を踏み越えて 第一章着地点  前頁 次頁 作品一覧


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 ゲンシルクはばつが悪そうに、マースから目をそらした。金色の髪を指にからませながら、「ああ、それはー」と言ったきり黙ってしまった。マースはゲンシルクの方へ一歩近づいて言った。
「十年の同室のよしみだ。今、言うんだったら殺すのだけはやめてやろう」
「ちょっとちょっと。私はただのルームメイト、それだけなの? もうちょっと待遇をよくしてくれてもいいんじゃない?」
 マースが無言で腰の剣に手をのばすのを見て、ゲンシルクは慌てて一歩踏み出して、マースの耳元に囁いた。
「明日の午後、陛下はラムール神殿を見学する予定で、マースにその護衛命令が出ている」
「何だと?」
 にやにやと笑っているゲンシルクを睨みつけながら、マースは舌打ちした。
 皇帝ソリシエンは、数年前から亡国ラムールの文化にご執心だった。エンシューゲワインの収集、ラムール風の服、宝石、ラムールに関する文献とラムールに関係あるものだったら何でも集め、ラムールの神々にまで興味を示し、ついにはラムール神殿を作り始めてしまった。イージェル帝国には国教カレー教があるにも関わらずである。当然カレー教の神官の反感を買い、建設中のラムール神殿の前では、カレー教の神官達が連日抗議演説をしている有様で、治安はあまりよくない。また、宮廷から神殿へは市街地を通らなければならない。どこに刺客が潜んでいるかも知れず、危険が多い。護衛はいくらいても足りないだろう。副隊長が頭を抱えている様子が容易に想像できた。
「よく周りの連中が許したな」
「誰も陛下には逆らえないって。それよりマース、宴を楽しもうよ。どうせ私達はここから逃げる事は許されないんだから」
 ゲンシルクは自分のグラスをマースのグラスに打ち付けた。ゲンシルクの頬が赤く染まっている。「逃げる事は許されない」という言葉が妙にマースの耳に残って、マースは口の中に砂が入ったような気分になった。重く沈みそうになる気持ちを打ち払うかのようにワインを喉に押し込む。甘酸っぱいはずのワインが何故か苦く感じた。



 オベロンは、部屋に入ると同時にソファに倒れこんだ。
 長靴を脱ぎ、窮屈な襟止めを外して、開放感を味わっていると、扉が急に閉まった。
 日が暮れたばかりの室内は薄暗く、扉の方は何も見えなかった。オベロンは視線を天井にやって呟いた。
「誰だ?」
「私ですよ、大佐」
 予想通りの声に、オベロンは満足した。
「ふん。アリエストロ、お前か。急ぎの用か?」
「ええ。まずは遠征の大勝利おめでとうございます」
 久々に帝都に帰ってきて、戦地での報告を大方済まし、堅苦しい宴も終え、ようやく職務から解放された所だった。オベロンは一刻でも早く戦地ですり減らした神経を癒したかった。オベロンの声は自然と苛立ちを含んだものになる。
「うむ。だが今は報告が先だ。帰ってきた早々お前が来るとはな。どうせ悪い知らせなのだろう? アレが何か問題でも?」
 着ているものを全て脱ぎ捨て、風呂場へ向かう。
「アレは順調だそうですよ。エーゲストーン殿の話ではね」
 侍従が用意した湯に、腰までつかる。熱い湯が疲れ切った体を芯からときほぐす。
「では何なのだ 」
 一向に本題に入る気配のないアリエストロにオベロンの苛立ちは募った。極上の酒と女の柔肌が待っている。オベロンはそれらを思い浮かべるだけ息が荒くなるほど、欲していた。が、アリエストロの言葉を聞いてオベロンは凍りついた。
「ロイサー・ロイドが死にました」
「ロイドが……? 病気か」
 オベロンは舌打ちした。口の中に砂が入ったようだ。
 ロイドは、北方遠征前にオベロンに資金提供を申し出ていた男だった。
「殺されたと言うべきでしょうか……」
 アリエストロの歯切れの悪い返事に、オベロンは苛立ちよりも不安を感じ始めた。アリエストロはどこか不真面目な雰囲気が漂う男だが、優秀な部下だ。普段はもっと簡潔に報告をする男だった。
 オベロンは蝋燭に火を灯そうと、マッチをこすったがなかなか火はつかなった。十回程こすってようやく火がついた。ようやくついた火だというのに、蝋燭にたどり着く前に消えてしまった。もう一度火をつけようとするが、今度はマッチ箱が見つからない。
「どういう事だ?」
「妙なんです。ロイドは錐のようなもので胸を刺されて死んでいました。死んでいたのはダンスホール三階の個室。三階が最上階で、二階から三階へ続く階段には警備の者が二名。誰も犯人らしき人物を見ていない。部屋のドアは中から閂がかかっていた。出入りできるとしたら窓のみです。もっとも、三階ですし、隣のビルは二十メートルも離れていますから、窓から侵入しようとしても無理ですがね」
「誰も殺せないという事か」
 オベロンは自分の運の悪さを呪った。なぜよりによって自分の支援者が怪事件に巻き込まれなければならないのだ。
「そうなりますね。普通の人間には。街の者は神の祟りなどと言っていますが……。神は錐なんて使わないでしょうから、そういう風に思わせる人間がやったのでしょう。実は、ロイドのように密室で殺された人間は調べれば結構いるんです。こういう殺人事件は十年位前からあるみたいなんですが、警察は全くのお手上げ状態。それで別ルートから調べてみたら、犯人とは断定できませんが、それらしき人物がわかりました」
「誰だ?」
 オベロンはごくりと唾を飲み込んだ。アリエストロの情報収集能力にはいつもながら驚かされる。
「死神《キッケルト》と呼ばれる暗殺者です。昔はラムール教なんて流行ってなかったから、ただ死神≠チて呼ばれていたみたいです。彼には特殊な能力があって、密室でも人を殺せるらしいのです。時には暗殺者殺しもするようで、暗殺者にも恐れられているようです」
 オベロンはしばしの間、マッチをこする事を忘れて呆然とした。湯の温度が下がり始め、オベロンは軽く身震いした。
「馬鹿げている! そんな事ができるはずないだろう」
「ですが、ロイドは殺されたのです。誰も入る事ができない場所で。私は死神《キッケルト》がやったと思っています」
「仮にその死神《キッケルト》に特別な力があったとしよう。だが、なぜそんな奴がロイドを……? 一体誰が依頼をしたんだ」
 忌々しいラムール教の神の名を聞くだけで虫酸が走るのに、それがオベロンの計画を阻害している。オベロンは怒りで奥歯を軋ませた。
「さあ。それまではわかりかねます」
 やっと点いた火で、アリエストロが肩をそびやかしたのが見えた。

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