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辺りはすっかり闇に包まれていた。人々は仕事を終え、帰宅の途につくか、酒場に出かける時間である。商業港として発展著しいゲオーグだが、夜の灯りは存外少なかった。
マースは上着の襟に手をやって、ため息をついた。日も落ちて大部経つというのに、温度が下がらない。帝都の灼熱の暑さとは違う湿気を多く含んだ、ねっとりした空気が体にまとわりつく。
辺りにただよう海産物の臭いも、マースを萎えさせた。帝都が好きというわけではないが、ここに比べればましだった。あのからりとした空気が懐かしい。
マースは散漫になった精神を集中させようと、目の前の建物に目をやった。
三階立ての豪奢な建物。一年前に開かれたダンスホールだ。いたる所に装飾がほどこされ、正面の玄関には乙女の彫刻が左右に配置され、入り口のアーチの真上で手をつないでいた。建物は全体的に緑色で、頂部に丸いドームをいだいている。帝都で流行している古代ラムール風建築である。その美しい姿を誇示するかのように、外壁には数え切れぬ程の照明がおかれている。その照明によって、建物周辺の道も明るく照らし出されていた。
ダンスホールから二十メートル程離れた、道を挟んだビルの屋上に、マースは立っていた。
ダンスホールは異世界のようだった。美しく着飾った男女が馬車でやってきては、女神が手をつなぐアーチの下をくぐっていく。ダンスホールの中からは、歓声と音楽が絶え間なく聞こえてくる。
少し目をずらして、マースの立つビルの脇の道をのぞきこめば、道はごみで埋め尽くされ、貧民が路上で寝転び、気の荒い漁師達が酒に酔っ払って殴りあいの喧嘩をしている。
マースは、視線をダンスホールに戻した。三階の左から二番目の部屋を注意深く見つめながら、懐から黒い布を取り出し、口元を覆った。後ろで一つにまとめた長い黒髪を布の中に仕舞い込む。黒髪に黒装束のマースは、その鋭い眼光を除けば、闇に溶け込んでしまいそうだった。
体をかがめて三階を監視する。視線はそのままに腰に手を伸ばし、鞘から短剣を抜き放つ。後ろ手に短剣を持ち、刀身をなでて、そのまま鞘に戻す。
やがて、三階の部屋で変化が起こった。閉じられていた窓が突然開き、金髪の女が顔を出した。女はマースの方を見た。にやりと笑って、手にしたものをこちらに向かって投げつけた。
マースは身を軽くすくませたが、彼女が投げたものが彼に届くはずもなく、数秒後に遠くの方でがしゃんと何かが壊れる音がした。
女はすぐに窓から離れ、マースからは見えなくなった。
マースは屋上の端から、かがんだまま静かに後ろに下がった。
十歩程後退した時、ダンスホールの奥から大歓声が沸きあがった。
標的、ロイサー・ロイド。港町ゲオーグ出身の大商人。
彼の命は、この大歓声の数分後に途絶える事になっている。
「いい夢を見ろよ」
マースはすっと身を起こすと、全速力で走り出した。瞳はまっすぐに三階のあの部屋だけを見ている。屋上の端に来た時、彼は力強く地面を蹴った。
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