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     リレー随筆 : 
       『日々是好日』

     寄稿者名簿
         
    
(氏名をクリックしてください、随筆トップへジャンプします
       @ 戸田千之氏(経営学部8回、大学院、広島経済大学教授)・
                 シルクロード莫妄想旅行 (2005.06.06)

       A 篠崎恒夫氏(経営学部7回、大学院、小樽商科大学名誉教授、札幌大学教授)
                 経営学と国語教育 *** 対機説法の実践 *** (2005.08.17)

       B 松岡邦哉氏(経営学部 11回、琵琶湖畔「しまい庵」庵主
                 日々是好日 「私のー過去ー現在ーこれから」 (2005.08.19)

       C 国森重彦氏 (経営学部 11回、柳井市白壁の町並みを守る会々長
                 般若団OBの皆様おげんきでしょうか? (2005.09.03)
       
       D 田村敏和氏 (経営学部 10回、産業能率大学常務理事、副学長、教授)
                 「日々是葛藤」 (2005.10.30)

       E 平田英之氏 (経営学部 9回、前スカイアルミ(株)社長、石井鉄工所監査役) 
                「 これから 」

       F 杉本義弘氏 (経営学部 8回)
                「それではお先に・・・」(2006.01.03)

       G 高重啓一氏 (経営学部 8回、前中外製薬(株)人事・総務部門担当取締役)
                「悔いが残らぬよう、自分らしく」(2006.01.27)

       H 澤田俊彦氏 (経営学部 9回 
                     富士通(株)富士通ファナック(株)を経て、現在 (株)大崎 常勤顧問)
                「自然への畏敬」 (2006.03.25)

       I 宮城秀夫氏 (経営学部 10回)
                「 京都・栂尾 高山寺に、 あの警策があった 」(2006.04.01掲載)

       J 宮城秀夫氏 (経営学部 10回)
                「 京都・栂尾 高山寺 再訪の記 」(2006.04.18)

       K 岡田彬 (経営学部 10回)
                「 般若19号編集の思い出 」(2006.04.20)

       L 岡田彬 (経営学部 10回)
                「 石渡君の偉業達成を祝す 」(2007.11.18)



13>岡田彬の寄稿(2007.11.18)

  石渡君の偉業達成を祝す

 このホームページへも何度か寄稿願っている石渡吉彦君から彼の自費印刷の巡礼記「黄檗の古寺巡礼」(其の八)が送られてきた。
その末尾のあとがきに次のように書かれていた。

『年号が平成に変わった年からはじめた私の黄檗古寺巡礼も平成19年に結願することができた。そして「巡礼記」も今回の「其の八」をもって、一応、擱筆することにしたい』と、

氏の18年にわたる多大の労力と費用をかけた偉業の完成に心からお祝いを申し上げたい。


更にあとがきを引用すると、
 『「黄檗宗寺院名簿」には、本山塔頭も含めて461ケ寺の寺院名が記載されているが、このうち、どうしても行き着く事が出来なかった寺は、10ケ寺あまりあるが、これらは「お堂もない荒地で、行っても無駄ですよ」と云われた寺や、交通手段に窮して行く事をあきらめたところや、また、近くまで行きながら探し当てられず、引き返してしまったところもある』
 『しかし、いまは黄檗宗ではないが、嘗ては黄檗禅宗派の寺院であった寺もかなり訪ねていて、〜〜、更に、今は廃寺となってしまっている跡地なども訪ねているので、足かけ18年ほどの間に、索引頁(注)に掲載しているように、結果的には460ケ寺以上の黄檗宗関連寺院とその廃寺跡地を訪ねたことになる』という。
  (注)「索引」によると巡礼した寺院は、北海道、茨城、福井、富山、石川、広島、島根、
          香川、高知、宮崎、鹿児島、沖縄の1道11県を除く全国に広がっている。

 黄檗宗は周知のごとく江戸時代の初めに隠元禅師が日本に伝えられた臨済禅で本山は有名な京都宇治の黄檗山万福寺であります。歴史的には比較的伝来の新しい宗派であります。現在では比較的小派となっているが江戸期に大変隆盛を誇ったという。
この黄檗宗に焦点を絞り、かつその全寺を巡礼するという着眼も流石と思うが、賞すべきは『寺を訪ねながら、そこに残されている歴史を調べて、「巡礼記」に書きとどめ』ようと発心し、一寺一寺の現状写真を載せた8冊もの冊子(注)にまとめたことである。
 
(注)「其の八」は、本文69ページ、表紙、目次、索引など22ページである。
      小生が目にしたほかの冊子も略、同程度のボリュームであった。



黄檗寺院についてのこれだけ網羅的な巡礼記は、黄檗宗の宗人や研究者にも、宗派の寺の現状を知る興味深い資料となったと思われるが、100年先の人々にはさらに価値ある資料となるはずである。後世に残る立派な社会貢献事業になったと思う。

 氏はこの巡礼記のほかに、黄檗寺院の歴史研究論文を黄檗宗本山の研究誌「黄檗文華」へ投稿し採録されている。
また最近は郷土史の研究グループで活躍と聞いております。
この黄檗寺院巡礼についても『今後は廃寺や無住になってしまっている寺院を中心に「巡礼記」を輔筆していくつもり』であると書かれている。

稲葉ゼミのわが同期ながら、現役引退後の人生目標設定にもたついている小生を尻目に、ライフワークを定め着実にすすめてている石渡氏に敬服しつつ、ますますのご奮闘を祈ります。
 願わくば成果の一端をこのHPへも寄稿いただけくようお願いしたい。


蛇足ながら、受け売り知識と思いつき感想をつけさせていただく
 隠元禅師は中国黄檗山の住職で中国黄檗宗の第一人者であった、日本からの渡来僧(長崎興福寺の逸然)の懇請に応じて1654年、禅師63歳のとき弟子二十人をひきつれて長崎へ渡来された。

『江戸期の既存仏教に飽き足らなかった和僧たちが、厳しい戒律を求めるこの新風の禅仏教の下に参集し、一丸となって、貴賎を問わず民衆の中にとけ込んで行き、たとえば村民が小さな集落の中で本尊だけを大切に護ってきていたような荒れ寺を再興したり、大名や武家の庇護により新寺の開創も行って、宗派の広がりに努めた』(前記あとがきより)、1657年からは幕府から扶持米も支給され、当初、禅師は3年の在日の予定されていたというが1661年には京都宇治に黄檗山万福寺を創建して82歳でなくなる(1673年)まで日本で伝道を続けられた。
 隠元禅師は1658年には四代将軍家綱にも謁し、黄檗宗は支配層であった武士階級の帰依者も多く大いに勢いがあったという。
一方で黄檗禅の伝来の時代は、江戸幕府による宗教統制が完成した時代(〜1616諸宗寺院法度、〜1671宗旨人別帖=檀家制度の確立)でもあった。黄檗宗が今は比較的小さな宗派となっているのは、このような伝来のタイミング、時代の巡り合わせも大いに関係があると思われる。

とはいえかって伽藍が甍を連ねたであろう大寺がわずか何百年の間に廃寺となったり、小さなお堂が残るばかりで忘れられて存続するという、まこと無常であります。

                                                            以上

                              10回 岡田彬  (2007.11.18)
                                               目次へ 

12> 岡田彬の寄稿 
(2006.0420)

     団誌「般若」19号編集の思い出

宮城秀夫君(10回)からのリレー随筆は、学生時代の思い出を生き生き蘇らせてくれました。奇しくも、その宮城君の後編原稿が届く前日(4/14)に、13回生の山内庸行さんから般若団々誌「般若」のバックナンバーが届きました。1・2・3号ほか全体で8号分は欠落していましたが、4号から44号までが略そろった貴重なものでした。号は小倉達郎先輩が編集担当され、各号の編集者と団員録(団員寄稿)には懐かしきあるいはおなじみの皆さんの名があります。小生は19号の編集担当でありました。宮城君の思い出話にあやかって、19号にまつわる思い出話を書かせていただきます。

「般若」19号に頂いた寄稿は、巻頭言・稲葉先生、連載寄稿に山田無文老師(当時、花園大学学長)、関雄峰老師(永源寺派管長)および持田閑堂師(甲南禅道場主)の提唱・禅話があり、特別寄稿に祥龍寺の菅宗信和尚、宮田喜代蔵名誉教授、納賀雅文氏、団員録には米村守生(2回)・小野明臣(4回)・篠崎恒夫(7回)・中野智彦(9回)の諸先輩および別役重武君(10回)から寄稿を頂いていました。30ページの小冊子の編集ではありましたが、この19号編集の思い出は、若気の至りその世間知らずは汗顔の極みながら、実に思い出多い経験でありました。

       ◇◇◇    ◇◇◇

<広告取り>は、毎号の編集担当の仕事であったわけですが、あの小冊子を出すには、記憶が曖昧ですが約4万円(2万円だったかも知れない)が必要で、1ページ広告なら2つ、半ページ広告なら4つの広告を集める必要がありました。小生は、松下と日商(株)から夫々1ページ広告を貰いました。松下電器産業の広告取りでは、前の週に松下幸之助さんの自宅へお願い状(手紙)を出しておいて、大阪門真市の本社工場へ出かけました。

工場の門を入ろうとすると守衛に呼び止められました。

   「何の用ですか?」「神戸大学の学生ですが、松下幸之助さんにお会いしたいのです」 

守衛の態度が急に変わって、改めて用件を聞き、すぐ事務所に電話してくれました。「秘書室へ行ってください」と通されました。事務所玄関にも関門がありましたが、今度はすんなり通していただき、応接室へ案内されました。直ぐに秘書室の男性が出てきて、こちらからくだくだ用件を切り出す前に、「お話は、会長から聞いております」と云って、段取りを教えてくれました。「お金は用意していますが、印版(ロゴ)はここにありませんので、営業部で貰ってください。連絡してあります」ということで、何の苦労もなく、広告をいただきました。
  注) 松下幸之助氏はこの年1月に社長を退任し会長となられていた。

 その日のうちに日商本社へも行きました。こちらも前もって出しておいた手紙の効用か、すぐ応接室に通され、先輩の相談役や役員さんが3人も出てこられて、「ゆっくりしてゆきなさい」とお話を伺いました。(何を聞いたのかすっかり忘れましたが、身内扱いの親しさであったことをよく覚えています)
 ラッキーと云おうか、兎に角、広告とりは苦労もなく1日で終わりました。

<原稿取り>では、連載物は宮城君が全面的に協力してくれて、無文老師の提唱テープからの原稿起こしも主として彼がやり、原稿を点検頂くための祥福寺への参上も彼について行ったという感じでした。持田閑堂師の原稿も彼が同行してくれましたので、特段の苦労はありませんでしたが、<稲葉先生>からは、「先輩の納賀雅文氏と川重専務の砂野仁氏に寄稿を頼んで見よ」との特命がありました。この方々と稲葉先生は特段深いお付き合いはないようで、飛び入り取材でありました。

納賀雅文氏>は、神戸高商2回か3回卒業の大先輩で、丸ビルに事務所を構えておられました。当時、有名な大物政治家であった石井光二郎氏(高商2回)の法律顧問のようなことをされていたようでした。東京へ何度か手紙で寄稿依頼を出すのですがお断りばかりでした。稲葉先生のお許しを得て、東京まで出かけて直接お願いしました、しかし、なかなかOKが得られません。「私は書けないが、折角だから石井先生から原稿を貰ってはどうか、先生は忙しい方だから口述されるのを書き取ることになるが」と、盛んに石井光二郎氏に会うことを勧めていただいた。今考えると、お言葉に甘えておけば、“話の種“が増えたことであったのですが、生意気盛りの学生時代のこと、「政治家に興味はない」という気持ちで、お断りして帰って来た。

 納賀先輩は学生時代、布引辺りのお寺で修行されたとのお話であったので、神戸へ帰ってから、布引の滝の写真や神戸高商・初代校長の水島先生の所縁の記念碑、大学構内の写真など撮って、それらを付けてまたお願いし、やっと半ページの小文の寄稿を頂きました。当時は知らなかったのですが、納賀雅文氏はその頃、東京中野の高歩院の鉄舟会(今もあります)の理事長もされていて、知る人ぞ知る方であったのです。

<砂野仁氏>は川崎重工の専務であった。予約を取っては会えないな、という予感があったか、こちらへは、ある日の夕方、アポ無しで直接会社へ押しかけました。神戸にあった本社工場へ行くと、丁度、交代の時間帯で大勢の労働者が門を出入りしていて、それは初めて見る異様な光景でした。守衛が何人もいかめしく立っていて、物々しい雰囲気であった。それでも、来意を守衛さんに告げると事務所に連絡して、中へ入れてくれました。事務所に行くと、専務秘書の女性が「専務は今日は出張していますので、ご用件を伺っておきましょう」と云う、「結構です。また、出直しますから」と云って引き上げました。砂野専務にはその後、直接お会いすることなく、電話でお願いをしましたが、

 「忙しいので新しく書くことは出来ないが、以前、他で掲載したものならあるのだが、・・」
 「掲載済みのものは載せないという方針です」
 「それでは、難しいねー」 ということになって、結局、
砂野仁氏の寄稿はいただけなかった。

砂野氏からは「是非、遊びにきなさい」と云われましたが、これも当時の私には余り興味がわく話ではなかった。
10年以上も経ってから知ったことですが、砂野仁氏はその年(36年)社長になられていますので、あの頃は超多忙であったと思います。後に関西の大物財界人ともなり、勲一等を貰っておられます。


この19号の団員録に、故米村守生先輩(学2回)の「禅塾を作ろう」という檄文があります。

 『我々の団活動は出来るだけ正規の僧堂に起居し、直接に僧堂の規定に従って生活し、師家に従って参学究道する中に、禅の骨髄を体得するように努める事が最も理想的な姿であって、特に参禅に関して、全くの初心者よりなる我々の団活動においてはその活動が野狐にとらわれざるように努めるためにも是非必要であると思われるのである。 ・・・・・ 僧堂の理解ある援助によって、活動の全部を楽々と、僧堂に依存しながら維持することが出来た初期の状況にくらべ、現在の困難な状況は想像するに難くないのである。更に、団の将来の構成員たるべき人々が戦後の自由な教育方針の下に成長した人等であり、放任すれば、安易な方向に進む傾向の大なる事を考慮にいれるならば・・・・・、既に現在に於いても、その萌芽を認めることが出来るのであって、我々団員の中には機関紙を定期的に発行し例会を行い、接心会に参加し、単にその空気に接するのみで、事足れりと考える傾向が全然なしと断言できないふしが見られるからである』(抜粋)
 草創期の先輩たちの心意気が伝わります。まことに今昔の感あり、であります。

 <禅塾=大学の近くに坐禅堂付き寄宿舎>を作る活動の一環として、稲葉先生の命で戸田先輩にお供して、寄付お願いのため出光興産の出光佐三社長を訪ねたのも、懐かしいことであります。

 ◇自宅から出勤される佐三さんに直訴すべく、朝早くから出光邸前で待ち構えていました。新聞を取りに出て来た女中さんを捉まえて、取次ぎを頼んだところ『会社へ来なさい、とのことです』と、アポイントが頂けて、銀座の本社で、かなり長時間、お話を伺った。 ・・・ 残念ながら、予め用意をしてあった“金500万円也”の領収書は使う機会は無かったのですが。

<菅宗信和尚>の原稿は、「祥龍寺の和尚さんに書いてもらいます」と先生にお願いしたような気もしますが、経緯については余り記憶は定かでありません。読み返えして見ますと、和尚がお話されたものを録音し原稿に起こしたもので、少し文脈が繋がらないところがあったりします。そもそも文字で書き聞かせるなど、全くもって和尚の流儀に合わないことで、和尚様には、たいへんご迷惑なことであったことと思います。

 しかし、この一文からは和尚のお話ぶりが彷彿とし、和尚の心も伝わっております。
 なつかしき宗信和尚を偲んでお読みいただければと思い、別頁に転載収録させていただきました。

   クリックください:
     宗信和尚の般若団19号寄稿文(昭和36年3月)へ

  一介の学生の手紙ですぐ手配をして頂いた松下幸之助さん、超ご多忙のところを青二才の話をまじめに聞いていただいた砂野専務や納賀大先輩はたいへんな人格者であったのだと、しばしば思い返すことであります。
「般若」誌の編集も、<稲葉先生>から世間を知るための実地訓練をして頂いていたことがよく解かります。
古きよき、有難い時代でありました。

                        
10回・岡田彬 (2006.04.20)

                                                          目次へ 

11> 宮城秀夫氏より (2006.04.18)

   京都・栂尾 高山寺 再訪の記          宮城秀夫
                                               
     
 先月、高山寺を訪ねて、45年前の坐禅会合宿で、記念の寄せ書きをした警策との思いがけない出会いに感動したことを報告しましたが、あの合宿に参加した石渡、岡両君と語らい、京都の桜の花見をかねて高山寺を再訪する相談がまとまり、4月11日、石渡、岡両君と仲間も加わり高山寺を再訪することとなりました。
 天気がよければ、何処かに立ち寄り花見を楽しむ予定であったのですが、あいにく、4月11日(火)は雨となり、残念ながら、雨中の桜をバスの窓からの散見ばかりとなりました。牧の尾辺りの山つつじが色鮮やかでした。

 高山寺は表参道からはいり、ゆっくり境内を散策しながら石水院に向かう。この日は受付の人は、先月の若い男の人でなくて中年のご婦人でしたので、“あの警策”の話が、直ぐには通じませんでした。
 私が、「あの石水院の裏の倉庫にあるのですが」と言うと、その受付の女性は奥へ引き込み、かわって品にいい老婦人が出てこられて「どうぞお探し下さい。」とお許しいただいた。その老婦人は「神戸大学般若団といいますと、篠崎様がよくお見えになられました」と話されていた。篠崎先生は、多分学会で京都に来られた折、立ち寄られたのだなと想像しました。


 受付の女性と私で、石水院の暗い倉庫の中を手探りでくだんの警策をさがし始めた。先ず私が前回無くなっていた先端部分を、続いて本体部分も見つけました。「全部あったのだ」。 受付の女性が、「張り合わせてきましょう」と持って行ってセロテープ張り合わせ完全なもの仕上げて持ってきてくれました。


 表に「神戸大学般若団 昭和三五年夏季接心会」、3行書きで「8月二七日 二八日 二九日」とあり、裏面に2行書きで各自が署名してありました。

 高田慧穣 篠崎恒夫 山崎忠雄 中野智彦 原 宗弘 岡田 彬 石渡吉彦 橋寺 立 横沢雅信
 真野 脩 戸田千之 澤田俊彦 鳥谷岳志 松永成彬 岡 憲治 田村敏和 宮城秀夫 北尾盛功

 前回、この高山寺合宿を 36年と書きましたが、1年前の35年であったことが判りました。私は、この年は高山寺での2泊して、帰途妙心寺霊雲院でさらに1泊したと思い込んでおりましたので、家に残っておりました霊雲院の坐禅会の写真の日付けが36年8月であったのを見て、つい36年のことと、誤って思い込んでしまいました。訂正いたします。


 警策の写真を撮っていると「どうぞ、お茶を召し上がって下さい。」と茶席に案内されてお茶をご馳走になりました。
いろいろお話を伺っているうちに、私があの折のご住職の名前を思い出し、「私共がお世話になりました時のご住職は、確か小川様と言われ、東大の印度哲学を出られて、長らく五高の教授をされた方でした」と言いますと、かの老婦人が、「それは私の父です。」と答えられ、「ええ」とまたまたびっくりしました。あの合宿では、このご婦人のご両親にお世話になった事になります。お母様には、お寺のお茶の会のご婦人方の応援を得て私たちの食事の用意をして頂き、心のこもったおもてなしを頂いたことを覚えております。


 岡君が、小川住職にはその折、「随処作主 立処皆真」と言う臨済禅師の言葉を引用しての説教であったと覚えていて、その話し方が東北弁風であったというので確認すると岡山出身の方でした。

さらに、お話を聞くうちに、私が最初に声をかけた青年はここで10年以上アルバイトをしている人で、奇しくもわが神戸大学の文学部で印度哲学を勉強していて、今年から大阪大学へ行っているとのことでした。彼も何かの折に、神戸大学般若団というあの警策を見つけて、覚えていてくれたのかなと思いました。前回無くて、今度見つかった警策の先端部分も、その後、彼が探しておいてくれたのかも知れません。

辞するにあたり、「また、般若団のOBが警策を見せて頂きに伺う事があると思います。その折はどうぞよろしく」と申し上げると、「大切に保管しておきます。」といわれました。
 再訪の今回も、また、不思議なご縁を感じた一日でありました。

前回のリレー随筆を読んでいただいた戸田先輩から、早速、心暖まるメールを頂きました。その中で、高田慧穣様が晩年、神戸に戻られ神戸で亡くなられたこと、戸田先輩が慧穣様を病院に見舞われ、合宿でのご指導のお礼を言われたことなど、お知らせいただきました。
 慧穣様には、35年の高山寺坐禅会でも、36年の霊雲院座禅会でもお世話になりましたが、親しみ深いお人柄が、いまも懐かしく思い出されます。
思えば、高田慧穣様とのご縁も、まことに、懐かしく有難いご縁でありました。(おわり)

       
                                   
       

                        平成18年4月15日記 (04.18掲載)

                                                          目次へ 


10> 宮城秀夫氏より (2006.04.01)
  

     京都・栂尾 高山寺に
             あの警策があった                                                        宮城秀夫

 同期の岡田君より般若団関東支部のホームページに学生時代の般若団活動について投稿してほしいとの依頼を受けて、4年生の折、私が幹事役だった般若団の高山寺での合宿を題材に書こうと思い立ち、3月11日、高山寺を訪ねた。

 毎月、参加している京都の歴史講座が、午後2時から京都駅近くであるので、この機会を利用してと、わが家を朝早く出て京都駅前発10時40分のJRバスで高山寺に向かった。高山寺は久しぶりである。

50分程で栂尾に着く、帰りのバスの時間を確認してから100m程高雄寄りに戻り、表参道から高山寺に入る。季節外れなので、参拝客は殆どいない。はじめはゆるやかに登り、真っ直ぐに金堂に向かうとやがて急な石段が続く。合宿の時は、この金堂を座禅道場として使わせて貰った。金堂から右へ緩やかに下り、仏足石を拝み、開山堂から石水院に入る。受付はあるものの誰もいない。「用事のある人は、上の呼び鈴を押して下さい」とある。呼び鈴を押して待つ。その間、長い木札に歌が書いてあるのを読み取ろうとしていて、ふと、あの合宿の最後に、坐禅会で使った警策に各自が名前を書いて高山寺に残してきたことを思い出した。

 しばらくすると、三分刈頭の若い男の人が現れた。参観料を払いながら、「若いころに、こちらで坐禅会をさせていただいて記念に警策に寄せ書きをした思い出があるのですが、神戸大学般若団と書かれた警策が残っておりませんか」と聞いてみた。すると、

 いとも気軽に「ありますよ。どうぞ」と石水院の客間の反対側の倉庫に案内された。5分ほど、「確かここにあった筈だが」とつぶやきながら探してくれました。

「ありました」――― 驚いたことに、あの時の警策が残っていたのです。

 先の方が一部欠けてなくなっていましたがほぼ完全に形で残っていました。


 片面には、「昭和36年夏 合宿 神戸大学般若団」 もう一方の面には、「高田慧穣 篠崎恒夫 戸田千之――――」と当時の参加者の自署が残っていた。私の拙い自署は欠けた部分にあったらしく残念ながら見当たらなかったが、仲間の石渡、岡田、岡の自署は残っていた。昭和36年は1961年であるから、もう45年前の事です、思わぬ警策との再会に感激し興奮しました。石水院にしばらく座って北山杉を眺めていたが警策の事ばかりが頭にありました。


 さて、般若団では、私より一年上の9回生までの先輩には西宮の海清寺で雲水と起居を共にしながら学校に通う厳しい経験をした人が何人かいましたが、私が入団した頃は、阪急六甲駅近くの下宿で3年生、4年生が各3人、6人の般若団員が自炊生活をしていました。

朝6時に起きて、近くの祥竜寺で小一時間程坐禅をして、下宿に帰り朝食をしてから学校へ行く生活でした。祥竜寺の朝の坐禅には、我々6人のほか、近くに下宿する般若団の常連も集まって、三々五々坐禅をしました。( 学校は時々、休んだが、坐禅は毎朝、まじめに通った) 祥竜寺は、いつも春風駘蕩として温厚な人格者であった菅宗信和尚がみえた時代である。

合宿では神戸五宮の祥福寺道場の接心会にも2泊3日程度で参加していたが、先輩たちの時代に比べると、般若団は自主的でマイルドな活動の時期であったと思う。
 4年の夏の合宿を、禅宗の寺でない高山寺で行った。当時の祥福寺の直日、高田慧穣様の指導であった。慧穣さんは、般若団がお世話になっていた祥竜寺の菅宗信和尚のお弟子さんの一人であったご縁によるものでした。
 慧穣さんに案内されて、事前の打ち合わせのためはじめて高山寺を訪れた。

合宿での坐禅に金堂を清掃して使わせて頂くなどの許可をいただき、座禅、作務、食事等の時間割を組んだ。2日間の坐禅会であった。

夜は高山寺中興の祖、明恵上人の「明恵上人樹上座禅像」の画にあやかって境内で線香を持って座禅をした。山内、どこでも好きなところで坐ってよいということであったが、蚊に攻め立てられて多くの者は金堂で坐った、記憶がある。今にして思えば、線香を持っての金堂での坐禅が、よく許されたものである。

お名前は忘れたが、東大印哲出身という学者肌のご住職にいろいろお心遣いをいただき、お昼には懐石料理の振る舞いを受けた。寺の下を流れる川で水浴びをしたのも懐かしい思い出である。
 「あの警策」は、その合宿の打ち上げに皆で書いたものでした。 高山寺は、好きな寺のひとつとなり何回か訪れているが警策と巡りあえたのは今回がはじめてでした。

何か自分の若い時と出会ったような懐かしさと抱きしめてやりたいような可愛さをもった感覚でした。

妙心寺本山境内にある由緒ある寺、霊雲院で坐禅会をさせていただいたのも、慧穣さんのお世話であったと思いますが、確かこの坐禅会であったと思いますが、朝日新聞社が取材に来て、般若団の坐禅会風景が朝日新聞に大きく写真が出たこともありました。
 祥福寺での接心のあと、親しく無文老師のお話を伺いましたが、今にして思えば、なかなか貴重なことでした。
 その高田慧穣さんは、その後、メキシコに渡りメキシコ祥竜寺を建立されて布教にあたられたが、病のため彼の地でなくなられたと聞いております。 (訂正)慧穣さんは神戸の病院で亡くなられたとのことです。(戸田さんより)

明恵上人については、白洲正子著 「明恵上人」(新潮選書)があります。上人ゆかりの寺として、高山寺の外、和歌山湯浅(有田郡)の施無畏寺に、熊野古道中辺路を歩いた折、立ち寄りました。明恵上人は紀伊有田郡金屋の生まれ、8歳で父母と死別された。湯浅は母方の地で、若き日にこの地でも修行されたという、海の景色の美しい所です。 

なお高山寺へのアクセスは、JR京都駅または阪急四条大宮から、JRバス(とがのお・周山行き)で栂尾下車です。

                              以上

平成18年3月11日記 (04.01掲載)

                                                          目次へ 

9> 澤田俊彦氏より 
(2006.03.25)
  

「 自然への畏敬 」

最近、高校時代の同級生より、卒後50周年記念の同窓会の案内状が届いた。

卒業後一度も顔を合わせた(再会した)ことがないクラスメートも多く、物故者も少くないこととて

3月末の会合に出席の回答のハガキを出す。

その校歌に「揖保の流れの水清く…・、山河の幸をあつめたる…・、播磨平野の西のはて、

海原見ゆる高丘の…・」とあるように、私は瀬戸内沿岸の気候温暖な自然に恵まれた土地

幼少時代から高校時代迄を過ごしたせいか、自然を畏敬する思いが強い。

還暦を前にして、これからの人生について、数人の人から問われた時、漠然とではあるが、

自然への畏敬の念からか、自分はナチュラリズム、ナチュラリストをキーワードとして今後を生きて

行きたいと答えたものです。

特に、海,山、川、池、田んぼに恵まれた土地で余暇時間を一日中、これらの自然に溶け込んで

遊び、過ごしたことの思い出が強いことによるものですが、それでは「自然」とはなんだろうか、これ迄の

体験的な漠然とした「自然」だけでなく、科学的にも「自然」というものを分析し、理解を深めてみたいと

思うようになりました。

地球上では、水の循環が生命の誕生および存続の鍵だと考えられています。

海から水蒸気が蒸発し、それが雲になって雨を降らせ、雨水が川になって山から海に流れるという

   自然の循環構造です。

それでは、生命を誕生させ、それを進化させる「自然環境」をもつた地球とはどのようにして誕生し、

進化してきたのでしょうか。

自然や生命の起源を辿ると、地球の起源へ、さらに遡ると宇宙の起源へ繋がることになります。

それでは宇宙の起源はどうなのでしょうか、結論から先にいうと未だ仮説(謎)の段階にあるようです。

有力な仮説としては「ビッグバン」で宇宙ができたという説です。

150億年前〜137億年前に、真っ暗なところに、小さい火の玉があらわれたと思うと、その火の玉は

ぐんぐん大きくなって、突然大爆発したという説です。

あらゆるもの… 物質、エネルギー、時間、空間… がどのようなメカニズムで生まれ出たのかに

ついては未解決です。

宇宙空間は、ほんの豆粒ほどの体積におしこめられ、1028乗・Kと いう高温で、激しく動き回る

光だけからなっており、高温であればあるほどエネルギーも高い。エネルギーが高ければ光の

エネルギーは物質に変わることが出来る。この関係は、1905年に発表されたアインシュタインの

特殊相対性理論の E= m ・cの2乗  という方程式によって結びつけられています。

注)Eはエネルギー、 mは物質の質量、 cは光の速度(30万km/秒)

        

初期の宇宙は大変小さく想像を絶する高温で、その中を光と「物質粒子」が飛びかっていましたが、

火の玉は膨張するにしたがい温度が下がり宇宙の粒子も質量の小さいもの ー 光子、電子、陽電子、

ニュートリノ、中性子、陽子 −が優勢になってきます。さらに温度が下がるとヘリウムの「原子核」が

でき、さらに30万年後に電子と原子核が結合して「原子」(水素、ヘリウム)が誕生します。

そして140億年〜130億年前宇宙のある一角に物質(ガス、チリ)の濃い場所が生じ、数かずの星が

誕生し、爆発しました。多数の銀河の誕生です。爆発した星のかけらは宇宙空間に飛び散り、また集まっ

て新しい星になります。太陽系の誕生です。46億年前物質が一番濃かったところが太陽になり、

そのまわりを水星、金星、「地球」、火星、木星、土星等の9個の惑星がまわるようになりました。

原始地球の誕生です。人は爆発した「星のかけら」でできている、あるいは又生命は星のかけら、宇宙を

構成する「粒子」でできているといわれるゆえんです。

 誕生した時に高温だった原始太陽糸星雲が冷えるにつれて、ガスと分離したチリの微粒子が重力で

引き合いながら成長し、惑星の卵が出来上がり、さらに微惑星は衝突を繰り返しながら成長して行き、

その衝突のエネルギーで温められながら、やがて火の玉のような原始地球が誕生したのです。

このころの地球の表面は1、500度Kを超す高温で、地表の物質はすべて溶けた状態で、又大気は

水蒸気、メタン、一酸化炭素、二酸化炭素などを主成分とする原始的大気を形成していました。

やがて地球や大気が冷えはじめ、水蒸気はどんどん水に凝縮してゆき、大量の雨となって、地球へ

降り注いだのです。かくして約40億年前に陸、海、空の三つの条件が整い、恐ろしくたよりない生命が

海に生まれました。原始生命の誕生です。

太陽の強い紫外線が重要なエネルギー源になって、大気中、海水中で簡単な有機物であるアミノ酸を

作り出し、重合、分離の化学変化を繰り返し、たんぱく質、脂肪、炭水化物、核酸等の複雑な有機化合物

の合成段階を経て、ついに自己増殖能力をもつ原始生命体が生み出されたのです(化学進化)。

 宇宙の生成から、銀河、太陽糸の誕生さらにその惑星としての地球の誕生と生命体の誕生、その

人類への進化の歴史に触れるとき、生物の存在がいかに「偶然と奇蹟的幸運」に恵まれたものであるか

を感じます。

「ヒトの命は自然からの授かりもの、或いは自然からたまたま預ったもの」というこことが感じられ、

自然への感謝の念、自然を大切にする気持ちが生じます。

最近、自然環境の保護が強く叫ばれていますが、自然は保護するだけでなく、ヒトが自然に保護されて

いるのだと考えることが肝要です。

初期の生物は、真性細菌(核無し)⇒古細菌(核あり)・原核生物⇒真核生物(核膜あり)へと進化します。

35億年前に原核生物うまれてから、約15億年かけて20億年前に現在のヒトを含めた生物の祖先になる

真核生物が誕生したのです。 真核生物は核に染色体・遺伝子をおさめ、葉緑体とミトコンドリアを、

取り込み、光合成をおこない、酸素呼吸によりエネルギーを得るようになります。   

これまでは1つの細包だけで生きている単細包生物でしたが、約15億年前に多細包生物へ進化します。

12億年前に動植物の共通の祖先が生まれ、6億年前のカンブリア紀、5億年前のオルドビス紀に

さまざまの高等な多細包生物が出現します。そして4億年前のデポン紀に水から離れて陸上に進出する

生物が現れます。最初に水際の土にコケ、シダ類の植物が上陸します。次いで虫や貝が上陸しました。

さてこの時期、海中の魚類は甲冑魚類から甲骨魚類へ進化して、脊椎動物が誕生し、36000万年前

に上陸します。最古の両生類の誕生です。

その後、動物は、両生類⇒爬虫類⇒鳥類・哺乳類型爬虫類への進化を経て、哺乳類が出現します。

哺乳類は約6000万年前頃から急激に発展を開始し多種多様な種類に枝分かれし、霊長類が現れ

ます。今から3000万年年前に霊長類の中に類人猿が誕生します。地球上の熱帯雨林の縮小という

事態が起こり、これに適応するため樹上の生活から地上での生活に移り、二足歩行をはじめました。

「ヒト」の誕生です。約700500万年前の猿人⇒原人⇒旧人の進化を経て、20万年前に、現在地球上に

65億人が生きている新人(ホモ・サピエンス)が誕生したのです。

  宗教と科学の真理について

 自然の美しさ、その巧妙さに触れるとき、生命科学者柳澤 佳子さんは著作「永遠のなかに生きる」  

   で「私は科学者ですが、科学と宗教は対立するものではなくて、同じ方向をめざしていると思います」

と述べられていますが、共感を覚えます。

哲学者梅原 猛さんは、近代西欧は科学技術で自然を支配しようとする「力の文明」を築き、豊さを手に

入れた。 しかし、そうした文明は限界にあり、自然は悲鳴を上げ、環境破壊という危機が人類の前に

控えている。そんな中で日本人が世界に対して訴えるべきは「自然を畏(おそ)れる心の大切さだ」 と

述べられています。

しかし、森羅万象の自然の仕組みと自然の法則を解明しようとする科学者の方々の偉大な業績、才能、

努力の歴史に触れるとき、自然を支配しようとする意図は感じられません。

その偉大さには敬服し、畏敬するのみです。

宇宙論の歴史にふれてみると、次のようです

ガリレイ(地動説、慣性の法則)⇒ケプラー(惑星の運行法則)⇒ニュートン(万有引力の法則、

 、力学の発展)⇒ホイヘンス(光の波動説)⇒マクスウェル(電磁気学)⇒ポルツマン(熱力学)

⇒プランク(熱放射、エネルギーの粒子説、プランクの量子定数)⇒アインシュタイン(相対性理論、

 重力理論、宇宙論)⇒ボーア(前期量子論)⇒ハイゼンベルク&シェレーディンンガー(量子力学、

 不確定性原理)⇒ホーキング(量子重力論、量子宇宙論、ブラックホールの研究)⇒仮説・超ひ

 理論(量子論+相対性理論+超対称性+ひも)

宇宙では星の誕生と爆発が繰り返され、地球上に降り注いだ星のかけらを構成する分子が

自己増殖するようになったものが生物です。宇宙の粒子の最小単位はクォークです。

生物は、クォーク(6種類・フェルミ粒子)⇒原子核⇒原子⇒分子でできています。

生物はクォークを最小単位として、同じ遺伝子(DNA)システムによって進化してきたものです。

生命の遺伝情報を担う分子であるDNAは、原始の海のなかで「偶然に出現したのです」。

宇宙論の扉を開けたアインシュタインは「自分が生けるものすべての一部だと感じるので、この永遠なる

流れのなかにあるひとりの人間の具体的存在の始まりや終わりなど少しも気にかけません」(人生と死に

   ついて)

又、アインシュタインの宇宙諭を発展させたホーキングは「宇宙がどのようにして始まったかを解

したいという私の望みは、ほぼ達成することができた。しかし、まだ宇宙がなぜ始まったのかと言う答え

を見出していません」、「宇宙からみれば人類の滅亡は、小さな惑星にできた化合物の泡が消えるだけ

のこと。でも孫達に未来があるかどうか、私は憂う」(地球温暖化をめぐって)と語っています。

宇宙の謎の探査について

 天文観測装置(電波望遠鏡、光学望遠鏡)、観測技術(重力レンズ効果)、人工衛星探査機、  

 分析技術(高エネルギー加速機、X線自由電子レーザー、スーパーコンピュター)、顕微鏡(走査

 トンネル顕微鏡)等の発達により、物質の根源、力の根源、生命の根源に迫る宇宙の素粒子

 の解明がどう進展するのか、太陽糸惑星とその衛星、太陽糸外惑星の探査による地球外生命

 の探査などにSF的興味とロマンをそそられます。

     宇宙のはてのそのはては・・・? 万物を支配する根源的真理は・・・?


次を 10回生宮城秀夫君へバトンタッチします。

                  真白き冠雪がひときは映える富士山麓にて

                            平成183月25日

                                  B-9 澤田 俊彦

                                                    目次へ 

8>高重啓一氏より  (2006.01.27)

      悔いが残らぬよう、自分らしく

 昨年の12月、在京稲葉ゼミ同期生で先生のお見舞いに行こうとお嬢さんの家に度々電話をしたが繋がらず、先生にお会いできなかった。その矢先のご不幸で、大きい悔いが残った。
稲葉先生のご葬儀・告別式に参列して、まだ若かりし学生時代の情景が次々に浮かんで来た。

教養課程ではアルバイトに忙しく、勉強しなかったので少しはまじめに勉強をしようと、厳しいと言われていた稲葉ゼミを選んだ事〔結局大した勉強はしなかったけど〕。戸田、杉本、森田君らと西宮の海清寺の寮で過ごした事。4回生の時、海清寺を出て六甲で家を借りて自炊しながら祥龍寺へ通い座禅をしたことなどなど。

いずれも先生の厳しいご指導の下であった。その折の体験がその後の自分の生き方を大きく規制した。本当に得がたい貴重な経験だったと深く感謝しています。

二年前に43年も勤めた会社を卒業しました。
 会社勤めの時は自由な時間はごく短く、スケジュールもほぼ他律的に決まっていましたがこれからは自分で毎日のスケジュールを埋めなければならない、自由とは大変だなあという思いでした。いろいろ考えた末、次の3つを中心に過ごそうと決めました。

1. 囲碁を楽しむ
2. 大学に行く、読書
3. ウオーキング、観音廻り

さて囲碁ですが始めたのは中学時代ですからかなり長いのですがそれから本格的にやった事はなく、たまたま会社の先輩から囲碁のボランテイア組織を紹介され加入しました。

 NPO法人日本福祉囲碁協会で創立25年の歴史と、ボランテイア棋士200名を擁する組織です。囲碁を通じて各地の障害者施設や高齢者ホームを訪問してお相手をします。(いうなれば囲碁の出前です)現在首都圏で約160箇所の施設に訪問しています。小生も3箇所ほど訪問していますが、いろいろ障害を持ち家庭や社会から隔離された孤独な生活をしている人にとっては、僕等と碁を打っている時間が最も楽しい時間のようです。よく打てて勝てたときはハットするような良い笑顔を見せます。またボランテイア棋士にも80歳を過ぎても棋力の衰えない人もいます、囲碁は左脳のみではなく右脳も使うので僕等の歳でも努力如何ではまだ上達します。またお金がかからず時間多消費型の遊びで、その意味では高齢者の趣味としてぴったりです。数年前から凌霜囲碁会にも加入しています。月二回の例会と年一回の宿泊研修会、それに一ツ橋、東京工大と年二回の定期戦をしています。ここ数年は参加者も多く、棋力向上にも大変熱心で、対抗戦はいづれも勝ち越しています。関心のある方は、第二火曜日、第四水曜日、凌霜クラブで例会がありますので是非ご参加下さい。

前々から文学には関心がありましたが3年前から早稲田のエクステンシヨンセミナーに通い始めました。
宮沢賢治、夏目漱石などの講義を受けています。宮沢賢治の講師は原子朗先生で、元早稲田の文学部教授、詩人で花巻にあるイーハートーブ館の館長でもあります。著書も宮沢賢治語彙辞典など沢山あり、賢次の研究者として著名な方です。同期の戸田君と雰囲気、話し方などがそっくりで中々魅力的人物です。小生より一回りも先輩ですがその熱心な講義、気力、体力の充実ぶりに感心しています。年のせいか高齢者やハンデイキャッパーががんばる姿を見ると感動します。
 昨年は漱石も受講しました。漱石作品はいつかはじっくり読もうと思っていましたがこの機会にと主な作品を読み返しました。また幸いなことに、東京には漱石ゆかりの場所が多くあり折に触れて訪れています。

最後のウオーキングですが、会社を卒業するころ突然更年期様の症状が出ました。(ベッドに入ると体の火照り、のどの渇き、鼻づまり、不整脈、息苦しさ、頻尿、不眠などの症状が出る)会社の社外取締役であるドクターに相談すると、日光に当たりながら運動するのが一番良いとのご神託で、考えた末に観音さん廻りをすることにしました。

最初は西武線沿線の秩父34観音から始めましたが秋の秩父路は素晴らしく、すっかり病み付きになり、次に坂東33観音、そして昨年は西国33観音を打ち終わりました〔100観音〕。電車、バスは利用しましたがスケジュールとの兼ね合いでなるべく歩くようにしました。〔その間に更年期様症状はうそのように消え去りました〕秩父は全て日帰りで5日、坂東は一部宿泊で312日、西国は宿泊が主で913日、徒歩距離は約500キロでした。季節の風に吹かれて、来し方行く末を考えながらの一人歩き〔同行二人〕、貴重な時間でした。

 その後、信州の善光寺、北向き観音を打ち、脚下照顧、足元を固めようと武蔵野33観音を打ち、現在は江戸33観音を廻っています。こちらの方は、同期の黒田君、森本君等と名所・旧跡を散りばめながらのウオーキングですが之は之でまことに楽しいものです。今年の春には津軽か奥州33観音を打って200観音となりますので、一応の区切りにしようかと計画しています。

人生は真に諸行無常、何時まで元気でいけるか分りません。それまでは悔いが残らぬよう、自分らしく生きたいと思っています。

次は9回の澤田俊彦さんへバトンタッチします。

                            経営学部 8回 高重啓一 (2006.01.27) 

 (高重氏は中外製薬(株)の人事、総務部門担当役員を最後に、2年前同社を退社されております)

                                                           目次へ 

7>杉本義弘氏より (2006.01.03)

          それではお先に・・・

最近の私は「席もどれ 忘れたことを 思い出す」「テレビ見て 些細なことで涙ぐむ」情況だ。

 何時の頃からか、すぐ感動して涙ぐむ。琴欧州の大関昇進の場面、伝達式の使者への答礼、ブルガリアで両親がひかえめなしぐさであるが心から喜んでいる場面を見てジーンとなる。
闘病生活で気力が失せたいまわの際に、わが子が自分が好きだった夏川りみの「涙そうそう」をテープで必死に聞かせてくれて、その調べに導かれてこの世に生還した人の話を聞き、目頭をうるませたのもつい最近だ。反面、松井秀喜のWBC辞退、「やっぱり・・・」、考え抜いたぎりぎりの解なのだろうが、私の胸には響かない。
 私は、人間の打算を超えた行為と結末に感動しているのだと思っている。そういうことに敏感に感じ易くなったとは、むしろ喜ぶべき現象ではないかと思うことにしている。

 自分は今年古希だ。「パソコンを触る頭もバーコード」の情況だ。
年をとったなあと思う。気分は壮年だが、体力は年相応に老いている。ゴルフの飛距離は落ち、記憶力は衰えている。いつまでも若いと思っていると、すぐ後悔するのではと警戒している。

 残された人生、何を考え、何を、どのようにやればいいのか。悔いが残らない、いやより満足した人生にすべく、さらに考えねばと思いはじめている。自分がやりたいと思うことは勿論、目の前におこる現象に打算をできるだけ排し、人としての生きる道に外れないように精一杯努力していかなければと思っている。
 私はいまだに長年連れ添った家内とろくに旅をしたこともない。そろそろ、まだ訪れたことのない日本のあちこちや、世界の美しい国々への妻との旅行や、更には趣味三昧の生活や、友達との楽しいひと時を満喫するべく、心のおもむくままに精一杯行動し始める時期かもしれない。

それなりの時間と、何よりも健康が必要であるが、目下「年毎に 増える薬と 診察券」の情況だ。
 元気なうちに、精一杯自分が満足できる、感動一杯の生活をしたいと思っている。幸い、やりたいことには事欠かず、自由をもてあますことにはならないだろう。

 人間は生まれながらにして「生病老死」の苦しみを持っている。これからは特に「病老死」にいずれ直面する。しかも「死」は何人も避けられない。私は「ぽっくり」逝きたいと思っているが、望み通りにいく保証は何もない。
「長く苦しむ」ことから逃れる方法、考え方をこれから求めていくことになるのだろうか。
それは、禅宗で言う「無」「空」の心境で生きることなのだろうか。

 三途の河原にはナップザックにハイキングシューズで「それでは一足お先に・・・」の心境でいきたいと考えている。

次は、高重啓一氏にお願いします。

                    経営学部 8回 杉本義弘(2006.01.03                                                                                                                   目次へ 

6>平田英之氏より (2005.12.01)

                      これから

10年ほど前、と言うことは、そろそろ60歳に手が届きそうになった頃から、

 「自分の一生の始末をどうつけたらいいか」

ということを、かなり真剣に考え始めた。
丁度その頃、中野孝次の“清貧の思想”を読んで、共鳴するところが多かった。
そういう中から得た凡その方向性は

「現役を退いたら、自分の生活態様は、出来るだけ簡素にしよう。そして、自分の“死”をめぐって、家族が戸惑うことのないよう、あらかじめ措置しておこう」
ということであった。

リヴィング・ウイル

その手始めに、1997年5月30日、つまり私の60歳の誕生日にリヴィング・ウイル(尊厳死の宣告書)を書いて、妻と二人の娘に手渡した。

ご承知のようにこれは「自分が不治の傷病に冒された場合、いたずらに延命措置を講ずることなく、尊厳死させること」という意思表示である。

この方策は、未だ法的裏付けを持っていないが、運動を支援する協会もでき、社会的にはかなり認知され、それなりの有効性を持っていると思っている。

ただ、これにもひとつ欠点がある。
それは、認知症のように生物的生命が正常な傷病には適用されないということである。

だから、そういう状態にならないように、自分で精進するしかないらしい。
この宣告書は、その後毎年更新している。


遺言

幸いにも、そして当然のことながら、相続問題で家族がもめるような財産は私にはない。
逗子の自宅と、同じ市内の次女のマンションの部分所有権と、若干の預貯金だけである。
それらをどうするかは、折に触れ家族でフランクに話し合ってはいる。

その結果取りあえず5年前、自宅の土地と家屋の半分を妻の名義に切り替えた。
                       (妻に対する私の感謝の気持ちだと、言いたいのだが!?)

だから、あえて“遺言書”を書く必要性は無いのだが、もうひとつ自分の葬儀の出し方の問題がある。

後述するように、この問題に自分なりの結論が出たら、念のために“遺言書”なるものを書いてみたい。


葬儀

11月7日の朝日新聞夕刊によると、日銀理事で森鴎外研究家として著名であった吉野俊彦氏は生前、

「葬儀告別式の一切、絶対に取り止めを請う。喪は火葬の後、発するを可とす。
 これ肉親に言い残すものにして何人の容喙をも許さず」

という遺言を残し、8月12日死去したとき、遺族はその通りにしたという。
立派だと思う。

かねがね私は、自分の葬儀は出来るだけ簡素にしてもらいたいと思っている。
いわゆる“家族葬”のようなものを想定している。

しかしその一方、やはり親しい友人・知人には見送ってもらいたいという気持ちもある。
その狭間で揺れ動いているのが現在の心境である。
手遅れにならない内に結論を出して家族に正式に伝えたいと思っている。


清貧

冒頭、中野孝次の著書に共鳴したと書いた。

この“清貧の思想”は、西行・良寛・光悦・芭蕉・兼好等の生き様を紹介し、“清貧”を勧めた書である。
もともと私にはあまり物欲はない(と、思っている)が、3年前現役を退いたとき改めて、

「以後、物心両面で身辺の贅肉を極力そぎ落としていこう」と心に決めた。

現在の私の日常生活は、ライフワークにしている“松尾芭蕉”との付き合いと、週2回の囲碁会と、週1回のプール通い等を柱に、歩いたり、読んだり、一人旅に出たり、時に上京したりの日々である。
もともと私は“ズボラ”な人間である。だから、“無為”であることにあまり退屈を感じない。ということは、私にとっての“清貧”とは、単に“怠惰”と同義語に過ぎないのかも知れない。

                               おわり 

次のリレー随筆は、杉本義弘先輩にお願いします。

                                      平田英之(B-9                                       (2005.12.01

 <平田英之氏は元昭和電工・株 常務、株・スカイアルミ社長、現在 株・石井鐵工所 監査役>

                                                      目次へ 

5> 田村敏和氏より  (2005.10.30)

       「日々是葛藤」

般若団リレー随筆の御指名を頂きましたが、「日々是好日」という言葉を聞くと、私の場合はどうしても、ちゃんちゃんこを着た好々爺が陽当たりの良い縁側で、盆栽を弄っている光景が浮かんできてしまいます。(「日々是好日」は「平常心是道」とともに有名な禅語でありますが

私の現状は「日々是葛藤」といったところであります。
まして、稲葉先生の薫陶を直接受け、今また、先生ご自身の凄まじいまでの生きざまを目の当たりにしますと、この年令で「日々是好日」などと考える心境には到底なれません。老人になるのは、80才からで十分だと思っています。

とまあ、憎まれ口をたゝいては見ましたが、東日本支部長として般若団OB会の活動を支えてくれている稲葉ゼミ同期随一の論客である岡田君の説得を受け、その上、童顔でいつもニコニコしていた愛すべき後輩の国森君からリレー指名を受けた以上、私にはこれを断ることはできませんので、最近思うこと、近況などについて思いつくまゝに少し述べてみたいと思います.

私は、大学卒業後、野村證券に入社し、約40年間、証券業務の様々な分野に従事してきましたが、20006月の定年と同時に、縁あって、学校法人産業能率大学の常務理事に就き、学校法人の経営を主たる業務とする一方で、大学の副学長として授業科目も少し担当し、学生に教える毎日を送っています。

学生時代、野村時代ともに、簡単には語り尽くせない程多くの貴重な経験をさせて頂いてきましたが、これらの経験が、現在の私の考え方,価値観に深く影響を与えております。

こゝでは、証券業から180度転進した教育機関である大学での5年間を通じ、感じていることに絞って申し述べたいと思います。

最近特に、街を歩いたり、電車の中で、又 新聞・テレビの報道を見ていますと、あまりに無節操な状況の氾濫に腹の立つことが非常に多く、日本はもう駄目になるのではないかとさえ思うことがあります。

必然的に、治安の悪化も懸念されます。
 つい
10日程前、国松孝次元警察庁長官の話を聞く機会がありましたが、同氏の話では現在の我が国の治安の状況についていえば、「数値治安」は平成1415年をピークに悪化傾向に一応の歯止めがかかったが「体感治安」は悪化の一途を辿っている。これは、世界でも例外的なまでに良好な治安を支えてきた日本の社会基盤(文化的均質性・日本人の資質)の脆弱化が治安の悪化を増幅しているということでありました。国民の無関心です。
 これからの最大の課題は、@地域の連帯感、結束力、助け合い精神などの総和としての「地域力」の向上 A組織犯罪への対応力の強化 B国際テロの防圧 の3つであるということでした。

 今や、大学を取りまく経営環境は一段と厳しさを増し、競争激化が進んでいますが、大学に入って、先ず驚いたことは、既に何年も前から人口統計上少子化が進み、18才人口が1992年の205万人をピークに2009年には120万人まで減少し、今や予想より前倒しで2007年にもいわゆる「全入時代」が来ると言われている、にもかゝわらず、今なお、大学の数が増加しているという理解できない状況が続いていることです。
 200551日現在の文部科学省発表の速報値では、大学726校、短期大学480校となっています。)

既に、グローバルな大競争時代を迎えて、変革を続ける産業界に比べれば、かなり遅れてはいますが、我が国の大学制度も半世紀ぶりに歴史的な転換の過程にあり、200211月の学校教育法の改正によって、「事前規制から事後チェックへ」という原則が導入されるとともに、2004年度から教育・研究の質を高めるため、第三者評価をうけることが法律で義務づけられました。
 又、20047月には、私立学校法の改正により、財務情報等の公開も義務づけられました。
いよいよこれから社会のニーズに対応できない、特色を持たない大学を中心に淘汰が進むことになると思います。

 私が奉職している産業能率大学は、約1200校ある日本の大学の中で、学生教育部門(大学院、大学、短大)と社会人教育部門(企業を対象に講師派遣等で人材育成を支援する部門)が、収入面で、ほゞ50%づつというユニークな大学であり、このような大学は他には一つもありませんが、更に、特色を高めていくべく多面的な改革を進めているところです。

経営面、教学面ともに課題はたくさんあり、冒頭に「日々是葛藤」と言いましたが、どんな仕事でも真剣に取り組めば、葛藤があるのは当り前のことで、逆に言えば、葛藤があるということは、一所懸命に仕事をしていることだと思い、生来の楽天性で大いに生き甲斐を感じながら毎日を楽しんでいます。

 ところで、最近、腹が立つことが多く、日本はもう駄目になるのではないかと危惧すると前述いたしましたが、若い学生達と話をしていると、日本もまだまだ捨てたものではないなという確信がわいてきます。

教室で、キャンパスで、又、グランドで学生達と話をしていると、前述のような危惧は、ほとんど感じることはありませんし、多くの学生が、若者らしい活力と好奇心を持ち、身なりだけでは想像できない優しさも持っています。こちらが真剣に話をすると、学生達も真剣にメモを取りながら聴いてくれますし、又、結構厳しい質問もしてきます。

又、バレーボールとかアメフトなどのクラブ活動でリーグ決勝戦やリーグ入れ替え戦などの重要な試合には副学長としてよく応援に行きますが、試合終了後、選手全員が、私の前に集まってきますので、勝った場合、負けた場合それぞれの状況に応じて誉めたり、励ましたりする訳ですが、大事な一戦に負けたときなどは、大男達が悔し泣きし、キャプテン以下主力選手が揃って丸坊主になり、出直しを誓う姿などを見ると、こちらも涙が出そうになるほど嬉しくなり、彼等の為に何か少しでも役に立つことをしてやりたいと本気で考えています。

このように学生達と接していると、ふと、高校時代の漢文で習った孟子の一節「君子に三楽あり、・・・・天下の英才を得てこれを教育するは・・・・」を思い出したりします。
 (この機会に正確に調べ直してみますと、「君子には三つの楽しみがあるが、天下に王となることなどは、その三つのうちにははいらない。三楽の第一は、父母が健在で兄弟に事故がないこと、第二は 心にやましいところがなく、天地に恥じることのないこと、第三は、天下の英才を得てこれを教育すること」ということです。)

 勿論、私は君子でもなく、天下の英才を集めているとも思えませんが、最近、学生達と話をすることがだんだん楽しくなってきていることは事実です。学生達と話をする時は、授業の中であれ、それ以外の場であっても、相手の学生の心の状況を考えて話をするようにしていますが、かつて、何かの本で読んで感銘を受けた言葉をよく思い出します。

 それは、「教えることは希望を語ること」、フランスのストラスブール大学の寮歌の一節だそうです。
人にものごとを教えるといっても、さまざまあります。知識の教育、技芸の伝授、態度の指導、精神の涵養など、多くの領域とそれぞれに適した教え方があるはずですから、こうすればよいとひと言で表現するわけにはいきませんが、たゞ、教える側の姿勢として、これは正に至言であると実感しています。

南カリフォルニア大学の前学長でリーダーシップ研究所創立者のウォーレン・ベニス教授が、米国ゼネラル・エレクトリック社の前CEOジャック・ウェルチ氏を評価して、
「優れた指導者と教師には、一つ欠かせない共通点がある。自分の関心を相手に傾け、相手の気持ちを高めて巻き込む能力である。」
と言われているのも、おそらく、このストラスブール大学の寮歌の一節と通ずるものではないかと思います。

 人間は誰しもそうであると思いますが、特に感受性が鋭く、繊細な神経の持ち主である若い学生達に対しては、自分自身の生の経験にも基づくものや、自分自身が感銘を受け、感激したこと又、自分の信念、夢を情熱をもって語りかけなければ彼等の心に残ることはないと思います。

音楽と勉強の両立に悩む学生には、「音楽を聞いて、美しいと感じるのは、君の感性が美しいからだ」と自信を持たせながら、学生時代ならでわの勉強の大切さを教えたり、いつも、愚痴ばかり言っている学生には、「人は、頻繁に愚痴を言っていると、愚痴の内容どおりの人間になってしまうものだ」ということを教え、間もなく、卒業して社会に出る学生には、「生物社会の掟は、競争と共存、それに少しの我慢だ」ということも教えたり、等々です。

私は、これからも学生達に、たとえ一つでも、永く心に残るものを話していくためにも勉強をしなければと思っています。

私は、先人の言葉で、感激し実行しようと思った名言は数多くありますが、高校生の頃から最も好きな言葉で、常に自分に言いきかせてきたのが、
「天は自ら助くる者を助く」です。このことは今も一層強く思っています。

又、既にご存知の方も多いと思いますが、私は50歳になった頃に初めて知って感銘を受け、それ以来密かに座右の銘にしているものがあります。幕末の儒学者 佐藤一斉の語録で
「少(わか)くして学べば壮にして為すあり 壮にして学べば、老いて衰えず 老いて学べば死して朽ちず」というのがあります。

学ぶというのはたゞ勉強するということだけではなく、体を鍛えることなども含めて、広い意味で努力するということだと思いますが、これは、これからも私自身の大いなる課題であると考えています。

 取り留めの無い駄弁を弄してきましたが、最近の心情の一端を申し述べて、私の役目を終えさせて頂き、バトンをお渡ししたいと思います。

次は、かねてより敬愛する先輩の平田英之さんにお願いしたいと思います。
 平田先輩、澤田先輩はじめ般若団の数人が阪急六甲近くの下宿で自炊しながら同宿し、毎朝欠かさず、朝食前に祥龍寺へ行って坐禅をした、あの神戸大学後半2年間の学生生活は、忘れ得ぬ青春の懐かしき想い出であります。

                               田村敏和2005.10.30

<田村氏(B-10)は、産業能率大学常務理事、同大学副学長、教授、前ジャフコ(株)専務>


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4)国森重彦氏より (2005.09.03)

  般若団OBの皆様お元気でしょうか?

 63年(昭和38年)大学卒業以来、広島、柳井と本州の西端部に引っ込んで当年65歳になりましたが、おかげさまで、元気に、日々充実した毎日を過ごしております。

 私は、3学年の途中から祥龍寺に寄宿させていただきました。祥龍寺では、般若団の一員として毎日座禅、作務は義務としてこなしてきましたが、決して優等生ではありませんでした。修行に励むべき若い寺男のカンさんやホッさんを誘って境内で野球をやったり、夜の街に繰り出したりしていました。特別優れた才能はなく、人並みに小さな悪事はしょっちゅうやってきましたし、卒業後は座禅とは無縁に近い生活を送っておりますが、短くはあったものの祥龍寺での生活は、日々真面目に質素に生活することを学ばせていただき、今も懐かしく思い、たいへん有難い人生勉強であったと感謝しております。

 東洋工業(現マツダ)から合格通知が届いたのも、夏の暑い盛り上半身裸で、祥龍寺で野球に打ち込んでいるときでした。嬉しかったですね。 といいますのは、

特に祖母(明治41年に、江戸期以来の商家に嫁ぎ、家付きの姑に「家」を守る大切さを叩き込まれた人)から、幼い頃より「長男」、「跡継ぎ」と特別扱いを受け、意識づけられてきた私の頭には、いずれは家に帰って老親の面倒を見、家を守らねばならないという義務感がありました。東洋工業は、いざとなれば通勤可能な仕事先ということで選んだ会社であったからです。

入社したマツダも大方の他の会社同様右肩上がりの成長期にあり、楽しく仕事をさせてもらいました。主として海外関係の仕事でしたので出張ベースですがいろいろな国を訪問する機会も与えられました。特にアメリカでは、早々と左ハンドル車の運転に習熟し、出張のたびに自ら運転して、食べ歩きや週末のゴルフ、ドライブを楽しんだものです。

 好事魔多しで、会社がバルブではじけると共に、私自身も体調を崩して、胃がんの手術。社内リストラのあおりを食って、97年に早期退職して柳井に引っ込んだ次第です。

 その当時の柳井の状況はというと、97年に柳井市が我が家のある白壁通りを中心とした「観光振興ビジョン」を打ち出したところでした。
 我が家は、200年以上前・江戸中期の建物だということで、74年に国の重要文化財に指定され、
また周辺地域(今で言う白壁の町並み)も84年に国の重要伝統的建造物郡保存地区に選定されて、地域の修理・修景も終っておりました。


 父は私が退職する前年の96年に亡くなっておりました。父は「国森家住宅」の当主であり、重伝建地区選定のために形成された「柳井市白壁の町並みを守る会」の会長もしておりましたので、地元では私を大変温かく迎えてくれ、先ず請われるままに自治会長に就任し、おだてられて「守る会」の事務局長としてその再発足にあたり、各種イベントを立上げ、継続して今日に至っております。

 57歳での退職でしたので、年金はまだ受け取れず、身過ぎ世過ぎとして、マツダ在職中に取得した中小企業診断士の資格を活かして、生活を維持して参りました。他の士業と異なり、国家資格とはいえ中小企業診断士には業務独占がありませんので、仕事の確保は難しいものがありますが、国・県の中小企業施策を遂行するための仕事が結構あり、8年もやっておりますと選別受注ができるほどになります。また、相応の歳ですので、山口県支部の副支部長も5年目で、会員の世話もやらねばならず、仕事集め、研修会、支部公報の編集などが多々あります。

 特に今年は、二つの臨時の、余分な仕事を抱え込みましたので、多忙に過ごしました。一つは、柳井商工会議所の50周年記念式典・祝賀会の特別委員長になったこと、いまひとつは柳井高校の同窓会総会の実行委員長就任です。

柳井商工会議所の50周年記念式典・祝賀会の方は、日商を始め、近隣商工会議所の代表など、多数の来賓を迎える行事ですので、落ち度があってはならず、実務は事務局がやってくれますが、気疲れのする2ヶ月でした。これに輪をかけたのが、柳井高校の同窓会総会の実行委員長です。商工会議所の場合、会頭、副会頭、専務理事がおりますので責任の分担ができますが、毎年の同窓会総会の成否は実行委員長の双肩にかかります。今年の5月に選ばれてから3ヶ月間、講演会の講師選定、懇親会の余興・二次会の企画、予算、広告集めと、担当者に振った後もそのフォローでくたびれきりました。お陰様で、10年ぶりに400人近い出席者を得て、同窓会長からもお褒めの言葉をいただく盛況となりました。

 いま、反省しておりますのは「断り下手」という点です。決して「安請合い」をしているわけではないのですが、説得力のある「断り」ができない点です。今後この点に気をつけ、もっとゆったりした日常を送れればと思っております。さもないと、胃ではないにしろ別の内臓に、ストレスによるガンがでてこないとも限りませんから。


最後に私の履歴書を略記いたします。
 1940年6月柳井市で生まれ、47年に旧満州より引揚げてすぐ柳井小学校に入学。以後柳井中学校、柳井高校と生粋の柳井っ子として育ちましたが、59年に神戸大学に入学すべく故郷を後にして、88年暮柳井に自宅を建てるまで生活の基盤は柳井市とは離れておりました。柳井に移った後も9年間は毎日4時間弱の往復時間を使って広島に通っておりましたので、柳井っ子に戻ったのは38年ぶりということになります。その間、63年にマツダに入社、67年に社内恋愛で現在の家内と結婚し、娘―息子―娘の3人の子を育て、現在孫1人というところです。家庭的悩みといえば、31歳になる息子がまだ独身で、国森家10代目となる跡継ぎの目処が立っていないことです。

 とりとめもない話を書き連ねましたが、こういう状態で、何とか高齢期のスタートを忙しく過ごしておりますので、他事ながらご安心ください。

次は、僅かの間でしたが祥龍寺でご一緒に過ごし、いろいろお世話・ご教示をいただいた、1年先輩(10回)の田村敏和様の近況をお伺いしたく、バトンタッチさせていただきます。

                       11回 國森重彦      
200593日)     
 
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3) 松岡邦哉氏より ( 2005.08.19)

  日々是好日
    「私の−過去−現在−これから」

<過去>

私が神戸大学での4年間の学生生活(後半の2年半は、菅宗信和尚のおられる竜寺での生活でありましたが)を終えたのは1963年(昭和38年)の春でありました。あまり真面目な、学生でも、修行者でもなかったなとの思いの中、友との別れを惜しみつつ、あの懐かしい六甲台の坂道を下りました。

就職した関西の家電メーカーの出先、新潟の地が「サラリーマン」としてのスタートでありました。

社会人としての見習い期間と新婚生活、それに続く3人の子供の誕生、その当時の気持ちは、「平凡な幸せな家庭を築いていく」事しかなかった。およそ、大望など持つ事も無く、ただ自分の納得する仕事に励みました。

73
年広島に転勤、営業責任者としての管理職となりました。

4年の後、今度は東京への転勤辞令が出ました。―東京は嫌い、東京の販売体制は劣悪と、東京への転勤は断り続けていたのですが、ついに東京勤務につかざるを得なくなりました。修羅場としてのサラリーマン生活の始まりでした。

大東京での営業活動は激務でした。東京では5年間、営業および物流の大改革に取り組みました。その事が評価され、83年に本社営業本部に営業責任者として招集されました。

そこは更なる修羅場の連続でした。

当時、私の担当の家電部門の売り上げは、月商1000億、年間12千億でした。

関係先は、52事業部、64販社。制度・政策の立案、事業計画の作成とその遂行、事業部との商品政策、価格政策のすり合わせ、全国の販社、有力店の訪問、30名の部員と共に、自分が「息」をしている事さえ忘れているような、日々の連続でした。

創業以来続く制度政策の改革、全社の売り上げを支える為の、売り上げの積み上げ、まさに戦場でした。

ある年のクリスマスイブに夕食の時、女房から「今日は5日目ですね」と言われ、
「何が?」、「ウイークデイに、家で夕食をするのが」、子供達の前でのこんな会話に、いまの生活が、かって抱いた「平凡に暮らしたい」との思いと程遠い事に愕然としました。
ストレスの連続で、神経性下痢、胃潰瘍、最後には顔面麻痺にまでなりました。


私はその当時、何時も「何が正しいか」という1点を考え、戦い続けていました。

卒業後も、学生時代に東福寺の「林恵鏡老師」から戴いた公案「両掌相打って音有り、隻手音声」は「公案」を解くと言うより、常に考えていました。−公案は頭で考えるものではない、という事はわかっていましたが−。

私は、ある時点から、私なりの勝手な解釈をし始めました。

二つの掌の音は相対的な音だ、1つの掌から発する音は絶対的な音だ。

すなわち、この社会のほとんど全ての課題の解決は、「これか」、「あれか」の相対の中からの答えの取り出しであり、そうではなく、絶対的な真理を求めなければならない。「何が正しいか」、「本当の真理」を見つけ出さねばならない。

常に多くの課題を抱え、日々いろんな人とその課題解決に取り組む時、安易な「それよりは、これのほうが良いのでは」「中を取って」といった、相対的な解決では、常にその場しのぎのもので、真の解決にならない。 「何が正しいか」、「本当の真理」は何なのかを私は判断基準としました。頑固だ、強引だ、と言われようと、その点は、決して妥協をしませんでした。

7
年間の営業本部での仕事を終え、其の後、事業部長、関連会社の役員、トップをとなりましたが、「何が正しいか」、「本当の真理」は何か?―その思いのまま、勤め上げました。

20002月定年式の後、人事担当の副社長に呼ばれ、
「君は、定年後仕事を続ける気持ちは無い、と聞いているが、何処も紹介しなくて良いのか」と聞かれました。

「結構です」
   「ご苦労さんでした」
   「お世話になりました」

一つの時代、現役の人生、「過去」が終わりました。



<そして現在>

2000
年定年退職の後、定年後の人を対象の「ネット事業」を立ち上げるので手伝って欲しいと頼まれ、自分の事でもあるし、と思い、2年間お手伝いしました。
2001
年、全ての仕事から全く離れ、「毎日が日曜日」「年金生活者」の気楽な毎日を送り始めました。

ところが、私が暇になったとたん、多方面の方々から、「もっと働け」「人間生きてる間は社会に貢献するもんだ」、と周りが、かしましくなり、私も体は元気だし、時に、おだてられ「スケベ根性」も出てきたりしました。当時は、大阪千里(万博公園の近く)に住んでおり、伊丹も、新大阪も近く、ウイークデーだけなら東京ででも、働けるかもしれない、とも考える事もありました。そんな時には、必ず、もう一つの私が現れ、「お前、まだ、現役の頃のように、体と神経をすり減らしたいのか」と声が有り、しばし、迷う事も有りました。

そんな折、新聞広告に、「琵琶湖畔の田舎家」はいかが、と有り、その日のうちに見学に行き、あまりに私達の望む条件にぴったりの物件であり、即決しました。
立地、物件の良さと、田舎へ引っ込めば、自分の迷いもなくなるし、もうあきらめて、誘う人も居なくなるだろうと思ったからです。


昨年4月、大阪の家を引き払って、ここ琵琶湖畔に引っ越してきました。
 琵琶湖畔の東岸にあり、湖畔から100m位の所に位置し、琵琶湖をはさんで、比叡山、坂本の町が見られます。120戸の集落の端にあり、「瓦葺2階建」の家で、辺りは、一面田んぼと、内湖に囲まれた所です。庭には、30数本の果樹を植え、近くに100坪強の畑を借りほとんど毎日、野菜作りに励み始めました。

そんな折、図書館で「楽隠居の勧め」という本を見つけました。

江戸時代の俳諧師、横井也有(尾張藩の要職を務め、寺社奉行を最後に55歳で隠遁生活に入り俳諧を主に「自由人」として82歳まで生きた人)の「鶉衣」の俳文。 その中に
     「四角なる浮世の蚊屋はしまひけり」とあり
そんな、環境と気持ちの中で、「晴耕雨読」「悠々自適」の生活を、女房と愛犬二匹で一年半を送っております。



<これからの生きかた>

この地、琵琶湖畔は、琵琶湖、内湖、を含め、広々とした、田園風景が続き、我が志那町120戸の周囲にも、大きな「瓦葺の家」が点在し、まさに、「街道を行く」のなかで、司馬遼太郎が「豊穣の国近江」と書いたように、豊かで、落ち着いた地の真只中で、静かな毎日を送っています。

日の出、日の入りに見る「太陽」、雨上がりの琵琶湖にかかる「虹」、こんなに大きく、美しいものだったかと、驚きをもって見つめています。

年に数回の湯治を兼ねた旅行の他は、朝6時前後に起きて、自ら作る「特性ジュース」を飲み、二匹の愛犬と散歩に出かけ、朝食の後は、「畑」に出かけ、幅1.5m、長さ10mの畝、24本を耕し、春夏秋冬の適した野菜を植え、育て、収穫した物は自家消費以外は、子供や兄弟の元へ、中身より高い費用の「宅急便」で送っています。

畑仕事は、朝夕の涼しい時間に3〜5時間で、楽しくやれる時間のみに限定し、無理をしないようにしています。昼間や夜は、読書や、好きな野球のTVを楽しんでいます。
おそらく、この暮らしが一生、死ぬまで続いていくと思います。

ただ、「少子高齢者社会」のなかで、まだ若い高齢者である者として「自分さえ幸せ」なら良いのかな? 「人はこの世に生を得たら死ぬまで、世の為、人の為、働き続けるのが人の道だ」という道理は全くその通りなので、私の平穏な気持ちの中では、少々厄介な問題です。

勿論、今更「実業の世界」に戻る積りもないし、喩え戻っても、邪魔になるだけで、何のお役にも立たない事はわかっています。
何時も使っている、パソコンのネットで「貢献?」も単に「お節介」になるだけだと思います。取りあえず、来週日曜日に、誘われている「村の道路修理作業」に参加し、少しでも、地域に貢献できる事から、始めようと思っています。

「老人は人に迷惑をかけない」、「自分の事は自分でする」 を基本に、暮らしていく事だと思いますが、この大きな課題は死ぬまで、持ち続ける事になるでしょう。

以上、駄文を長々と書き、お読みになる方に何の感動も与えられず、大変申し訳なく思います。隠居の独り言とお許し下さい。

なお、次は、国森重彦君にバトンタッチいたします。 よろしく。

                 琵琶湖畔「しまい庵」 庵主 松岡邦哉 
                          (2005819日記す)

        (松岡邦哉氏は経営学部11回生、経歴はご本人の希望により記載しません 岡田)


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2) 篠崎恒夫氏より  (2005.08.17)

           経営学と国語教育
               *** 対機説法の実践 ***                   篠崎恒夫

小樽商科大学から現在の職場、札幌大学に移ってから早6年になります。大学での授業風景を紹介しながら地方私立大学の現状の一端を報告したいと思います。

少子化が進み、大学進学が当り前となった結果、地方の大学がどうなったかといえば、授業での学生の集中力持続力の低下が著しい、“体は教室にあるけれども心は門の外”現象が常態的に起こります。私は学生を動機付けるために、毎時間の終わりに10分の小テストを行っていますが、学生の約1割は、白紙かそれに近い答案を提出します。講義を要約できないか、設問の意味を理解できないなどです。

 そこで今年からはじめたのが、国語教育です。とにかく、自分の文章を書いてもらわないことには、就職もろくにできないことになりますから、生徒から学生になってもらう訓練をしなければなりません。 以下はその訓練事例なのですが、

まず最初、自分流のインスタントラーメンの作り方を書いてもらいます。それを学生の中で回覧し、二人ほどから改善提案を裏面に書いてもらうのです。本人は戻ってきた提案を参考に、修正文を書きます。
 作業が終わったら、今度はこれら一連の仕事に関して「今日の気づき」として気のついたことを5点書いてもらいます。

この過程を経ると必ずといっていいほど、学生達は自己の国語力のなさを指摘します。でも、文章の作成方法を一方的に指導されるのではありませんから、学生は作業の楽しさも味わいます。彼らにとっては、つまらないと思っていた大学に楽しい教室があるということは大発見なのです。

 しかし、このままでは教養教育に終わってしまいますから、徐々に教材に経営学素材をもぐりこませるのです。最新の出来事から素材を拾い出してきて教材に仕立て上げる仕事が講義前日に繰り返されるというのが私の日々というところです。

 お釈迦様をひきあいに出すのは甚だ不遜ですが、お釈迦様は対機説法の名人でもあったそうです。 若い学生達の将来を思いやりながら、これからも「対機説法」の技をさらに磨きたいと思っています。   

 リレー随筆を11回生で般若団OBでもある松岡邦哉さんへバトンタッチしたいと思います。

                                        以上 (20058月17日) 

   (篠崎恒夫氏は小樽商科大学商学部名誉教授、現・札幌大学経営学部教授です。)


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1) 戸田千之氏より  (2005.06.06)

  シルクロード莫妄想旅行

                                  
 ほんとうに突然、シルクロード旅行に夫婦で出かけることになった。

 それは長年、われわれ夫婦の夢であった。だが、やれ「今は時間が取れないわ」だの、やれ「今の季節は暑すぎるわ」だのと、わが家の財務担当官が難癖をつけるものだから、ついついこの旅行は先延ばしになっていた。

ところが、今回に限って、いつもは難癖をつける家人の側から、きわめて積極的に旅行決行の提案があったものだから、あっという間に「いこう、いこう」となった。

もっとも、わが家の財務担当官は孫の養育担当女官も兼務しているので、「わたしはあなたより忙しいのよ。シルクロードについての情報収集はあなたの仕事だわ」と一方的にのたまい、少なくとも事前の下調べだけは、わたしの役目になってしまった。

しかしながら、「こちらだって鼻毛を抜くだけでも結構忙しいのだ」という思いもあれば、「今回の旅行は団体旅行だから、いつもの単独旅行のように何もかも自分たちで調べなくても、ツァーガイドに頼れば何とかなるだろう」という気持もある。加えて長年シルクロードはひたすらにロマンティックな存在になっていたから、小難しい下調べの対象などまったく縁遠い存在であるかのようにも思っていた。本気で下調べをするはずがない。

あっという間に決まった旅行が、あっという間に迫ってきた。

出発直前、この団体旅行を主催する某協会から、薄っぺらなガイドブックらしいものが送られてくる。これだけでは足るまいと、近くの市立図書館に足を伸ばしたところ、ここにも新しいものは貸し出されていて、やっと近畿日本ツーリスト編集の『旅のガイドブック:中国シルクロードの旅、1998年版』という代物だけが見つかった。

明日が出発だという日になっても、まだガイドブックなど読む気になれない。主催協会からの薄っぺらなガイドブックと図書館から借り出した古色蒼然たるガイドブックは、いずれも関空から北京空港に向かう機中で読むことにし、それらをバッグの中に収めた。

一方、機中で退屈する場合に備え、「なにか楽しい小説はないか」とわが家の書棚を見渡したが、適当なものが見つからない。ふと、「旅行中、あの陽関や玉門関で漢詩集を紐解けば、おつな気分になるだろう」と思いつき、学生時代に愛読した鈴木修次氏編纂の『漢詩』(学燈文庫)を持っていくことにした。さらに、宮柊二氏の歌集『山西省』(短歌新聞社)も目に留まったので、「北京から敦煌への直行便は、山西省の上も飛ぶはずだ」と思いながら、これも持っていくことにした。

4月29日の金曜日、関西空港から北京空港に飛んだ。この間は、ほとんどうつらうつらしていた。この日は空港近くのホテルにそのまま宿泊し、翌朝すぐ敦煌空港直行の飛行機で発つことになる。ちょうど対日感情が悪化していた時期だったので、いささかは心配もしたが、北京ではホテルに閉じこもっていたので、何事も起きることがなかった。

4月30日朝、予定どおり北京空港を発つ。万里の長城がみえないかと目を凝らすが黄砂のせいかそれらしきものが見えない。そのうち30分もすると険しい山脈や荒涼たる砂漠の広がる地域にさしかかる。河のようなものも見えるが水の色はどこにもない。

ニ(しゅうじ)の激しく戦った山西省はこのあたりかと、機窓に額を押し付けるようにして懸命に下を見るが、どうもよくわからない。歌集『山西省』を取り出して読む。

衣袴ぐんいこつつつるぎも差し上げてあかつき渉る河の名を知らず

 泥濘に小休止するわが一隊すでに生きものの感じにあらず

 秋霧を赤く裂きつつ敵手榴弾落ちつぐ中にわれは死ぬべし

 俯伏うつふしてざんに果てしはしるしいづれも西安洛陽の兵

 胸元に銃剣うけし捕虜二人青深峪あおふかだにに姿を呑まる

 ひきよせて寄り添ふごとくししかば声も立てなくくづをれて伏す

なんと恐ろしい歌かと思う。西安からやってきた留学生がわたしの研究室によく顔を出し、一緒に中国茶などを飲むのだが、あの人懐こい彼らと殺しあうなど、まったく想像もできない。
 もっとも、歌集の歌を眺めているうちに、この血なまぐさい殺戮の歌もいつしか遠い時代の事件のように思われてくる。わたし自身が手を汚したことのない事件は、簡単に詩歌の世界の出来事になってしまう。

歌集『山西省』に飽きてくると、今度は鈴木修次氏編集の『漢詩』を読み始める。

 黄河遠ク上ル白雲ノ間 一片ノ孤城万仭ばんじんノ山 

羌笛きょうてき何ゾもちヒン楊柳ヲうらムヲ 春光わたラズ玉門関

     (王之渙『涼州ノ詞』)

 長安一片ノ月 万戸ころもツノ声 

秋風吹キテ尽クサズ ベテ是レ玉関ノ情

 何レノ日ニカ胡虜こりょヲ平ラゲ 良人りょうじん遠征ヲメン 

    (李白『子夜呉歌』)

  いじょうちょうう軽塵ヲうるおシ 客舎青青柳色新タナリ

 君ニ勧ム更ニ尽クセ一杯ノ酒  西ノカタ陽関ヲ出ヅレバ故人無カラン

 (王維『元二ノ安西ニ使ヒスルヲ送ル』)
    (注)原稿では、”軽塵ヲうるおシ”の 「潤」は、”シ+邑”でしたが、「潤」で代用させていただきました。(岡田) 

 中学校や高等学校時代に学んだ数々の漢詩を懐かしく読み直しているうちに、機内から突然「祁連きれん山脈が見えるぞ」という声が上がった。どうやら飛行機は敦煌に近づきつつある。祁連山脈といえば武帝の寵臣であった衛青えいせい霍去かくきょへいなどの将軍が遠く匈奴を追って遠征した地域ではないか。中島敦の名作『李陵』までも思い出し、ついにはこの李陵りょうの弁護から被った司馬遷の悲惨な故事までも思い出してくる。

 飛行機は大きく右に傾き、いよいよ憧れの敦煌空港へと着陸態勢に移った。北京空港からほぼ3時間、この間、わたしは持参したガイドブックなど、まったく読まないまま放置していた。

 長々と和歌や漢詩などを記したのはほかでもない。わたしがいかにシルクロードをロマンティックに思い描いていたかを説明したいからだ。シルクロードに潜む黒々とした苦悩に対して、わたしがあまりに鈍感であったことを知ってもらいたいからだ。

もちろん、いかに脳天気なわたしといえども、小泉首相の靖国神社参拝問題や尖閣列島をめぐる領有権問題、さらに東シナ海における日・中の利害対立などは、かなり気にかかっていた。また、チベット自治区はもちろん新疆ウイグル自治区にも中国における少数民族の問題があることぐらいは知っていた。しかしながら、今回の旅行の中心はあくまでも中国最西端のいわゆるシルクロード地帯にあり、北京はその中継地点にすぎない。新疆ウイグル自治区がどのような現実の問題をはらんでいようとも、そこにあるシルクロードは、わたしにとっては詩情豊かな歴史の大地にすぎなかった。


4月30日午後、敦煌のホテルにチェックインし、お決まりの鳴沙山と月牙泉に出かけ、敦煌生まれの中国人ガイドにあれこれ質問しているころから、わたしの妄想も少しずつ醒め始める。当たり前といえば当たり前のことだが、当地も厳しい現実の世界だった。

  「あの月牙泉のそばにある寺院らしきものは、いつごろの建築なのでしょう」
  「あれは最近作られたものです」
  「もともとあそこにはお寺はなかったのですか」
  「いえ、ここにはたくさんのお寺がありましたが、壊されてしまったのです」
  「残念なことですね。いつ、だれに壊されたのでしょう」

女性ガイドは一瞬、困ったような顔をし、ひどく小さな声で「60年代に壊されたのです」と答えた。

「60年代って、ああ、文革の時代だな」と、わたし。

彼女はますます困った顔をする。残酷なことを質問したとわたしは後悔した。文革の爪あとがここにまで
 及んでいた。そして、この辺境の地では、今もってそれを口に出すことが恐れられている。

今度は中国に留学したこともあるIさんがたずねた。

 「こんな砂漠地帯にあって、ほんとうに月牙泉は干上がったことがないのかしら」
  「3000年近くも干上がったことがないのです」
  「少しずつ湖面が小さくなっていると聞いたことがあるのだけどねえ」

ガイドは口ごもり、「敦煌の市街にホテルなどの近代的な建物が増え、水をたくさん用いるようになってから、確かにこの泉の水が少なくなっています。でも、政府もいろいろ対策を講じていますから食い止められるのではないかと、わたしたち市民は願っているのです」と答えた。

あまりにも優等生的な答に、わたしは奇妙なものを感じ始めた。日本では考えられないような政治的な気遣い、ここに厳しい現実がある。そして、その気になって観察していると、ガイドの政治的な気遣いは相当のものであった。

日本から一緒にやってきた旅行仲間とも次第に仲良くなり、夜、ホテルの一室などで彼らの忌憚のない発言に耳を傾けていて、わたしは仰天した。

一行30人のうち、ロマンティシズム一本槍の極楽トンボは、どうやらわれわれ夫婦が最たるものであるらしい。(いやいや、家人は孫の世話などで忙殺されていたのだから、真の極楽トンボはわたしだったと言うべきだろう。)

ほとんどの仲間がすでに何回かの中国旅行を経験しており、インターネットなどで事前にこの地域の経済的、政治的、宗教的な厳しい問題点をいくつも把握した上で、この旅行に参加している。若い独身の男女も多数参加していたが、彼らもかなりの情報を得た上で参加している。

投資会社の社員であるという若者は、「この地方をはじめ中国共通のアキレス腱は水資源ですよ。乱暴な水資源の活用と乱暴な廃水処理、これが国土の砂漠化や荒廃化などの環境破壊を招いています。土地に頼る農民を貧窮化し、政情不安を引き起こしているのです」と言う。ソーラーシステム大手の企業からきた青年は、「モンゴルだってソーラーシステムを導入し始めていますよ。祁連山脈の雪解け水で発電するなんて、ダムからの蒸発量などを考えれば、どこかおかしいとは思いませんか」と言う。

中国語がぺらぺらの初老の女性は、「中国ではめったなことでは話せないのだけれど、上海や瀋陽ですらも中国から独立したがっているのよ。この新疆ウイグル自治区には、チベット自治区と同じように根強い独立願望があり、北京政府はそれを封じようと躍起になっているわ」と言う。

つくづく「恥ずかしい」と思った。「この程度のおれが学生に講義するなど、まったくおこがましい。いよいよ辞めるべき時期がきたな」とも実感した。

恥じ入るとともに、あわてて持参のガイドブックを取り出し、それらを真剣に読み始めたが、これらは文字どおりひたすら観光用に書かれたものだった。「イスラームを奉じる人々は豚肉を食べない」だの、「女性は肌を見せることを恥ずかしく思っているので女性観光客も用心をするように」だのと、あれこれ記されてはいるが、この地域に潜む厳しい現実については、ほとんど意図的と疑うほどに、徹底的に省かれている。楽しく美しい側面だけが描かれかれ、この地域の抱える苦悩の側面が、完全に無視されている。

敦煌から鉄路でトルファンへ、さらにトルファンから新設の南疆鉄道で21時間以上も揺られてカシュガルへ、カシュガルから飛行機でウルムチへと移動する。

敦煌周辺の玉門関、陽関、漢代長城、河倉故城、莫高窟の現地ガイドは中国人ガイドだけだったので、少数民族との緊張関係を間近に見ることはなかったのだが、トルファンに入り、高昌故城、交河故城、ベゼクリク千仏洞あたりで、現地ガイドにウイグル族ガイドも加わったころから、時折微妙な緊張がガイド間に走った。夜の日本人仲間から聞かされる話がますます実感のあるものに思われてくる。

その典型がベゼクリク千仏洞の説明において見られた。ウイグル族のガイドは、「この千仏洞にある仏画は過去3回の被害にあいました。その1回目が偶像崇拝を拒否するわれわれイスラームの人々によるものであり、その2回目がドイツ、フランスなど近代の探検隊によるものです。そして、その最後の3回目が、あの文革時代の紅衛兵たちによるものです」と説明する。このときも敦煌生まれの中国人ガイドは当惑したような顔をして黙っていた。

トルファンやカシュガルでは、中央政府の指示で建造した膨大な数の近代住宅が、だれも住まないままに放置されている。日干し煉瓦の家に住むウイグル族などの少数民族のためにと造られたそうだが、「値段が高すぎて少数民族には手の出ない住宅群なのです」と、ウイグル族ガイドから皮肉っぽく説明される。同行した中国人ガイドは、困った顔をして苦笑いしている。

一行のだれかがこの地方の大学について質問した。「大学はもっぱら北京語で授業がおこなわれるため、少数民族は、入学するためには北京語習得が必須になります」と、これまたウイグル族ガイドから聞かされる。だれかが「国家公務員試験も北京語なのですか」と質問し、さらには「中国人と少数民族の合格比率の実態はどうでしょうか」とまで質問したときは、あわてて中国人ガイドが説明に口を挟み、「公正な試験がおこなわれているのですよ」と、語るに落ちるようなピンとはずれの説明をした。

カシュガルのエイティガール・モスクでは、ウイグル族ガイドが「これはあの有名なホメイニ師から贈っていただいた貴重な絨毯です」とか、「中央アジアの優秀な指導者たちのほとんどが、このモスクにあったコーラン学校から巣立っていきました。でも今はその学校は中央政府の指示でここでは閉鎖されてしまい、遠くウルムチ大学の方へ移されてしまいました」などと説明すると、そのつど、中国人ガイドは困った顔をした。

また、カシュガルでは、昼食時にウイグル族ガイドが離れたところにぽつんと座っているのでわたしが誘おうとしたら、日本人の旅行コンダクターから「彼らは中国人が手がけた料理には口をつけないのです。そっとしておきましょう」と、小声で注意された。

このような暗い影は、民族、宗教、政治の上を覆っている。同時にそれは貧富の差として、経済面にも色濃く宿っていた。たとえばトルファンのバザールで見た若い女性の乞食、彼女は足が不自由であり、熱気と埃の中で路上に座り、悲しい目をして物乞いをしていた。カシュガルのイスラーム寺院の前でも、物乞いをする年老いた女性の身障者を見た。ウルムチでは、4車線の幹線道路の交差点で、幼い子供を背負って自家用車に擦り寄って物乞いをする母親を見た。彼女らの顔は明らかに中国人の系統ではなく、かなりバタ臭い顔をしていた。

他方、貧富の差は少数民族の間でも広がりつつあるように見えた。カシュガルで見た旧市街の日干し煉瓦の小さな家々とカシュガル郊外で訪問したリッチなウイグル族の別荘、その同一民族内における貧困の落差はひどく大きなものだった。

また、ウルムチでは、中国人ガイドが「油田開発によるここの経済的発展は驚くべきものです」と胸を張って説明し、「化学工場がどんどん建設されています」と述べたとき、かつて化学工場に勤め、廃水処理の不手際から公害訴訟に巻き込まれた経験のあるわたしは、このガイドの言葉に、ぞっとするようなものを覚えた。

帰国後、遅まきながらこの地域に関する情報を集め始めている。そして、わたしの気味悪いまでの無知に、今さらのように愕然としている。

エッセイなどに落ちを説明するのは野暮の骨頂だが、あえてそれをおこなうと、この世の苦悩に気のつかないような人間は、救いようのない恥ずかしい存在だということだ。宗教心からは程遠い存在ということになる。

学生時代をすごしたあの祥福寺の本堂には「莫妄想」の雄渾な扁額がかかっていた。どうやらあれは、この世の苦悩に気づかず、酔生夢死する極楽トンボに、目覚めの一撃を与える箴言であったらしい。

(ホームページの主管岡田さんからリレー随筆投稿の要請を受け、少しは協力すべきだと反省し、この駄文を記した。次は北海道にお住まいの篠崎先輩にバトンタッチをお願いしたいと考えている。)

                                            以上 ( 2005.06.06 )                                      (戸田千之氏は広島経済大学教授)
                
 
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