☆ 8.Fモデルと血液型性格類型はなぜ似ている か
「はじめに」ページで書いたように、Fモデルを構成する概念に
血液型と関係のあるものはありません。にもかかわらず、Fモデルの各類型と血液型性格類型との
間には顕著な類似性が認められます。これはなぜでしょうか。
一つの分かりやすい解釈は、血液型とα因子・β因子との間には何らかの生理的な関係が
あるのだというものです。そうであれば、両類型の類似性は当然のことと考えられることになります。
それは、血液型と性格との間にはっきりした関係があるということでもあります。
しかし、血液型と性格との関係を肯定的にとらえる見方は、現在支配的とは言えません。
むしろ、両者の間にはっきりした関係は無いという見方が大勢を占めていると言ってよいと
思われます。その場合、Fモデルと血液型性格類型との類似性は不思議なものとなります。
一方が他方を模倣したのであれば、両者が似ているのは不思議でも何でもないことになります。
では、後発のFモデルが血液型性格類型を模倣したと言えるのでしょうか。Fujitaが
頼藤氏のモデルにヒントを得てFモデルを思いついた時、血液型性格類型のことはすでに
知っていましたから、それに影響されたという可能性はないわけではありません。
しかし、もしFモデルが血液型性格類型の模倣であるとするならば、Fモデルを支えている
論理性はどうなるのかが問われなければなりません。Fモデルの論理が血液型性格類型を
支えるだけのために作られたような強引なものであるならば、それは血液型性格類型を
模倣するための論理と言われてもやむをえないでしょう。しかし、もしその論理が妥当性を
持ったものであるならば、論理自体はFモデルとして定式化されるずっと以前から
発見されないまま存在していたとも言えます。この場合、それを血液型性格類型の
模倣であると主張するのは妥当性を欠いたものと言わざるをえないでしょう。
私としては、Fモデルの論理はそうした妥当性を持ったものだと考えているのですが、
これについては読者の判断に委ねます。
Fモデルの論理が妥当なものであって、かつ血液型と性格とが関係のない
ものであるならば、Fモデルとの類似性を備えた血液型性格類型はどこから出現したのかが
問題となります。でたらめに捏造されたのだとする説明には無理があります。
血液型性格関連説の代表的な主張者である能見氏の著作を読んでいて気がつくことは、
血液型と性格との間に関係があることが科学的に確認できると主張している部分と、
各血液型に対応する性格特性を説明している部分との間に、あまり関係が見られない
ことです。前者がデータを統計的に検討しているのに対し、後者は著者の主観的な
観察に終始しているのです。データを基に「血液型と性格とが関係する」と主張され、
それが大前提となって、その後の主観的な観察が正当化される形になっているわけです。
「血液型によって性格は異なる」ということを大前提としてしまったが故に、
その後主観的な観察によって「違い」を見つけ出さなくてはならなくなりました。
が、実のところ、これは大変な作業です。人の性格は十人十色、千差万別。
その中から血液型ごとに共通し、他の血液型とは異なる特性を見つけようと
いうのですから。
ここで、ある種の予断が生じたのではないかという気がします。
血液型によって性格は異なる。それならば、各血液型には対応する
「典型的」な性格があるはずだと。
かくして、同じ血液型同士の違いは過小評価されます。血液型の異なる人の小さな
違いは拡大されて、四つの典型的な性格類型に収斂していきます。
そのようにして抽出された典型的性格は、そこそこ抽象的で、適用範囲の
広いものになるはずです。
能見氏の場合、それは二つの座標軸に集約されました。
「ホットなOとクールなAB」、「お堅いAとザックバランなB」の二つです。
いずれの座標軸でも、残り二つの血液型は中間型とされました。
一見、抽象性に乏しいようにも見える座標軸ですが、適度に言い直す
ことにより、十分抽象的なパラメータに置き換えることができることが
分かります。
まず、「ホットかクールか」という座標軸は、対象との結びつきの
強さと言い換えられます。ホットな性格とは、対象と強く結びつこう
とする性格です。クールな性格は、対照と距離を置こうとする性格です。
また、「堅いかザックバランか」という座標軸は、受け入れる対象の
広さと言い換えることができます。堅い性格は、限られた対象しか
受け入れようとしません。ザックバランな性格は、広範な対象を
受け入れようとします。
このように言い換えると、能見氏の二つの座標軸が、実はFモデルと
密接に関係するものであったことがわかります。
Fモデルにおいて、α因子とβ因子の違いを無視し、それぞれの感受性の
大きさのみに注目してみます。α−β−型は両者共に小さいので、これを
「−型」と見ることにします。α+β+型は「+型」です。α+β−型と
α−β+型は、一方が大きく他方が小さいので、「±型」と考えます。
このようにすると、四つあったタイプは一本の座標軸上に置かれることに
なります。この尺度が表すのは、「様々な対象が感情的な色彩を帯びて
とらえられる度合い」ということになります。α−β−型の人にとって、
多くの対象は快でも不快でもなく、単に「物」として現れています。
これに対し、α+β+型の人にとっては、多くのものが快・不快といった
感情的な色彩を帯びて出現しています。α+β−型とα−β+型では、
両傾向が共存しています。。
「−型」の性格の人にとって、環境にある様々な対象の中で、
好悪の対象となるものは一部のみです。そのため、その一部の領域に
意識を集中させる傾向と、他のことに意識を移しにくい傾向が生じます。
すなわち、対象にのめりこむホットな性格となりやすいわけです。
「+型」の人の意識はより広い領域に分散し、また一つの領域から他の
領域へ意識を移しやすくなります。つまり、対象と距離を置くクールな
性格となるわけです。
今度はα因子とβ因子の強さの違いを見てみます。α+β−型はα因子の
感受性がβ因子より強いタイプと言えますので、これを単に「α型」と
呼ぶことにします。α−β+型は、逆にβ因子の感受性が強いタイプですので、
「β型」です。α+β+型とα−β−型は両者のバランスがとれている
タイプです。人は快をもたらすものを受け入れようとし、不快をもたらすものを
避けようとします。そのため、α因子は環境にある様々な対象を拒否する
方向に働き、β因子はより多くの対象を受け入れようとする方向に働きます。
この結果、α型の人はごく限られたものだけを受け入れようとします。
はたから見れば、ハードルが高い、堅いという印象になります。β型の
人は、逆に多くのものを受け入れますから、周囲の人に、親しみやすい、
ザックバランといった印象を与えます。中間型は両傾向が拮抗し、
バランスのとれた傾向となります。
結局、「ホット−クール」という座標軸と「堅い−ザックバラン」と
いう二つの座標軸を選んだことがFモデルとの類似性をもたらした
ことになるわけですが、では、なぜこの二つだったのかということに
なると、はっきりした理由が見つかりません。彼の使ったサンプルが
そのようなものだったのかもしれないとか、彼の感性がそうした方向を
志向したのかもしれない等と想像をめぐらすことができるだけです。
能見氏のモデルは血液型とのみ関わるものとして認識され、α因子・
β因子という、性格形成に関与しうる因子と関わる類型であることは
見過ごされました。そのことは、この性格類型論の普及に大きく寄与
しましたが、他方ではまったくでたらめな類型であるという偏見も
産みました。
血液型と結びついてしか論じられることのない性格類型ですが、
血液型を離れても、なお基本的な性格類型として十分通用する内容を
持った類型であると、私は思います。