『清野きみ先生の青春時代』

 
 私・おくむらと清野きみ先生との出逢いは、母校・西高の創立100周年記念誌編集事業の作業がスタートしてまもなくの頃である。同窓会で先生が「協力しましょうか?」とおっしゃったので途中からお願いした。
 私は、特に凄い人とは思っていなかったが(鈍感で・・・失礼)、周りの方が「凄い先生なんだ」とか「素晴らしい・・・」とか気を遣っていた。
 編集がスタートすると、驚くほど清野先生を始めスタッフがそれぞれの力量を発揮し、委員長の私を補助してくれた。お陰で恥ずかしくない100周年記念誌が完成した。
 これも清野先生のお陰と感謝していた。
 編集仲間から先生が『瑞宝中綬章』を叙勲したと知らされ、6月6日編集仲間を中心にささやかな「お祝いの会」を開催することとなった。
 その「お祝いの会」の”しおり”に清野先生が書いた『私の戦中・戦後ノート』を添付した。原本はもう少し長い文章なのだが、先生の許可をいただき、私が学術的なものをカットし短くまとめた。
 ぜひ戦中・戦後時代、活躍された清野先生の青春の1ページを感じていただきたいものです。一読下されれば幸いです。



          記:H20/5/29

【私の履歴 パートT】

私の戦中・戦後ノート

                        「道南女性史研究 第15号」(2005発行)より抜粋

 ◆  誕生

1927年(昭和2年)9月10日に函館市で長女として生まれた。函館には父の勤務地(八戸)変更のために住むようになった。父は遠洋漁業の大船団機械技師で、母は南部藩の紺屋の娘、東京裁縫女学校(現家政大学)に学んだ。3人男3人の6人きょうだいの長女としてすくすくと育ってきたが、30歳の時に父は他界した。
 小学生に行くようになってからは、洋服を着ていたのだが、田舎の祖母や叔母たちは遊びに来るたびに「あんたは幸せだ」という。「洋服をきているお陰で、劇になると男役に廻るのよ、何が幸せだって」と心で反発したものたった。
 結婚後、母が家に戻って弟たちを監督してほしいという。私の夫のほうは「はい」と答えたが、私は仕様がないなぁという気持ちで同居し、生まれた2人の男の子を可愛がってもらった。



 ◆  女学校入学

昭和15年、小学校の担任から庁立(北海道庁立函館高等女学校)を受けてよいと言われ、受験をした。この年の入学試験は当時「入学考査」と呼ばれ、面接試験が導入された最初の年次でひとつの変わり目の年であった。昭和15年入学、19年卒業生の私たちには、たかが面接試験、されど面接試験の思い出がある。
 入学してからは、颯爽とした気分で、人見町から千代ケ岱の電停へ、そして十字街で電車を降りて東本願寺の脇を抜け登校した。帰りは教会の石垣に添って、旧函館放送局の桜を観たり、真直ぐ近道をしながら坂を降りて帰宅した。今考えると、よく歩いたものだと思う


 ◆  援農

 2年生になると戦局は厳しくなる。当時援農の場所は、桔梗、上磯、久根別、七重浜での農園作業で、家の近くの人見町農園や他の学年では湯川造林所の角材運搬もあった。よく覚えているのは、人見町農園と七飯療養所の縫製作業である。技術を磨くために和服の早縫競争が裁縫時間にあり、製作時間を計られて、私は割と早い方だったと友達が覚えてくれていた。
 2年生の頃の学校誌「つゝじヶ丘 62号」に載った短歌を恥をしのんで掲げておく。

       ・ 新しき日記を買ひて嬉しさに開きて見つつまた閉ぢて見つ
       ・ 今日街で幼き頃の友と会い帰りて読みぬ古き日記を

                                 2年ホ組  山 中 き み


 ◆  受験

女学校を卒業して何になるか、在学中一度も考えたことがない。授業が面白く、関連する読書が好きで先生が口を滑らせて紹介する本でも探して読むといった具合であったから進路など真剣に考える心の余裕はなかった−と今でも考えている。
 卒業を控えたある日、担任の先生から女高師(東京女子高等師範学校)受験を進められた。それもいいかなと頷く少女時代である。「軍に働かせられるのはいやだなー」とふっと思って、上の学校を受験してもいいと思う気持ちになった。
 英語と数学は他府県受験者、特に東京の場合と比べると力を足さなければならないと教えられた。庁立の先輩で女高師に合格した例や、既に卒業して庁立の教員になられている諸先生からは温かく見守られたように思う。
 学科をどうするか、父は受験そのものに反対、母は自分が東京在学中にみた学校の生徒たちの例を引いて文学部系はいつ勉強しているかわからないからダメ、理系はとんでもない、医者は家族が大変だ、家政系ならよしということになった。第1次試験は学科、東京に集めるのは大変な時代になっていたから受験地は北海道の人は札幌でと全国ブロック別、北海道では28人受験し、2人が合格して東京での2次試験に臨んだ。そしておよそ学科教員全員(記憶では10人近く)が揃った席での面接試験で、どれもひとつひとつ覚えていて再現出来る程、緊張して受けた記憶がある。運よく4年生から入学することが出来たのだが・・・。



    女高師時代

 B29が東京爆撃を開始したのが昭和19年11月24日に始まり「中高校生の学徒が通年動員可」となったのもこの年の7月21日であった。
 家政科のクラスは留守部隊として2週間の援農を除き東京に残り講義を受けた。だが東京での空襲体験はすさまじいものがあった。
 休暇に入ると、ときに24時間かけても函館に帰ってきていた。よく青函連絡船を利用したものだとつくづく思うし、必ず大きなリュックを背負っていたから、バックひとつで旅をしたいと願う気持ちにもなっていた。結核で療養されていた先生にはバターを、友達にはするめをお土産にしていたので、いつの間にか私のニックネームは、“いかのおすまし”となってしまった。おすましというのは、あまりおしゃべりをしないからと言うことだそうだ。
 その頃先生方の講義はときに自伝ともなったりしてそれぞれの学問分野の深いところに触れたようで妙に魅力はあったが、それも昭和20年4月6日、寮が焼失し、4月13・14日には本校も焼失、分散疎開しても食料もなしで、各自帰宅して連絡がいくまで自宅待機することになった。


     自宅待機時代

 授業再開までの3ヶ月間函館での自宅待機は思いのほか充実したもので、母校の庁立高女には毎日通い、ある時は化学実験の手伝い、ある時は裁縫時間の個別指導、また家事室の備品の整理などだが、一見無機物には命がないようだが物性というものがあることや材料をあまり使わずに今でいうリサイクルにあたるソックス作りを指導してみたり、後輩の生徒たちとはすっかり仲好しになってしまった。その彼女たちが十勝管内芽室に援農に行くことになり、先生方の指導でそのお手伝いをすることになり同行していった。農業の仕事はつらいといえばつらいが防空壕も見当たらず、見渡す限りの青い空、落葉樹の美しさ、夜になると破れた屋根から月の光がさし込んで、まずは「海行かば」を合唱するが、そのあとは誰ともなしに、音楽の時間で習った歌の数々を大声で歌い合う、その楽しさは格別のものであり、先生方や生徒たちとの共同の生活の中で、私はきみ先生と呼ばれて付き合ってきた。ここはどこ?と聞きたくなるような静寂、畦道でお能やお仕舞いの足摺りの練習とその会話の楽しさをじっと聞いてきたことは、援農とはいえ一番心に残っている心象風景といえる。


    終戦、授業再開

 敗戦の知らせを聞き、学校から連絡が入って上京。3年生になって吹き出すような学校での文化活動、アカデミックな研究発表と演劇がとても盛大に催された。
 戦後の虚脱感、生命を守ってきた私自身がどう生活し、学問を追及するか、答えを求めてあちこち大学の講座や教授に会い、また多くの著書に触れ、週一遍開かれる女高師応接室でのCIE(※連合国最高司令部の文化・教育部門を担当していた民間情報教育局)での会議のお食事やお茶の接待(4年生であったから助手さんのお手伝いをさせられる)をこなし、『帝国女子大学』の構想に熱をあげたりした。
 ともかく、戦争が終って構内は花が咲いたように活気づいていった。後輩は、4年生の山中きみと私の友人のTは、早速パーマネントを髪にかけくっきりと口紅を塗って登校していたと評していた。藤村の初恋の歌をうたい、三木露風のふるさとを詠じ、啄木の「東海の・・・」をうたい、帝劇の赤じゅうたんを運動靴で歩き歌舞伎座通いをし、やがて友人らと社会科学研究会(顧問:波多野完治教授)の魁けを模索して真剣に学習し合う。戦後になって始めて自立への歩を進めることになる。


    就職、そして・・・

 昭和23年(1948)3月31日北海道第二師範学校文部教官(判任官)の発令を受け、4月1日から北二師女子部勤務となった。新学制による師範学校女子部のことで、新進気鋭の教師たちや勉強したくて集まった本科・予科の生徒らが生き生きと学舎を彩っていた。
 私はこの発令の前年の秋には、庁立函館高女と聞かされていたが、聞けば6・3・3・4制の学制の実施や男女共学実施の通達によって新制大学要員人事のためという。
 寒流と暖流の交差する豊かな海と心地よい潮風―函館の風土は好きだったので言われるままに着任した。しかし着任後の仕事は思いのほか多忙なもので、時間を惜しんでノート作りに精を出し、休暇は必ず上京して、研究会、夏期講習に参加し、ときに母校の先生方に内容を伺ったり、確認し合ってきた。とくに学生時代から続けて東大川島武宣教授の理論枠組みを勉強し、陰に陽に教えて頂いた。
 旧制から新制にわたって大学教育に携わった半世紀、多くの知人、会友、先輩、後輩の出会いがあった。埼玉大学と北海道教育大学の二国立大学名誉教授を頂き、学会の研究部会でも名誉会員に推挙され本当に有難いことと感謝している。いまはご恩にお返しのつもりでNPO法人のお茶の水女子大学学術事業会の終身会員として少しだけボランティアをしている。

―おわり―





TOP