ウケヒ

作品に意味を求めるのは滑稽だと思う。
芸術家の表現は神の行為の模倣なのだから、その創造物には「意味」という言葉のベクトルは超えているはずである。
その作品に感じる「美」であり「驚異」はそのまま作品の存在である。
なぜなら作品の客観的対象としての鑑賞者は作品を鑑賞する過程で作品と同化するからである。
つまり、作品を鑑賞するさいに引き合いにだされる各個人の経験、思い出、デジャヴは、作品のもつ魔力によって(マクロな視点での)創造と被創造物による関係において作品と溶け合い昇華する。

 
誰もみたことのない景色。
 
 
何もないところからつくられたオブジェ。
 
 おそらく誰も口にしたことのない言葉。

しかし、現実と乖離したところではなくて、
あの、現実とパラレルな地平線で広がっているのである。

 
脈絡のない「夢」。
 辻褄をあわせているいとまはない。
 
 驚くべき「自由」。
 自由に限界はあるのだろうか?
 
 武器としての「無意識」。
 まず自分が驚くことになる。

自分の魂を利用して「神秘」を生産する機械としての自分。
アンドレ・ブルトンの言葉を借りれば、
「知性の受動的生命」としての自分。
夢神を憑依させて語らすイメージたち。
無意識は創造する。
強く望む物があれば、あとは寝るだけでよい。
暗闇から飛来するのは、きっとあなたが強く望んだ物である。

ランボーの言葉によってはじめよう
「今ではわたしも美に敬礼する心得ができている」
                   

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哀歌

どぶ川でのんだビール。

いつも酒に逃げてた。

そして乗り越えてきた。

弱い

とても弱い生き物。

なんなんだろうね

俺の存在。

悲しい歌でもふさがらない心。

いつも泣いてた。

いつもいじめられて

いつも殴られて

いつも叩き付けられて

なんとか言えよって言われて

ただ

誤解なんだ

俺は

あなた方の

敵じゃない

誰も恨みたくない

誰も恨みたくない

みんな仲良しがいい

だから

殺さないで

エネルギー

向けないで

俺なんかに

向けないで

つらい

つらいよ

つらいよ

つらいよ

神様は

残酷だなぁ

なんで

俺なんかを

殺そうとするのかな

手首切りたい

また血だまりつくりたい

涙と同じ量の

血だまりつくりたい

作品

たくさんつくったよ

もう

死んでもいいかな

そんなに死ね死ね言うのなら

お望みどおり死ぬよ

でも生きたい

いつかたくさん笑って

たくさん笑って生きるんだ

好きな人と一緒に

たくさん笑って

生きるんだ

家の前をね

下を向いて歩いてました

ふつうに

歩いてました

そしてたらね

信号待ちしてる

車の助手席から

きっしょって

聞こえました

幻聴じゃないです

たしかに

きっしょ

って言ってました

なんでかなと

考えても

これといった理由は

見当たりませんでした

ただ

俺が

買ったばかりの服を着て

幸せそうに

歩いていたので

神様が

身分不相応だと怒って

きっしょ

を与えたのだと思います

神様ごめんなさい

これからは二度と

幸せになりません

ゴミ人間として

顔を苦痛に歪めながら

生きてゆきたいと思います

親に気付かれないように

声を押し殺して泣きました

つらくて つらくて

夜通し泣きました

神様はなぜ

あのとき

俺に足枷を付けて下さったのか

たくさん

たくさんの苦痛を

際限なく将来すべてに

敷き詰めて

いつでも

絶望に見舞われるように

俺は翼をもっています

けれど

足枷もついています

重い重い足枷がついているので

飛べません

翼を開いて閉じて

空を仰いで

神様様の放つ矢につらぬかれて

もがく日々です

がざ

がざが

がざがざ

心が悲鳴をあげてる

だれか

だれか助けて