想い出がみえる風景・・・その18
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| ◆「思い出の東川町17番地」は、今「東川町20番地」になっており、我が家も含めて壊された家もあり、その面影はほんのわずかしか残っていない。そんな「東川町17番地」は、私には小学校の入学(昭和26年)から卒業(昭和32年)まで位が、いわゆる「思い出」なのだ。 ◆我が家は、この地区の中心で番地も「17番地の1」であったが、この真ん中に立つ電柱の灯りの下で《縁台将棋》をやったり、”馬乗り”や”おしくらまんじゅう”や”缶けり”をしたりした。女の子は”縄跳び”や”ケンケンパー”などもやっていた。そして我が家の向かいは”たけしくん”の家で、隣が”たみちゃん”の家である。”ただおくん”の家は安田さんの床屋の隣であった。 ◆善光寺の正門の前に立っている電柱の下では”助け鬼”をしたり、またそこは紙芝居の定位置で、毎日夕方ちょっと前に来る。子供たちは長い飴とか形のとる小さなお菓子?や飴などゲームかな?を買って”黄金バット”とかを一生懸命見ていた。終わる頃にお袋が「ごはんだよー」と呼びにきてくれた。 ◆その他に、善光寺では広かったので”かくれんぼ”や”陣取り”などして遊んでいた。またコンクリートの床では白墨で色々なものを描いていた。また大扉にぶら下がって遊んで叱られたり、壁にボールをぶっつけてはキャッチの練習をしていた。時たまグリーンベルトで大人のチームが野球をしてたりすると、僕たちは善光寺の中で野球をして「中根さん」や「善光寺」のガラスを割って叱られてもいた。 ◆また当時、この17番地に2箇所位に共同便所があった(我が家は自宅便所だった)が、そのことも何故か頭で記憶している。しかも、この共同便所は私の高校時代にも無くならず使われていたような気がする。 ◆テレビが入った時の前後に、我が家にも水道が入ってきたと思うが(小学校6年生頃かな?)、それまで水は、天秤棒の両方にバケツを付けて『鉄管(水道)』まで汲みにいったものだ。そして自宅の大きな甕(かめ)に入れ替えておく。どこの子供たちの仕事でもあった。しかし中学生になってからも汲んでいたのかは定かではないが、いつも自分が汲んでいた記憶は強く残っている。 ◆「兄貴、グリーンベルトの処に”灰汁(あく)捨て場”があったよね」って弟が言ったが、それだけで懐かしく話が盛り上がってしまった。確かに、4面体の木枠だけの”あく捨て場”があり、冬に”石炭のあく”を捨てたものだ。そうだ、これも子供の仕事だった。 ◆それにしても「グリーンベルト」って、そう言えば、函館でしか聞いたことがない。他の地区でも「グリーンベルト」って言うのかな?と疑問が湧く。 ◆弟と話していると、忘れていたものが、湧いて出るように思い出される。その一つが瀬崎木材にあった『トロッコ』だ。瀬崎木材の作業場の中には歯のでっかい大きな丸い鋸ぎりが天井からぶら下がっており、丸太をチャーン!と音をたてて切る。切られた木材・加工された製材を”トロッコ”に乗せて、作業場の向かいの製材立て・置き場まで運んでいたと思うが、時たま使っていない時は、勝手に転がして遊んで、「怪我するぞー」と叱られていた。 ◆そうだ「グスペリがなる庭」もあったし、『川守田のサイダー工場前』には、ラムネ玉を拾いに行ったし、サイダーやラムネを買うと冷蔵庫から冷たいやつを出してくれ、自宅に冷蔵庫がない時代だから美味しく飲んだことを想い出す。 ◆弟の話では私はかなり悪ガキで「近所で有名だった」と私を脅して?いるが、さてどんな悪ガキであったか?(私は「いいほうだ」と自負しているが、弟が首を振っている)。「オクムラ家にそんな悪ガキはいないぞ!」と近所で言われていたが、「あれ?」と想い出して「あー、ひとりいた、いた」と想い出されたのが、私のようである。しかし本人は天然パーだから、悪ガキをした行動をまったく覚えていない。幸せ者である。 ◆クラス会や同期会もそうだが、一番おいしいところは、自分にはまったく記憶がないが、友達が○○さんって、こうだったよねー、ああーだったよねーと過去の未知な思い出や記憶を掘り起こしてくれると嬉しいものだ。 ◆ともあれ、この「東川町17番地」が原点である。もっと話が続くが、この程度でこの章は終わります。今度、時間のある時、「東川町17番地」を一回りしてみたいと思っている。 |
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