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北方遠征成功を祝う宴は昼過ぎに開始された。始まったばかりだというのに、大広間は人で溢れていた。客の大半はえんじ色の軍服を着た北方遠征に参加した兵士達だったが、貴族や役人も多い。人々の群れから離れ、青色の近衛の制服を着たマースとゲンシルクがぽつりと、ワインをすすっている。近衛隊から正式に出席しているのは二人だけだった。
「皆さん、久々の人界とあって、ご機嫌そうだねえ」
大広間には皇帝夫妻もミハエル将軍もまだ姿を現していない。そのせいか、人々は思い思いに酒を飲み、道化師の披露する小話を聞いたり、和やかに歓談している。
「お前、飲みすぎるなよ」
既にワインを何杯か飲み終え、頬をピンク色に染めたゲンシルクに、マースは静かに言った。
「はいはい。わかってますって。子供じゃないんだから」
と、言葉とは裏腹に新しいワインをウェイターから取ろうとする。マースがそれを止めようとして立ち上がった時、赤髪の女性がマースとゲンシルクの間に飛び込んできて、ゲンシルクにぶつかった。
「ごめんなさい」
「おっとっと。危ないなあ。おや……これは可憐なお嬢さんだ」
ゲンシルクはぶつかった衝撃でグラスの中で大きく波打つワインをこぼさぬよう器用に持ちながら、目の前の女性に微笑みかけた。ゲンシルクは吸い寄せられるように彼女を見つめた。
「ワインが君の美しいドレスを汚していないといいのだけれど」
そう言ってゲンシルクは、さりげなく手をのばし、女性の乱れた髪を直してやった。女は、端正な顔立ちのゲンシルクに近寄られても、物怖じせずに逆にじっと見つめ返した。ゲンシルクを見つめるその瞳は、トパーズのようにきらきらと輝いていた。ゲンシルクは熱のこもった瞳で彼女を見つめているが、女の瞳は冷静そのものだ。
ゲンシルクは、ウェイターから新たにグラスを取り、女に差し出した。
「よろしければお近づきの印に乾杯でもしませんか?」
「折角ですけど、急いでいるので遠慮するわ。お心遣いありがとう」
女は一礼すると、大広間の奥へ向かって走っていき、二つのグラスを持ったゲンシルクが取り残された。
ゲンシルクは落胆した様子を見せずに、テーブルに戻って左手に持っていたグラスをマースの前に置いた。
「お前が女に相手にされないなんて珍しい事もあるもんだな」
「何それ? 私に対するひがみ?」
「俺が?」
マースはせせら笑った。ゲンシルクの事は、彼がまだ子供だった頃から知っている。出会ったばかりの頃のゲンシルクはやせ細った少年だった。常に怯えたような瞳をして、マースの背中に隠れていた。
「昔の話だけはよしてよね」
妖しげに微笑するゲンシルクは自信に満ち溢れ、当時の面影はない。
突然、喧騒がふっと収まり、大広間に澄んだ女の歌声が響き渡った。その声は高すぎず低すぎず、優しく耳に入り込んで聴衆を魅了した。場内の人々は目の前の美食を味わう事も忘れ、女神のような美声に聞きほれている。
歌っているのは、驚いた事に先刻ゲンシルクにぶつかった赤髪の女だった。遠目でもその赤い髪は燃え立つ炎のようで目立った。
女が歌っているのは、サルンデルの大地を湛える歌だった。女が歌い終え、場内はしんと静まり返った。静寂の中、歌手に向かっていく男がいた。鮮やかな赤のローブをひるがえし、颯爽と歩いていく。群集が膝を折って次々と礼をする。皇太子ルクセンである。歌手の前に来ると、ぐるりと観衆を見渡し、
「素晴らしい歌だった。我らが母サルンデルは永遠に偉大だ」
と言って大げさに手を打った。皆がそれにならって手を叩いた。皇太子のすぐ後ろにはいつの間にか、軍服を着た小太りの男が立ち、一緒に拍手していた。
「戦地においても、かような美しい歌声を聞きたかったものですな」
「ああ、オベロン大佐、今回の戦はご苦労でしたね。ここにいる皆もイージェルのためによく戦ってくれた。乾杯は父上がいらっしゃるまで取っておいて、ここでは君達の活躍に拍手を送りたい」
大広間を割れんばかりの拍手と歓声が覆った。
ゲンシルクは手も叩かずに肩をすくめると、テーブルの真ん中からローストチキンを取った。
「あの子の歌、もっと聞きたかったな」
「全くだ。オベロンの奴、帰ってきて早々にでしゃばりおって」
マースとゲンシルクの間に、青い軍服を着た男が立っていた。大きな紙を顔の前に掲げて、顔を隠している。
「何やっているんですか、隊長」
ゲンシルクは冷めた視線を紙で顔を隠した男に送った。
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