「あ、見て! 秋月サン!」
不思議なことに、どんなに小さな声の噂話やヒソヒソ話でもキャッチ出来るアンテナを、男性は持っていないが女性はだいたい持っている。
まあそれはただ単に、女性の方がそういった類の話が好きだからなだけかもしれないが。
「え、月面支部の? どこどこ?」
「本当だあ、相変わらずカッコイイ〜! 背、高いよねえ、こっち向かないかな?」
ひそめた声でキラキラと飛び交う賛辞。雨宮は隣を歩く同僚の男をチラリと見て、肩をすくめた。
「ほんと、人気あるわねー……」
「何の話?」
噂されている張本人の秋月は訝しげな顔をする。聞こえているのか、いないのか、それとも聞こうともしていないのか……
「アンタがどこでも目立つ、って話」
「はあ」
「しかも言い寄る女は、あんまり拒まないしな」
秋月の左隣、同じく同僚の坂城がポケットに手を突っ込んで茶化す。その言葉に秋月はフンと鼻を鳴らした。
「そんなことありませーん」
「今は、だろ。まったくモテる男ってのはこれだから、ヤダヤダ」
大げさに首を振る坂城を、小さく蹴り飛ばす真似をする秋月。暴力反対、お前がいらないこと言うから、などと騒ぐ男共を尻目に、雨宮はため息をついた。
噂されるのもわかる、確かに秋月はなかなかの美形だ。すらりとスタイルもいいし、一見やる気がなさそうだが仕事も出来る。最初はとっつきにくい印象を受けるものの、話してみればそんなこともない。
適度に遊んでくれるが必要以上に軟派でもなく、マイペースを保った穏やかな青年とくれば人気が出るのも当然と言えるだろう。
「まあ実際、アンタみたいな優良物件がフラれるなんてあんまりないでしょ」
「なにそれ、遠まわしな嫌味?」
「違うってば。もう、神経質になっちゃって、やーねえ」
雨宮が手を振ると、ニヤリと坂城は笑う。
「けどイヤミの1つも言ってやりたくなるよな。外から見れば羨ましいほど相手に事欠かないのに、それを全部袖にして、一途な片思いしてるってんだぜ」
悪いか、と秋月はジロリと睨む。その視線から逃げるように坂城はエレベーターホールに飛び込んで『下へ』のボタンを押した。
3人で乗り込むと、透明なエレベーターからは夜の始まりの街が見える。今日は週末、この貴重な時間を無駄にすまいと人々は家路を急いでいるようだ。
秋月は腕時計にちょっと視線をやると、唐突に途中の階のボタンを押した。
「俺、後から行くから。いつもの店でいいよね」
「おう、そのつもりだけど……何? 秋月、まだ何か仕事残ってんの?」
「バカね、この流れで悟りなさいよ! 開発部に寄るに決まってんでしょ」
きょとんとした顔の鈍い坂城。うんざりした調子で雨宮が突っ込むと同時に、エレベーターの扉が開いた。
「あ、あーハイハイ、そうですか。はあ、お前もマメになったねえ。わかったよ、先に行ってるから」
1人エレベーターを降りた秋月にヒラヒラと手を振ると、坂城は開閉ボタンを押す。ドアが閉まる直前に、まったく普段の秋月からは想像つかないよなあ、と呟きが聞こえたのは気のせいではなかろう。
言われたって仕方がない、というか何とでも言え。
呟き返して、秋月はホールを抜けて歩き出す。開発部のある階層は資料室が多いせいか、ついているライトも少なくシンとしていた。
そこだけ明るい廊下の先、広いフロアの一角に陣取った開発部の扉は開いていて、ひょいと覗き込めばまだ数人のスタッフが残っている。
沢山の機材やら、コード、ファイルが無節操に並べられて一風変わった空間。その奥に目的の人を見つけ、秋月が何となく姿を目で追っていると、当人がすぐに気がついた。
「秋月さん? 本部にいらしてたんですね」
名前を呼んで、駆け寄ってくる顔が嬉しそうだ。開発が順調なのだろうか。
「こんばんは。そろそろ帰る時間かと思って寄ってみたんですけど」
「あ、ハイ。丁度まとめてるところでした」
「良かった。俺、今から飯なんですけど、よければ一緒にどうですか?」
にこ、と秋月が笑いかけると、彼女は目をぱちくりとする。
「え、その……」
「雨宮や、坂城もいますよ。先に店に行ってます」
「そうなんですか? えっと、じゃあ、ご一緒させて下さい」
雨宮達も一緒なら構わない、というようなその返事が秋月の胸にはちょっと痛かったが、頷いてくれたのだ、よしとしよう。
「じゃあ少し待っていただいていいですか? あと簡単な片付けだけ……」
「ああ、いいよ仁科。せっかく秋月さんも来てくれたんだし、あとやっとくから、もう上がりなよ」
彼女の先輩だろうか。秋月も何度か見かけたことのある人が、横から声をかけてくる。
「いいんですか?」
「平気平気。ほら、あんまり待たせちゃ悪いだろ」
「す、すいません。じゃあお先に失礼しますね」
先輩にぺこりと頭を下げると、自分の荷物を持って、仁科は開発部から出てきた。にっこりと笑うその顔に、秋月は思わずドキリとしてしまったが、あくまで平静を装って。
「じゃあ行きましょうか。あ、ファイル持ちますよ」
「え、いえいえ! 大丈夫ですよ、これくらい!」
慌てる彼女にちょっぴり苦笑しながら、2人で廊下を歩き出す。
並ぶと仁科は秋月よりもだいぶ背が低い。くるくると変わる表情を見逃したくなくて、秋月はもう少し自分が背が低ければ良かったのになあ、などと考えてしまった。
先刻、坂城達と別れて1人で降りたエレベーターホールに、今度は仁科と一緒に立つ。エレベーターを待つ間、他愛もない話をすれば彼女は楽しそうに相づちを打った。
仁科は聞き上手だ。もちろんそれは秋月が彼女と話すのが好きだから、というのもあるかもしれないが、他の人達も彼女と話しているときは楽しそうなので、欲目ばかりではあるまい。
エレベーターに乗ると、ガラスの向こうに広がる街には、先程よりもさらに人の姿が増えている。
外から流れ込むビルやライトの明りが、2人を淡く照らした。
「いつものお店ですか?」
「うん、そう。坂城の奴、あそこの料理好きだから」
ああ、あそこのホワイトソースおいしいですよねえと言う彼女に、秋月は頷く。
秋月が仁科に出会ったのは数年前。何のことはない、よくある仕事上のやりとりで知り合った。が、秋月は最初、ごく一般的でこれといって特徴もない仁科に、取り立てて興味はなかった。
真面目でひたむき、でも芯は強くて、とても優しくて。本当に些細なきっかけで気付いた意外な一面から、彼女のことを知りたくなった頃には、その気持ちがもう手に負えなくなっていた。
1年は忍ぶ恋とやらをしてみたが、すれ違うたびに指先まで緊張している自分に気付いて、早々に無理だと悟った。まさか自分がこんなに女々しかったとは。
「……」
秋月の斜め前に立つ仁科の華奢な首筋に、うっすらと夜色が映る。
特別美人なわけではない、けれど真っ直ぐな心を持った人。穏やかな瞳、あどけない横顔。
幾度か口にしたけれど、それでも自分の中のそれを改めて確信してしまって、この柔らかな雰囲気に期待する。図らずも訪れた2人きりの閉鎖空間に、気持ちが言葉の形をとって口から出た。
「仁科さん」
「はい」
「好きですよ」
唐突な秋月の声、聞き間違いもないような言葉。仁科がロボットのようにぴたっと固まるのがわかる。
「好きです」
「はあ、え、えっと、私も秋月さんに憧れてます」
「そうやって、いつもはぐらかす」
いつもと同じ、社交辞令のような返事に、秋月は小さく笑って息をつく。
「本気なんですから、俺」
「……」
「いつまでも、気付かないふりしないで」
目の前の小柄な姿。とぼけた声で知らないふりをする背中。
どんなに他の人達に噂されようが、優良物件扱いされようが、この背が振り返らなければ何の意味もない。
「秋月さん、結構冗談好きだから」
「本気ですって。何度言わせるんですか」
いっそのこと強く抱きしめてしまえば、信じてもらえるのかなあ。そんな考えが一瞬秋月の脳裏を過ぎったが、拒まれるのが怖くてそれも出来ない。
まったく自分も臆病になったものだと首の後ろを掻いた。
こんなに好きだと思う。でもこんなに伝わらない。大切にしたいと思えば思うほど、踏み込めない。
ああ、もっと感情に対して真面目に生きてくれば良かった。そうしたらこんなに本気になってしまったとき、何と言えば伝えられるのか、知っていたかもしれないのに……
思考迷路で彷徨うエレベーターの中に、ポーン、と目的のフロアに到着したことを告げる音が響いた。
開き始めた扉の前で、ちらりと仁科が振り返る。
「……」
「えっ?」
彼女の言った言葉がはっきりとは聞き取れなくて、秋月は問い返した。
「なんでもありません、行きましょう!」
扉の向こうに広がる街に、仁科は歩き出す。慌てて後ろから追いかければ、表情は見えないけれど彼女の耳が赤くなっているように見えるのは……気のせいだろうか。
聞き違い? もしそうじゃないのなら。秋月の歩調が、鼓動と共に早まる。
「ねえねえやっぱり、このまま2人だけで他のところに食べにいきませんか?」
「何言ってるんですか、雨宮さん達待っているんでしょう」
隣に追いつき秋月が調子にのって誘えば、拗ねたように口を尖らせて反論する。そんな可愛い姿を見せられたら、もうあんまり長くは待てそうにない。
けれどこの甘い距離感と片思いの空気に浸る時を急いでしまうのも、少し怖くて、もったいなくて。
「矛盾してるなあ」
何がですか、もう、と膨れる仁科に、秋月は笑って一緒に歩いていく。
シアワセのカケラが、少しずつ繋がる。笑顔だとか、2人きりのエレベーターだとか、貴方の、照れたような言葉で。
その先にある答えを知りたいけれど、今は並んで話すこの時間がひどく愛おしくて大切だから。
流れる雑踏の中で彼女の声だけを掬い上げるように聴きながら、この気持ちの中をもう少しだけ漂っていよう……そんなふうに秋月は思った。