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         徒然なるままに


     寄稿者目次 
       1>西川勉氏「優先席に座る勇気」(2005.09.21)  
       2>岡田彬「高齢者とは何歳からか?」(2005.09.23)
     3>三好正幸氏「徒然なる日曜日」(2005.10.11)
       4>西川勉氏「矢吹好生君は智証大師の生れ変わりか?」(2005.11.09)
       5>葉山研二氏「信者って何だろう」 (2005.12.17)
       6>平山和孝氏「今は懐かしき坐禅会での苦い思い出」(2006.01.09)
       7>山本二郎氏「矢吹さんの思い出」 (2006.02.04)
       8>古江幸夫氏 「千の風になって」 (2006.02.25)
       9>清水秀男氏「いたずらに生きず、ひたすらに生きる」(2006.04.03)
      10>宮地威氏 「歩く瞑想」(ティック・ナット・ハン師)の詩を読んで(2006.06.17)
      11>岡田彬「稲葉先生一周忌の墓参」 (2007.01.13)
      12>岡田彬<近況報告>「古希、田舎暮らしと二つの新しい習慣」(2008.07.10)

                                               ホームページTOPへ戻る

1>西川 勉氏より (2005.09.21)

              優先席に座る勇気
 
 今年の干支は乙酉(きのととり)です。昭和20年、太平洋戦争が終結した年は乙酉で60年前です。持って回った言い方をしたが、昭和20年生まれの私は今年還暦になった。
子供の頃は55才が定年で、60才の還暦は大変な老人のイメージだ
ったが、生活水準の向上や医学の進歩或いは定年延長などで今では還暦といっても皆さん若く精神的にも生き生きとしている人が多いし私自身もそうだと思っていました。
 
年令が上がると思いもしないところに体がぶつかるものだ。ガードレールは軽く飛越えられたのに少し引っかかり地面に転がりそうになるのは、かなり早い時期に来る。次は下着を穿く際に最初の足は問題ないが次の足が下着に引っかかり片足でケンケンをする。自分が思うほど足が上がっていないのだが、ケンケンができるから筋力は衰えていないと思って自分を納得をさせる。しかし靴下は座って穿くようになる。

体力については自分に不都合な発想を押えていたが、最近ガツンと年令を思い知らされる事件にあった。

電車で席を生まれて始めて譲られたのだ。大袈裟に言う
程のことではないと思われるでしょうが、譲られた相手がショックだった。私より絶対に年令が上だと思われる人から席を譲られたのだ。若い人なら「ありがとう」で席に座るのだが・・・。私は若い頃から老け顔ではあったが、席を譲ってくれた人よりも老人に見えたかと思うと買った事も無い若く見えるための男性化粧品でも買うか、という気になった。もちろん相手に謝意を表して「どうも・・・(「ありがとう」ではなく)」といって席に座りました。
 
とは言うものの今後は優先席に率先して座るべきかどうかというと今暫くは遠慮する。
では何才になれば或いはどんな状況になれば優先席に座るのか?年令では区切
りにくい。
歩くのに杖が必要になれば当然でしょうが、杖が必要な状況で電車に乗
る事はないでしょう。
となると・・・健康な状況で優先席に座るには勇気がいるな


                             西川 勉 (B-16)
                               平成17年9月 


                               寄稿目次へ

2>岡田彬の投稿(2005.09.23)

        
  高齢者とは何歳からか?

 
西川さんも還暦を迎えられ、電車内で席を譲られる老夫子の貫禄も備わった?こと誠におめでたいことであります。かく言う、私も当年とって67歳となって、時として、自覚年齢(=精神年齢?)と生物年齢とのギャップに悩んでおります。親父の世代は「40、50は、はなたれ小僧」と申しておりましたが、われわれ世代では、少なくとも10歳は上積みする必要がある、まだまだ、と常々慰めております。

 わが国では長寿化と少子化あいまって、急速な高齢化社会の到来が深刻な社会不安となっておりますが、お国の定義で「高齢者」とは一体、幾つなのか調べてみましたところ、「高齢者」とは一般に65歳以上を指し、65歳以上75歳未満を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」というようであります。今月15日現在のホットな統計では、総人口は12,765万人のうち、65歳以上人口は2,556万人(20%)、うち75歳以上の後期高齢者は1,155万人(9%)であるようです。因みに後期高齢者に占める女性比率は63%であります。

 さて、わが国の平均寿命は長く世界一、二を争っておりますが、ご承知のとおり、この平均寿命というのは赤ちゃんを含めての平均余命であります。近年、年間3万人を超えるという自殺者がわが国の平均寿命世界一を危うくしているのでありますが、それはそれとして、高齢世代にとっては、平均余命統計の方が重要かもしれません。そこで、総務省の2005年版・日本の統計で平均余命を調べてみますと、西川さんの60歳では男性は22年弱、女性は27年強となっております。平均寿命は男性78歳、女性85歳であり、その年齢の平均余命は男性9.33年、女性7.95年であります。したがって、平均寿命まで生きた人は、男性は87歳、女性は93歳まで ”平均”して生存するわけであります。めだたいといえばめでたい、深刻といえば深刻な事態であります。

 ことのついでに、高僧の方々の入寂年齢を調べてみました。
お釈迦様は80歳でありましたが、(調べた範囲での)日本の高僧の高齢記録は、親鸞上人90歳、一休禅師88歳、白隠禅師85歳、行基上人82歳、法然上人80歳、鑑真和上76歳でありました。75歳以下は、栄西禅師は75歳、弘法大師(空海)は70歳、伝教大師(最澄)は56歳、道元禅師は54歳、一遍上人51歳でありました。仏僧ではありませんが、孔子は73歳でありました。
 昨年は永平寺78世住職・宮崎奕保禅師が「永平寺の104歳禅師」としてNHKで放映され、有名となりました、般若団例会でもそのビデオを視聴させていただきました。

 鎌倉時代までは、日本人の食事は1日2食であったようでありますが、お釈迦様の時代の出家僧の食事は、午前中に1回だけであったと聞きます、長寿の鍵は栄養価ばかりでもなさそうであります。明治から昭和にかけてのチベット仏教の研究者・河口慧海という方(無文老師も一時、門を叩かれたという)は、古風に習って、一日一食主義であったとのことですが、80歳まで活躍されております。無文老師は88歳で遷化されています。

 諸行無常、諸法無我、まさに寿命いくばくかは知りがたく、統計上の余命も虚しいことであります。今日、明日に寿命が尽きるとも、心身健全に晩節を全うできるか否かこそが課題であります。般若団的に申せば、心身健全の”心”とは、ニルヴァーナ(涅槃の境地)であります。あなかしこ、あなかしこ。

                                            岡田彬(B-10)
                                                  (2005.09.23)

                                                 寄稿目次へ


3>三好正幸より   (2005.10.11)

      徒然なる日曜日

  私の住まいは東京の西の外れの多摩ニュータウンです。
 60歳を過ぎてからの日曜日は近所を散策しながら「のんびり休息」することにしました。

  家内や友人と遊びに行ったり、帰省する日以外にはゆっくり起床し、10時に家を出て夕方5時頃に帰宅します。ほとんどは自宅から3km以内を徘徊します。

  行き先は決めないで、公民館、図書館、公園に立ち寄ったり、喫茶店でコーヒーをじっくりと味わいます。
 杉花粉の時期や雨模様以外にはほとんどの時間を道端の木陰で佇んだり、ベンチ、石の上、芝生の上に座ったり寝そべったりしてすごします。

  持ち歩く本は仕事関係の税務や会社法の本、般若団同窓生の山内君が薦めてくれた内山興正老師の著作やパソコンの本など自宅を出るとき目にとまった本です。

  夏はベンチに座り、響きわたる蝉の声の中でゆっくり、適当なページをめくって眺め、眠くなったら、そのまま居眠りです。鳩のおしっこ、うんちを顔面に受けて飛び起き、1人でくすくす笑いがこみ上げることも! 

 お陰で道端や公園の草木にも親しみを覚えてきました。

 
ことしの春は 
 初春は黄色の花から始まりました。・・・スイセン、万作、土佐みずき、みもざアカシア
 白い花の咲く木は・・・こぶし、白もくれん、山ぼうし、少し遅れて咲く、にせアカシヤも美しかった。
 そしてピンク色した吉野桜、山桜、あんず、桃の花、はなみずき春爛漫のこの季節、家々の周りには家族の笑いが溢れています。
 隣家の藤棚もすばらしい。育てた隣家の親父の自慢話を聞くのもうれしいものです。
 
 ほんとうにこの世は天国のようです。

どうしたら、こんなに美しい形の花が!・・・、色 が!・・・咲くのだろうと思います。

 

初夏は 
 5月になれば「森のシャンデリア」と言われるエゴノキの真っ白な花が満開です。
 鎌倉まで行かなくてもアジサイ(紫陽花)はここかしこに見ることができます。
 遠くから公園のアジサイに見にきた人の「なんだ!これだけか!」との声に「裏山にも、バス停近くにも、駅への道すがらにも一杯あるよ!」と返事したかった。
 農業大学のそばの「ネムの木」にはピンク色した霞のような花が一杯・・・

ほんとうに自然はすばらしい。

菖蒲咲く沼のほとりの小さな池に、今年は鴨はあまり来なかった。 どうしたのだろう。
 
夏は 
 ピンクや白色の百日紅(さるすべり)、こんなに可憐な花なのに、燃えるような太陽のもと、爽やかに咲いています。
 私など、あの太陽のもとに1時間いれば倒れてしまうのに!

 

 韓国の国花と言われる「むくげの花」も可憐な花です。夏の初めから・・・9月末までも爽やかに咲いていました。
 今年も鶯がいつまでもホーホケキョ!でした。茶髪の若者から「どこで鳴いているのだろう」と聞かれたときは嬉しくなり一緒に鶯を探しました。

 

秋の到来です 
 萩の花が咲きました。今年も秋が到来しました。
 百日以上も咲いた「さるすべり」、いよいよお別れです。また来年もよろしく。
 彼岸花も咲き始めた。この花を見るとは何故か分からないが祖父・祖母を思い出す。
 おお、珍しい!唐松を植えている庭がありました。白樺林の公園もあります。若かった頃、子供達を連れて散策した軽井沢の唐松林や白樺林が思い出されます。

 

 春に小さな白い花を一杯をつけた「むらさきしきぶ」が紫色の実を沢山つけています。
 白い実のあるものもある。これが白式部かな?

 11月になったら武道館近くの冬桜が咲き始めるでしょう。 小さな白い桜の花が!

 生きた化石と言われるメタセコイヤ(曙杉)の紅葉もあと2ヶ月で始まるでしょう。
 家内は毎年、このメタセコイヤの紅葉を待っています。
 そのうち、家内に紅葉したメタセコイヤの風景の刺繍を頼もうと思っています。

 曇りの日、雲間の太陽を気にしながら、紅葉した「もみじ」のシャッターチャンスを1日中、覗っていた写真家に今年もきっと会えるでしょう。
                                  以上   三好幸正
                                          (2005.10.11)

                                                寄稿目次へ


4)西川勉氏より  (2005.11.09)

         矢吹好生君は智証大師の生れ変わりか?

 10月29日早朝、国宝「智証大師坐像」を拝観するために東京発の‘のぞみ’に乗り一路京都に向かった。目的地は琵琶湖西岸にある天台寺門宗の総本山、長等山園城寺・別名「三井の晩鐘」で有名な三井寺だ。
 園城寺は686年に建立され天武天皇から「園城寺」の勅額を賜った。俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉(御井)があることに由来している。
「智証大師坐像」は円珍の肖像でありますが、円珍は814年讃岐国に生まれ、母は弘法大師(空海)の姪に当たります。859年園城寺初代長吏となり、868年には延暦寺の天台5世座主に任ぜられました。円珍は園城寺開祖智証大師円珍和尚と呼ばれています。10月29日は智証大師御祥忌法要が修せられ、その後「智証大師坐像」拝観が許される日であります。

 私が何故こんなに「智証大師坐像」に興味を持ったのか?
それは私の親友だった矢吹好生君が智証大師にソックリであることを発見したからです。数年前、偶然「智証大師坐像」の写真を見たとき余りにソックリなので思わず「矢吹・・・」と言ってしまいました。

 矢吹君は私と同じ神戸大学般若団に所属し、共に昭和43年3月に神戸大学を卒業しました。般若団在籍中(私は今もそうですが)は神戸市灘区にある祥竜寺に下宿し日夜一緒に座禅をした仲でした。寺に下宿する前はお互いの下宿先も近く多感な青年時代でもあり、人生・真理についてよく話をしていました。又、彼は一時期、新興宗教にも関心を示していました。

 彼は真面目でおとなしい性格でしたが、一本気なところがあり、こうと決めたらテコでも動かないという強い意志を持っていました。部屋の整理整頓は苦手で摩耶山の中腹にあった彼の下宿の部屋はりんご箱が机代わりで布団は万年床、いろんなものが雑然としており家財道具は一切ありませんでした。
 しかし寺に入って生活するようになってからは熱心に座禅をし、作務もシッカリ行っていました。身の回りもキチンとなり、もしかして僧籍に入るのではないかなと思っていました。大学4年には就職も決まっていたのに僧になることを決意し剃髪しました。

大学の卒業式は墨染めの衣を着て出席しました。経済学士を持った雲水が世に出たわけです。神戸大学般若団に入団する学生は各人それなりに人生について思うところがあって入団するわけですが、在家から僧籍に入った学生は矢吹君のみです。
 卒業後、矢吹君は埼玉県新座市野火止にある平林寺まで神戸から20数日をかけて行脚して行き、平林僧堂で厳しい修行をしていました。 ところが、

 昭和47年6月10日付朝日新聞に「ある若き雲水の生涯」という見出しで矢吹君の記事が大きく報道されました。その記事により彼が昭和46年9月14日横浜市内で交通事故に遭い亡くなった事を知り「そんな馬鹿な!」「何で?」と大きなショックをうけ呆然といたしました。

 その後の長い年月のうちに記憶も薄れておりましたが、「智証大師坐像」の写真を見てからはどうしても矢吹君の供養のためにも御本体を拝観したいと思っていました。しかし仏像は拝観不可となっていたので諦めていましたが、何とかして拝観できないか問合せをしたところ、10月29日は御祥忌法要が修せられ、その後拝観できることを聞き、同日、園城寺・唐院に行き法要に参加し拝観をしました。
 「智証大師坐像」は大師堂の厨子に安置されており像高85cm.の小柄な仏像です。全体を明るい光の下で拝観できたわけではないが、頭の形・顎の張り具合や鼻がよく似ていました。矢吹君が生きていたら智証大師のような立派な老師になったのではないかと思い、彼の夭逝は残念でなりません。
 晩秋の一日、滋賀県大津市の園城寺で智証大師御祥忌法要に参加し、彼に生き写しの智証大師坐像に会えた事はかねてからの思いを叶えることができて大変嬉しく大きな満足を得て東京に帰ってきました。

私も祥龍寺で座禅をしていましたが、彼ほど思いつめる事もなく至極平凡に就職をし現在に至っております。そして今は、矢吹君と祥竜寺で一緒に撮った写真そして智証大師坐像の写真を見比べながら、約40年前の若き日を思い起こし深い感慨に浸っております。

       

             昭和43年 経営学部卒 西川 勉   (2005.11.09

                                              寄稿目次へ


5)葉山研二氏より (2005.12.17)

                     信者って何だろう

今年還暦を迎えて会社も退職し、最近また「在家にとっての宗教とは何なのか?」、学生時代と同じ疑問に遭遇しております。 

 学生時代に般若団に入り今まで禅に接して来てはいますが、お前は禅宗信者かと問われると、「・・・ん・・・」と返事にこまり、「信者とはいえないが、禅寺の雰囲気や坐禅は気持ちが清々しくなって良いと思う。でも家は浄土真宗の檀家です」という程度の返答になってしまいます。もっとも浄土真宗の檀家といってもお寺は九州のお寺で、今までで数回しか伺ったことは有りません。
 両親共に80歳を超え、持病もあったため千葉に引き取ったときまで、九州の家には仏壇が父方と母方と2つありました。母方は妙心寺派と分かっていましたが、父方は父が亡くなり葬儀屋を呼んで宗派を聞かれた時に母に聞いて初めて浄土真宗と知った次第です。母に生前、「死んだとき、葬儀は禅宗と浄土真宗とどちらが良いか」と聞くと浄土真宗のお寺の納骨堂に入るのだから浄土真宗でと言われ、母が亡くなった時も浄土真宗のお寺にお願いしました。


 
両親は仏壇に毎朝お茶とご飯を供えていましたし、お坊さんも時々来られていたので、檀家であるのは間違いなかったのですが、仏教の信者かというと多少疑問で、まして仏教に篤く帰依して信仰があったのかとなるともっと疑問です。小生に至っては浄土真宗の檀家かどうかさえも疑問です。
 
一方、私の妻はクリスチャンで、高校の時にプロテスタントの教会で洗礼を受けたそうですが、有志で住宅を買い取り教会にして韓国人の宣教師の方に牧師をお願いして、日曜の礼拝だけでなく、教会でのイベント開催、ポスターづくり、会報づくり等積極的に活動しており、こちらは間違いなくキリスト教の信者であると思います

昨年親友が亡くなった時、奥さんから主人が今亡くなったが東京に出てきて3年で何もわからないが葬式はどうすればよいかと相談を受け、葬儀屋さんがみな手配してくれるから葬儀屋さんに頼めばよいと伝えたこと、現在も別の友人が癌で闘病生活を送っているのに宗教がなんらそこに関与していないことなどを思いあわせると、僧侶以外の仏教徒で、本当に仏教の信者と呼べる人は日本にどのくらいおられるのだろうかと思うのです。
 地方から出てきている人たちが東京で葬儀を行う場合、葬儀屋さんに実家の宗派を伝え、葬式に来ていただくお坊さんも一緒にお願いしているのが現状かと思います。お布施を包むのも、宗教的な行為というよりサービスに対する対価を払っていると見たほうが妥当なのではと思えます。葬式の為に葬儀屋さんにお坊さんを紹介してもらっている家庭を檀家といえるのか、となると疑問です。檀家でないが信者なのか、信仰があるのか、仏教徒なのかとなるといよいよ疑問です。信仰はしていないが、慣習として葬式や法事はお布施という対価を払ってお坊さんにお願いしているとすると、これは宗教の信者というより単なるサービスの購入者になってしまいます。お寺とお坊さんを支えているのが信者だとすると大多数の日本人は仏教の信者だといえますが何か少し違うような気がします。

学生のころ、林恵鏡老師から本で読むと頭で考えて分かったつもりになって、かえって妨げになる、本は読まずに少しずつでもよいから坐禅をするようにとお教えいただきました。坐禅はほんの少ししか続けられてはおりませんが、老師のお教えに従っていれば信者ということになるのでしょうか。学生時代、般若団機関紙・般若31号で僧と寺のあり方をテーマとして諸老師方や諸先生方に執筆していただきながら、肝心の在家のあり方をお尋ねするのを忘れてしまったのは残念なことです。

ところで退職して家の中を整理していて、高校の時、先生から授業中に薦められて読んで好きだった「菜根譚」が出てきていま再読中ですが、入学直後に坐禅をしてみようかと般若団の坐禅会に参加したのもこの本の影響だったのではないかと思うとともに、勝手な解釈でしょうが、「菜根譚」には仏教の在家の生き方が示されているようにも思えております。                               以上 

                      葉山研二(E−17)(
2005.12.17

                                           寄稿目次へ

6)平山和孝氏より (2006.01.09)

           今は懐かしき坐禅会での苦い思い出

右から3番目(?)の者、立っておれ!直日の雲水さんから厳しい声が飛ぶ。
疲労困憊し、頭がボーとしている私には、それが自分への言葉とは気がつかない、「平山、お前だ。立つんだ。」 向かい側の単で座禅中の和田先輩が大声で教えてくれる。やっと、自分が立てといわれているのだと理解し、恥ずかしさをこらえて単をおり、僧堂内で草履を履いて立つ。

 今も鮮やかにその時の情景が蘇る。昭和47年12月、今から33年前、神戸大学般若団の一員として東福寺の臘八大接心に参加した時の出来事である。あのころは般若団の仕事で忙しく、東福寺の接心会に参加して、ほっと一息、座禅中にうつらうつらしてしまったのでありました。後にも先にも、座禅中に立てと言われたのはこの時だけである。

 こんな情けない、恥ずかしい経験もあったが、学生時代、般若団活動のベースにさせて頂いた祥龍寺、座禅指導を戴いた林恵鏡老師が師家をされていた東福寺、夏の合宿でお世話になった各地の禅寺、また現在も般若団東日本支部が座禅会に参加させていただいている埼玉県騎西町の保寧寺と、禅寺での座禅が私にとっては厳しい中にも、禅の素晴らしさを体感できる貴重な時間となっている。

 このような貴重な体験をさせていただいた神戸大学般若団に感謝するとともに、何とか神戸大学内に現役学生のいる般若団を再興できればと念願していますが、最近の若者の行動をみていると、これは中々むつかしいと思わざるを得ない。
 私も齢54歳、定年も見えてきたこの頃、少しでも煩悩を少なくし、無私無欲の境地に近づき、少しでも世間のお役に立ちたいと願っているが、この煩悩というのが中々厄介な存在、大小様々な煩悩を抱えたまま、さらに馬齢を重ねる事になりそうである。
 「衆生無辺誓願度、煩悩無尽誓願断、法門無量誓願学、仏道無上誓願成」の四句誓願が大乗仏教徒の務めであることは頭では理解しているが、非力で道心薄弱な私には、到底及び難い境地、少しでも近づけるべく「継続」して努力するしかない、と決意を新たにしているこの頃であります。

 さて、岡田先輩のご依頼でこの随筆を書いているところに、葉山先輩から稲葉先生ご逝去の訃報が飛び込みました。(2006年1月8日ご逝去)
 神戸大学経営学部名誉教授であり、般若団の創設者にして、その偉大な指導者でもあられた稲葉先生のご遺徳を偲ぶと共に、先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

                経済学部22回 平山和孝
 (2006.01.09

                                                 寄稿目次へ

7)山本二郎氏より (2006.02.04)

              矢吹さんの思い出

 西川さんの随筆『矢吹好生君は智証大師の生まれ変りか?』(05/11)を読んで、矢吹さんが昭和43年度の卒業と知りました。私も同じ43年(1968年)に卒業し、就職して東京にでてきました。夏の合宿で度お世話になった野火止 平林寺を訪ねたのは、S.45年だったと思いますが定かではありません。志木駅よりバスに乗り平林寺前で降りたとき、山門前で掃除をしている数名の雲水がいました。その中に矢吹さんの姿をみつけました。『矢吹さん』と声をかけると、ちらりと顔をあげて『おー 山本か』との一声だけで、すぐに掃除を続けました。それ以上話かけられる雰囲気にはありませんでした。

 その矢吹さんが亡くなったことを知ったのは、東京で般若団が集まりだしてからゆえ、
さらに10年以上も後のことでした。 また迂闊なことに、菅宗信和尚の著書『馬鹿になりきるの記』のなかに、平林僧堂での修行中に交通事故死した弟子のことが書かれてありましたが、それを矢吹さんと結び付けることはなかったのです。

 矢吹さんの墓が平林寺内にあると知ったのは、小崎和尚のもと睡足軒で座禅会を行ったときでした。その座禅会の終了後に、お墓参りをしたのは
199721日でした。矢吹さんが事故で亡くなってから26年がたっていました。彼のお墓の周りにもたくさんの墓ありました。修行の途中で無念のときを迎えた雲水さんたちのものでしょうか、『出家』の意味を感じるものがありました。

 今度、あの世で、彼にあったときに『矢吹さん』と声をかけると、なんと答えてくれるのでしょうか。


     縁ありて 集いしみなと 墓参り                                                                                           以上

                                 工学部 16回  山本二郎 (2006.02.04)

                                               
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8)古江幸夫氏より (2006.02.25)

                   千の風になって


 サラリーマン稼業を予定より早く切り上げた私は、一昨年4月より家内の実家の家業である建築金物の販売に携わっている。日中はトラックで建築現場に資材を納品するためラジオを聴く機会が多くなった。ニッポン放送を中心に聴いているが、昨年11月、テリー伊藤の「のってけラジオ」(月〜金、13:0015:30)のゲストにテノール歌手の秋川雅史招かれた時、「千の風になって」という歌を耳にした。彼のアルバム「威風堂々」(テイチク)から、この歌が紹介されたのである。心にしみる歌だった。作曲は私と同世代で芥川賞作家の新井満さんであることに驚いた。作詞者は不祥で日本語詞も新井満さんである。歌詞を紹介すると次の通り。


 『 私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません 眠ってなんかいません

   千の風に 千の風になって あの大きな空を吹きわたっています

   秋には光になって 畑にふりそそぐ  冬はダイヤのように きらめく雪になる

   朝は鳥になって あなたを目覚めさせる  夜は星になってあなたを見守る

   私のお墓の前で泣かないで下さい そこに私はいません 死んでなんかいません

   千の風に 千の風になって あの大きな空を吹きわたっています  』



 人は大切な人を失ったとき、大きな喪失感に襲われる。しかし旅立っていった人がいつも自分を見守ってくれていると感じることができたなら、どんなに慰められることだろう。
そんな思いがしみじみと伝わってくる歌である。

さらに本年1月には新井満さん本人が「のってけラジオ」にゲストとして招かれた。
そこでは昨年
12月に発売された
「自由訳 般若心経」(朝日新聞社)について語られていた。

 新井さんは大学一年の時、「般若心経」を教養書として読んだが、心に深く納得したわけではなかった。「般若心経」について新たな発見につながったのは、1994年、「仕事」(冬季オリンピックの総合プロデューサーとしてノルウェーのリレハンメルへの出張)と「家族」(助産婦だった母が危篤で新潟への帰宅)の究極の選択を迫られ、悩んだ末に「家族」を選んだときである。母の葬儀の後、新井さんは母のたんすから文庫本の「般若心経」を発見し、もう一度「般若心経」をひもとく。読み進むうちに「色即是空」「空即是色」には、「世の中には、今あったものがなくなる変化」と「何もないところに何かが生じる変化」の二つがある、それが世の中の実相なのだ、と感じ取った。新井さんの母は、「おぎゃあと言ってこの世に生まれた人間に役割がなくて、この世に生まれる人間は一人もいない」といって生涯、3,000人ほどの命の誕生に立ち会っている。新井さんは、母の13回忌を直近に控え、母の後押しを感じて、母親世代にも中学生にもわかってもらえるよう、映像的にもわかりやすい言葉に置き換えて「自由訳 般若心経」を書き上げた、と語った。そのメッセージは、いただいた命に感謝しながら自分の役割を見出し、その役割を果たそうというものである(ご参考:「般若心経」の訳書では生命科学者である柳澤桂子さんの「生きて死ぬ智慧」(200410月、小学館)もベストセラーになっている、「資料編」の心訳「般若心経」参照方)。

 私の場合、ペットとの神秘的な別れを体験したことが強く印象に残っている。200211月、17年間、家族を癒してくれた雌猫のミミチャンとの別れが訪れた。痩せ衰えてきたミミチャンは、いつもなら自分の指定席で寝ているのに、その日の朝は一番可愛がってくれた長男の枕元にうずくまっていた。起床した長男は水を布に浸して飲ませてあげようとしたが、ミミチャンは飲む力もない。次に私が出社しようとして玄関にいくと、いつの間にかミミチャンが玄関にうずくまっていた。その日の昼、残された6匹の猫に看取られて逝ってしまった。ミミチャンは最後の体力を振り絞って別れの挨拶をしていたんだ、と気づいたときは涙が止まらなかった。


翌年(2003年)4月、妻の強い要望で初めて犬を飼うことになった。その犬はインターネット上で里親を募集していた甲斐犬(ジロー、当時8歳)で、飼主は生活上の理由から飼い続けられなくなり、後一週間待っても里親が現れなければ保健所行きを覚悟していた。甲斐犬は一生を一人の主人にのみ尽くすといわれる狩猟犬で、天然記念物に指定されている。新しい飼主の登場で九死に一生を得たジローは、飼主が交替しても、ひたむきに、いちずに尽くしている。犬は人間の4.5倍のスピードで年を取るといわれる。それだけにジローの生き方は一日一日に重みがあり、より真剣である。妻の手作りの食事をもらうときや散歩・ドライブに連れ出したときのこの上ない喜びあふれる仕草に、私もはまってしまい、今やジローは我が家に欠かせない存在となっている。妻はネット上で知り合った甲斐犬の飼主仲間の協力を得て、「ジロー通信」(http://jiro-tusin.web.infoseek.co.jp/)と題するホームページを開設し、ジローとの日々の生活ぶりを日記風に紹介している。しかしそのジローともいずれ別れのときが訪れる。そのときジローは千の風になって家族を癒してくれることだろう。そして私は「般若心経」をひもとくつもりだ。そのとき「般若心経」からどんなことを感じているだろう。


                               
昭和45年経営学部卒 古江幸夫  2006.02.25


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9)清水秀男氏より
  (2006.04.03)

                  「いたずらに生きず ひたすらに生きる」
                                                            清水秀男

1:龍泉院の山門の掲示板に「いたずらに生きず ひたすらに生きる」の言葉があった。

これを拝読した時、警策で厳しく打たれた感がし、全身に電流が走った。

それは、まさに現在の自分が、全く逆の「いたずらに生き、ひたすらに生きず」そのままの状態にある事にはっと気付かされたからである。

「いたずらに生きている」自分の実態は何であろうかと考えてみると、

@具体的目標なり夢も不十分で、単にだらだらと安易に今迄の延長線上の惰性の生活を続けている情けない自分。

 A今生きている事は当たり前と思っている傲慢な自分。

Bどうせ明日があるのだから今日はこのぐらいでいいのではないかと簡単に妥協してしまっている自分。

C思い通りにならないのはすべて他人が悪いからと他人を責め、自己責任を棚上げに してしまっている自分。

Dすべて自分の要求さえ満たされればいいとしている自己中心主義の自分等々。

これ以外にも数え上げれば数限りない。まさに「いたずら」のオンパレードである。

これで仏法をまがりなりにも学道しているのか。全く慙愧にたえない次第である。

今一度原点に帰り、反省を込めてレビューし、再出発していきたい。

2:「いたずらに生きず」に関し、次の法然上人の言葉を味わいたい。

@『しかるを いま あいがたくして あうことを得たり いたずらに あかしくらして  やみなんこそ かなしけれ』

(生まれ難きこの世に生まれ、有難き仏縁に恵まれて生かされているにもかかわらず、むなしく日々を過ごし続けていることは

  何と嘆かわしいことであろうか)

A法句経182(友松円諦訳)にも次の教えがある。

『ひとの生をうくるはかたく/やがて死すべきものの/いま生命(イノチ)あるはありがた

 し/正法(ミノリ)を耳にするはかたく/諸仏(ミホトケ)の世に出づるもありがたし』

 (人間として生を受ける事は難しく、死ぬべき人々に寿命があるのも難しい事である。

正しい教えを聞くのも難しく、諸々の み仏の出現される事も難しい事である)

 B法然上人の「あいがたくして あうこと」とは法句経182番の4つの有難さ(難しさ)

   イ: 人間に生まれた事の有難さ ロ: 死ぬべきものが生きている事の有難さ 

ハ: 優れた教えを聞く有難さ  ニ: 仏(真理)に出会う事の有難さ

をすべて包含した言葉だと思う。

C父と母、遡れば人間誕生以来の不思議な因縁によりこの世に生を受け、限りある貴重な生を多くの恵みによって

   生かされている事は稀有な事実なんだ。しかしながら、すべ
ての事を当たり前と思う傲慢な心、自分が一番偉いと思う驕り、

   いつ迄もすべてが変ら
ず存在すると思う思い込み等が、真理に目覚める眼を曇らし、むなしい日暮をしているのは

   何と情けなく勿体ないことではないかと釈迦と法然は我々に警鐘を鳴らしている。

3:「ひたすらに生きる」とはどういう生き方であろうか。それは人生の真理を説く仏教の教えに則して忠実に生きる事に尽きると思う。

「学道の人 身心を放下して ひたすら仏法に入るべし」(道元)

そこでその仏法の教えを簡単に振り返って整理してみたい。

1)仏教の教えの要諦(原理論)・・因縁生起の原理

「すべての現象は種々の原因と条件により生じる」。それに基づく眼目は次の三項目。

@すべてものは時間的(諸行無常)にも空間的(諸法無我)にも変化する

Aすべての事は思い通りにならない(一切皆苦)

B苦悩・迷い・執着を脱した所に心の平安がある(涅槃寂静

  2)仏教の教えの実践論・・四つの真実の教え(四諦)と八正道

@苦の実態(苦諦)・・四苦八苦

A苦の原因(集諦)・・煩悩(むさぼり、いかり、おろかさ)

B苦の脱した状態(滅諦)・・涅槃寂静

C苦を脱するに至る道(道諦)・・八正道

   イ:正見・・真理を知る ロ:正思惟・・貪・瞋・痴を離れる

   ハ:正語・・嘘・悪口・中傷等しない、愛語 ニ:正業・・殺生・盗み・不倫等しない

   ホ:正命・・規則正しい生活をする ヘ:正精進・・理想に向って努力する

   ト:正念・・理想・目標を忘れない チ:正定・・心を静め集中する

4:この仏教の教えの中から多くの学ぶべきものがあるが、「すべてものは時間的(諸行無常)にも空間的(諸法無我)にも変化する」から、「ひたすらに生きる」大切さを学びたいと思う。

@諸行無常(時間的側面)・・すべての現象は時々刻々変化し一瞬も静止していない

 A諸法無我(空間的側面)・・すべての現象的存在は永遠不変でなく、固定した性質や状態ではない

 この無常・無我の教えの素晴らしさの一つは、すべては変化するのだから、いつ迄も執着し・こだわっていても無意味である。従って、執着や驕慢心を離れ、謙虚な思いやり深い心が芽生えて来る事。逆にいかなる困難な事も精進し努力さえすれば、目標を実現出来る可能性も拓けて来、暗いと思っていた運命すらも転換出来る事を示してくれる点である。

もう一つは現在の一瞬一瞬は掛け替えのない永遠の今であり、一期一会である。

「明日ありと思ふ心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは」(親鸞)

従って、今、ここにおいて悔いのない様、最善を尽くす必要がある事を教えてくれる点である。まさに釈迦の入滅前の最後の言葉、「もろもろの事象は過ぎ去る。怠ける事なく修行しなさい」は、まさにこの辺りの消息をずばり表現したものと言える。

従って、「ひたすらに生きる」とは、無常・無我の教えを毎日の日常生活において、倦まずたゆまず実践する事だとあらためて思う。

自分がなすべき仕事、自分らしさが発揮出来る仕事を、精魂込めて、工夫をこらし、努力を重ねて、結果を考えず愚直に、一生懸命に行ない、二度と来ない今という瞬間瞬間に全力を傾注して、100%燃焼させていく。そこに自分自身のいのち・精神・人格の高まりがあり、純化があり、輝きがあるのではないだろうか。

「いたずらに生きず ひたすらに生きる」の言葉は、原点に返り、自分自身を見つめ直す有難い絶好の機会となった。

5:最後に今から40年前、私が実社会に出た時、よく歌われていた「若者たち」の歌の中から、

  私の「ひたすらに生きる」糧の一つになっている一節をあげておきたい。

@君の行く道は 果てしなく遠い だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

A君の行く道は 希望へと続く 空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

                                              清水秀男(2006.04.03)  以 上

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10>宮地威氏より  (2006.06.17)

         「歩く瞑想」の詩を読んで

 
清水さんが今月の寄稿文の中で紹介されていたティク・ナット・ハン師「歩く瞑想」の詩は、

最近の私の山登りに共通するものがいろいろ宿っていますね。

 

・ 山登りは、まさに「歩々清風」の心境で、一歩一歩小さな歩幅で無心に登っていく。

 信仰の山々は、昔は[六根清浄・六根清浄」と唱えながら登って行って無心に

 なれたのでしょうが、我々は六根清浄を唱えるほどの宗教心を持ち合わせていないので、

 只黙々と、只一歩一歩何て考えられない。「まだかな、まだあるなあ。」の連続である。

 「もう何時間歩いたから、まだ何時間 歩かなくちゃ」 とか考えていると

 疲労感が一気に押し寄せてくる。 なんか坐禅会の私の坐禅みたい。

・ しかしいろんなことがあっても、いつかは 苦しみも悲しみもみんな消えていきます。

 自然と一体化していく。廻りの可憐な花々に、小鳥の鳴き声に自己没入していく。

・ こうなるともうしめたもの、7時間あろうが8時間あろうが、あっという間に山頂に辿りつく。

 途中樹林の中を歩くことが多く眺望が悪い高山も、山頂付近は、春は雪を被った山々、

 夏は高山植物の花畑、 秋は紅葉に染まった落葉樹と、一気に360度視界が開ける。

 その瞬間 「心のそこからの歓喜」です。これだけの景色を見せつけられると、誰もが

 「生きる喜び」を感じるはずです。苦しければ苦しいほど喜びは倍加する。

・如何に苦しくとも、苦しかったことはすぐ忘れ、素晴らしかったことだけが 記憶に残り、

 だからまた山登りに挑戦したくなる。

千日回峰行とまで行かなくても、単独山行はその極致かもしれません。

・・・ここまで書いてきて改めて、ティク・ナット・ハン師の詩を読んでみました。

  いい詩ですね!

                        ◇ 

 私も、山梨県と長野県の県境に位置する北杜市に引越して来て早1年半になります。

こちらに来るまで山には全然興味を持っていなかった私でした・・・・・。

ところが、この町は日本百名山に囲まれていますので、家から見るだけでなく、逆に

これら山々の頂上に立って家を見てやろう! という闘志が突如として湧いてきて、

年甲斐もなく山登りを始めることになりました。早速、昨年結成されたトレキングクラブ・

北杜に入会し、最近は、すっかり山の魅力に取り憑かれ、寝ても冷めても山山山・・・。

日本百名山だけでも、

 去年は、八ヶ岳・・・権現岳2715m・網笠山2523mと 赤岳2899m・阿弥陀岳2805mに挑戦。

今年は、まずは、6月に鳳凰三山:地蔵岳2764m・観音岳2840m・薬師岳
2780mに、

7月には甲斐駒ヶ岳2966m、8月には金峰山2595m、9月には瑞牆山2230m

10月には甲武信ヶ岳2475mと続きます。来年は、仙丈岳3038m、北岳3192mに挑戦予定です。

これで我が家から見える日本百名山はすべて踏破することになります。

忘れていました、冨士山があります。これは肺摘出後の3年前に行っていますので、これで合計九つですね。

なお、昨秋は木曽駒ヶ岳2956m・宝剣岳2931m、今年の春には
雪渓を辿って常念岳2857mに登りましたので、

これで日本百名山は3年間で11となります。

あと目標は南アルプスに残る間ノ岳3189m,農鳥岳3026m、塩見岳3052mとさらに

北アルプスの諸峰が控えている。そこまで続けられるかしら。

こんなことが出来るのも70歳までの残る5年間でしょうか。

 

私の青春時代は、山登りするような体力もなく、皆が山に行くのを指をくわえて見ているだけでした。

・・・ ところが65歳になって山登りができるなんて夢のようです。

さすが、神様は平等です!!!

 
                         ◇

4月29,30日 春の常念岳登山  難易度★★★★

・(一日目)穂高登山口〜一の沢〜常念乗越〜常念小屋 ・・・歩行時間6時間半

・(二日目)常念岳〜常念乗越〜一の沢〜登山口     ・・・歩行時間6時間半

春山登山は怖い。我らが帰宅した翌日、同じ尾根の北方60km地点の鉢の木岳で

雪崩により三人遭難。生と死は紙一重をつくづく実感しました。

常念小屋から見える槍ヶ岳があまりにも美しかったので、写真を一枚。

     


★ 6月4,5日と憧れの鳳凰三山に登ってきました。 難易度 ★★★★
 (一日目)青木鉱泉〜ドンドコ沢〜鳳凰小屋       ・・・歩行8時間。
 (二日目)地蔵岳〜赤抜沢の頭〜観音岳〜薬師岳〜御座石〜青木鉱泉・・・歩行9時間
 その鳳凰三山の一つ 観音岳の頂上から見た北岳の優雅な英姿です。
 その美しさは言葉では言い表されません。

  写真を添付いたします。
        
   
 
                                    宮地 威 (2006.06.17)
 
〒408-0025
山梨県北杜市長坂町長坂下条1063番地2
TEL&FAX 0551-32-7794
miyachi.takeshi@gmail.com
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11> 岡田彬より (2007.01.13)

        稲葉先生一周忌の墓参

 はやいもので、18日は稲葉先生の一周忌でありました。稲葉家では、前日1月7日、ご長男允様ご自宅に菩提寺・龍渓寺の和尚をお招きして一周忌の法要を営まれるとのことでありました。ご法要へは般若団OB会からご仏前にお花をお届け致しました。

 1月8日には襄山会(ゼミ同窓会)有志15名が千葉県市原市にある菩提寺・曹洞宗安寧山龍渓寺へ墓参しました。般若団OBからは、澤田先輩(9回生)、田村、岡田(10回生)の3名が参加しました。

 龍渓寺(市原市石川)は、JR内房線五井駅から15kmほど内陸に入った丘陵地にある。お寺は室町時代創建とのことで、本堂前の説明札によると、ご本尊の釈迦牟尼仏坐像は像高90cm寄木造り漆仕上げ、寛保2年(1742)の制作とあり、歴史あるお寺である。

 和尚さんの説明によれば、稲葉家は江戸末期に移封されてきた主家に随行してこの地に移住された武家であったが、稲葉先生が生まれられたころは呉服商を営まれていたという。
 稲葉家はこのお寺の檀家総代であって、山門にも稲葉家寄進の銘がありました。本堂の手前に別格と思える立派な稲葉家墓所が新造されておりました。
 当日は温かな快晴日で、お花を手向け和尚さんに読経いただきながら、一人ひとりが参拝、焼香させて頂きました。

稲葉先生の生家が、今は無住となっているがお寺の近くに残っていると教えられ、ご生家付近をも見学して帰りました。

      
     禅 曹洞宗 安寧山 龍渓寺             鐘楼の向こうに本堂(山門より)

       
      お墓、墓前は田村氏                稲葉先生の生家 
                                    広い間口の向こうに大きな蔵が見える

龍渓寺では、昭和48年に総門再建、鐘楼堂、山門復興、本堂大改築、梵鐘再新鋳、庫院再建等を含む大改修工事が行われ、その落慶式には本山総持寺貫首ほか多数の僧侶が参列された。その落慶式で檀家総代として稲葉先生が、『謝辞』を述べられた。その原稿を、般若41号(昭和49年1月25日)の巻頭文として残されている。

 この『謝辞』は、稲葉先生が宗教界への日頃の思いをこめて、力をこめて書き上げられ、お歴々に訴えられた一文であると思います。
このHPの「稲葉先生のメッセージ」(六甲台より 二十三)に収録してあります。
 是非、ご覧ください。

      「稲葉先生のメッセージ」のページ へ
                                               以上   岡田彬 (2007.01.13)

                                                      寄稿目次へ



12> 岡田彬より

      <近況報告> 「古希、田舎暮らしと新しい二つの習慣」

 <近況報告>
      古希、田舎暮らしと新しい二つの習慣

私ごとながら この5月、小生も70歳古希を迎えました。

 世はまさに長寿社会、身辺にも80歳、90歳にしてなお矍鑠たる先輩や親族も多くおられる。 先月、母が95歳で亡くなって葬儀がありましたが、参列頂いた親族の最高齢は97歳の伯母で遠方より参列いただいた、まだ元気に日本画制作を楽しまれているらしい、同じく92歳で参列いただいた叔母は70歳から陶芸を始めて作品集も出版、個展も何度か開き、いまなお創作活動に励んでいる。男性では参列いただいた85歳の縁者は、定年後から水泳に打ち込み、昨年はオーストラリアで開催された年齢層別の世界水泳競技会で金メダルを獲得して帰ったという。 

どこかで見てうろ覚えの禅語に 『生や全なり、死やまた全なり』とあったと記憶しますが、まさしくこのような生き様のことでありましょう

古希70歳なぞ、年寄り番付に入れてもらえるかどうかの「若造」だと安心し、まだまだこれからと意を強くしたことではありますが、とはいえ還暦を現役で迎えた時とは違った感慨があり、記憶力の減退ぶりに大丈夫なのかとつい不安をもち、なんとなく疲れが溜まりやすくなった、などなどと密かな心配事も多いことであります。

諸行無常、“人生の決算期”が一段と近くなったことは否定し難いことであります。

『七十にして迷わず、おのれの欲するところにしたがって則をこえず』と云われた孔子様の不動心の境地には、甚だ道遠しでありますが、「他人の牛を数えるばかり」、「戯論ばかり」の境地からそろそろ抜け出さなくてはと、反省を込めて思うことであります。

 

         *****

昨年の4月初め義母が突然入院して6月末には亡くなってしまいました。享年86歳、すい臓癌が原因でしたが、たいへん元気であったのでまことに思いがけないことでありました。その母の看病のため亀山市(三重県)の家内の実家に来て、この一年そのまま亀山を主な生活地としながら、さいたま(自宅)へも月に数日帰えるという二重生活をしております。 亀山の家はJR亀山駅へ歩けば40分ほどもかかるかなり不便の地にありますが、一人で作業するには十分な広い庭があり、にわか百姓となって野菜つくりや花育てを楽しんでおります。

晴れた日の朝は小鳥のさえずりが賑やかで、その爽やかさが気に入っています。またこの地は山側は鈴鹿国定公園に接し、海側には伊勢志摩国立公園あり、琵琶湖も車一時間足らず、京都・奈良も遠くはない。少し足を伸ばすと手軽に利用できる”天然温泉”がいくつもあります。「随所に主となる」主義の小生は田舎暮らしも悪くないなと、はや順応気分が強いのでありますが、家内はと云うと“都内へ病院通い”しなければならないという難題があり、加えてさいたまの自宅近くに住む三人の孫に会えないことがとりわけ大問題であるので、こちらに引きこもる決心など簡単につきかねる。 さりとて空き家で放置する決心もつかず、というようなことで、定位置定めぬ生活が暫し続きそうであります。


         *****


生活リズムや生活習慣もいろいろと変りました。

最大の生活変化は、雨の日以外は必ず何時間かは戸外に出て、野菜畑や花畑つくりに日々精を出している?ことですが、いま一つは車であります。 実は小生、68歳になって車の免許を取りました。そろそろ70歳で免許返上の歳ごろに果たして免許が貰えるのかと、お伺いしたところ、OKということで、50才違いの若者たちと一緒に自動車学校の講習を受けました。免許は比較的スムースに取れましたが、家内や娘から「免許だけ!」と車の運転には強行な反対を受けていました。しかし田舎へ来て、車無しでは不便この上もなく、「それみろ!」と初めての車を購入しました。「歩くことが健康のもと」という信念は変わらないながら、車の利便の虜になりつつあります、走行距離が最近、漸う5000Kmを超えました。

 このような生活の中で、ほかに実践中のふたつの目新しい習慣があります。ひとつは<写経>、もうひとつは<一日二食主義>の習慣であります。

毎朝、般若心経を写経し、ついで六字名号(南無阿弥陀仏)を10回書き名号を500回以上称える、併せて約90分が最近の朝の課業です。

 写経をはじめたきっかけは、一昨年、保寧寺の坐禅会で般若心経の写経の時間があり、初めて写経を体験しましたが、我ながらあまりの下手くそに恥じ入り、その翌日、一年間毎日写経を励行しようと発願しました。目標の一年は経過しましたが、延長して続けています。先日の母の通夜明けの朝に一日書きぞびれたが、朝が夜になることはあっても、とにかく1日欠かさず続けております。字はあまり上達していません。

 六字名号(南無阿弥陀仏)の方はこの数ヶ月の実践であります。<般若心経>と<南無阿弥陀仏>は自他力信混合して矛盾しているなあ、と思いますが、諸縁への感謝と回向の心をこめて名号を称えます。

<書>が趣味になるかとなると、とてもとても<書>を趣味とする目標をたてる勇気はありません。
読むのも難しい草書の<書>や繊細流麗なかな文字の<書>を観るごと、その奥深さにたじろぐ思いです。目下は、ただ、毎日励行だけが<こだわり>です。 こだわりは新たな煩悩の種になりそうでありますが。

 写経も坐禅と同じだなと思う、雑念去来してなかなか無心で集中できず、600日超続けながら未だによく間違えるのは情けない。 まこと煩悩無尽誓願断であります。

この程度の朝課なぞ ご精進の方からは「それが何だ?」といわれるほどのこと、飾って申せば、百丈和尚の「一日作さざれば、一日食らわず」の「作す」にとても入らないことで、取り立てて「報告」なぞお恥ずかしいが、ボランティアもしない無為徒食生活の罪滅ぼし、自戒の行というところであります。


        *****

 さて、<一日二食主義>の習慣でありますが、昼はうどん・そばを食べることを原則にしているので、<一日一米食主義>でもあります。 こちらは、この2月からの少々不徹底な実践の報告です。


ある経済誌の広告で「食べない健康法」という本の広告を見た。 石原結實(1948年生まれ、医学博士)という著者の本でしたが、書名もキャッチフレーズも面白いので、どんな内容なのか興味をもち本屋で立ち読みしてやろうと、本屋に行ってみますと、この著者はなかなか“売れっ子”のようで、同じ著者の本が何種類も並べられておりました。
立ち読みのつもりでしたが、広告の本を購入して帰りパラパラと読みました。なかなか説得力のある内容で、免疫力強化が課題の家内とともに早速実行することとしました、以下はその報告であります。

 石原博士は、一日一食ないし二食主義を提唱する。

話の要点は、「飽食」が免疫力を低下させている、白血球も飽食状態だと活力を失う、少食(低カロリー食)は免疫力を高め、糖尿病は勿論のこと、癌・アルツハイマー・パーキンソン病・心臓病などなどの発病を抑える、少食(低カロリー食)が筋力を損なうこともない、というのである。
 著者は東京にクリニックと伊豆に保養所(人参ジュースだけを飲んで健康を増進する保養所)を運営しているとのことで、治療成功者からのお礼状が何通も載っていました。

石原式食事は、例えば次のようなメニューである。

 朝:人参とリンゴのジュース1〜2杯

 昼:具だくさんのうどんにネギと七味唐辛子をしっかりふりかける。

 夕:アルコールを含め、何を食べても可    (前掲書109ページ)

  おすすめ:生姜、黒砂糖をいれた紅茶(体を温める、同上117ページ) 

 私がこの説を信用してみようと思ったのは、「飽食が免疫力を低下させている」という分かりやすい理論と、著者は学生時代ウエイトリフティングの選手であったそうだが、長年この食事スタイルを実践していて59歳の今も筋肉質の体つきで100kg、150kg挙げることが出来るという、著者自身による実践、実証でありました。 

 さらに お釈迦様時代には出家者は朝食のみで修行されたという不確かな知識も大きな動機でりました。

このような経緯で、この数ヶ月、前記に例示の食事スタイルを原則として実践しております。つい余分に間食をしたり、厳格さに欠けるが「空腹感こそ健康の源」と信じ続けております。

               ******

  最近の日本の若者は、朝食抜きが当たりまえのようですから、「二食主義」など、珍しくもないということでもあるのかも知れませんが、物心ついてこの方<三食米メシ>が原則でありましたので、コメ飯を一食しか食べない生活は 小生にはたいへんな難行であり、真面目チャレンジなのでありますが、これが本当に健康的食事法か否か、全面的に納得しているわけではありません、いろいろ問題も生じています。

まず、米飯付随の副食惣菜は出る機会が激減して、食事のバラエティーを楽しむ機会も激減することは確かです。 現役時代は長年、飲食企業の運営に携わりながら美食趣味はなかった小生ですが、これでは人生の楽しみを削る愚行なのではなどと、三食米メシ回帰へ煩悩の誘惑に駆られています。

しかしながら、食習慣を変えたことによる効果は驚くほどでありました。
 
体重は1年前より約7kg減って適正体重(58kg/身長163cm)となり、夏服を出して驚いたのですが、腹の贅肉が落ちて「もう履くことはないだろう、いずれ処分せねば」と仕舞い込んでいたウエストが6cmも細いズボンを現役復帰させることが出来ました。体調も悪くはない。これはこの健康法の正しい成果と小生は確信しておりますが、家内は「急にそんなに減るのは不健康、なにか病気ではないか」「早くボケる」と心配し、少々懐疑的であります。

お釈迦様は80歳でなくなられたと聞きますが、出家後の過酷な修行と成道後45年の伝道の旅のご一生を一日一食主義で貫かれたのでありましょうか。日本でもチベット仏教の熱心な研究者であった河口慧海という方は一食主義で、山田無文老師が若き頃この方の下で修行されたが、一食主義には閉口したことを何かに書かれていた。東南アジアの出家者はいまも一食主義であると聞きますが、どのような生活ぶりなのであろうか、もう少し知りたいと思っております。

出家者には、「食欲煩悩」を極力減じて修行に専念するために<一日一食主義>はたいへん有効な生活習慣であったのだな、と体感的によく理解できます。

この食事法が普及するとコメの消費がますます減り、米作農家を苦しめることになるが、地球規模の食料危機が予想される時代には適切な?食スタイルであるのかも知れません。さらに国民の健康が増進され後期高齢者医療費も節減されるのであれば、あだおろそかに出来ない提案であります。

            ******

正直のところ小生自身は、この食習慣を、何ヵ月後も堅持できているかどうか確信が持てませんが、ご興味がありましたら、書店でご覧ください。メタボ対策に有効であることは、実証ずみであります。

 小生が読んだ本は石原結實著「食べない健康法」(東洋経済新報社1300円)ですが、
 同じ著者にほかに次のような本があるようです。
 『「体を温めると」病気は必ず治る』(三笠書房)『「半断食』健康法』(講談社)
 『「一食抜き」健康法』(朝日新聞社)「朝食を抜くと病気にならない」(幻冬舎)

                                  以上 岡田彬(2008.07.10


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