3 化政文化
(化政文化)
江戸は上方と並ぶ全国経済の中心地に発展し、多数の都市民を対象とする町人文化が最盛期を迎えた。この時代の文化は化政文化(かせいぶんか)とよばれる。あいつぐ改革の厳しい統制の中で退廃と無気力の傾向にみち、それを風刺や皮肉の文芸として発散させ、人々は愛欲と笑いをもとめる方向に向かった。都市の繁栄、商人・文人の全国的な交流、出版・教育の普及、寺社参詣の流行などによって中央の文化は各地に伝えられ、文化の内容も多種多様のものとなった。
(化政文学)
江戸時代後期の文学は政治や社会のできごとなどがさかんに題材とされ、元禄文学に比べて通俗的となったが、一部の人の独占物ではなく広く民衆のものとなっていった。
小説では、浮世草子がおとろえた後、挿絵で読者をひきつける草双紙(くさぞうし)や、江戸の遊里を舞台に男女の会話を描く洒落本(しゃれぼん)が流行した。しかし洒落本は、代表作家である山東京伝(さんとうきょうでん)
(山東京伝人物)が寛政の改革で処罰されるとおとろえ、かわって滑稽さや笑いをもとに庶民の軽妙な生活を生き生きと描いた滑稽本(こっけいぼん)が盛んになり、式亭三馬(しきていさんば)
(式亭三馬人物)や十返舎一九(じっぺんしゃいっく)
(十返舎一九人物)があらわれた。恋愛を主題とした人情本(にんじょうぼん)も庶民に受け入れられ、天保の初め頃には為永春水(ためながしゅんすい)
(為永春水人物)がでたが、天保の改革で処罰された。また歴史や伝説を素材として、勧善懲悪を説く長編小説の読本(よみほん)は寛政の改革後にさかんに読まれ、上田秋成(うえだあきなり)
(上田秋成人物)がでて、その後滝沢馬琴(たきざわばきん)
(滝沢馬琴人物)の「南総里見八犬伝」などの作品があらわれた。これらは空想的で現実性にとぼしかったり、芸術性にかけるところがあったが、多くの人に親しまれた。
俳諧では、18世紀後半の天明期に与謝蕪村(よさぶそん)
(与謝蕪村人物)がでて写生を重んじた客観的な句を詠み、化政期には小林一茶(こばやしいっさ)
(小林一茶人物)が農村の生活感情を詠んだ。また柄井川柳(からいせんりゅう)
(柄井川柳人物)らを選者とする17文字の川柳(せんりゅう)や太田南畝(おおたなんぽ)
(大田南畝人物)・宿屋飯盛(やどやのめしもり)
(宿屋飯盛人物)を代表作者とする31文字の狂歌(きょうか)がさかんにつくられ、為政者を風刺したり、世相を皮肉るものも少なくなかった。
演劇では、18世紀前半に竹田出雲(たけだいずも)
(竹田出雲人物)がでて、すぐれた浄瑠璃作品を残した。いっぽう歌舞伎(かぶき)は18世紀後半に隆盛をみせることになり、歌舞伎の様式が完成された。19世紀初めには鶴屋南北(つるやなんぼく)
(鶴屋南北人物)が、幕末には河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)
(河竹黙阿弥人物)が白浪物(しらなみもの)や世話物(せわもの)の名作を書いた。
資料:化政文化の主な文学作品
(国学の発達)
18世紀前半になると、古い時代を探求しようという気風がうまれ、「古事記」や「日本書紀」などの研究を進めて、日本古来の道を説く国学(こくがく)に発展した。荷田春満(かだのあずままろ) (荷田春満人物)は古語や古典の研究の大切さや、外来思想の排斥を説いた。門人の賀茂真淵(かものまぶち) (賀茂真淵人物)は「万葉集」などの研究から古代人の生活や思想にたちもどることを主張した。本居宣長(もとおりのりなが) (本居宣長人物)は、「古事記」を綿密に実証的に研究して「古事記伝」を著述し、中国の国風や文化に心酔する「漢意」(からごころ)をすて、日本古来の精神に帰ることを主張した。宣長の影響を受けた平田篤胤(ひらたあつたね) (平田篤胤人物)は、日本古来の純粋な信仰を尊ぶ復古神道を開き、儒教や仏教を強く排斥した。国学は新しい学問であるだけに、自由な研究も行われ、批判精神も強かった(*1)。
(*1)盲目の学者塙保己一(はなわほきいち) (塙保己一人物)は、古典の収集保存を心がけ、幕府の援助で和学講談所を設けた。さらに、「群書類従」(ぐんしょるいじゅう)の編纂・刊行を行い、史学・国文学研究に大きく貢献した。
資料:国学者系統図
(洋学の発達)
西洋の学術・知識の吸収や研究は、鎖国下にあったことで困難であったが、西川如見(にしかわじょけん)
(西川如見人物)や新井白石(あらいはくせき)
(新井白石人物)(*2)が世界の地理・物産・民俗などを説いた。さらに将軍吉宗は、漢訳洋書の輸入制限などをゆるめるとともに、青木昆陽(あおきこんよう)
(青木昆陽人物)・野呂元丈(のろげんじょう)
(野呂元丈人物)らにオランダ語を学ばせたので、洋学は蘭学(らんがく)として発達した。なかでも実用の学問としていち早くとりいれられたのは医学で(*3)、1774(安永3)年前野良沢(まえのりょうたく)
(前野良沢人物)・杉田玄白(すぎたげんぱく)
(杉田玄白人物)らが西洋医学の解剖書を訳述した「解体新書」(かいたいしんしょ)は、画期的な成果であった。続いて大槻玄沢(おおつきげんたく)
(大槻玄沢人物)や宇田川玄随(うだがわげんずい)
(宇田川玄随人物)がでて、蘭学は各分野で隆盛をみせ(*4)、玄沢の門人稲村三伯(いなむらさんぱく)
(稲村三伯人物)は蘭日辞書の「ハルマ和解」を作った。ほかには平賀源内(ひらがげんない)
(平賀源内人物)が長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた。
天文では18世紀末に天文方の高橋至時(たかはしよしとき)
(高橋至時人物)に寛政暦を作らせ(*5)、測地では18世紀末から19世紀初めにかけて伊能忠敬(いのうただたか)
(伊能忠敬人物)に全国の沿岸を実測させ、「大日本沿海輿地図」を作成させた。翻訳では蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)を設け、洋書の翻訳にあたらせた。19世紀前半になると、オランダ商館医であったドイツ人シーボルト
(シーボルト人物)が長崎郊外に診療所と鳴滝塾をひらき、緒方洪庵(おがたこうあん)
(緒方洪庵人物)は大坂に適塾をひらいて多くの人材を育成し、西洋文化吸収の土台を作った。しかし、洋学研究は、シーボルト事件(*6)や蛮社の獄などによって規制をうけ、その後医学・兵学・地理学など実学としての性格を強めた。
(*2)白石は、1708(宝永5)年キリスト教布教のために屋久島に潜入し、とらえられて江戸で監禁されていたイタリア人宣教師シドッチ (シドッチ人物)を訊問し、その知識をもとに「采覧異言」と「西洋紀聞」の2著をあらわした。
(*3)山脇東洋(やまわきとうよう) (山脇東洋人物)が、18世紀中ごろ刑死人を解剖して人体内部を直接観察し、日本最初の解剖図録「蔵志」(ぞうし)をあらわした。
(*4)大槻玄沢は「蘭学階梯」という蘭学に入門書をあらわし、江戸に芝蘭堂(しばらんどう)をひらいて多くの門人を育てた。宇田川玄随は西洋の内科書を訳して、「西説内科撰要」をあらわした。
(*5)同じ頃、長崎通詞の志筑忠雄(しづきただお) (志筑忠雄人物)が「暦象新書」をあらわし、ニュートンの万有引力説やコペルニクスの地動説を紹介した。
(*6)1828(文政11)年シーボルトが帰国する際、持ち出し禁止の日本地図を持っていたために国外追放の処分を受け、地図を渡した幕府天文方の高橋景保らの関係者も処罰された。シーボルトは帰国後、「Nippon」などをあらわして日本研究の第一人者となった。
資料: 化政文化の主な著作物
資料:洋学者系統図
(儒学と教育)
18世紀後半には古学派や諸学折衷の立場をとる折衷学派、さらに実証主義的な考証学派(こうしょうがくは)がさかんになった。幕府は現実を肯定する朱子学を重んじ、寛政の改革では朱子学を正学とし、官立の昌平坂学問所を設けた。18世紀末以降には、多くの藩でも藩士子弟の教育のために藩学が設立されるようになった。そして城下町を離れた土地にも藩の援助を受けて藩士や民衆の教育をめざす郷学(ごうがく)(*7)が作られるようになった。
民間でも、武士・学者・町人によって私塾が開かれ、儒学や国学・洋学などが講義されるようになった。なかでも大坂の懐徳堂(かいとくどう)は、大坂町人の出資で設立され、中井竹山(なかいちくざん)
(中井竹山人物)を学頭として朱子学や陽明学を町人に授け、富永仲基(とみながなかもと)
(富永仲基人物)や山片蟠桃(やまがたばんとう)
(山片蟠桃人物)らの異色の学者をうみだした。19世紀に設立された豊後日田の咸宜園(かんぎえん)や萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)も、幕末の思想家や志士を多く育てた。
庶民の初等教育機関の寺子屋(てらこや)はおびただしい数にのぼり読み・書き・そろばんなど日常生活に役立つ簡易な教育を行い、道徳も教えた。女子の心得を説く書物なども出版され、女子教育も進められた。また18世紀初め、石田梅岩(いしだばいがん)
(石田梅岩人物)は心学(しんがく)(*8)をおこし、儒教道徳に仏教や神道の教えを加味した生活倫理をやさしく説いた。
(*7)17世後半、岡山藩主池田光政(いけだみつまさ) (池田光政人物)が閑谷村(しずたにむら)に建てた閑谷学校はその例である。
(*8)商業や商人を低く見る風潮に対して、商業の正当性と商人の存在意義を強調し、倹約・堪忍・正直などの徳目を説いたので、心学は町人の道徳として広まった。
資料:藩学
資料:私塾
(政治・社会思想の発達)
17世紀後半から18世紀初めにかけて、熊沢蕃山(くまざわばんざん)(熊沢蕃山人物)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)(荻生徂徠人物)・太宰春台(だざいしゅんだい)(太宰春台人物)らの儒学者らによって封建制を維持するための方策が説かれていたが、18世紀半ばから封建制度を批判し、改めようとする意見があらわれてきた。
八戸の医者である安藤昌益(あんどうしょうえき)(安藤昌益人物)は、「自然真営道」(しぜんしんえいどう)をあらわして、みずから耕作して生活する自然の世を理想とし、武士が農民から収奪する社会や身分階級の社会を否定し、封建制を批判した。また富永仲基(とみながなかもと)・山片蟠桃(やまがたばんとう)は合理主義の立場から、儒教・仏教など既成の教学に対して疑問の目を向けた。
都市や農村の実情に触れている人々の中からも、封建制の維持または改良を説く現実的な形成思想が活発になり、封建社会の矛盾をどのように打開していくかが論じられた。海保青陵(かいほせいりょう)
(海保青陵人物)は、商売をいやしめる武士の偏見を批判し、藩財政の再建は商工業によらなければならないという説を展開し、本田利明(ほんだとしあき)
(本田利明人物)は西洋諸国との交易による富国策を説き、佐藤信淵(さとうのぶひろ)
(佐藤信淵人物)は産業の国営化と貿易の振興とを主張した。
儒学のなかにある尊王思想は、水戸学などで主張された。18世紀半ばに竹内式部(たけのうちしきぶ)
(竹内式部人物)は京都で公家たちに尊王論を説いて追放刑となり(宝暦事件(ほうれきじけん))、山形大弐(やまがただいに)
(山形大弐人物)は江戸で尊王論を説き、幕政の腐敗を攻撃し処刑に処せられた(明和事件)。一般的に尊王論(そんのうろん)は、幕府を否定するものではなく、朝廷を尊ぶことで幕府の権威を守ろうとするものが多かった。復古神道の立場から尊王論を唱えた国学者も幕府政治を否定しなかったが、平田篤胤(ひらたあつたね)
(平田篤胤人物)の復古神道は幕末の尊皇攘夷論に影響を与え、現実の政治運動と結びつきを強めていった。
(化政美術)
この時代の絵画は庶民に広く親しまれた浮世絵が中心で、18世紀半ばにでた鈴木春信(すずきはるのぶ)
(鈴木春信人物)は錦絵(にしきえ)と呼ばれる多色刷の浮世絵版画を創始し、浮世絵の黄金時代を開いた。続いて、多くの美人画を描いた喜多川歌麿(きたがわうたまろ)
(喜多川歌麿人物)、個性豊かに役者絵・相撲絵を描いた東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)
(東洲斎写楽人物)らが、大首絵の手法を駆使して優れた作品を生み出し、民衆に喜ばれた。その後葛飾北斎(かつしかほくさい)
(葛飾北斎人物)・安藤広重(あんどうひろしげ)
(安藤広重人物)らの錦絵が、民衆の旅への関心と結びついて歓迎された。
従来の絵画では、丸山応挙(まるやまおうきょ)
(丸山応挙人物)にはじまる丸山派が写生を重んじ、遠近法をとりいれた立体感のある作品を描いた。丸山派からわかれ呉春(ごしゅん)
(呉春人物)がはじめた四条派は、上方の豪商らに歓迎された。また明や清の南画の影響を受けた画風もおこり、文人画(*9)と呼ばれた。池大雅(いけのたいが)
(池大雅人物)や与謝蕪村(よさぶそん)
(与謝蕪村人物)がこの画風を大成し、豊後の田能村竹田(たのむらちくでん)
(田能村竹田人物)、江戸の谷文晁(たにぶんちょう)
(谷文晁人物)とその門人の渡辺崋山(わたなべかざん)
(渡辺崋山人物)らの出現によって全盛期を迎えた。
西洋画も蘭学の隆盛によって復活し、平賀源内(ひらがげんない)
(平賀源内人物)・司馬江漢(しばこうかん)
(司馬江漢人物)・亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)
(亜欧堂田善人物)らによって描かれた。
(*9)文人画とは専門の画家でない文人・学者が描いた絵のこと。池大雅と与謝蕪村の合作の「十便十宜図」は特に有名。
資料:化政文化の主な美術作品
(生活と信仰)
江戸中心の庶民文化の発展によって都市文化が開花した。都市には芝居小屋、見世物小屋、講談・落語・曲芸などを演じる寄席(よせ)があり、銭湯や髪結床も庶民の娯楽場となっていた。寺社は修繕費や経営費を得るために、縁日(えんにち)や開帳(かいちょう)(*10)、富突(富くじ)などをもよおした。
庶民の旅も広く行われるようになり、伊勢神宮・善光寺・金毘羅宮などへの寺社参詣(じしゃさんけい)もさかんになった。多数の民衆が伊勢神宮に参詣する御蔭参り(おかげまいり)も江戸時代を通じて数回おこった。
(*10)寺の秘仏などを開扉し公開すること。都市が発展すると出張して行う出開帳(でかいちょう)がさかんとなった。特に信濃の善光寺の出開帳は有名。