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<寄稿集>岡田彬の寄稿目次

  表題をクリックしてください、ジャンプします。
    1. 平安時代以降、直系の父母系は何人か  2004.07.30
    2. 一切衆生悉有仏性  2004.07.31
    3. 坂東33ケ所めぐり雑記 2004.08.07
    4. 日本仏教史上の巨人『行基』 2004.08.29
    5. 『無記』について 2004.10.04
    6.『八正道』について 2004.11.03
    7. 仏教と社会の問題 2004.12.28
    8. 『八大人覚』 について 2005.02.19
    9. 七仏通誡偈 にふれて 200506.04
   10. 七仏通誡偈 その2 2005.07.30
   11. 「シンガーラヘの教え」について 2005.08.25
   12. 保寧寺坐禅会、小崎和尚のお話 2005.10.21
   13. 「西国33ケ所めぐり雑記」 2005.11.15
   14. ティック・ナット・ハン師の「禅的生活のすすめ」を読んで 2005.12.19
   15. ティク・ナット・ハン師の「禅への鍵」を読んで 2006.07.30
   16. 内山興正老師の「正法眼蔵・八大人覚」提唱(CD)を聴く 2006.10.02
   17. 菅宗信和尚のこと 「馬鹿になりきるの記」を読む 20061201
   18. 隣国・朝鮮の歴史を学ぶ 2007.12.31
   19. 「パラミタミュージアム」という美術館 2008.08.27



19> 「パラミタミュージアム」という美術館

般若団OBの皆さんにはなじみ深い「般若心経」に関わりの深い陶芸作品を常設展示する珍しい美術館が三重県にあります。美術館の名前はパラミタミュージアム。館名となっている“パラミタ”は、おなじみ「般若波羅蜜多」の“波羅蜜多”であります。 美術音痴の小生が美術館を話題にするのは少々気がひけますが、先日(08/5月)、NHKテレビの新日曜美術館で放送された池田満寿夫の特集(エロスと般若心経の間)でも紹介されておりました。

<美術館の立地>
「湯の山温泉」は関西の方はご存じと思いますが、三重県と滋賀県の県境に連なる鈴鹿山脈の最高峰が御在所岳(1212m)、湯の山温泉はその中腹にあります。この湯の山温泉と四日市の間には近鉄・湯の山線(四日市―湯の山温泉)が走っています。パラミタミュージアムはその終点(湯の山温泉駅)ひとつ手前の大羽根駅のすぐ近く、国道477号線(湯の山街道)沿いにあります。車なら東名阪自動車道・四日市ICから至近であります。(三重県三重郡菰野町大羽根園)

2003年3月に開館した比較的新しい美術館です。1200坪の敷地に2層の建物に6室の展示室とイベントルームなどがあります。原生林を残しながら珍しい多様な植生を加えた庭はパラミタガーデンと呼ばれ、いくつもの大型陶芸作品も置かれて美術館の重要な一部となっている。

この美術館の代表展示作品が池田満寿夫晩年の陶芸大作「般若心経シリーズ」の全作品で、第1〜第3展示室全室を埋めている。名のある作家の陶芸作品でこれだけ般若心経にこだわった大作品シリーズはないと思われますが、それが散逸することなく一括収容されていることは意義深いことであります。

これに加えて、この美術館には最近、彫刻家中村晋也氏(平成19年度の文化勲章受章者)の大作、「釈迦十大弟子立像」が常設展示作品に加わった。 
玄関すぐの廊下に入館者を迎えるように釈迦十大弟子立像が並びたち壮観である。

                     


パラミタミュージアムは不可思議貴重な美術館である。
この「般若心経シリーズ」を中核展示作品とし、館名をパラミタ(波羅蜜多)と命名した創設者の心底に信仰心や回向の心があったことは確かであろうと思いますが、かと云って、パラミタミュージアムは特別に宗教的傾向をもった美術館ではありません、この美術館には全く宗教的雰囲気はありません。あくまでも芸術作品として展示されています。美術館に殊更に宗教的作品を集め展示する意図もないと思われます。

この美術館にはほかにも何人かの常展示作家があり、また萬古焼の産地にふさわしく「萬古の名陶」が常設展示されている。名ある作家の企画展もあり、地元音楽家によるミニコンサートなどもたえず開催されるなど、鄙にはまれな規模と内容がある美術館である。(詳しくは末記アドレスからパラミタミュージアムのHPを参照ください)

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<両巨匠のプロフィルと展示作品>

池田満寿夫のプロフィル

 池田満寿夫は1934年満州に生まれ、終戦とともに母の故郷・長野市に引き揚げます。その後、画家をこころざし東京藝術大学を受験しますが3度とも不合格。辛苦のすえ独学で版画を学び、版画家として出発します。196019621964年、東京版画ビエンナーレ展で連続受賞を重ね、1966年32歳で棟方志功に次いでヴェネツィア・ビエンナーレ展で版画部門大賞を受賞し世界的なアーティストの名をほしいままにします。その後、小説「エーゲ海に捧ぐ」で芥川賞を受賞するなど、小説家、映画監督、絵画、陶芸まで幅広く創作活動を展開します。1997年事故により急死。享年63歳。(パラミタミュージアムのパンフレットより

パラミタミュージアムに展示されている池田作品
 前掲プロフィルに見る如く、池田満寿夫の活動分野は広いが その晩年(63歳で急死した)に没頭したのが陶作・般若心経シリーズであって池田満寿夫自身が次のように記している。

『この般若心経の作陶にほぼ2年を費やした。大佛塔6体、佛塔24体、地蔵42体、心経碑34点、心経碗276点、心経陶板54点、佛画陶板30点、心経陶片824点、書3点、立体曼荼羅1対。はじめはこれほど大掛かりになるとは思っていなかった。』 「池田満寿夫の造形 般若心経」1995年同朋社刊より(美術館パンフから抜粋転記)

この全作品(総数1299点)がパラミタミュージアムに収容され常設展示されている。
心経陶板は般若心経が54枚の陶板に金文字で彫りこまれている。特別に創作された窯(口の開いた大窯)で野焼き風に焼き上げられた大仏塔(150cmほどもある)には力強さがあり、池田流にさまざまに表現された地蔵には素朴な味わいがある。


中村晋也のプロフィル

 1926年三重県生まれ、東京高等師範学校卒、49年鹿児島大学講師、72年教授、

89年日本芸術院会員、90年日展常務理事、92年鹿児島大学退官、名誉教授、

(受賞歴など)1984年日展文部大臣賞、88年日本芸術院賞、99年勲三等旭日中授章、

2002年紺綬褒章、文化功労者、2007年 文化勲章受章、

(作品など)偉人像で知られる。1979年 大久保利通公像(鹿児島)、

 2003年薬師寺に釈迦十大弟子像、
 
 2004
年藤堂高虎公像(今治市)、2005年 五代友厚公像(大証)

2007年 薬師寺大講堂に阿僧伽(無着)菩薩像、伐蘇畔度(世親)菩薩像を奉納、

同年、豊臣秀吉公像(大阪城)

中村晋也美術館HP およびWikipediaから抜粋

中村晋也氏は2003年、薬師寺(奈良)に釈迦十大弟子像を奉納されているが、パラミタミュージアムにも「釈迦十大弟子像」がある。パラミタの十大弟子像はやや小ぶりである。

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<中村晋也氏の著書「釈迦と十人の弟子たち」を読む>

美術館で「釈迦十大弟子」をみるまで小生は中村晋也氏を全く知らなかった。「釈迦十大弟子」をパラミタミュージアムではじめて観て感動したが、第一印象はこの立像はガンダーラ出土の釈迦苦行像(このHPの表紙にしている)や六波羅蜜寺の空也像とも通ずるのかな、程度の受けとりであった。

一体どのような経緯で「釈迦十大弟子」を作られたのだろう、作者は「仏教者」的にはどのような境地の方なのだろうと興味をもった。今年の5月はじめて薬師寺を訪ね、そこでたまたま中村晋也氏の「釈迦と十人の弟子たち」という著書が展示されていて、早速購入して読んだ。(河出書房新社 07/3月刊・初版は2003年)

この書は「釈迦十大弟子像」創作プロセスの解説書とでもいうべき本であった。
 作像の動機や、実在はしたが誰も見たことがない「釈迦十大弟子」のイメージをどのように形にされたかがよく判りました。書名のごとく十大弟子はそれぞれどのような人であったかも懇切に解説されている、氏は仏教学の専門家ではないので流布された弟子像が書かれてあると思いましたが、書の端々に中村先生の誠実な人柄がしのばれました。

冒頭で、その「動機」について次のように書かれている。
『サンティアゴとはキリストの十二使徒の一人聖ヤコブの教会であろう。世界には、聖パウロ、聖ヨハネ、など聖人の名を冠した教会が人の心を神に結ぶ場としてあるが、仏教国日本に、釈迦のお弟子さんを本尊とする寺はあるのだろうか、〜〜この世を懸命に生きる人の案内役として、お弟子さんの生き方が示されてよいのではないか〜〜、私にできることは、〜〜「空」にある釈迦十大弟子を「色」に刻む〜〜 』

『そういう情念がふくらんできたある時、いまは亡き薬師寺の高田好胤管長に、「私は釈迦十大弟子を平成の十大弟子としてつくりたい」と申し出たところ、「そのお像を薬師寺の新しい大講堂に末永くおまつりしましょう」と、望外のお話をいただいた。』と書かれている。(P.2〜3)

さらに深層動機として次のようにも書かれている『スペインへの巡礼を契機に思い立ったのは事実であるが、よく考えてみると、そのずーっと前に、澤木興道先生の禅の本を読みふける中学生の自分がいた。また、昭和二十年。学生のまま応召し、ほどなく病を得て陸軍病院に入院していた時に書き写した「法句経」のノートがあった。〜〜、毎日誰かが死んでいた日々であり、〜〜〜(多感な)若い日にギリギリの命と向き合ったことが、どこかで釈迦十大弟子の制作とつながっていると言ってもよいと思う。』(P.108)

                           

本著には、端緒となったこのスペイン旅行(1997年)から、釈迦十大弟子が薬師寺へ奉納される2003年2月まで5年間の調査・研究・思索・イメージ固めの過程が細かく書かれている。

次のような一節がある『お釈迦様の民族、いわゆるシャーキャー族の地は、ヒマラヤ南麓、今日のネパール中央部から北インドに国境を接する一帯にあり、人種的にはアーリア人といわれている。〜〜〜、だから、基本はアーリア人に置き、あとは伝承されているその人の持ち味に合うようにと、顔や姿をつくっていった。』(P.59)

この間毎年インド、中国、ミャンマー、ネパール、パキスタンなどに取材旅行されている。国内での調査研究では、わがHPへも特別寄稿願っている東洋大学名誉森章司教授のお世話にもなったことも書かれています。(P.108および巻末参考文献の項)

      **** 

この著書には、十大弟子像それぞれの半身の写真とともに短い解説がつけられている。
「舎利弗」と「大迦葉」には次のようなコメントがついている。 
 なお、挿入した写真は著書に掲載されている写真を拝借させていただいた。


「舎利弗」:舎利弗は、お釈迦様から愛され、信頼され、よき片腕として活躍した人である。厳格で、しかも愛情深い人でないと、リーダーになれない。舎利弗は、まず自分自身にとても厳格な人ではなかったかと、私は思っている。

 下げている手と、胸まで上げている手。相反する二つの手の形は、この人の厳しさと、誰をも受け入れる優しさとを表現したかったから・・・。また、教団内にトラブルが発生した時などは、智慧をもって的確に、しかも誠実に対処した人であったと思う。

 だから舎利弗の目は、真正面に向けた。この人ならついて行こう。この人が言うのなら本当だと、いま見る人にも、思ってもらえるように。(P.73)


                    
                            舎利弗

「大迦葉」:この顔は苦労人の顔。大迦葉は、お釈迦様の説を実直に守り抜こうとした人であり、教団の二代目党首という野望を起こさずに、静かに持ちこたえた人である。

 それは、お釈迦様が偉大だったし、弟子もえらかった。ひとつにまとまったからこそ、仏教は続いた。もし大迦葉教にしていたら、いまの仏教はないと思う。

大迦葉はお釈迦様からいただいた衣をボロボロになってもずっとまとっていた人なので、十体の像のうちこの人だけ膝小僧を出した。頭陀行第一なので、手は托鉢の鉄鉢を持つ手。

そしてこの目は、どこを見ているか。教団の未来をどこの彼岸に求めているのか、見る方に考えていただけたら、ありがたい。(P.173)

                     
                             大迦葉

        ****  ****

<作品鑑賞に関連して思うこと>

この一年三重で暮らしていて、パラミタミュージアムもたまに訪ねますが、原始仏教に親近感をもつ小生は、立ちならぶ「釈迦十大弟子像」を別格の「親近感」をもって見るせいかいつも新鮮な感興を覚えるのでありますが、他方の<池田満寿夫・般若心経シリーズ>の作品群については、正直のところその真価がまだよく感得できず悩ましく思っている。
 鑑賞者の熟成度もあろうが、見て素直に感動できる作品と直ぐには感動の域に達し得ない「難しい」作品があることはたしかである、池田作品は後者であると思う。

この作品制作に関連しての池田満寿夫のコメント断片 (美術館に置かれていたリーフからの抜粋)

<般若団作陶にあたって> 
 『何故般若心経を陶で造形したのか。何人もの人から聞かれた。 〜中略〜 あるきっかけで突然陶芸にのめり込んでから既に今年で12年目になる。〜私の作風や考え方が変わったのは4年前、岩手県藤沢町で縄文風な野焼をした時からである。〜この最も原始的な焼き方は、天高く燃えあがる炎の力をまざまざと見せつけられて興奮した。だが翌朝焼跡に行ってみるとほとんどの作品が破壊されていたのだ。火力が強すぎたのである。打ちのめされ、茫然としたが、破壊されながらも原形をとどめている造形に炎が作り上げた神秘的な美しさを感じた。陶作品は土を固め、炎で焼き、そしていつかは砂にもどっていく。私ははじめてそこに宗教的な輪廻を感じた。〜〜創造と破壊の神秘を持つ炎の芸術、陶こそ般若心経にふさわしいと考えてのはこの野焼きの経験があってからである。』
 『〜〜勿論私は般若心経を造形することによって悟りを開いたわけではない。唯ある瞬間、無心になっている自分を発見しただけである。芸術は現象や想念を、形をもって表現しなければならない。ある意味では無から有をつくりあげることである。そして「空」のなかにそれを置く。』

<池田満寿夫の宗教観>  
  『宗教とは究極のところ死の不安や恐怖を取り去る人間の智恵であると私は考えている。天国や極楽は人間が創造した最高の智恵であるかもしれない。西洋ではそのために愛や善行を説き、佛教では空を説く。これはあくまで自己流の解釈である。』
  『色は目に見えるいっさいである。空はいっさいの拡がりである。無は見えないいっさいの世界である。それらすべてを見たり感じたり出来るものが悟れるものであろう。佛教はその"色即是空” ”空即是色”の悟りを煩悩を持つ人々に言葉や経文によって教える行動であろう。』
  『芸術はつまるところ見えるもの、また想像のなかでしか見えないもの(イマジネーション)を形によって現すものである。しかしその形が人々に感動を与えるかどうかは分からない。ある人には分かっても、ある人にはわからないだろう。〜〜〜私は般若心経を佛塔や地蔵などで造形したわけだが、何故か佛の顔をとってみても、日本的な顔にならなく、インドやジャワあたりの古佛に似てきたのに、自分でも驚いているのである。〜〜私のなかに古代原始の造形を再現しようとした意図があったことは確かだが、砂漠や遺跡のなかから発掘されたイメージが濃厚だったからかもしれない。私にとって宗教とはある意味では発見だったからだ。』 
                          ( 出典:「池田満寿夫の造形 般若心経」 1995年同朋社刊より  )

「般若心経シリーズ」には、天才芸術家のいきついた秘められた境地が表現されているのでありましょう、「立体曼荼羅」こそ池田の境地ないし池田の仏的世界の解釈を最もダイレクトに表現している作品はなのでないかとも思うが、理解するのは難しい。心経陶板・心経碑・心経碗・心経陶片、あるいは書とその表現方式は自在多様である、野趣味ある「地蔵」や「大仏塔」には何かしらイメージ広がる共感世界があるように思えるのであるが、小生にはなかなか難しい作品群であります。

 来館する多くの鑑賞者はこの膨大な作品群をどのように感受されているのだろうか? といつも思うことである。

    ****

中村晋也氏は、前掲のプロフィルにあるごとく、2003年に薬師寺(奈良市)へ「釈迦十大弟子像」を奉納され、昨年(2007年)には、阿僧伽(アサンガ・無着)菩薩像、伐蘇畔度(ヴァスヴァンドゥー・世親)菩薩像を奉納されています。薬師寺はご存じのごとく南都七大寺の一つ法相宗大本山、奈良時代から続く由緒ある寺であります。諸像はいずれも大講堂に納められていて常時拝観できます。これら「作品」(十大弟子像、無着像・世親像)は、たくさんの僧侶の読経の中、厳かに執り行われた開眼儀式により仏の魂が乗り移った「仏像」であります。立派な芸術作品でもあるだろうが、仮にそうでなくても「仏像」には有り難さがある。同じ作家の同じような作品が置かれる場所によっても、「感受」され方が大いに変わるのである。

薬師寺の「十大弟子像」は等身大像であるが、パラミタミュージアムの像は立像部分が約1mで、少し見上げて鑑賞できるようやや高い台座に乗っている。
 パラミタの「十大弟子像」と薬師寺の「十大弟子像」が、どのような関係にあるのかはよく知らないが、サイズのほかは各像の表情やポーズは同じであると思っています。つぎの機会に本著と引き比べてさらに細かく観察しようと思います。

余談ながら薬師寺・玄奨三蔵院には大山郁夫画伯のあの有名な「大唐西域壁画」があります。壁画のある部屋に入ると、「おっ」と云って壁画に引き込まれます。壁画のスケール、生きいきした筆遣い、それを引き立たせる照明のなせるわざなのでしょうか。素直に感動させられる「わかりやすい」作品であります。

    **** ****

芸術音痴という「先入観?」があって、その筋の達者人には敬して近づかない主義の小生なので、鑑賞論に深入りはできないが、作品鑑賞では、素人は「素の感性」で“柳は緑、花は紅”流に見えるままに味わうしかないが、作家や作品についての前知識やある種の「思い入れ」、大げさにいえば作者との価値観共有があれば、呼び起こされる印象は大いに変わると思います。「鍛えた感性」ならさらに別世界が見えるのかもしれない。

つかい古された例ながら、芭蕉の名句「古池や 蛙とびこむ 池の音」を本当に味わえるは日本人だけだ、外国人にはわからない「日本人の感性」などとまで云われる。日本人だけが繊細などという迷論に興味はないが、この「古池」には小生も鮮明なイメージを持っている。〜〜〜木立ちの奥、深い翠にかこまれた静かな「池」のたたずまい、静寂のなかに聞こえる「チャポン」という音、その余韻までもが活きいきとイメージに浮かんでくる〜〜〜、この句についての「わが感性」には格別の自信をもっていました。

ところが3年前、西国33ヵ所巡りをしたとき、滋賀県の寺に「芭蕉があの句を読んだ池です」という「古池?」があった。その「古池」は、小生の温め続けてきた「古池」イメージとは全く違っていた。

お寺にある「真実の古池」と“わが感性“が膨らませた「虚像の古池」、果たしていずれが真の「古池」なるや? 小生は、なお後者と思っております。

しかしこの「わが感性」は、「芭蕉の名句だ」という“事前情報”なしでも、呼び醒まされていただろうか? これは甚だ疑わしい。 さらば「わが感性」の正体や如何、「般若心経」流に解すれば、この頼りなき「わが感性」などというものこそ「色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」ということになるでありましょう。

     ****  ****

(ご参考)

パラミタミュージアム・薬師寺(奈良市)・池田満寿夫美術館(長野県松代町)・中村晋也美術館(鹿児島市)のHPアドレスは次の通りです。

   http://www.paramitamuseum.com/title.html

   http://www.nara-yakushiji.com/guide/index.html

 http://www.ikedamasuo-museum.jp/

 http://www.ne.jp/asahi/musee/nakamura/

  以上  岡田彬(2008.08.27)                        
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18. 隣国・朝鮮の歴史を学ぶ

                               岡田 彬

いろいろな事件で騒がしかった2007年も暮れようとしています。

今年は小生自身の身辺では6月に義母が亡くなり、その看病と服喪の続きで4月から家内の里・三重亀山で暮らしております。 初心は晴耕雨読の田舎暮らしが心がけでありましたが、晴耕はあっても「雨読」甚だ少ない反省多い一年でありました。そんな中で、S.37年同期卒業の関東同窓の集まりの月例会のレポーターに指名された機会に、かねてから朝鮮史を一度勉強し、朝鮮民族の自負心の在りかを知りたい』と思いつつ果たしていなかった課題に取り組めたのは収穫でありました。
 付け刃ながら久々に猛勉強して発表したのですが、朝鮮(韓)民族の誇りの根っこを少し垣間見ることが出来て、よい勉強になりました。

本稿は「襄山」(稲葉ゼミの同窓会誌)へも投稿させて頂いた拙文の手直し原稿で恐縮でありますが、ご参考までに投稿させて頂きます。

           ******  ******


<はじめに>

  朝鮮通史をまとめて短時間に報告発表するなど、そもそも難しいことでありますので、予めいくつかの方針を決めました。

 ひとつは、邦訳で出版されている韓国小・中・高校の各国定歴史教科書を通読すること。

【邦訳韓国国定教科書】は明石書店より出版されている(末尾は出版年月) 
    ・国定韓国小学校社会科教科書(98/3
   ・国定韓国中学校国史教科書(05/6
   ・韓国高等学校国定教科書(06/12

二つには、韓国教科書だけでは理解が偏る恐れがあるので、教科書に入る前に朝鮮通史参考書を読む。
    ・山川出版「武田幸男編:朝鮮史」、中公新書「金両基著:物語韓国史」ほか

三つには、ここでは朝鮮史を鳥瞰しながら「朝鮮民族の歴史的自負は何か」を知ることを焦点とし、日本の植民地時代の歴史は、日朝関係史では避けて通れない歴史ではあるが、発表では敢えて『1910年(日韓併合)』以降の歴史には触れないこととする。

 ほかに、全体把握の便をはかるため、中国・日本・朝鮮の古代から現代に至る比較年表の集約を研究すること、
 時代の論点を提示できる地図類を選んで添付するなどであり、この方針を実行しました。
                                 (このHPでは比較年表および地図は省略しています)
 
 

1>「五千年の歴史と文化に輝く単一民族の国」という誇り

韓国の高校教科書には「民族の起源」が次のように書かれている。(教科書P23

『私達の祖先はたいがい中国遼寧省、吉林省を含む満州地域と韓半島を中心とした東北アジアに広く分布して生活していた。わが民族が暮らし始めたのは旧石器時代からで、新石器時代から青銅器時代を経て、民族の基礎がつくられた。〜〜〜わが民族ははるか昔から一つの民族単位を形成し、農耕生活を土台に独自の文化を築いた。』

 この記述は、@朝鮮民族は旧石器時代から満州と韓半島に分布していた。 A朝鮮民族は古くから単一民族として形成されていた。 B農耕生活を土台に独自文化を築いてきた。ということが要点ですが、日本人になじみ深い三韓(馬韓・辰韓・弁韓)、それに続く百済、高句麗、新羅が台頭するはるか以前に「古朝鮮」朝(注)の時代があったという。

「古朝鮮」の起源は神話時代であるが、朝鮮ではBC.2333年、檀君王倹が国を啓いたと信じられている。
 (注)ずっと後代の1392年「元」勢力を駆逐して成立した「朝鮮(李朝)」と区分して、
  「古朝鮮」と呼ばれる。

わが朝鮮民族の国の始まりは、はるか5千年の昔、BC.2333年にある」というのは、韓国、北朝鮮共通の民族的自負である。韓国では103日が「檀君朝鮮建国の日」として祝日に定められ、その日には江華島の聖地摩尼山頂の祭壇で盛大な開天祭が行われている。北朝鮮にも巨大な檀君塚が築かれているという。

「古朝鮮」は「檀君朝鮮」(BC.23331122)、「箕氏朝鮮」(BC.1122194)、「衛満朝鮮」(BC.194BC.108)と続き、BC1000年頃が盛期であったというが、王朝年代は必ずしも確かではない。これ以降の王朝の変遷を以下に概観する。

                                                              

BC.108AD313 中国による郡県支配時代>

BC.108年「衛満朝鮮」が前漢の武王によって滅ぼされ、楽浪郡・帯方郡など中国の郡県・4郡が置かれた。古代日本の大陸との交流史で登場する楽浪郡で、朝鮮民族には中国王朝の直轄支配を受けた時代でもある。中国の郡県支配時代に半島では三韓(馬韓・辰韓・弁韓)が力をつけ、満州には高句麗があった。

AD.313676 三国(抗争)時代>

 AD.313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼし、漢族支配を脱し朝鮮は高句麗・百済・新羅の三国抗争の時代となる。三国の起源はいずれもBC.一世紀と云われるが、ともにその発祥の地を満州内陸の地「夫余」と称していることが注目される。朝鮮民族は「満州」が民族の故地であると信じている。

三国のうちで最初に勢いを振るったのは百済(BC.18660)で、4世紀半ばが最大版図であった。百済は他の2国との対抗上から日本と密接であって、日本への文化伝播にも大きな役割を果した。ついで高句麗(BC.37668)が台頭し、百済、高句麗を滅ぼして676年新羅(BC.57~935)が、朝鮮を統一した。

この時代、日本でも古代国家の形成が進んだ時代であり、以下の日本史トピックスで窺えるがごとく半島および大陸と密接な関係があった。

  →「漢倭奴国王」の金印授かる(57年)、卑弥呼が魏へ遣使(239年、魏誌倭人伝)、
     仏教伝来(538年)、推古天皇(592628)、聖徳太子(574622)、法隆寺完成(596
     遣隋使のはじまり(600)、大化の改新(645)、白村江の敗戦(663年、百済滅亡)

698926 南北国時代>

新羅が半島を統一したころ、高句麗の旧地・満州に渤海国(698926)が起るが、朝鮮ではこの渤海国(注)も朝鮮民族の国と認識されていて、この時代を「南北国時代」と呼んでいる。
    (注)中国はこの「渤海国」を朝鮮民族の国と認めていない。


9361259 高麗朝時代、 〜1392 元朝支配下の高麗朝時代>

 936年「高麗」が半島を統一し大いに繁栄したが、1231年以降6次にわたるモンゴルの侵攻を受け、1259年ついに降伏した。以後、モンゴルの忠実な朝貢国となり、1274年以降は世子(皇太子)が必ず、元帝の娘と結婚し元王朝の一統に繋がった。1368年中国でモンゴル勢力が駆逐され「明」が成立すると、朝鮮半島でも独立闘争が始まり、

13921910 李氏朝鮮時代>

その戦いに活躍した将軍・李成桂が1392年に即位して、李氏朝鮮時代となる。1897年に大韓帝国となり、1910年(明治43年)日本の韓国併合(注)まで続いた。
 (注)韓国では「国権被奪」という。

 

2>勇敢に戦った民族の歴史の誇り (百済・新羅・高句麗、高麗、朝鮮)

朝鮮史は外敵との攻防史である。

朝鮮民族はいつも大きな隣国の支配を受けてその保護下に存続してきた「事大主義の国」という先入観が(小生には)あったが、さにあらず、朝鮮民族には「大国と勇敢に戦った」いくつもの英雄的戦史が語り継がれている。しかしながら、その赫々たる戦勝に関わらず、最後には中華帝国や元帝国の冊封を受け、朝貢することとなった歴史が続くこともまた事実である。

余談ながら、朝鮮の歴史を読むと四周を海という天然の要害に守られたわが国の幸運がよく判る。地続きでいつも他民族と対峠する大陸の国の厳しさは日本人には簡単に理解できないところだ。中国という巨大帝国と地続きで隣接するということも、まことに大変なことである。

<朝鮮史に輝く勝ち戦>

1)広開土王(=好太王)が漢勢力を駆逐

鴨緑江の川向う(中国吉林省集安)に、その事績を記した碑があること知られる。

313年高句麗が半島から漢勢力を駆逐し、好太王父子時代(391491)の百年が絶頂期。その版図は満州から朝鮮半島全域に及んだ。 

2)隋軍を殲滅した薩水(サルス)の大捷

612年、薩水(平壌の北、今の清川江)の川辺で高句麗軍が中国を統一した隋の煬帝の差し向けた113万人の大軍に壊滅的打撃を与えて勝利した。朝鮮民族史上最大の勝ち戦である。

 これに先立つ598年にも、隋の文帝が水陸30万の大軍を向けて、高句麗を討てと命じたが、長雨にたたられて陸軍は輸送が滞って食料がつき、病魔にも襲われ戦わず自滅し、水軍は海上で暴風雨に遭い、殆んどの舟を失い十人中九人を失って引き上げたという。 漢民族にとっては領地(旧楽浪郡など)回復戦争であった。

3)唐軍を撃退した買肖城(メソソン)、伎伐甫(ギポルボ)で新羅の大勝利

 新羅は唐軍と連合して660年に百済(注)を、668年に高句麗を滅亡させた。 しかし、
 唐は高句麗および百済の旧領の支配を始め、さらに新羅も併呑する構えであった。唐の狙いは隋と同じく朝鮮半島の支配であった。

『これに対し新羅は、高句麗と百済の遺民と連合して唐と正面から対決した。〜〜〜 ついで南進してきた唐の20万の大軍を買肖城(メソソン)で撃破して主導権を掌握し、錦江河口の伎伐甫(ギポルボ)で唐の水軍を殲滅し、平壌にあった安東都督府を遼東城に追いやることに成功し、三国統一を成し遂げた』(高校教科書P.60

  注)660年百済滅亡のあと、百済皇太子の要請で百済回復に向かった日本水軍は、
      663年白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に破れ、以後日本(倭)は朝鮮半島から撤退した。

4)契丹および元との戦い

10世紀末から数次の侵攻を加えてきた契丹軍を、1019年亀州(クジュ)に殲滅した。

 また6次にわたる元の侵攻には、奴婢や賎民にいたる民衆までもが立ち上がり頑強に抵抗した歴史がある。 しかし1256年ついに降伏して元の征服を受け、元と連合して日本へ来襲した。(12741281文永、弘安の役)

5)豊臣遠征軍との戦い

豊臣秀吉の朝鮮遠征(1592文禄の役、1597慶長の役)は、日本人には遥か昔の歴史上の語り草だが、この侵攻は日本人が想像するレベルをはるかに超えて朝鮮社会に深刻な打撃を与えたもので、朝鮮の人々には忘れ難い国難であった。

この戦争でも在郷の両斑や僧侶が指導者となって組織した義兵が頑強な抵抗を展開した。水軍の李舜臣は国民的英雄である。亀甲船などで装備した水軍を指揮して日本水軍を攻め、制海権を奪った関山島大捷、鳴梁大捷が深く刻み込まれている。

 宗主国・明が来援してくれた恩義に感じて、崇明思想(「再造の恩」)が高まった。
わが国では、有田焼き・萩焼・薩摩焼はじめ各地の焼き物の多くがこのとき技術伝播をもとに発展した。


<4>     文化先進の誇り
           (古代日本への文化を伝授した)

 韓国教科書に見る「文化先進の誇り」の表れは大きくは次の二通りある。

1)主として日本へ果した文化伝播(師匠)の誇り
2)朝鮮文物で世界的にも朝鮮が進んでいたことがらの宣揚

日本へ文化を伝えた(師匠)の誇りに関しては、韓国教科書では
  @    特に三国時代〜統一新羅の文化がわが国飛鳥白鳳文化へ与えた強い影響、
  A    豊臣秀吉の朝鮮侵攻の際の陶工、印刷工移住による文化伝播、
  B    江戸時代の朝鮮通信使について日本が学ぶ側にあったことがことさら強調される。

<中学校教科書の記述例>

『百済は日本と政治的に密接な関係を維持したので、三国中、日本文化に一番大きな影響を与えた。阿直岐と王仁は日本へわたり、漢文・論語・千字文を伝えてあげ、〜高安茂などが、漢学と儒教を教えてあげ、日本に政治思想と忠孝思想を普及させてあげた。つづいて聖王の時代には仏教を伝えてあげ、そのほか天文・地理・暦法などの科学技術も伝えてあげた。高句麗もたくさんの文化を日本に伝えてあげた。高句麗の僧慧慈(えじ)は聖徳太子の師であり、曇徴は紙、墨、硯をつくる技術を教えてあげ、法隆寺の金堂壁画も彼の作品として知られている。高松塚古墳の壁画は、高句麗の影響を受けたものである。新羅は舟をつくる技術、堤防と城郭を築く技術を、伽那は土器をつくる技術を日本へ伝えてあげた。』
                       (中学校教科書P7071

上記の如く、時に執拗過ぎるほどの「文化先進」が強調される背景には「朝鮮伝統の小中華意識」のなせるところでもあるが、それ以上に日本支配時代に日本の学会主導で形成された歴史学ないし歴史観の呪縛を脱することが戦後韓国の重要課題であったので、余計に力みがある。 余り細かに神経を尖らせず、読み聴く度量が必要であると思う。

 

4>世界に誇る歴史文物

  わが国で伝来物が国宝にもなっている「高麗青磁」や李朝白磁もさりながら、
  「印刷技術」
と「訓民正音(ハングル文字)の発明」は、特筆すべきことである。

 
 <世界最古の木版印刷経典、世界最古の金属活字>

文化活動の隆盛の証左でもある世界に冠たる印刷術の発達は朝鮮民族の誇りである。

 仏国寺の石塔から発見され、8世紀初頭の経典「無垢浄光大陀羅尼経」は、現存する世界最古の木版印刷物と云う。
 金属活字による印刷も世界で最初に朝鮮で実用化された。その総合技術力が誇りである。

 『高麗時代に世界で最初に金属印刷術が発明されたのは、木版印刷術の発達、青銅鋳造技術の発達、印刷にふさわしい墨や紙の製造が組み合わさった結果だった。12世紀末から13世紀初めにはすでに金属活字印刷が発明されていたと推測され、モンゴルと戦争の最中だった王の江華島避難時には、金属活字で「詳定古今礼文」を活字印刷した(1234)。これは西洋で金属活字印刷が始まるより 200年余も前に行われたものである』(高校教科書P.296

世界遺産に登録の「直指心体要節」(1377)は世界最古の金属活字本と認められている。
李朝第4代世宗(14181450)は、鋳字所を設け、数十万個の金属活字を制作させている。因みに、有名なグーテンベルグの活字印刷の完成は1442年である。

<訓民正音の発明と頒布>

 「訓民正音」は現在ハングルと言われているが、前記の李朝初期の名君・世宗王の命によって集団的研究により、1443年に創作された文字である。
当初は
28文字であったが、現在は24文字(母音母文字10、子音母文字14)であるという。

ハングルは後世の命名で当初より「訓民正音」が名称であった。読んで字のごとく、漢字が読めない庶民へ伝え、あるいは学ばせるために開発された。1446年(発明の3年後)に「訓民正音」は正式に公布されたが、それには次のような趣旨が書かれているという。

『国の語音が中国と異なり、文字がお互いに通じないので、愚かな民には言いたいことがあっても、その情を十分に述べることが出来ないものが多い。予はこれをあわれみ、   新しく二十八文字を制定した。人々が習い易く、日常に便ならしむためである』
                (姜在彦「朝鮮の歴史と文化」P.172

 世宗王は「訓民正音」による書籍も印刷出版させた。
しかしこの時代、李氏朝鮮は儒教が国教であり漢字以外で文字を書くなど貴人や学者には容認できることではなかった。世宗王が命じて文字を作らせたが、いざ公布となると、文字を作った当の学者たちまでもが反対したという、そのため公布が発明の3年後となったという。約
200年後の王(燕山君)の時には、王命によって「訓民正音」が一時廃されたこともあるほどである。


17241800 「英正時代の実学の発達」>

名君・世宗王から約300年後また名君が現れる。李朝第21代英祖(1724〜)とその子正祖(1800)である。その治世は思想・科学の黄金期、「実学の発達」の時代である。

 農政の改革論、商工業の改革論、医学・農学・天文・暦法・地理など多方面での科学技術の発展しレベルの高い学術書が相次いで編纂された。

わが江戸時代も 蘭学・農学、本草学・数学・経世論・社会批判論(安藤昌益)等々、実学が大いに発展したが、朝鮮の実学はそれ以上の深さと広がりがあったかも知れない。

5>儒教国家、血縁社会

李朝朝鮮は本家中国を凌ぐ儒教国家であり朝鮮は学問熱心な社会であった。津々浦々に学校があったが主として儒学教育機関であった。しかしその儒教は朱子学以外は許されない頑なさで、しかも各派が不毛の党争を繰り返えした。
 前項に触れたごとく、「英正時代の実学の発達」期は華の時代であり、朝鮮民族の誇りの時代であったが、1800年正祖が亡くなるとその翌年(1801)には、実学派は徹底的に弾圧処断され、息の根を止められてしまう(辛酉邪獄)。 実学者の中にはキリスト教に入信し、儒教礼に服さないものがあったためである。

このようにして朝鮮は日本の文明開化に立ち遅れてしまったのである。

血縁重視もまた朝鮮社会の伝統である。

朝鮮では古くから厳しい身分制度があり、貴族(=両斑)、常民(良民)、賎民(奴婢)に別れていた。
 朝鮮において奴婢制度が公式に廃止されたのは1886年である。両斑(ヤンバン)は東班(文官)・西班(武官)を意味するというが、両斑階級は武役および租税が免除され、科挙試験を受け官僚となることができる最上階級であり。常民は租税や賦役を負担した。奴婢は犯罪を犯して奴婢にされたり戦争捕虜が奴婢となり売買の対象であった。常民が両斑へ上昇する、まして奴婢が上昇することは無かったのであるが、経済力を蓄えた常民が両斑身分を買うなど、いろいろな理由で後代には身分制度が崩れていった。
 高等学校教科書に次のような興味深い統計が出ていた。
   (蔚山での戸籍の推移=@は両斑戸、Aは常民戸、Bは奴婢戸、数字は個数の割合%)
     1729年(@26%、A60%、B14%)、 1765年(@41%、A57%、B2.0%)
     1804年(@53%、A46%、B0.9%)、  1867年(@65%、A34%、B0.5%)
                                         <高校教科書 P.245>
両斑戸が著増し、一方で奴婢階級は消滅状態にあったことがわかる。
奴婢制度は”廃止”というより、維持が困難となったのである、制度廃止により奴婢には新たに納税義務が生じ、却って苦しくなったといわれる。身分制度はかくのごとく実質的に崩壊したが、血族重視の社会風土は根強く残っている。

甚だ古いが1960年に行われたセンサスによると韓国の姓は258種あったとのことである。韓国姓には金さん、李さんが多いと思ったら、この2姓が人口の35%を占めるという、さらに上位35姓で人口の90%を占めるということである。
 しかし、姓は必ずしも血縁を示すわけではない。

韓国で血縁集団とは「同姓同本」を指す。重要なのは「本貫(=同本)」である。


 「本貫(=同本)」とは氏族始祖の出生地(本貫)が共通ということである。例えば、慶州金氏とか全州李氏といった「同姓同本」を単位にした系譜が記録され、その「族譜」が非常に大切にされる。「族譜」のもっとも古いものは1562年からのものがあるという。

「同姓同本」が幾らあるのだろうか、金姓は500の同本に分かれるというが全体の資料がなくて残念であるが、生存中の子孫だけでも100万人を超えるような族譜があるという。

儒教の祖先祭祀重視と密接な関係があるために系譜は父系血縁でのみつづられ、男性構成員について名・字・号、出生年月と没年月日、官職の経歴、墓所、配偶者は姓と本貫などが記される。どの氏族も族譜の編纂には熱心であるという。族譜は有力な人物を派祖とする子孫によって、25〜30年ごとに編纂される。

同族内でさまざまなグループ(門中)があり、また地域毎に宗親会があり、門中と宗親会の二重構造の組織によって、各氏族が全国的なネットワークを形成しているという。

 韓国では、ごく最近(1997年)まで、「同姓同本」内では結婚は出来ないことになっていたので、例えば遠距離恋愛で若い2人の金さんが結婚し、これが「同本」だったすると、戸籍上結婚手続きが出来ず、子供が出来れば私生児にならざるを得なかったという。

最近まで承認されなかった理由は、いろいろな儒教集団の圧力のためであった。

5> 朝鮮の仏教

 538年百済の聖明王から仏像と経典が送られたのがわが国への仏教公伝といわれているが、朝鮮への仏教伝来は372年高句麗へ、384年百済へ、527年新羅へ伝わったとされる。朝鮮仏教史を詳説など出来ることではなく、以下はつまみ食い的言及であります。

沖本教授(花園大学)の解説を引用させていただく

 『朝鮮仏教史の時代区分は王朝交代とぴったり対応している。狭い国土では、政治との関係が密接であり、〜〜絶えず外敵に曝されていたのがこの国の歴史の基調〜〜、その仏教が今に名高い護国仏教であるのも当然であるかも知れない』

 『まず三国時代が伝来期であり、〜 次の新羅時代は発展期で、急激な興隆を示すが、この時代はさらに二つに大別できる。つまり前半は唯識法相、華厳などの仏教哲学が大いに発展し、〜後半期には実践仏教が展開するのである。 〜次の高麗時代は成熟期、継続発展期と称してもよいであろう』

 『その次の李氏朝鮮は儒教国家で、〜〜仏教にとってはこの時代は暗黒時代といってもよい。儒教を正義とする立場から仏教は手ひどい弾圧を蒙ったのである』

 『朝鮮仏教を一貫する基本的な姿勢は総合仏教ということで、思想、実践のいずれかに極端に片寄るということもほとんどなかったのがその特徴のひとつ〜 』

 『〜新羅は、七世紀前半には早くも秀れた仏教思想家を輩出している。また、堰を切ったように仏教を導入した、その思想理解の水準も高く、教学レベルは急激に上昇した。そして、そのことに大きな功績を果したのが留学僧であった』

 『朝鮮人留学僧(は)〜〜自らの求道心の赴くままに中国に留まり、そこで指導的な地位についた人物が結構多い〜〜、そのことは「高僧伝」などに明瞭に記されている。一方、朝鮮人僧の華々しい活躍に較べて、日本人は「高僧伝」類には一人も立伝されていない』

     以上 沖本克己「禅の思想とその流れ」(世界聖典刊行教会)P342345より

「護国仏教」は新羅以来の朝鮮仏教の伝統であるようであるが、国家や貴族との密着が仏教界の堕落につながり、李氏朝鮮(13921910)では儒教が国教となり、僧侶は身分的には賎民に位置づけられたという。五百余年の永い間には時々、名誉回復の動きがあったが、崇儒排仏の流れは変わらなかったようである。

また1945年以降はキリスト教も浸透し、直近の日本の外務省HP情報による韓国人の宗教(分布)は仏教25%、キリスト教27.4%、儒教その他が47.6%となっている。
同じ東洋人ではあるが、思考基盤にはかなり違いがあると思われる。


日本の武士道に相当する花郎徒(ファランド)精神とか、日本には根付かなかった科挙制度、古くから津々浦々まで張り巡らされた公私立の学校制度なども朝鮮の人々の精神風土を理解するには重要であるが、ここで止めたいと思う。

(最後に)
2002W.サッカー日韓共同開催があり、また近年の韓流ブームで韓国TVドラマ人気があり韓国への旅行者も激増して韓国はかなり親しみ深い地域なったようにも見えるが、北朝鮮の拉致問題や核実験、核保有問題をめぐっての外交のしたたかさには日本人は戸惑わされ続けている。1910年以降の歴史についての国民レベルの理解は、一段と隔たりが大きくなる流れにあると思われます。
一衣帯水の隣国でありながら互いの無智に起因する理解不足と相互不信は不幸なことであります。

まずわれわれ日本人が隣国・朝鮮の人々の民族史的誇りを素直に理解して敬意を払い、植民地政策時代の痛みについてはもっと謙虚に反省的に理解する姿勢をもつことが、ゆるぎない善隣関係のスタートになると思う次第であります。

                      以上 (2007.12.31


                                             目次へ戻る  
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17. 菅宗信和尚のこと 「馬鹿になりきるの記」を読む

 

 先日、戸田(千之)先輩から、祥龍寺・宗信和尚の自伝の書ともいうべき「馬鹿になりきるの記」(昭和52年12月初版、実業出版社)の全編コピーを送っていただきました。
まことに有難いお心配りであります。

六甲の祥龍寺と菅宗信和尚には多く般若団OBにとって懐かしく忘れ難い思い出があります。
書店で調べてみましたところこの書は「売り切れで、増刷の計画もありません」との返答がありました。本書は発刊から既に30年、いまや入手困難な希書となっております。

戸田先輩に宗信和尚のお亡くなりになった年など伺いましたところ、次のようにお知らせいただきました
 >>碧堂和尚(宗信和尚)は、明治44年(1911年)8月20日、大分県は佐伯市でお生まれになりました。
    昭和2年(1927年)4月、満15歳で血縁者でもあった碧層軒老師に就いて得度され、
    その後、祥福僧堂、円福で修行されます。円福僧堂での修行後は、祥龍寺で晩年の碧層軒老師に仕え、
    昭和19年(1944年)3月に碧層軒老師が遷化されたのちに祥龍寺住職になられました。
    碧堂和尚がお亡くなりになったのは、昭和53年(1978年)12月26日、療養先の有馬中之坊、享年は満年齢で67歳です。
    最後を見届けたのが菅応峰和尚でした
   以上

私が和尚とお会いしていたのは、昭和36、7年の頃です。和尚の過去のご苦労は先輩方からいろいろ聞いていましたが、当時の和尚はそのような昔の苦労話を少しもなさらず、いつも春風駘蕩、穏やかな好々爺というイメージでありました。この書を読み、宗信和尚の積まれた厳しい修業と並外れた菩薩行の事跡を知り、“いつも春風駘蕩、穏やかな好々爺”であられた宗信和尚の奥深さを改めて再認識しました。

本書の中で、和尚が師匠である五葉愚渓老師の思い出を語られている中で、
 『師匠はそのころ、私によく「馬鹿になれ、馬鹿になれ、馬鹿は気楽じゃ、理屈の種が、胸にないから気が楽じゃ」と、言われましたが、この馬鹿になるということはた易いようで、並大抵ではありません。智慧のある馬鹿というものは、付焼刃でなれるものではない、私は今もそれを思うて、真剣になっています。』(P.71)と述べられています。これが書名の謂れでもありましょうか。

戸田先輩が “今、一度、宗信和尚を・・・”と思われたであろう通り、まこと本書は埋もれて忘れ去られるべきでない一冊であります。

この書(全編206ページ)の大目次を鳥瞰しますと次のような構成になっております。

 (まえがき) 一隅を照らす人 鹿岳光雄  P.7〜 

  T> 馬鹿になりきれ  P.61〜

      わが雲水修業時代
      先師五葉愚渓老師のこと

  U> 人生の下足番   P.105

      子育ての記
      わが子わが弟子

  V> 脚下照顧     P.151〜

      坐禅修行中の若人に (神戸大学般若団接心にて)
      足下の埃
      現代に生きる禅と心の開発
      宗信和尚一言集

以下に、その一部を引用させて頂きながら、菅宗信和尚を学びたいと思います。
  (文中『 』内は書中からの引用文であります。)

           ◇◇◇

<一隅を照らす人>

 本書は約200ページありますが、巻頭に50ページにもなる「まえがき」部分があります。これは、和尚のご友人であった宝積寺(神戸市東灘区岡本)の鹿岳光雄師が中外日報という新聞に「宗信和尚十五話」という連載をされ、宗信和尚の人物像を見事に浮き彫りされていたので、編集氏がそれを再編集して宗信和尚二十六話とし「まえがき」に換えられたとのことです。
 その第一話(カッパ菩薩)の項は次のように書かれております。

『ひねもす雲を吐く六甲山南の高台に、臨済宗妙心寺派の宝珠山祥龍寺がある。この寺の再興は、前妙心寺管長碧層軒五葉愚渓禅師の偉業であり、禅師大円寂の道場である。
 禅師の衣鉢を嗣ぐ菅宗信和尚は、中外日報社から、かって「涙骨文化賞」を贈られ、一隅を照らす仏者として、読者の記憶にもあろうと思う。
 もう十七、八年も昔のことだが、粉雪のちらつく二月の一夜、筆者は祥龍寺を訪ねた。方丈の電灯は薄暗く、火鉢を前にした宗信和尚が、おむつを両手で乾かしておられ、その肩と膝とに二人の幼児が乗り、もう一人の幼児が、和尚の横に坐って抱きつくようにしていた。和尚から飴玉をひとつずつもらって、嬉しそうにさわいでいたのが、今も眼底から消え去らない。

終戦直後から今日まで、二百人以上の、幼少青年たちを、和尚の托鉢行願で、養い育てて来た風雪のあとは、頭の下がるという位のことでは、言いつくされない。

ある時、一人の赤ん坊が病気になった。医者に来てもらったが、戦災直後の神戸ではよい薬が手に入らぬ。和尚と二、三の小僧さんでは、気をもむばかりである。女気のないこの寺では、赤ちゃんに何を飲ましたか、喰わしたか分からない。刻々に様子は危ない。骨と皮になって、腹は太鼓のようにふくれ、糞詰まりをしている。浣腸したいが薬もない。ご本尊に熱祷した和尚は意を決し、赤ちゃんの尻をまくり、肛門に口をつけ、力一杯吸うて、吸うて小半刻もした。忽ち音を立て、ドロドロの糞汁が、和尚の口に溢れた。和尚の眼から涙が止まらない。「ああよかった」の一言で、赤ちゃんは助かった。

まことに常識を破ったことである。
だから、筆者はこの和尚を「尻を吸うカッパ菩薩」と尊称して、おかしいと思わぬ。

 昔々、光明皇后が、ライ病人の膿をお吸いになったという。これに対しも、真の仏法者なら、みじんの疑惑などあってよいはずがない。
 歎異鈔に「慈悲に聖道浄土のかわりめあり云々」の有名な言葉がある。この玄義は、偏った自力の頑頭で、解きほごせないことは当たりまえである。
 だが、雪深い越後における恵信尼さまが、親の無い不幸な子供を大勢ひきとって、これを養い育て、幾歳もつづく飢饉と苦闘し、一人の子供も殺すまじと悩まれた。この血の滲むような慈悲の消息を、京都におわす夫親鸞のもとへ書き送られている(弘長三年、文永三年)。これを拝読すると、自力他力の観念論に停滞せず、足踏みしない、純粋な人間の美しさ、信に生き抜く者の心の深さが仰がれる。「祖師は紙衣の九十年」の実践が何より有難い。』(
P.9~10

第二話(宗信さまの子)に
『宗信和尚を「お父さん」と呼べる人々が、今では立派に成人し、社会人になった者、僧籍にあるものが、九十余名もある。そして「おじいちゃん」と、和尚に抱きつく孫も数十名になった。僧籍の人は二十四名』とあります。
和尚は生涯妻帯されたことはありませんでしたので、すべて、引き取られて育てられた「わが子」たちであります。

                 ◇◇◇

<和尚の発心、五葉愚渓禅師とのご縁と出家>

 菅宗信和尚は、明治44年8月20日、大分県佐伯市に出生された。大地主であったという生家が和尚が小学校時代に破綻し、赤貧の中でご苦労されたようであります。赤貧の中でも両親の深い愛情に包まれて育てられ、和尚は『豆腐や蒟蒻を作って行商をしたり、日傭いに出て労働し、大変な苦労をして』子供たちを一生懸命育てられた母上の思い出を語っておられます。(P.63

 大正13年の春(和尚14歳)に家出をして大阪へ出られた。大阪ではいくつかの職場を転々されたようであるが、

『勤めのあいまや夜に、本屋によっては手当たり次第に、修養書などを買い、夜おそくまで読みました。そのうちに、なんとかして自分が世の中のためになる人間になりたい。肉体的に欠陥のある人、劣等感に苦しむ者、暗い気持ちで暮らしている人々を、明るい心にしてあげたい、という考えが次第に強まり、いつとはなく、私の信念になったのです。それを実行するためには、坊さんになるのが一番よい、と大それた考えを起こしたのです。

大正14年の春のこと、神戸の六甲で、五葉愚渓老師が、禅寺を建立しようとしておられました。私はこの方の縁故の者ですが、ある因縁から、老師に引き取られることになったのです。

  ・・・・ 私は寺に着いたその日から、禅師のお傍でお仕えするようになりました。』(P.65〜66


<すざまじい修業時代>

『昭和2年に正式に五葉愚渓禅師を師と仰いで、剃髪(得度)しました。

 その師匠は、私に忍耐の「忍」という一事を心がけよと垂誡(訓示)されました。さらに数日後、「柳の木は台風が吹いても折れんじゃろう」といわれて、柳が風に枝を揺らめかしている絵を描き、その上に“気にいらん風もあらんに柳かな”と、賛をして下さいました。
 私の発心は、この忍―― 刃の下のこころと書きますが、必ずやり遂げる、なんのその、岩をも通す桑の弓という積極的な姿勢でありました。

師匠は私が弟子になった日から、急に厳しく当りはじめました。禅寺の生活は暁鐘より解定(かいちん)(就寝時)まで、修業は寸暇もありません。私の立居振舞に少しの油断がありますと、ゴツンと殴られます。立っては殴られ、坐禅をしては殴られ、作務をしてはいきなり打たれました。禅宗の修行は「朝打三千暮打八百」といいますが、朝から晩まで殴られ通しという生活が始まるのです。

暫くしてから、私は六甲の自坊から平野の祥福僧堂の朝課(朝の勤行)にでるようになりました。朝三時に起き約十二キロの道程を、テクテクと歩いて行きます。祥福僧堂に着く頃は、丁度朝課が始まっています。

祥福寺の朝課が終わると、すぐに自坊に引返し、師匠の隠侍役、また寺の作務や法要等をつとめる、といった生活が約五年ほど続きました。

昭和七年に師匠の許可を得て、八幡(京都府)の円福寺僧堂に掛塔いたしました。』(P.66

『私の雲水時代は、衣などは長年木綿衣一枚と、下に着る白衣一枚きりという生活で、押し通しました。そのころ衣は6円でしたが、買っていただけなかったから、夏冬兼用で、しかもつぎはぎだらけのものを着ていました。僧堂の役位から、「もう少し、なんとかならんか」とよく叱られました。法要などの出頭には、ひとから借衣して出ていました。』 (P.68)

<漸く入室参禅を許される>

『昭和十三年七月五日神戸に大水害が起こりました。連続した豪雨がつづき、雨が鉄砲水となって山を打ち崩し、崩れた土砂を一気に流す山津波となりました。そしてそれが川という川の暗渠を埋め、橋を流し堤を破り、その奔流が神戸の街を一挙になめつくしました。

 その豪雨の真最中のこと、師匠は私に「ここと、ここへ見舞いにいってこい」と命じました。
行くといっても、道路は既に決壊して、山を越えねば行くことができないのです。師の命令ですからやむなく出かけました。

 物凄い雨です。往く道で山津波に遭って、突然わっと土砂に押し流され、腰のところまで埋もれました。その時に、私の手が松の枝にしがみついていたので、ようやっと危機を脱することが出来ました。いのちからがらです。

こうして神戸の六甲から目的地の明石まで行き、用件をすませました。この帰りがまた難儀で、生田川で二遍流されました。私に運があったのでしょうか、このとき不思議にも川の流れにのがれて岸にたどり着きました。橋は流され、濁流が狂奔していますが、私は自分自身が川になって歩んでいました。

 泥んこの衣、傷だらけの身体で寺に帰り着きました。すぐ手足を洗い、師匠の部屋へ入りました。「只今帰ってまいりました。かくかくでございました」と用件の復命をいたしますと、

 「それで、どうだった」 と問われました。  〜中略〜

このころ私は師匠から一つの禅の公案を与えられて、日夜考案工夫していました。その考案をどう観たかというのです。
  
「どうだった」と問われた瞬間、公案とひとつ(三昧)になって、「こうです」と。  〜中略〜

私が「こうです」と答えると、師匠は私の手を取り、泪をポロッとこぼされて、
「えらかったな、よくやった。それを大切にして進めて行けよ」と仰せになりました。

その当座の私は師匠の部屋へは、私用で入ることを許されず、いつも襖の敷居の前で用件を伺っていたのですが、その時に師匠から 「これからは何時でも参禅を許す。自由に入室せよ」と許されました。いよいよ私の本格的な禅修行の到来でありました。』(P.72−73) (出家されて10年目、和尚27歳でしょうか)

<全国を行脚される>

『先師はことあるごとに、“己の事のためには喪身失命をも避けず”と示されましたが、若いころ、寂寥と険峻によく堪えて、山野を跋渉し、身心を風雪にさらし、千辛万苦されたといいます。私も先師のこころに触発されて、よく行脚に出していただきました。

雲水の旅は、任運に逍遥する行雲流水の境をいいますが、自我の計らいを捨てて、己を天地に託し、大法に託します。難渋に充ちた修業ですが、また真理の秘奥に参ずる喜びあり、世情人心の機微に触れていきます。

そのころの日本は、北は樺太、千島より南は台湾、澎湖等、朝鮮、済州島といいましたが、私はこの全国を殆んど回りました。若いころの行脚は、いのちを修業にかけようとした思いでだけが残っています。
 私の行脚は、いつも三銭もっての出立です。三銭というと、昭和十年ころでも何も買えません。郵便葉書がたしか一銭五厘だったかと思います。しかしそれで十分でした。
 行脚も托鉢です。この鉢に託す、鉢とは大法です。』(
P.74)

 <行脚の途上でのご苦労話ふたつ>

行脚途上のお話がいくつかありますが、山中で難儀をされたお話です。
 紀州の山中で深山に迷い込まれ、日が暮れて、やむなく石の上で坐禅をしておられましたところ、『山犬の群れが寄ってきて、坐禅をしている私のかたわらに、ふうふう息を吐きながら私の匂いを嗅いでいます。私は、グッとこらえて坐禅を続けていますと、山犬は害をしないで去っていきました』(P.79)とあります。 また、岩手の山中では、『三日間も飲まず食わずに山路を歩き、空腹と疲労で糟妄想などは、どこにもないようになりました。行けども山と野原ばかりで。ほうほうの体で、村に辿り着き』(P.80)、やっとご飯の供養を受けられたなど、思い出を語られています。 
  

<五葉愚渓禅師遷化、住職ご就任>

昭和十八年三月碧層軒五葉愚渓禅師が遷化され、翌十九年二月、宗信師が寺の内外から推挙されて住職に就任された。 

『私はひたすら大法の重担を念い、法席にのぼりました。「山色新たにして日々新たなり・・・・、八臂の盲亀乾坤に叫ぶ」これがそのときの偈の一句です。盲亀にも等しい存在の私ですが、仏祖の慧命を頂戴して、大法の挙揚を野趣乾坤に満つる気概で申しました。これ一つで、われひととともに開眼せしめずにはおかぬという願心を「八臂(八本の腕)の盲亀乾坤に叫ぶ」と申したのであります』(P.106

そして、翌昭和二十年終戦とともに、冒頭の「カッパ菩薩」に紹介されたような、菅宗信和尚のご奮闘が刻まれてゆく、本書「子育ての記」(P.106131)「わが子わが弟子」(P.132150)にいくつかのエピソードを交えて語られていますが、ここではご紹介を省略させていただきます。

              ◇◇◇

三人のお弟子の感動物語 −−3人は岡田の抜粋>

@ ある復員陸軍将校居士のお話

 『私より五つ年下で、陸軍の将校で復員して修行のために寺に入った人がいました。居士ですから昼は川崎(重工業)に勤務し、朝夕寺で坐禅し修行していました。子供たちの面倒をよく見てくれ、貰ってきた給料などは全部寺へ納めて、子供たちの生活費に充てるという、本当に献身的に純一な修行をしていました。

昭和二十一年の暮れに、虱の媒介で発疹チフスが非常に流行しました。彼もこの病に罹り、病院で治療していたのですが、衰弱がひどく、病気が悪化して、不幸にもついに亡くなりました。

昭和二十二年三月九日雪の降る日でした。危篤という急な知らせに、私は雪の中を急いで駆けつけました。着きました時はどうでしょう。彼は大悲呪一巻と心経を読んでから、私に向かって莞爾として語りかけるのでした。

「和尚さん、今私の祖母が迎えにきました。母も来ています。私は祖母を背負い母の手を引いて、これからお先に逝きますが、私は和尚さんを必ずあの世からお護りします。どうか和尚さんは長く生きて、世のすべての人を救っていただきたい」

こういって息を引きとりました。母を戦災で亡くし、祖母は病没していられた。帝大を卒業した前途有為の好青年であったのに、惜しいことでありました。』(P.124125

A       同窓・矢吹好生氏のこと

 矢吹好生氏は神戸大学在学中に菅宗信和尚のもとで出家し、平林寺僧堂(新座野火止)で修行中に交通事故で不慮の死を遂げられた。このHPのリレー遺筆(徒然なるままにコーナー)にも同期であった西川勉氏が「矢吹好生君は智証大師の生まれ変わりか?」を書き、山本二郎氏も「矢吹さんの思い出」の一文を寄せられている。

 宗信和尚にも忘れ難く惜しまれるお弟子の一人であった。本書の中でつぎのように書かれております。

 『私の弟子に、その総社からまいった男がおります。私の許で剃髪して、埼玉県の平林寺白水敬山老師について修行していましたが、数年前不幸にも、交通事故に遭って亡くなりました。
 私は突然の訃報に、急遽平林寺に行きました。そして弟子の身体を、上から下まで拭き取り、湯棺をすませてから、遺体を老師や大衆にお任せいたしました。臨終には私のことのみ申しておったそうです。

 禅堂に掛塔して、懸命に修行をしていましたが、感ずるところがあり、老師のお許しを得て、社会に飛び出し新聞配達をしていました。ところが、誠実に働くものですから、得意先が一遍に増えたそうです。禅坊主は得意先を増やすのが上手かもしれませんな。坊主丸儲けのほうかもわかりませんが。

 販売所の主人が給料をあげるというと、「嚫しん金(小遣銭)は僧堂で頂いていますから要りません」という。主人が「こんなに得意先を増やしてもらったんだ。これは受け取って欲しい」というので、給料を貰った。貰った給料を全部社会福祉施設に寄付しました。こういう人間でした。
 払暁に、新聞を駅に取りに行っての帰路、十字路でトラックに衝突しました。人間とトラックでは敵いません。瀕死の状態でした。

 この時ほど、私は悲しく思ったことはありませんでした。それで私は毎朝看経の時に、彼の霊に向かって「宗孝や、お前のやろうとしたことは、必ずわしがやって行くぞ」と話をしております。』(P.174175

B       高田慧穣師のこと

 わが同期・宮城秀夫君がこのHPのリレー随筆(日々是好日コーナー)へ寄せた一文「京都・栂尾高山寺に あの警策があった」の中ででも触れていますが、高田慧穣さんは、私(岡田)たちの頃の般若団が大変お世話になった懐かしい人です。

 慧穣さんはメキシコに渡り“メキシコ祥龍寺”ともいうべき、禅堂をつくり活躍されていた。この書が発刊された頃は、メキシコに行かれて10年目で、ようやく軌道にのり将来の広がりが期待されていた頃なのでしょう、宗信和尚もこの書に「メキシコに行った弟子」という一項を設けて、楽しみを述べられています。また帰国した高田慧穣師が祥龍寺の坐禅会で話されたという報告書一文を収録されています。
  ( 誠に悲しいことに、慧穣さんも壮途半ば病を得て亡くなられてしまいました。

『メキシコに行った弟子:
只今メキシコには私の弟子高田慧穣が行っています。昭和四十二年に黒衣をまとい、わずかの手回り品をかついで、メキシコに渡りました。まったく未知なところに無一文の姿で行き、メキシコ人の家に奇遇して、ただ黙って坐禅をしていました。そのうちにだんだん信者がでてきました。それでキリスト教から強い妨害にあいます。幾度か生命を狙われ、一時はメキシコの地下室にかくれて坐っていましたが、一週間の絶食でついにぶっ倒れました。

それを見たメキシコ人が、彼に心から帰依して、生命の危険からかばってくれたと、このように言うていましたが、少しは苦労をしたようです。
 最近はメキシコ政府の要請を受けて、禅道場に農民教育センターを備えた新しい禅堂がメキシコ富士(ポ・カラベドル山)の山麓に二十一ヘクタールの地域を開発して建てられることに決まったと、こう報告してきましたが、これからが大変だろうと思っています
 高田慧穣が先年日本に帰って、寺の坐禅会で、(次のように)現地の模様を報告しました。』(P.138139

(高田慧穣さんのお話より)
 『「仏教徒になりたい」と言うてくる学生がいます。その時私は決してこれを許しません。本当に坐禅をし、自分自身に“肯心自ら許す”というものを掴みだしたら、私はその学生たちにカソリック教会へ帰っていただこうと願います。(中略) 私はそんなところに禅の立場があるのではないかと思っています。もし禅宗坊主が、禅だなんて看板を掲げて商売をしたんじゃ、禅でもなんでもないと思います。

 でも基本の姿勢は坐るところにあると思う。
まず初めに概念を取り除く。学校で覚えた理論は後で役にたちましょうが、一番初めにこれを取り除いて、現実を正しく見る、正しく聞く、そういう姿勢にまず調えて、現実に正しく働きかけて行く。それが科学的な態度だと申して、社会活動に走り出す学生を導いています。』(P.142)
  <メキシコでは当局が神経質になるほどの過激な反政府的、社会活動があるらしい>


このメキシコ報告は単なる現地報告ではありません、高田慧穣師の禅境地が語られています。
報告書全文は、このHPの別ページに収録しましたので、クリックしてご高覧ください。

            →  高田慧穣師のメキシコ報告を読む

               ◇◇◇

 この書に「坐禅修行中の若人に」(P.152162)という和尚の説法が収録されています。これには「神戸大学般若団接心にて」とあとがきがあります。

(これは20歳台の若き般若団員へのお説教でありますが)

和尚は次の言葉で締め括られております。
 『あの本を読みこの本を読む。彼方に行き此方に参じて、迷いに迷うのは良いみちすがらです。
  どうか何を読んでも、血となり肉となるようなところまで行っていただきたいと思います』(P.162)

  
このお説法も、このHPの別ページに全文収録しました、ご高覧いただければと存じます。

        →  
菅宗信和尚の法話「坐禅修行中の若人に」を読む

                ◇◇◇

<最後に>

談論風発の宗信和尚のイメージからすると、本書の中には、かなり整えられた文章だなと思うところもありますが、「あとがき」最終ページに次のような断りがありました。

『本書は宗信和尚の談話を編集部においてまとめたものである。もし和尚の真意からはずれたところがあれば、それはすべて編集部の責任である。これは菅応峰師、前川敏雄氏の一方ならぬご協力を得ている。また巻頭の「一隅を照らす人」は和尚の長年の知己、鹿岳光雄師がかって中外日報に発表されたものを中心に再編集したものである。和尚のプロフィールが巧みに紹介されているので、文章は発表時のまま収録させていただいた。』(P.206

 < この「一隅を照らす人」は、<菅宗信和尚二十六話>として、別ページに全文をご紹介したいと思います。 ご高覧ください。
                
              →   <菅宗信和尚二十六話> へ

                           以上(2006.12.01

                                           目次へ戻る  
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16)内山興正老師の「正法眼蔵・八大人覚」提唱(CD)を聴く

山内庸行さん(B13回生)は内山興正老師に長く師事され、内山老師の提唱は『耕雲庵、安泰寺、宗仙寺での提唱テープを探し、手に入るものは全てMDに録音し』、整理して残こされているとのことであります。
その山内ライブラリーの中から
「正法眼蔵・八大人覚」の提唱CDを借用し拝聴させて頂きました。

7月の末、このCDをお借りしたとき、山内さんから要望が二つありました。
  @ 一人でも多くの方に聴いてもらってほしい。 A HPに「感想記」を書いてもらいたい。

ご要望@に関しては、先般の般若団例会(9/15)に持参して、皆さんにご紹介しました。既に何人かの拝聴希望者があり、喜んでおります。しかしながら、「感想記」がなかなか書けません。老師の提唱のエッセンスを正確に書き出す力もありませんので、「正法眼蔵・八大人覚」の転載と老師の提唱断片を付して、約束の履行に代えさせて頂く次第です。

                  *****  *****

1)『八大人覚』は、ブッダ最後の説法であり、奇しくも正法眼蔵・道元禅師最後の遺稿となったということであります。

八大人覚の原典経典は遺教経(ゆいぎょうきょう)」詳しくは「仏垂般涅槃略説教誡経」とのことであります。
道元禅師は、この遺教経『八大人覚』の教えを非常に重視され、“これを修学しない者は仏弟子にあらず”とまで云われております。
  


「正法眼蔵・八大人覚」の前文および結語に次のようにあります。

<前文>

諸仏は是れ大人(だいにん)なり。

大人の覚知する所、所以(ゆえ)(はち)大人(だいにん)(かく)と称するなり。

この法を覚知するは、涅槃の因たり。

我が本師釈迦牟尼仏、入般涅槃(にゅうはつねはん)の夜、最後の所説なり。



<結語より>

これ八大人覚なり。(中略)。大師釈尊、最後之説、大乗の教誨(きょうげ)するところなり。二月十五日夜半の極唱(ごくしょう)。これよりのち、さらに説法しましまさず。ついに般涅槃(はつねはん)しまします。(中略)。このゆゑに如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修学せず、しらざらんは、仏弟子にあらず。(後略)


2)『八大人覚』の「八つ」を表題的に列挙すれば、
   @少欲、A知足、B楽寂静、C勤精進、D不忘念、E修智慧、F修禅定、➇G不戯論であります。

 道元禅師はそれぞれについて、簡潔な解説をつけられております。

一つには少欲。
  彼の未得の五欲の法の中に於いて、広く追求(ついぐ)せず、名付けて少欲と為す。

二つには知足。
  巳得(いとく)の法の中において、受取(じゅしゅ)、限りを以てす。称して知足と曰う。

三つには楽寂静(ぎょうじゃくじょう)
  (もろもろ)憒鬧(かいにょう)を離れ、空閑(くうげん)独処(どくしょ)す。楽寂静と名づく。

四つには勤精進(ごんしょうじん)
  諸の善法(ぜんぽう)に於いて、勤修無間(ごんしゅむげん)、故に精進と云う。精にして(まじ)らず、進んで退かず。

五つには不忘念。亦た守正念(しゅしょうねん)と名づく。
  法を守って失せず。名づけて正念と為す。亦た不忘念と名づく。

六つには修禅定(しゅぜんじょう)
  法に住して乱れず、名づけて禅定と曰ふ。

七つには修智慧。
  聞思修証を起こすを智慧と為す。

八つには不戯論(ふけろん)
  証して分別を離るるを不戯論と名づく。実相を究尽(ぐうじん)す、すなわち不戯論なり。


3)「正法眼蔵・八大人覚」の漢文読み下し文と、「現代語訳」を別項【資料のページ】へ 転載させていただきました。鳥瞰いただければ幸いです。

漢文読み下し文は内山興正法話集より、現代語訳は増谷文雄氏訳(講談社学術文庫「正法眼蔵」7巻より)を引用させて頂きました。

「正法眼蔵・八大人覚」全文 へ

4)「八大人覚」を項目列挙すると、“読んで字の如く”、”なるほど”と理解できたつもりになりますが、提唱をお聴きして浅い理解であったと思い知りました。それもどこまで深く理解できているのかは覚束ないことであります。
以下は提唱断片の切り取りであります。


<誓願を持って生きる>
「八大人覚」は、八大・人覚でなく、八・大人・覚です。 その<大人>とは何ぞやについて、内山老師は遺教経で大人としてでているのは、大乗仏教時代には「菩薩」です』 『誓願を持って生きること、これが菩薩の根本です』、また『一番大切なことは、生きる目標、人生の絶対価値をはっきりさせると云うことです。その点、仏教では最高価値を「大人になる」としています』『自分の人生において本当の落ち着き場所を見つける因として、八大人覚があるということです』と説かれています。

<自己ぎりの自己>
 老師はたびたび ”自己ぎりの自己”という表現をされる。
 『私は私の世界を持って生まれてきて、私の世界をもって死んでゆく 』『出来上がった世界(例えば人類世界)があって、そこへ登場するのが”生まれること”、そこから退場するのが”死”と思うと誤りである』『既製品世界でない。(自己は)人類分の一でない。自己ぎりの自己である』 ・・・・ 『人間社会は約束事に過ぎない。実物ではない』『この人間社会で動き回っていることを、生きていることだと思っている。・・・・(これは)大きな(価値)転倒です。・・・・ 本当は、私が生まれ、私が死んでゆくという”自己ぎりの自己”であり、私の生命が一番大切なのです』 

<世間相場で生きるな>
『いま世間の人たちは、あまりにも他との兼ね合いが多すぎます。世間相場ばかりで生きている』『いまの人は、いつも人が相手になってくれる。遊んでくれると思います。そして人が褒めてくれなければ愚図る。これではいかにも小人だ』
「楽寂静」・・・『”空閑に独処”するとは、世間との兼ね合いで生きる生き方を止めること、道元禅師ほど名利を嫌われた人はいない』

『生老病死それぐるみが、いのちだということを発見したのは、お釈迦様です。そこが仏法の尊貴なるところです。釈尊以前は生存基盤だけでみんな生きていました』


<勤精進>
『精進は、”善いことにはげむ程度のことではない』『勤勉は無条件によいわけではない』『我欲に働くのではない』
『何のために精進するか、自己の生命に向かって精進するのである』
『方向が大切である』『小人が大人になるために精進する』 『坐禅を標準にして、そして見直し見直し生きること』

四つには勤精進(ごんしょうじん)諸の善法(ぜんぽう)に於いて、勤修無間(ごんしゅむげん)、故に精進と云う。精にして(まじ)らず、進んで退かず。

五つには不忘念。亦た守正念(しゅしょうねん)と名づく。
  法を守って失せず。名づけて正念と為す。亦た不忘念と名づく。

(船にたとえれば)
『動力、エンジンの回転が「精進」、方向を見定める羅針盤が「不忘念」である』


<聞思修証>
 七つには修智慧。聞思修証を起こすを智慧と為す。

『仏教の智慧というのは、分別から出発して分別を超える話。 そして価値観から出発しながら価値観を超える話なのです』
『そのためにはやはり、仏教の話をよく聞くことです。まずよく聞いて、そして果たして、そうなのかなあ、とよく考えて見ることです。
「あ、なるほど。そのために自分のアタマの思いを手放しにすんだなあ」と思えるところまで、修行して実地にやること。これが修証するということであり、「聞思修証」です』


<坐禅は無所得>
『仏法の根本は「無我」であり、「一切空」でなければなりません。つまり、無所得と云うのは、坐禅で言えば「いくら坐禅をしてもなんにもならない」ということです』 『坐禅をして悟りを開くとか、坐禅をして境界ができるとか、坐禅をして腹がすわったとか、そういうのは他との兼ね合いだ。無所得ではない』

『坐禅は鍛錬ではない』『坐禅をして、ちょっとましな人間になろうとか、スカッとした境地になりたいとか、そんな他愛なのないことでなく』『坐禅とは、本来の意味の「大人」になる生き方をすること・・・』
『坐禅は自己の存在価値を自己において見いだすためにやる』『澤木老師は ”坐禅とは自己に親しむこと” とよくいわれた』


<不戯論>
『アタマで考えて、思想とか哲学とか主義主張とか立場とかいっていますが、それはみんな戯論です』
『仏教は、主義とか思想でなく「行」である』『仏教は主義思想をやめて、「事実やる」つまり「行」この一事に尽きます』
『「証して分別を離る」とは、良し悪しの分別を智慧によって簡択し、よく選ぶところから出発しながら、「聞思修証」して分別を離れるというのが「不戯論」です』

八つには不戯論(ふけろん)
証して分別を離るるを不戯論と名づく。実相を
究尽(ぐうじん)す、すなわち不戯論なり。(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、
若し種種の戯論(けろん)あらばその(しん)則ち乱る。復た出家すと雖も、猶ほ未だ脱することを得ず。是の故に比丘、当に急に乱心戯論(らんしんけろん)捨離(しゃり)すべし。もし汝寂滅(じゃくめつ)の楽を得んと欲せば、唯だ当に善く戯論の(わずらい)を滅すべし。是れを不戯論と名づく。



<年をとって愚図らない>
『何のために生きなければならないか、誰のためにいきねばならないか、などと年をとっていうようでは、もう遅すぎます』
『若いときから「聞思修証」して、年をとったら、アタマ手放し、それで「証して分別を離る」というところまで行っていないと困ります』

『70歳近くの人に「私の人生はどう考えればよいのだろう」という相談をうけるが、そのように聞かれても、困ってしまう、「もう遅い」とも云えないし』
というようなくだりも2度ほどありました。
いずれも、遅きに失した
小生には甚だ耳の痛い話であります


5) 内山興正老師(明治45年生まれ平成103月示寂)は、澤木興道老師の高弟であります。
仏法の実物はお釈迦様が修行体証されたもので、その当時から変わりようがありませんが、同じ中身でも、時代と共に新しい表現をしてゆかねばなりません。そうしなければ仏教は後退すると思います』といわれているとおり、老師のお話は親しみを込めた語り口で、かつ工夫された言葉で、聴く者の耳に入りやすく判りやすくお話されています。

なお、山内庸行さんのライブラリーでは、たまたまこの八大人覚の提唱の最初の2回分が収集できていないとのことで、この度は別途購入されていた下記の法話集を宅急便で届けていただきました。有難うございました。

(注)株・エニー(日本音声保存) 内山興正法話集〜天地一杯の生命〜
        CD10枚とそのレジメに相当する「法話集」1冊からなっております。
        前半CD5枚は「人生科講義」、「八大人覚提唱」後半の4枚に収められています。


                                                       以上 (2006.10.03)

                                            目次へ戻る  
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15)ティク・ナット・ハン師の「禅への鍵」を読んで

最近、ティク・ナット・ハン師が西欧人向けにフランス語で書かれた禅ガイドの日本語版:

  「Thich Nhat Hanh ZEN KEYS 禅への鍵」という本を読みました。

以下は、まとまりないご紹介です。

訳者あとがきによりますと「Thich N hatHanh, Zen KeyA Guide to Zen Practice, Doubleday,1995 を全訳したもの」で、原書の初版は1973年にフランス語で出版され、74年に英語版が出版されました。その後、英仏版とも絶版となっていたものが 1995年に改訂版が出された、とのことであります。この日本語版(藤田一照氏訳)は改定英語版をベースに訳出され、2001年2月に春秋社から出版されております。

本文145ページの小冊子ですが、巻頭言(序)の執筆者、翻訳者が立派な禅修行者であることも、この書の価値の高さを示しています。内容の濃い一冊であると思いました。

訳者である藤田一照氏は、1954年生まれ、82年東京大学大学院専攻博士課程を中退して、澤木興道・内山興正師の流れを汲む曹洞宗紫竹林 安泰寺(注)に入山、翌年得度。87年米国マサチューセッツ州西部にあるヴァレー禅堂の住持として渡米、現在に至るという禅者であり、師の訳になる本書は、もともと日本人向けに日本語で書かれたのではないかと錯覚するほどであります。

また、末尾には藤田氏による懇切な注解およびあとがきがあります。

(注)安泰寺の接心に参加しておられる山内庸行氏(B13回)が、このHPへ安泰寺の接心報告を寄稿されています。
    また、フレンドサイトのコーナーに安泰寺の
HPアドレスがあります。ご参考まで。

巻頭に英語版に寄せられたというフィリップ・カプロー氏の「序」があります。
 フィリップ・カプロー氏(1912〜)は、『日本で禅を長期的に学んだ最初の西洋人のひとり。原田祖岳、安谷白雲師に参禅する。1966年にニューヨーク州ロチェスターに禅センターを開く。現在は引退してフロリダ州に住む』(藤田氏注 P.180)という。

立派な禅者であるお二方の序文(22ページ)と訳者あとがき(13ページ)も、内容濃いティク・ナット・ハン師禅の解説書となっております。

<ティク・ナット・ハン師について>

本書の著者、『ティク・ナット・ハン(釈一行)師は、現在、欧米で最も敬愛されている仏教指導者のひとりである。 ・・・アメリカの仏教書ベストセラーリストには彼の著作が数多くとりあげられ、日本では想像しにくいだろうが、講演やリトリート(集中的合宿修行)には、千人単位の人々があつまる。世界各地にタイ(先生・師)の教えを学び実践するCommunity of Mindfull Livingという草の根的なグループ(サンガとよばれる)がつぎつぎと生まれている。日本でも数グループが活動中である。』(訳者あとがきより、同書 p.192

『いまアジアの伝統的仏教とは異なる「新しい顔をもった西洋仏教』が形成されつつある。そこでのタイ(ティク・ナット・ハン師)の果した役割はこの上なく大きい』(p.192

<本文の目次構成はつぎの如くであります。>

 先に述べた如く、著者本文のほかにフィリップ・カプロー氏(注)の「序」(22ページ)および 訳者による「註」(11ページ)および「訳者あとがき」(13ページ)が付いております。また本文末尾に付録として、珍しいベトナム臨済禅の公案がつけられております。

   第一章    マインドフルネスの修行

       11 小さな本 12 気づきがなくてはならない 13 マインドフルネス

   第二章    一杯のお茶

       21 自己の本性を見る 22 菩提達磨の言葉 23 仏教という革命

   第三章    庭の柏の木

       31 禅の言葉 32 指と月 33 「仏にあったら仏を殺せ!」
       34 「自分のお椀をよく洗っておきなさい」 35 よい答え
       36 公案とそのはたらき 37 公案の意味 38 趙州の「無」
       39 輪に入る 310 こころが熟していなければならない

   第四章    山は山、川は川

       41 心印  42 真心と妄心  43 真実 44 ランプとランプのかさ
       45 非概念的経験  46 不二の原理 47 相互依存的関連性

   第五章    空の足跡

        5
1 禅仏教の誕生 52 禅と西洋 53 禅と中国  54 空
        55 補足的ないろいろの考え 56 反学問という反発 57 本源への回帰
        58 AでないAがほんとうのAである 59 真如に悟入する
        510 主体と客体 511 解脱の三つの門 512 龍樹の八つの否定
        513 中道 514 唯識学派 515 諸法の分類 516 識
        517 唯識学派の方法 518 基盤としてのアラヤ識 519 悟りの過程

   第六章    人間性の復興
        
        61 僧院生活 62 結制安居 63 参禅 64 在家修行者の役割
        65 禅と今日の世界 66 将来の展望 67 目覚めは可能か
        68 宗教性対テクノロジー

付録 課虚 ――陳太宗(注3)の拈提と偈頌の付いた四十三の公案

◇◇◇  ◇◇◇

本書は30年以上も前に欧米人への禅の入門書ないし紹介書として発刊されたものでありますが、上記のごとく幅広いテーマが取り上げられ、白隠禅師や鈴木大拙師にも触れられています。


<藤田一照氏(訳者)は本書を次のように鳥瞰的にまとめられております>
    (文中、藤田氏はティク・ナット・ハン師を“タイ”(先生)と記しておられる)

 『本書の第一章は、タイが仏教的修行の基盤として最も重視しているマインドフルネスを説いたものである。・・・

 第二章、第三章、第四章は、見性、無分別智、公案、心印、不二、坐禅といった禅のキーワードにふれながら、
  禅における目覚め、覚りとはいかなる出来事なのかを、さまざまな角度から説いている。
  日本ではほとんど知られていないベトナム禅宗の祖師たちのことばや逸話が随所に
紹介されていて興味深い。

 第五章では禅の展開を跡づけ、さらに禅につながりの深い中観と唯識の考え方が説かれる。
  大乗仏教の教学が禅の裏づけとなっていることが強調されている。・・・

 第六章ではベトナム禅院での伝統的な修行生活が紹介され、さらに現代における禅の意義と将来の課題が探求される。・・・

 最後に、ベトナム禅宗史上の重要人物・陳太宗による公案集「課虚」の初の英訳が、付録として掲載されている。・・・』(同書 P.195P.196 訳者あとがき より)、

『禅の入門書は日本では汗牛充棟の感があるが、本書はそれらとはだいぶ違った禅への切り込み方をしていて、禅に相当親しんでいる読者にも新しい発見がいくつもあると思う』(P.196

 ティク・ナット・ハン師が『自分の「禅者」としての立場を正面から打ち出した、今のところ唯一の書物である。彼の仏教把握の出発点を知り、彼がこの「禅」から現在説くような「仏教」へどう展開してきたか。何が一貫し、説相のどこに変化があったのか。タイ(先生)のそういった軌跡を知るために、本書は貴重な資料となるに違いない』P.194

            ◇◇◇  ◇◇◇

以下は、ランダムな拾い読み抜粋ですが、本書の深みを損なう恐れがあります。

<マインドフルネス>

  仏教においては、気づき、つまりマインドフルネスがあるかどうかということが最も大事なことなのだということを(この問答が)はっきり示しています。マインドフルネスは、すべての存在や行為に光をあてるエネルギーであり、集中力を生み出し、深い洞察と目覚めをもたらします。マインドフルネスは仏教のすべての修行の根底をなすものなのです。(p.7

<菩提達磨の言葉>

 自己の本性を徹見することは、学習や研究の成果として得られるのではありません。それは完全なマインドフルネスをもって、現実の真っ只中でいきることから得られる深遠な洞察なのです。

菩提達磨によれば、禅とは、

 「経典以外に別に伝えられるものであり」(教外別伝)

 「言葉や文字に頼らず」(不立文字)

 「人の心を直接に指し示して」(直指人心)

 「自己の本性を徹見して、覚者(仏)になる」(見性成仏)  ということです。(p.15

菩提達磨のいったことはまさに、知性にもとづく思弁を排して、人々を直接的な宗教経験に導くという、この仏教本来の伝統にしっかりのっとったものです。(p.16

<目覚め>

 仏教とは目覚めの教え、洞察と智慧の教えなのです。

釈迦ははじめから、この目覚め、この智慧は「(仏)道」を修行することによってのみ得られるのであり、研究や思弁によってではないと教えました。

さらに仏教のもう一つの特色は、解脱にいたるのは神の恩寵や御利益によってでなく、智慧を通してであるとする点です。 (p.17

<形而上学の空虚さ>

 釈尊は、形而上学的な思弁に時間とエネルギーを浪費してはいけないと、いつも弟子たちに語りました。形而上学的な質問を受けたときには、いつも沈黙を守りました。(無記、捨置記)

釈尊はつねに弟子たちに実践的な修行に励むように教えました。 
・・・
「この世が有限であろうと無限であろうと、限りあるものであろうと限りないものであろうと、あなたが解脱するという問題にとってはなんの違いもない」と言いました。 (p.25

人生は短いのですから、私たちは少しも真理に近づけない際限のない形而上学的思弁に人生を浪費してはいけません。(p.25

<概念的知識を超える>

 真如、自性、法身、涅槃などという仏教用語は、生きた真実そのものとは何の関わりもない概念でしかありません。禅では抽象的なことや象徴的なことは重要視しません。大切なのは真実そのもの、目覚め、マインドフルネス(気づき)なのです。 (p.38

概念によって造られた世界は、生きた真実とは別物です。目覚めた生活を送っていない者にとってのみ、生と死、善と悪、有と無がたがいに対立する世界が存在するのです。人生における浮き沈みは「目覚めた」人の意識を左右したりしません。  (p.66

<中観学派、唯識学派について>

 (本書では、中観、唯識の哲学についても解説されているが)

禅匠たちは、弟子たちが中観学派、唯識学派の研究に時間を費やすように励ましたりはしません。
それはそれらの学派の教義が禅と相容れないからではないということです。事実は、どちらの学派も禅の発達過程を実によく説明してくれるのです。

 しかしながら、やはり禅はどこまでも生きることそのものなのであって、禅を研究することではないのです。 (p.124

 もし、私たちが禅院で般若波羅蜜と中観派の文献を研究しようとするなら、多くの時間を消費して、肝心な禅の修業をする十分な時間がなくなることでしょう。 しかし、これらの文献はいつでも調べることができるようにつねに禅院にそなえられています。 (p.110)

<仏教(禅)のアジアでの衰退>

(ベトナム)戦後のベトナムでは、政府が独自の仏教集団をつくって、仏教の実践を統制していますし、宗教的実践の自由を要求する仏教徒やその他の人々を逮捕しつづけています。

中国では、社会主義が多数の人民を動員して国家目的を遂行し、軍事力増強を図っています。

日本では、経済発展が日本を西洋のような国に変えてしまい、宗教的価値の多くが旺盛な物質至上主義にとって変わられています。 ・・・もはや、寺院や禅院は宗教的指導性を発揮するというかってのような役割を果すことができなくなってしまいました。禅は、それが生まれ発達したまさにその土地で、危機におちいっているのです。 (p.140

禅がアジアですでに衰退の道をたどっているその同じときに、西洋が禅について学びはじめました。 (p.140

西洋に禅が根づくという過程は、まだ現在進行中なのであり、決して完了していないのです。文化的・経済的・心理的諸条件が、東洋と西洋では異なっています。中国や日本の修行者のような、食べ方、坐り方、服の着方を真似すれば、それで禅の修行者になれるというものでもありません。禅は生きることそのものなのです。禅は模倣ではありません。
もしいつの日か、禅が西洋という土壌にしっかりと根をおろし、西洋において揺るぎない現実となるためには、東洋的な禅の形態とはかなり異なった、西洋的な形態をもたなければならないでしょう。(p
.87

<ガンジーの精神的強靭さ、簡素な生活>

 西洋と同じく東洋も宗教的破産を経験しつつあります。

 人類の破滅を避ける唯一の道は、宗教的なものが指導的な役割を果すような、新しい文化の方向性を見いだすところにあります。 (p.140

 いま私たちが必要としているのは、教義ではありません。われわれに精神的強靭さをふたたびもたらす目覚めこそが必要なのです。マハトマ・ガンジーのインド独立闘争を偉大な勝利たらしめたのは、その教義ではなく(非暴力の教義でさえありません)、ガンジー自身、つまり彼の存在のありようそのものです。・・・

 今日、非暴力の教義について多くのことが書かれ、あちこちで多くの人々がそれを応用しようとしています。 ・・・・ 彼らは教義にたいする信仰はもっていますが、強い結束力をもった運動を展開してゆくことはできません。なぜなら、彼らの誰一人としてガンジーのような精神力をもっていないのです。ですから十分な慈愛と献身を生み出すことができないのです。

・・・ガンジーの服装は簡素なものでした。足で歩き、質素な食事を守りました。彼の生活の

簡素さは、物質的なものによる条件づけから彼が解放されていたことを証拠立てるだけでなく、偉大な精神的強靭さをもっていたことを示すものです。 (p.141

               ◇◇◇  ◇◇◇ 


<蛇足>

浅学を恥じず、三度目のティク・ナット・ハン師に関する拙文を投稿いたしました。

 私がティク・ナット・ハン師を知り関心を持ったのは、2年前、仏教の新しい潮流「エンゲイジド・ブッディズム」の講義を聴いたときからでありますが、つぎの三つの感動でした。

 @ベトナム戦争の初期・1963年にあったベトナム僧(ティク・クアン・ドック師)の「焼身供養」の深い意味(激しい抗議の心=恚りもない、静かな菩薩行であった)を知ったこと、A ベトナム戦争中、戦争のどちらの側にも組みせず、多くの命の犠牲を払いながら仏旗のもとで民衆救済のため最後まで働き通したというティク・ナット・ハン師らベトナム仏教徒の強靭な仏教精神  Bそして、これらの行為には、つきつめると「抗議」とか「非難」の心がなく、ーーー 「敵」を設定しなければならないというのは、その事実の見極め方が自らに足りないのだと理解すべきである。という高い精神性に驚き感動しました。

 ティク・ナット・ハン師の唱導する社会の苦悩に積極的に関与する仏教「エンゲイジド・ブッディズム」はこのような確固たる実践の史実がバックボーンになっています。


<前稿訂正>
 ティク・ナット・ハン師は臨済宗の禅師でありました。
私は、ベトナムがタイ、ミャンマーと同じく南方上座部仏教の国だと思い込んでおりまして、前の寄稿文(ティック・ナット・ハン師の「禅的生活のすすめ」)で、その訳書名に原書名にはない「禅的」という言葉が書名に付されているのを見て、訳者が意訳的に「禅」を借用したのだと思っておりましたが、これは誤りでした。

ベトナムには早くから中国仏教が移入されていて、禅宗は臨済宗・曹洞宗が伝わり発展をした国であることを本書ではじめて知りました。ティク・ナット・ハン師は16歳から禅院で修業された生粋の臨済宗の禅僧でありました。

 (言い訳じみますが、訳者あとがきにつぎのようなくだりがあります)
 『仏教者として欧米に広く名を知られてからのタイ(先生)の発言や著作には、自己のルーツである伝統的ベトナム禅仏教への直接の言及や、それとはっきりわかる禅的な用語の使用がほとんどない。禅を強調するどころかむしろ南方上座系仏教(テーラワーダ仏教)的色彩の濃い説法や書物がほとんどだ。「禅においては・・・」「○○禅師によれば・・・」ではなく「仏教においては・・・」「仏陀によれば・・・」なのである。意図的に禅宗的要素を避けているのではないかとさえ感じられる。 ・・・・ 私も長いことタイを禅宗出身の仏教者だと意識していなかった』(p.194) 

                                            以上 (2006.07.30

(ご参考) ティク・ナット・ハン師に関する岡田投稿

    [仏教と社会の問題]2004.12月)
    [ティク・ナット・ハン師の「禅的生活のすすめ』を読んで] (200512)

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14)ティック・ナット・ハン師の「禅的生活のすすめ」を読んで

 エンゲイジド・ブッディズムの指導者ティック・ナット・ハン師(注)の著作の翻訳「禅的生活のすすめ」を読みました。エンゲイジド・ブッディズム=「行動する仏教」=はベトナム戦争の中、戦争のいずれの方にも組せず、仏旗を掲げて命がけで民衆の「苦」の救済に尽くす活動を通して深められ、鍛え上げられた新しい仏教潮流であります。

(注ティック・ナット・ハン師は、1926年フエに生まれ、16歳のときに禅僧となりました。1946年から54年のインドシナ戦争、続く1954年からのベトナム戦争を経験して、仏教徒が社会の状況に積極的に関与することをめざした「行動する仏教(エンゲイジド・ブッディズム)」の中心人物となります。1966年にアメリカを訪れて和平提案のスピーチを行ったことから、ベトナム政府より反逆者と見なされて帰国不可能となり、以後はフランスとアメリカを本拠地として活動を続けています。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、欧米ではダライラマと並んで有名な、たいへん影響力のある仏教指導者です。(『訳者あとがき』より)

<禅的生活のすすめ>について
 原著名は Creating True Peace − Ending Violence in Yourself,Your FamilyYour Communityand The World − である、またティック・ナット・ハン師はベトナム人であるから、果たして禅僧であるのか、小生の常識からは少し疑問がのこります。したがって、本の標題:「禅的生活のすすめ」は相当に大胆な翻訳と云えます。
             
 この書の拠ってたつところは一貫して「ブッダの教え」であります。平易な言葉で、個人や日常家庭生活の中の「ブッダの教え」の実践方法が教示され、それが世界平和活動まで敷衍されています。四諦・八正道の解説も六波羅蜜や四摂事の解説も、禅問答もありませんが、生活実践に結びつけて具体的に仏法の実践が現代語で縷々語られています。本書では「気づき」(mindfulness)の大切さが説かれ、「気づき」の力を養うため「意識的な呼吸」と「意識的な歩行」の実践の重要性が繰り返しとかれています訳者が本書の標題を「禅的生活のすすめ」と訳した気持ちはよく理解できます。
 高邁な仏道実践の道筋が、あたかもゴルフやダイエットのハウツー指南書の如く平易に、しかし熱く語られているのは、素晴らしいと思います。
 ベトナム仏教は、いわゆる南伝仏教の流れかもしれませんが、その精華というべきエンゲイジド・ブッディズムの説く所は、大乗仏教の極致でもあるのではと愚考します。

       ( 2006/7訂正・・・ベトナム仏教は中国仏教(禅)が早くに伝えられ発展した。
       (ティク・ナット・ハン師は臨済宗の禅僧  2006年7月寄稿 「禅への鍵」を読んでご参照ください。

「ブッダの教え」に拠った生き方を――個人生活から政治世界での行動まで――平易な言葉で懇切に説き示した現代版禅書、最近、書店にあふれる禅解説書、仏教書と一味違った内容があると思います。

    ティック・ナット・ハン著(塩原通緒訳)「禅的生活のすすめ」
            出版社 (株)アスペクト(20053月初版 @2000円)


                      ◇◇◇

以下、本書の不完全なピックアップ紹介であります。本書にはさらに広汎なテーマが取り上げられています。
  『 』内は前掲書の原文引用です。
  アンダーラインや< >見出しおよび赤字は岡田が付加したものです。

<エンゲイジド・ブッディズム>
 『私は幼いころから、自分のまわりの人々、特に貧しい農民たちの暮らしをよくするために仏陀の教えを実行に移したいと強く願っていました。私を含め多くの僧侶が、仏教をあらゆる階層に取り入れたいと深く願っていました』(p.130
 『私が「行動する仏教」の可能性と実践について考えはじめ、それを文章にし始めたのは1950年代のことで、1964年には「エンゲイジド・ブッディズム」という本を書きました。・・・「行動する仏教」は苦しみと戦争の産物でした、言うなれば、火の海に咲いた蓮の花のようなものだったのです』(p.130

<仏陀の自己防御と自己治癒に関する教え>
 『僧院の修行僧たちは、周囲の人々の苦しみをとくに実感していました。戦闘機が飛んできて付近に爆弾を落とすたび、人々が苦痛に泣き叫ぶ声が聞こえてきます。子供たちは負傷し、家は破壊され、世話を必要としている難民が大勢いました。彼らを無視して、寺(瞑想室)で黙って坐っては居られませんでした。しかし、自分自身の精神を育まずしてそんなことをしても自分が疲弊するだけです。そこで私たちは週に一日を「気づきの日」として自らの滋養に充て、周囲の苦しんでいる人々に救いをもたらしながら、自分自身も強く保っていられるようにしました。私たちは仏陀の自己防御と自己治癒に関する教えを自らの修練に用い、その教えを世界に広めました。これが「行動する仏教」です』(p.131

<暴力の種は自分自身の中にある>
 『私たちはみな非暴力を実践できます。それにはまず、自分の中に哀れみの種と暴力の種の両方があることをしっかりと認識しなければなりません。私たちの心は、あらゆる種類の種が埋まった庭のようなものだと知ることです』(前掲書p.6

私は平和のための戦争という考え方を認めません「正義の戦争」なんてものはありえない。「正義の奴隷制」や「正義の憎悪」や「正義の人権差別」がありえないのと同じです。 ・・・かってマハトマ・ガンジーはこう言っています。「“目には目を”を実行していたら、世界中の人が盲目になってしまう」』(p.10

『戦時下のベトナムで非暴力を実践した人たちは、たとえ誰かから憎しみを向けられているときでも、自分が憎しみをもたずに心穏やかに生きることは決して不可能でないと学びました。ただし、それには冷静になる必要があります。見せかけの状況に惑わされず、本当の状況をしっかり見極めてから、意を決して行動しなくてはなりません。平和とは、単に暴力がない状況のことではありません。理解と洞察と哀れみを育み、それを行動に結びつけたとき、初めて平和は実現されます。平和とは「気づき」(mindfulness)を実践すること、すなわち自分の考えと、行動と、その行動の結果をきちんと意識することです』(p.11

 『自分の内面に根を張っている暴力を認識していれば、私たちが日々考えること、話すこと、行うことの中身もおのずと変わってきます』(前掲書p.21

 『自分自身の意識の中にも、怒りや憎しみの種があるのです。・・・私たちは長いあいだ、なすすべもなく自分の中に暴力を蓄積させてきました』(p.23)『自分のいらだちや怒りを遠ざけるたびに、あなたと人類はまた一つの勝利を得ています。あなたの微笑みは、魔羅(注)にうち勝ったときの仏陀の微笑みと同じです。魔羅は私たちの内面に、疑念や嫉妬や誤解というかたちで潜んでいます』(p.24
   (注)魔羅(マーラ) 修行中の釈尊を誘惑しその成道を妨げようとした魔王の名

 『仏教の「一番目の真実」は、苦しみや不幸を認識することです。不幸を癒すための第一歩は、状況を理解して、その原因を見つけることです。これは仏陀が推奨した実践です』(p.261

  『先進国が発展途上国の労働力や資源を搾取しつづけるなら、遅かれ早かれ先進国は崩壊するでしょう。それが「相互存在(インタービーイング)の教えです。 ・・・平和への第一歩は、自分と自分の同朋に耳を傾け、理解することです。どれが出来なければ、どうしてアフガニスタンやイスラエルやパレスチナやイラクの人々の苦しみが理解できるでしょう?  苦しみの認識は「一番目の尊い真実」です。すべての人は苦しんでいます。社会的不公正、差別、恐怖、そして狂信です。』(p.262)

<憎しみを超える、――本当の敵は自分自身の中にある>
 『 ・・・たとえ私たちが自分の中の愛の心、菩提心によって行動しているとしても、戦っている両陣営はそれを理解せず、私たちのメンバーの多くを殺しました。 しかし、本当の殺害者は誤解でした。私たちは人々を助けたいという思いと愛だけを武器とした非暴力の軍隊でしたが、ふつうの軍隊と同じように多くの犠牲者をだしました』(p.142

 『毎日を危険と隣りあわせで過ごしていた若者に、憎しみを持たずに死ぬことが大事であると告げたかったのです。すでに何人かが乱暴に殺されていました。 ・・・私たちの敵は、私たち自身の怒りや、憎しみや、貪欲や、狂信や、差別である、 ・・・自分を殺した人を許せるように哀れみについて瞑想しなければならない。この哀れみの状態を認識しながら死ぬとき、あなたはまさしく「目覚めた人」の子供である』(p.143

この魂の和解に関して、<ビンサーラ王とその息子アジャータシャトル王子>の説話が152162ページにわたって引用されております。

◇◇◇
 本書は「ブッダの教え」の実践書であり、「非暴力」の実践指南書であります。
本書が対象と考える暴力または非暴力は、戦争に限りません、身のまわりのすべての場面が想定されています。「非暴力」が本書を貫く縦糸とすると、横糸は「気づき」と「哀れみの心」と「相互存在の精神」であるように思います。「非暴力」が実践出来るためには「気づき」が大切であり、「気づき」の実践には、「本質」を知るための意識的努力と訓練が必要であると説かれ、「意識的な呼吸」・「意識的な歩行」・「瞑想」が重視されている、と理解します。

<気づき>
 気づきとは、自分が何を考え、何をしているかを立ち止まって認識することです。自分の思考や言葉や行動に自覚的であればあるほど、集中力が養われます。集中力があれば、自分の苦しみや他人の苦しみの本質が見抜けます。その洞察から、まわりと調和して安らかに生きるためには何をすればよいか、何をしてはいけないかがわかります』(p.28
  『気づきは単純なようでいて、とても意味の深いものです。私たちが毎日の生活において意識的に哀れみを育んでいれば、一日ごとに暴力は減ってゆきます。その効果は、自分の家族、友人、そして社会に及んでゆきます』(p.11)
  『気づきと瞑想は違うと考える人がいますが、それは正しくありません。気づきの実践とは、毎日の一瞬一瞬を意識しながら生きることであり、それはれっきとした手法です。 ・・・それはいつでも出来ることです。 ・・・気づきながら生きることを実践すれば、毎日の生活に平和が芽生えます」(p.11)』

 『気づきを実践している人は、すでに「四つの尊い真実」(注)を追求しはじめています』(p.121
 (注)「四つの尊い真実」は四諦のこと

 『苦しいときは、自分の仏性、自分の善良な部分に意識を向けなおすことを忘れないでください。それはあなたの中にある、気づきの能力、穏やかになれる能力、状況を見極められる能力です。 ・・・忘れずに気づきを実践して、自分の仏性にふれなくてはなりません』(p.45)
  『意識には、癒す能力、許す能力、善良さを生む能力があります。こうした能力があることを認識して、それが自分の体にも意識にも存在すると信じましょう。自分の善良な部分、自分の仏性に対する信頼を深めてください(p.49)』

<相互存在(インタービーイング)>
 (cf.脳細胞のニューロン、ミツバチやシロアリの社会の事例があげられている)

 『私たちに自己はなく、ただ相互につながりあっているだけなのだという教えを・・・』(p.236
 『美しく芳しい蓮の花を見つめれば、自然と泥が目に入ります。泥と蓮は相互依存しているからです。片方がなければ、もう片方もありえない。これが仏陀の教えです』(p.272

 『20世紀後半の特徴となったのは、個人主義という考え方でした。個人すなわち周囲から切り離された自己のためにだけに何かをやりたいという願望です』(p.231)『自分の時間をすべて自分の関心事にだけ費やしてはなりません』(p.243)

 『このままいったら私たちの生活はどうなるのか ――これを深く見つめる必要があります。私たちは個人主義が広まるままにしてきましたが、 ・・・21世紀に向けて・・新しい別な方向が必要です。私たちの住む地球をこのまま壊しつづけるわけにはゆきません。決意さえあれば、個人主義と自己への盲信は捨てられます。そして調和のうちに暮らし、相互依存の精神で行動できます』(p.232)

  『これらの瞑想を一つ一つ実践するうちに、自分の感情を落ち着かせ、私たちの「相互存在(インタービイング)」――すなわち、あなと私や、あなたと他の人々を隔てるものは何もなく、私たちはみな「相互に在る」ということを理解できるようになります。 ・・・すべての生命は互いにかかわりあっている 』(p.12)

 
                     ◇◇◇
 『気づきの力を養うための二つの重要な実践が、「意識的な呼吸」「意識的な歩行」です。
息をするのも歩くのも、ふだん当り前のように行っていることですが、この日常的な行為を通じて、私たちは自分の感情を鎮め、喜びを深めることが出来ます』(p
.28

<本書に列記されている訓練>
   @     腹式呼吸の練習(p.63
  A     意識的な呼吸の練習(p.29
   B 意識的な歩行をする、哀れみをもって話し、聞く (p.30)
   C    哀れみをもって耳を傾けるための瞑想(p.34
   D     否定的な感情を認めて変えるための微笑みの瞑想(p.39)
   E 肯定的な感情を認めて育むための瞑想(p.40)
  F     自分の善良な部分、自分の仏性を忘れずにいるための瞑想(p.46
   G 感情を深く見つめるための瞑想(p.66)
  H   深いくつろぎの実践(p.69
   I    五つの気づきの訓練(p.101
       5-1        一番目の気づきの訓練 生命に敬意を払う
       5-2        二番目の気づきの訓練 寛容になる
       5-3        三番目の気づきの訓練 性的責任を果す
       5-4        四番目の気づきの訓練 深く耳を傾け、愛をこめて話す
       5-5        五番目の気づきの訓練 意識的な消費をする。

              ◇◇◇
一年前はじめて、このエンゲイジド・ブッディズムの存在を知り、奇しくも、一年前の今月、エンゲイジド・ブッディズムに関連した小論「仏教と社会の問題」をこのHPへ投稿しました。このエンゲイジド・ブッディズムの存在を知ったとき、ベトナム戦争中1963年サイゴンでありました高僧の『焼身供養』の真相を知り、またこの事件がエンゲイジド・ブッディズムの源流にあるということを知ったことも印象的でありました。
                      *****

以下に、改めて前稿「仏教と社会の問題」でのその引用部分を再掲載させていただきます。
『 』内は阿満利麿「社会をつくる仏教」
人文社20036月初版より、写真は同書の表紙です。

『首都サイゴンで、四〇〇人の僧尼のデモ(があり)、一台のオースチンがデモの先頭に出た。そして、カンボジア代表部のある交差点で車が止まり、七三歳のティック・クアン・ドック師が車から降り、交差点の真中に静かに座った。弟子らしい二人の僧侶がポリ容器に入った液体を師に浴びせ、師はゆっくりとマッチを擦った。一瞬にして炎が立ち、師は燃え立つ炎のなかで約四分間座禅の姿勢を保ったまま絶命した。師が倒れると、僧侶たちは一斉に跪いて合掌した』(「社会をつくる仏教」p.16
                 

焼身した老僧には遺書があった。「私は発願しました。自分の幻身を焼いて仏様にささげ、その功徳によって仏教が永続し、ベトナム全国の平和と国民の安楽が実現しますように・・・・・南無阿弥陀仏」。その後二〇人の僧尼が相次いで「焼身供養」した』(同上 p.17

                        ◇◇◇

 パレスチナやイラクやインドなどで、今日も宗教対立が絡む民族抗争で自爆テロが多く報じられています。
当事者には信仰に殉ずる純粋さがあるであろうし、仲間の世界では高貴な殉教者・英雄であると思われますが、ティック・クアン・ドック師の焼身供養とは大きく異なります。
巻き添えの犠牲者がないことだけではありません。心に敵がない境地」こそが決定的な違いであると思います。

ティック・クアン・ドック師の心には、怒りがなく、哀れみの心があったと思います。当面の敵となっている者にも「哀れみの心」をもって対しておられるはずであります。ほかの誰かを傷つけるなどあり得ないことであります。ティック・クアン・ドック師の仏教的境地からは「敵を想定しなければならない」ということは、自分自身の事態の認識が不十分な結果である、という境地はなかなか到達できない境地ではあります。これが仏教的思索が到達すべき境地なのだと思います。条件がかわれば、我もまた彼になっていたのでありますから。この考え方がエンゲイジド・ブッディズムに明確に受け継がれているようであります。


   参考:「仏教と社会の問題」(2004.12.28)を参照する
        プラム・ヴィレッジのHP(英文)  アドレス  http://www.plumvillage.org
            (ティック・ナット・ハン師が指導する共同体・研修所)
                            以上 岡田彬 (2005.12.19

                                         目次へ戻る  
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13)西国33ケ所めぐり雑記   (2005.11.15)

  一昨年 秩父34ケ所、昨年坂東33ケ所の札所をめぐり、今年は西国33ケ所を巡っています。先月末(10月27日・28日)第5回関西遠征を行ない、2日にわけ5寺を巡りました。 以下、取りとめなき道中記・・・

 札所めぐりでは専ら公共交通を使い出来るかぎり歩くことをモットーにしております。それぞれのお寺は山寺といっても、近隣の人たちには、散歩やハイキングコース程度の山なのですが、遠方から遠征すると、結構、いろいろ障害があり、なかなか一気呵成には廻れません。9月9日は、京都市内の札所を1日9寺巡りましたが、これは例外で鉄道やバスの本数が少ないところでは、3寺を巡るのも難しい。お寺の納経所の時間内に参詣しなければならない、これも大きな制約条件です (お寺で朱印帳に朱印を貰う、開いている時間は午前8時から午後5時までが一般的です)。 この時間帯を出来るだけ有効に生かすには、最初に巡るお寺へ午前8時には着いていて、その一日が始まるというのがベストであります。西国巡礼では首都圏を深夜に発ち翌朝6時ころには目的地域に到着する夜行バスが大いに効用を発揮しました。運賃面も新幹線より経済的で助かりました。今回の西国巡礼はあと4寺を残し、まだ未完でありますが、33ケ寺(番外寺2寺を含めると35寺となる)を巡り終えるに、7遠征6泊12日を要すことになりそうであります。

以下、前回のバタバタ巡礼記です。
 10月27日は琵琶湖周辺の3寺<観音正寺(32番、安土町)・長命寺(31番、近江八幡市)・宝厳寺(30番、竹生島)>を巡る計画でありました。地域的には比較的集中しており、JR便の本数の多い便利な地域であったのですが、意外に難しいことでした。この日の制約条件の第一は、最後に詣でる宝厳寺(琵琶湖に浮かぶ竹生島にある)へ渡る船の最終便が彦根港発14時30分ということでした。そのためには外の2寺を巡礼してJR彦根駅に14時に戻ってこなければなりません。
 定石どおり夜行バス(近江鉄道バス)で大宮を出発し、JR彦根駅へ朝5時に着きました (5時20分着が定刻であるのに!)。そこから最初の札所・観音正寺への起点駅・JR能登川駅へ、始発バスは6時30分です。駅から寺までは7〜8Km、普通なら歩く距離ですが、駅へ11時ころまでに戻るには歩いて良いのか? 道に迷っても早朝では聞く人が居ないかもしれない、結局、始発バスを待つことにした。観音正寺口にバスで着いたのは6時45分でした。ここから約3Km、朝の清々しい空気を吸いながら裏参道のなだらかな山道を歩いて、本堂のある山上についた。上がって見れば、眼下に新幹線が見える小高い山でありました。7時35分であった、少し早すぎる。
 鐘楼の鐘をゴーンと鳴らして着きましたよと知らせて本堂にあがりました。この本堂は平成5年に焼失し、昨年再建されたという新しい立派な本堂です、6mあるという大きなご本尊(千手観音坐像)は白檀で作られている。この白檀は輸出禁止となっているものをインド政府の特別の計らいで輸入されたという、まだ無人の本堂でピカピカの新しいご本尊の前で20分ほども正座して拝観した。良いのか悪いのか判らなかったが、朝一番に免じていただいて撮影もさせてもらった。8時なってご朱印を戴いて8時30分には寺を出て山を下り、能登川駅へ9時半に帰着した。まずは順調なスタートであります。

        
       戦国時代に山城があったという参道              6mある白檀つくりの千手観音像

能登川駅からJR近江八幡駅へ、駅前から10時発のバスに乗り、次の札所・長命寺下に10時30分に着いた。まだ油断はできない、これから寺へ登り、近江八幡駅へ戻り、14時には彦根駅に着いていなければならない。バスは一時間1本、次のバスは11時43分である。 門前で迷った、山門へ緩やかな車道を登るか、808段の急な石段に挑戦するか、石段を登ることとした。 と切れなく続く808段のかなり急な石段は結構大変である、頑張ったが25分掛った。参道の石段も立派であるが、上りきると琵琶湖の一部が眼下に見え、気分爽快である。長命寺の創建は記紀の時代大和武尊の父である景行天皇の時代と伝えられ、寺の開基は聖徳太子という由緒あるお寺である。お寺には自動車で登ってきた参詣客が20人ほどもいる。いくつかのお堂を参拝して、いざ下山であるが、一段ごとの奥行きが短く、しかも昨夜の雨で滑りやすい状態の急坂な石段を下りることに危険を感じ、大事をとって帰りは側道に作られた自動車道からバス停まで降りた。 ここまで来て、やっと安心できた。 12時半には彦根駅へ着いた。これなら1便早い船に乗れるぞ、心置きなく昼食を取り、彦根城を抜けて彦根港へ。オーミマリンの船着場で13時30分の乗船券を求め、竹生島16時20分発の帰りの切符を買おうとしたら、最終便はお客が少ないと欠航になるかも知れない、15時20分の船で帰ってほしいと云う。往きはこの13時30分の便が最終となる可能性が高いというのである。思いがけぬラッキーであった、当初計画は14時30分に間に合えばよし、と考えていたのであるから。危うく、尻切れトンボになるところであった。夏のシーズンには賑わうのであろう高速船も乗客は8人であった。経営が大変だなと思う。快適な船旅40分で竹生島に着く、港に着くと、午前中から来ていた人たちであろう、お遍路姿の団体などで賑やかなのに驚いた。神社と寺は渡り廊下(重文)でつながり、神仏習合の名残りを色濃くのこす、古くから信仰の島であったらしいが、安土桃山様式が際立つ。小さな島であるから、宝物館などを拝観しても、次の船までの1時間10分は十分な時間であった。全て順調に運び、本日は無事3寺巡礼の目標を達成し、16時には彦根港に帰港した。
 明日は、姫路の27番・書写山円教寺をスタートに3寺を巡る計画であるので、姫路に泊る予定である。 兎に角、翌朝までは自由時間である。約1時間、彦根の町を徘徊してから姫路に向かう、19時過ぎには姫路駅に到着した。

          
        808段の石段が続く長命寺                  竹生島を後にする

さいたま出発前に見た天気予報では28日は午前中は曇り、午後は雨になる確率40%であったが、予報大外れで快晴である、今度の巡礼は万事ついているな、と内心喜んだ。 この日は書写山円教寺と一乗寺(26番、加西市)、あわよくば清水寺(25番、社町)の3寺を巡る計画であったが、この3寺巡礼は、なかなか厳しい計画であった。清水寺(社町)への交通の便が極めて悪いからだ。1日5便のバスしかない、ここを往復するには、社町のバス停を12時40分発のバスに乗るしかないのだ。そのためには、姫路駅前発 9時40分のバスで一乗寺へ向かう必要がある。 要するに、9時40分までに姫路駅と書写山を往復する必要がある、しかも、納経所は8時からである。山上まで距離は7〜8Kmだ、麓から山頂への登山の所要時間が問題であるが、8時に本堂につけば、帰りは、動き出すロープウェイとバスを利用して9時30分までに姫路駅へとって返すことが出来る。もう45年も前になったが、大学ジュニアの姫路分校時代に、書写山は散歩気分で何度か登った記憶があったので、勝算に自信はあった。密なる計画の下、姫路駅裏のホテルを5時半にスタートした。昔はのどかな田園風景であったが、駅から書写山麓まで住宅が張りついている、45年間の姫路の変貌振りに驚きながらひたすら歩いた。
 7時過ぎには山の麓に着いたが、登山口がわかりにくい、少し迷って登り始めたのは7時半近くになっていた。書写山は大きな岩山である。登山道は石と赤土道であった。雨だったら滑ってとても登れなかったな、と思いながら、ここでも好天に恵まれた幸運を喜んだ。8時には山門をくぐり、鐘楼の大きな鐘を打ち鳴らした、写真を撮りながら、8時15分には本堂につき、いつもの如く、般若心経を3度読経した、ここまでは万事順調であった。ところが、納経所が無人のままで、一向に人が現れない!、ロープウエイも動いていないこんな時間に上がってくる巡礼などいないためか。やっと朱印帳にご朱印を貰って、急ぎロープウェイ山頂駅まで引き返し、9時発のゴンドラに乗りこんだ。ゴンドラは4分で下山したのだが、連絡バスは9時20分、姫路駅に戻れたのは9時50分過ぎであった。早々に、この日の3寺巡礼計画は挫折したのである。

 こんな日もあるさ。しかし、これも塞翁が馬と云うべきか、お陰で、いそがしかるべきこの一日は余裕タップリの一日となりました。午後1時過ぎには一乗寺から姫路へ戻り、町を歩き、姫路城を観光し、青春時代の思い出多い懐かしき旧神戸大学姫路分校まで訪ねることが出来ました。書写周辺の変貌にも驚いたが、姫路城を中心とする街の整備ぶりにも、今様浦島の感を味わった。昔、よく城の中を散歩しながら寮まで帰ったので、勝手知ったる・・・・ と、城を抜けて旧分校へ向けて歩いたが、案の定、道に迷ってしまった。やっと学校へ辿りついて、守衛さんに見学を申し込むと入門記帳も免除して快く入れてもらえた。説明を聞くと、2年前、神戸商科大学と姫路工業大学、県立看護大学が統合されて、県立兵庫大学が発足し、このキャンパスは、その県立兵庫大学の1,2年生と、旧姫路工業大学の3、4年生が同居して、約800人が在籍しているということであった。昔の本館と講堂と講堂から図書館への渡り廊下の一部が残されていた、現役建物というよりは文化財的に残されているようであった、懐かしい。運動場に行ってみると、むかし長閑だった田園地帯は密集住宅地となってキャンパスを囲んでいた。運動場から見る校舎は近代的で立派なものであった。旧制姫路高校名残りのあの木造寮は、当然なことながら跡形もない。青春時代の思い出の地をゆっくり巡ることが出来て、まずはよい一日でありました。
 西国33ケ所巡礼も残すはあと4寺、雪の降る前に100霊場巡礼満願としたいものであります。

         
                      書写山 円教寺の本堂は、堂々として立派である
                                
        
        朝もや残る書写山展望台にて              円教寺山門

        
       今も残る旧姫路分校の講堂                運動場から見える近代的な校舎

        
          キャンパス周辺も住宅密集                    世界遺産となった姫路城



       < 観音正寺の参道には、ことわざの標識が続いていました >

    西国第三十二番札所
       繖(きぬがさ)山 観音正寺参道 ことわざのみち 冊子より

  先人は沢山の名言、名句を残し後世の人々に言い伝え、現在の我々に希望と反省を与えてくれています。
  三歳の子供が理解できても、八十歳になる老人がなかなか実行できないのがこの本に挙げられている
  容易でわかりやすい言葉です。この言葉は自分の心を豊かにし、人々に希望と安らぎを与えてくれます。
  また、この言葉は観音様の慈悲の心を実践できる言葉でもあります。ですから、この本をいつも携帯し、
  子供達や友人に言い伝え、菩薩の行を実践し、また自分の生きる糧としていただいたなら幸いです。
                                                    山主  合掌
               滋賀県蒲生郡安土町石寺2 観音正寺 (0748-48-2549)


人の一生に厄年はない 躍進の「やく」と考えよ
二、今日一日を大切に感謝の気持ちで最善をつくそう 
三、祖先は自分の中に生きている 祖先の徳に感謝しよう 
四、人生には真の失敗はない 前進する一過程である
五、安易な人生からは人生の貴重な体験は生まれない
六、楽なことを幸福と思っていては 人生の深い喜びは味わえない
七、姿かたちを真似るより その人柄の良さを学ぼう 
八、人知らずとも 良心これを知る
九、子供は両親の言う通り行動しないで(両親の)する通り行動する
十、夫婦の円満は互いのはたらきを感謝し合うことから生まれる

十一、楽しい人生の中には必ず 苦しい時代の経験が生きている
十二,言いわけはすればする程 自分をみじめにする

十三、友情とは二つの身体に宿る一つの魂である
十四、明日は何を為すべきかを知らない人は不幸である
十五、人を笑わすよりも 自分が笑われぬようにせよ
十六、積善の家には必ず余慶あり

十七、行き詰まりは環境のせいではない 自分の心の行き詰まりである
十八、失敗を恐れるな成功は 失敗の積み重ねである
十九、わが子は深い愛情で育てられながら 親を養うことは忘れがちである
二十、その人を知らんとすれば その友を見よ

二十一、真の礼儀は人を尊ぶ心を形に現すことである
二十二、金を貸せば友と金とを共に失う
二十三、食物に文句の多い人ほど 健康を害している
二十四、最も幸福な人は いつも行動している人である 
二十五、友情は喜びを二倍にし 悲しみを半分にする
二十六、掛けられている迷惑より  かけている迷惑は気づかない
二十七、責任を負ってこそ自由がある  責任のない自由はゆるされない
二十八、相手だけ責めるから争いになる 反省の余地はまだある
二十九、真心から出た言葉は相手の心をも動かせる
三十、 人間は逆境にきたえられ 自身と確信がうまれる
三十一、一歩一歩の尊さ
三十二、人はあるものを粗末にし ないものを欲しがる
三十三、昨日よりも今日  今日よりも明日

                                         以上  (2005.11.15)

                                              目次へ戻る  
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12) 保寧寺坐禅会、小崎和尚のお話

 10月の8日(土)・9日(日)、保寧寺一泊坐禅会へ参加しました。参加者は約20名、般若団からは3人のメンバーが参加しました。

坐禅会の折り目折り目に和尚(小崎無一和尚)のお話があります。そのお話から今回が初めてと思われます三つの話題をご紹介します。
(和尚の検閲を受けていませんので、不正確の部分が多々あると思いますが・・・)


その一、小崎和尚は先月、約3週間中国各地を巡ってこられました。
禅宗祖師ゆかりの寺々を歴訪は、禅僧である和尚には格別に感動のことであった様子でした。

臨済宗妙心寺派の日中交流訪中団に参加されたのですが、「文化大革命」で僧侶は還俗を強制され、寺も破壊され、細々維持されていた教団も途絶えたという中国仏教界ですが、開放政策で信仰が公認され、国の管理下で積極的な布教活動は許されていないものの、志ある若い僧侶が熱心に修行している。文化大革命で追放されて老人がいないので、指導者も若々しく、破壊された寺も大規模にかつすごいスピードで再建されているとのことでありました。民衆の間にもこれから仏教が確実に広がってゆくと実感されたそうです。この日中仏教交流行事はオープニングセレモニーには日中僧侶を中心に2000人の参加者があったという大規模な行事であった様です。そのあと、和尚ら10人かの僧侶が、各地の禅宗祖師ゆかりの寺々を訪ね、中国僧と寺内で仏行をともにしながら交流をされたとのことでありました。広い中国のこと、寺めぐりも連日強行軍でもあったようです。この事業は故山田無文老師が中国の重鎮とも親交がり、種まきされていたとのことでしたが、中国の開放政策が仏教活動の分野にまで浸透している空気が伝わり興味深いことでした。


 二つには、シンポジュウム「宗教者と憲法9条の和」

11月5日(土)に四谷駅ちかくにあるカトリック教会(聖イグナチオ教会)ホールに宗教・宗派を超えた宗教人が集合して、平和を考える集いがあり、こちらへの参加にも意欲を燃やされているようでありました。

 先の戦争で、日本の宗教界が挙げて、靖国神社とともに戦争遂行への積極的役割を果したことを真剣に反省すれば、仏教界は最近の靖国問題などへもっと発言すべきだと常々感じている小生には、ニュースなお話でありました。そのシンポジュームを小生も覗きにゆこうと思っております。

    <ご参考:シンポジュウムの日時>

 日時 115日 13時〜17
       会場 カトリック麹町聖イグナチオ教会ヨセフホール

         ( . 03-3263-4584 )
         (地下鉄丸の内線 四谷駅一番出口、JR四谷駅3分)  


三つには、柳澤桂子さんの般若心経現代語訳を読み聞かされ紹介されたことでした。

 庫裏前の大きな法語板にも、和尚の達筆で柳澤桂子さんの心訳・般若心経の冒頭の一節が大書されていました。

**** **** ****

ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・・・

ほんとうは

野の花のように

わたしたちも生きられるのです 

もし あなたが

目も見えず

耳も聞こえず

味わうこともできず

触覚もなかったら

あなたは 自分の存在を

どのように感じるのでしょうか

これが「空」の感覚です

**** **** ****

<以下は柳澤心訳「般若心経」についての未熟者の雑文です>

私は、柳澤桂子氏のこの般若心経・現代語訳を、当般若団HPへの宮坂宏樹氏の投稿(今年の5月)によって初めて知りました。その後、NHKの「心の時代」などで何度か紹介され、最近、本屋には、この心訳「般若心経」の本・『生きて死ぬ智慧』(初版は200410月)が並び、なかなか売れ筋のようであります。5月の宮坂さんの紹介では「現代詩訳」となっておりましたが、今、本屋に並んでおります『生きて死ぬ智慧』は、心訳「般若心経」とあります。いずれも、この柳澤氏による般若心経・現代語訳が逐字訳ではないことを示しています。大胆な翻訳であります。

宗教家でも仏教研究者でもない人が出した「般若心経」の現代語訳が、プロの宗教家からも高く評価され、一般人の話題となりこれほどまでにポピュラーとなっているのは、この「詩訳」「心訳」般若心経が、多くの人々に新鮮な感動を与えているのだと思います。何度か読まれたり聴かれた方も多いと思いますが、柳澤さんのこの般若心経現代語訳が、かくも浸透した背景には、柳澤さん経歴があると思います。エリート女性科学者が原因不明の難病に36年間も苛まれ、死を身近に感じながら、心の安らぎを求めて苦悶し、繰り返し繰り返し「般若心経」を読んで思索され、その生死ギリギリところでなされた深い思索の境地から生まれた「心訳」への共鳴と感動があると思います。(この現代語訳の生まれた経緯については、『生きて死ぬ智慧』(小学館刊)のあとがきを是非お読みください、「一元的な世界こそが真理」など「心訳」の核心についても解説されています)。

余計な解説は無用でありますが、さらに蛇足を加えます。

柳澤さんの「般若心経」では、「粒子」という用語で「空」の体感的理解を求めています。

**** **** ****

お聞きなさい

私たちは 広大な宇宙のなかに

存在します

宇宙では

形という固定したものはありません

実体がないのです

宇宙は粒子に満ちています

粒子は自由に動き回って形を変えて

おたがいの関係の

安定したところで静止します

**** **** ****

最初、文字でこの現代語訳を読んだとき、私は“科学者らしい表現だな”という程度にしか受け取れませんでした。

しかし、NHKの番組で柳澤さん本人がテレビ画面から「わたしも粒子のかたまりです、あなたも粒子のかたまりです、あなたと私との間にも粒子が満ちていて、あなたとわたしはつながっています(この部分は小生の“心訳”ですが)」と云われたとき、なぜか非常に素直に納得できました。実は今度の坐禅会で、たまたま私は小崎和尚の正面約5mの所に坐っておりましたが、この「般若心経・現代語訳」を読み上げられている和尚の姿が、薄暗がりの中にぼんやり見えた時、ああ、粒子が密度の高く集まっているなと、この「粒子」説を実感しました。

それでは、この心訳「般若心経」を、全ての部分よく理解できているかというと、「粒子」説でよく噛み砕かれた「心訳」前半「空」の部分は、理解できたように思うのですが、後半部分へのつながり部分(「般若心経」でいえば「呪」に入る部分ですが)が、まだスッキリ胸に落ちません。
私の鈍感さと不遜な心からくる不信心のせいと、いつも悩むところであります。

**** **** ****

それゆえに ほとけの智慧は

大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です

これ以上のまことの言葉はありません

いっさいの苦を取りのぞく

真実で偽りのない言葉です

その真実の言葉は

智慧の世界の完成において次のように説かれました

 

行くものよ 行くものよ

彼岸へ行くものよ

さとりよ 幸あれ

   これで

智慧の完成の言葉は

終わりました

**** **** ****

何故 「それゆえに ・・・ 大いなるまことの言葉 ・・・ 」なのか
7月に、清水秀男さんが「『般若心経』の二つの側面について」という一文を寄稿されて、この部分について、
『ある瞬間、直覚智として悟得(意識のコンヴァージョン)するのである』 と表現されている。

確かにその通りであろうと思いますが、どうも、正直な感覚では、まだ胸にスッキリ落ちない。我執が強いせい、頭のてっぺんで解ろうとしているせいだとはよく判っていますが・・・

原始仏教への私の関心も、このモヤモヤと無関係ではありません。  閑話休題

とまれ、柳澤桂子さんの般若心経・現代語訳、心訳「般若心経」は、現代最高の般若心経訳なのだと思います。
これからも座右において読み返したいと思っております。

皆様にも再読いただければと思い、資料のページに全文を転記させて頂きました。

                          以上 岡田彬 (2005.10.21)
           
  クリックしてください→  柳澤桂子さんの般若心経・現代語訳(全文)へ

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11)ブッダの在家への説法
    
「シンガーラヘの教え」
(善生経)について

 法句経に次のような言葉があります。<岩波文庫「真理のことば(ダンマパダ)より>

(発句経62)「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自己が自分のものでない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。

277)「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。

(210)愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。

330)愚かな者を道伴れとするな。独りで行くほうがよい。孤独で歩め。悪いことをするな。求めるところ少なくあれ。― 林の中にいる象のように。

342)愛欲に駆り立てられた人々は、わなにかかった兎のように、ぱたぱたする。束縛の絆にしばられ執着になずみ、永いあいだくりかえし苦悩を受ける。

引用文も同様ですが、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の教え、四諦(苦集滅道)の教えや、あるいは縁起の教えなど仏教の教えには禁欲的で脱世間的な響きが強い。しかし、原始仏典「シンガーラへの教え」(善生経)には、実に現世肯定的な響きがあります。5、6世紀のインドの社会も垣間見えるように思います。

「シンガーラへの教え」は、『釈尊がシンガーラというある資産者の子に、人間としての道を教示した内容を述べたものとして伝えられている』という、その中に夫婦のありかたを説かれたことばがあります。(六つの方角に因んで説かれている)

(三〇)実に夫は次の五つのしかたで、西方に相当する妻に奉仕すべきである。 すなわち
 〔1〕尊敬すること、〔2〕軽蔑しないこと、〔3〕道を踏みはずさないこと、〔4〕権威を与えること、〔5〕装飾品を提供することによってである。 
西方に相当する妻は、これら五つの仕方で夫に奉仕されるのである。

 また妻はつぎの五つのしかたで夫を愛する。 すなわち妻は
 〔1〕仕事を善く処理し、〔2〕眷属を良く待遇し、〔3〕道を踏みはずすことなく、〔4〕集めた財を保護し、〔5〕為すべきすべてのことがらについて巧妙にして且つ勤勉である。

西方に相当する妻は、これら五つのしかたによって夫から奉仕され、またこれら五つのしかたで夫を愛するのである。このようにしてかれの西方は護られ、安全で、心配がない。

「シンガーラへの教え」を、私は中村元博士の『原始仏教―その思想と生活』(NHKブックス)の中で、初めてじめて知りました。この本の後段のいくつかの章に、経典「シンガーラへの教え」から多くの引用があり、読みながら、他の章に比較してその異質な響きに驚きました。そして「シンガーラへの教え」を是非、一度通読したいと思っておりました。しかし、原始仏教資料の探索方法に無知なため果せておりませんでしたが、最近、同じ中村元博士の翻訳になる「シンガーラへの教え」(善生経)の全文に出会うことができました。 

中村博士は別の書で、南伝仏教の国では重視されているポピュラーなお経であると書かれていたと記憶しますが、わが国ではこのお経は余りポピュラーでないのではないでしょうか。不思議なことであります。このお経のわが国仏教界での評価はどうなのでありましょうか? 

5、6世紀のインドの社会と21世紀の日本の社会とでは、社会通念に大きな違いがあることは当然であります。そのことを前提に読めば「シンガーラへの教え」は、現代でもなお活き活きとした実にわかり易い、お釈迦様じきじきの生活指導書、明快な仏教精神教育書であります。
 
 究極のところ宗教は個々人の問題でありますが、出家中心の神秘主義、加持祈祷による現世利益などを超克して、社会生活の日常の中に仏教精神が健全にひろめられるためには、「七仏通誡偈」や「シンガーラへの教え(善生経)」のごとく明快な指導精神が(宗派を超えて)標榜され、プロバガンダされることが必要なのではと思います。その広ろまり(風土)を基盤に諸行無常、諸法無我、涅槃寂静、一切皆苦の教え、四諦(苦集滅道)の教え、八正道の教え、縁起の教えなど仏教の深い教えが浸透してこそ、ブッダの精神が現代に継承される。

 議論が飛躍しますが、いま世俗オピニオンリーダーを中心に、「靖国参拝」があたかも日本人の正統的・伝統的宗教心発露であるのごとき議論が横行し、仏教をはじめ宗教界は”他山の騒動”と日和見しているように見える昨今の状況は、一昔前、宗教界こぞって国家神道に組み伏せられ、不殺生戒さえ便宜的に棚上げして、”心ならずも?”戦争遂行に積極協力した時代から、実はあまり変っていないのではないだろうかとの危惧を感じます。
 
「シンガーラへの教え」全文をご紹介させていただきます。是非、ご覧ください。
                (知的所有権に問題があれば、お許しいただきたいのですが)
       
                                                  (2005.08.25)
    クリックしてください→  「シンガーラへの教え」(全文)のページへ
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10七仏通誡偈 その2

             <七仏通誡偈>
         諸悪莫作  諸々の悪を作すこと莫れ
         衆善奉行  衆々の善を奉行せよ
         自浄其意  自ら其の意を浄うする
         是諸仏教  これ諸佛の教えなり    (臨済宗 聖典より)
       
   毎度のことながら、胸のすく明快さ簡潔さであります。
   全ての宗派での説法が、「仏教の真髄は、まずここにある」と統一されれば、
   判りやすく入りやすいことであると思われます。

 とはいえ、これを実践することはなかなか難しい、という逸話。

 『唐の時代の禅僧である烏巣道林と白楽天の問答には次のような話がある。

「仏法の肝心のところはどんなものですか」

「諸悪莫作 衆善奉行」

「三つの子供でもそれくらいは言えます」

 「三つの子供でも言えるが、八十の老人でも行い難い」

白楽天は深くお辞儀をした』                   
                        (沖本克巳「禅の思想とその流れ」p.69より)

 <前掲書について>  
  
1990年刊のやや古い本でありますが、既成の権威・教学、伝承や法系図を有難く解説するのではない客観的史観を貫こうとする学者の立場から、禅宗史が解説されております。(世界聖典刊行協会、沖本克巳氏は花園大学教授)

 ■無秩序に中国に伝えられた仏教の中から、禅宗が何故主流となったのか

■中国仏教の発展が科挙制度と関係があること、

■ヒンズー化した仏教=密教に対し、禅宗は道教と融合した中国仏教である

 ■
伝統的な法系図などの いい加減さなどに言及して    

 興味深い論述が多々あります。

<以下、勝手な抜粋です>

『禅宗では、仏陀とそれを継ぐこの西天第一祖・摩迦葉から第二十七祖・般若多羅を経て、お馴染みの第二十八祖・菩提達摩までを西天二十八祖と言う。・・・その個々の人物の来歴や語ったとされる言葉などについては「伝灯録」にも記されている。しかし、その各々の記事については見事に歴史的根拠はない。つまり、全部ウソなのである。』(p.86)   『伝統的な禅宗の立場から言えば、禅宗を中国に伝えたのは西天二十八祖にして、東土初祖とされる菩提達摩で、その時期は六世紀の中頃のことであったとされる。 ここで ”伝統的な”と わざわざ云うのは、本書ではそうした史観をほとんど認めていないからであり、・・・』(p.115)

『北地を統一した塞外民族国家・北魏が、盛大な仏教都市を洛陽に建設した頃、フン族に踏みにじられた被害とその影響によって流亡していた中央アジアやインドの高僧が競って洛陽を目指したのである。そして、かの菩提達摩もそうした渡来層のなかの一人であったのである。これが歴史的に見た祖師西来の動機・・ 』(p.152

 『もともと、インドと中国は文化の伝統を異にしている。特に仏教のもたらした輪廻の問題や空の思想は全く中国にはなかったから、それの理解には大変な困難があったのは推して知るべしである』(p.129)   『中国人達はそこで類似の思想、特に老荘思想の概念を当てはめて仏典を翻訳し、解釈したのである』(p.130)

『宗教というものは決して思想上の出来事に留まらず、それぞれの民族性やその民俗に深く関わった現象である・・。初期のインドに特徴的だった否定の仏教が、中国に来て肯定の仏教に変っていくのもその一例である』(p.156)『・・中国仏教史はこうした山で培われた山岳仏教と、都市に発展した都市仏教の対立と交代という図式でとらえることができる』(p.157

 『中国の仏教史とは禅宗成立史、あるいは禅宗残存史である』(p.119) 『中国ではその歴史の中で、大きな廃仏が四度あったとされている(三武一宗の法難)、 ・・そして弾圧に対する懐の深さ、つまり柔構造でそれを吸収し、蘇生を可能にしたのも山岳仏教あったのことである。 だから、もともと山岳仏教の性格を持ち、失うものの少なかった禅宗にとっては、法難はむしろ勢力拡大の機会になったのである』(p.177) 『禅宗史とは都市から離れ、山岳地帯で培われた土着仏教の、中央進出史であった。 それが証拠に禅宗のもっとも活発な生気を感じさせる草創期である唐代中期には、都市に定着した高僧はほとんどいないのである』(p.285

『当時(唐代)、寒門(下級貴族)の子弟が出世するみは二つの方法があった。ひとつは科挙の試験に受かること、ひとつは仏門にはいること、である。 ・・・いうなれば、このような野心的な秀才達によって仏教は支えられ、発展したのである』(p.223


『仏教に関わる全ての人に課せられているのは、進歩幻想を持つことでなく、仏陀の教えの現代的な実現のみであろう。しかし、それにしてもそのことの何と至難に見える事か』(同書p.109)、 『出家と在家が極端に隔たったものになるのは何処か既に破綻があるということである』(同p.110)  『高度な教理思想も決して浮世離れした形而上学であったてはならないし、具体的な世俗の問題に対応できなければ、それはまるで教理の名に値しないのである』(同p.196) 


<余計なことながら>
 私は毎月、法句教を通しで読むことを今年のテーマとしました。難しい経文への「原書講読」的チャレンジはなかなか出来ませんが、法句教は短い詩423偈からなっており、平易な口語訳もあって親しみ易く、原始仏教の入門書として格好ではと思います。ということで、前回、法句教183偈に「七仏通誡偈」と同じものがありますと“通”ぶって記しましたが、184偈に(諸仏の教え)が次のごとくあります。


 (184)忍耐・堪忍は最上の苦行である。ニルヴァーナは最高のものであると、もろもろのブッダは説きたまう。 他人を害する人は出家者ではない。 他人を悩ます人は(道の人)ではない。
       (岩波文庫 中村元訳「ブッダの 真理のことば、感興のことば」)

 (184)「しのぶこと(忍辱)こそ最上の行 くるしさをたえ忍ぶこそ  この上なき涅槃なり」
   諸仏はかく言いたまえり 
 まこと 出家して 人をそこなうことなく みちのひと(沙門)にして 人を悩ますことなし 
       (講談社学術文庫 友松園諦訳「法句教」)


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9)七仏通誡偈 にふれて

     <七仏通誡偈>
         諸悪莫作  諸々の悪を作すこと莫れ
         衆善奉行  衆々の善を奉行せよ
         自浄其意  自ら其の意を浄うする
         是諸仏教  これ諸佛の教えなり    (臨済宗 聖典より)
       
  いろいろな仏教聖典などでしばしばお目に掛かる言葉であります。
  『法句経』第183偈にも同じ言葉があり、中村元博士本には、つぎのごとく訳されてあります。
    
   (一八三) すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、---これが諸の仏の教えである。 

 七仏通誡偈は、過去七仏が共通して伝えられたという戒めの詩句で、インドに古くから伝わり、仏教のみならず
 ジャイナ教などにも同じことばがある、とのことでありますが、まことに簡潔明瞭、素直に理解しやすいことばであります。

 <過去七仏> <七仏>は
   ゴータマブッダすなわち”釈迦牟尼仏と かれ以前に現れたとされる6人の仏たち ・・・

   教え(法、ダルマ)は普遍的なものであり、釈尊以前のはるか遠い昔から、これら諸仏によって
   順次説き継がれてきたものであるという。最初の三仏は、計り知れない遠い昔(過去荘厳劫)に、
   残りの三仏は釈迦と同じ時代(現在賢劫)に現れたとされる。  (岩波 仏教辞典 過去七仏より

 <『発句教』『ダンマパダ』423詩句の全訳本>
      岩波文庫 中村元訳 『ブッダの真理のことば』『感興のことば』
      講談社学術文庫 友松圓諦訳 『法句経』
   中村元博士本のあとがきには、さらに数種の邦訳本が掲示されております。
                                               (6月4日補足しました)


 実は小生、本日5月27日が誕生日、
   67歳と相いなりました、孔子流には、そろそろ ”己の欲するところに随って、則を越えず” という齢
   でありますが、右顧左眄、まだまだ不動の境地へは道遠しであります。

 「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて仏法をしれりといふにはあらずといふことを」(道元禅師)
  何時までも物知り本をたより、人の経験・言葉ばかりを追っかけても、他人の牛を数えるようなもの、
 とも思い知り、たとえ言葉を頭で理解できても、それだけでは虚しきことと思い知りつつも、
 なお、以下のような言葉をならべたメモシートを持ち歩いております。 そのメモシートに加筆して誕生日記念の一稿としました。 
 不統一ながら、私なりに仏教の初歩ないし根底の研鑚、学習テーマと思われます言葉を羅列しております。

<四諦> <八正道> <八大人覚>

苦諦

正見

少欲

集諦

正思

知足

滅諦

正語

楽寂静

道諦

正業

勤精進

正命

不忘念

正精進

修禅定

正念

修知恵

正定

不戯論



<四摂事>

<三法印>

<六波羅蜜>

(四摂法)

   (四法印)

     (六度)

布施

諸行無常

布施波羅蜜

愛語

諸法無我

持戒波羅蜜

利行

涅槃寂静

忍辱波羅蜜

同事

精進波羅蜜

一切皆苦

禅定波羅蜜

智慧波羅蜜

<十波羅蜜>(十度)は

方便・願・力・智 を加える


 (注) 波羅蜜
   教理解釈では、”彼岸に(prama)” + ”到った(ita)” =彼岸に到る行と説明する。
   言語学的には”最高の(rama)”の ”状態(ta)” =究極最高であること と訳せる。
                                        (岩波 仏教辞典

<五戒>

<三毒>

 <五蓋>

(三不善根)(三垢)

不殺生

貪欲

 貪欲

不偸盗

瞋恚

 瞋恚(しんい=いかりにくむこと)

 不邪淫

愚痴 (注)

 昏眠(心身が重苦しい状態と心の眠気や萎縮)

不妄語

 掉悔(心のざわつきと心を悩ます後悔)

不飲酒

 疑 (疑いやためらい)


 (注)以下は 岩波 仏教辞典”愚痴”,”無明”、”無我”の項よりの抜粋

    愚痴  仏教用語としての”愚痴”
     (無明)と同じで、仏教の教えを知らず、道理やものごとを如実に知見できないこと

    無明  人生や物事の真相が明らかでないこと
      すべて無常であり、固定的なものはない(無我)という事実に無知なこと
      この無明がもとで固執の念(我見)を起こし、さらに種々の煩悩の発生となる
      迷いの根本で、愚痴とも称され、(貪欲)(瞋恚)とあわせて三毒といわれる
      十二因縁の第一支とされる。すなわち、無明を縁として、行・識・・・生・老死
      の諸法が生じ、無明が滅すれば、それら諸法は滅するという

    無我  我(atman)に対する否定を表し、(我がない)と(我ではない=非我)との
         両方の解釈がなされる。
      最初期の韻文経典に、無我はさかんに説かれ、  (無我)は
      執着ことに我執の否定ないし超克を意味し、そのような無我の実践を続けてはじめて、
      清浄で平安なニルヴァーナ(涅槃)の理想が達せられるという。  ・・・  
      いっさいの具体的なもの、ことについて、
        「これは私のものではない」・「これは私ではない」・「これは私の自我ではない」
      と、反復して説く、これを総括して(諸法無我)の著名な術語が普遍化する。
         → 関連の思弁 「人無我・法有」、 「無自性・空」


<三十七道品>  
  7種の修行法まとめて三十七道品という、
  初期仏教の経典における最も代表的な実践論とされる。(岩波 仏教辞典 三十七道品より
                                    

  1)四念処(四念住)

  四つの専念の意、 浄・楽・常・我の四顛倒を打破するための修行法で

  身体の不浄を観察し(身念処)、 感覚の苦を観察し(受念処)、

  心の無常性を観察し(心念処)、 法の無我性を観察する(法念処)

  2)四精勤(四正断)

     悪を断つ努力、 悪を起こさない努力、 善を起こす努力、 善を増やす努力

  3)七覚支 (注)  
     念  択法  精進  喜  軽安  定  捨

  4)四神足   意欲  努力  思念  思惟観察

  5)五根    眼耳鼻舌身 (六根→ 意を加える)

  6)五力    信(信仰)  勤(精進)  念   定  慧(智慧)

  7)八正道

  (注)四念処の修行から七覚支の修行へ進み(その修行の)完成によって解脱が得られる

     >覚支 → “覚”(悟り)へ導く要素の意

     七覚支=これまでのおのれの言行を注意深く思い起こし(念)、

           それを正しい智慧によってによって、よく思量しつつ(択法)、

           怠ることなく励むならば(精進)、心に喜びが生じ(喜)、喜ぶことによって

           身体が軽やかにになり(軽安)、それにより心が安らかになり統一されて(定)、

           あらゆる感情を離れた平等な態度が達成される という。

<十二縁起>

    無明(縁)、行(因)                 過去世のニ果

識、名色、六入(果)、触、受           現在世の五果

六入=六根=眼耳鼻舌身意

愛、取(縁)、有(因)                現在世の三因

生、老死(果)                    未来世のニ果

<六道>(六趣)

地獄  餓鬼  畜生  阿修羅  人  天



<縁起> 一切は縁より生ずる
       
           此れあるに縁りて彼あり
           此れなきに縁りて彼なし
           此れ生ずるに縁りて彼生ず
           此れ滅するに縁りて彼滅す

<無記> <捨置記>
  ブッダによって捨て置かれ、回答されなかった ・・・ ある種の形而上学的な主張
  ブッダは不回答の理由を
   これらは 「無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導かないから」 であると説明する。

    無記10項目
      1) 世界は”常住”(永遠)であるか、
      2) ”無常”であるか
      3) 世界は有限であるか
      4) 無限であるか
      5) ”霊魂”と身体とは同一であるか
      6) 別異であるか
      7) 如来は死後に存在するのか
      8) 存在しないのか
      9) 存在し、かつ非存在であるのか
     10) 存在もせず、非存在でもないのか

   無記を14項目と数える場合は、”無常” ”無限”についても、 ”存在”と同じように
    9)、10)項の ごとく数える。

                                              目次へ戻る

8)『八大人覚』 について

このホームページへ、小生が昨年11月に投稿致しました拙文「八正道について」の中で、八正道についての“バイブル”はありあせんか と書きましたところ、山内傭行さん(B13回生)から、「八大人覚」について内山興正老師の提唱がCDでもありますよ、と次のような懇切なご教授がありました。ありがとうございました。

「八大人覚」(は)、涅槃直前にされた釈尊最後の説教だそうです。道元禅師はが、これまた死ぬ前に正法眼蔵の中で書いておられます。内山老師が本格的な本を出された最初の本が八大人覚でした。

その提唱がCDとして出版されています。(販売 株エニー tel 03−5561−7700)

内山老師のCDを購入して拝聴するに至っておりませんが、澤木興道老師の正法眼蔵講話(大法輪閣)の中にあります「正法眼蔵 八大人覚講話」を勉強させて頂きました。

山内さんのメールにある如く、この説法は『釈尊最後の所説』(遺教経)であるとともに、奇しくも「八大人覚」の巻は、道元禅師が書かれた正法眼蔵最後の巻(建長五年正月六日)となったとのことであります。曹洞宗の宗師家では、自分の最後を予知した方が、この「八大人覚」を提唱する習慣になっている(末尾解説より)と云われます。お釈迦様最後のご説法として『自灯明法灯明』のお話をよくお聴きしていましたが、「八大人覚のお話」が釈尊の遺言のような大切な説法であることを初めて知りました。

この機会に先の澤木興道老師の「八大人覚講話」も、さらに再々味読し、また内山老師の提唱も学ばせて頂きたいと思っております。

文字通り“釈迦に説法”でありますが、八大人覚を列挙すれば、
 < 少欲・知足・楽寂静(ぎょうじゃくじょう)・勤精進(ごんしょうじん)・不忘念(ふもうねん)・修禅定・修知恵・不戯論(ふけろん)> の八項目であります。

最後の『不戯論』は、
 “ 読んで字の如く、生半可な知識で、おこがましくもはじしらずな議論をするな! ”ということかと思いきや、その様なうわすべりにあらず。

<興道老師のご講話を引用すれば>

・・お釈迦様がこういわれたというて能書きを述べたりするが、おまえはどうか、と。自己の問題でなければならぬ。よそごとをいうなら、みなこれ戯論である。

先祖はお釈迦様だとか、達磨さんはえらかったとか、道元禅師とか、いろいろいうても、それはおまえと違うじゃないか、と。うっかりするとよそごとをいう。自分と何の関係のないことをいう。だから「其の心則ち乱る。・・・・・」、分別妄想を離れる。心意識の運転をやめ、・・・・、ただ仏祖のとおりまねをすることである。

・・・仏法の行きつくところまで行きつくことが寂滅の楽である。『唯当に善く戯論之患(とが)を滅すべし』、この論の患を滅するのを『これ不戯論となずく』。

<原文> 『仏言く、汝等比丘、若し種種の戯論は、其の心則ち乱る。また出家も、猶未だ脱することを得ず。当に急に乱心戯論を捨離すべし。若し汝寂滅の楽を得んと欲せば、唯当に善く戯論の患を滅すべし』

「八大人覚」(“大人”は諸仏)は、お釈迦様最後のご教訓でありまして、この法を知覚するものは、涅槃の因と為る とあります。 『八大人覚』が、釈尊最後の説法であるのにたいし、『聖四諦』『八正道』は釈尊最初の説法(初転法輪)であると聴きます。

この世は無常であり、苦であるという真理(苦諦)、苦には原因がある、それは煩悩であるという真理(集諦)、煩悩を滅すれば、苦もまた滅するという真理(滅諦)、滅諦を実現するための正しい修行の方法があるという真理(道諦)、その実践論が『八正道』であると理解しますものの、

この実践法の真髄をものの本から学ぼうと考えるイージーゴーイングな発想では、まだまだ『戯論』を捨離するに程遠いレベルであります。      (2005.02.19)
                                              目次へ戻る

7) 仏教と社会の問題

先月(11月6日)都内愛宕にある曹洞宗・青松寺で開催された「仏教ルネッサンス塾」という会で阿満利麿教授(明治学院大学)の講演を聴き、東南アジアやアメリカを中心にエンゲイジド・ブッディズム=仏教の教えを基盤にして社会問題へ積極的に関与、参加してゆこうとするという新しい仏教潮流=があることを聴きました。

この仏教の新しい思潮はベトナムに発し、タイやミャンマー、スリランカ、チベット、インドなどでも盛んになっていること、その思想的指導者はベトナム人であるティック・ナット・ハーン師であるとのことありました。

私は、エンゲイジド・ブッディズムやティック・ナット・ハーン師のことをさらに知りたいと思い、早速に阿満教授の著書『「社会をつくる仏教」■エンゲイジド・ブッディズム』(人文書院)を購入して読みました。一部分を抜粋します。

『ティック・ナット・ハーン師は、ベトナム戦争を終結させる上で大きな力をもった仏教界の代表であるばかりか、学者であり、私人であり、なにより平和運動家である。彼によると、ベトナムの仏教はベトナム戦争のもとで、仏教の中核思想である「苦」の解釈に大きな進展を見せた。仏教は世界の本質を「苦」とみる。そしてその原因を明らかにし、その原因を克服する方法を提示する。このような道筋をたどることによって「苦」からの解放を実現するのが仏教なのだが、従来の仏教では、「苦」の原因はもっぱら個人の内面に巣くう無知や欲望と考えられた。しかし、ベトナムの仏教徒たちは、戦争という現実の苦しみのなかで、「苦」の原因には社会が生み出したものがあるのではないかと、気づきはじめた。そして、「苦」の原因となる社会の矛盾、社会構造の変革に積極的に立ち向かうことになった』同書p18

『そして、「エンゲイジド・ブッディズム」はアメリカにも飛び火し、アメリカの仏教徒たちの間で、持続的な平和運動や環境保護運動を生み出している。仏教徒であるということは、戦争や社会の差別・偏見、環境破壊といった問題の解決に積極的に行動することを意味しているのだ』同p.19

そのような社会運動ないし社会活動は、あえて仏教を持ち出すこともないのではないか、現代社会では各方面で広く行われていることである、と片付けられる心配があるが、大いに異なるところがある。阿満教授が講演のなかで述べられたことで、著書にもあったかもしれないが適切な引用ができないので、聞き覚えでの紹介で、不正確があるかも知れませんがエンゲイジド・ブッディズムの理念の重要な部分は、(ある正義を主張するために)敵を設定しないというところにある、世に云う政治運動・社会運動と異なるところである。それは仏教の縁起の思想に深く裏打ちされているからである。今かりに、自分が善の側にあり彼が悪にあったとしても、条件が変れば自分もそうであったかもしれない。蛇に狙われるカエルであるとともに、虫を狙うカエルでもある、はたまた条件が変れば蛇でもあった。『敵』を設定しなければならないということは、まだその物事の真実を見極め方が足りないのだと反省しなければならない。といような趣旨であった。そして、ミャンマーのアウンサンスーチー女史に触れ、女史も自らティック・ナット・ハーン師の思想に共鳴していると言われている。彼女の政治運動はながく軍政と対峙しながら、余り軍政側を『敵』として煽り立てない静かさがあるという余談も、なるほどと思ったことでした。

実はこの阿満氏の著書『「社会をつくる仏教」■エンゲイジド・ブッディズム』には、真宗大谷派が先の戦争に翼賛した(他の殆どの宗派同様であったが)ことへの深刻な反省から宗派内で行われた改革や、幸徳秋水事件に連座したとされ宗派からも破門され獄死した僧侶(高木顕明)の名誉回復など、興味深い論稿が収められているのですが、ティック・ナット・ハーン師の唱導するエンゲイジド・ブッディズムそのものについての紹介、解説部分はごく一部であり、その意味では少し期待はずれでありましたが、その著書はベトナム戦争(196076)初期・19636月南ベトナムのサイゴンであったベトナム僧侶の焼身自殺の衝撃的な写真がその表紙となっています。

                  
                     

 
この事件は当時も新聞などで日本でも広く報道された事件であり、私の記憶にも残っておりますが、各地の民族闘争で今も頻繁に報道される自爆テロや太平洋戦争中の日本の特攻隊と同じく、特殊状況下での熱狂ないし狂信的な自己犠牲程度の認識でありました。しかし今回、初めてこの『焼身供養』の仏教的な深みと、この『焼身供養』が『エンゲイジド・ブッディズム』の源流であることを教えられました。弟子達にガソリンをかけさせ、自ら点火して炎に包まれた僧侶の端正な座禅姿の高貴さに感動します。

本題ではないが、この焼身供養についての部分を引用します。
 『首都サイゴンで、四〇〇人の僧尼のデモ(があり)、一台のオースチンがデモの先頭に出た。そして、カンボジア代表部のある交差点で車が止まり、七三歳のティック・クアン・ドック師が車から降り、交差点の真中に静かに座った。弟子らしい二人の僧侶がポリ容器に入った液体を師に浴びせ、師はゆっくりとマッチを擦った。一瞬にして炎が立ち、師は燃え立つ炎のなかで約四分間座禅の姿勢を保ったまま絶命した。師が倒れると、僧侶たちは一斉に跪いて合掌した。』(p.16

『焼身した老僧には遺書があった。「私は発願しました。自分の幻身を焼いて仏様にささげ、その功徳によって仏教が永続し、ベトナム全国の平和と国民の安楽が実現しますように・・・・・南無阿弥陀仏」。その後二〇人の僧尼が相次いで「焼身供養」した。』(p.17
 

わが国では、信長軍の焼き討ちにあった武田家の菩提寺・恵林寺(塩山市)の快川和尚が
  “安禅は必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火も自ずから涼し” との遺喝を唱えて、泰然として火定したことは有名でありますが、同じような光景であったのでしょう。
ただ、ティック・クアン・ドック師の志は引き継がれ深められ、仏教実践を社会的次元の課題としても捉え、「苦」の原因となる社会の矛盾、社会構造の変革に積極的に立ち向かうエンゲイジド・ブッディズムという時代に対応した新潮流の源流となったのであります。


 毎年3万人以上の人が自殺し、激増する青少年の非行に見える倫理観の荒廃、親殺し子殺しが頻発する底知れず精神的に病んでいる日本社会の現実が目前にありながら、国民宗教とも云える日本の仏教界が宗派を超えて大同団結して行動しない現状へのもどかしさを感じるのであります。
 
<“仏教界“などという概念も曖昧である、宗派(教祖仏教)間の溝は深く融和など難しいかもしれないし、そもそも仏教界とは出家集団を指すのか、”この業界“などという言葉がしばしば聞かれるほどに”俗”の側面もつよい現実もある。
  <信仰はたしかに個々人の問題であり、個人個人の慈悲行が問われているのかも知れないが、それだけでは大きな広がりへは永久につながらないことも確かであります。
  

われわれは「般若団」という集まりを持っていて、アンケートをとって“般若団活動は如何にあるべきや“を自問したりするが、この集団を基礎に積極的に社会貢献活動へ関わるべきとの意見は皆無である。宗教は本質的に個人の精神活動で集団活動になじまないのではないか、という意見もあり、活動の行方も定かならずという状態であります、己自身のあり方や自ら関与する集まりの方向性を棚に上げて、「仏教と社会の問題」を論ずるなど、おこがましいことと恥じ入ります。20041228日)             
                                                    目次へ戻る 

6)『八正道』について

<まえおき>
 行よる体得なくて、真の仏法理解(体得)ない。とは理解しつつも、文字学習でブッダの教えのなんたるかを知りたいと思う、これぞ驕慢我執の極み。ましてや、行なくして仏法を論ずるなど言語道断でありますが・・・、以下お許しを

 お釈迦様の教えの真髄の一は、『四諦』(苦集滅道の真理)であり、苦の原因は煩悩(集)であり、この煩悩を滅して道(涅槃)に到る実践道が『八正道』であると理解します。さすれば、仏道実践修得の核心は、『八正道』の正しき理解と実践修行であると思うのであります。

 諸宗派林立のなか衆生庶民は戸惑い道に迷い、仏縁遠き社会となっております。
日本に仏教が、真に“衆生を度する”宗教として再生するには、『四諦』『八正道』を明快に真正面に据え、『四諦』『八正道』から説きおこし、かつ日常生活実践に深めた説法こそが待望されているのではないのでしょうか、
 宗派を超え、小異小我をすてた(さらには仏教界の枠も超えた)大同運動により、社会制度(立法、教育、メディア=たとえば
TV)をも賢明に動員し、如何に正しく仏心覚醒の『種』を播くことが出来るか、に掛かっている様に愚慮しますが、 如何なものでしょうか。

<ご教授ください> 八正道バイブルはありませんか?

『八正道』(正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定)の正しい理解と実践こそ、仏教実践そのものなのだから、戒を守り行に徹せずにして、安易に解るものではない。 と云われると、それは正論であり反論の余地もありませんが、そうなると仏縁浅く、日々の生業に忙しい多くの衆生に、途端に仏教は遠く気高い教えとなるのではないでしょうか。

 『四諦』『八正道』を真正面に据え、ブッダ原書?により、お釈迦様はかく説かれたと示す。懇切・明快な解説書はないでしょうか?

今、私の切なる関心事であります。


<ご参考>

このテーマに関連して、最近、インターネット上で出合った二つの特異なサイトがあります。
    (いずれも、このホームページの参考サイトのページに紹介し、リンクしております)


  @ 在米民間人、永野武氏の『Gotama Buddhism』 と 
  A日本テーラワーダ仏教協会のホームページにある『根本仏教講義』であります。

@永野武氏は、そのホームページで、次のように自己紹介されています。

私は、1913年の生まれですから、本年91才(2004年5月現在)になります。慶応義塾大学を卒業して、実業界に入りましたが、51才の時(1964年)、石油化学工業協会の初代事務局長の職を辞し、実業界から身を引き、『お経』の学習を始めました。ほんとうのことを知りたい、確かなことに気づきたい、と考えたからです。

1986年、私は米国に移住し、現在はフロリダに在住していますが、本年で40年間、Pali Canon(パーリ聖典)を熟読精読して、一貫して釈迦を学び続け、釈迦の説いた教えは、所謂「仏教」と全く異質であると発見しました。私は、この事実を、この度、[釈迦の教えーGotama- Buddhism]と題して書き上げ、インターネット上にホームペ−ジとして公開いたしました。
  
URL: http://www.gotamabuddhism.org) 
ご一読頂ければ幸甚に存じます。

その上は、皆様が、[釈迦の教えーGotama Buddhism]を身に付けて、日常生活を営んでいただきたい、とお願い申し上げます。

<興味深きこと>
 永野武氏の結論部分については、小生はまだ同感の域にはありませんが
永野氏が、「釈迦は何を説いたのか。その核心を明らかにしたいと望みながら」行われた原始仏教経典の解析作業法は民間実務家らしい、プロセス明快なアプローチであり、説得力があると思います。
 永野氏は「私は『釈迦の教え』の修行法である<八正道>は長部経典から、『釈迦の教え』の究極(最高)を理解するに必要なお経は、すべて、相応部経典から選びました」とも書かれていますが、これらの経をブッダ原書としての、ブッダ”原書解読”となっております。


後編第4章 その後の私 を下に引用転載させていただきました
   ここにある結論部分(注)への賛同は兎に角として、
      (注) 例えば、→念 (sati) があると定 (samadhi) が生ずるという現象は、生理現象であって、
            念 (sati) という動機は、祈り、祈祷、呪ではありません。信ずる、信仰でもありません。

  永野論文には、ここにいたるまでのプロセスが細かに書かれており、学ぶこと多い論文であると思います。

         
以下、原文引用です。

 後編 第4章 その後の私

八正道の practice を完成し、私に、正見(四つの智慧)が生じた後、私は、念 (sati) に住し、念 (sati)→定 (samadhi) のpractice を続けていましたら、四つの真理を理解し、私に、不貪不瞋不痴 (araga,adosa,amoha) (sacca、善)の生活が始まりました。

その後、私は、どのような生活をしているか、触れておきましょう。

1.念 (sati) があると、脳波はβ波からα波になり、浅い定 (samadhi) が生じ、貪瞋痴は滅 (cease) して、貪瞋痴は生じ(arise し)ません。さらに、念 (sati) がありますと、脳波はα波を越えてθ波になり深い定(samadhi) が生じ、やがて、δ波になり眠ってしまいます。

深い定 (samadhi) では日常生活はできませんが、浅い定 (samadhi) では日常生活はできます。私は、浅い定 (samadhi) に住して、日常生活をします。

念 (sati) があると定 (samadhi) が生ずるという現象は、生理現象であって、念 (sati) という動機は、祈り、祈祷、呪ではありません。信ずる、信仰でもありません。

念 (sati) があって浅い定 (samadhi) にいるとき、外界から強いinforma-tion が五官に到達すれば、貪瞋痴は生じますが、よほど強くない限り貪瞋痴は生じません。

念 (sati) と定 (samadhi) は滅 (cease) する時があります。定 (samadhi) を中止しようと思いますと、念 (sati) と定 (samadhi) は滅(cease) して貪瞋痴が生じ (arise し) 得る状態に戻り、貪瞋痴は生じ(arise し) ては滅 (cease) し、生じ (arise し) ては滅 (cease) します。

私は、常時、浅い定 (samadhi) に住して、考え、語り、行うようにしています。私は、常時、私を観ながら、日常生活をしています。

2.私が生活している場は、貪瞋痴という information が循環している縁起の場、家庭、社会、国家、国際世界、地球です。

私は、八正道の中で、生き物を殺すなとか、うそをつくなとか、二枚舌を使わないとか、十余の戒を守りましたが、守り切れないで、なっちゃいないと落胆し、戒を守ることを中止して、専ら、念 (sati)→定 (samadhi) のpracticeをしましたが、社会生活をするには、戒(モラル)は必要です。

私は、社会生活をするために、人格を向上する必要があります。戒は守りきれないものと承知の上で、現在、私は十余の戒を守っています。善悪判断がますます鋭くなりました。よく観えます。善(不貪不瞋不痴)を積む。毎日の生活は楽しいです。

3.念 (sati) があって、浅い定 (samadhi) にいて、人格の向上に務めながら日常生活を営んでいますと、それは、私の脳の発達と脳のプログラム形成に、また、遺伝子DNAに、よい影響を与えている、と言えないでしょうか。

4.私は、釈迦の教え−Gotama Buddhism を、パーリ聖典から学び得たことを誇りに思い、終生、念 (sati) に住して戒を守り、人格の向上に努めながら、その日、その日を送りますと申し上げて、ひとまず、『釈迦の教え− Gotama Buddhism』のお話を終えます
    <永野武 『釈迦の教えーGotama Buddhism』URL: http://www.gotamabuddhism.org) より>



A日本テーラワーダ仏教協会は、上座部仏教(いわゆる小乗仏教派、南伝仏教)の伝導協会であり、その指導者はアルボムッレ・スマナサーラ長老であります。
 日本テーラワーダ仏教協会のホームページは、極めて体系的で、伝導に意欲的なホームページであります。特に(根本)仏教講義のページは勉強になります。
少し長くなりますが、ご参考までに『八正道』初歩講義の部分を転載させてもらいます。
      
(根本仏教講義URL: http://www.j-theravada.net/kogi/index.html


 <A.スマナサーラ長老の略歴>
  1945年スリランカ生まれ、スリランカ仏教界長老。
13歳で出家得度。国立ケラニア大学などで教鞭をとる。
  
1980年来日。駒澤大学大学院博士課程終了。
  現在、(宗)日本テーラワーダ仏教協会にて、瞑想指導と初期仏教の伝導に従事。

          <佼正出版社:原訳「法句経」一日一話の著者紹介より>

 
 以下、ホームページの原文引用です。

 根本仏教講義(3)

釈尊の根本的教え
  八正道(はっしょうどう)
                      A・スマナサーラ長老  

 四聖諦一即ち釈迦尊の四つの聖なる真理をあらわす苦(く)(Dukkha), 集(じゅう)(Samudaya), 滅(めつ)(Nirodha), 道(どう)(Magga)の「道」に当たる実践方法が八正道(はっしょうどう)であるということを前回にお話しました。ところで、八正道とは読んで字の如く人間が正しい生き方を実践するための八つの方法を表します。まず、この八つの方法とは何を指すのか、そのへんからお話していきましょう。

 八正道の第一は、『正見(しょうけん)』といことです。これは正しく四聖諦を見きわめるという意味ですが、これは非常に誤解している人が多いのです。

 ありのままに見るということには違いないのですが、ではありのままとは何かということになります。ふつうの人はありのままとは、自分の好き勝手に見るというふうに思うのですが、人間はありのままには物ごとを見られないのです。森羅万象のものはすべて刻一刻変化しているのですが、人間はそう思いたくないのですね。例えば、物質だって目の前にあるかぎりは何も変化せずにあるように見えますが、ほんとは微妙に化学変化して存在しているのですね。長い目で見れば、新しいものだっていつかは古くなっていくでしょう。ところが、人間というのは、道具にしてもそうですが古くなってほしくない、変化を嫌うのです。

 例えば、何か計画を立てるときも、国を発展させるときも、あるいは勉強するときだって、すべて今のまま存在していくという仮定に基づいて準備や行動をしています。でも、事実は物ごとはそのまま存在するのではなく、常に変化しているもの−−つまり無常ということを認識して見ていかなければいけないのだというのが正見の基本です。ですから、私たちは正しい見解を持っていないのです。今の世の中を創りだしているのは、正しい見解ではなく、すべての物ごとは存在する、私も存在するという立場で創っているのです。

 私たちが生きているということは瞬間瞬間変化していることで、それを無常といって存在の定義になっているのです。変化することこそ存在なのですが、私たちはそれを認めたがらない。変化を嫌うのです。ところが、変化を停止するということは死を意味するという事実に気がつかないんですね。正しい見解というのは、無常というものを認める心を持つこと、それが正見の基本です。

 次は『正語(しょうご)』です。端的に言えば正しい言葉づかいということです。しかし、ここでも、では何をもって正しいかということになりますが、人間のためになる言葉、平和で調和のとれる生活ができる言葉づかいということになるでしょう。真実をつたえる言葉といっても間違いはないのですが、時として真実を言うことは相手を傷つける場合もありますから、話をしたり文章で伝える場合も、その言葉が人間を幸福にするという認識でされなければ、意味がありません。

 三番目は『正業(しょうぎょう)』です。正しい行いということですが、この場合も殺生をしないとか、人のものを盗んではいけないなどと解説書にありますが、そう狭義にとらずに他人の迷惑にならない、生命の妨げになることをしてはならないというふうに解釈したほうがいいでしょう。

 次は『正命(しょうみょう)』です。これは仕事のことと思っていいでしょう。私たちは生きるために何かしらは働らかねばなりませんが、その場合、自分の職業や仕事が何か人間の命に貢献するものでなくてはいけないわけです。毒を作ったり、武器を作ったりする職業は仏教では禁止しています。ですから仏教とでなくとも釈迦尊の教えを学ぼうとするのであれば、職業にも神経を配る仕事をしてください。

 『正精進(しょうしょうじん)』正しい努力をする。ふつうの努力と違って仏教では自分のいま持っている悪いところを消すための努力。また未だやったことのない悪いことをこれからも絶対にしないための努力、いけないことはこれからもしないという努力、さらには自分の持っているいいところはこれからもどんどん伸ばしていこうとする努力、また今までしなかったいいことをこれからは積極的にやっていこうとする努力、努力にもこうした四つの努力の道があるのです。精進とは、いい人間になるため、より立派な人間形成への努力ということになるでしょう。

 さて、八正道のなかで、次の『正念(しょうねん)』『正思惟(しょうしゆい)』は似通っていて、解釈が混同されていますので、ちょっとこの二つの違いをお話しておきましょう。

 正思惟には無害心無瞋恚無貪欲の三つがあって、人間は勉強することも、研究することも自由にやっていいのですが、考える前にまずその考えなり研究が、人や生きもの、自然を害さない、そういうものの命をまもることを念頭におかなければならないということです。
生きとし生けるものに対して、どうすれば助けられるか、どうすれば慈しみを持って考え方を発見できるかということです。これが無害心です。

 次の無瞋恚は怒りのことです。怒るということはだれもがいけないこととわかっていますが、人間は時として、例えばスポーツなどで相手を憎んでその怒りで闘うというように、怒りを支えにして頑張ることかありますあるいは木を伐採するときなんか、その木が邪魔だからと言って伐ってしまったり、悪い虫だからといってすぐ殺してしまったりしますが、そういうことはいけないと教えるのです。
怒りの基は、結局自分のしたいことを邪魔されるから怒る、つまり底に欲望というものがあるのです。もちろん人間がこの世のなかを生きていく場合には物というものが必要になってきますが、「お金はいくらでも欲しい」とか、「クルマは何台あってもいい」というように際限なく欲望をつのらせてしまいます。貪欲というのは余分な欲という意味ですから、その余分な欲のために人間は大変な苦労や悩みを背負いこんでいるのです。
これが正思惟の三つの考え方です。

 一方の『正念(しょうねん)』とは、原語でsamma-sati と言って、サティ とは気づくという意味です。何に気がつくのかというといまの自分に気がつくということです。瞬間瞬間の自分に気づくことなのですが、自分に気がつくためには精神統一をしなければなりません。
そこで『正定(しょうじょう)』つまり、精神統一の状態で自分に気づく。ですから正念とは実践法なのです。

 自分に気がつくことから始めて仏教究極の悟り、解脱、涅槃まで進むのですが、この涅槃に至る道は正念の一方通行の一本道なのです。
この正念の実践を詳しく教えたものが、「中阿含経」に出てくる四念住という言葉です。
「人間のすべての憂いや悲しみ、悩みをなくしたいと願うなら、実行してください。生きとし生けるものすべての人々の清らかな心を創るため、即ち解説するためには、なさってください。涅槃の道に入りたいならば、それしか実践の方法はないのですよ。涅槃や解脱を得るためにはずっとこの一つの道しかないんですよ」 
「四念住」とはそこに止まってくださいという意味です。
四種類とは、念住、念住、念住、念住を指します。
私たちはいろいろ考えて物ごとを見るから、本来あるべきでないものまで見てしまうのです。映画がいい例なんですが、本来映画というののはフィルムに一コマ一コマ停止したシーンがあって、私たちはその瞬間瞬間変化している画面を、これは動いているんだという頭の働きで動いているように見ているのです。真理としては、動いていないのです。ところが。私たちは余計な考え方を働かせるから、真理が見えなくなってしまう。だから、そうではなくて今の自分に気がついてそこに留まりなさい、それ以上先きに行ってはいけませんというのが「四念住」の意味です。

 修行の方法としては、体から覚えさせていく。
人間はまず体に執着しています。「私は寒い」というのは体が寒いということでしょう。「私」というのは肉体の自分を指すのです。ですからまず肉体から実践しようということになるわけです。
実際のやり方は『正定(しょうじょう)』の説明にもなるのですが、坐禅に似ています。
雑音の少ない場所で坐禅のように坐って、背筋を伸ばし、まずいのちのことを思うのです。自分かいまこうして生きていられるのは、いのちのお陰であることを感謝して、そういう自分が幸せでありますように、悩み、苦しみがなくなりますように、願いごとがかないますように、解脱、涅槃、悟りがあらわれますようにと念じます。また、いまの自分がこうして生きているのは、周りの人たちのお陰でもありますから、自分の親しい人、関係のある人、周囲の人みんなが幸せでありますように、と念じていくのです。さらに自分と周りのすべての生きとし生けるものの幸せも念じます。そういうことを心をリラックスさせて、すこしづつやっていくといいのです。

 よく、こういうことはしてはいけない、とか無我の境地になれなどと言いますが、そんなことは最初のうちはどだい無理なことです。それに、無理に自分を抑えるということは、それだけでもういまの自分の認識ではなくなってしまうのです。
大切なことは、ヴィパッサナー(観察)ということです。
つまり、ありのままの自分を観るということですね。坐禅を組んでいると足が痛くなってきたりする。
そうしたら、「いま私は足が痛い」と観察するのです。痛いと思うのではなく、痛い自分を観察する。ただ痛いという感覚もありますから、それはただ感じているという認識でいいのです。また人間は静かにしているといろいろなことを考えますから、考えを否定するのではなく、「あ、いま自分は考えている」「余計なことが心に浮かんだ」というふうに、なるべく短いセンテンスでしまい込んでしまう。イメージとしては、「心のなかにラベルを貼ってしまっちゃう」と考えるといいかもしれません。もし怒りが出てきたら、「怒り」とラベルを貼ってしまっちゃうといいのです。因みに、怒りというのは仏教で言えば、「いやだ」と言うことなのです。坐っているときに立ちたいなあ、と思ったらそれは怒りを意味するのです。

 これが八正道を実践するヴィパッサナー冥想法の第一段階です。
ところで私たちは毎日毎日24時間、死ぬまで生き、行動しているわけですから、四六時中サティ(気づき)の修行をしてほしいのです。勉強していても、仕事をしていても、家でテレビを見ているときも。例えば、歩いているときだって、余計なことを考えずに、左足と右足が交互に動いて歩くわけですから、「右、左、右、左」と言葉にだして歩くのです。それが精神統一につながって、やがていろいろな知恵に恵まれ、苦しみ、悩みが消えていくのです。(以下次号)

(スマナサーラ師 講義要録より 〜文責 根守)

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5>『無記』について                       平成16年10月4日

『無記』とは、ブッダが敢えて答えられなかったことである。
岩波仏教辞典を抜粋引用すれば
『無記』とは「ゴータマ・ブッダ(釈迦)によって捨て置かれ、回答されることがなかった、ある種の形而上学的な主張ないし問いをさす」 ・・・「ブッダは不回答の理由を、これらは無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導かないから”であると説明する」 とある。

その内容を箇条書きに整理すると、次の4種10項目である。 

1) @ 世界は”常住”(永遠)であるか

A ”無常”であるか

2) @ 世界は有限であるか

A 無限であるか

3) @ ”霊魂”と身体とは同一であるか

A 別異であるか

4) @ 如来は死後に存在するのか

A 存在しないのか

B 存在し、かつ非存在であるのか

C 存在もせず、非存在でもないのか

         (注)1)および2)についても4)の4つの選択肢が適用されると14項目になる。

『無記』の内容を見れば、ブッダが伝えられようとした“悟り”ないし説法の立場がよく理解できるのではないだろうか。

 お釈迦さまは、上記の形而上学的なことがらについては、そのようなことに思い悩むのは“無益で、法に適合せず、・・・涅槃に導かない”ことである といわれたのである。

敢えてお釈迦様が『無記』とされたことを、もっともらしく“述べ立てる”仏教が後世にはびこっていないのだろうか



<『無明』について>
 
 岩波仏教辞典を抜粋引用すれば、「すべては“無常”であり固定的なものは何もない(無我)という事実に無知なことこの無明がもとで固執の念(我見)をおこし、さらに種々の煩悩の発生となる。迷いの根本で、愚痴とも称され貪欲、瞋恚(しんい)と合わせて三毒といわれる。また十二因縁の第一支とされる」とあります。

 『無明』は煩悩のそもそもの根源である。我々が、知ったと思い・分ったと思い・恥知らずにも今このように書き連ねるような精神現象
(=煩悩)も根源を尋ねれば『無明』である、煩悩はすべては“無常”であり固定的なものは何もない(無我)という事実についての無知に根源がある。わが認識や想念のそもそもの根源は『無明』であることを謙虚に知ることでもある。「われ知覚せり、われ認識せり」と思うが、確かなことは「受想行識」作用があったことだけである。
正しい知覚、正しい認識か否かは覚束ない、幻影・錯覚であることが多いと云うのが真実のところである。

『無明』の考察は現代的に表現すれば人間存在の根本的考察である。


  (注)中国で修行を終えて帰国した道元禅師は、留学の成果を聞かれて、「ただ鼻直眼横を得ただけであった」といわれたという、難しいのは“教理”ではなく、“感得、体得”することが難しいのである。


<『中道』について>

 仏教で『中道』は中観ともいわれ、深遠な教理であるようでありますが、簡便に岩波仏教辞典を抜粋引用すれば、『中道』とは「相互に矛盾対立する二つの極端な立場から・・・離れ、矛盾対立を超えることを意味し、(道)は実践方法を指す。仏陀は苦行主義と快楽主義のいずれにも片寄らない(不苦不楽の中道)を特徴とする八正道によって悟りに到達したとされる」とある。
仏教は不苦不楽の中道である。甚だ短絡的であるが極端なものは“非仏道”である。
中道の実践道が八正道であり、お釈迦様が示された煩悩離脱のための実践方法である。


(注) 上記の無記・無明・中道のいずれの項においても「岩波仏教辞典を抜粋引用」したが当該項についての全文引用でなく、恣意的部分的引用であることをお断りします。また、アンダーラインは後付けであります。

                     ************

 仏教はブッダ以降にも生成発展し今日に至っている、大乗仏教がおこったはブッダ入寂後300年後である。しかし、仏教教団はブッダ入寂の100年後に、大きく2派(根本分裂)分裂し、その後さらに多くの分派に分裂(部派仏教)し、その後、仏教における宗教改革ともいうべき大乗仏教が起こりこの大乗仏教がが中国・日本伝播して、さらに宗派が立ち今日に至っている(現在、わが国においてさえ100を超える宗派があるという)。仏教がインド、中国、日本において様々な他宗教の教理や土着習俗も包摂混交し、複雑化していることも確かである。
 仏教は、時代のリズムに合わず、”葬式仏教”と揶揄されるほどに、庶民の日常生活には影の薄いものとなっている。

 願わくば、お釈迦様が説かれたそもそもの仏法が明快に示され、多忙で賢しらな現代の凡人・“衆生、在家”にも素直に伝わり、現下の倫理観混迷の時代に、老若世代を貫いて共有される“骨太の人生哲学”“迷いなき行動原理”として働くことを。

     衆生無辺誓願度   煩悩無尽誓願断   法門無量誓願学   仏道無上誓願成

                                  目次へ戻る

4)日本仏教史上の巨人『行基』         平成16年8月29日

先日、書店をぶらついていて、「仏教と資本主義」という、少々違和感のある書名の本に出会いました、その新刊書の帯には“1300年前、行基。資本主義のルーツは日本にもあった”との、少し"?"なコピーがついておりました。小生は前回の寄稿文で、坂東33ケ所めぐりの古寺に行基の足跡が多いことに触れ、行基について少し調べたことを記したところでありましたので、その"?"なコピーに興味をそそられ、その本を買い求めました。

 行基にわが国資本主義(精神)のルーツが遡れるという、長部論文については、"資本主義”の定義の曖昧さなど、必ずしも全面的に納得・同感とは参りませんでしたが、著者の心は、今、骨太の社会哲学を失い、個人の生活倫理観も混迷しているわが国の状況を憂え、かってわが国で展開された健康な”仏教精神”運動を顧みるの論を提起されているのだ、と読めば、大いに納得、啓蒙される書であります。以下は、この著書から得た「行基」知識と「仏教と資本主義」(論)の甚だ不完全なご紹介であります。

<「仏教と資本主義」(新潮新書 20044月刊)の著者について>
 著者・長部日出雄氏は昭和9年青森県生まれ、早稲田文学部中退、週刊誌記者、フリーライターを経て作家となり、第69回直木賞、新田次郎賞、大佛次郎賞、和辻哲郎文化賞などを受賞されていて、幅広い創作活動をされています。マックスウエーバーの研究も深くされ、この著「仏教と資本主義」とも関連深いのですが、「二〇世紀を見抜いた男 マックスウェーバー物語」という著書をこの8月に新潮文庫から出されております。 <浅学の小生は、これまで氏の作品を読んだことがありません>


<行基の伝記>

 主題である“行基と資本主義”精神との関わりについては後回しにして、行基伝の部分を出来る限り“原文抜粋“により記します。

わが国の仏教史上、最初にして最大の巨人は、最澄と空海より百年もまえに生まれ、生涯の大半を在野の僧としてすごしたこの人―― 行基であったに相違ありません。それなのに名前があまり知られていないのは、前半生が謎につつまれ、また特定の宗派を開かなかったために、記録がごくわずかしか残されていないからです。(P.46

 行基の師は道昭です、師道昭が遣唐使に随行して入唐したのは、三蔵法師玄奘のインドからの帰国後8年目(653年)、師玄奘から同房に住まわせてもらうほど嘱望され、三蔵法師玄奘から最新の唯識宗を8年間にわたって学び、法師が漢訳した多くの経論を携えて、飛鳥寺に帰ったのが660年、行基が出家して道昭の弟子となったのは、それから22年後のことでした。(P191

(道昭は)飛鳥寺の禅院で後進の指導にあたりましたが・・・講義と座禅に没頭するばかりでなく、・・三蔵法師に教えられた新しい大乗仏教の利他行=菩薩行を実践するために、弟子とともに巡歴の旅に出て、各地で井戸を掘り、堤防を築き、船の渡し場を設け、橋を作って、献身的に民衆の生活に奉仕します。(P.47

行基が生まれた家は、河内国の高志氏、先祖は百済からの渡来人王仁と伝えられ(P188)、15歳で出家した行基は、唯識瑜宗の根本論典で、難解な「成唯識論」と「瑜伽師地論」を道昭に学び、稀代の秀才として注目されながら、3年ほどするとなぜか律令制下の官寺を飛び出して消息を絶ってしまいました。残されたわずかな記録は、行基が18歳から37歳まで「山林に棲息」したと伝えています。(P47) 行基は・・、瑜伽行の十七段階を、すべて自分の身体で実地に経験して、真の解脱に到達しようと、官寺を離れて山中に分け入ったのに違いありません。(P49

 三十代の後半に山林を出て、行基が独自の布教をはじめたのは、新都平城京の建設に諸国から駆り出された多くの役民が、惨憺たる苦労を舐めさせられている真っ最中でした。役に徴発されて最初に卿国を出たときから都までの食料は自弁であり、帰国のさいも同様なので・・・行き倒れになる者が出ます。・・・行基は、山陽道の要地に、行き倒れの役民や運脚夫、浮浪人等を泊めて、粥を食べさせる布施屋を建てます、・・・そして、つぎつぎ建てる布施屋を拠点にして、かれが進めて行ったのは、土地改良の工事でした。(P56

悪行をなした者は地獄に堕ち、善行を積んだ者は菩薩となる。・・・そう因果の理を説いて、土地の豪族に資本を出させ、布施屋を建てて粥を施し、集まってくる大勢の窮民の力を集め、師の道昭が唐で学んできた灌漑や土木の新技術を用いて、農業用の池や溝を掘り、堤を築き、道を開き、橋を架けると、土地が潤って、豪族には出した元手以上の利益が戻ってきます。 ・・・かれに従う民衆は、菩薩になるための行と信じてよく働くので・・・(工事は)驚くほどの速さで進みます。・・布教が工事となり、工事が布教となる行基の事業・・・(P57)、・・律令制の最高機関である太政官も、行基の力量を無視できなくなり、これまで危険視してきたその民間伝道にたいする禁圧を緩めざるを得なくなりました。(P58

 聖武天皇によって、・・・総国分寺として東大寺を建立し、そこに全宇宙の真理を説く「華厳経」の中心をなす毘廬遮那の大仏を建造するという計画が生まれてきました。

 ・・・未曾有の難事業である大仏の建立・・実現の可能性と方途を探る朝廷のなかに、行基を勧進僧に起用する。という案が浮上してきます。 ・・・東大寺の造営と大仏の建造に要する莫大な費用を、勧進によって諸方の豪族たちから調達し、また工事に従事ずる何千、何万もの工と役夫を集めて自在に動かせるのは、行基以外にいない。 と判断されたのです。天平十五年(743年)76歳の行基は、大仏造営の勧進役に起用され、その2年後には、聖武天皇によって、わが国で最初の大僧正に任じられました。(P65
(行基は大仏開眼を見ることなく、その3年前に 82歳でなくなった)


わが国最初の宗教改革者・行基
 
 (行基の名前がはじめて公式史書に登場した714年 元正天皇の詔)に、「・・・、およそ僧尼は、寺院に寂居して、仏の道を世に伝えるのが法律で定められた任務である・・・ところが、いま小僧行基とその弟子たちは、街に押し出して、みだりに罪業と福徳のことを説き、徒党を組んで・・・ 」(P51)とある、妖僧として禁圧された様子が見えます。(しかし、その12年後)731年の聖武天皇の詔には、「行基法師に随従する優婆塞・優婆夷(在俗のまま受戒した男女)のうち、法の定めの通り修行している者で、男は61歳以上・女は55歳以上であれば、すべて入道を許可せよ・・・ 」(P58)と、行基の私度僧をも部分的に認め、749年行基がこの世を去ったとき、「続日本書紀」には「大僧正の行基和尚が遷化された。・・(中略)・・豊桜彦(聖武)天皇は行基を深く敬い、詔して大僧正の位を授け、供養のために四百人を出家させた」(P73)と記録されているという。

一般庶民は容易に僧尼となることが出来ず、僧尼になる家は豪族や上層農民に限られていました。行基研究の第一人者である井上馨氏によれば、官許を得ずに私度僧を作り出す行基の民間伝道は甚だ過激な反僧尼令運動ともいうべきものだった(P59)、という。


<長部氏の仏教と資本主義(精神)のルーツ論>

 長部氏はまず、西欧の資本主義精神の原型を マックスウエーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」により解題する。 @ウエーバーは、16世紀初頭に宗教改革が起こって、新教徒となった人々の職業観に大きな変化が生じたことを認め、その契機になったものとして、マルティン・ルターの聖書翻訳で「職業」にあてられた言葉(ドイツ語のBeruf、英語のCalling)に注目した(P15)。 ルターはカソリックの僧侶(修道士)生活を現世の義務から逃れようとする利己主義の産物と考え、世俗の職業労働におけるキリスト教徒としての義務の遂行こそ、「隣人愛」の具体的な現れで、神に喜ばれる唯一の道であり、したがって許容される世俗的職業はすべて神の前に平等の価値をもつ、と強調するにいたりました(P16)、ここからプロテスタントの間には世俗的な業務を、神に与えられた「天職」と意識する態度が生まれた(P15)、Aこの思想はイギリスのピューリタン革命およびそのイギリスのプロテスタンティズム全般に影響をおよぼす存在となった牧師リチャード・バクスターの啓蒙を経て、(職業感は)ルター派のような・・・受動的な摂理(天職)でなく、能動性を促す積極的な命令に変わってゆく、バクスターは “職業の有益さ、すなわち神によろこばれる度合いを決定するのは、第一に道徳的規準であり、つぎに公共に対する重要さ、第三は私経済的な「収益性」である(P31)、・・・神のために、あなた方が労働して、富裕になることは、よいことなのだ。富が危険なのは、それが怠惰な休息や罪の快楽への誘惑となる場合のみである"(P32)と説く。B経済生活における新しい精神の貫徹という、この決定的な転換を生じせしめたのは ・・・厳格な生活の訓練のもとに育てられ、市民的な見方と原理原則を身につけて、・・熱心にしかも冷静に仕事に精励する人々であったのだ(P35)・・・

 長部氏は、上記の西洋の「資本主義精神」に先行してわが国に資本主義(精神)の原型があったとして、行基、法然、鈴木正三、石田梅岩を取り上げています。文脈理解に不正確さがあると思いますが、私流に要約すれば、その資本主義精神の原型たる所以のものは

 @行基においては、反僧尼令運動に見られる平等の思想、自他利の思想およびその社会事業、土地改良事業、大仏造営を支えた科学的合理的な事業運営と庶民の労働倫理に、資本主義の合理精神の原型を見る A法然の宗教改革、法然はそれまで正しいとされてきた造仏起塔、多額の布施や寄進、僧の自戒・精進・禅定などをすべて雑業と退け、ただひたすら衆生済度を本願とした阿弥陀仏への帰依を表明しさえすれば、どのような人であっても、必ず極楽往生がかなう、と説いた。これは、人は善行や儀式によらず、「信仰のみ」によって義とされるというルターの根本思想と同じ考えである(P103)、(ルターの思想は、西洋の資本主義精神の淵源) B鈴木正三(しょうさん、15791655、三河武士出身の私度禅僧)は、あらゆる職業が仏の働きを具現するものである、と考え、「仏法と渡世の術は同じもの、各各の職分のうちに仏法を見出せ」と説いた(P125)、自分の職業を天道の召命に応ずる「天職」と考え、・・・禁欲的な労働に没入せよ、と教える点で、ルターやカルヴァンの職業倫理、労働倫理と殆ど同質、・・その啓蒙性において ・・リチャード・バクスターを想起させる(P112) C石田梅岩の思想は石門心学といわれ、その真髄は「都鄙問答」に集大成されているが、その商人哲学は極めて明快、「商売の利益は、武士の俸禄に等しく、正当な利を得るのが商人の道である。これを詐欺といわば売買なるまじく、・・・商人皆農工とならば、財宝を通わす者なくして、万民の難儀とならん」(P138)と西洋の資本主義精神と軌を一にする合理性がある。

 注)鈴木正三については、比較的知られていないかも知れませんが、PHP文庫:「鈴木正三」(神谷満雄著)に、伝記と思想が詳しい。(岡田)

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3) 坂東33ケ所めぐり雑記              平成1687

わが宮地副支部長のインド仏蹟巡礼とは比すべくもない小さな旅でありますが、小生は昨年、秩父34ケ所をめぐり、今年は坂東33ケ所めぐりをしております。坂東も先月までに26番寺までめぐり、千葉県下の7ケ寺を残すばかりであります。
私の巡礼は篤き信仰心からというより健康維持のためのウォーキングという動機がより強いのではありますが、寺々ではまじめに般若心経を読経し、ご朱印帳に朱印と揮毫を頂いて参ります。

<百観音巡礼の歴史>

巡礼では四国88ケ所巡礼が最も有名でありますが、西国33ケ所と坂東33ケ所および秩父34ケ所とをあわせた日本百観音巡りもなかなか歴史があります、『史実の上では、近江三井寺の覚忠大僧正が応保元年(1161年)に近畿地方に散在する三十三ケ所の観音霊場を75日かけてめぐった記録が残って(いて)、・・平安末期に修験者たちによって始められた』(浅草寺貫主清水谷孝尚氏:山と渓谷社「坂東33ケ所を歩く」)。鎌倉時代には坂東33ケ所の制が整えられ、室町時代には秩父の札所ができて百観音巡礼の形が整えられ、一般庶民の間にも観音巡礼が浸透していったと言われます。

先日、26番・清瀧寺(茨城県新治郡新治村)へ参りましたところ、その近くに美人の代名詞ともなっている“小野の小町”の墓がありました、小町は清瀧寺へ詣でる途上、病を得てこの地で亡くなったとの事でありましたが、昔の巡礼は今とは比べられないほど大変だったろうと思います、行き倒れになる人も多かったことと思います。

<坂東33ケ所の分布>
 坂東33ケ所は、関東6県< 神奈川(9寺)、埼玉(5)、群馬(2)、栃木(4)、茨城(6)、千葉(7)>の広域に分布しており、また、宗派分布を見ますと、坂東は 真言宗16寺、天台宗11寺、浄土宗2寺、曹洞宗1寺、その他3寺となっております。 秩父34ケ所は曹洞宗20ケ寺、臨済宗11ケ寺、真言宗3ケ寺でありました。


<何が楽しみか?>

小生の巡礼は何度かに分けて自宅(さいたま市)から出かけることとしております。また、一日のスタートは目的地最寄りの鉄道駅とし、そこからは出来る限り歩いて周ることに心掛けております。昨年の秩父は比較的狭い地域に集まっておりましたので、6日でめぐることが出来ましたが、坂東33ケ所は広域に分布し、結構、不便の地にある寺もありますので、時には宿泊も必要となり、バス利用も必要となりますが、原則は“日帰り”と“歩き”でありますので、それなりに事前の密なるプランニングが必要となります、準備作業もまた楽しであります。

 片道10km程度であれば歩きますので、平均して一日30km程度、多い日は40km歩くこともあり、一人歩きで、黙々と歩いている間はそれなりに色々と思いを馳せ、思索?することが出来ます。歩いたあとの満足感もあります。


<難行苦行?の巡礼道>

(茨城県の最高峰・八溝山へ登山ほか)
 7月7日、21番・日輪寺へ参るべく、登山口への起点・大子温泉に前泊して茨城・福島県境にある八溝山(1,022m)へ登山しました。大子駅から登山口までバスで約50分、朝9時に登リ始めて頂上まで約2時間、森林浴を楽しみながら3時に下山しました。
 その前日7月6日は、水戸線岩瀬駅を振り出しに24番・楽法寺へ、稲田駅で途中下車して親鸞上人ゆかりの稲田御坊・西念寺に詣でたあと、常陸大田市にある22番・佐竹寺を巡りましたが、大変な猛暑の日で岩瀬駅から楽法寺への7kmは、道中に日差しを避ける木陰無く、熱さが堪えました。楽法寺(雨引観音、真言宗豊山派)はなかなか立派なお寺でした。たくさんの孔雀が放し飼いされていたりしてよく整備され、参詣者も多い寺でありました。途中立ち寄った西念寺は番外でありますが、親鸞上人が佐渡の島流しを解かれた後、この地に庵を結んで20年もの長きに亙り留まって布教されたところで、教行信証はここで書き上げられたと云う浄土真宗別格本山の寺です。
 6
月初旬群馬県の2寺をめぐりました。計画では上越線渋川駅から水澤寺(16番)を経て、長谷寺(15番)を詣で高崎駅までを歩く予定でありましたが、途中、少し道に迷って時間を費やし、長谷寺へは納経所の門限15分前(4時45分)の滑り込みでした。この日は最後の8kmほどで甲を脱いで、高崎駅までバスに乗りました。今の小生には1日40kmが限界の様であります。マラソンの高橋尚子なら2時間で駆け抜ける距離なのですが。

(足のすくんだ法性寺の岩場)(熊出没注意の水潜寺行)
 昨年の秩父巡礼での話でありますが、32番・法性寺奥の院は険しい岩場の先の山頂にそそり出た大きな岩上に観音像と大日如来像があるのでありますが、大日如来像へあと15mというところで、足がすくんでギブアップしました。また秩父巡礼最後の寺・34番水潜寺詣ででは、秩父線皆野駅を起点に杖立峠を経て水潜寺へ続く山道、約2時間 一人として人に会いませんでしたが、途中に「熊出没注意」の立て札が幾つもあり、少々、恐れを抱いた巡礼道でした。

 当然のことながら、お寺も様々、観光営業だけかというお寺もあれば、作事ばかりに熱心なお寺もある。御朱印を頂く時、このお寺の日常には仏教が生きているのか、が一番よく分かる気がします。信心ある人の奥ゆかしさが伝わる親切で心温かな対応をしていただくと、さすが観音様をお守りされてる人たちだな、と有り難く感ずることであります。

僧・行基の足跡

 坂東33ケ所のうち、寺の開基または寺歴に行基(668749年)の名を残すお寺が少なくとも11ケ寺あります。仏教が日本へ伝来したのは538年といわれ、飛鳥時代・奈良時代に隆盛となったことはご承知とおりであります。日本史年表を見ますと、645年大化の改新、672年壬申の乱、710年平城京へ遷都、752年大仏開眼、754年鑑真来朝・759年唐招提寺建立などが目につきます。

 僧・行基の生きた時代はまさにこの時代であります。この時代の仏教は貴族仏教、学問仏教であったようですが、僧・行基は日本の社会派仏僧、行動派仏僧のはしりであったようであります。民衆の人気も絶大で、『追随の者、ややもすれば千を以って数う。和尚来ると聞けば、巷に居る人もなく、争い来たりて礼拝す』(続日本書紀)とあり、ために一時は不穏な民衆煽動者として危険人物視され圧迫を受けたこともあったという。

生涯に49の寺を建立し開墾、灌漑、架橋などの土木工事の事跡も多いが、社会事業分野でも、旅人の宿泊施設が無い時代に宿泊施設である布施屋を9ケ所つくったのは画期的なことであったという、死人は林や原野に捨てられていた時代に、これらを一箇所に集めて供養した庶民の墓地を作った最初の人とのことであります。大阪和泉(堺)の人で、関西に多くの事跡が残っていますが、先述のごとく、坂東にもその布教の足跡が明らかであります。

東大寺大仏建立にも貢献し、晩年は大僧正に登り、聖武天皇とその皇后、皇太后の出家にも立ち会ったという。 空海(774835年)より約100年前の人であります。

辞世の歌は「かりそめのやどかる我ぞ今さらに物な思いそほとけとをなれ」      

   <行基に関する記事は主に、立風書房:日本名僧100話より>        以上

                                                      目次へ戻る

2)
『一切衆生 悉有仏性』           2004731日

私の好きな言葉といってはおこがましいが、励まされる言葉であります。仏教が他の宗教と峻別されるところなのだろうと思います。この教義は初期仏教や上座仏教ではどの様な表現になっているのでありましょうか? 勉強して見ないといけないな、と思っています。 

  (追記) 道元禅師のおことばあり
     「あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて仏法をしれりといふにはあらずといふことを」(『弁道話』)

『ブッダ』という日本語表記は、最近は違和感なく使われておりますが、実はこれは比較的新しい流れであるという、確かにそうであります。

 “近代以後の日本における仏教研究の進展が、必然的に「ブッダ」の表記法を選択させるに至ったという一面を見逃すことは出来ない“ (木村清孝氏 創元社 ブッダの生涯 序文)

宗派の枠外で仏教研究の著しく進展し、特に初期仏教、原始仏教について多くの著作により、そもそもお釈迦様はどのように説かれたのか、がより明快に示されるようになっております。 次なる発展として、日々多忙なる現代人の心にも響く、新しき説法の開発普及が待たれます。

恥ずかしながら、“分に合わぬ話”を続けます。

ホームページの参考サイトに日本テーラワーダ仏教協会HPアドレスを入れました。
日本で珍しい上座部仏教(南伝仏教)の協会(寺)のホームページです。
 <小生はこの協会を 佼成出版社「原訳発句経 一日一話」(A・スマナサーラ著で知りました>

まじめな教団のように思われますが、日本仏教界にとっては、イスラム原理主義・過激派のような存在となるかも知れません。

その説法の一部を引用します。

『もし釈迦尊の教えを仏教と定義するなら、日本をはじめ中国などで仏教と呼んでいるものは仏教でないということです。最澄の興した天台宗、空海の真言宗、法然の説く浄土宗、親鸞の説く浄土真宗、日蓮の説いた日蓮宗など、ふつうのひとはみんなこれを仏教と思っていますがそれはとんでもない大間違いだということです。これは当時の新興宗教であって、分かりやすく言えば最澄宗、空海宗、法然宗、親鸞宗、と解釈すべきなのです。』 (前記HPの根本仏教講義8 「仏教と仏教の違い」より)

 上記と同じことを仏教学の権威・故中村元博士がその著書で述べておられます。末尾の著書の釈迦の「最後の説法」(長くなるので省略)を解説されたところで、この様にあります。

『この立場をつきつめていくと、驚くべき結論に達します。後代に発達した(仏教)なるものが全部ゴータマ・ブッダによって否定されることになってしまうでしょう』     <岩波ゼミナーブックス10「原始仏典を読む」中村元 第2刷 P.129

仏教が時代とともに変化し内容豊かになることは是としても、現世利益へ誘導とか、おどろおどろしきオマジナイなどは、後世になり、他宗教やインドや中国や日本の土俗習慣などと融合するなどして付加されたもので、お釈迦様が説かれた本来の仏教には無縁のものということでしょう。

原始仏教の研究成果を学習し、お釈迦さまの説かれた仏教を再確認することが極めて大切な時代的課題であると思われます。( 誇大妄想癖の分不相応な大言です )


またまた、飛躍しますが、
最近のニュースでみる日本人の精神世界は殺伐として末恐ろしさを感じます。
 

産業大国“Japan as No.1”の自信は昔話となり、20年もすると中国の台頭がさらに際立って、文化的・精神的な面でもその影響が大きくなると思われます。中国に限らず、文化も人の動きもますますボーダレス化が進むと思われます。 この状況下、わが日本人の精神的アイデンティティーはどこに求められるのでしょうか

現在日本には100を超える宗派と75000のお寺があるようであります((財)全日本仏教会のホームページから)。 また、主なる宗派人口は創価学会が820世帯2003年末)、真言宗 549万人、浄土宗 602万人、浄土真宗西本願寺派 694万人、真宗大谷派(東本願寺)553万人立正佼成会 561万人 であるとのことです。(新潮新書・創価学会P.14 臨済宗、曹洞宗は記載がなかった)

精神的アイデンティティー崩壊に瀕しているこの日本社会を救済するべく、既成宗教各派が小異を捨て大同することは難しいのでありましょうか・・、これは大変、難しい? ことのようにおもわれます。
今日の倫理崩壊社会の状況に仏教界が宗派の枠を越えた働きができず、事実上は傍観的であってはならない、ことは確かであります。    
                             以上
                                                 目次へ戻る

1)「平安時代以降、直系の父母系は何人いたでありましょうか?」
    2004.07.30
     
                                                   岡田彬

飛躍した話で恐縮です。

定年引退して2年目にはいりますが、会社時代に新入社員などを前によく使った設問であります。  当時は“新しい発見”と気に入っておりましたが、未だに、この計算はあっているのかな と心配なことであります。 <検証をお願いします>


平安時代以降、あなた方の先祖は何世代あったのだろう?

→ 平安遷都(794年)からすると、1200年余になるが、

→ 計算を簡単にするため、1000年前と考えてよろしい。

突拍子も無い突然の質問なので、多くは20世代とか30世代と答えます。

30代とすると、平均33歳の出産 「君の先祖は随分、晩婚型だったのだな」となります。

→ 問題は「母親の平均出産年齢がいくつか?」であります。

昔は平均寿命も短かったから、20歳以下で子供をつくることが多かったかも知れないが、

多産で遅く生まれることもあったかもしれない、(いずれにせよ、私の数学力から40代

でないとあとあと困るので)『まあ、平均25歳としよう』と宣言します。

さて、40世代(=1000÷25)として計算しますと  2 x 2 x 2 x 2 ・・・・・

→ 平安時代以降の親の数は 2の40乗となるはず、これは

→(2の10乗)x(2の10乗)x(2の10乗)x(2の10乗)です。

  → ここで、2の10乗を電卓で計算すると1024≒1000ですので、

  → 平安時代以降の親の数は 1000の4乗、一兆人超が答えとなります。

この計算は正しいのでしょうか?

   → 明治初めの日本の人口は、約3500万人と云われています。

人類誕生以来何年か? 日本人では? をインターネットで調べてみますと

  原人(北京原人など)は 約100万年前

  明石原人は 約50万年前 とあります。

千年は神の瞬き、平安時代など、ほんの少し前のことです。

先ほどの計算を この時代から計算すると、どうなるのだろうか? 

那由他、不可思議、無量大数 ・・・ 

この気の遠くなるような長い長い間、DNAが代々引き継がれて来て、私自身がここに存在し得ていることは紛れもない事実であります。

対新入社員的に云えば『自信を持ちなさい。君達は無限の可能性を秘めているのだ』、『多少の優秀さに自惚れるな! 山賊の血も入っているぞ』となるのでありますが、

自らも、『人身を得ること難し、仏法にあうこと稀なり』を実感し、『磨かざれば、玉も見えず』を痛感させられることであります。
 あなかしこ。
                                        
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