この章では、第二十六章の冒頭で触れられてゐた、夢想家と行動家との対比について、詳しく説明してゐるほか、『物質と記憶』の議論を、「僞物の再認」の話で補強してゐるといふ違ひがあります。また、第二十五章にある円錐の図の説明は省略されてゐます。
この章で扱はれてゐる部分は、繰り返し述べたくなるのも分かるほど、『物質と記憶』の中でも、非常に重要な箇所の一つです。空間と時間の二つの軸にそつて展開される事象が、意識にとつて、どのやうな違ひを持つて現れるかを示しながら、その差は、存在の有無ではなく、有用性の多寡なのだといふ主張が、それです。また、私達の全過去が、私達の性格といふ形で、現在の私達の決断に関与してゐる、といふ指摘も興味深いものです。
これらは、あくまで現実の経験に即した、その意味では「科学的」な主張なのですが、初めて聞くと、奇異な説だと思ふ人も多いでせう。私達の行動の基礎となつてゐる功利性や、言葉といふ既成概念による整理が、理解を妨げてゐるからです。
第四十七章
第四十七章では、『物質と記憶』の第三章のうち、「一般観念と記憶」、「観念連合」、「夢想の平面と行動の平面」、「意識の様々な平面」の四節の内容に触れてゐます。また、最後の二つの段落は、同書第四章への導入となつてをり、同章の冒頭にある、第一章から第三章までの纏めが、引用されてゐます。
第三章に関する部分は、第二十六章で扱はれてゐたものと、一部重なりますが、第四章への言及は、これが初めてです。第三十九章以降、小林秀雄は、以前に、ベルクソンの文章を辿る形で書いてゐた部分を、自らの言葉で説き直すといふ作業を進めて来たのですが、この章の後半からは、新たな領域に足を踏み入れることになります。
『物質と記憶』第三章で、とりわけ難解なのは、ベルクソンが、現在からの呼びかけに対する記憶の反応を、二段階の運動として記述してゐる部分です。小林秀雄は、この部分を、第二十六章と、この章で、それぞれ、次のやうに書いてゐます。
そこで、記憶全體は、同時的に、二つの運動をもつて、現在の状態の要求に應じてゐるといふ事になる。一つは、移轉であつて、經驗の進む向きに動き、動作を目指して、分裂せず、縮小する。他は自轉であり、瞬間的状態に向つてゐて、これに、記憶の最も役に立つ側面を示す。
(第二十六章、第五段落)
從つて記憶全體は、現在からの呼び聲に二重の運動を以て答へてゐるわけだ。記憶全體が、常に經驗を背後にして前進する運動、行動を見詰めて、多かれ少かれ収縮して前進する運動、もう一つの運動は、言はば記憶の自轉運動であつて、記憶が、自分の、その時その時の位置方向を、保持し、これに最も有效な面を現す。
(第四十七章、第三段落)
「移轉」か、「前進する運動」か、「經驗の進む向きに動」くのか、「經驗を背後にして前進する」のか、など、かなり異なる解釈になつてゐます。田島節夫氏の訳は、次のとほりです。これが、原文に近いのではないでせうか。
換言すれば、完全な記憶力は現在の状態の呼びかけに、同時に二つの運動によって答えるのである。ひとつは並進運動であり、これによって記憶力は全面的に経験に向かって進み、こうして行動のために、分たれることなく多少とも収縮する。いまひとつは自転運動であり、これによって記憶力は現在の状況へと方向をとりながら、いちばん役に立つ側面をそこへさし向ける。
(白水社版、190頁)
ここで言ふ並進運動といふのは、『感想』では第二十五章に出てくる、逆立ちした円錐の図で、記憶が、円錐の軸方向に上下し、A'B'面やA''B''面に圧縮されることを指すと思はれるのですが、ドゥルーズは、『ベルクソン哲学』で、この見方は誤りであると、ベルクソン哲学の全体を論じてゐる120頁の薄い本のなかで、実に4頁以上を割いて、述べてゐます。(PUF Quadriage 版 "Le bergsonisme" p.60-64)
脚注(*1)に示したとほり、この説には問題があるやうに思はれますが、いづれにしても、この部分が難解であることは、かうした様々な読み方があることからも分かります。
第四十八章
第四十八章では、『物質と記憶』第四章の「用ゐるべき方法」と「知覚と物質」の二節からの引用を中心に話が進みます。第四章は、初めて触れる部分であるためか、引用の比率が高くなつてゐます。しかし、引用の順序は、原文とはかなり変へられてをり、文章も、文字どほりの訳ではなく、自分の言葉で言ひ替へてゐます。
翻訳について、一言。この章には、「生活」といふ言葉が何度か顔を出します。これは"vie"といふ単語の訳として用ゐられてゐるのですが、"vie"は、生、生命のやうな、より一般的な意味も持つてをり、この意味で読んだ方が分かりやすい個所もあるやうな気がします。例へば、第三段落の以下の部分です。
物質の本性が、どういふものにせよ、生活は、生活の要求とこれを滿足させるものとの二元性を現す
ここでは、「生活」を「生命」や「生命体」と読み替へた方が、ピンとくるのではないでせうか。
さて、これまで読んできたところについて言ふと、『感想』といふ未完の作品では、最初の一つ二つの章は別にして、ベルクソンの文章に即して話を進めるといふ姿勢が徹底してゐます。ベルクソン以外の人物も、殆ど登場しません。ベルクソン自身の文章と離れた形で登場する人物は、下記のものくらゐではないでせうか。
ショーペンハウエル(第五、第六章)
セザンヌとギャスケ(第九章)
モーパッサン(第十一、第十二章)
フロイト(第二十七、第二十八章)
このやうな、ベルクソンの本文に密着して離れない書きぶりが、『感想』の読みづらさにも繋つてゐるのではないかと思はれるのですが、この第四十八章以降、それが、大きく変はります。
もし、意識をその最も直接な與件に於いて觀察し、科學を、その最も遠い理想に於いて觀察するなら、意識と科學とは、その根柢に於いて一致する筈だ
(第七段落末尾)
といふベルグソンの考へが、彼自身の予想以上に早く実現されたことを示すために、第四十九章から第五十五章まで、物理学の革命、特に量子力学の持つ意味についての詳しい記述が繰り広げられるからです。
(精神と物質の)兩者は、並行してもゐないし、斷絶してもゐない。持續するものといふ共通な絲が兩者を結んでゐるのであり、精神の持續と深い類似を持つた或る種の持續が、又、物質の本性を成す。
この「發表された當時(一八九六年)殆ど理解し難い奇怪なものと思はれた」ベルグソンの考への正しさ、「彼の物質の性質に關する直觀の豫言的な意味」を、現代物理学の動きを踏まへながら述べる部分は、『感想』といふ作品の一つの眼目として、早くから着想されてゐたものかも知れない、といふ気がします。
小林秀雄は、学生時代から現代物理学について興味を持つてゐました。岡潔との対談『人間の建設』で、かう言つてゐます。
私は若いころにそういうことを考えたことがあるのです。アインシュタインが日本に来たことがありますね。あのころたいへんはやったわけです。そのとき一高におりましたが、土井さんという物理の先生が「絶対的世界観について」という試験問題を出したのです。無茶ですよ。ぼくは何もわからないから白紙で出しましたが、それほどはやったわけです。
それから暫くたって、ぼくは感じたのです。新式の唯物論哲学などというものは寝言かも知れないが、科学の世界では、なんとも言いようのないような物質理論上の変化が起こっているらしい。そちらのほうは本物らしい、と感じて、それから少し勉強しようと思ったのです。
難解とされる『物質と記憶』の中でも、第四章は、特に分かり難い章だと言へるでせう。読み飛ばされることの多いこの章の重要性を認め、現代物理学、特に量子力学と関連づけて解説するといふ試みは、他に余り例の見られないもので、評価に値すると思ひます。
第四十九章
第四十九章から、いよいよ、ベルクソンの思想と現代物理学との関係が論じられます。この仕事は、哲学と物理学とに関する深い知識を要するので、並大抵の仕事ではありません。この大仕事に挑んだことが『感想』を中断せざるを得なかつた理由だといふ見方もあります。
一昨年亡くなつた郡司勝義さんは、2002年9月号の『文學界』に載つた「一九六○年の小林秀雄」のなかで、量子力学と小林秀雄の関係や、『感想』中断についての中村光夫の発言を、以下のやうに紹介してをられます。
この相補性といふ言葉を、小林は現代物理學に旺盛なる興味を示してゐた當時の昭和十一年(一九三六)に、ニールス・ボーアが發表した「因果性と相補性」といふ論文から知つたのである。その内容を教へたのは、翌十二年春に三木清と一緒に「文學界」の同人となつた佐藤信衞であつた。論文は獨文でも英文でも發表された。これによつて、小林は一段と成長するのである。ボーアは「生命それ自體の定義すら認識論上の諸問題を伴つてゐるのだ、それを肝に銘ぜよ」と、足許を照らしてくれたからである。もし、これを小林が知らなかつたら『感想』(ベルグソン論)の四十九章(昭和三十七年九月號)以下、五十四章(昭和三十八年四月號)に至るまでの途轍もない彷徨さまよひかたをしなくて濟んだであらう。
昭和三十八年の春四月、小林の許へはじめて私を連れて行つてくれた中村光夫は、そのとき早くも「小林さんのベルグソン論はあれをやつたから、必ずもて餘して失敗する。あそこはあまりにも力を込めすぎてゐる。」と言つてゐた。私は、さすがに直弟子の直覺はすごいものだと舌をまいたが、それだけにこの言には責任を持たなければならないのを、氏は充分に知つてゐたのである。令弟木庭二郎氏は京大教授からニールス・ボーア研究所所員に轉じ、國際的にも盛名をうたはれた理論物理學者だつたし、次弟三郎氏は實驗物理學者であつた。ひそかにこの兄弟たちの間で、小林の論文は噂にのぼつてゐたのである。
二十世紀初頭の物理学の革命は、相対性理論と量子力学の二つに代表させることができるでせう。小林秀雄は、先づ、「當面の問題」として、量子力学を取り上げ、「彼(ベルクソン)の豫想の或る意味での的中」について述べてゐるのですが、この部分は、第五十五章までで、一応、完成してゐるのではないでせうか。
他方、相対性理論に関する部分で、確かに、書かれずに終はつた部分があるのは、この章の最初の段落にある、次の文を読めば分かります。
今世紀に這入つて始まつた科學の急激な革命は、恐らくベルグソン自身にも驚くべき事だつたのであり、そこからアインシュタインの「特殊相對性理論」に關するベルグソンの誤解、つゞいて、自著「持續と同時性」の絶版が起こつたが、これについては、いづれ觸れねばならない。
また、岡潔との対談『人間の建設』でも、ベルクソンとアインシュタインのすれ違ひについて書かうとしたことを語つてゐます。しかし、果たせませんでした。原因の一つが、相対性理論の難しさにあるのは確かでせう。ベルクソン自身も誤解してゐたのですから。
相対性理論について、ベルクソンの誤解が、どのやうなものであつたのか、については、ミリッチ・チャペックといふ人の『ベルクソンと現代物理学』 "Bergson and Modern Physics" といふ本が非常に参考になります。同書の第III部、第8章、「ベルクソンとアインシュタイン、拡がりを持つた生成としての物理世界」に拠れば、ベルクソンの誤りは、以下の二点です。
「見かけ上」の現象と「観測できない」現象を同一視して、時間の延びや長さの縮みが、原理上、観測できないものだと主張したこと。
一般相対論での時間の延びを、特殊相対論の場合と同様に、見かけ上の現象だと考へたこと。
この本は、小林秀雄が『感想』の第四十九章以降で行つた作業を、より専門的、かつ徹底的に行つたといふべきもので、1971年に出されてゐます。チャペックは、これより先、1950年代前半に、フランス語でベルクソンと現代物理学との関係についての論文(*2)を出してゐますが、いづれも、小林秀雄が目にしたといふ記録は見当たりません。読んでゐたらば、大いに喜んだだらうと思はれるのですが。
第五十章
第五十章では、引き続き、量子力学誕生の歴史が述べられてゐます。この章と、次の第五十一章には、ベルクソンの文章は全く引用されてゐません。この章を書いたとき、小林秀雄は六十歳でした。専門ではない現代物理学について、この年齢で書くといふのは、大変な苦労だつたと思はれるのですが、どんな風に勉強したのでせうか。
量子力学が持つ哲学的な意味については、最後の段落に言及があります。
これらの状態の不連續、のみならず、これの判然と定つたエネルギーの安定状態自體が、既に空間時間の枠の中で事象の變形が連續的に行はれるといふ思想と相容れない。從つて、この思想に結び附いた因果的確定も消失しなければならない。こゝに、量子力學の意味する統計の、觀察に關しての直接性と必然性とがある。現代物理學に導入されたこの新しい思想は、どんな哲學からも導かれたものではないが、自ら、哲學に近接した思想と考へられる點で、極めて重要である。
さて、前回の話の続きですが、チャペックは、1909年にボヘミア地方に生まれた人で、第二次大戦中に、パリを経由して米国に移り、大学教授として過ごしました。科学史、科学哲学を専門としてをり、ベルクソンと現代物理学の関係については、若いころに母国語で本を書き、そのフランス語の要約とともにベルクソンに送つてゐます。ベルクソンは、これに対して、丁寧な礼状を出してゐますので、その一部を訳してみませう。(1938年7月3日付。"Correspondances" p.1596-1597)
私の持続と物質に関する見方の要点について、これほど正しい理解はありませんでした。特に、貴方は、私が一連の著作で次第に明確なものとした物質の概念が、如何にして、どのやうな意味で、どの程度、今日の物理学の結論を予測してゐたかを、見事に示されました。この点は、これまで気づかれませんでした。この問題についての私の意見が、物質の究極の要素は全体の姿に似たものと捉へるのが当然だと考へられてゐた時代に出されたので、読者を困惑させ、私の著作の理解不能な部分として隅に放置されることが多かつた、といふ簡単な理由からです。また、読者は、恐らく、それが付加的な部分だと判断したのでせう。誰も(多分、深遠な数学者で哲学者のホワイトヘッドが、ある程度、さうであつたのを除けば)貴方のやうに、そこに私にとつて極めて重要な部分があり、それが持続の理論と密接に結びついてをり、同時に、物理学が早晩向ふ方向を向いてゐたことに、気が付きませんでした。
ベルクソン自身が、チャペックの見方を高く評価してゐたのが分かります。チャペックは、ベルクソンの現代物理学の解釈を鵜呑みにするのではなく、訂正すべき部分は訂正する、といふ姿勢を明確にしてゐて、好感が持てます。誤りは誤りとして指摘した上で、チャペックは、量子力学だけではなく、相対性理論も、古典的物理学における機械的な世界像を突き崩すものであり、ベルクソンの思想とも類似性がある、といふ意見を述べてゐます。これについては、第五十二章で述べます。
《脚注》
ドゥルーズの議論の問題点
この部分のベルクソンの文章は、以下のとほりです。
En d'autres terms, la memoire integrale repond a l'appel d'un etat present par deux mouvements simultanes, l'un de translation, par lequel elle se porte tout entiere au-devant de l'experience et se contracte ainsi plus ou moins, sans se diviser, en vue de l'action, l'autre de rotation sur elle-meme, par lequel elle s'oriente vers la situation du moment pour lui presenter la face la plus utile.
(MM p.188)
以下の文から分かるやうに、ドゥルーズは、この部分を、記憶の現実化の過程を記述したものと考へてゐます。
Notre probleme est maintenant : comment le souvenir pur va-t-il prendre une existence psychologique ? − comment ce pur virtuel va-t-il s'accutualiser ?
("Le bergsonisme" p.58)
今や、我々の問題は、純粋記憶がどのやうにして心理的な存在となるか、この純粋に潜在的なものが如何にして現実化するか、といふものである。
Au contraire, lorsque Bergson parle de translation, il s'agit d'un mouvement necessaire dans l'actualisation d'un souvenir pris a tel ou tel niveau.
(同 p.60-61)
逆に、ベルクソンが並進運動を語る場合には、ある水準で捉へられた記憶が現実化する際に必要な運動が問題となるのである。
この前提から、円錐の断面が、Sのある平面に近づいても、より現実化したことにはならない、とか、平面が移動すると記憶の内容も変はつて仕舞ふ、とかいつた、反論が出て来るのです。
しかし、このドゥルーズの前提は、誤つてゐると思はれます。ベルクソン自身が、『物質と記憶』第三章の冒頭で、記憶の現実化の過程について述べてゐる文章を読んで見ませう。
S'agit-il de retrouver un souvenir, d'evoquer une periode de notre histoire ? Nous avons conscience d'un acte sui generis par lequel nous nous detachons du present pour nous replacer d'abord dans le passe en general, puis dans une certaine region du passe : travail de tatonnement, analogue a la mise au point d'un apparail photographique. Mais notre souvenir reste encore a l'etat virtuel; nous nous disposons simplement ainsi a le recevoir en adoptant l'attitude appropriee. Peu a peu il apparait comme une nebulosite qui se condenserait; de virtuel il passe a l'etat acutuel; et a mesure que ses contours se dessinent et que sa surface se colore, il tend a imiter la perception.
(MM p.148)
私たちの歴史の一時期をよび起こそうという場合、私たちは、現在から離脱することによってまず過去一般のうちに、ついで過去の或る一領野に私たち自身を置きなおす独特な働きを意識する。これは手探り仕事であり、写真機の焦点合わせにも似ている。けれども私たちの記憶は、まだ依然として潜在的状態にある。私たちはそのようにして適切な態度をとりながら、その受け入れを準備するだけだ。しだいにそれは、凝縮していく雲のようにあらわれてくる。それは潜在的状態から現実的状態へ移る。そしてその輪郭がおぼろげに姿をあらわし、その表面が色彩を帯びるにつれて、それは知覚を模倣しようとする。
(田島節夫訳、150頁)
この文章から分かるやうに、ベルクソンは、記憶の想起を、過去一般に身を置いて、写真機の焦点合せのやうに、ある領域を探す段階と、凝縮する雲のやうに記憶が現れる段階とに分けて考へてゐます。「並進運動」は、第一段階での動きを指すと考へるべきではないでせうか。「凝縮する雲のやうに現れる」第二段階の動きを、「並進運動」と呼ぶのは極めて不自然ですから。他方、ドゥルーズが問題にしてゐる記憶の現実化が行はれるのは、ベルクソン自身の文章から明らかなやうに、この第二段階です。
従つて、「並進運動」の部分は、素直に円錐の軸方向の動きを指すと考へるのが良いと思はれます。写真機の焦点合せのやうに、適当な圧縮の程度を求めて上下するのであり、Sのある平面まで降りてくるのではありません。「自転」は、より複雑ですが、圧縮されながらも全ての記憶が保たれてゐる中で、現在の状況に合ふ部分を探す動きを指すものとして考へておけば、十分だと思ひます。ベルクソン自身も示してゐないやうな、複雑な、機械的な仕組みを考へることは、動的な心の動きを見失ふことにつながり、不適当ではないでせうか。
(本文に戻る)
チャペックによるベルクソンに関する仏文の論文
"la genese ideale de la matiere chez Bergson" Revue de Metaphysique et de Morale 1952, pp. 325-348
"La theorie bergsonienne de la matiere et la physique moderne" Revue philosophique 1953, pp. 28-59
(Francois Heidsieck "Henri Bergson et la Notion d'Espace" の参考文献による)
第五十一章
第五十一章でも、量子力学の解説が続いて、観察の問題やハイゼンベルクの不確定性原理などの説明に終始してをり、ベルクソンの引用は、ありません。
文学の雑誌である『新潮』に、これだけ詳しく科学の話を書くといふのは、めづらしいことだと思ふのですが、文系の人間にも、科学の動きを勉強しろ、と言ひたかつたのでせうか。あるいは、理系の人達にも読んで欲しかつたのでせうか。
第四段落に、次の文章があります。
言ふまでもなく、「不確定性原理」が、原子の領域だけに適應出來るものなら、原理とは言へない。原理はどんな物理的實在にも通用するのだが、上の二つの量に關する極小の不確定性が常数 h と同じ程度のものであるから、巨きな對象の測定には無視出來るし、實驗上の誤差によつても、全く埋没して了ふ、と考へればよい。
小林秀雄は、上記のやうに、簡単に済ませてゐますが、「不確定性」などの不可思議な性質を示す量子力学の世界と、我々の日常の経験とを、どう結び付けるか、といふのは、現在でも専門家の間でいろいろと議論がある、難しい問題のやうです。相対性理論の場合には、ローレンツ変換の式で、高速 c を無限大にすれば、古典力学のガリレオ変換に帰着するといふ、分かりやすい関係がありますが、量子力学では、さう簡単には行きません。
この問題について、最近では、量子力学的な系と外界との相互作用から説明しようとする「量子デコヒーレンス」といふ理論も出てゐます。この理論では、観測によつて量子力学的な系の状態が一瞬にして変化するといふ、伝統的な量子力学の解釈は誤りとされ、系の変化は、非常に短時間に生じる現象ではあるものの、環境との相互作用による一連の変化だとされるらしいのですが、発展途上の理論であり、謎の解明は、まだ先のやうです。
細かな話になりますが、気になる個所を一つ二つ指摘しておきます。
第二段落に、
嚴密に言へば、天空の星も、望遠鏡で覗かれゝばその運動を變ずる筈である。
といふ文があります。これは、科学的には誤りでせう。望遠鏡で見てゐるのは、星が出した光であり、望遠鏡からの光が反射するのを見てゐる訳ではありませんので。ただ、光を出す前の星と、出した後の星とでは、状態が異なりますので、星が見えるためには、星の状態が変はることが必要だ、といふ点は、正しいのですが。
第四段落には、次の文があります。
もし、その價が無限大だつたとするなら、hν の價を持つ光子は無限小になるわけだし、與へられたエネルギーを持つ光に含まれた光子の數は無限大になるわけだ。
「その價が無限大だつたとするなら、」は、「無限小だつたら」の誤植だと思ひます。
以上、粗探しのやうなことばかり書きましたが、基本的な事実について、小林秀雄の理解は正しいと思はれます。これらの事実を踏まへて、小林秀雄が示さうとしてゐること、即ち、量子力学が、ベルクソン哲学と同様に、巨視的な世界に適合した我々の物の見方を、微視的世界のやうな、それ以外の世界の現象に適用することの誤りを示してゐる、といふことも、間違ひないところでせう。
第五十二章
第五十二章では、観察者といふ観点から、量子力学と相対性理論の比較が行はれてゐます。『持続と同時性』からの引用が二か所ありますが、相対性理論の説明の中で出てくるだけで、ベルクソンとアインシュタインとの論争には触れてゐません。
第二段落にある次の文章は、相対性理論の特徴を明確に示したものだと思ひます。
たしかに相對性理論には違ひないが、その目指したところが絶對的な、物的世界の構造の包括的・客觀的記述にあつたといふ點を、はつきり掴んでゐないと、相對性理論といふ言葉は、却つて惑はしい言葉になる。なるほど、この理論は、物理界に、全く革新的な考へを導入したが、私達とは無關係な、獨立した客觀世界の實在を容認するといふ近代科學が護持して來た考へは、この理論のうちで少しも動揺してゐない。
また、小林秀雄は、相対性理論が時間の空間化、幾何学化を目指したものだと繰り返し述べてゐます。
自然の純粹な嚴密な説明を期して、彼は、ひたすら力學ディナミスムを離れて機械學メカニスムの道を行き、世界の空間化、幾何學化といふ理想に突進した。
(第五段落)
相對性理論の空間は、時間さへ空間化する事によつて、徹底的に幾何學化された。
(第七段落)
常識にとつて極めて自然な時空の分離を、出來事の世界の空間化によつて理論的に統一したところに、この理論の獨創性があるわけだが
(第八段落)
かうした見方は、一般的なものだと言へるでせうが、第五十章でも触れたやうに、チャペックは「空間の時間化」と見る方が正しいと述べてゐます。少し長くなりますが、その著書 "The Philosophical Impact of Contemporary Physics"『現代物理学の哲学的影響』の巻末にある要約から、一部を訳してみませう。
古典的な自然像では、世界の歴史は、瞬間的な空間の連続的な前後関係として表現される。瞬間的な空間は、全てが、時間軸に垂直であり、それぞれが「ある瞬間の世界」を表現してゐる。それぞれの特定の瞬間では、四次元的な世界の過程から、瞬間的な三次元の断面を分離することができると考へられてゐた。全ての時点で、空間は、言はば、四次元的な世界の歴史の横断的、瞬間的な切断面だつたのである。相対論的な時空(空−時といふのが、より適切な名称であらう)では、かうした絶対的に同時な事象を内に持つやうな瞬間的な空間は、人為的、形式的な断面に過ぎず、自然の中で、何もこれには対応してゐない。さうした断面は、相対論的な空−時で用ゐ続けるならば、基準となる枠組が異なれば、異なるものとなるだらう。この差異は、日常の経験では無いに等しいものだが、宇宙的な規模や光速に近い速度の場合には、無視できない。
従つて、局地的な「今」といふ概念は、人間や地球の規模で実用的正当性を保つてゐるが、巨大な三次元の「今」といふ概念は、その物理的な意味を完全に失ふ。エディントンが強調したやうに、世界に広がる瞬間といふものは無い。あるいは、ホワイトヘッドの言葉では、「ある瞬間における自然」といふやうなものは無い。この概念の排除は、古典的、ラプラス的な世界図式への最も深刻な脅威である。
静的、瞬間的な空間が、四次元的な生成の単なる人為的な切断面だとすれば、相対性理論が空間を時間に組み込むものであり、その逆ではないのは明白である。これら二つの概念の融合は、時間の空間化よりも、空間の時間化として特徴づけるのが適当である。
かうした考へ方から、チャペックは、相対性理論も、古典的な空間が前提としてゐた、一様性、ユークリッド的性質、硬直性、因果的な不活性、物理的内容物の独立性などの特徴を否定するものであり、自然界は遠い未来まで予測可能な機械的な世界ではなく、真の創造がある、生成の世界だといふ、ベルクソン的な見方を肯定してゐます。
ご関心のある方は、「要約」全文の拙訳をご参照ください。
第五十三章
第五十三章では、話が量子論に戻ります。ベルクソンの引用は、『思想と動くもの』の「序論II」と、『物質と記憶』の第四章からなされてゐます。小林秀雄は、最初の段落で、量子力学の世界が、巨視的な世界に適合した理性では扱ひ切れないものであることを示してゐます。
電子と呼ばれる一つの實在が、粒子とも見え、波とも見えるのは、こちらの觀察の條件によるが、この觀察の條件が、可能な限り精緻で客觀的なものである以上、實在には、理性の要求する圖式によつて捕へられるのを拒絶する何物かがある事を、率直に承認せざるを得ない。
さらに、第四段落では、この量子力学における理性と現実との不整合を、ゼノンのパラドックスに比してゐます。
ハイゼンベルクが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルグソンが、そのソフィスムに、哲學の深い動機が存する事を、飽く事なく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだつたと言つて差支へない。
ゼノンのパラドックス、例へば「アキレスと亀」の一般的な解決策は、「亀がゐた所にアキレスが行く間に、亀は先に進んでをり、この操作を何度繰り返しても、アキレスは亀に追ひつけない」ことは確かだが、そこから「いつまでも亀に追ひつけない」といふことは言へない、と指摘することでせう。数学の言葉で言へば、等比級数の収束の問題として扱ふのです。
スタンフォード大学がウェブで公開してゐる哲学辞典でも同様の考へ方が採られてゐます。このサイトでは、ゼノンのパラドックスが後の哲学に及ぼした影響も言及されてをり、ベルクソンについて、次のやうな文があります。
Temporal Becoming: In the early part of the Twentieth century several influential philosophers attempted to put Zeno's arguments to work in the service of a metaphysics of ‘temporal becoming’, the (supposed) process by which the present comes into being. Such thinkers as Bergson (1911), James (1911, Ch 10 -11) and Whitehead (1929) argued that Zeno's paradoxes show that space and time are not structured as a mathematical continuum: they argued that the way to preserve the reality of motion was to deny that space and time are composed of points and instants. However, we have clearly seen that the tools of standard modern mathematics are up to the job of resolving the paradoxes, so no such conclusion seems warranted: if the present indeed ‘becomes’, there is no reason to think that the process is not captured by the continuum.
時間的な生成:20世紀の初頭、何人かの影響力を持つた哲学者達が、ゼノンの議論を、現在が姿を現す過程である(と想定された)「時間的な生成」の形而上学に役立てようと試みた。ベルクソン、ジェイムズ、ホワイトヘッド等の思想家は、ゼノンの議論は空間と時間が数学的な連続体としての構造を持たないことを示してゐると主張した。また、運動の実在性を保つ方法は、空間や時間が点や瞬間から成ることの否定だと主張した。しかし、我々が明らかに見たやうに、標準的な現代数学の手段によりパラドックスは解消されるので、かうした結論が当然だとは思はれない。もし、現在が「成る」のだとしても、この過程を連続体によつて捉へられないと考へる理由はない。
小林秀雄は、第五、第六段落で、かうした見方に異論を唱へてゐます。
だが、この考へは、物理現象の連續性といふ假説なしには成立しない。誰も、この假説の存在を氣にしなかつたのは、誰も物理現象の不連續を考へてもみなかつたからだ。常數hの發見によつて事態は一變した。力學的作用には連續性はない。
ゼノンのパラドックスは、或る理論でも、或る主張でもない、考へる人間の自然に對する全く率直な質問である、といふ事を看破したところに、ベルグソンの獨創性があつた。ベルグソンには、ゼノンのパラドックスの諸解釋といふやうなものは、少しも問題ではなく、矢はゼノンの時代と何の變りもなく、今日でも飛んでゐる、といふその事が、ゼノンの質問が今も猶生きてゐるといふ事である。ゼノンは實在する運動を知る知り方には二種類ある、何故かと問うたのである。經驗科學の囘答は、この質問の率直性を思はずになされたものであり、眞の囘答にはならない。
上に引いたスタンフォード大学の哲学辞典の筆者は、ベルクソンが等比級数を知らないと思ひ込んでゐたために、彼の言はんとしたところを掴み損ねたのではないでせうか。
第七段落では、ベルクソンの言葉を使ひながら、かうした自然科学の狭い見方が生まれる原因を述べてゐます。
物質自體に關する精緻な知識が、どうして先づ人間に必要だつたわけがあらう。私達の生活に何を措おいても必要だつたのは、物質に對する行動なり態度なりに關する知識である。生活する人間のオルガニスムにとつて重要なのは、全世界ではない。極く限られた實用的プラティックな世界である。知性はプラティックな世界に處する「工作人ホモファベール」の子だ。直接な経験から生まれたものではなく、有益な經驗から生まれたものだ。知性は精神と對象との直截な接觸といふ經驗の代りに、生活の要求に應じて分割された實在の經驗を、代置する。普通、經驗論が經驗を重んじ過ぎると言はれてゐるが、實在は、經驗にしか與へられてはゐないのであり、經驗は、いくら重んじても重んじ過ぎるといふ事はない筈のものだ。經驗論の誤りは、經驗といふ考への不徹底にある。私達の身軆的機能や要求に從ひ、事物の構造の内的方向に從はず、事物の外的整合に赴く經驗で満足してゐるところにある。經驗の原泉に關する直觀は誰も持つてゐるが、この裡うちで考へる困難は、「工作人」に生まれついた私達の自然な性向に逆行する困難なのである。
この辺りの議論は、特に、自然科学を学んだ人には受け入れ難い部分もあるでせうが、さういふ人達にこそ、一読してほしい文章だと思ひます。
第五十四章
第五十四章では、第四十九章から進められてきた量子力学についての解説を踏まへて、この新しい物理学と『物質と記憶』の第四章に示されたベルクソンの物質観との関係に話が進みます。
最初の段落に、小林秀雄が、量子力学について詳しく述べることにより目指してゐた所が明確に示されてゐます。
内省によつて經驗されてゐる精神の持續と類似した一種の持續が、物質にも在るといふベルグソンの考へは、發表當時は、理解し難い異様なものと思はれたが、今日の物理學が到達した場所から、これを顧るなら、大變興味ある考へになる。物理學が、常數hの有限値の爲に、物的世界を、マクロコスムとミクロコスムの二つの世界に區分して理解しなければならなくなつた事は、「實用のプラティック」世界の奥に「運動性モビリテ」の世界が在るといふベルグソンの哲學的反省に一致してゐる。さうは言へないとしても、兩者は決して無關係ではあるまい。
第三段落では、ハイゼンベルクの直面した問題とベルクソンの問題との類似について、かう述べられてゐます。
さういふ次第で、量子論の統計的性格は、仕事の出發點にある以上の二つの事實に同時に處する私達の精神の緊張を象徴する、とハイゼンベルクは考へてゐる。彼は、このやうな哲學的問題を、好んで選んだわけではあるまい。可能な限り自然に忠實たらんとして、研究の果てに自ら姿を現したものであらう。これは大變ベルグソン風な問題である。ベルグソンも亦、可能な限り自然に忠實たらんとしてプロチノスの「自然は口を利く習慣を持たぬ」といふ言葉を好んだ思想家であつた。
ベルクソンが自然に忠実たらんとした、といふ点に注目すべきでせう。ベルクソンは、あくまで生なまの事実から始めようとした哲学者でした。そして、人間が生きるために用ゐてきた言葉や、そこに反映されてゐる世の中の見方、つまり既存の固まつた枠組みを前提とし、これに頼る思弁を否定しました。
ここで、生の事実といふのは、物理学的な事実ではありません。物理学も、人間の生きるための物の見方を延長し、厳密にしたものだからです。さうではなく、根本的な経験にまで立ち戻ることで、明確になる事実です。さうした事実の獲得を可能にするのが直観 (intuition) で、専門家には、いろいろとご意見がおありでせうが、これは、フッサールが言つた「現象学的還元」と、基本的には同じ考へ方ではないかと思はれます。
生の事実は、我々に直に与へられてゐるものです。これを明らかにするために、ベルクソンは、失語症のやうな心理学の成果も利用してゐますが、基本的な部分は、内省によつて得たのではないでせうか。さうしたベルクソンの探究の結果と、物質の世界を究めようとする量子力学との間に一致が見られるとすれば、驚くべきことですし、それ自体が、微小な物理世界と心理との間に、何らかの関連があることを想はせます。
小林秀雄は、第四段落の末で、「だが、もう、知覺理論と離す事の出來ぬベルグソンの物質理論に戻つてもよからう。」と書いて、第五段落以降、『物質と記憶』に話を戻し、同書の第一章でベルクソンが挙げてゐる例を使ひながら、かう述べてゐます。
光源Pから發する光が、網膜上の諸點を刺戟する時、科學は、P點に、一定の振幅と持續とを持つた振動を極限する。意識も亦同じP點に光を知覺する。ベルグソンは、兩方とも正しい、と言ふ。この場合、光覺と運動との間には、本質的な區別はない、と考へる。これは、最も素直な自然な考へなのであるが、一般にはさうは考へられてゐない。何故かといふと、私達の知覺が、異質の諸性質から成立つてゐるのに對し、知覺された外界は、同質で計量可能な變化に分解される。つまり、一方に非延長と性質とがあり、一方に延長と分量とが現れる、さういふ根強い考への支配によつて、問題が徒らな困難に出會つてゐるからだ。その上、この困難を、觀念論により、或は唯物論によつて解決しようとして無駄な議論をやる。大事なのは議論ではない、外界が意識に直接與へられてゐる基本の經驗に立還り、意識の證言を信ずる事だ。さうすれば、この性質と分量との判然とした對立は、悟性の作爲に過ぎず、自然の設計ではない、悟性の機能は、自然の設計を嚴密に圖取りするやうには、元来出來上つてはゐない、といふ確信が得られるであらう。これは、まさに、量子論の物質觀が別の道から到達した確信である。
そして、最後の二つの段落では、『物質と記憶』第四章から、「非延長と性質」、「延長と分量」といふ二つの極が、つながつてゐるものであることを述べた部分を引用してゐます。この問題は、第五十五章でも、引き続き取り上げられます。
第五十五章
第五十五章では、前章に続いて、量子力学と関連付けながら、ベルクソンの物質観が述べられます。『物質と記憶』の第四章と「要約と結論」の文章が、引用符によりベルクソンの文章であることを明示する形で、数多く引かれてゐます。
第一段落では、ベルクソンの考へとハイゼンベルクの考へとの類似性が指摘されます。
先づ自然が在り、次に人間の生活があり、次に悟性の發明があつた。この自然の順序を轉倒してはならぬ、といふのがベルグソンの考へなのだが、これは、量子論から導かれたハイゼンベルクの考へと同じ事である。彼に言はせれば、自然は人間より前から在る、といふ事は、古典物理學の理想に照應してゐるし、人間は科學より前から在つたといふ事は、量子論のパラドックスに照應してゐるのである。
第二段落からは、「私たちの持續と事物の持續との相違や對立をどう考へればよいか」といふ問題が取り上げられ、この段落の末には、次の、「要約と結論」からの文章が置かれてゐます。
「純粹知覺と純粹記憶との生きた綜合が、必然的に、その單純な外見のうちに、運動の法外な多樣性を要約してゐる。私達の表象の裡に見られる感覺的性質と、計量的變化として扱はれるこの同じ性質との間には、持續のリズムの相違、内的緊張の相違しかないのである」
ここで、「運動の法外な多樣性を要約してゐる。」とある部分は、田島節夫訳では「莫大な数の瞬間を縮約してゐる。」となつてをり、これが正しいでせう。
第三段落末には、『物質と記憶』第四章からの引用がありますが、最後の一文は、印象的です。
「要するに、知覺するとは、限りなく薄れた存在の巨きな諸期間を、もつと緊張した生の、もつとよく區分けされた若干の諸瞬間に凝結する、つまり非常に長い歴史を要約する事だ。知覺とは不動化を意味する」
第四段落全てを『物質と記憶』第四章からの引用に充てた後、小林秀雄は、第五段落の冒頭で、かう書いてゐます。
實在の變化は深みにある。実在の中に生きるとは、この變化が直接に經驗されてゐるといふ事に他ならず、経験の深みをさぐれば、私達は実在の内部に入り込める。誰にでも可能な、名づけ難い質的変化の内觀が、これを證してゐる。この本源的経験の發展を辿る事が、ベルグソンにとつては、精神と物質との關係を、本質的な困難に出會はずに説明出來る唯一の道であつた。この道を行く爲に、緊張(tension)と弛緩(extension)といふ言葉が選ばれた。
ここで、"extension" を「弛緩」と訳すことには、異論があり得るでせう。この言葉は"tension"「緊張」と同じ根を持つ言葉で、ベルクソンも両者を関連づけて用ゐてゐますが、田島節夫訳では「ひろがり」といふ訳語が使はれてをり、この方が適当だと思ひます。次の文を見ると、この言葉の使はれ方が、はつきりするのでないでせうか。
Or, si toute perception concrete, si courte qu'on la suppose, est deja la synthese, par la memoire, d'une infinite de ≪ perceptions pures ≫ qui se succedent, ne doit on pas penser que l'heterogeneite des qualites sensibles tient a leur contraction dans notre memoire, l'homogeneite relative des changements objectifs a leur relachement naturel ? Et l'intervalle de la quantite a la qualite ne pourrait-il pas alors etre diminue par des considerations de tension, comme par celles d'extension la distance de l'etendu a l'inetendu ?
(MM p.203)
さてもしすべての具体的知覚が、どんなに短い場合を仮定しても、すでに相継起する無数の「純粋知覚」の記憶力による綜合であるとすれば、感覚的諸性質の異質性は、私たちの記憶作用におけるそれらの収縮に由来するものではなかろうか。そうすると量と質との隔たりは、ひろがりの考察が延長物と非延長物の距離をせばめたのと同じように、緊張の考察によってせばめられうるのではなかろうか。
(田島節夫訳、204頁)
このベルクソンの考へについて、小林秀雄は、第七段落で、かう述べてゐます。
さう見ると、内界外界、或は主觀客觀の區別や統一の問題は、空間に關係するよりもむしろ時間に關係する問題と考へねばならない。
最後の段落の次の文も、注目すべきものでせう。
たゞ、注意すべきは、さういふ、各瞬間が、それに先立つ瞬間から數學的に導かれる嚴密な必然性が、物質の持續の眞相であるとは、ベルグソンは斷言してゐない事である。
ベルクソンの考へでは、物質と自由や生命との間に断絶はないことに注意を促してゐるのだと思はれます。シュヴァリエは『ベルクソンとの対話』で、ベルクソンの言葉を、かう書きとめてゐます。(1928年7月15日。1930年3月24日の対話にも、同じ趣旨の発言があります。)
La matiere et la vie: La premiere est une tendence vers, ou plutot un residu de, la seconde.
物質と生命:前者は、後者への傾向、といふよりも、後者の残渣である。
小林秀雄は、この章を、そして、第四十九章から展開されてきた、ベルクソンの理論と量子力学との関係に関する議論を、次の文章で締め括つてゐます。
豫言は的中したと言つても過言ではない。少くともかうは言へるだらう。ベルグソンの物質理論は、彼のメタフィジックのほんの一部を成すものだが、彼が、自分の仕事を、ポジティヴィスム・メタフィジックと呼んだ眞意は、今日のフィジックが明らかにした筈だ、と。
「ポジティヴィスム・メタフィジック」といふ言葉は、調べた限りでは、ベルクソンの著作には出て来ません。『思想と動くもの』に収められた「形而上学入門」には、次の文がありますが、かうした部分を踏まへて、この言葉を使つてゐるのかも知れません。
Une philosophie veritablement intuitive realiserait l'union tant desiree de la metaphysique et de la science. En meme temps qu'elle constituerait la metaphysique en science positive, ? je veux dire progressive et indefiniment perfectible, ? elle amenerait les sciences positives proprement dites a prendre conscience de leur portee veritable, souvent tres superieure a ce qu'elles s'imaginent.
(PM p.216-)
本当に直観的な哲学ならば、あれほど望まれていた哲学と科学との結合を実現する。それは哲学を実証科学 ? という意味は前進的で無際限に完成されていく科学 ? として樹立すると同時に、本来の意味における実証科学にそれらのもっている本当の意味、これらが考えているよりはしばしばきわめて高い意義の自覚を促す。
(河野与一訳、岩波文庫版 298頁〜)
第五十六章
この章で、『物質と記憶』についての記述は一段落し、新しい話題へと進むやうに見えるのですが、それは書かれないで終はりました。
小林秀雄は、最初の二つの段落で、『物質と記憶』の第四章と「結論と要約」の内容を、自由の問題の観点から整理し、最後に『物質と記憶』の末尾の文章を引用してゐます。
自由は、常に、必然性のうちに深く根を下し、これと緊密に組織されてゐるやうに思はれる。精神は、知覺を物質から借り受け、自己の養分を、そこから引出すのだが、自由の印を押した運動の形で、知覺を物質に返却する
第三段落からは、ベルクソンの二元論の性格が論じられます。第五段落では、小林秀雄の考へる「ベルグソンの眞意」を、以下のやうに述べてゐます。
自分にとつては二元論とは言葉ではない。二元論で、實際に事が巧く運ぶのを見れば、二元論の惹起する理論的困難は、二元論といふ言葉に由來するに過ぎぬ事を、諸君は合點するであらう
第六段落では、「實在は、直接的經驗に、二つの面を見せてゐる」といふことについて、「哲学的直観」の文章を引用しながら、論じてゐます。この部分は、第五章でも引用されてゐた部分で、その時にも述べたのですが、小林秀雄の読み方には、一部、誤りがあると思はれます。そのために、訳にも少し無理が来てゐるやうに見えます。
それなら、この深化の方向をどこまでも辿つて行けば、物質も生命も、要するに實在一般は、いよいよ明らかになるか。
と訳されてゐる部分は、原文では以下のように書かれてゐます。
En sondant ainsi sa propre profondeur, penetre-t-elle plus avant dans l'interieur de la matiere, de la vie, de la realite en general ?
そのまま訳せば、次のやうになるでせう。
かうして意識は、自らの深みをさぐることで、物質の内部、生命の内部、実在一般の内部の、さらに奥へと分け入るのだらうか。
ベルクソンは、「どこまでも」とも、「明らかになる」とも言つてゐません。より内部へと分け入るといふのは、物質、生命、実在一般の真相について、一段と深い経験を得ることを意味するのでせうから、それを「明らかになる」と訳すことは、誤訳とまでは言へないかも知れませんが、小林秀雄は、この文章を、かうした行ひの可能性を否定したものだと取つたために、それが無理であることを強調しようとして、上のやうな言葉を使つたのではないかといふ気がします。
最後の段落に、次の一文があります。
こゝで、又、ベルグソンの二元的な物の見方の意味を取上げるのは、彼が、哲學者として、科學をどう考へてゐたかといふ問題に緊密に繋つてゐるからだ。
これを読むと、これに続く部分では、ベルクソンの科学論について述べようとしてゐたのではないか、といふ推測が浮かんできます。具体的には、第四十九章で予告されてゐた「アインシュタインの「特殊相對性理論」に關するベルグソンの誤解」や「自著「持續と同時性」の絶版」へと話を進めようとしてゐたのではないか。いづれにせよ、確かめる術はないのですが。
UNIVERSITY OF EDINBURGH
GIFFORD LECTURES, 1914
by
professor Henri Bergson
<< THE PROBLEM OF PERSONALITY >>
Lecture I
The problem of personality may be regarded as the central problem of philosophy. This is so, not only on account of the interest which we have in knowing what we are ? the question which is to be the special subject of this year’s course ? and not only on account of the interest, perhaps still greater, which there would be in knowing what is our task in the world, whence we come, and whither we go ? questions which we hope to deal with in next year’s course. It is so because all philosophical problems are found to converge upon this supreme problem, which appears thus as the centre round which all philosophy gravitates or ought to gravitate.
The principal aim of philosophy has always been, in short, to embrace in a single vision the totality of things: to philosophise has usually meant to unify. It is true that this unification may take place in two different fashions. The first, that practiced by the Greek philosophers, consists in reducing the indefinite multiplicity of individual things to a certain number of concepts, and these in turn to a single idea, which includes everything.
The second, which is the method of science and of modern philosophy, consists in establishing between things, or rather between facts, relations of reciprocal dependence, expressed by laws, and in supposing that, step by step, it is possible to reach laws more and more general until we arrive at a single principle to which everything can be reduced. In both cases alike, we end by representing the whole of reality to ourselves as a coherent system, which gives complete satisfaction to our understanding. For it is in perfect unity that the understanding finds rest.
But in both cases we are faced by the difficulty of finding a place for personality, that is to say, of admitting real individualities possessing an effective independence, each of which would constitute a little world in the bosom of the great world. That is why a philosophical doctrine, in proportion as it becomes more systematic, tends more and more to absorb the human person in the All.
But all the while that philosophy thus develops itself for the greatest satisfaction of our understanding, there is a dull protest on the part of the will. Time after time in the history of doctrines this protest is raised. It assumes dialectical forms: it calls itself skepticism, critical idealism, etc., but at the root of all these attacks directed against metaphysical dogmatism there is in reality a revolt of the will, which affirms its independence.
Now, should not the future belong to a philosophy which seeks to reconcile with one another these two requirements, that of the will and that of the understanding? Common sense believes in the possibility of this reconciliation. And it is in accordance with the tradition of Scottish philosophy, as well as the tradition of French philosophy, to appeal to common sense.
But it would be a mistake to suppose that the reconciliation can be effected by concessions made by these two opposed theses to one another. This method, working simply with concepts, adds nothing to our knowledge of reality. We must interrogate reality directly; and, in order to do so, it is necessary to come to close quarters with the consciousness which we have of our own personality.
Let us take a first glance at the “elements” of which it is composed, or rather of which it appears to be composed. In the first place, think of the consciousness which we have of our body with its organic sensations. Then there is memory with all the past. Then comes the anticipation of the future.
But none of this is the personality, although the personality has a certain relation to them all. What is this relation? That is the question which we shall ask ourselves in the first lectures of this course. But it is necessary, as we shall see, to examine first some of the most remarkable conceptions of personality that have been put forward by philosophers.
Lecture II
In the present lecture and in the two following we are going to take a glance at the history of the problem of personality, not exactly, however, in a historical interest. Our object in making this rapid examination is a double one. In the first place, there is the desire to utilize whatever true observation is to be found in the traditional doctrine of personality; in the second place and more particularly, there is the desire to inquire how this doctrine has involved itself in an impasse, and what is the explanation of the insurmountable difficulties in which it ends.
There is, as a matter of fact, a traditional doctrine on this point. It has changed its form, or rather its garment, throughout the ages, but it has remained the same; and indeed up to the present time it may be said that there has been but a single systematic philosophy of personality. This metaphysic was elaborated throughout the whole of Greek antiquity. It traversed the middle ages, and proceeded to super-impose itself, successfully or unsuccessfully, on modern knowledge, until the day when Kant showed on what conditions ? conditions, as it seems to us, inadmissible ? it could be reconciled with scientific mechanism.
The man who gave this metaphysic its finished form was Plotinus, a philosopher who has been too little appreciated. Continuator of Aristotle as well as of Plato, related also to the Stoics (although he combats them), Plotinus resumes in himself the whole of Greek philosophy. But as he is a powerful and original thinker, he has placed his own mark on the philosophy which he transmits to us. One must not forget, in short, that the Aristotelianism whose influence was predominant in the middle ages, and even (in spite of appearances) in modern times ? this Aristotelianism which still penetrates our modes of thinking and of speaking ? is an Aristotelianism entirely impregnated by Neo-Platonism, an Aristotelianism which Plotinus has fused so well with Platonism, that it is very difficult to disentangle in it what belongs to Plato, what belongs to Aristotle, and what belongs to Plotinus himself.
In remounting to the source of a doctrine, one finds it in its purest form; one understands it better, and, above all, one perceives the origin of the difficulties with which it was destine to come into collision in the course of its development. That is why it will be useful for us to give a short exposition of the doctrine of Plotinus. For the rest, more interest would have been felt in this doctrine if it had been seen that it is primarily a theory of personality. Of all the ancient philosophers, Plotinus was the only one who was really a psychologist. If his philosophy is a prolongation of the philosophies of Plato and Aristotle, it differs from them by the fact that it is the problem of the human soul that occupies the central position in it.
Now, it is plain that the question which preoccupied Plotinus here ? as it was later to preoccupy all writers upon the soul ? is to know how the same being can appear to itself as an indefinite multiplicity of states and nevertheless be a single and identical person. This is the problem which we indicated at the close of our last lecture.
This problem we shall try to solve by asking if the multiplicity of states of mind is a multiplicity like other multiplicities, if the unity of the mind is a unity like other unities ? if the very terms unity and multiplicity can still be applied here in their usual signification ? in short, if there is not reason for proceeding in this case to revise our categories and to modify certain of our intellectual habits. But the intellect does not easily resolveto change its habits and reconstitute its categories.
The problem which presented itself to Plotinus, and which remained the problem of traditional philosophy, was therefore this: How can our person be on the one hand one or single, on the other hand multiple? And Plotinus indicated at once the solution which is inevitable, if one states the problem in these terms. He supposed that each of us was multiple "in our lower nature" and single "in our higher nature." In other words, he considered a person as a being essentially one and indivisible, which by a kind of declension or excursion beyond itself runs down into indefinite multiplicity. Each of us, according to Plotinus, may experience these two states. In the second, we lean towards division, we materialize ourselves more and more; in the first, on the contrary, we become more spiritual and tend to a higher and higher unity. That is to say, the unity of the person tends to coincide with the unity of other persons, and the person to be one with God Himself.
There is implied, in short, in this conception of human personality, a whole metaphysics, which we find in Plotinus in its purity, and of which it is indispensable for us to give some account. That will form the subject of the next lecture.
Lecture III
The philosophy of Plotinus may be taken as the very type of the Metaphysics which we are eventually led to when we look upon internal time as pulverised into separate moments, and yet believe in the reality and unity of the Person. In that case each of us must be considered to have two different existences, one de jure and the other de facto. De jure we are outside Time; de facto we evolve in Time. De jure we are pure Ideas, in the semi-Platonic sense of that term ? we are eternal essences ? we are "pure contemplation." De facto our life is in the sensible world, and we act.
The de facto is, moreover, a diminution or a degradation of the de jure. To act is to wish or to desire a thing, to have need of it; to act is consequently to be incomplete, to set out in quest of self. To evolve in Time is to add unceasingly to what is; it is consequently to be unfinished and to lack the possession of existence in its fullness. More generally, the second mode of existence is, as it were, a distension or a dilution of the first, since unity has thus been broken up into multiplicity, or, rather, has let fall from itself a dispersed multiplicity which is indefinitely striving to produce an imitation of unity in Time.
That, then, is the starting-point, and that also is the essence of Plotinus’ philosophy. In the centre of all this metaphysic is the concept of λ?γο?. Logos, which is untranslatable in our modern tongues, means both speech and reasoning, and also denotes the role of an actor. Speech is the multiple (and inadequate) equivalent of a single thought; reasoning is the multiple equivalent of a single intuition; speech and reasoning unroll something which is, as it were, rolled up; and in like manner the actor unrolls his scroll, so to speak, while he is playing his part. Thus the human mind is a λ?γο?, because it unrolls an eternal Idea.
But it is part of the essence of a metaphysical doctrine to follow out to the end the application of its principles, and, in mathematical parlance, to proceed to the limiting case. If once we think of eternal essence as lowering itself into psychological life in time, there must be a push which propels unity forth from itself, as (sic) least on one of its sides. The philosopher then supposes that this push continues in its effect, and that what has become multiple proceeds further and ever further in the direction of multiplicity. The result of this "procession" will be Body. Mind forms Body, and it is wrong to say that the mind is in the body: the body is in the mind.
On the other hand, it is not sufficient that the Intelligible Essence is One; the fact remains that there are here as many distinct unities as there are different persons and even different beings. These unities constitute a multiplicity outside Time. Now, if once we make unity the original element, we cannot stop at this "multiplicity which is One"; we shall have to go further back to a Unity which is unity only.
Such is the theory of the three hypostases ? God, the Intelligibles, Minds with bodies. If you posit God, you posit thereby all the possible views of God; these are the Intelligibles or Eternal Essences. It would be just possible to stop at that point, but matter, i.e., the possibility of dividing and of unrolling, causes the Intelligible to let fall from itself a multiple image which resembles it ? namely, Body in space and time; and, as we have seen, it is Mind that (before body) proceeds in the direction of Body.
This doctrine of Plotinus founds upon a sort of inward experience. Man can, in fact, according to Plotinus, retrace inwardly the course which is the inverse of that which we have just described. If the Intelligibles proceed from the One, and if Minds with bodies proceed from the Intelligibles, so, inversely, Mind in body can return towards the Intelligible, re-enter it, and so place itself again in eternity; that is the first stage. But there is a second stage to be covered before a final unity can be reached, namely, what is arrived at by Mind when it has re-entered the Intelligible ? its identification of itself with the One by a saltus which takes it out of itself. For such is the etymological sense of the word "ecstasy."
Even for us moderns there is undoubtedly much to be drawn from this doctrine, which is the work of a profound psychologist. We must extract from it its pure psychological elements. As for the edifice which Plotinus has reared on that basis, it is fragile, or at least part of it is, but it is instructive for us because it brings out clearly and formulates explicitly the idea which is contained implicitly in the majority of later metaphysical systems ? the idea that action is less than contemplation, that movement is less than immobility, that duration (la duree) is divided indefinitely, and that, to find substantiality, we must place ourselves outside Time. I believe that this is the opposite of the truth and that, while giving full weight to certain elements of Plotinus’ doctrine, we must invert his point of view. But if we once accept that point of view, we cannot improve upon what he has done. We shall see that metaphysic properly so-called has, with the moderns, done little more than repeat Plotinus, often in a weaker form.