奥穂への道

 涸沢についた翌日の朝5時、いよいよ奥穂への登りを開始する。見上げると頂上付近は 曇っていていまひとつであるが、大きな天候の崩れはないように思われた。

 小さいリュックに水とランプ、雨具、昼食らしきもの、地図、フリースの上着を積込み、 軽い足を進めた。すでに先行している登山者もおり、後をついていけばいいという安堵感 もあった。しかし、途中何ヵ所か雪渓を渡る場面があり、滑りはしないかと緊張した。雪 面がスプーンカットされているうえにつるつるで硬く、斜度もあるので、一歩滑ったら5 0メートルは流されるなとびくびくして渡った。涸沢岳中腹を横切る道は石を積み重ねた 歩きやすい登山道であるが、ずいぶん休憩をとりながら、あえいで登った。

 この道から仰ぎ見る涸沢岳とそれに付随する三角錐の山群は印象的な美しさがある。し かし、高度をあげていくにつれ分かることだが、実はその三角錐は中腹に派生している尾 根であり、それを下から見上げると三角錐に見えるのだ。

    

         

 いよいよザイテングラードに取りつく。地形学的にいうとこの小高い丘だけが周囲の地 質より硬いので、崩落せず残ったものだそうだ。登山道はこのザイテングラートの上部に 延々とついている。登ってみると道というより急な崖であり、所々鎖場や崩落の激しい部 分で緊張する。それでも斜度があるため、高度をどんどん稼ぐことができ、下方に涸沢ヒ ュッテやテント場が低く見え、巨大な空間を認識できるようになる。

                                         

 徐々に登山者が増えだし、登山道が込みあってくるようになるが、抜きつ抜かれつなの で、いつも同じ顔ぶれで登ることになる。途中で何回か「ラクー」、「らくせきー」と叫 び声があがる。穂高の峰々が崩壊しているのだ。その声に反応して周囲を見渡すとカラカ ラーッと、雷鳴に似た音とともに落石する様子を発見することができる。自然の脅威を感 じるとともにこの道に発生しないようにと願わずにはいられない。奥穂高山荘に着くまで に何度見てもあまり気持ちの良いものではなかった。  この道は息があがるが、素晴らしい高度感と落石の緊張からかあまり疲労感はなく、奥 穂高山荘前のテラスに出た。

 奥穂高山荘の周囲は雲でこの先の登山道も途中までしか見えず少々不安な気持ちになっ た。テラス前には一息入れる人々や携帯電話が使えるとか圏外だとか話をしている人々で 賑わっていた。山荘に入り、ゆっくりしたいとも思ったが、一人では何となく気恥ずかし いので寒い外で休憩した。  動く霧の中から大きな山塊が出現し、鎖場やハシゴの道が急斜面に取付けられているの を認めることができた。奥穂高の全容を見ることはできなかったが、とくかくこの先の巨 大な岩の塊の中を進んでいかなければならないことがはっきりした。

                           
煙草を一本ふかしてから鎖場に取りついた。鎖場もハシゴも急ではあったが、ゆっくり 丁寧に登れば難しい箇所ではなかった。常に周囲に霧が立ちこめていたので、かえって恐 さを感じなかったのかもしれない。鎖場を過ぎた辺りに針金で作った大きな網のようなも のが設置している場所があった。その理由は下山時に理解した。  ネットの下は奈落の底であり、積雪期の滑落防止用ネットなのだ。あのネットで滑落し た人間を受けとめるのだ。そんなことを考えるとたいへんな場所にきていることを改めて 思い、背中がぞくっとした。それにしても、金網の目の大きさであるが、やっと人間一人 がどうにか引っ掛かる程度なのである。あれで滑落した人間が金網に引っ掛かるのだろう か。しかし、あまり金網の目が細かすぎても雪を自然に落としきれないのかもしれないな、 などと考えながら、高山特有のガラガラした道を登る。  ところどころ涸沢側が望める切り立った「窓」のような場所から下を覗き込むと、息を 飲むような光景がある。ほとんど垂直に切り立った壁や岩峰がいくつもあり、一歩踏み外 したら命がなくなることが十分すぎるくらい分かる。

 霧の中を進んでいくと一段と小高い頂に着く。風が強く先行していた人々がその岩に隠 れるようにしていたので、そこが頂上であると分かった。  奥穂高の頂上は三方の尾根が集まったような場所で50人くらいは腰を下ろせる場所で あった。方向指示板があり、高く積み上げた石の上に真新しいほこらがあった。  話によると、日本第2位の南アルプス「北岳」の高度を越すために、この石を積み上げ たとかいうことである。どちらでも良いのであるが、私にとっては、初めて3000メー トルの頂上に立ったことが、奥穂高登頂の意味であった。

                          

 頂上は風と霧に包まれていたが、時折晴れたりするのでいくぶんかはその光景を楽しむ ことができた。直進すると吊り尾根を通り、前穂高にいく道であり、何人かがその道を進 んでいった。右手にみえるのが、異様な山容の「ジャンダルム」であった。黒い巨大な塊 がもっこり盛り上がっており、まるで気難しい哲人のような雰囲気を持っていた。そこへ の道は限られた人々たちだけが通れる道である。山にはそんな特別な道があっても良いと 思う。限られた、選ばれた人だけが見ることができる光景、世界があっても良いと思う。

            

 寒いのでフリースと雨具を着込み、霧が晴れるのを待ったが、なかなか晴れず、頂上を 後にすることにした。
 しばらく下山していくと霧が晴れだした。目の前に涸沢岳がくっきり姿を現わす頃には すっかり雲が晴れてしまった。目の前に展開した風景に、何度も心のなかで歓喜の声をあ げた。
 もう一度頂上に向かおうと何回か思った。

 下山は登るときより緊張を増したが、テント場についたのは正午頃 だったと思う。

                                 

 テントにもぐりこんでひといきすると、知らないうちに眠ってしまった。