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       (自律的と他律的な)
       
人の生き方

平成14年8月23日 

涅槃を前にして、お釈迦様が「自灯明 法灯明」と仏教者の生き方をお示しになられました。「自らを灯火とし、法を灯火として生きよ」と語りかけている事に対し、私たちは深心で受け止めているのでしょうか。

 一般社会では、「役に立つものほど価値が高い」と思っています。例えば会社で人を評価するときは、その人がどれだけ仕事の役に立っているのかを考えます。学校では「社会の役に立つ立派な人間になりなさいと」教えています。
 しかし、役に立つ人間像とは、時代や状況によって変化します。今役に立っている事でも、後では役に立たない事は、多くあります。又、その逆のこともあります。そのような変化するものに対し、時代の価値観に振り回されて生きるのは、大変しんどい事だと思うのです。

現在の乱れた日本の世相の原因を思惟してみましょう。明治時代から太平洋戦争終戦まで、日本国民に求められた生き方は、「天皇に忠を尽くし、親を敬い、国を守る等」でした。それらは、権力者が弱者に対して示された、他律的生き方であったと理解出来ます。時代背景からして、社会の中で個人の生き方が出来にくかったのも理解できますが、それによって何十万人の尊い命が失しなわれる時代を創りだされたのも事実です。他律的生き方は、一度間違いが生じると、個人ではどうにもなりません。

戦後マッカ−サ−は、教育の場から、「生き方」について考える教科を排除しました。これで他律的な生き方は無くなりましたが、自分の生き方について考える時間を持つ事もしなくなりました。

これが原因で、あの神戸の少年犯行事件以降、次々に事件が起こり、教育の場での若者の生き方が問題化しました。若者は、現実に苦慮するだけで、「あれするな、これするな」という大人の押し付けへの反発が生じます。以前の治安の悪いニュ−ヨ−クの町のようになって行きそうです。若者だけではありません。社会の責任ある立場の方も可笑しくなっています。中国での亡命事件。雪印、日本ハム等の経営者たち。それらの方々は、自分の生き方を持っていなかった事を感じます。いや「生き方」について考える時間を持とうとしなかったからと思えるのです。経済中心の価値観を持っているだけで、自分の生命のあり方を見つめることをしないのです。

宗教に対しても、その本質を見ようとしないから、大事でないものと過信してしまいます。勿論、程度の低い内容のものも有りますが...。私から見れば、そのような考え方を持っているほうが浅はかと思います。問題に立ち向かうには、自分の行き方を考える必要が生じます。

自分の生き方を持たない人の事を流転の身といいます。この世に頂いた命を大切に考え、世の中の価値観に振り回されず、自分で探求するしか道はありません。地位や、名誉や功績は役に立ちません。自らが正座するのみです。程度の低い思想は、迷うばかりで、自分を見失います。若者なら、名師に習う事も大切です。しかし、仏教を実体験していない迷師では、駄目ですよ。

自ら考えた自分の生き方を持つことで、仏教を聞いてけば、体験を味わう教えとなります。自律的生き方は、他律的な生き方に比べ、心が軽く自由です。自らの生き方を知っておくことは、自分にとって大切なのです。お釈迦様が「自灯明 法灯明」と云われたことを、心に留めましょう。正道を思惟して、歩みましょう。


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