3 元禄文化


(元禄文化)

17世紀半ばから18世紀はじめ、幕藩体制が安定し町人の台頭がめざましくなってきた時代にうまれた元禄文化(げんろくぶんか)は、鎖国の時代を反映して外国の影響の少ない、日本独自の文化をうみだすことにもなった。
元禄文化の目立った特色は、現実主義の傾向が示されていることで、政治と結びついて儒学が奨励され実証主義の立場にたつ古典研究や自然科学の学問が進んだことである。また現世を「浮き世」とみて、町人の中から現実社会を描こうとする文学がうまれた。元禄文化の主な担い手は、京都・大坂などの上方の豪商で、豪華な桃山文化や江戸初期の文化の伝統をうけつぎ、より洗練された美しさをあらわした。


(元禄期の文学)

元禄文化の特色は、上方を中心とする町人文芸で井原西鶴(いはらさいかく) (井原西鶴人物)松尾芭蕉(まつおばしょう) (松尾芭蕉人物)近松門左衛門(ちかまつもんざえもん) (近松門左衛門人物)に代表される。
井原西鶴は大坂の町人で、浮世草子(うきよぞうし)(*1)とよばれる小説を書いた。現実肯定の立場から「浮き世」の世相や風俗を描き、町人が愛欲や金銭への執着を見せながら、みずからの才覚で生きぬく姿を赤裸々に写しだした。
松尾芭蕉は伊賀の武士出身で、さび・しおり・細みで示される幽玄閑寂の蕉風(正風)俳諧(しょうふうはいかい)を確立した。彼は各地に旅をして地方の武士・商人・地主たちとまじわり、「奥の細道」などのすぐれた紀行文も残した。
近松門左衛門は京都近くの武士の出身で、当時流行していた人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)や歌舞伎(かぶき)の脚本を書いた(*2)。世俗の出来事や歴史を題材にとり、義理と人情との板ばさみに悩む町人の姿を美しく表現した。彼の作品は竹本義太夫(たけもとぎだゆう) (竹本義太夫人物)らによって語られた。竹本義太夫の独特の語りは、義太夫節(ぎだゆうぶし)という独立した音曲に成長していった。
歌舞伎も民衆の演劇として発達し、江戸・上方には常設の芝居小屋がうまれた。江戸に勇壮な演技(荒事)で好評をえた市川団十郎(いちかわだんじゅうろう) (市川団十郎人物)、上方に恋愛劇での男性役(和事)を得意とする坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう) (坂田藤十郎人物)、女形の代表とされる芳沢あやめ(よしざわあやめ) (芳沢あやめ人物)らの名優が出た。

(*1)「好色一代男」(こうしょくいちだいおとこ)などの好色物や「武道伝来記」(ぶどうでんらいき)などの武家物、「日本永代蔵」(にほんえいだいぐら)「世間胸算用」(せけんむなざんよう)などの町人物がある。
(*2)「曽根崎心中」(そねざきしんじゅう)など世相を題材にとった世話物、「国性爺合戦」(こくせんやがっせん)など歴史的ことがらを扱った時代物などがある。

資料: 元禄期の文学


(儒学の興隆)

上下の秩序を重んじ、礼節を尊ぶ朱子学(しゅしがく)の思想は為政者に歓迎され、封建社会を維持するための教学とされ、なかでも藤原惺窩(ふじわらせいか) (藤原惺窩人物)以来の京学の系統は篤く保護された。
南村梅軒(みなみむらばいけん) (南村梅軒人物)によってひらかれ、谷時中(たにじちゅう) (谷時中人物)にうけつがれた南学(なんがく)も朱子学の一派で、山崎闇斎(やまざきあんさい) (山崎闇斎人物)野中兼山(のなかけんざん) (野中兼山人物)らの人物が出た。とくに闇斎は神道を儒教流に解釈して垂加神道(すいかしんとう)(*3)を説いた。
朱子学に対し中江藤樹(なかえとうじゅ) (中江藤樹人物)や門人の熊沢蕃山(くまざわばんざん) (熊沢蕃山人物)(*4)は、明の王陽明にはじまる陽明学(ようめいがく)を学んだが、現実を批判して知行合一(ちこうごういつ)の立場で矛盾を改めようとする革新的精神をもっていたので、幕府に警戒された。
また、孔子・孟子の古説に直接たち帰って考えようとする古学派(こがくは)がおこった。山鹿素行(やまがそこう) (山鹿素行人物)(*5)は、幕府の処罰を受けたが、伊藤仁斎(いとうじんさい) (伊藤仁斎人物)東涯(とうがい) (伊藤東涯人物)父子は京都の堀川に私塾古義堂(こぎどう)を、荻生徂徠(おぎゅうそらい) (荻生徂徠人物)は江戸に私塾けん園塾(*1)をひらき講義した。またその弟子の太宰春台(だざいしゅんだい) (太宰春台人物)は徂徠の経世論を発展させ、武士が商業活動を行い専売制度によって利益を収めるべきであると主張した。

(*3)垂加は闇斎の別号。道徳性が極めて強く、神の道と天皇の徳が一体であることを説くことから、闇斎一門の崎門学(きもんがく)は尊王論の根拠ともなった。
(*4)蕃山は政治批判のかどで幕府により下総古河に幽閉され病死した。主著「大学或問」(だいがくわくもん)は幕政に対する強い批判を含んでいたため長く出版されなかった。また、古代中国の道徳秩序をうのみにする儒学を死学であると批判した。
(*5)朱子学を攻撃し、古代の聖賢にたちもどることを主張した「聖教要録」(せいきょうようろく)を刊行したため、幕府によって赤穂に流された。また、日本を中朝・中華とみなす立場から「中朝事実」(ちゅうちょうじじつ)をあらわした。
(*1)「けん」の漢字は、草かんむりに左側に言、右側にの爰を書きます。

資料: 儒学者系統図


(諸学問の発達)

儒学の発達は、合理的・現実的な思考を発達させ他の学問にも影響を与えた。歴史学では儒学者の手により、古文書を引用した実証的な研究が行われるようになり、新井白石(あらいはくせき) (新井白石人物)は「読史余論」(どくしよろん)をあらわし、武家政権の推移を段階的に区分して独自の史論を展開した。
自然科学では、本草学(ほんぞうがく)(*6)や農学・医学などの実用学問が発達し、貝原益軒(かいばらえきけん) (貝原益軒人物)の「大和本草」(やまとほんぞう)、宮崎安貞(みやざきやすさだ) (宮崎安貞人物)の「農業全書」(のうぎょうぜんしょ)などがでて広く利用された。また、土地の測量や土木工事の必要から和算(わさん)も発達し、関孝和(せきたかかず) (関孝和人物)は筆算代数式のあらわしかたと計算法や円球に関する計算を考えるなどすぐれた研究をうみだした。天文・暦学でも安井算哲(やすいさんてつ) (安井算哲人物)が、日本ではじめての暦(貞享暦(じょうきょうれき))をつくった。
国文学の研究もはじまり、戸田茂睡(とだもすい) (戸田茂睡人物)は和歌を詠むのに使用してはならない言葉を定めたことの無意味さや、和歌に俗語を用いることの正当さを説いた。「万葉集」を研究した僧契沖(けいちゅう) (契沖人物)は、「万葉代匠記」(まんようだいしょうき)をあらわして、和歌を道徳的に解釈しようとする従来の説を排斥した。また北村季吟(きたむらきぎん) (北村季吟人物)も「源氏物語」や「枕草子」を研究して、作者の意図を探ろうとした。これらの古典研究は、のちに古代精神への探求に進み、国学(こくがく)として成長することになった。

(*6)本草とは薬のもととなる草を意味し、本草学は植物・動物・鉱物の薬用効果について研究する学問であるが、しだいに博物学的色彩を加えた。


(元禄美術)

絵画では狩野派がおとろえ、大和絵系統の土佐派からでた土佐光起(とさみつおき) (土佐光起人物)が朝廷の絵師となり、住吉派の住吉如慶(すみよしじょけい) (住吉如慶人物)具慶(ぐけい) (住吉具慶人物)父子は幕府の御用絵師となって活躍した。民間では尾形光琳(おがたこうりん) (尾形光琳人物)がでて、装飾的な表現で上層町人の間で観賞された。
庶民にもっとも愛好されたのは、美人・役者・相撲などを題材とした浮世絵(うきよえ)であった。とくに菱川師宣(ひしかわもろのぶ) (菱川師宣人物)が江戸で浮世絵版画をはじめると、いっそう人気をえた。工芸でもすぐれた作品が多くつくられ、京都の野々村仁斎(ののむらにんせい) (野々村仁斎人物)が上絵付法をもとに色絵を完成して京焼(きょうやき)の祖といわれ、尾形乾山(おがたけんざん) (尾形乾山人物)はこの流れをくんで装飾的で高雅な陶器を残した。染物では宮崎友禅(みやざきゆうぜん) (宮崎友禅人物)友禅染(ゆうぜんぞめ)をはじめた。


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