稲葉先生のメッセージ

                                               

  ・・・団誌「般若」(巻頭言)より・・・

 般若団の創設者・稲葉先生が団誌「般若」に寄せられた巻頭言全32編を転載させていただきました。

 昭和31年7月の「般若」創刊号より4周年までは周年記念文を寄せられております。ここでは先生の般若団創設に抱かれた熱き思い、草創期・般若団の活気が伝わります。

 昭和34年12月「般若」14号よりは、<六甲台より>と銘をうたれて稿を27編寄せられております。
 稲葉先生が、学生団員および卒業生たちを思い浮かべつつ書かれたであろうお諭しの言葉、警世の言葉、あるいは仏教界激励の文があります。お諭しには
小生はほろ苦き反省ばかりでありますが、これからの人生でも戒めであります。

 先生は、まことに純粋専一な実践の人であられたました。平成18年1月8日91歳にて永眠されたが、最後のご著書【「仏教的企業経営学」の思考 −人生と企業経営― 】が、お亡くなりになる週間前の平成17年12月20日に完成してお手許に届いたと伺いました。人生の最後の瞬間まで励み努められたその生き様こそ稲葉先生が後進の者たちへ残された最大のメッセージであります

 なお、「般若」誌は、47・48合併号(昭和54年)が最後となったようでありますが、「般若」バックナンバーはその大半は山内庸行氏(B3回)から欠落部分コピーを清水秀男氏(E14回)からお贈りいただきました。御礼申し上げます。   (2006.05.15 B-10 岡田彬)

<追録1> 「セルの袴と海清寺」を末尾に追録しました。

 稲葉先生は神戸商大時代、 『大学内における仏教諸派に集まりを統一したものとしての商大仏教青年会を作り』の活動で中心的役割を果され、戦後、その復活を図られております。その思い出を「仏青」復刊號に寄せられた一文で語られています。  (原文コピーの提供を清水秀男氏から受けました)

 なお、稲葉先生は、「般若」創刊号に寄せられた巻頭言『般若団創立によせて』の中で、仏教青年会(仏青)と般若団との関係を、次のように述べられています。 『仏青を一般教養課程とするならば般若団は専門課程であるともいえよう。両者は不即不離、もちつもたれつの関係にある』 と。 


<追録2> 写真を追録しました。 (写真@Aは森田先輩ご提供)
  

    @ 稲葉先生の坐禅姿   昭和33年10月 海清寺坐禅堂にて

    A 般若団OB会発足のキッカケとなった「稲葉先生を囲む般若団の集い」
           (平成3年5月11日 ホテル 神戸ゴーフルリッツにて、42名が参集)
    B ご葬儀遺影

<目次>
  
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    1>般若団創立によせて (昭和31720日発行) 「般若」創刊号より
    2>特別号発刊によせて (昭和32625日発行) 「般若」第4号より
    3>創団二周年を迎えて (昭和33720日発行) 「般若」第8号より
    4>創団満三周年を迎えて(昭和34720日発行) 「般若」第12号より
    5>創団五周年目にあたって(昭和35731日発行 「般若」第16号より

  <六甲台より> 
      ーー 14号から<六甲台より>として(昭和54年No.27)まで書かれておりますーー

    (一) 落ち葉       「般若」第14号より(昭和34年12月1日発行)
    (二) 坐ることと学ぶこと 「般若」第15号より(昭和35年3月25日発行)
    (三) 当たり前と思わぬ心 「般若」第17号より(昭和35年10月20日発行)
    (四) 卒論と人間形成   「般若」第18号より(昭和35年12月25日発行) 
    (五) 初一念         「般若」第19号より(昭和36年4月5日発行)

    (六) 『今日は』        「般若」 第20号より  (昭和36年10月 日発行)
    (七) 手 本          「般若」 第22号より  (昭和37年4月25日発行)
    (八) 英国の社会生活と宗教 「般若」 第23号より (昭和37年12月5日発行)
    (九) 佛教の大衆化     「般若」 第25号より  (昭和39年4月5日発行)
    (十) 日本人と民主々義   「般若」 27・28合併号(昭和40年4月15日発行)

                                      
   (十一) 古いテレビ   「般若」28号より(昭和416月30日発行)
   (十二) 会社の顔    「般若」29号より(昭和41年7 日発行)
   (十三) スペシャリスト    「般若」30号より(昭和42225日発行)
   (十四) 道のために頭をあつむ
          衣食のためにすることなかれ「般若」31号(昭和42825日発行)
   (十五) 卒業式       「般若」32号より  (昭和434月 日発行)
   (十六) ク  セ        「般若」33号より  (昭和4312月 日発行)
   (十七) 縁の下の力持ち 「般若」34号より  (昭和45325日発行)
   (十八) 中  道       「般若」35号より  (昭和45825日発行) 
   (十九) 柔軟性       「般若」36号より  (昭和46115日発行)
   (二〇) 仕事の遊戯化  「般若」37・38合併号(昭和47410日発行)

   (二一) 足許の民主主義  「般若」39号より  (昭和4886日発行)
   (二二) 近頃のお寺     「般若」40号より  (昭和48年10月30日発行)
   (二三) 謝  辞        「般若」41号より  (昭和49年1月25日発行)
   (二四) 息            「般若」42号より  (昭和49年11月10日発行)
   (二五) 経済至上主義  「般若」43・44合併号 (昭和52年 3月15日発行)
   (二六) 零の世界     「般若」45・46合併号 (昭和53年12月 日発行)
   (二七) 継続は力なり   「般若」47・48合併号 (昭和54年 7月 日発行)
                            (最終号)
                                   
  <追録1> セルの袴と海清寺  「仏青」復刊號(昭和30年)より  
  <追録2> 写真2葉 (稲葉先生の坐禅姿、H.3般若団OBの集い) (2006年7月掲載)
                              
    

1> 「般若」創刊号より (昭和31年7月20日発行)

 般若団創立によせて        稲葉 襄

思えば早いものである。不思議なご縁で昭和九年商大入学早々仏青再建の任を受け、今迄とはちがった、全学を打って一丸とする通仏教的な新しい集団としての神戸商大仏教青年会を同志の人達と創立し、雑誌仏青を発刊してから二十年になる。仏青はその間盛衰の歴史を残しつつもその構想は引きつがれ、昨年度は仏青七号が出版される状態になったことは、このような仏青を創立した一人としてまことに喜びにたえないと共に感慨深いものがある。

このたび神戸大学関係の有志により、仏教に関心をもつ者の広い集団としての仏青とは別個に、狭いけれども純粋に深く禅宗の修行を通じて心身の修練に励もうとする強固な集団として般若団が結成されたことは、ある意味において神戸大学仏青の必然的な発展の道ゆきであり、内容的に一歩前進であるともいえよう。

仏教美術探勝旅行、一般的な講演会、人生問題に関する読書会などの仏青の行事によって仏教への興味と関心とを高めた次には何等かの実践的な行を通じて更に仏教の精髄に迫ろうとする意欲がおこる。この意欲を満たそうと思うとどうしてもいずれかの宗派の特殊な修行方法によらないわけにはゆかなくなる。そしてひとたび特殊な修行方法に基いて修行しだすと少なくともある段階までは右顧左眄することなく専一純粋にやることが必要となる。このような要請に基づいて般若団は結成された。だから仏青を一般教養課程とするならば般若団は専門課程であるともいえよう。両者は不即不離、もちつもたれつの関係にある。

 このような現実的な要請に基づいて生れた般若団は、だから当然仏青よりは専門的な高度な集団たることを性格づけられる。従って古美術探勝旅行に一、二度顔を出した程度とか、講演会や読書会に時たま稀に顔を出す程度の者ではなく、少なくともある程度の熱心なる求道心の所有者たることを示すに足る実績をもつ者のみが団員としてふさわしいことになるであろう。

 尤もはじめは誰も実績はないのだから禅宗の修行を通じて心身を鍛錬せんと志す人はどしどし般若団の諸行事に参加すればよいのであり、一定の時がたち団員にふさわしい実績を示した時に団員として認められるにすぎない。このようにして般若団は単に団員数の多きを望むのではなく、数は少なくても真に熱心に真剣に禅を通じて仏の道を求むる集団であることになる。このような熱心な者の強固な団結によってのみ、筒台、六甲台を通じ脈々と流れる仏教の精神が真に確固として伝承されるのではあるまいか。

 そしてこのような集団は神戸高商時代にも遊龍会、参同契などとして存在したことを先輩方からおききしている。そういうことからすれば般若団はそれらの集団の再生であり、その精神を継ぐものといえよう。禅に生きることにおいて先輩方と同じ道を歩まんとするものである。切にご鞭撻をお願い申し上げたい。

 学生諸君の中には、じっと坐っていることは時間の空費であるかのごとくいう者がある。思うに学問研究に従事する者にとり必要なのは批判精神であることはいうまでもない。ところで正しい批判は批判すべき対象を正しく客観的に・・・把握するためには、批判者の心的状態も己を空しうした平静な状態でなければならない。運動をした直後などのように心的状態の動揺激しいときには冷静な観察、思考、把握はできにくいであろう。池の面に波が立っている時には円い月も三角や四角にうつるようなものである。では平静な心的状態にするにはどうしたらいいであろうか。坐禅はそれに到達する一つの手段である。坐禅により心を落着け、平静な主体的条件の下に成心を除去し己を空しうしてはじめて客観的対象を正しく把握することができる。だから坐禅は学問研究の出発点において既に無縁なものでなく、時間の空費でもないと思う。

まことに坐ることは学ぶことであり、否むしろ学ぶことの必須的前提である。論より証拠一度目を閉じて坐ってみると如何に精神状態が統一されていないかに私達は驚かされるのである。どうかしっかり勉強するためにも、ひいてまた大学生活そのものを本当に意義あらしめるためにも、お互いにしっかり坐りたいものである。そして更に、学ぶことは坐ることである境地において日常の勉強を学びたいものである。学問研究と一枚になった坐禅、生活としての坐禅、そこにこそ般若団の進むべき目標があるのではないだろうか。
                           (経営学部助教授)

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2>「般若」第4号・特別号より (昭和32625日発行)

特別号発刊によせて       稲葉 襄

 幾多の方法と立場の存在意義を認めつつも、限られた時間内ではいたずらに右顧左眄しいろいろなものをかじり喰いをすることなく、純真専一に禅の道により己事をを究明し、真の人としての自覚において日々の生活を実践すると共に聊かなりとも各人の立場立場において人類世界の平和に寄与せんとする願いより、神戸大学に般若団が結成されてから満一年を迎えようとしている。

 この間団員のうち何人かは禅宗専門道場に寄宿し、朝晩坐禅・清掃・典座等々雲水諸氏と同様の生活をなし、修行のためとはいえ普通の学生に比すならば遥かに多くの困苦を克服しつつ大学に通い、これらの群を中核として他の団員も月のうち一週間の連続接心に参加し、しからざる者も少なくとも月二回は泊りがけで坐禅弁道に勤め、多面に於て毎月二回碧巌録・臨済録の提唱を聴講し、あるいは禅海一瀾、正法眼蔵随聞記などを中心とする研究会・座談会をも毎月必ずもち、また対外的には機関紙「般若」の発刊や他の宗教団体と共催で講演会の開催をおこなってきた。そしてなによりも先ず団員の真剣なる日常的行の実践に団活動の重点を置きしかもなお行解相応の境地も忘れることなく、全体として禅宗により仏道を修行する大学人の集団としてふさわしきものたらんと熱心に励んできた次第である。

既に専門道場に寄宿しつつ大学を卒業した者七名を数え、現に寄宿中の者四名この秋には六、七名になる予定であり、毎月の例会にはこれらの人達以外にも団員たる卒業生や学生が可成り多数参集し、般若団員の求道心の熱烈さと団員相互の融和と団結の強さとを充分に示しているのは喜ばしい限りである。」

 ここに団創立一周年を記念し「般若」特別号を発刊するにあたり、団に属するお互いは一大事とは只今のことなりと深く思いを致し、まず行ずるときも学するときも一枚に成り切ることができるようにより一層の精進を心に誓うと共に、諸老大師はじめ先輩や有縁の方々の団創立以来の御厚志を感謝申し上げ同時に今後の御支援御鞭撻を御願い申し上げる次第である。

               (神戸大学般若団々長・経営学部助教授)
                                                  目次へ

3>「般若」第8号・特別号より (昭和33720日発行)

  創団二周年を迎えて     稲葉 襄

 般若団が神戸高商時代よりの遊龍会や参同契などの流れをうけつぎ、限られた学生時代に仏の道に少しでも有効に参じようと、禅の修業に専心生きる団体としてうまれてから、はや二年になる。

 この間大方の御指導や御援助によって次第に盛大となり、毎月第三日曜の例会には団員のみで、常に三十名前後をかぞえ熱心に坐禅し、坐禅後おこなわれる団員の読書会や座談会にも活発な議論がかわされ、七月からはさらに第一日曜に坐禅後研究会を開く予定であり、これも多分三、四十人の多人数となることであろう。必ずしも人数の多いことを必要としないけれども志を同じうする者が多勢いることはそれだけで切磋琢磨しあううえからもお互いのはげみともなり便利でもあるし、大学時代にこのような雰囲気にふれた経験をもつことが将来いつか芽をふく契機になることを思えば、人数の点で般若団が拡大してゆくこともまた意義のあることであろう。質的には般若団の中核は、寺に止宿しもしくは外部から通って普通二ケ年もしくはそれ以上にわたり専門道場で雲水諸氏と同じような生活経験をもつ正団員の諸君と目下寺に寄宿し通学中の五人の諸君である。これから正団員の数もかなり多きに達している。

 般若団員の研究機関の一端を荷うと共に先輩その他有縁の方々との連絡機関でもある雑誌「般若」も、多くの人々の御力添えと御厚志により、この種のものとしては社会的にも特異な存在として認められ、一般の方々からの御希望もあり思わざる方面に相当広く読まれている模様である。

 この一年間に般若団は禅の修業に生きる大学人の集団として質的にも量的にもさらに一段と飛躍的発展をとげてきたことはあらゆる意味で喜ばしい限りである。私達団に関係ある者は一層心をひきしめ、平常心是道に心身なりきり、一歩一歩と着実にしかも常に新に、これからの日々の生活を送りたいものと思う。そしてそれによって人類がほんとうの意味で生活を楽しむ平和な世界をこの世に礎くための行動と祈りとしたい。諸老大師、先輩、有縁の方々の般若団に対する一層の御鞭撻と御支援とを御願い申し上げる次第であります。

                (神戸大学般若団々長・経営学部助教授)
                                                目次へ

4>「般若」第12号・特別号より (昭和34720日発行)

  創団満三周年を迎えて    稲葉 襄

この六月で神戸大学般若団は創団四年目にはいる。今回団誌「般若」も十二号として特別号の発刊をみるし、また毎月の諸行事も真面目に熱心に遂行されているのは、もことに喜ばしい限りである。これもひとえに諸老大師、諸先輩、その他有縁の方々の並々ならぬ御力添えの賜と厚く感謝申し上げる次第である。

 石の上にも三年という。どうやら般若団の基礎もかたまり、年間行事の慣行も定まってきたようである。これからの道がいよいよ発展期にはいるわけであるが、登山でいえば裾野を越えて本格的な登りにかかるところである。これからの道がどのような難路であり、どのような沿道の風景画が展開するかわからないけれども、恐らくは、団を結成し、大学人として坐禅の道により人間的なまことの道を求め努力するわれわれの行く手には、さまざまな困難と、精進をにぶらせる安易へいざなう誘惑とが、いろいろな姿をとって現われることだと思われる。私達団員は、個人的なるものであるとともに社会的なものである大学人の集団としての般若団の存在意義を十二分に発揮するように、一歩一歩を綿密着実にふみしめて、勇猛精進してゆきたいものである。
「ゆくさきを忘れてのぼる不二の山」の態度で。

 一方において諸先達の深い学識と体験からする教えと、他方において真剣に自己をみつめ道を求めていく若人が、あるいは修行の方法において、あるいは仏教教団の在り方について、わきおこる率直な疑問と感慨とをもとに「般若」に掲載することによって、若人は滋味豊かな教えに接し、先達各位には現代のインテリ青年の考え方の一端を知って戴くよすがにもと思い、また「般若」の発行が先輩各位と現役団員との連絡の一助にもとも思い、さらには有縁の方々との因縁を深めることにより広い意味におけるユニバーシティ・イクステンションの役割を果たすことができれば望外の幸であるというひそやかな願いをも、私達は団誌「般若」に託している次第である。

 平和な民主的な大衆の生活が営めるような仏国土世界を創造してゆくために、広く有縁の方々のお力添えを蒙りつつ、私達の精進と祈りとをさらに深めるとともに、般若団の活動をこのような目的を達するための社会的行動として結集していきたいものと思っている次第である。
                 (神戸大学般若団々長・経営学部教授)

                                                    目次へ



5>「般若」第
16号・特別号より (昭和35731日発行)

  創団五周年目にあたって    稲葉 襄

 思えば早いものである。般若団が創立されて五年目を迎えることができたことは。西宮海清寺文勝老大師の絶大な御指導により、同寺の一隅に団員の起居を許され、雲水諸氏と共々に毎月の接心あるいは十二月大接心を修行しつつ大学に通った頃の思い出をもたれる卒業生諸君も既に数多い。満三ケ年われわれ団員に温かい御薫陶を賜った文勝老大師のご恩は決して般若団の存続する限り忘れてはならないであろう。

 海清寺時代を第一期とするならば、海清寺を退出し、般若団としての修行の本拠を六甲の祥龍寺に移した時以後を第二期とすることもできよう。尤も文勝老師に入室参禅した者のうちで今でも個人的に何人かの般若団員は海清寺で修行鞭撻をうける機会に浴しているが。六甲に本拠を移して以来、某家の二階三室をかりうけ、団員六名が自炊をしながら毎朝祥龍寺で坐禅をするという生活がはじまった。坐禅をした後祥龍寺の御住職を囲んでのお茶のみ話は団員に非常な魅力であり、なんとなく心の安らぎといこいと激励とが与えられる。毎月三日間の同寺における般若団独自の接心会は、短期間であるとはいえ、場所が大学の近くにあることもあって多くの学生諸君の参加をみて、相当きびしく鍛えあっている。また時々は神戸平野の祥福寺の接心にも御邪魔し無文老大師のご教導にもあずかっている。今年からは本拠に頑張って自炊を希望する団員の数も多くなりいままでの三室では手狭になったので、さらに隣家の二階を三室お借りして九名が、日常的には一応般若団本部を形成している次第である。

 世の中が忙しくなれななるほど、黙って静かに坐ることの面白さもますます多くなる。自炊しながら黙々と朝晩坐禅しつつ研究生活を送る学徒に、修行上の切磋琢磨と心温まる友情との、よき機会を与えてくれる「般若団禅塾」の建設が、いよいよ必要になってきたように思う。

 団員七十名の般若団がこれまでどうやら歩ませて戴いてきたことに関し直接間接に御支援を賜った有縁の各位に対し厚く、御礼申し上げるとともに今後の御指導御鞭撻を御願いする次第である。

                 (神戸大学般若団々長・経営学部教授)
                               目次へ

6> 「般若」14号より  (昭和34121日発行)

   六甲台より(一)  落ち葉    稲葉 襄

 昨日あれほどきれいに掃いたのに、今日はまた一面の落ち葉である。掃いても掃いてもつもる木の葉。毎日毎日落ち葉と掃除の果てしない競争のようなこの頃である。黄色い葉。紅い木の葉。黒い斑点のある木の葉。さまざまな葉が、さまざまな姿で散っている。だけれども箒を動かした部分だけは、つぎからつぎへときれいになってゆく。

 いつでも忽然とわきおこる煩悩。払っても払ってもあとからあとから出てくる雑念。だけれども坐禅したときだけは、少しは落ちつきと清らかさを得たような気持ちになる。
 落ち葉は煩悩の具体化された形相であるように思われる。
 箒をしっかりと握りしめて、落ち葉を掃く。その一振り一振りは、落ち葉を掃くと同時に心の垢を掃除する動きでもある。掃除するとは心を掃くことである。掃除は坐禅である。

 落ち葉を掃くたびに、煩悩のしぶとさと、それにたち向かう勇気と不断の努力の必要と、それに照らしてみずからの非力・精進のたりなさとを身にしみて思う。
                 (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)
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7> 「般若」15号より  (昭和35年 325日発行)

   六甲台より(二)  坐ることと学ぶこと    稲葉 襄

 躍動する肉体、内から盛りあがる精力、それに基づいて、次から次へと現象的な変化を追い求める生活、たしかにそれは意義があり楽しいことである。だがしかし、絶えず変化をのみ追う生活とは違って、ひとときを、ただ静かに気息を整えて坐るということにもまた限りない生活的な面白さがあるように思う。

 単調なことに没入し、それを永く持続してやるということはなかなか大勇を必要とする。かえって刻一刻と目先的に変化することに従事することのほうが、はるかに容易である場合が多い。

 なんのために坐るのか。坐ってどうなるのか等々のことを一切忘れて、ただ黙って坐る。そこには結果だけを考えて行動したり、全てを目的のための手段視して行動するような、打算主義、広い意味の商業主義の存在する余地はない。そのこと自体を目的とする立場が貫かれている。

 私達は学問研究においても、できるだけ無所得の行為を堅持すべきであり、結果を考えずに、ただ己れを空しゅうして対象に接し、学問していくという行為自体に重大な意味を体得すべきであって、結果よりもむしろ過程こそ大事であることを自覚して、はじめて、学問研究を通じて純粋性を尊ぶ心を、また純粋性になりきる道を、真理に対する素直な態度そのものを手にいれることができよう。

                        (般若団団長)  目次へ


8> 「般若」17号より  (昭和351020日発行)

   六甲台より(三)  当たり前と思わぬ心    稲葉 襄

 生きていることは当たり前、学校にきていることは当たり前、就職したことは当たり前、
だが生きていること、学ぶことができること、就職できることが果たして当たり前であろうか。
 りんごが落ちることを当時の人々は当たり前と思ったのに、ニュートンだけが当たり前と思わなかったからこそ、引力の法則を発見した。万象の存在に不思議を見出したところに釈迦の悟りがあった。経営学を学ぶ者にとり、一度は通らなければならないテーラーの科学的管理法の精神も、目前の事実を当たり前と思わぬ心から出発する。だから科学的発見も、宗教的悟りも、当たり前と思わぬ心に基づくといっても過言ではなかろう。

 当たり前と思う心には、無智と傲慢があり、当たり前と思わぬ心にこそ、真理探究への情熱と真実なるものへの素直さと、そしてあらゆるものへの感謝がある。

 現在生きているということを考えてだけでも、どんなに不可思議なことであり、なかなか有ることが困難であることを、しみじみ感じる。おのずから有難いという感謝の念がわき上がり、報恩への強い願望にかられる。

 自分自身の生活、家庭の生活、企業経営のいろいろな事柄、政治的事象について、当たり前と思わぬ心をもつことこそ、お互いに精進し報謝することを通じて、自己の、家庭の、そして企業経営の充実と繁栄をもたらし、ひいては人類社会の幸福を招来し前進させる基礎である。

             (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)
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9> 「般若」18号より  (昭和351225日発行)

   六甲台より(四)  卒論と人間形成    稲葉 襄

 六甲の連山は紅葉し、六甲台にも澄み切った時には肌寒さを感ずる晩秋の気配が漂っている。卒業生の学生諸君は就職も異常な好況のうちにきまったし、あと残された難物は卒業論文のみとなった。
 卒論といえば、これを作成するという一つの機会をとらえ、真剣に勉学すればする程、大概のことは既に先輩達によって開拓され、論じられていることに気がつくとともに、いかに自分達の知識が多くの先輩達の努力の恩恵を蒙っているかということをしみじみと感ずることである。私達がこれこそ自分の独創的考えだと得意になり、しかし念のためと思って図書館に入り、参考文献をめぐってみると、もう誰かが書いているということは屢々経験するところである。

 だから論文の作成にあたっては、参考にした文献名を必ず書くということは、その論文が自分独りの恣意的なものでなく、客観性をもつことを意味するとともに、思考的に恩恵を受けた先輩に対する礼儀でもある。そして参考にした文献が多ければ多い程、裁判における証人が多いように、その論文は正確な、綿密な、良心的な論文であるといえよう。科学が正確性を尊ぶものである以上、厳密に、正直に、客観的に、みずから対象を観察するとともに参照した多くの先人の意見・考え方によって裏付けていく、ということはぜひとも必要なことである。

 老大家ならいざ知らず、少なくともわれわれ若い学徒にとっては、できるだけ多くの文献を読み、参考にしたところは克明に、正確に、文献名、頁数をあげていくという方法こそ、真面目な、正しい科学的研究の道である。私達はこのような論文作成の方法をとることによって、要領よく、功をあせったり、てらったりしない、正直な、地道な人生の行き方を味わうことができる。論文作成の方法が大事なのは、それによってどのような人間が形成されるかに重大な関係をもつからである。

             (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)
                                                    目次へ


10> 「般若」19号より  (昭和36年 45日発行)

   六甲台より(五)  初一念    稲葉 襄

 例年のことながら、この六甲台にも桜の花が咲きはじめた。そして、三月卒業の人達は新入社員としての新しい人生を歩みはじめ、在学中の者はそれぞれ新しい学年に進み、新入生は間もなく大学にみえることであろう。今年もつつがなく、平穏・無事に、学年末を終え学年始めを迎えることができるというのは、ほんとうに有難いことである。

 それにつけても、希望に燃え、期待に祝福されながら人生の新しい門出にたつ人々の喜びはどんなに大きいことであろう。そしてこれらの人々は、これから立ち向かう仕事について、いろいろ思い、かつ誓うことであろう。この初一念、人生の転機において自分の心に誓う初一念をできるだけ深くし、そしてながく貴んでいかなければならないと思う。深い初一念こそ、人生における怠惰と困難との波を乗り切る有用なさお桿となるであろう。

 「初心忘るべからず」と古人はいったが、この初一念の奥底に沈潜していくときには、無常を観ずる心につき当る。この無常を観ずる心に基盤をおき、それに支えられた初一念からほんとうの精進が生まれる。
             (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)

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11> 「般若」20号より  (昭和36年 10月 日発行)

   六甲台より(六) 『今日は』  ―特別号の序にかえて―
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 今年も学生諸君とともに、夏休み中の図書館の休館を利用して、東北の旅に出た。

 裏磐梯を背景に明るいコバルト色の水をたたえた毘沙門沼で記念撮影の後、桧原湖への山道をたどった。起伏のある細い道を一行に離れてゆっくりと歩いて行く。名も知れない木や草が、夏の緑をたたえて生い茂り、ひっそりと自己の存在を示している。澄んだ静かな空気をついて、鶯の声が時折聞こえる。

 曲がり角から元気のよい若者が、三、四人現われた。リュックを背負った山登りの姿だ。近づいた時に、「今日は」と、先方から声をかけられた。私も思わず「今日は」と返事をする。どこの誰であるか先方も私も知らない。ただゆきずりの旅の山道で、お互いに挨拶して過ぎ去って行ったにすぎない。しかし静かな山路で、見知らぬ人がお互に交わす「今日は」という言葉には、なんと人間的な親しみと無限の味がこもっていることであろう。

 人は犀の角のように、一人生まれ、一人生活し、一人死んでいくのであると古聖はいわれた。まことに人生そのものが一つの旅であり、お互いが孤独な旅人であることを、日頃の環境や関係をたち切って、全く異なった条件に自己を置くことによって、しみじみと味わうことが出来るのが旅である。そして孤独さと淋しさを通して、「おのれこそ、おのれのよるべ、おのれを措きて、誰によるべそ、よくととのえし、おのれにこそ、まことえがたき、よるべをぞ獲ん」という発句経の言葉が素直に受け取れるのであり、同時にそれ故にますます、つかの間のこの世において、できるならば、毎日を「今日は」とお互に山で挨拶し合う気持ちで生活していきたいものである。
             (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)
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12> 「般若」22号より  (昭和37年 425日発行)

   六甲台より(七)  手 本      稲葉 襄

 私達が字を習うとき、手本の通りに書くことにまず努力する。いろいろな「くせ」をもっている自己流の書きかたを、一応さらりと捨て切って、師匠から与えられたお手本通り書こうと苦心惨憺する。しかし自分の「くせ」正しいものからの「歪み」からは、なかなか抜け切れないものである。私にとって「手本」は、小さな自己を否定し、大道につくための手段として、大きな意味をもっている。我を捨て、くせを捨て、ひたすら師匠の通りの字に成り切ろうとする素直さを手本は私に要求する。

 やがて、自己を励まし、できるだけ自己を抑え、素直にお手本通りに再現しようと努力していくうちに、次第次第に師匠に似た字が書けるようになり、師匠から、そろそろ自由に書いてよいとのお許しがでる。

 このような習字の過程を考えても、「手本」に素直に従うことが、まずなによりも大事であることがわかる。このことは習字に限らず、剣道でも柔道でもその他のあらゆる習いごと・稽古ごとや勉強に共通のことがらであろう。古聖も「仏道とは自己を習うなり、自己を習うとは自己を忘るるなり・・・・」といわれている。

 それとともに、よき手本を選ぶことの重要さと、よき手本をつくることのむづかしさとを、しみじみと思う。

             (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授)
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13> 「般若」23号より  (昭和37125日発行)

   六甲台より(八)  英国の社会生活と宗教
                             ――特別号の序にかえて――   稲葉 襄

 英国の滞在も早いもので三ヶ月程になります。 わずか三ヶ月なのでよくわかりませんが、いままでのところで特に感じたことの一つは、英国の社会生活はその奥底において宗教的な特にキリスト教的な精神によって支えられているように思われることです。子供の時から両親によって、折にふれ時に応じて、キリスト教的精神による訓育をうけていることが、日常生活のいろいろなものに現象しているように思われます。宗教界の活動をみても、キリスト教精神の日常生活化に努力しているようにうけとれます。

 この点日本はどうでしょうか。私が多くの英国人からお前の宗教はなんだと聞かれたように、聞かれたならば、多くの日本人はなんと答えるでしょうか。単に形式的に、いままで家の宗教が禅宗だという理由で、禅宗と答える場合が可成り多いのではないでしょうか。この場合、その人の宗教が禅宗だということではもちろんありません。こう考えてくると案外日本人には無宗教の人達が多いのではないでしょうか。

 それでは、これにかわるなにをもって、家庭教育のバックボーンにしているのでしょうか。戦後の日本の家庭生活には指導原理とか、バックボーンとかが案外なくなってしまい、その日その日を送っている恐れはないでしょうか。宗教活動にしても、もっと社会生活に密着した意味での行動が、特に若い青年たちにたいし、宗教を身近なものにさせる方法はないでしょうか。

(神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授) 
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14> 「般若」25号より  (昭和39年 45日発行

   六甲台より(九)  佛教の大衆化 
               ――序にかえて――  稲葉 襄

 転迷開悟の教えとしての仏教が日本人の生活のなかにとけこんでいなく、仏教といえばわずかに葬式を連想させるにすぎないような一般的風潮を生じさせた原因はいろいろあるであろうが、特に青年達にとって仏教を近寄り難いものにする一つの原因は、仏教用語が難しいということであろう。仏教がどんなに尊い教えであっても、一般人に理解され、活用されるものでなくては、社会的には、文化的飾りものか、一部階級の独善的思想的遊戯の手段にすぎなくなる恐れがあり、少なくとも宝の持ち腐れになってしまう。そこで、優れた教えとしての仏教を、日常生活と一枚のものとし、民衆に親しみ易いものとするためにも、その真髄を誤ることなく、できるだけ仏の教えを平易化し、大衆化することを、ぜひとも仏教の研究者、指導者、宗教者にお心掛け願い度いと思う。特に今は己れ一人を高くしている時代でなく四句誓願や坐禅儀の冒頭のお言葉にもあるように、強く社会性を念頭において行動すべき時である。

 この意味からしても、仏教の大衆化社会化にとって重要な役割をもつ寺院が、多くは単に老人達のみの集合場所であるという現状から脱し、広く若者も寄り集まっていくような魅力と雰囲気とをもった場所でもあってほしいものである。

 われわれ般若団員も自ら勇猛精進するのは勿論であるが、及ばずながら仏教の大衆化運動の一翼を担って、一人でも多くの若者を仏の教えに触れさせ、共々に仏国土の積極的具体的実現に努めたいと思う。

 この特別号も以上のような趣旨から、一人でも多くの若者および有縁の方々に、仏教とは何か禅とは何かを知っていただくために編集した次第である。

(神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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15> 「般若」26・27合併号より  (昭和40年 415日発行)

   六甲台より(一〇)  日本人と民主々義
                                 ――序にかえて――  稲葉 襄

 フランクフルトの冬の朝、私が散歩をしているときのことです。一老人がこんな話をしてくれました。この間警官がきて、貴方は自分の庭に花を植えないで、他人の花壇に咲いている花だけをみて楽しんでいるのは利己主義だからすぐ自分の花壇に花を植えるようにといわれたそうです。そこで私は聞きました。もし植えなかったらどうなりますかと。老人は答えてくれました。罰金を払わねばならないと。こういう話を聞くにつけ、あるいは紙屑の散っていないきれいな公園をみるにつけ、私は「自分がそうしてもらいたくないようなことは、相手にしない」「自分がそうしてもらいたいことは、相手にもする」という民主々義的な行動や社会が成立するための前提的基礎的条件に、日本人は余りにも無関心であり、そのために西欧的な個人主義、民主々義をうけ入れたつもりなのに、利己主義だけが横行する結果になったのではないかと思ったことでした。

 プラットホームのあの利己心むき出しの混乱、企業間の過当競争、類似品の不正製造、世界の先進国に例をみない大蔵官僚を頂点とする官僚群の強大な封建的支配等々の諸問題もこれと無縁ではなさそうです。また廊下から座敷に入るとき、あるいは便所に入って用をたして出てくるときに、平気でサンダルやスリッパをぬぎすてたままの人がなんと多いことか。

自分がそういう状態で使用する場合どんなに不便かを考えたら、なぜ次の人のために、はきよく揃えて入ったり出たりしないのでしょうか。私達は孤立的個人ではなく社会的個人であることを自覚し、ともに住みよい社会をつくるように心掛けたいものです。このことは唯心論、唯物論、資本主義、社会主義等々の主義主張を離れた人間生活にとって、より一般的、前提的、基礎的なことがらではないでしょうか。

   (神戸大学般若団団長 神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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16> 「般若」28号より  (昭和41630日発行)

六甲台より(十一) 古いテレビ  稲葉 襄

 わが家に古いテレビがある。テレビのではじめた頃、当時としては一番高い一四万円ぐらいで買ったものである。型は大きく、したがって場所をとることおびただしい。ただ構造上無理をしていないせいか音質は素晴らしい。電機店の人は、場所をとらない新しい五万円ぐらいのものと取り替えることを、カタログを持参しては、しきりにすすめる。それにもかかわらず私は、悪いところを修理してもらいながら、それから既に五年以上も使っている。永い間わが家に奉仕してくれたテレビであり、なんとか使える間は使おうという考えからである。

 修繕代のことなど、経済的に考えたならば、古テレビは廃棄して新しいものととりかえた方が、あるいは効果的かもしれない。しかし、悪くなったときに若干手入れすれば使えるものを、使わないということが、私にはなんとなく心安らかでない。勿体ない気がするのである。もし古くなったものを使うなということになると、まだ使えるのに型が古くなったとか流行おくれだという理由で、和服や洋服をタンスのコヤシにしてしまうことになりかねない。
智慧をすこし働かすなら、なんとか活かして使える方法もあろうものを。

 ある奥さんが、宅の主人はまだ充分働けるのに定年で首になったといって会社の処置に対して不平をいうのを聞いたことがあるけれども、そういう奥さんがまだきられる服をきなかったり、使えるに大根や人参の部分を棄て去ったりしないとは保証しがたい。とにかく人は自分中心に考え勝ちなものである。私達は会社を首になったことを嘆くならば、どうか服や野菜を嘆かせないように心掛けたいものである。

 ものを大切に使いきろうとする心は、あらゆるものの、したがって自分の「いのち」をも大切にする心である。営利追求の強い要求をもつ資本主義社会においても、このような心を基底としたならば、案外労使関係を明るくし前進させる途も開けるのではあるまいか。
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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17> 「般若」29号より  (昭和417月 日発行)

    六甲台より(十二) 会社の顔 
              ――序にかえて―― 稲葉 襄

 ある会社でのことです。受付嬢がダイヤルを廻しながら来訪者である私に問いかけてきました。私は彼女の問いに答え始めました。するとその途中で、恐らく先方との意思連絡がついたのだと思われますが、彼女は私が答え中であるにもかかわらず、いきなり立ち上がるや「どうぞこちらへ」といって私を応接間に案内しようと部屋を出ました。電話をかけながら、来訪のお客様に問いかける態度自体も勿論問題ですが、来訪者に問うておきながらその答を終まで聞こうとしないで、そのような挙に出た彼女を、なんと失礼なと思わずにいられませんでした。それとともに、受付嬢にこのような態度をとらせている上司は、受付がみえる(・・・)「会社の顔」であるということを知らないのかと思ったことでした。受付嬢の態度が、来訪者に対し、会社に対する印象を決定的なものにする重要な役割を演じているからです。

 他の機会に同じ会社に長距離電話をかけてみたときのことです。当方の勤務先と氏名を伝えた後、専務さんをと申し込みましたら、しばらく待たされた後、目下会議で発言中とのことです。では総務部長さんをと申しますと、しばらくして別の声で「貴方はどなたですか」と尋ねてきました。とたんに私はイヤーナ気持ちになりました。そして私は「初めに既に申し上げたはずですが」と申しますと、「替ったものですから」との答でした。私は、なぜ初めの電話交換手さんが、総務部長につないでから交替しなかったのか、あるいは交替した交換手さんに、誰々から総務部長電話である旨を引き継いでから交替しなかったのか、もしくは新しく交替する人は、今かかっている電話は誰々から誰々へのものであることを前任者に聞いてから交替任務につかなかったのかと思ったことでした。電話をかけている人にとっては、その会社にかけているのであって、交換手の交替はその会社の社内事情にすぎないことを知らなければならないでしょう。交替ごとに勤務先氏名のいいなおしは長距離電話だけにうんざりさせられます。時によると交換台を通じてやっと出たかと思うと、相手の人でない人が出てきて、もう一度初めから「名乗り」をさせられる会社や、長距離電話であることがわかっているのに相手の人を探しますとか、他の電話とお話中ですとかいわれて、長く待たされる会社もありますが、これらを含めて、電話の場合にも、相手の身になって考えることが大切なのではないでしょうか。電話はみえない「会社の顔」であることを心にとめておきたいものです。
               (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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18> 「般若」30号より  (昭和42225日発行)

    六甲台より(十三) スペシャリスト
                             ――序にかえて――  稲葉 襄

 近頃ときどきジェネラリストかスペシャリストかということが問題にされる。しかし私にはまずスペシャリストになることが大切のように思われる。ほんとうの意味のスペシャリストになることはなかなか困難なことである。たとえば一つの専門的な職務領域について、その細目にわたり、よく理解し精通していること、さらにその職務がどのような経過をたどって今日にいたっているのかということや、全体に対してその職務がどのような役割と意味とをもっているのか等々もよく知っていることがスペシャリストとして当然望まれる事柄であろう。

 こう考えてくると、三年や五年で、前任者から引き継いだ仕事が一応わかったので、仕事にアキがきたなどという言葉はなかなかいえそうもない。そういう言葉が出るのは、きっと自分の仕事に消極的に取り組んでいる証拠ではないだろうか。積極的に仕事に取り組み真のスペシャリストになろうと志す者にとっては、少なくとも一仕事十年はかかるのではあるまいか。場合によっては一生涯取り組んでもなかなかということになりかねない。一通りわかったということと精通したということとは別である。いわんや前任者から受け継いで以来、その職務の完遂上自分は新しい何かをつけ加えることができたのかを反省したときにはなおさらであろう。

 昔から「一芸に通ずる者は万芸に通ず」という諺があるが、なかなか凡人は一芸にさえも通ずることはむつかしい。いわんや万芸においておやである。だから一事を専ら修めることが大切であり、ジェネラリストである前にまず立派なスペシャリストたることが肝要であろう。ただ注意すべきは、いうまでもなく、スペシャリストといっても見解の狭い馬車馬式ではいけないのであり、広い視野をもった、広い裾野をもった基礎のしっかりした偉大なスペシャリストになろうと心掛けることが必要ではなかろうか。一つのことに精通するためには、全体がわからないと、その一つさえほんとうにわかったとはいえない。だからほんとうのスペシャリストたるものは、自分の職務を中心として全体を知ろうと懸命に努力する必要がある。このような意味における真のスペシャリストにして、はじめてよきゲジェネラリストたりうる。
                         (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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19> 「般若」31号より  (昭和42825日発行)

六甲台より(十四)

 道のために頭をあつむ
                     衣食のためにすることなかれ  稲葉 襄

 「汝ら諸人この山中にきたって、(どう)のために(こうべ)をあつむ。衣食(えじき)のためにすることなかれ。肩あって()ずということなく、口あって(くら)ずということなし。ただすべからく十二時中無理会(むりえ)のところに向かって(きわ)めきたり究めさるべし、光陰()のごとし、謹んで雑用(ぞうよう)(しん)することなかれ、看取(かんしゅ)せよ、看取せよ。」といわれる興禅大燈(だいとう)国師遺戒(ゆいかい)を拝称するたびに、私自身にむかって、今のお前の生活は、これでよいのかと自問すること屡々である。たとえば学問の道にいそしむ自分にとって、学問のための学問、人類のための学問という純粋な態度の掘り下げ方がまだまだ足りないのではないのか。もしそうでなかったら、再びかえりこぬ時間を思えば、一刻を惜しんでいつも問題にしっかりと取り組み、雑事に心を奪われることなく、より真剣に、研究にぶち込んでいける筈ではないか。また余程心を引き締めていないと、ついつい衣食のための学問になり下がる危険と可能性とがあることを、よくかみしめてみるべきでないかと。こう考えてくると、「道のために頭をあつむ。衣食のためにすることなかれ。」というお言葉が千金の重みとなって感ぜられ、身のひきしまる思いがする。

 さらに国師は、生活のための仏道に堕落することを戒められ、全身全霊をあげて、仏道のための仏道を究めるべしと強く叱咤激励される。だから国師は、たとえ建物や経巻が立派であっても、また多くの人々がお経を声高らかにあげ、寺門が栄えているようにみえても、そのなかに住みあるいは集まる人々が、仏祖不伝の妙道を体得することに懸命の努力をしようとしないならば、むしろそれらは真の仏道にとっては邪魔者にすぎない。これに反したとえ生活は貧しくとも、己事(こじ)究明に努める者こそ真の仏道者であるとして、道を求めることにおいてきびしく、生活の手段としての仏道に堕落することを極力いましめられている。それゆえに、本来仏道のための精舎であり寺院である筈のものが、寺族のための寺院に成り下がったり、僧侶が生活のために稼ぎまくり、そのために僧侶本来の面目に欠けるような傾向が、もし仮にあるとすれば、それは「肩あって著ずということなく、口あって食はずということなし。ただすべからく十二時中無理会のところに向かって究めきたりきわめ去るべし。」という大燈国師御遺戒にそむくこととなり、国師から「児孫と称することを許さじ」と御叱責を受けることになりはしないであろうかとおそれるものである。
                       (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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20> 「般若」32号より  (昭和434月 日発行)

   六甲台より(一五)  卒 業 式     稲葉 襄

 きょうは卒業式。いよいよ大学の課程を終えて、習得した教養をもとに、実社会の一員として、希望に満ちた若鷹が巣立って行く日です。

 式が終わった後の謝恩会の席上で、昼は会社に勤め夜は勉学して目出度く今回学業を終えた学生の一人にあったとき、私にこんな感想を漏らしてくれました。「自分はやはり大学で勉強してよかったと思います。会社では心から怒ってくれる人がほとんどいないのに反し、ゼミナールではビシビシ叱られ、講義の中でも、いやでも自分自身を反省しなければならないようなことを聞かされると、深く省み考えざるを得なかったことが屡々でした」と。

 私は日頃から、「疑問と反省のないところには発展なし」と思っております。リンゴの落ちるのを見て他の人はなんら疑問を感じなかったのに、ニュートンは「なぜリンゴは落ちるのであろうか?」と疑うことから、万有引力の法則を発見し、これから近代物理学が発展したこと、あるいは鉄屑を貨車に積込む作業をみて、テーラーは「もっと無駄なく合理的に積込めないものか?」と疑い反省したところから、近代経営学が発展したことはその例証でありましょう。この精神をもち、この心でものを観察し考えるとき、そこに学問が存在し、学問の精神が生きているのだと思います。たとえ立派な校舎、多数の教授学生がいたとしても、この精神を欠くところには、もはや大学は存在しないといえるでしょう。

 このように考えている私は、苦労して夜学で五年間勉強し、めでたく卒業したことを、心からお祝いすると共に、私達の日常生活に、あるいは職場に、たえず「これでよいのか?」という疑問と反省を加えていくことが学問の精神であること、そしてこれからは今までよりも一段と綿密にこの精神を発揮し、理論の生活への適用、生活の科学化に努めなければならないと、話したことでした。

 こういう意味からすれば、まことに卒業式は新しい人生修行の出発点でもあります。すなわち修練し修得した知識と日常の生活実践との合一に努め、日々の生活を科学すること、「平常心是道」を体得していく生活態度をとることこそ、一層必要になると思います。
        (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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21> 「般若」33号より  (昭和4312月 日発行)

六甲台より(十六)  ク セ      稲葉 襄

 考えてみると人間が日常やっていることは、たいてい「クセ」の集積にすぎない。煙草をのむのも、映画やテレビをみたり、酒をのむのも、朝早く起きるのも、夜更かしの生活をするのも、習慣であり、クセであるといえよう。在学中勉強するのもクセであり、卒業してから勉強しなくなるのもクセのなせる仕業であろう。

 不思議なもので、学校を出てから、毎朝少しでも本を読む習慣をつけると、なにかの都合でどうしても読む時間がとれない時など、なんとなく、一日気持ちが落ちつかないものである。また映画をみるクセがつくと、毎週変り目にはみないでいられなくなるが、暫くみる機会を失うと、一年でも五年でも、みなくても平気でいられるものである。
 こう考えてくると、私達の日常行動の大半は、日頃の生活習慣ともいうべきクセのものであると、つくづく感ぜざるを得ない。しかもこのクセには、よいクセとわるいクセがある。だからできるだけよいクセをつけるように心掛けることが、どんなに大切であるかがわかる。毎日の生活的クセによって、その人の人間性が形成されていくのだから恐ろしい。よい生活的クセの集積からは立派な人格が、悪いクセの集積からは反対によくない人格がつくられていく。

 越前永平寺の開祖道元禅師は「平常心是道」という言葉を使われたが、日頃の行為行動を離れて仏の教えはない。飯を食う、お茶をのむ、靴をはく、挨拶する、そこに禅があるのだと、禅修業のために永平寺に集まった雲水達に、禅師は教え示されたのであろう。

 私達は「このクセはよいクセであるのか」をまず考え、そして「よいクセを身につける」ように精進努力したいものである。
           (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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22> 「般若」34号より  (昭和45325日発行)

    六甲台より(十七) 縁の下の力持ち   稲葉 襄

 妙なことから突然経営学部長の職を引受けることになった。引受けてみてはじめて学部長の職務を遂行することが、どんなに時間的には多忙であり、超過勤務の連続であるかということ、したがって研究と教育とを主たる任務とする大学教授としての本来の職務を果たすことに、どんなに多くの支障があるかということがわかった。しかも学部長としての仕事は、大学教授の仕事からすればいわゆる雑務と称せられるものの山積である。だから学部長とは学部運営のための雑務の総括責任者といえそうである。

 だがよく考えてみると、この雑務と称せられるものが、実は学部を運営してゆくためには、なくてはならぬものであり、これが順調に行われないと研究にも教育にも混乱が生ずることになる。したがって研究や教育を支障なく行うことができるのは、学部内の事務あるいは雑務と称せられる種類の仕事が、円滑に遂行されているからに外ならない。こういう意味からすると、地味な目立たない仕事としてのいわゆる雑務の処理は、大変大事な仕事になってくる。だから、このいわゆる雑務を毎日コツコツと片付けていくことを職務とする事務の方々は、地の塩的な、縁の下の力持ち的な存在であるといえよう。この人達の仕事と毎日の努力とはまことに尊いものといわねばならない。

 世の中には、派手でなく、しかもうまくいってあたりまえ、少しでもつまずくと非難されるような、前記のいわゆる雑務的なものの処理に当たられている人達が沢山おられることだろう。グループの世話人や○○会の幹事をされている方々もこれに該当しよう。この人達の仕事はグループや○○会が存続するための必要条件であるとともに、グループや会がうまく運営されるかどうかは、一にかかってこの人達の努力と目に見えない献身とに依存している。他の人達にはなかなかわかってもらえないこの人達の尽力こそ陰徳そのものであり、たとえ他人には理解してもらえず、認めてもらえなくてとも、この人達はみずからに人間的な深みと重みを積み重ねており、天に貯金をしている者であるといえよう。
 まことに西郷隆盛のように、「人を相手にせず天を相手にせよ」という心構えが、縁の下の力持ち的な仕事をする人達にとっては、大切なことだと私はしみじみと思う。

           (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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23> 「般若」35号より  (昭和45825日発行)

    六甲台より(十八) 中  道    稲葉 襄

 すべての存在は、構成要因の相依り相扶け合いから出来上がっている。しかもその相依性の内容は常に変動するから、存在は生成・発展・消滅するのである。絶えざる不均等の断えざる均等化を目指して運動しているところに存在の生成と発展があり、均等化を目指すにもかかわらず均等化を回復出来ない状態になったとき、存在は消滅の過程に入るものといえる。だから存在の目指すものは常に均等であり、均衡である。均衡はバランスのとれた状態ともいえようし、また調和のとれた状態でもあろう。

 自然にしても、人間関係においても、個人の心・身の間に、あるいは人の身体の構成要素間や心的状態においても、もしくは外形的な服装にあっても、均衡・バランス・調和のとれていることは美しい。私は日頃から「調和こそ美」であると思っている。そして自己の身体を調和のとれた状態に常に維持したいと願い、また他の人々とで構成する集団内にも調和をもたらすことに努力し苦心している。

 調和の状態は均衡の状態であり、中庸の状態である。中庸は単に数学的意味の真中ではない。また単なる妥協でもない。中こそ正であり、中正である。これは正しい目標実現のための積極的な行動過程におけるバランスのとれた状態を意味する。中道はこのような状態であろう。

 材木が河川を流れて、いずれかの岸に偏して停滞してしまうことなく、また岩に打ちくだかれることもなく、無事大海に到達するように、私達は人生の流れにしたがいバランスをとりながら、目的地に到達しなければならないと思う。それゆえに中道こそ私達の日常行動の基準であり、実践の目標である。                   (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
                                                         
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24> 「般若」36号より  (昭和46115日発行)

     六甲台より(十九) 柔 性    稲葉 襄

 普通、神戸にいるときは毎朝、駆け足で近くの禅寺へ行き、坐禅のあと体操をし、終わって御住職からお茶を二杯頂戴して帰宅するというのが日課になっている。

 その際思うことであるが、昨日の朝は体操を終わった後、あれほど体が柔らかくなっていたのに、今朝体操をしてみると、昨朝できた動作をするのに骨が折れる。その時われわれの身体は、一日でどんなに疲労し、したがって、全体が固くなってしまうことだろうかと驚く。体操の全過程をやり終えて、やっと柔らかさを取り戻す。だから都合で、二、三日休もうものなら、もとに戻すのが大変である。

 身体が柔らかくなると気も晴々とする。肩も軽くなったように思う。きっと全身に血の循環がよくなったせいではあるまいか。肩のコリ背中のコリも、循環の悪さからくるうっ血に因るのではないかと思える。昨夜疲れた身体で考えようとしても、なかなかまとまらなかったことも、何とかまとまるようにもなる。身体が柔らかくなると心まで柔らかくなり、頭の働きもよくなり、考え方にも弾力性が出てくるような気がする。やはり、体柔軟なる者は心柔軟なりといえそうである。身体が老化し柔軟性を失うと、心まで頑固になるのではあるまいか。体の動脈硬化は心の動脈硬化を起こすのではなかろうか。

 自動車や機械類は、使った後始末をよくしないと、今度使うとき調子よく動かないし、耐用年数としての寿命も短くなる。機械類やその他のものにも、手入れが必要である。よく手を入れてやる愛情があればこそ、機械なども、その人によく仕えてくれる。そのことを私達はよく知っているにもかかわらず、なぜ自分の身体に手入れをしようとしないのであろうか。いずれは駄目になる身体とはいえ、もっと身体を大切にして、手を入れて、柔軟な状態に保ち、できるだけ永く、しかも調子よく使えるようにする必要があると思う。

 企業経営においても、柔軟性を失って硬直した場合には、その運営はうまくいかない。購買、製造、販売、財務、労使関係において、あるいはその相互関係において、弾力性や張りや円滑性を失えば、生産性や能率は低下し、経営全体がモロクなり、ネバリがなくなる。そのような経営は若さと発展性を失ってくる。だから企業経営においても、柔軟性をいつも保つように、経営の各部にわたり、常に綿密に手入れし、経営におけるコリを取り除く必要があろう。

 「体柔軟ならば心柔軟なり、心柔軟ならば体おのずから柔軟」ということもいえると思う。しかし、凡人はまず前段より始めるしかないと思い、私なりに努力している。柔軟性を得るためには、毎日続けて精進することが必要であることを痛感している。そして、このことは何事についてもあてはまるように思う。
                 (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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25> 「般若」37・38合併号より  (昭和47410日発行

    六甲台より(二〇) 仕事の遊戯化    稲葉 襄
 私達が生活してゆくための働きを仕事ということができよう。このような仕事は欧米人的考え方によれば労働labourであり、労働は苦しいもの、苦痛であると受けとられる。かれらにとり苦痛である労働することの反対給付が賃金であると考えられる。したがって労働は生きるための不可避的な悪であり、労働することなしに生活できたら、それにこしたことはないということになる。人生の目的は労働することでなく、むしろ楽しむenjoyことにある。楽しむための手段としての労働であるにすぎない。だから労働はできるだけ少なく、賃金はできるだけ多いことが望まれる。また一般の社員は就業時間がくればぴたっと仕事を止めてしまうし、万止むを得なく残業をするときでも30分以内ででき上がる場合にのみ応ずるということになる。さらに自分で予定した休暇のために休暇願を出したところが、会社側は仕事の関係上休暇はを一週間繰り下げてもらいたいといったところ、辞表を出して旅立ったといった事態もおこる。

 ところが従来の平均的な日本人の考え方によれば、働くため、仕事のために、休みはあるのである。たとえば日曜日などの休日は月曜日以後の労働のための休養日という考え方である。欧米的には休日holidayのために週日week dayがあるということになろう。だから日本人的発想においては、『人生の目的は働くこととみつけたり』であって、よく働くために休養をとるということになろう。そこには働くことが苦痛であるというよりは、働くことのなかに楽しみを見出していこうという構えが感じられさえする。

 このことは欧米人にとって自然は敵対するものであり、したがって征服すべきものであるのに対し、日本人にとって自然は友であり、したがって融和すべきものであり、また、欧米人はそのような自然に対し自己を守るための強固な城としての住宅を構築するが、日本人にとっては、住宅は自然に敵対するもの、自然から区画するものではなく、自然をとり入れ、自然と共に住み、自然と一体化するように設計されるという違いとも通ずるものがあろう。

 自然を敵対物・苦痛を与えるものとしてではなく、自然を友とし、自然と融合することのなかに楽しみを見出してきた日本人の生活態度は、労働を単に苦痛として受け取るのではなく、外界への働きかけとしての労働をすることのうちに楽しみを見出している。すなわち外界と融合すること、対象と一枚になり、仕事と一体になることのうちに楽しみを見出すという姿勢をも生み出してきたのではあるまいか。

 あらゆる存在は、相互に対立しながら相互に助け合っている関係をうちに含んだ矛盾的統一である。だから対立・敵対関係を強く表面化しとらえることもできようし、また反対に助け合い・融和関係を強調することもできよう。しかし一方だけを強調することは、正しい把握の仕方ではない。だが現実的には労働に対し、欧米においては対立的・苦痛の面においてとらえ、日本においては融和的・楽しみの面においてとらえる傾向があるといえるのではあるまいか。

 人生の大部分を占める生活のための労働としての仕事のなかに、楽しみを見い出してゆこうとするためには、仕事をするときに、仕事と一体になり、仕事において外界と自己とが一枚となり、われを忘れた忘我の境において仕事をすることが必要である。そのとき仕事は遊びとなる。丁度大汗を流しながら、生理的エネルギーを消耗させながら、それをなんら苦痛とも思わず、勝っても負けても、楽しみ合っているスポーツの場合のように。私達は仕事を遊びにしたいものである。そのとき、その人にとっては、人生もまた遊びになろう。             (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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26> 「般若」39号より  (昭和4886日発行)

六甲台より(二一) 足許の民主主義    稲葉 襄

 今年も夏、美が原温泉にきた。毎年のように来るこの宿、そして泊る部屋もきまっている。この宿には一階と二階に一ケ所ずつの共同便所がある。

 昨年の夏、便所のサンダルが乱雑なのは、便所へ入るドアが、サンダルにひっかかるためではないかと思い、ひっかからないように直しておいたらどうかとアドバイスした。今年行ってみると、その点は改善してあったが、依然としてサンダルは出てくる方向に爪先を向けて乱雑に脱いである。私は便所に行く度に、次の人が履きやすいように、揃え直して出てくるのだが、行く度に雑然とあとの人のことは知るものかという脱ぎぶりである。

 一階に共同の浴室がある。この浴室に入るたびに思うのだが、いつも洗い桶が上がり湯や上がり水用の蛇口のそばに使い放しになって置かれている。石鹸箱も所定の位置にあったことがない。これも使った場所にほうり放しになっている。

 宿の玄関の下駄も、使用した人が、上がった方向に脱いだままである。そういえば廊下から部屋に入るところに脱ぎすてられたスリッパも、部屋の方向に向かって脱がれている。

 今年は仕事の関係から、松本の滞在を終わって、さらに妙高池の平温泉に滞在した。ここでも便所のサンダルと浴室の状況と玄関の下駄と部屋の前のスリッパとは、美が原温泉の場合と同様である。

 このことからわかるように、恐らく全国の温泉で、この現象は同じように起こっていると推測して間違いなさそうである。

 こういった現象がなぜおこるのであろうかを考えてみると、「自分は用をたした、あとの人のことは知ったことでない。」という精神的態度に由来すると思われる。そこには、自分だけのこと、しかも目先だけのことしか考えようとしない近視眼的な利己主義が顕著に現われている。

 われわれは戦後、人間生活の基本的原理を民主主義に求めてきた。民主主義とはどういうものであろうか。簡単にいえば、個人的自由と人格的平等を二本柱として社会生活の基礎としていこうとするものである。自由と平等のチェック・アンド・バランスにおいて社会生活に秩序を与え、調和のある社会を形成しようというものにほかならない。したがって、そこには、人間は孤立的存在ではなく社会的存在であり、人間生活は人と人との相互関係としての社会関係においてだけ、その成立と存立とが可能であることを前提としている。だから自分だけよければよい。他人のことは少しも考慮することなく、自分のことだけ考えて行動すればよいという利己主義は是認されない。自分が自由に行動したいのなら、他人の自由な行動も阻害してはならない。そこに権利と同時に義務が発生する。たとえば自動車に乗り自分は前方に進みたいとき、逆方向から来た自動車に、自分が通過するまで待てとはいえない。自分が進みたいのなら、相手の進むことも認めなければならない。そうではなく、お互いが自由に主張試し合い、それに基づき行動したら、衝突してお互いに一歩も進まないことになろう。したがって、そこに両方の意思を円滑に達成させるために、放任的な自由に対する制約が必要である。この社会的制約の現われが、この場合は、交通信号となって現象する。われわれは自己の放任的自由を押え、交通信号にしたがうとき、かえって各人の行動が自由であることは、日常経験からも明らかである。日常社会生活の秩序を保ち、その円滑な運営を期するための交通信号に相当するものが、社会道徳とか礼儀とかいわれるものである。そして現代日本の社会道徳の根底には民主主義がある。

 このように民主主義では、自分の権利を認めてもらいたければ、相手の権利をも認めなければならない。その結果どうしても意見の一致をみないときには、多数決原理によって、処理されるという過程をとる。民主主義議会制度はこのような考え方の具体的な現われであろう。もしそうでなくして、相手の意見・立場を無視して、自分の主張を一方的に押し通すならば、それは独裁である。だから民主主義は自分の権利を認めさせることは、同時に相手の権利を認めることの義務を負うことでもある。権利と義務とは盾の両面である。あたかも自由と責任が盾の両面であるように。そこで民主主義を通俗的にいえば、「自分がこうしてもらいたいと思うことを、他人にもせよ。自分がそうしてもらいたくないことは、他人にもするな。」というようなことにもなるであろう。先の人が便所から出てくるときに、出てくる方向に、乱雑に脱ぎすてられたサンダルは履きにくい。浴場で放置された洗い桶や石鹸箱、脱ぎ捨てられた玄関の下駄、部屋の入り口の乱雑はスリッパも、次に使う人には不便であり不愉快である。自分が次に使う人の立場、自分以外の相手の立場になったとき、不愉快で不便なことは、しないことである。それが民主主義の日常化ではあるまいか。

次の人が履きやすいようにそろえられている便所のサンダルや玄関の下駄や部屋の前のスリッパ、次の人が使用し易いように所定の場所に置かれている浴室の洗い桶や石鹸箱。そこに私は民主主義の原理が生活の上に働いていると思う。そうしてそうすることが、日常の社会生活においては、民主的であるとともに合理的な行動であろう。一般的にいえば、次の行動がとりやすいように揃えられている現象の内にこそ、次の行動を、将来のことをおもんばかる計画的考慮をみることができる。計画的準備のあるところに余裕があり、あわてる必要もなく、したがって失敗も少ない。

私達は民主主義を口にする以外に、民主主義を日常生活のなかに具現しなければ、民主主義をほんとうに理解したとはいえない。それには、まず「足許の民主主義」からはじめたいものである。
    「1972年8月9日 原爆の日に」
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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27> 「般若」40号より  (昭和48年10月30日発行)

    六甲台より(二二) 近頃のお寺    稲葉 襄

 今年の夏も例年のように信州に出かけた。松本郊外の温泉地の私の宿の近くに玄向寺というお寺がある。浄土宗のお寺らしい。というのは、本堂の壁に総本山知恩院の信徒会館建設費用の割当額60万円、大本山増上寺本堂再建費用の割当額30万円と書いてあったからである。私はほとんど毎夏この宿にくるたびに、私が神戸でもよく行っているように、毎朝五時に起き出して、駆け足でこのお寺に行く。今年はお寺の入口の門のところには、一方に「お寺に参拝する方はまず本堂に向かっておがみましょう。親がおがめば子もおがむ。おがむ姿の美しさ。」といったような文章が筆で書かれてある。また反対側には、黒板に白墨で無量寿経の「和顔愛語」の注釈文が新住職名で書かれている。以前は老僧名で書かれていた。きっと住職を息子さんにでも譲ったのであろう。私は近年来、この掲示板をみるにつけ、感心なお寺だ、少しでも大衆に接しようとする気構えがあるなと思っていた。

 お寺につくのは五時十五分か遅くとも三〇分ぐらいであるが、その時にはお寺の方は誰も起きている気配がない。昨年のこと、前の晩遅くまで仕事をした関係で朝寝坊して、七時頃宿を出て、お寺に行ったところ住職を中心に、そのうしろにお寺の方であろうと思われる男女が五名ほど坐り、お勤めをしていた。私が神戸で出かける祥龍寺は、毎朝五時に朝の鐘がなり、朝課がはじまる。それとくらべると、七時過ぎとは遅すぎる。会社勤務の俗人でも、もっと早く起きる人はざらにいる。近頃はお寺でありながら、朝課も晩課もしていないお寺がたくさんあることを聞いているので、このお寺も遅すぎる朝課であっても、やるだけましだと思っていた。

 今年も毎朝五時すぎにお寺に行き、幸い本堂の戸を開けることができたので、一人で静かに坐り、私なりの朝課をしていた。ところが、ある朝わざと七時すぎにお寺に到着して、本堂の戸を開いて入ってみると、老僧が一人でろうそくをつけ廻っていた。私が戸をあけて本堂に入るのをジロリとみた。つけ終わると一人で朝課をはじめた。私は本堂の入口近くに座を占め、だまって坐っていた。私の目の前には、小さな木魚が一つずつ脇に置いてある座布団が五枚並んでいた。やがて女の人がお茶をいくつか持って仏壇に供えはじめ、終わると本道から去って行った。朝課は簡単であった。その終わりに近い頃、一人の青年がワイシャツ・ズボン姿で入ってきて大磬(だいしょう)(鉦の一種)の前に坐った。別に大磬は打たなかった。大磬を叩くほどの時間もなく老僧のお経が終わったというほうが正確であろうか。お経を終わった老僧は、黙って本堂から去って行った。青年は老僧より先に去った。私も静かに本堂を出た。昨年の朝は、お勤めの際、本堂の座布団に五名ほどお寺の方らしい男女がいたのに、今年はいない。今年ワイシャツ・ズボン姿の青年が座ったところには、昨年は老僧の後継者らしい人がころも姿で座っていたように思う。大分変わったなと私には感じられた。

 翌朝のことである。私は例のごとく五時すぎにお寺に到着した。本堂に入り、私なりの朝課を一人でやろうと思って、戸を開けようとしたところ、鍵がかかている。ほかの戸も全部同様である。昨日私が本堂に入ったのを老僧がみて、今朝は入らないように、あわてて鍵をかけたに違いないと推測した。

 なぜ本堂に入ってはいけないのであろうか。参拝するということは、本堂に入り参拝し、あるいはお寺の方と一緒にお勤めに参加するほうが、単に外から本堂にむかっておがむより、一段と意義のあることではあるまいか。それとも寺族以外のものは本堂に入れないというのであろうか。本堂は正式に仏様を仰ぎ、仏様と対面し、仏様と語るにふさわしい場所ではないであろうか。それを拒否するということは、本堂は寺の所有物であるから、許可なしには入らせないという考えか、それとも無断で入って何かを盗まれでもしたら大変という考慮からでたものであろうか。もし前者だとするならば、寺は皆のものであり、寺族だけのものではなく、住職は単に公衆から寺を預かり、管理している人にすぎず、とくに本堂は仏と衆生が対する場所として、公の意味をもつところであるという寺院のもつ本質を忘れたものといってよいであろうし、また後者だとするならば、信仰の場であるお寺で何かを盗むということは、よくよくのことであって、お寺としたらそんな人には恵んでやったと思えばよいのではないか。仏具や座布団を盗まれたら、その人に仏縁を結ばせるよい機縁といってもよいではないか。本堂に入れないように鍵をかけることの考え方が私にはわからない。

 こういった考え方が、じつは公衆からお寺を遠ざけ、仏教を葬式宗教化し、公衆の日常の生活にとって寺を縁なきものたらしめるのではあるまいか。近頃の人は宗教心、信仰心がないと僧侶の方が嘆く前に、寺を私有財産化し、自らの子弟には朝晩のお勤めもさせず、公衆が仏に近づき寺に近づくことを拒否し、本堂の前に大きな賽銭箱を置いて、銭だけ入れよといわんばかりの態度と葬式を唯一の収入源として歓迎する自らの態度を、本堂の仏のまえでもう一度静慮されたらいかがなものであろうか。大衆と共にあり、大衆に仏の心を伝えることを主要な使命とする一般寺院の本来の在り方にかえる必要はないであろうか。私達は俗人と同じ生活、場合によっては俗人以下の怠惰な生活をしている僧侶のいる寺院には、なんら寄付も賽銭もあげる必要はないのであり、私達がお寺に寄付し、賽銭をあげるのは、私達のなかなかでき得ない行いを、仏の教えにしたがって、日常生活において、実践していることに対する敬意と、仏の教えを伝え、世のため人のためになる行動をしていることに対する尊敬とから発するものである。

 寺院が寺院本来の意義を失ったときは、社会的には無用化したのであり、むしろもっぱら社会事業でも行なう場所に変えてしまうほうが、どれだけましかわからない。僧侶の方はみずからの信者をつくるよう行動し勤めようとはせずに、檀家制度のうえにあぐらをかき、本山からの割当を檀家から集め、鳥目集めのための檀家廻りや、葬式収入をもっぱらあてにしたり、あるいは着る衣の色や僧位僧階に血眼になったり、日常生活では僧侶はむしろ兼業で本業は公務員である等々の状態から一日も早く脱却し、本来の僧の使命に専念することが、必要なことではないであろうか。興禅大燈国師遺誡にいわく、「汝等諸人此の山中に来って、道のために頭をあつむ。衣食のためにすることなかれ、肩あって著ずということなく、口あって喰はずということなし。ただすべからく十二時中無理会のところに向かって究めきたり究め去るべし。光陰箭の如し、謹んで雑用心することなかれ」と。また道元禅師正法眼蔵随聞記にいわく「無常迅速なり。生死事大なり。しばらく存命のあいだ、業を修し学を好まば、ただ仏道を行じ仏法を学すべきなり。仏法を学し仏道を修するにも、なお多般を兼学すべからず。一事を専らにせんすら、鈍根劣器の者はかなうべからず。いわんや多事を兼て心操をととのえざらんは不可なり」と。そして僧籍におられる方々は、近頃のいわゆる僧侶業に堕することなく、自らの行動によって世の先覚者、指導者、仏の教えを伝える者として活躍し、仏法を身をもって教える人として、世人から尊敬されるようになっていただきたいものだと思う。
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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28> 般若」41号より  (昭和49年1月25日発行)

六甲台より(二三) 謝  辞    稲葉 襄

 このたび、千葉県市原市の私の生まれ故郷の、大永元年八月多賀豊後守により開基され、観世音菩薩を本尊とし、福島県いわき市竜門寺(竜渓寺の本寺)二世益芝明周大和尚を開山とし、末寺四ケ寺をもち鶴舞藩主六万石石井河内守の菩提寺でもあった竜渓寺というお寺で、総門再建、鐘楼堂、山門復興、本堂大改築、梵鐘再新鋳、庫院再建等の落慶法要と渋谷昌道住職の第二十九世としての晋山結制とが行われることとなり、大本山総持寺貫首岩本勝俊禅師により落慶式典が親修され、その際感謝状記念品等が授与される。ついては父が壇頭として謝辞をのべることになっているが、老齢のゆえに、父に代わって私に述べるように、との父とお寺の住職さんからの通知に接したので、久しぶりに郷里に帰り、参列の僧侶の方も多いことと推測し(事実当日五十名ほどはおられたと思う)これを機会に不遜をも省みず、日頃一信者として考えていることを、一言いわせていただこうと思い、述べたのがつぎのようなものである。

             謝 辞

 晩秋のよき日、本日、安寧山龍渓禅寺の落慶法要が行われるに際し、大本山総持寺貫首岩本大禅師猊下をはじめ多くの宿老尊宿各位の御光臨を得ましたうえに、禅師猊下には親しく落慶の法要を厳修下され、かつ有難き御垂示を賜わり、只今は身に余る御言葉等を賜りましたことは、私達の光栄と致すところでございます。

 今回の落慶に当り思いおこすは、高祖道元禅師のお言葉であり、禅師は、「この頃の人は、仏の像を作り、堂塔を作ることを仏法興隆と思っているが、これは間違いである。たとえ玉をちりばめ、金を延べた、立派な堂塔ができたからといって、それで仏道が得られるものではない。それよりも、粗末な家、樹の下であっても、仏法の一句を思量し、一時の坐禅を行ずることこそ、誠の仏法興隆である。ただ道を求むる人達の坐禅の道場を作るというなら、それは仏法と大衆を結ぶ因縁にもなるであろう」という意味のことを申されておられます。まことに仏法における堂塔の意味を明確にお示しになったものというべきでありましょう。

 この高祖禅師の御垂誡を思うにつけ、近頃の僧侶の方々のなかには、修行時代は住職の資格をとるためのみの短期間の名ばかりの僧堂生活をするにすぎなく、住職となってからは、自らの毎日の生活は高祖禅師の御垂示にある「行履綿密」とはおよそ正反対の行動に明け暮れ、あるいは公務員となりいずれが本職かわからぬ状態におち入り高祖大師の「一事専修」の教えにそむき、また壇家制度のうえにあぐらをかき、壇家廻りや葬式収入を専らあてにし、

衣の色や僧位僧階に血眼になり、はては本山からの割当や冥加金を壇信徒から集めることのみ熱心であったりして、僧侶としての本来の面目を忘れ、あるいは周囲の者が善智識を極端に祭り上げ、貴族化させ、形式的に権威付けを行い、大衆と隔絶することによって、善智識の真の御心を大衆に誤認させる罪をおかし、あるいは新しき世代に対する積極的効果的な宗門としての教化策の樹立実行を怠る等の憂なしとしない風潮が見うけられるのであり、その結果仏教に対する世の人達の尊敬と信頼を失わせる状態を生み出しています。

 このような仏教界の一部における末世的現象のなかにおいて、今回龍渓禅寺の堂塔落慶を機に、私達信者は、住職昌道和尚を中心に、高祖承陽大師の「無常迅速なり、生死事大なり、学道の者、衣食のためにすることなかれ、ただ仏法のため仏法を行じ学すべきなり、」というお言葉、あるいは「修証不二」「只管打坐」「平常心是道」などの御言葉によって表されている正法の仏法を、坐しては、心身を挙し、打定一片、自己を忘れ、万法に証せられ、心身脱落、脱落心身の境を三昧に修証し、動いては、日常生活そのまま仏法である底に精励し、「即今只今を最もよく生きよ」との道元禅師の御精神を、現代に、この鶴舞の地に、龍渓禅寺の活動の中に、生かして、永平・総持滴々の禅風ここに在り、仏法いまだ衰えずの気概を実践により示してゆきたいと思います。

 このためには昌道和尚におかれても、「作法即仏法」の高祖大師の御精神に副い、新鋳された梵鐘を朝に夕に打ち鳴らし、壇信徒への挨拶とかれらの仏心を呼びさますことを兼ねると共に、自粛自戒の念を深め、朝課晩課を怠ることなく、新築された堂塔を、たとえば坐禅説教等の集会の場として十分に活かして使い、仏の教を壇信徒をはじめ一人でも多くの大衆に伝える宣教活動の道場たらしめ、「堂塔は大衆からの預かり物、住職はその管理者にすぎぬ」という謙虚さをもって、実行と精進とを通じて、よき管理者、尊敬される精神上の管理指導者となっていただきたく、また他方において信者たる私達も、和尚のご指導の下に何ものをも期待することなき「不染汚(ふせんな)」の心で、ひたすら仏法のために仏法を行じ、かつ法のためには、必要に応じ、感謝報恩の心から、報いを求めぬ布施の精神に一層徹底することを誓い、かくして住職と信者とは、法を中心として固く相依り相扶けて、相共に、安寧山龍渓禅寺をして、古仏の精神を現代に活かし、日本曹洞禅の一大メッカたらしめることこそ、本日御多忙中落慶式典のため御光臨の栄を賜った大禅師猊下をはじめ諸尊宿各位の御高志に報ゆる所以であると存じます。

 一言所懐を述べ謝辞と致します。

     昭和四十八年十一月二十六日
                 感謝状受領者代表
                 神戸大学教授・経営学博士

                    稲  葉   襄

            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)  目次へ

                                               

29> 「般若」42号より  (昭和49年11月10日発行)

六甲台より(二四) 息       稲葉 襄

 人間が生きているということは、人間が息をしているということである。息が止まったら死がくる。息こそ命の表現といえよう。

 だから人間生命の持続的活動である人間生活が調ったものであるためには、息を調えることが、まず何よりも必要であり大切である。息を調えることにより、身が調い、心が調う。

 私達凡人が、心を調えるためには、まず息を調えることから始めねばならない。息が調うことによって身が調い、しかるのち心が調うことになる。達人は心調っているがゆえに、身も息も調っているということになろう。古語にいわく、「形整えば心整う。心整えば形おのずから整う」と。

 息を調え、身を調え、心を調える方法の一つに坐禅があるともいえよう。六祖大師大鑑慧能は「外一切善悪の境界に向かって心念起こらざるを名付けて坐となし、うち自性を見て動ぜざるを名付けて禅となす」といわれ、道元禅師も「心身を調えて以て仏道に入るなり」「しかあれば学人は柢管(しかん)打坐(だざ)して他を管することなかれ。仏祖の道は只坐禅なり」と述べられている。普通、坐禅といわれているものは、形のある坐禅すなわち有相坐であるが、有相坐により、われわれは調息、調身、調心の状態が可能になり、自己を忘れ、万法に証せられ、自己の身心および佗己の身心をして脱落せしめる底の境地を手に入れることができる。されば坐禅は仏の生きた姿であり、一刻すわれば一刻の仏である。「修証不二」ともいえる。それゆえに息を調えることは悟りへの道である。

 私達の息は、「吐く息」と「吸う息」とからなっている。吐く息は実であり吸う息は虚ともいえる。われわれは吐く息のなかに力がこもり、吸う息のなかに力が抜ける。はく息とともに活動は行われ、すう息とともに活動はとまる。はく息に緊張があり、すう息に油断がある。われわれの活動は常にはく息とともに行われる。たとえば筆で字を書く場合も、包丁で何かを切る場合も、息を吸いながら書くことはできなく、吸いながら切ることは出来ない。私達は無意識のうちに、息を吐きながら書いたり切ったりしているのである。

 私はだから吸う息よりも吐く息が大切であると思う。私達は吸うことよりも吐くことに意を用うればよい。如何に長く正しく乱れずに吐くかに心掛け、気をつければよい。息を吸うときには、緊張がとけ油断がでるのに対し、吐く息には、いのちと心がこもり、活動の源泉があるからである。

 金魚が水面近くで口をパクパク急がしげに動かしているときは、苦しんでいる時であり、死期も近い。人間も弱ってくると、吐く息よりも吸う息が目立ってくる。吐くどころか吸うことに苦労する。死期が迫ればなおさらである。だから、吐く息の長い人は健康であるといえる。そして吐く息の長い人は心棒強い人でもある。かれは息の長い男だともいう。

 われわれは吐く息を大切にしよう。思い切り長くゆっくりと吐こうではないか。そうすることは、内にこもった雑念も一緒に吐き出して、無我になる方法でもある。無我になることによってよい智慧も出る。

 企業経営においても、とり込み儲けることを第一にせず、他の人のため社会のために尽くすことを優先させることによって、反って企業は繁栄する。利潤は追求すべきものではなく、公衆から反対給付として与えられるものであるという考えを優先させ行動することが必要である。「儲ける」ことを忘れることが結果として「儲かる」ことになる。まず与えよ。しかる後受取れである。 give and take であって、決して take and give ではない。
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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30> 「般若」43・44合併号より  (昭和52年3月15日発行)

 六甲台より(二五) 経済至上主義    稲葉 襄

 近代は人間の解放であり、個の解放の時代である。西欧においては、それまでキリスト教により抑圧されていた信仰からの解放でもある。信仰からの解放・個の解放・人間の解放は自由の時代の到来を意味する。

 このことの極端な現われは欲望の解放であり、なかでも経済の欲望の解放が最も強力かつ広範囲なものであった。経済が人間生活の他の領域をも支配するまでに発達した。経済主義の時代の到来である。ヨーロッパにおいては大体1680年頃からこのような段階に入ったと言いえよう。この時代になると、経済学においてもイギリス古典学派が出現し、スミス、リカルド等により自由主義に基調を置く学説が主張された。

 経済主義の時代に入ると、貨幣は今までよりも一層人々により重視された。そしてその後の人間社会における経済の目覚しい発達発展とは、人々をして働くことはお金のため、貨幣を得るためという考え方を一般化させるほどになった。人々はお金を得るためならなんでもする。政治家その他の職業に従事する人達も貨幣獲得に狂ほんし、極端な言い方をすれば人生は金なり、人間の働く目的は貨幣の獲得であるという風潮が全般的に強まったのである。そして、自己の金儲けのためには他人の生活・幸福を阻害してもよいとさえ考えるに至り、各種の公害を引きおこし社会問題とさせ、あるいはこの考えを国際的におし広め、他国の人達をしてエコノミック・アニマルと言わさせるに至る。このことは、貨幣をもっていれば他のどんなものとも交換でき、またどのようなものの価値をも測定できるという便利さに基礎的にはよることであろう。その結果は、貨幣の力の偉大さ、その社会的支配力の強大さから、人々は貨幣をあたかも神の力をもつ物のごとく錯覚し、貨幣物神性への信仰が一般化するに至った。

 しかし、それは明らかに錯覚である。たとえ社会における貨幣の力がどんなに強くとも、しょせん貨幣は人間生活にとっては手段にすぎない。貨幣の最も主要な職能は、一般的交換手段であると共に一般的価値尺度手段たることにある。それは手段であって目的ではない。人生は金なりと思い、貨幣獲得のためには手段を選ばず、人をだまし、殺人さえする人達は明らかに手段と目的とをとり違えていると言わざるをえない。貨幣は人間生活にとり便利な手段ではあるが決して目的ではない。

 われわれは貨幣従って経済一般の人間生活における重要性を否定するものではない。特に生存のための最低限を規定するものとして、もしくは文化的な最低の生活を保障する条件としての重要性を経済はもっている。しかし例えば富の所有が人間の幸福と常に必ず平行するであろうか。例えば一定の限度を超えた富の人間生活に占める重要性は、明らかに逓減するものと思われる。われわれは巨億の富の所有者が自殺をし、あるいは至れり尽くせりの病室で不幸をなげく人の在ることを往々見聞するのである。それゆえ、われわれは人間生活における経済の重要性を知ると共にその限界を知ることが大切であり、そうすることによって、経済万能・お金万能の錯覚からさめ、正しい人生の在り方を知ることができるであろう。

 このように考えてくると、現在多くの人々が働いている職場においても、その人達をして、目的として貨幣を得るために働いているという迷妄から離脱させ、あるいは貨幣を多く与えることだけを毎日の働きの刺激剤とすることなく、働きの真の目的を自覚させる教育、その目的にかなった諸施策例えば働き甲斐ある職場にする施策等を行うことが必要となろう。

私は毎日の働きの究極の目的は幸せであると思っている。われわれは毎日働くことにより、自己の、家族の、従業員の、国家国民の、そして出来たら人類の幸せを望んでいるのは明確であるまいか。
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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31> 「般若」45・46合併号より  (昭和53年12月 日発行)

六甲台より(二六) 零の世界    稲葉 襄

 学問とは真実(真理)の探究である。真実の探求にはいろいろな方法がある。この方法の相違が学問の分類従って種類の違いである。学問の種類を大別すると三つになる。すなわち宗教・哲学・科学である。

 三者の関連をみると、

(1)哲学は宗教と同じように、無仮定の後進的遡源的反省である。科学は前提を基点とした前進的構成的発展的解明である。

(2)哲学は科学と同様に思考的であり、真実を知得しようとするものである。宗教は真実を体得せんとする。

(3)哲学は宗教と同じく全体的総合的把握のもとに探求する統一的立場に立つ。科学は分化専門化へ進む分析的立場に立つ。

(4)科学の知識は悟性知であり、哲学の知識は理性知である。悟性知は分析的な方向で客観的妥当性(普遍性)を求め、理性知は主体的に把握された知として、宗教的真理である根源的普遍性と相似た、しかし科学の普遍性とは違った、内的具体的普遍性(根源的普遍性)である。

(5)科学的知性(悟性知)と哲学的知性(理性知)は共に主客対立の現われる観照知であり、知の限界をまぬがれない。これに対し宗教的知性は主客一体となって知る合一知・覚証知である。

 このようにみてくると、哲学は一面で科学と通じ、他面で宗教と通じている。宗教と哲学と科学は、それぞれ領域を異にしつつ、垂直につながっている重層的関係にある。すなわち、科学は哲学に基礎付けられ、哲学は宗教によって基礎付けられている。科学の到り得ないところに哲学が開け、哲学のきわまるところに宗教が開かれている。

 そして科学・哲学・宗教を通じ、共通点は真実(真理)を探求するために疑うということである。したがって、真実を見い出すために疑問をいだく精神こそ学問的精神である。疑問や反省のないところに学問はあり得ない。

 学問的精神をもって存在の本質を探究したとき、縁起性こそそれであると思われる。すべての存在は縁起の法則によって貫かれている。存在はもちつもたれつの関係において存在している。もちつもたれつの関係の理想的な姿は円であり、円満な姿である。すなわち「円相」である。円相こそすべての存在の本来の姿である。円い地球、円満な家庭、円い円満な人、労使関係の円満な経営等々である。円相は本来的存在を形式としてとらえた用語であり、内容としてとらえてば「零」である。零こそ、すべての存在の根源である。プラスもマイナスも零から生まれる。したがって、まず科学は部分知において、哲学は全体知において、この零の世界を知得せんとし、宗教はこの零の世界を体得せんとするものであるといえる。
                 (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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32> 「般若」47・48合併号より  (昭和54年7月 日発行)
           (最終号)

六甲台より(二七) 継続は力なり    稲葉 襄

 何事であれ、一つのことを断絶することなく行うことは困難であり、それだけに尊いことである。

 “よしこれはよいことだ、やろう”と決心してやり始めても、とにかく続け難いものである。いろいろな事情から、その継続を妨げる条件も起こり易いし、起こると人は安易にそれと妥協し、自分自身に言訳をしたり、自分のことは棚に上げ責を周囲に帰したりして止めてしまう。やり始めたら、なんとかしてやり抜き、満足する成果をあげようとする気概に欠ける。古人はこのような現象を「三日坊主」とか、「そのよきことは三歳の童子もこれを知る。これを行うことは八十の老翁といえども難し」ともいった。まことに何事であれ、永きにわたり継続しているという単純な事実は、そのことだけで既に尊いことである。毎朝本を読むとか、運動するというような、どんなさ細なことでも、途中で放棄することなく、断固として継続して行うためには、一大勇猛心・精進心が必要である。人は意思弱き者なるがゆえに、なおさらやり抜く勇気を強くもつ必要がある。

 やり抜く勇気の湧き出る源泉は、やろうとすることについての十分な認識がまず必要である。例えばある人にとり酒は害毒である場合、そのことがよくわかっているならば、恐らくその人は酒への欲望を抑えることができよう。抑えられないのは、心の底からほんとうにわかっていないからである。わかったならば実行せずにはいられない。「よく知ることは行うこと」であるからである。その味を言葉で説明して理解できずとも、食べてみるとほんとうに知ることができる。ここに知と行の二輪性・相即相入性があり、知の至れるものは行であり、行の至れるものは知であることがわかる。

 私達は知ることにより行い、行うことによりさらに深く知り、継続が可能になると思う。それゆえに継続できないのは、ほんとうに真剣に望んでいないか、知っていないか、行なっていないからである。心から望み、あるいはよく知った人にとっては、行なわずにはいられないはずであり、そこにおのずと継続という事実が可能になる。継続することにより、力も自然に備わってくる。各業界における名ある老舗の底力もその一つであろう。

 かくして継続という事実は、その人の意志を鍛錬し、人間を向上させるよき契機であるとともに、そのことを深く知り、行うことによって、力とよろこびを与えてくれる。私達は因縁のある限りは、必死になって継続するよう工夫と努力とをせねばならない。
            (般若団・神戸大学経営学部教授・経営学博士)
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<追録1> 「仏青」復刊號(昭和30年)への稲葉先生の寄稿文

     セルの袴と海清寺       稲葉襄

 昭和に二十三・四年頃かと思う。ふとなにかの機会に西宮海清寺において「早起修養会」があるというのを知り、名にし負う南天棒住山の名寺、近くでもあるので一度のぞいてみようというので、ある朝、戦災もうけずにそのまま残っている学生時代からのセルの袴をつけ、気持ちのよい夏の空気を吸いながら家をでた。

 この時代物のしたがって経済学的にいうならば、希少性価値を若干はもつこのセルの袴をはくと、走馬燈のように思い出が浮かびでる。

学生時代この袴をはいて島津君とはぢめて伝芳庵を訪い、玄関で香洲老師のギョロリとした大目玉にぶつかり肝をひやし、導かれるままに老師の室にお邪魔し、いろいろ神戸高商以来の因縁話を承り、しっかりやるようにと御激励をうけ、ここにはぢめて神戸商大の禪宗部ともいうべきものができたことを。それからは、中村、矢部、石井、鈴木、前田、其他の諸君が続々とつづき、やがて長岡禪塾の開設。それから大学まで通った熱心な後輩諸君のことなども思いだされる。

 一方真宗の光徳寺には、その頃主事をしていた曾我さんや、桂、稲垣、中山の諸先生並びに先輩の井上さんおよび京大の哲学を出たての酒井さんなどを中心の大乗仏教研究会の集会や講座によく御邪魔させていただいたものだ。広森、石井、中川、其他の諸君の顔が思い出される。そのときもやはりこのセルの袴を着用していた。

 大学内における仏教諸派に集まりを統一したものとしての商大仏教青年会を作り、その会則草案を夜遅くまで幹事の人に下宿にあつまってもらってつくつたり、会誌「仏青」の創刊號、第二號を中村、矢部、高井其他の諸君に中心となり熱心にやって戴いたこと。井上先輩の特別の御骨折りにより佐々木円梁先生を中心とした仏青寮が大学の下の篠原本町にでき上がったことなどもみなこのセルの袴と関係を持っている。

 大部周囲も明るくなった。どうやら海清寺にきたらしい。武徳殿の前から鐘楼の方へはいる。雲水さんが盛んに庭をはいている。おや少し早すぎたかな。初めてきたので不案内も手伝って若干とまどう。みている程に一人なんにもしないで雲水さんに時々何かいっている中年お僧がおられる。白い法衣にたしか前掛けの大きいような白い布をしめていたように思う。ははあこの人が老師かも知れんと、ひそかに思っているうちに、程なく作務も終わった。そこらをぶらぶらしているうちに本堂で「十牛の図」の講話があった。やはり先程の僧が老師であられた。聴講者は十五、六人ぐらいだと思う。私は終戦後それこそ久しぶりに御寺に伺ったのであるが何ともいえないよい気持ちであった。お話が終わって家へ帰って朝食をたべた。朝食もうまかった。そして翌日も翌日も私はセルの袴を着用におよんで御寺に出かけた。聴講者のなかで和服をきて袴をはいていたのは私一人であったように思う。既に明るくなった帰りの途などでは、人々はここに時代的センスのおくれた男が通ると思っているような、また神がかりか仏がかりの男が通るといわんばかりのような顔をしてじろじろみていた。しかし、よくいえば時代的な歴史的なサビをもった、悪くいえば屑屋行き一歩手前のセルの袴はなぜか私には懐かしくもありピッタリともする。

 この夏の早起会が御縁となり、その後も例のセルの袴を着用しちょくちょくお寺に顔を出すうちに、初めは誰とも話をしなかったのだけれども、直日さんにお茶をよばれ御話を伺うことにより先ずお見知り置き願い、ついで老大師にいつしか御目にかかるようになった。老大師にどういう機会でお目にかかるようになったかは今もって思い出せない。

 そのうちに私も海清寺により近いところに住むようになり、御寺に伺う度数も多くなり、老大師の御話を伺う機会も多く、いつかの折には神戸高商と海清寺との因縁を伺うこともできた。伝芳庵、光徳寺すでになく、長岡禪塾は地理的にあまりに遠い。阪神間の中心地であり、神戸高商以来因縁の浅からざるこの御寺に、新制全神戸大学の仏教青年会の活動本部、拠点を置いて戴けたら仏青のためにも好都合であり、志ある青年学徒のためにも幸いであるのではないかと考え、老大師に御相談申し上げたところ、御快諾下さり、居士寮を解放下さったので早速学生を御世話願うこととなった。このお話の時にもセルの袴をはいていた。まったく余人の宿泊さえ禁ずる専門道場というような恵まれた所で、修行をしながら大学へ通えるということは、なかなか得難い機会である。有難たい次第である。

 その後海清寺の居士寮から経営学士が既に三人卒業した。目下学士にやがてなるであらう学生諸君が四人いる。私は初め色々な点で人知れず心配もしたが、皆んな元気な顔色で健康そうに目方も増えてゆくのをみて安心している。この上は益々健康に留意すると共に、お寺に生活することが充分意義あるように日々の行動を綿密に行ぜられるようにと心ひそかに思う。一方ここを本部にいまでは仏青の読書会も盛んに行われているようであり、まったく喜ばしい限りである。最近も私は骨董的なセルの袴をつけて三〇名近くの学生諸君と文字通り徹夜で坐禪したこともあるし、また時にはぶらりと散歩に行ってみることもある。楠の大樹が亭々とそびえている海清寺の庭はいつ行っても気持ちがよい。

仏青幹事の小野君に原稿を催促されている。これから持ってゆかずばなるまい。近所の人に仕舞の先生や謡曲の先生に間違えられながら、例のセルの袴をつけて。
                      (学部六回 経営学部助教授)
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<追録2> 写真を追録しました。 (写真@Aは森田先輩より提供いただきました)
  

  


    @ 稲葉先生の坐禅姿   昭和33年10月 海清寺坐禅堂にて
                

              
    A 般若団OB会発足のキッカケとなった「稲葉先生を囲む般若団の集い」
                 (平成3年5月11日 ホテル 神戸ゴーフルリッツにて、42名が参集)
         


    B 平成18年1月8日ご逝去、1月15・16ご葬儀
             

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