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<目次>
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  1)シンガーラへの教え―善生経― 中村元訳(春秋社・原始仏典第三巻より)
  2)柳澤桂子氏の心訳・般若心経 『生きて死ぬ智慧』(小学館刊 2005.4.10 第5版)より
  3)【坐禅の心構え】〜澤木興道老師の言葉より〜  (安泰寺HPより)
  4)正法眼蔵 八大人覚 の漢文読み下し文と 現代語訳 2006.09.30

1)シンガーラへの教え ―善生経― 中村元訳(春秋社・原始仏典第三巻より) 

     @株式会社春秋社・原始仏典第三巻 長部経典V 第1刷(2004年2月)
     A本文のみ引用、同巻にある 注記・経典解釈は省略した。
     B文中〔 〕は、『読者の理解の一助とするため、底本に無い訳文、小見出しを〔 〕で囲み表示』
     C文中[ ]で表示した数字は、『底本の頁数を示したものである』  『 』内は春秋社版凡例より

一、このようにわたくしは聞いた。
あるとき世尊は王舎城のカンダラ竹林に住んでおられた。そのとき資産者の子シンガーラは早く起床し、王舎城を出て〔郊外に至り、沐浴して〕衣を浄め、髪を浄めて、合掌し、東方・南方・西方・北方・下方・上方の各方角を礼拝した。

二、そのとき世尊は早朝に内衣をつけ、鉢と衣とをとり、行乞のため王舎城に入られた。
そこで世尊は資産者の子シンガーラが早く起床し、王舎城を出て、〔郊外に至り、沐浴して〕衣を浄め、髪を浄めて、合掌し、東方・南方・西方・北方・下方・上方の各方角を礼拝しているのを見られた。そうして資産者の子シンガーラを見て、このように問われた。

  「資産者の子よ。汝が早く起床し、王舎城を出て、〔郊外に至り、沐浴して〕衣を浄め、髪を浄めて、合掌し、東方・南方・西方・北方・下方・上方のそれぞれの方角を礼拝するのは何故であるか?」

  「尊者よ、父がなくなるときわたしに遺言しました ― 『親愛なる者よ、お前はもろもろの方角を拝すべきである』と。 こういうわけで、わたくしは父の遺言を尊び、敬い、重んじ、奉じて、早く起床して、王舎城を出て、〔郊外に至り、沐浴して〕衣を浄め、髪を浄めて、合掌し、東方・〔南方・西方・北方・下方・〕上方のそれぞれの方角を礼拝するのです」

 「資産者の子よ。立派な律においては、六つの方角をこのようなしかたで礼拝してはならない」

〔そこでシンガーラは乞うた、〕「それでは立派な人の律においては、どのようなしかたで六つの方角を礼拝すべきであるか、そのきまりをわたくしによくお教えくださいませ」
「では、資産者の子よ。聞け。よく注意せよ。わたしは話してあげよう」
「尊者よ。かしこまりました」と言って、資産者の子シンガーラは世尊に答えた。そこで世尊は次のように説かれた。

 三、「資産者の子よ。立派な弟子が四つの行為の汚れを捨て、四つのしかたで悪い行為をなさず、また財を散ずる六つの門戸になずまないならば、かれはこのようにして十四の罪悪から離脱し、六つの方角を護る。かれはこの世およびかの世にうち勝つために実践しているのであり、この世とかの世とはかれに征服されている。かれは肉体が滅びたのち、死後に、良いところ、天の世界に生まれる。

 では、かれの捨て去った四つの行為の汚れとは何であるか? 資産者の子よ、いきものを殺すこと、与えられないものを取ること、欲望に関する邪な行ない、虚言、―は、行為の汚れである。これらの四つの行為の汚れを、かれは捨て去っているのである」と。
世尊はこのように説かれた。

 四、幸ある人、師はこのように説いたあとで、さらにまた次のように言った、― 
 [182]「殺生と盗みと虚言といわれるものと
     他人の妻に近づくこととを
   聖者は称賛しない。

 五、いかなる四つのしかたによって人は悪い行ないをしないのであるか?
 貪欲により、怒りにより、迷いにより、恐怖によって非道を行くが故に、人は悪い行ないをなすのである。それ故に立派な弟子は、決して、貪欲により、怒りにより、迷いにより、恐怖によって非道を行くことがない。これらの四つのしかたによって、かれは悪い行ないをしないのである」と。
このことを世尊は説かれた。

 六、幸ある人、師はこのように説いたあとで、さらにまた次のように言われた。
「貪欲と怒りと恐怖と愚迷とによって
 法を犯す者はみな
 あたかも黒分*における月が〔欠けて暗くなる〕ように
 彼の名声は減退する。
               (注) *黒分=月が欠けていく半カ月
 しかし貪欲と怒りと恐怖と愚迷とによって
 法を犯さない者はみな
 あたかも白分における月のごとく
 彼の名声にみち増大する

 七、人が近づいてはならぬところの、財を散ずる六つの門戸とは何であるか?
  〔1〕  酒類など怠惰の原因に熱中することは、実に、資産者の子よ、財を散ずる門戸である。
 〔2〕  時ならぬのに街路を遊歩することに熱中するのは、財を散ずる門戸である。
 〔3〕  〔祭礼舞踊など〕見せものの集会に熱中するのは、財を散ずる門戸である。
 〔4〕  賭博という遊惰の原因に熱中することは、財を散ずる門戸である。
 〔5〕  悪友に熱中することは、財を散ずる門戸である。
 〔6〕  怠惰にふけることは、財を散ずる門戸である。

 八、酒類など怠惰の原因に熱中するならば、次の六つのあやまちが生ずる。すなわち
 〔1〕現に財の損失あり、〔2〕口論を増し、〔3〕疾病の巣窟となり、〔4〕悪い評判を生じ、[183]〔5〕陰処をあらわし、〔6〕第六の原因として知力を弱からしめる。これら六つのあやまちは、酒類など怠惰の原因に熱中するときに生じる。

 九、時ならぬのに街路を遊び歩くことに熱中するならば、次の六つのあやまちが生ずる。すなわち
 〔1〕かれ自身も護られておらず、防御されていない。〔2〕かれの子も妻も、また護られておらず、防御されていない。〔3〕かれの財産もまた護られておらず、防御されていない(盗賊に狙われる)。〔4〕また悪事に関して疑われる。〔5〕不実の噂がかれに起る。〔6〕多くの厄介なことがらがつづいて起る。これら六つのあやまちは、時ならぬのに街路を遊び歩くことに熱中するときに起る。

一〇、〔祭礼舞踊など〕見せものの集会に熱中するならば、実に次の六つのあやまちが生ずる。すなわち
 『〔1〕どこに舞踊があるか、〔2〕どこに歌があるか、〔3〕どこに音楽があるか、〔4〕どこに講談があるか、〔5〕どこに手楽があるか、〔6〕どこに陶器樂があるか』 とたずねる。実にこれら六つのあやまちは、見せものの集会に出かけることに熱中するときに起る。

十一、賭博という遊惰の原因に熱中するならば、実に次の六つのあやまちが生ずる。すなわち
 〔1〕     勝ったならば、相手が敵意を生じ、〔2〕負けたならば心に悲しみ、〔3〕現に財の損失あり、〔4〕法廷に入ってもかれのことばは信用されず、〔5〕友人同輩からは軽蔑され、〔6〕婚姻せしめる人々からは拒絶され、賭博漢は妻を持つ資格がないといわれる。実にこれら六つのあやまちは、賭博という遊惰の原因に熱中するときに起る。

十二、悪友になじむならば、次の六つのあやまちが生ずる。すなわち
 〔1〕ばくち打ち、〔2〕乱行者、〔3〕飲んだくれ、〔4〕いかさま師、〔5〕詐欺漢、〔6〕乱暴者、―これらはかれの友人であり、かれの仲間であるということになる。 [184]実にこれら六つのあやまちは、悪友に交わるときに起る。

十三、怠惰にふけるならば、実にこれら六つのあやまちが起るのである。
 〔1〕『寒すぎる』といって仕事をなさず、〔2〕『暑すぎる』といって仕事をなさず、〔3〕『晩すぎる』といって仕事をなさず、〔4〕『早すぎる』といって仕事をなさず、〔5〕『わたくしははなはだしく飢えている』といって仕事をなさず、〔6〕『わたくしははなはだしく腹がふくれている』といって仕事をなさない。かれはこのようになすべき仕事に多くの口実を設けているので、いまだ生じない富は生じないし、またすでに生じた富は消滅に向かうのである。資産者の子よ。実にこれら六つのあやまちは、怠惰にふけるがゆえに起るのである」と。
世尊はこのように説かれた。

十四、幸ある人、師はこのように説かれたあとで、さらにまた次のように言われた、
 「飲み友だちなるものがある
 きみよ、きみよ、と呼びかける親友である〔と自称する〕
 しかし事が生じたときに味方となってくれる人こそ友なのである
  〔1〕  太陽が昇ったあとでも寝床にあり
 〔2〕  他人の妻になれ近づき
 〔3〕  闘争にふけり
 〔4〕  無益なことに熱中し
 〔5〕  また悪友〔と交わり〕
 〔6〕  また非常にものおしみし強欲なこと ―
これら六つのことがらは、人を破滅に導く

悪友と悪い仲間と
悪い行いになずむ人とは
この世とかの世とにおいて
破滅におもむく
〔1〕  骰子(さい)と女、酒、 〔2〕舞踏と歌 
〔3〕  白昼の睡眠、〔4〕非時に街を遊び歩くこと
〔5〕悪友〔と交わり〕、〔6〕ものおしみして強欲なこと―
これら六つのことがらは人を破滅に至らしめる

骰子を遊び、酒を飲み、他人にとって生命にも等しい妻女に通い
185]卑しいものと交わり、経験ある人に交わらないならば
 黒分における月のように欠けて行く
 財なく無一物なのに
 酒が飲みたくて、酒場に行って飲む呑んだくれは
 水に沈むように負債に沈み
 すみやかにおのが家門を滅ぼすであろう
 白昼に眠るのを常とし
 夜は起きるものと思い
 常に泥酔にふける者は
 家を確立することができない
 寒すぎる、暑すぎる、遅すぎる、と言って
 このように仕事を放擲するならば
 利益は若者から去って行くだろう
 寒さをも暑さをも、さらに草ほどにも思わないで
 人としての義務をなす者は
 幸福を逸することがない

十五、次の四種は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。すなわち
 〔1〕何ものでも取って行く人、〔2〕ことばだけの人、〔3〕甘言を語る人、〔4〕遊蕩の仲間は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。

十六、何ものでも取って行く人は、次の四つのしかたによって、[186]敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、〔1〕何でも〔品物を択ばず〕取って行く、〔2〕僅かの物を与えて多くの物を得ようと願う。〔3〕ただ恐怖のために義務をなす。〔4〕〔自分の〕利益のみを追求する。何ものでも取って行く人は、これらの四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。

十七、『ことばだけの人』は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、〔1〕過去のことに関して友情をよそおい、〔2〕未来のことに関して友情をよそおい、〔3〕無益なことを言って取りいり、〔4〕なすべきことが眼前に迫ると、都合が悪いということを示す。実に『ことばだけの人』は、これら四つのしかたによって、実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。

十八、実に、『甘言を語る人』は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、〔1〕相手の悪事に同意し、〔2〕善事に同意しない。〔3〕その人の面前では賛美し、〔4〕その背後ではその人をそしる。
『甘言を語る人』は、これら四つのしかたによって、実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。

十九、実に、遊蕩の仲間は、次の四つのしかたによって、敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである。かれは、〔1〕もろもろの酒類など怠惰の原因に耽るときの仲間である。〔2〕時ならぬのに街路をぶらつき廻るときの仲間である。〔3〕〔祭礼舞踏などの〕集会に入り込むときの仲間である。〔4〕賭博など遊惰なことがらに耽るときの仲間である。
 これら四つのしかたによって、遊蕩の仲間は実は敵であって、友に似たものにすぎない、と知るべきである」と。このように世尊は説かれたのである。

二〇、幸ある人、師(釈尊)はこのことを説き了えてから、次のように説かれた。

「何でも取ってゆく友
  ことばだけの友
  甘言を語る友
  遊蕩の仲間

 これら四つは敵である、と賢者は知って、かれらを遠く避けよかし
 あたかも恐ろしい道を避けるように

二一、[187]これらの四種類の友人は親友〔心のこもった友〕であると知るべきである。すなわち、
〔1〕助けてくれる友、〔2〕苦しいときも楽しいときも一様に友である人、〔3〕ためを思って話をしてくれる友、〔4〕同情してくれる友は親友であると知るべきである。

二二、『助けてくれる友』は、次の四つのしかたによって、親友である。 かれは、
 〔1〕  友が無気力なときに、まもってくれる。〔2〕友が無気力なときに、その財産をまもってくれる。
 〔3〕友が恐れおののいているときに、その庇護者となってくれる。〔4〕なすべきことが起ったときに、必要とする二倍の財を給してくれる。
 『助けてくれる友』は、これら四つのしかたによって、親友である。 と知るべきである。

二三、『苦しいときも楽しいときも一様である友』は、次の四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。その友は、〔1〕かれ(相手)に秘密を告げてくれる。〔2〕かれの秘密をまもってくれる。〔3〕困窮に陥ったときにも、かれを捨てない。〔4〕かれのためには生命をも捨てる。

『苦しいときにも楽しいときにも一様である友』は、これら四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。

二四、実に、『ためを思って話してくれる友』は、次の四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。
かれは、〔1〕悪を防止し、〔2〕善に入らしめ、〔3〕未だ聞かないことを聞かせてくれ、〔4〕天に至る道を説いてくれる。 『ためを思って話してくれる友』は、実にこれら四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。


二五、実に、『同情してくれる友』は、次の四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。
かれは、〔1〕その人の衰微を喜ばない。〔2〕その人の繁栄を喜び、〔3〕他の人がかれをそしるのを弁護してくれ、〔4〕他の人がその人を称賛するのを説きひろめる。実に、『同情してくれる友』は、これら四つのしかたによって、親友である、と知るべきである。」
このように世尊は説かれた。

二六、幸ある人、師(釈尊)はこのことを説いたあとで、また次のように説かれた。―
 [188]「助けてくれる友と
  苦しいときにも楽しいときにも友人である人と
  ためを思って話してくれる友と
  同情してくれる友と―
 実にこれらの四種が友である、と賢者は知って
 真心をこめて、かれらに尽くせよかし―
 あたかも母がおのが子をいつくしむがごとく
 戒めをたもっている賢者は
 〔山頂に〕燃える火のように輝く
 蜂が食物を集めるように働くならば
 〔かれの〕財産はおのずから集積する
 あたかも蟻の塚のたかめられるようなものである
 このように財を集めては
 かれは家族に実に良く利益をもたらす家長となる

その財を四分すべし。〔そうすれば〕かれは実に朋友を結束する
一分の財をみずから享受すべし
四分の二の財をもって〔農耕・商業などの〕仕事を営むべし
また〔残りの〕第四分を蓄積すべし
しからば窮乏の備えとなるであろう

二七、資産者の子よ、立派な弟子は六つの方角をどのように護るであろうか? 六つの方角とは次のものであると知るべきである。
 東方は父母であるとしるべきである。[189]南方はもろもろの師であると知るべきである。西方は妻であると知るべきである。北方は友人・朋輩であると知るべきである。下方は奴僕・傭人であると知るべきである。上方は修行者・バラモンたちであると知るべきである。

二八、実に次の五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。―
『われは両親に養われたから、かれらを養おう。かれらのために為すべきことをしよう。家系を存続しよう。財産相続をしよう。そうしてまた祖霊に対して適当な時々に供物を捧げよう』と。
実にこれら五つのしかたによって、子は東方に相当する父母に対して奉仕すべきである。

 また父母は次の五つのしかたで子を愛するのである。すなわち〔1〕悪から遠ざけ、〔2〕善に入らしめ、〔3〕技能を習学させ、〔4〕適当な妻を迎え、〔5〕適当な時期に相続させる。
実に子は、このような五つのしかたによって、東方に相当する父母に奉仕し、また父母はこれら五つのしかたによって子を愛するのである。このようにしたならば、かれの東方は護られ、安全であり、心配がない。

二九、実に弟子は次の五つのしかたで、南方に相当する師に奉仕すべきである。すなわち、
 〔1〕座席から立って礼をする。〔2〕近くに侍する。〔3〕熱心に聞こうとする。〔4〕給仕する。〔5〕うやうやしい態度で学芸を受ける。
実にこれらの五つのしかたによって、弟子は南方に相当する師に奉仕すべきである。

また師は次の五つのしかたで弟子を愛する。すなわち、〔1〕善く訓育し指導する。〔2〕善く習得したことを受持させる(忘れないようにさせる)。〔3〕すべての学芸の知識を説明する。〔4〕友人朋輩の間にかれのことを吹聴する。〔5〕諸方において庇護してやる。
 実に南方に相当する師は、これら五つのしかたによって[190]弟子から奉仕される。また師はこれら五つのしかたで弟子を愛するのである。このようにしたならば、かれの南方は護られ、安全であり、心配がない。

三〇、実に夫は次の五つのしかたで、西方に相当する妻に奉仕すべきである。すなわち、
〔1〕尊敬すること、〔2〕軽蔑しないこと、〔3〕道を踏みはずさないこと、〔4〕権威を与えること、〔5〕装飾品を提供することによってである。

西方に相当する妻は、これら五つの仕方で夫に奉仕されるのである。
また妻はつぎの五つのしかたで夫を愛する。 すなわち妻は〔1〕仕事を善く処理し、〔2〕眷属を良く待遇し、〔3〕道を踏みはずすことなく、〔4〕集めた財を保護し、〔5〕為すべきすべてのことがらについて巧妙にして且つ勤勉である。
西方に相当する妻は、これら五つのしかたによって夫から奉仕され、またこれら五つのしかたで夫を愛するのである。このようにしてかれの西方は護られ、安全で、心配がない。

三一、実に良家の子は次の五つのしかたで、北方に相当する友人・朋輩に奉仕する。すなわち、
〔1〕施与と、〔2〕親しみあるやさしいことば(愛語)と、〔3〕人のためにつくすこと(利行)と、〔4〕協同することと、〔5〕欺かないこととによってである。これらの五つのしかたによって、良家の子は、北方に相当するに友人・朋輩に対して奉仕する。また友人・朋輩はこれらの五つのしかたによって、良家の子を愛する。すなわち、かれが無気力なときに、まもってくれる。無気力なときに、その財産をまもってくれる。恐れおののいているときに、庇護者になってくれる。逆境に陥ってもかれを捨てない。かれののちの子孫をも尊重する。
実に、これらの五つのしかたによって、良家の子は、北方に相当する友人・朋輩に奉仕する。また友人・朋輩はこれらの五つのしかたによって良家の子を愛する。このようにして、かれの北方は護られ、安全であり、心配がない。

 三二、実に主人は次の五つのしかたで、[191]下方に相当する奴僕・傭人に奉仕しなければならぬ。すなわち、
 〔1〕その能力に応じて仕事をあてがう、〔2〕食物と給料とを給与する、〔3〕病時に看病する。
 〔4〕すばらしい珍味の料理をわかち与える、〔5〕適当なときに休息させることによってである。

 実にこれらの五つのしかたによって主人は、下方に相当する奴僕・傭人に対して奉仕するのである。

また奴僕・傭人は次の五つのしかたで主人を愛さねばならぬ。すなわちかれらは〔1〕〔主人よりも〕朝早く起き、〔2〕のちに寝に就き、〔3〕与えられたもののみを受け、〔4〕その仕事をよく為し、〔5〕〔主人の〕名誉と称賛とを吹聴する。実にこれら五つのしかたによって、立派な主人は、下方に相当する奴僕・傭人に奉仕する。また奴僕・傭人はこれら五つのしかたによって立派な主人を愛するのである。
このようにしてかれの下方は護られ、安全で、心配がない。

三三、実に、良家の子は次の五つのことがらによって、上方に相当する修行者(
samana)とバラモンとに奉仕すべきである。〔1〕親切な身体の行為、〔2〕親切な口の行為(ことば)、〔3〕親切な心の行為(思い)、〔4〕門戸を閉ざさぬこと、〔5〕財物を給与することによってである。

 実にこれら五つのしかたによって、良家の子は、上方に相当する修行者とバラモンとに奉仕するのである。また修行者とバラモンとは次の六つのしかたによって良家の子をば愛するのである。すなわち、
〔1〕悪から遠ざからしめ、〔2〕善に入らしめ、〔3〕善い心をもって愛し、〔4〕いまだ聞かないことを聞かしめ、〔5〕すでに聞いたことがらを純正ならしめ、〔6〕天への道を説き示す。実にこれら五つのしかたによって、上方に相当する修行者とバラモンとは良家の子によって奉仕され、また修行者とバラモンとはこれらの六つのしかたによって良家の子を愛するのである。このようにしてかれの上方は護られ、安全であり、心配がない。」

世尊はこのように説かれた。

三四、幸ある人、師はこのように説いたあとで、次のように説いた。―

「父母は東方である
 師は南方である
 [192]妻子は西方である
 友人・朋輩は北方である
 奴僕・傭人は下方である
 修行者・バラモンは上方である
 一族の中で有能な家長は、これらの方角を拝すべきである
 学識あり、戒めを身にそなえ
 柔和で、才智あり、謙譲で、ひかえめな人 ―
 かくのごとき人は名声を得る
 勇敢で怠ることなく
 逆境に陥ってもたじろがず
 行ないを乱さず、聡明である人 ―
 かくのごとき人は名声を得る
 人々をよくまとめ、友をつくり
 寛大で、もの惜しみせず
 導き者、指導者、順応して導く人
 かくのごとき人は名声を得る

 施与と、親愛のことばを語ることと
  この世で人のためにつくすことと
  あれこれの事柄について適当に協同すること ―
  これらが世の中における愛護である。あたかも回転する車のくさびのごとくである
  もしも右の四つの愛護を行わないならば
  母も父も、母たり父たるが故に子から受けるべき尊敬も扶養も得られぬであろう
  もろもろの賢者はこれらの愛護をよく観察するが故に
  かれは偉大となり
 [193]称賛を博するに至るのである」

三五、このように説かれたときに、資産者の子シンガーラは世尊に向かって次のように言った。
 「みごとです、尊師よ。みごとです、尊師よ。あたかも倒れたものを起こし、あるいは隠されたものを顕わし、あるいは迷える者に道を示し、あるいは『眼ある者は色を見るであろう』と言って暗黒の中に油の燈火をかかげるように、そのように世尊は種々のしかたで法を説き示されました。尊師よ。わたくしは世尊に帰依し、また法とビクの集いとに帰依したてまつる。願わくは、世尊がわたくしを、今日より以後、いのちある限り、帰依する信徒として受けたまえ」 と。

「シンガーラに対する教え」という経典終る。 

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2)柳澤桂子氏の心訳 「般若心経
      『生きて死ぬ智慧』(小学館刊 2005.4.10 第5版)より


ひとはなぜ苦しむのでしょう・・・・・

ほんとうは

野の花のように

わたしたちも生きられるのです 

もし あなたが

目も見えず

耳も聞こえず

味わうこともできず

触覚もなかったら

あなたは 自分の存在を

どのように感じるのでしょうか

これが「空」の感覚です

すべてを知り

覚った方に謹んで申し上げます

聖なる観音は求道者として

真理に対する正しい智慧の完成をめざしていたときに

宇宙に存在するものには

五つの要素があることに気づきました

お聞きなさい

これらの構成要素は

実体をもたないのです

形あるものは形がなく

形のないものは形があるのです

感覚、表象、意志、知識も

すべて実体がないのです

お聞きなさい

彼はこれらの要素が「空」であって

生じることもなく

無くなることもなく

汚れることもなくきれいになることもないと知ったのです

お聞きなさい

私たちは 広大な宇宙のなかに

存在します

宇宙では

形という固定したものはありません

実体がないのです

宇宙は粒子に満ちています

粒子は自由に動き回って形を変えて

おたがいの関係の

安定したところで静止します

お聞きなさい

形あるもの

いいかえれば物質的存在を

私たちは現象としてとらえているのですが

現象というものは

時々刻々変化するものであって

変化しない実体というものはありません

実体がないからこそ 形をつくれるのです

実体がなくて 変化するからこそ

物質であることができるのです

お聞きなさい

あなたも 宇宙のなかで

粒子でできています

宇宙のなかの

ほかの粒子と一つづきです

ですから宇宙も「空」です

あなたという実体はないのです

あなたと宇宙は一つです

宇宙は一つづきですから

生じたということもなく

なくなるということもありません

きれいだとか 汚いだとかいうこともありません

増すこともなく 減ることもありません

「空」にはそのような

取るにたりないことはないのです

お聞きなさい だから

「空」という状態には

形もなく 感覚もなく 意志もなく 知識もありあせん

目もなく 耳もなく 鼻もなく

舌もなく 身体もなく 心もなく

形もなく 声もなく 香りもなく

あなたをさわるものもなく

心の対象もありません

実体がないのですから

「空」には

物質的存在も 感覚も

感じた概念を構成する働きも

意志も 知識もありません

眼の領域から意識の領域に至るまで

すべてないのです

真理に対する正しい知恵がないということもなく

それが尽きるということもありません

それは「空」の心をもつ人は

迷いがあっても

迷いがないときとおなじ心でいられるからです

こうしてついに 老いもなく 死もなく

老いと死がなくなるということもないという心に至るのです

老いと死が実際にあっても

それを恐れることがないのです

苦しみも 苦しみの原因も

苦しみをおさえることも 苦しみをおさえる方法もない

知ることもなく得るところもない

得るということがないから

永遠なるものを求めて永遠に努力し

心を覆われることなく生きていけます

心を覆うものがないから

恐れがなく 道理をまちがえるということがないから

永遠の平和に入っていけるのです

私たちが あらゆるものを

「空」にするために 削り取り

削り取ったことさえも削り取るとき

私たちは深い理性をもち

「空」なる知恵を身につけたものになれるのです

真理を求める人は

まちがった考えや無理な要求をもちません

無常のなかで暮らしながら 楽園を発見し

永遠のいのちに目覚めているのです

永遠のいのちに目覚めた人は

苦のなかにいて 苦のままで

幸せに生きることができるのです

深い理性の知恵のおかげで

無常のほとけのこころ ほとけのいのちは

すべての人の胸に宿っていることを悟ることができました

このように 過去・現在・未来の三世の人々と

三世のほとけとは永遠に存在しつづけます

深い理性の知恵もまた

永遠にわたって存在するということです

それゆえに ほとけの智慧は

大いなるまことの言葉です いっさいの智慧です

これ以上のまことの言葉はありません

いっさいの苦を取りのぞく

真実で偽りのない言葉です

その真実の言葉は

智慧の世界の完成において次のように説かれました

行くものよ 行くものよ

彼岸へ行くものよ

さとりよ 幸あれ

これで

智慧の完成の言葉は

終わりました
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3)【坐禅の心構え】
               〜澤木興道老師の言葉より〜        安泰寺HPより

坐禅は龍の蟠るが如く颯爽たる姿勢と凛々たる気魄が籠っていなければならぬ。

『此の身、今生に度せずんば、さらに何れの生に向かってか此の身を度せん』との熱烈な求道心に燃え、一分一秒をも惜しんで全身心を坐禅の一行に投げ込まねばならぬ。

 悟りを求めず、迷いを払わず、八万四千の雑念が起滅しても、起滅するに打ち任せて嫌わず追わず、鏡に影の映ると思い、一切を取り合わぬことが肝要である。

 現在自分のしている坐禅がそのまま諸仏の坐禅であって、諸仏の坐禅と自分の坐禅との間に毫髪の隔てなく微塵も優劣がない、これぞこの身ながらの成仏の姿であるとの大自覚を持っていなければならぬ。

坐禅は乾坤宇宙にただ一人の境地にあって徹底自己に親しみ自己を究明することである。名聞利養のためでもなく、霊験果報を願うためでもない。何物かを期待する一切の心を振り捨てた坐禅でなければならぬ。

 坐禅は考えることではない。理屈ではない。自分が自分を自分にする、体あたりの修行である。身をもって実際にやることである。やれば仏と一つになる。誰が坐っても坐禅であり、誰が坐っても仏である。

 坐禅は仏道を覚触することである。覚触とは坐禅の掟に従って姿勢を正して結跏趺坐し、あるいは半跏趺坐し、寸分の隙のない身構えになることである。

 修行そのものが悟りそのものである。形そのものが精神そのものである。態度そのものが道そのものである。

 ただ坐るところに悟りはついている。ただ坐るところに仏道は現前する。ただ黙って坐るところに道がある。ここに只管打坐の道理がある。

 狙いの外れた射撃は、いくら射っても的に当たらぬ。的の外れた坐禅は何十年つづけても仏道とは無関係である。

 坐禅は正気一パイでやるものだ。決してつくりものであってはならぬ。

 坐禅は猛壮でなければならぬ。威風堂々辺りを払うものでなければならぬ。

 坐禅は人に見せびらかすものではない。自分が自分を自分にするものである。自分ぎりの自分である。しみじみと自己になりきることである。

 坐禅をしている時は坐禅の外に自己はない。自分の相はなくなって、そこにあるのは坐禅ばかりである。坐禅ばかりなら仏ばかりである。

 自己は水に映った月影の如く、変わりつめ動きつめである。この瞬間きりの真実は、うっかりすれば見失う。

 禅の修行は現在を充実していくことである。今日を見失わぬ、此処を見失わぬ、今を見失わぬ、自己を見失わぬというように、全生活を一歩の浮き足なしに踏みしめて行くことである。今、此処でたとえ息が切れても少しも悔いのない生活を見つめて行くことである。

 坐禅は自分が徹底透明になることである。天地とブッ続きの自分を見つめることである。天地宇宙の全景を一目に見ることでる。

 本当に自己を掴んで充ち満ちているときは、心気天地の間に充満しているから、臨機応変、一を以て万に当たることが出来る。

 自分の生活が本当に自分自身になっていれば、その時、その処に全自己が露われる。どう動いてもその瞬間の完全がある。

 禅は一方究尽の修行である。その物になり切ることである。一挙手一投足の上に真実の道を体現し、一切時、一切処に於いて全自己を投入してその物になり切る修行である。生活の持ち場持ち場に全身全霊を打ち込むことである。

 自分のコップに水が一杯になっていたのでは、水を注いでもこぼれてしまう。先ずコップを空にして即ち己見、己我を残らず振り捨てて正師の一言一句を余さず洩らさず受け入れる態度がなくてはならぬ。

             安泰寺HP  【坐禅の心構え】 〜澤木興道老師の言葉より〜
                安泰寺HPアドレス http://www.antaiji.dogen.de/index-blau.html

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4)正法眼蔵 八大人覚 の漢文読み下し文と 現代語訳  

   漢文読み下し文は、内山興正 法話集 より          

「八大人覚」はお釈迦様の最後の説法であるとともに、道元禅師・『正法眼蔵』の最後の遺稿である。

『正法眼蔵』「八大人覚」            

  前文

諸仏は是れ大人(だいにん)なり。
大人の覚知する所、所以(ゆえ)(はち)大人(だいにん)(かく)と称するなり。
この法を覚知するは、涅槃の因たり。
我が本師釈迦牟尼仏、入般涅槃(にゅうはつねはん)の夜、最後の所説なり。


一つは少欲。彼の未得の五欲の法の中に於いて、広く追求(ついぐ)せず、名付けて少欲と為す。
(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、(まさ)に知るべし。多欲の人は多く利を求むるが故に、苦悩も亦た多し。
少欲の人は求め無く欲無ければ、則この(うれ)い無し。直ちに少欲すら、尚応(なおまさ)に修習すべし。

何に(いわ)んや小欲の()く諸の功徳を生ずるをや。少欲の人は則ち、諂曲(てんごく)して以って人の意を求むること無し。亦復(また)諸根のために牽かれず。
少欲を行ずる者は、心則ち坦然(たんねん)として憂畏(うい)する所無し。事に触れて(あま)あり。常に足らざること無し。少欲ある者は則ち涅槃有り。是れを少欲と名づく。


二つには知足。巳得(いとく)の法の中において、受取(じゅしゅ)、限りを以てす。称して知足と曰う。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、若し諸の苦悩を脱せんと欲せば、当に知足を観ずべし。知足の法は、則ち是れ富楽安穏(ふらくあんのん)の処なり。知足の人は、地上に()すと(いえど)も、猶ほ、安楽なりと為す。
不知足の者は天堂(てんどう)に処すと雖も、亦た(こころ)(かな)はず。不知足の者は富むと雖も而も貧し。知足の人は貧しと雖も而も富めり。不知足の者は常に五欲の為に()かれて、知足の者の為に憐愍(れんみん)せらる。是れを知足と名づく。


三つには楽寂静(ぎょうじゃくじょう)(もろもろ)憒鬧(かいにょう)を離れ、空閑(くうげん)独処(どくしょ)す。楽寂静と名づく。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、寂静、無為。安楽を求むることを欲せば、まさに憒鬧を離れて独処閑居(どくしょげんご)すべし。静処(じょうしょ)の人は帝釈諸天、共に敬重(きょうじゅう)する所なり。是の故に当に己衆他衆(こしゅたしゅ)を捨てて空閑に独処して苦本を滅せんことを思うべし。若し衆を(なが)ふ者は則ち衆悩(しゅうのう)を受く。(たと)へば大樹の衆鳥(しゅちょう)之に集まれば則ち枯折(こせつ)の患い有るが如し。世間は縛著(ばくじゃく)して衆苦に没す。譬へば老象の泥に溺れて自ら出ずること能はざるが如し。是れを遠離(おんり)と名づく。


四つには勤精進(ごんしょうじん)。諸の善法(ぜんぽう)に於いて、勤修無間(ごんしゅむげん)、故に精進と云う。精にして(まじ)らず、進んで退かず。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、若し勤め、精進すれば、則ち事として(かた)き者無し。是の故に汝等当に勤め精進すべし。(たと)へば少水も常に流るれば、則ち能く石を穿つが如し。若し行者の心数々(しばしば)懈廃(けはい)すれば、譬へば火を()るに未だ熱からずして、而も()めば、火を得んと欲すると雖も、火を得べきこと(かた)きが如し。是れを精進と名づく。


五つには不忘念。亦た守正念(しゅしょうねん)と名づく。法を守って失せず。名づけて正念と為す。亦た不忘念と名づく。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、善知識(ぜんちしき)を求め、善護助(ぜんごじょ)を求むることは、不忘念に如くは無し。若し不忘念有る者は、諸の煩悩の(ぞく)、則ち入ること能はず。是の故に汝等、常に当に念を(おさ)めて、心に()くべし。若し念を失する者は則ち諸の功徳を失す。若し念力堅強(けんごう)なれば五欲の賊中に入ると雖も、為に害せられず。譬へば(よろい)を著て陣に入れば、則ち(おそ)るる所、無きが如し。是れを不忘念と名づく。


六つには修禅定(しゅぜんじょう)。法に住して乱れず、名づけて禅定と曰ふ。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、若し(しん)(おさ)むる者は心則ち定にあり。心、定に在るが故に、能く世間生滅(しょうめつ)法相(ほっそう)を知る。是の故に汝等、常に当に精進して、諸の定を修習すべし。若し、定を得る者は心則ち散ぜず。譬へば水を惜しむの家は善く堤塘(ていとう)を治するが如し。行者も亦た(しか)なり。智慧の水の為の故に善く禅定を修して、漏失(ろしつ)せざらしむ。是を名づけて定と為す。


七つには修智慧。聞思修証を起こすを智慧と為す。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、若し智慧あれば則ち貪著(どんじゃく)無し。常に自ら省察して失すること有らしめざれ。是れ則ち我が法の中に於いて能く解脱(げだつ)を得。若し(しか)らざる者は既に道人に非ず。又白衣(びゃくえ)に非ず。名づくる所なし。実智慧(じつちえ)は則ち是れ老病死海(ろうびょうしかい)を渡る堅牢の船なり。亦た是れ無明黒暗の大明燈(だいみょうとう)なり。一切病者の良薬なり。煩悩の樹を()利斧(りふ)なり。是の故に汝等、当に聞思修の慧を以って而も自ら増益(ぞうやく)すべし。若し人、智慧の(しょう)有れば、是れ肉眼(にくげん)なりと雖も、而も是れ明眼(みょうげん)の人なり。是れを智慧と為す。


八つには不戯論(ふけろん)。証して分別を離るるを不戯論と名づく。実相を究尽(ぐうじん)す、すなわち不戯論なり。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、若し種種の戯論(けろん)あらばその(しん)則ち乱る。復た出家すと雖も、猶ほ未だ脱することを得ず。是の故に比丘、当に急に乱心戯論(らんしんけろん)捨離(しゃり)すべし。もし汝寂滅(じゃくめつ)の楽を得んと欲せば、唯だ当に善く戯論の(わずらい)を滅すべし。是れを不戯論と名づく。

これ八大人覚なり。一一(いちいち)各々八を具す。すなわち六十四あるべし。ひろくするときは無量なるべし。略すれば六十四なり。大師釈尊、最後之説、大乗の教誨(きょうげ)するところなり。二月十五日夜半の極唱(ごくしょう)。これよりのち、さらに説法しましまさず。ついに般涅槃(はつねはん)しまします。

(ほとけ)(のたまわく)はく。汝等比丘、常に当に一心に勤めて出道(しゅつどう)を求むべし。一切世間動不動(どうふどう)の法は、皆是れ敗壊不安(はいえふあん)の相なり。汝等(しばら)く止みね。復た(ものい)ふ勿かれ。時将に過ぎなんと欲す。我滅度(めつど)せんと欲す。是れ我最後の教誨する所なり。このゆゑに如来の弟子は、かならずこれを習学したてまつる。これを修学せず、しらざらんは、仏弟子にあらず。これ如来の正法眼蔵涅槃妙心(ねはんみょうしん)なり。しかあるに、いましらざることはおほく。見聞せることあるものはすくなきは、魔嬈(まにょう)によりてしらざるなり。また宿殖善根(しゅくじきぜんこん)のすくなきもの、きかず、みず。むかし正法(しょうほう)像法(ぞうほう)のあひだは、仏弟子みなこれをしれり。修習し参学しき。いまは千比丘のなかに、一両箇の八大人覚しれる者なし。あわれむべし。澆季(ぎょうり)陵夷(りょうい)、たとふるにものなし。如来の正法、いま大千に流布して、白法いまだ滅せざらんとき、いそぎ習学すべきなり、緩怠なることなかれ。仏法にあいたてまつること無量劫(むりょうごう)にかたし。人身(じんしん)をうることも、またかたし。たとひ人身をうくといへども、三洲(さんしゅう)の人身よし。そのなかに、南洲(なんしゅう)の人身すぐれたり。見仏聞法(けんぶつもんぽう)出家得道(しゅっけとくどう)するゆゑなり。如来の般涅槃よりさきに涅槃にいり、さきだちて死せるともがらは、この八大人覚をきかず、ならはず。いまわれら見聞したてまつり、習学したてまつる、宿殖善根のちからなり。いま習学して生生(しょうじょう)増長(ぞうちょう)し、かならず無上菩提(むじょうぼだい)にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくしてことなることなからん。

  『正法眼蔵』「八大人覚」 建長五年正月六日 永平寺に書す。

                ◇◇◇

以下に、講談社学術文庫(2005/7)増谷文雄 全訳注・正法眼蔵(七)にある「八大人覚」の現代語訳を引用させていただきました。

この増谷本は全8巻からなり、正法眼蔵の原文と現代語訳が対比されています。
ただし前掲の原文は、より解り易い内山興正師の読み下し文を引用させていただいています。

 

<現代語訳>

(釈迦牟尼仏にならって)

もろもろの仏は、とりもなおさず大人(だいにん)である。大人の悟り知るところであるから、これを八大人覚と称するのである。このことをよく悟り知るのが、涅槃のもととなるのである。これは、わが本師なる釈迦牟尼仏が、涅槃に入らせ給うたその夜、最後にあたって説かせ給うたところである。

(少欲について)

一つには少欲である。いまだ得ざる五欲の対象についても、なおひろく追い求めないのを、名づけて少欲というのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。多欲の人は、利を求めることが多いゆえに、苦悩もまたおのずから多い。それに反して、少欲の人は、求めることがなく、欲がないから、おのずからその(うれ)がない。されば、ただ少欲ということだけでも習い修むるに足るのであるが、ましていわんや、少欲はまたよくもろもろの功徳を生ずるにおいておやである。たとえば、少欲の人は、またおのずからにして、人にこび諂ってその意をむかえようとすることがなく、また、いろいろの対象にその心を奪われることもない。あるいはまた、よく少欲を行ずる者は、心おのずから平らかにして、憂え恐るるところがなく、事に触れていつも余裕があり、決して足らざるところがない。詮ずるところ、少欲のうちに蔵すれば、おのずからにして平和な心境がある。これを名づけて少欲というのである」

(知足について)

二つには知足である。すでに得たるもののなかにおいてすら、それを受容するには節度をもってする。これを称して知足というのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに知るがよい。もしもろもろの苦悩を脱しようと思うならば、まさに知足を観ずるがよろしい。けだし、知足ということは、まさしく楽しみゆたかにして心やすらけきところなのである。すなわち、足るを知れる人は、たとい地上に臥すといえども、なお安泰である。それに反して、足るを知らざる者は、たとい天界の殿堂にありといえども、なお心満つることをえないであろう。あるいは、足るを知らざる者は、たとい富めりといえども、しかも貧しい。それに反して、足るるを知る人は、たとい貧しくとも、しかも富んでいるのである。あるいはまた、足るを知らざる者は、いつもさまざまの欲望のために振りまわされていて、ひそかに知足の者のために憐憫(れんびん)せられるのである。これを名づけて知足というのである」

(寂静を楽しむということ)

三つには寂静(じゃくじょう)を楽しむということである。もろもろの騒々しさを離れて、ひとり空閑処(くうげんしょ)に居する。これを寂静を楽しむと称する。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、静寂にして自然なる安楽を得たいと思うならば、まさに雑踏を離れて、ひとり閑かに居するがよい。静処にある人は、帝釈その他もろもろの天神も、また敬重するであろう。されば、まさに、自己につながる人々をも、つながらぬ人々をも捨てて、ひとり空閑処に居して、苦の根本を無くすることを思うがよろしい。これを寂静を楽しむと称する。

もし、衆とともにあることを楽しむならば、またおのずからにして、もろもろの苦悩をも受けねばならぬであろう。たとえば、大樹にもろもろの鳥があつまれば、おのずからまた枯れたり折れたりの煩いがあるようなものである。世間のことに縛られては、もろもろの苦しみに没するばかりである。たとえば、老いたる象が泥中に溺れて、みずから脱出すること能わざるがごとくである。これを名づけて遠離(おんり)という」

(精進を勤めるということ)

四つには精進を勤めることである。もろもろの善きことにおいて、勤め修めて絶ゆることなし。故に精進というのである。精にして混じり気なく、進んで退くことがないのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしよく精進を勤むれば、事おのずからにして難きことはないだろう。だから、なんじらはまさに精進を勤めるがよい。たとえば、少しばかりの水であってもつねに流るれば、ついによく石を穿つであろう。それに反して、もし行者の心が、しばしば怠りすさむようでは、たとえば、火を()ろうとするのに、まだ熟してこないのに止めるようなものである。それでは、火を得たいと思っても、とても火を得ることはできないであろう。これを名づけて精進というのである。」

(不忘念ということ)

五つには不忘念。すなわち常に思念して忘れざることである。それはまた正念を守るともいう。よく教法を守って失わないのである。これを名づけて正念といい、また不忘念というのである。

  仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、善知識を求め、善き助けを求めようとするのであろうが、それには不忘念にまさるものはないであろう。もしよく不忘念を抱くならば、もろもろの煩悩の賊も、ついに入ることを得ないであろう。だから、なんじらはつねに、よく念をおさめて心におくがよろしい。もしその念を失するようなことがあれば、たちまち、もろもろの功徳もまた失われるであろう。それに反して、もし念の力がつよくかつ堅固であれば、五欲の賊のなかにはいっても、ために害せられるようなことはあるまい。それは、たとえば、鎧を著て陣中に入れば、おのずから恐るるところがないようなものである。これを名づけて不忘念というのである」

(禅定を修するということ)

六つには禅定を修することである。法に住して乱れない。これを名づけて禅定というのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし心を内に(おさ)むれば、心はおのずから(じょう)にあるであろう。心が定であるがゆえに、よくこの世間の生滅する存在のありようを知ることができる。だからなんじらは、つねにまさに精進して、もろもろの定を修め習うがよい。もし定を得ることができれば、心はおのずからにして散乱せず。そのさまは、たとえば、よく葺かれた家のごとく、あるいは、よく築かれた堤防のようであろう。そして、この道を行ずる者もまたおなじである。智慧の水のために、よく禅定を修めて、漏らさないようにするがよいのである。これを名づけて定となすのである」

(智慧を修するということ)

七つには智慧を修することである。聞・思・修ならびに証を起こす。これを智慧というのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もし智慧あれば、おのずから貪り執著することがないであろう。だから、つねにみずから省察して、智慧を失わないようにするがよい。さすれば、おのずから、わが教えのなかにおいて、解脱を得るであろう。もしそうでなかったならば、その人はすでにこの道の人ではない。とともに、またただの俗人でもなく、いったい、なんといったらよいのであろうか。まことに智慧は、とりもなおさず、この老・病・死の海を渡る堅牢なる船である。あるいは、無智黒闇の夜における大いなる燈明である。あるいはまた、すべての病める者の良薬であり、煩悩の樹を伐る()き斧といってよい。されば、なんじらは、よく聞・思・修の智慧をもって、みずから利益するがよろしい。もし人、よく智慧のかがやきあらば、たといその眼は肉眼であっても、しかもなお明眼の人ということをうるであろう。これを名づけて智慧というのである」

(不戯論ということ)

八つには不戯論(ふけろん)ということである。悟りをひらいて、分別を離れる。これを不戯論と名づける。一切のあるがままの姿を究めつくす。それがとりもなおさず不戯論なのである。

 仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、もしいろいろとたわむれの議論にふけるならば、その心はおのずからにして乱るるであろう。また出家したからとて、なお解脱を得ることはできまい。だから、比丘たるものは、まさにいそいで、心を乱してたわむれの論議にふけることを離れるがよい。もしなんじが空々寂々のたのしみを得たいと思うならば、ただまさに、たわむれの論議のわざわいをなくするがよい。これを名づけて不戯論というのである」

<結語>

これが八つの八大人覚である。その一つ一つがまたそれぞれ八つを具えているので、とりもなおさず六十四である。さらにそれを拡げていえば、数かぎりないないこととなるが、それを略すれば六十四ということとなる。

それは、大師なる釈尊の最後にお説きになったことで、大乗の所説の至極である。二月十五日の夜半の最後の言葉であって、これよりのちには、もはやなんお説法もあらせられず、ついに大いなる死をとりたもうたのである。

仏は仰せられた。

「なんじら比丘は、まさに一心に勤めて、出離の道を求めるがよい。一切の世間は、動くものも動かざるものも、みな壊れゆくもの、安きことなきもである。では、なんじらしばらく沈黙せよ、物をいってはならない。時まさに至らんとしておる。わたしは逝くであろう。これがわたしの最後の教えである」

この故をもって、如来の弟子たるものは、かならずこれを修学したてまつる。これをまなばず、これを知らなかったならば、それは仏弟子ではない。これこそ如来の正法眼蔵であり、涅槃妙心である。

それなのに、いまでは、これを知らないものがおおく、これを見聞したことのあるものはすくないという。それはもう悪魔のわざのしからしむところというほかあるまい。また、前世に殖えた善根のすくないものも、きくこと、みることをえないであろう。むかし正法(しょうぼう)の時から像法(ぞうぼう)の時にかけては、仏弟子はみなこれを知っていて、修学し、また参学したものである。だが、いまは、千人の比丘のなかに、一人か二人かはこの八大人覚を知ったものがあろうか、それも疑わしいといったところ。悲しいことであるが、世のすえの仏法のおとろえは、譬うべきものもない。だが、いまはなお、如来の正しい教えは、ひろく人々のあいだに流布して、仏法はなお滅したわけではないのであるから、いまこそいそぎこのことを習学すべきである。ぐずぐずしていてはいけない。

そもそも、仏法にめぐり遭うということは、いつの世にあっても、たいへん難しいことである。人身として生まれることがすでに難しい。たとい人身を受けることができても、三洲の人として生まれることができれば幸いである。そのなかでも、南洲(なんしゅう)の人身を受けるのがすぐれている。仏法を見聞し、出家し得道する機会があるからである。だが、如来の大いなる死よりもさきに亡くなった人々は、この八大人覚を聞くことも、習うこともできなかった。それなのに、いまわたしどもは、それを見聞することができ、また習学することができる。これはひとえに、前世に殖えた善根の力によるものにちがいあるまい。いまや、われらは、生々にこれを習学して成長せしめ、かならず最高の悟りに到達し、さらに、これを衆生のために説くこと、釈迦牟尼仏にひとしくしなければならないであろう。

正法眼蔵 八大人覚    建長五年正月六日 永平寺にありて書す。

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                              以上    2006.09.30 

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