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法話「日々是道場」

平成13年11月1日

私は、26歳の時に十二指腸潰瘍で病んだ事があります。三日間で、85キロの身体が55キロまでなりました。驚きましたが、生きる事に対する執着心は、非常に強いものであることを知りました。病人は身勝手な事を考えがちですが、同時に自分の時間を持てる事もあります。患った時に、ニュ−ヨ−ク仏教会の故関法善先生から頂いたお言葉が「日々是道場」です。

数年前に日本は、世界一の長寿国となった新聞記事がありました。男性で78歳、女性で82歳の平均寿命だそうです。日本と比べ今アメリカと戦争状態にある、アフガニスタンの男性は43歳、女性は44歳だそうです。アフガン人から云えば、不公平だと言ってみたくなるでしょう。

しかし、長寿を手に入れた日本人は、本当に幸せと思っているでしょうか。日本の最近三間年の自殺者は、年間3万人を超えているそうです。長寿の日本人の人々が、幸せな人生観をもった生き方をしているとは、とても思えません。

数年前に、トヨタ自動車のクラウンという車が400万台を生産したと新聞に出ていました。ちょうどその頃には、戦後から避妊手術をした数が、既に400万件を超えていたとの事です。若者が少ない、少子化と社会問題にしながら、反面合法的に(仏教的見地から見れば)殺人を犯しています。人が次の生命の因を断つ事は、間違いなく殺人なのです。人は間違いをするといっても、殆どの場合は自分の都合です。間違って生まれてきた命というのであれば、仏教寺院に赤ちゃんを捨てればいいのです。僧侶であれば、その縁を生かす事に尽力します。それは、釈尊の教えでもあるのですから...。

最近思うのですが、どうやら、人には「平均寿命」という基準が、人生の幸せの目標値になっているように思えるのです。人は各自が自分勝手に寿命を予想し、心の底で個別の寿命目標数値を持って生きているようです。例えば、他人の死に接すると、ある人は「ここまで生かさせて頂いたら、幸せだったと思います。」とか「あまりに、早やすぎた。残念です」等‥様々な感想を語ります。これは、自分の各自の人生目標寿命に比べて、自分に向って言っているように聞こえます。

ある記事に、「人間は120歳まで生きる可能性がある」と書いてありましたが、殆どの人は百歳までは無理と思って生きています。しかし、現在日本で百歳を超えているのは、現在七千人を超えています。最高は114歳だそうで、驚きます。でも、長生きが人生の最大の幸せかといえば、そうとは言えないのです。私が今問題としたいのは、自分が心の中に思う自分自身の寿命の事なのです。

年を重ねると、時間の過ぎるのが早いといいます。ある学説によると、20歳と60歳の人の時間経過スピ−ド感覚を比較すると、60歳の人が20歳の人に比べ、3倍早く時の流れを感じている結論しています。もし、その人の人生目標寿命が80歳としたら、60歳の人は20年しかありません。それに比べ、20歳の人は60年もあるのです。当然時間に対しての心の在り方が違います。

世間でよく「三つ子の魂百までも」と云われる言葉があります。人の「魂=命」の重さを云っているのだと思います。それなら、心(魂)が人生を支配するということだという事になります。もし、自分の人生寿命目標を80歳としたら、身体もそれに追随することになってしまいます。人によっては、その可能性があることも否定できません。

生命は、心と体で成立しています。体が万全でも、心が病めば、やはり病人なのです。反対に体が病めば、それも病人なのです。お釈迦様は四苦の一つに「病」を挙げられています。

浄土真宗では、「無量寿の命に生きよ」と云いますが、僧侶自身の体験の言葉で語らないから、普通の感覚を持つ方には理解できないと思います。厳しい見方かもしれませんが、「仏法は道を求める者の上に宿る」といいます。求法の体験の無い場合は、例え知識や地位を得ていてもここまでで、前進が出来ません。ご法話の時に「報恩感謝」をせよと云っても、利己的な考えを持つ人には、理解できにくいのです。

 では、ここから具体的に、ご一緒に思惟するようにしましょう。まず、自分自身で具体的に教えを理解しようと努めて下さい。仏法は、自分自身で実際に体験(実験)をすることが大切なのです。これは私の恩師、故ニュ−ヨ−ク仏教会の関法善師の口癖でした。

 お釈迦様が初めてのお説教で、人が持つ四苦「生老病死」の事を語られました。そして、涅槃に入る前にも、四苦について触れ、チェンダを前に多くのお弟子たちに、生死の因果について語られました。私たちは、四苦を個別に理解して、自ら苦しみます。一つの生の中にある「四苦」と受け止めれば、見方も変わってきます。

 見方を変化させて見ましょう。先に言いましたが、人は心の中で「人生目標寿命」を定めようとします。わたしは、それを一つの心の病(煩悩)と考えるのです。では、私の自身心の底にある「人生目標寿命」を棄ててみる事にしょう。すると、「人の寿命、平均寿命」という言葉は、私に対して意味を持たなくなりますし、自分の寿命目標という重みが無くなります。言い換えると、私の持つ、人生の時間の束縛から開放されます。さらに、私を生かしているこの生命の根源(仏教では縁という)が見つめられます。私の生命は、様々なあ縁に拠って生じた命そのものである事が理解出来ます。そうすれば、私の生き方が、縁を大切にする生き方に変わります。私は、自由な寿命に縛られない、生き方をする事ができます。「過去、現在、未来」三世に通じ、与えられた命を喜んでいきる人生観を持つことができます。「無量寿を生きる」とは、(仏)縁を受け止めた人の生き方を云うのではないでしょうか。これで「日々是道場」と言われる関先生のお言葉が味わって頂けると思います。

仏の教えを私の生活の中に据えてこそ、縁を受け止められます。仏法の前には、僧俗の区別はありません。自分自身が仏教に出値(あ)うかどうかなのです。お釈迦様の教えておられるお言葉を、自らが聞いて、見て、理解し、そして(実)体験することが大切なのです。



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