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 稲葉先生を偲ぶ 、稲葉先生と般若団

  次の1〜4の4編は、雑誌『襄山50号』へ投稿された原稿を転載させていただきました。
       (『襄山』は、 稲葉ゼミ同窓誌で、同50号は平成18年8月発行された稲葉先生追悼号です)
  また、戸田千之氏の一文は、平成18年2月 このHPへ寄稿戴いたものを採録しました。
  このページの森田先輩の稿【稲葉先生と般若団】に般若団の歴史が詳しくありますので、
  これまでありました「般若団の歴史」(森田徹氏)のページは削除させていただきました。

 <目次> : 氏名をクリックして下さい

    1) 小野明臣氏(経営学部・4回生) 「隻手無声の妙音を聞け!!
    2) 森田徹氏(同 8回生) 「稲葉先生と般若団」
    3) 清水秀男氏(経済学部 14回生) 「稲葉先生の遺偈」
    4) 岡田彬(経営学部 10回生) 「般若団東日本支部からの報告」

    5) 戸田千之氏(経営学部8回・大学院) 稲葉先生追悼文 「六甲台の青空」


1)小野明臣氏

                            隻手無声の妙音を聞け!!

                                                                                          4回生 小野 明臣

思えば今を去る半世紀前、何の深い思慮思惑もなく若気の到りで奔放な気の赴くまま兎に角と言うべきか只管“NEWトレンド”を求めて経営学部を選びそしてその中枢を占めると思った工業経営学講座をゼミに選んだ。が動機はそれに加え教官の新進気鋭性に惹かれた。迷いは無かった。稲葉 襄 助教授その人であった。当時40歳。

ゼミ選定面接の時だったと思う。南天棒老師で有名な西宮にある禅宗の名刹「海清寺」に止宿しないかとのお話があって即座に御願い申し上げた。
 当時姫路分校から神戸に移ってから暫らくは姫路時代の友人達と国維寮近辺で安下宿を2,3転々としていたので、兎に角落ち着きたい気持ちだったし食費も含め月¥3,000の下宿代は貧乏書生には何にも増して魅力的だった。それに禅寺といえば両親にも安心してもらえるものと思った。
しかしそれだけではなく「禅宗、禅寺の生活」と云うことに妙にそして不思議に小生の好奇心をくすぐる響きがあったのもこれまた真実である。

海清寺に入山したのは昭和29年(1954)の春だったと記憶している。

一緒に入ったのは同期の諏訪武彦君と。既に1年前から先輩の2回生の水野忠克さんと3回生の平野和男さんが精進をされていて水野さんと諏訪君、平野さんと小生のコンビで侍者寮(ジシャリョウと読み寺の敷地の一角にあった)の夫々6畳相部屋で起居を共にすることになった。そしてその1年後には水野さんが卒業され代わりに3回生の米村守生(故人)さんが入られた。

 我々4回生が卒業するまでには5回生では久原哲君と矢の方孝人君、6回生では小倉達郎君と阪本恵一君が入られたと記憶している。その外、教育学部からも寺沢 均君(故人)が入られていた。

 そのほか経済5回生の宮尾栄一君が熱心に通われて参禅も参加していた。彼は我々と違い若きウエルテルの悩みよろしく苦悩を抱え確たる問題意識を持っていたのである。その時の風情は将に吹けば飛ぶようなモヤシの如き印象であり、現在のどっしりした重役然とした風貌からは想像も出来ないくらいだった。

 寺での日常生活は兎にも角にも朝が早い。夏場:4時起床、直ちに朝課(読経と座禅・参禅と掃除など)、炊事当番はそれより1時間早く3時起床。冬場は夫々1時間遅れとなる。夏は清清しい良い気分ではあったが冬場はキツイ。炊事当番の典座は居士の我々学生が任じていたのでお粥を作るのにも人それぞれで硬いのもあるしある時は重湯のようなものもありで、老師はじめ知客(シカと読み寮頭としての雲水の総責任者で会計も司る)や雲水方も大変ご不満ものであったのではと恐縮の連続だった。当時の知客は先代の妙心寺派管長の西片担雪師(現在は再び海清寺僧堂師家)で我々学生居士にとっては非常に煙くて怖い存在であったがそれだけに寺の規律は整然と保たれていた。

 そんなこんなで自分の本業たる学業では1時間目の授業は15分もすると必ず睡魔に襲われ目が醒めると終了15分前くらいで最初の15分と最後の15分は自分でノートしたがその中間は見当をつけて余白にし真面目な友達から適当な時期にノートを借りて補充していたのが通例となっていた。(但し、他の水野・平野先輩や諏訪君が同様だったとの記憶は無いが、学校でお寺の奴を探そうと思えば図書館に行けば良いとの風評が立ったていた。と言うのは図書館の椅子を並べて寝ていたという意味であるが)。

当時、海清寺では毎週お茶やお花の教室も開かれており、時々は招かれたり押しかけたりして老若男女の輪の中で結構楽しませてもらったものである。ろう八大接心は相当の難行苦行であったがその後の12月22日の冬至冬夜の無礼講行事は反対に底抜けに楽しいものであった。

しかし禅寺の生活を通じての禅宗の何たるか、宗教とは何か、また人間の本質とは何なのかについて、僧堂生活を体験することによって探り出す入り口に立つことが出来たことは何事にも変えがたい人生の出会いであった。

「出逢いは人生を決め、人生とは出逢いである」とは誠に至言である。

 

終戦後途絶えていた由緒あるクラブ「神戸大学仏教青年会」=「仏青」を復活させたい稲葉先生の強い御意志を受けてわれわれ4人が夫々活動することにもなり幅広く社会生活なるものを先んじて経験させてもらうことに繋がった。昭和24年の新学制発足により新設された教育学部や文学部などにも呼びかけ、先ずは仏教美術の研究をとその道に造詣の深い経営学部交通論の野村寅三郎教授や経済学部統計学の水谷一雄教授のご指導を受け、京都奈良方面に古寺を尋ね仏像観察など仏教美術との接触を通じて歴史を見聞探求し、また豊かな自然に親しみつつ輪を拡げて女子学生も多数参加するようになったこと、そして仏教講演会も企画しその講師に当時「天動説」唱えて一躍有名を馳せた薬師寺管長の橋本凝胤師のご来校を得て開催したことなどが思い出される。その講演要旨はその後出版した機関紙「仏青」復刊号に記載されているのではと思ったりするがその復刊号も手元に無く非常に申し訳ないしだいとお詫びの気持ちで一杯である。(単身赴任など含め転勤の引越しを5回ほどしていた時に管理不行き届きで紛失してしまったのではと推察)

 その復刊の「仏青」であるがこれが又大変な大仕事であるとは取り掛かりの段階では思ってもいなかったが、編集方針の決定や原稿集めと寄付募集と段々進めるうちにヒシヒシとその苦しさが募り卒業間際(昭和31年2月)まで優に1年半を要したのではと思っている。いよいよ最後の半年は「卒論」と「最低単位の取得」と「復刊仏青」と「家庭教師」(その方も進学受験期)が折り重なりそれこそ総てまな板の上の鯉よろしく“おまかせ”の心境そのものであった。強い焦りにもさい悩まされたが兎に角一つ一つを毎日のスケジュウールに従ってやり遂げこなしていく以外に道はなかった訳である。勿論、出来なかったらどうしようかとあれこれと心配し悩みもしたのであるが。

 この時のことにつき、卒業後約10年くらいの間は、毎年1回は「就職は決まったのに単位不足で卒業出来なかった」という無惨で冷や汗ものの悪夢を必ず見たものである。が静かに考えるとこれくらいは無惨と云うには程遠いこと、大袈裟な表現は当たらない。命を取られた訳でもなく、親・兄弟と離別した訳でもなく、留年してまたジックリ出直せば良いだけの話である。

 こんな経験をしたからなのであろう、変な自信みたいなものが我が心中に醸成され怖いもの知らずの側面が芽生えて爾来約30数年はその都合よき自己流自信が会社生活を支えてくれたように思うが、止んずるかな!!それ以後はその変てこな自己満足自信の有効期限が切れたのであろう、歯車が逆回転するような情況展開になったように感じざるを得ない。矢張り本物としての永遠のものととしての自信ではなかったが故なのだろうとつくずく思う。

 

 海清僧堂師家春見文勝老師(後の妙心寺派管長)から有難くも参禅を許され禅修行最大の課題、「隻手無声の妙音を聞け」との公案を頂戴した。白隠禅師が作られた最高の公案と云われている。

公案の趣意は、“片手(隻手)では拍手が出来ないのだから物理的には音は出ない。無声である。がその無生音の妙音を聞いて来い”ということなのである。論理矛盾もこれはその極である。

修行の「知」の側面としては月々の老師の提唱で無門関や碧眼録にも接することが出来たが兎に角難解な代物だとの記憶しかなく到底歯が立たないもだと決め付けてしまったのではないかとのふしがある。先ず漢文そのものがよく理解出来ず注釈をよく読んでも未だ釈然としないものが残ったように思う。そして消化不良の連続で終始してしまった。

 「行」としての側面は座禅、作務、托鉢、清掃などだが托鉢(連鉢=多人数でホオー、ホオーと大声を上げて市中をまわる)を経験させてもらったことが非常に嬉しかった。海清寺のある阪神電車西宮駅近くの六湛寺町から阪急電車夙川駅近辺まで托鉢姿で看板袋をぶら下げて老師以下雲水の方々と歩いたことが思い出としては最高である。現在でも路上に立っている修行僧を拝見するにつけ懐かしく他人のような気がしないのであるが、本当はそんなに嬉しいという表現が不適当であることは論を待たない。

それこそ雲水の人たちは真剣に人生に相対しておられるのだから。托鉢は本来お寺経済の中心を占めるものなのだから。

 春見老師はよく言われていた、坊主は態のええ乞食だからと。お布施を頂戴するその心境をほんの僅かながらも体験出来たことは、「生きるとはどういうことなのか」「有難さ」「生かされて生きている」ことなど人生の根本問題をいささかなりとも噛みしめられたのではと感謝の極みで一杯である。

 この托鉢については平野和男先輩には格別のエピソードがあるが今回は割愛させてもらいます。(その話は521日の先生の偲ぶ会でご本人からお聞きしたものですが。序でながらお寺の生活をテキパキとこなされて公私両面において清濁併せ呑む充実した時間を過されたのは平野和男さんが一番でしょう。それなるが故に大同生命の社長にまで成長されたのでしょう)

 その「知行」の修行を一歩一歩積み重ねる即ち、「思慮分別をささえず、見聞知覚を離れて只管に行住坐臥(ぎょうじゅうざが)を重ねれば、理尽き嗣(ことば)究(きわ)まるところにおいて」忽然と生死の業根を抜き去り、無明によるモタモタした疲れを吹っ飛ばすことが可能なのだ。かくして公案は解けるものであるから、思慮分別=理屈はどだい端から無用であり且つ害悪なのである。生活全てが座禅の中に、そしてその行き詰まった究極にこそその解があるということである。

 托鉢中に公案のことを考えていたかどうかは残念ながら明確な記憶がない。恐らくそれは考えていなかったと思う。(とにかく初めての経験のみを楽しがり嬉しがっていたのだと思う。)座禅の時にはいろいろ考えたのだが兎に角どう考えても妙音は聞こえない。そもそも考えて理屈道理で正解が得られる代物ではないのだからどだい頭での思考は無意味なのであるから、只管迷いの世界に入り込んでしまったのが落ちであった。

 思えば前記した卒業前の半年のあの追い詰められた心境を乗り越えた時が一番「妙音」に接近したチャンスであったのではと思えるのだが。ついぞ老師からは合格のお墨付きは戴けなかった。平野先輩と諏訪君は「無地」の公案を通過し第2ステップへ進んだやのおぼろげながらの記憶があるのだが。

 会社生活に入って以降座禅から離れた。そして自己満足流の「自信」の賞味期限も過ぎやや惰性的で沈滞気味の生活期間が暫らくあったがリタイアー後また再度座禅する機会に恵まれた。現在六甲台下の祥竜寺でのThe en会。過ぎし70年の人生を総括する恰好の機会を与えて戴いている。そして拙い人生経験ながらその土台の上に自分なりの新しくそしてより真実に近い智慧を会得出来ればとの想いを密かに胸にしている。

 今年1月29日。The en会例会に出席のため六甲台学舎の下にある橋を渡るとき、ふと「もう先生は居なくなられたのだなー」との何ともいえない淋しい想いが心をよぎった。そして若き良き時代を一緒に過した数々の思い出が浮んでは消えて行った。

 毎年夏のゼミ旅行や座禅会、武庫川女子大や神戸女子短大女性との交流、奥様や尚子様・充様ご家族と兜山に登り奥様手作りのお弁当を鱈腹頂戴したことなど、その他楽しい思い出が殆どだ。ご自宅で強く叱られたことはただ1回だけだったと思っている。(その理由は忘れてしまっているが)

先生は師であると共に厳しいが肉親たる兄のような存在でもあった。注文もよく出されたが面倒もよく見てくれた兄。それなるが故に無意識の中にあった大きな心の支えが忽然と無くなった淋しさが込み上がって来るのを禁じ得なかった。

 先生は碩学の学者であると共にその前に真の教育者であった。大正生まれであられるが明治の気骨溢れる先駆者の雰囲気を漂わせておられた。百万人と雖も吾往かんの旺盛な実行力、宗教裁判で「それでも地球は動く」と嘯いたガリレオにも勝るとも劣らない鉄の意志、思えばこの寸分もぶれない精神的強さが30年にも及ぶ闘病生活を支えそして愈々延長12回の最終回に最終目標たるー「仏教的企業経営学」の思考―を手にすることを可能にしたに違いないと思うのである。要するに人生最大の目標を劇的なタイミングで達成されこれ以上の大往生は無かったと言えるのではないかと。

(先生をこれまで支えられたのはその裏に百合子奥様の献身的御介護の賜物があればこそは勿論である)

 今日、戦後教育のあり方が幅広く反省されそして議論され漸く新教育基本法が制定されようとしているが、それらを考えるにつけ先生の偉大さが浮き彫りになって来るのである。

 最近ある雑誌で小林陽太郎氏の対談を読んだ。(テーマ:精鋭を生む国を再び)

 「リベラルアーツ、つまり人類の歴史、先人が積み上げてきた哲学、思想、倫理なんかを含めた人として身につけておくべき深い教養というものが、今の日本では物凄く軽視されていることが根本的な問題です。特に、政界や経済界でリーダーと呼ばれている人たちですよ。僕自身の自戒も込めて。米国は民主主義、日本も民主主義、だから理念を共有しているのだというレベルの話があまりにも多い。自由、人権、民主主義ということを本当に解かっているのか。リベラルアーツの素養を抜きにしては、軽々には語れないんですよ。この点米国ではリベラルアーツの教育がしっかりしている。実利的なノウハウを教えるビジネススクールやロースクールばかりじゃない。ハーバード大学の根幹はリベラルアーツです。プリンストンもエール大学もペンシルベニア大学もそうです。米国企業のCEOの経歴を見ると、歴史学専攻なんて人が結構いるのです。彼らはハウツーではなくて「人間」を学んで実業界に入ってくる。企業活動、経済って結局は人間ですからね。人間が色んな思惑で動く世界で、何をどうやるべきなのか、どういうことは正しく、どういうことは慎まなければならないのか、そういった判断力を叩き込んでくる。企業ごと、業界ごとの特殊な知識とか、経営のテクニックなんて、社会に出てから勉強したってちっとも遅くないんですよ」と。  

小野 独白:この論旨は以下に記した米国流経営システムが行き詰まりを見せてきたということには必ずしも整合性はないのですが。小生がこの対談要旨を記したのは要は人間教育の土台をしっかせねばならないということを云いたかったからである。

 

遺稿となったー「仏教的企業経営学」の思考―、これまた昨今の米国流経営システムか日本的経営システムかとの喧しい議論に一石を投ずるものではなかろうか。

 あのアメリカを象徴するGMの現状を見るにつけ確かに米国流経営システムなり経営思想は行き詰まりの気配がある。日本のグローバル企業であるトヨタやキャノンとは非常に対照的になってきたうえにどうも軍配は日本側に上がる趨勢とトレンドにあり21世紀はさらにそれらに磨きがかかってそれに連れて稲葉学説は大なる期待が湧いて来るものと思うのである。

仏教を土台とした利自的客観的な利潤追求原則と利他的主観的な貢献原則を二つの基本原則として組み立てそして理論展開して全く新しい企業経営学の原理論を構成されている。

おそらくこの新理論は近未来に於いて価値を認知されるものと確信するものである。

もう既にイスラエル・パレスチナ問題とイスラム文化圏とキリスト教文化圏やユダヤ教圏との対立や紛争などの例を見ても未来永劫に解決不可能な様相であり、それは双方が互いに自分の絶対(一神教)を主張するが故の産物である。仏教思想の主伴性は自在でありその時の因縁関係によって決まるという大らかな融通性があり譲り合いの精神が存在するのであるから紛争・対立が永遠に続く事は無いのである。

 こうして見ると世界の現状は混迷の度を深めている。その中でその解は今まで世界思想の脇役であった東洋的思想、就中仏教哲学思想の中に見出されて来るのではあるまいか。

又、その機運が徐々に盛り上がってきつつあるようにも感じる。そしてそのことに大なる期待を寄せているものである。

 恩師、稲葉先生は小生に仏教、禅との出逢いを作ってくれた。この出逢いが我が人生をここまで導いてくれた。しかしまだまだこの貴重な出逢いを満足なレベルにまで活かしているや否や。甚だ疑問である。それは「隻手の音声」公案をいまだ持て余しているのが何よりの証拠である。

 これを究めたときが恩師にたいする真のご恩返しが出来たことになるであろう。

 その時まで無声の妙音を追い求めて生きたい。

 万感の想いを抱きつつ

                                                                   平成18年5月31日    4回生 小野 明臣
                    
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2)森田徹氏
                       稲葉先生と般若団

                                                  8回生   森田 徹

 稲葉先生は和歌山高商時代から仏教に強い関心を持たれていた。昭和9年に神戸商業大学に入学後も熱心に仏教活動を続けられ、翌10年に神戸商大仏教青年会を再建された。又第二次世界大戦により途絶えていた神戸商大仏教青年会を昭和30年に神戸大学仏教青年会として復活された。更に昭和316月に禅仏教の修行を目的とした神戸大学般若団を創立され、昭和524月に神戸大学を退官されるまでの21年間、般若団団長として禅仏教について多くの学生を指導された。その間の般若団に在籍した学生の人数は延べ126(内襄山会会員は54)を数えている。

1.般若団結成以前の稲葉先生のご活躍

稲葉先生が昭和10年に再建された神戸商大仏教青年会は二部構成とし、第一部を浄土関係、第二部を禅関係として運営された。仏教青年会の活動は、大学の教室で毎週1回稲垣最三先生等による仏教講義の開催、機関紙「仏青」の発行、禅関係では御影の伝芳庵(岩井商店創設者の別荘を庵に改装し、梅谷香州老師を招請)での行事に参加等により行われた。稲葉先生が3年時には学生総数600名中50名が仏青会員となった。稲葉先生は大学卒業後研究科に残られ仏青活動を続けられ常住坐臥仏教的な生活ができ、且つ仏青活動の本拠地として商大仏青寮を設置された。

昭和14年に第二次世界大戦が勃発し、稲葉先生は研究科での2年を終えて和歌山高商へ赴任され、伝法庵は焼失し仏青活動は途絶えた。

稲葉先生は戦後の昭和21年に神戸経済大学に復帰されたが、アメリカ在日総司令部より、国公立学校での宗教活動が抑圧され学内での教官の仏教活動が不可能な状態であった。昭和24年に新制大学制度が施行され、旧制神戸経済大学は新制神戸大学の経済、経営、法学部として出発した。稲葉先生は仏教活動を開始され、神戸商大仏教青年会の再現としての神戸大学仏教青年会を復活され、昭和30年には機関紙「仏青」第7号を復刊された。

U.神戸大学般若団

 <第1期(昭和31年〜34年:海清僧堂時代)>

稲葉先生は昭和31年に、仏教に関心を持つ者の広い集団としての神戸大学仏教青年会とは別に、狭いけれども純粋に深く禅の修業を通じて心身の修練に励む強固な集団として神戸大学般若団を創設され団長に就任された。般若団の規約策定等について水野忠克(B2)、米村守生(B3)、平野和男(B3)さん等が尽力された。活動の拠点は西宮の海清僧堂に置き、春見文勝老師に師事し、西片擔雪首座(前臨済宗妙心寺派管長)の指導の下に、米村守生(B3)、平野和男(B3)、小倉達郎(B6)、阪本恵一(B6)、黒田慶一(B7)さん等は学業を行いながら海清僧堂に寄宿して坐禅・清掃・典座等雲水諸氏と同様の生活をし、これらの人を中心に他の団員も月のうち1週間の連続接心に参加し、毎月碧巌録・臨済録の提唱を聴講し、正法眼蔵隋聞記等を中心とする研究会を開催し、機関紙「般若」の発刊(創刊昭和31年)を行った。私は昭和32年に専門課程へ進むため姫路分校から六甲学舎に移るのを機会に、稲葉先生のご助言により海清僧堂に寄宿させて貰うことになった。これが私にとって禅に係わる出発点となった。当時海清僧堂には先輩の小倉、阪本、黒田さんが寄宿されており、その後稲葉ゼミに入った同期の戸田千之、杉本義弘、高重啓一さんが相次いで寄宿し、稲葉ゼミの7名が大学に通いながら、禅の修業することになった。稲葉先生は海清寺の近くに住んでおられましたが、私達の生活を随分心配され、よく寺にもお出でになり、私達も先生のご自宅にもお伺いし公私に亘ってご指導をいただいた。般若団の対外活動として、機関紙「般若」の編集、原稿依頼、広告・賛助金集め等を行った。

<第2期:34年〜50年(祥龍寺時代)>

2期に当る34年〜50年は、大学に近い六甲に本拠地を移し、大学内での活動に重点を置きながら活動をした。阪急六甲の駅の近くに2階3室を借り受け、団員7名(4年生4名<戸田、杉本、高重さん及び森田>3年生3名<平田英之、澤田俊彦、山崎忠雄さん>)が自炊をしながら、祥龍寺で菅碧堂和尚に教えを受けつつ修業した。稲葉先生は大学の近くに住居を移され、祥龍寺にもよくお出でになり指導をいただいた。菅碧堂和尚は終戦後戦災孤児を祥龍寺に引き取って、我が子として育て社会に送り出す社会福祉活動を行っておられていた。団員が坐禅をした後菅和尚からお茶をいただきながらのお話は胸を打つことが多く、その教訓は私達に大きな影響を与えた。その後菅和尚の魅力に引かれて祥龍寺に寄宿する団員も出た。活動強化のため稲葉先生のご尽力で京都の東福僧堂の林恵鏡老師に毎月神戸大学までお出でいただきご指導頂いた他祥龍寺で毎日曜日10時〜12時まで「禅を知る会」を開催した。又御影の禅道場で持田閑堂老師の指導で「禅学研究会」を開催した。私は昭和35年(1960年)4月に大学を卒業し、暫くは会合に参加していたが、昭和40年(1965年)から勤務が営業部門に移り忙しくなり、般若団の活動支援及び自身の禅の研鑚も次第に疎かになった。その間大学院の篠崎、戸田さんがよく学生団員の相談に乗っていただいていたが、両名とも神戸大学を離れられ、OB団との学生団員との関係は薄れていった。又当初は稲葉ゼミのメンバーが中心であったが、その後は稲葉ゼミ以外のメンバーが逐次増加し、宮地威(B12)、清水秀男(E14)、谷口孝行(E15)さん等は今も般若団OB会の活動を支えてくれている。

<第3期(祥龍寺退山以降)>

昭和51年に菅碧堂和尚が引退されたのを契機に般若団は祥龍寺を退山し、団活動の拠点を神戸大学に置き、天龍寺の平田老師の指導のもとに活動した。昭和524月に稲葉先生が神戸大学を退官された。後任の団長には宗像先生が就任され、稲葉先生は名誉団長として引続きご指導いただくこととなった。しかし、般若団としての活動は、逐次衰退し29回生(昭56年卒)が最後の学生団員となった。又般若団は学生部員がいなくなったため神戸大学のサークル活動部から消滅した。 

V.般若団復活のためのOB会の活動

1.「稲葉先生を囲む般若団の集い開催」と般若団OB会の発足

清水秀男、和田哲雄(B21)さん等東日本般若団OBが中心となって準備し、「稲葉先生を囲む般若団の集い」を平成3511日に神戸のホテルゴーフルリッツで開催し、42名が出席した。終了後戸田千之さんと二人で稲葉先生のご自宅に伺ったところ、神戸大学に般若団を復活させるよう強い指示を頂いた。早速OB会の組織・役員を決め活動を開始することとし、本部は、会長:平野和男、副会長:小野明臣、西日本支部は支部長:平野和男、副支部長:小野明臣、幹事長:森田徹、東日本支部は支部長:増本嘉久、副支部長:森博人、小倉達郎、幹事長:清水秀男さんの他回生毎に幹事を定めた。 

神戸大学の学生に働きかけるのは、西日本支部OB会の役割であるので、平成37月に、幹事会を開催し平野、小野、藤岡、戸田、森田、近藤、谷口、藤原(B18)さんが集まり次の活動方針を決定して活動に入った。

・月1回開催の布引にある徳光院の坐禅会(味道会:西片擔雪円福僧堂老師<当時>指導)に参加する。

・定期的に西日本OB会幹事会を大阪凌霜クラブで開催する。
               
     般若団OB会発足のキッカケとなった「稲葉先生を囲む般若団の集い」
      

             (平成3年5月11日 ホテル 神戸ゴーフルリッツにて、42名が参集)

     
<記念写真は森田先輩より提供頂き、後から挿入しました、襄山誌にはありません>

2.「The Zen 会」の発足及び現状

味道会は徳光院主催の坐禅会であり、般若団OB各自の活動としては良いが、学生に禅を伝えるには独自の活動場所を必要とすること及び学生を指導していただける神戸大学の先生方のご協力が必要であることを痛感していた。国際文化学部の教授で剣道部の顧問をされている筧寿雄先生が禅に熱心で祥福僧堂の禅の会合にも参加されていることをお聞きし、筧先生に会長をお願したところ快諾していただき、その縁で三木明徳先生(医学部)、西村秀雄先生(国際文化学部)、豊沢敬一郎先生(農学部)等の協力を得られることとなった。経営・経済・法学の3学部については、先生方に協力を依頼したものの実現しなかった。学生の参加しやすく、般若団独自の活動を受け入れて貰える場所として、以前にお世話になっていた祥龍寺にお願いししたところ快く了承を得た。
 併せて名称を学生にもわかり易いように神戸大学「
The Zen 会」とした。会の組織、目標、運営ルール、具体的な活動等は次の通りとした。

 1)      組織

 組織は簡素なものとし、名誉会長、副会長、会長、副会長、顧問、運営委員、事務局を置き、毎年4月に総会を行う。

2)      組織目標

神戸大学般若団は稲葉先生の熱心なご指導のもとに、純粋に深く禅宗の修業を通じて心身の修練に励もうとする強固な集団として結成された。私たち般若団OBは卒業してもその精神を忘れることなく禅の修業を継続すると共に次世代にこれを引き継ぐため、具体的には神戸大学のサークル活動部に坐禅のクラブを再興することを目標とする。その支援のために、学生が参加できる禅仏教の指導者、坐禅の会場等の受入れ体制を整える。


  3)      具体的な活動

平成55月以来毎月1回日曜日に例会(名称「The Zen 会)を祥龍寺で開催しており、本年5月で153回となった。行事の内容は14時〜15時:坐禅、15時〜1 530分:読書会、1530分〜1630分ミニ講演会、1630分〜18時:懇親会の他13時〜14時までは有志による坐禅ができるようにしている。祥龍寺は以前に般若団員が熱心に活動の場所として利用させていただいていたこともあり、例会日の設定、施設の利用には全面的に協力を頂いている。

 例会では、名誉会長に溝口史郎先生(神戸大学医学部名誉教授、神戸学院大学理事長)、会長に三木明徳先生(神戸大学医学部保健学科長)、顧問に木村太邦祥福寺老師の指導を得て運営しており、三人とも大変お忙しいにもかかわらず出席いただいている。溝口先生は京都大学医学部助教授から神戸大学医学部教授に赴任され、現在は神戸学院大学の理事長である。京都大学で禅の哲学者として有名な久松真一先生から禅の指導を受けられた。又釈迦を大変尊敬され仏教美術にも造詣が深く、80歳になられた現在でも年に一度インドの仏教遺跡を訪れられている。仏教関係の著書「ボロブドゥル遺跡のレリーフにみるシャカムニの生涯」「(古代インドの仏教美術の精華)サンチーのストゥーパ」等の著書がある。溝口先生には読書会の指導をお願いしており、今までに「増谷文雄:仏陀その生涯と思想(角川選書)」「中村元:ブッダ最期の旅(岩波文庫)」「前田専学:ブッダを語る(NHK出版)」を読了し、仏教の基礎を学んだので、平成184月から「松原泰道:般若心経入門(祥伝社黄金文庫)を輪読している。三木先生は溝口先生の解剖学講座の後継者で、現在は医学部保健学科の学科長であり、国立大学の独立行政法人化後の大学運営委員会のメンバーとして多忙でありますが、医学は医療技術だけでなく「生と死」の問題を真剣に取組むことが大切であり、そのためには仏教を学ぶことが大切との考えで「The Zen 会」の会長を引き受けていただいており、学生に「The Zen 会」例会への呼びかけをお願いしている。木村太邦老師は祥龍寺住職として、「The Zen 会」指導していただいていたが、平成1611月に祥福僧堂の老師の要職につかれ一層多忙になられたが、引続き毎月の例会に出席いただき坐禅の指導と法話をお願いしている。又小野明臣さんは副会長にとして会の取りまとめに尽力してもらっている。現在の会員数は約40名で平均出席者は約20名である。般若団OB会員で現在出席されているのは、小野明臣、森博人、宮尾榮一、平野清一、戸田千之、森田徹、山内庸行、宮坂宏樹、谷口孝行、福島茂さんである。般若団OB会員以外にも神戸大学卒業生及び一般の社会人も参加されており、坐禅会場の設営他会の運営に協力いただいている。

W.般若団東日本支部の活動

 般若団東日本支部の活動については、支部長の岡田彬さんが別途寄稿されますが、岡田彬、宮地威、清水秀男、葉山研二さん等を中心に例会(年数回東京凌霜クラブで開催、椅子坐禅・ビデオ及び会員ミニ講演等)、宿泊坐禅会(年2回、埼玉県騎西町保寧寺で小崎和尚指導による坐禅等)を行っており、例会は既に約60回開催されています。特に平成16年度から新しく支部長を引き受けられました岡田彬さんが般若団東日本支部のホームページを作成され、又都内で開催されている外部の坐禅会に参加される等積極的に活動されている。

(追記)

 私は学生時代に稲葉先生の工業経営の講義を拝聴し、ゼミナールで薫陶を受け、般若団で禅仏教について教えを受けた。卒業後も襄山会員及び般若団OB会員として指導頂いた。そのお陰で現在も禅仏教に関わり、「The Zen 会」の事務局の一員として活動を続けることができている。稲葉先生から頂いたご恩には厚く感謝している。神戸大学のサークル活動部に坐禅のクラブを復活させる目標は果たせていないが今後とも努力する。般若団OB会の東日本支部と西日本支部とは一層連携を強化して行く。

首都圏及び京阪神に住まれている襄山会員の方に、「般若団OB会東日本支部」及び「The Zen 会」の例会への参加を期待しています。

                                                                         以上

                                                             8回生   森田徹 
                             
                                                   目次へ戻る

                                                                   
3)清水秀男氏

稲葉先生の遺偈

                                          経済学部14回生 清水秀男

「生死はお任せ、ゆったりと、どっしりと、三昧で、只今に生きる」

この先生のお言葉は、先生の悟境を端的に表わされたものであり、同時に後人のための残された辞世の句であると認識しています。と申しますのも、今から丁度10年前の平成8年新春の事でした。
 先生は「もう私の人生も長くないと思う。私の言葉を色紙に書いたので君に贈りたい」と言われて、送って下さいました。開いてみるとそれが冒頭のお言葉で、黒々とした墨で、四大ご不調のご様子など微塵も無い迫力のある筆太の字で書かれていました。まさに生死を超越された「稲葉先生そのもの」が、真如が、如実に現出しており圧倒され、三十棒を食らった感をいたしました。私はまさにこのお言葉が先生の
遺偈だったのではないかと思っています。

私はこの遺偈をもう一度じっくり噛み締め、先生が日頃から言われていた事はまさにここに帰結するのだと言う事を味わいながら、不肖の弟子ですが、万分の一でも先生の境地の近づき、与えられた命を十全に悔いなく過ごしていきたいと思っています。

私達は、必ず死ぬことについてはまさに疑いを差し挟む余地のない絶対の真理です。ある人は「人間は生まれた時から既に死刑を宣告されているのだ」と言っています。私などはそんなことは当たり前で分かっていると思いながら、それは観念的にしか理解しているに過ぎず、死を直視することは避け、今生きていることは永遠に続くと思い、目標もなく、ダラダラと過去の延長戦上の惰性の生活を送り、どうせ明日あるのだから今日はこのぐらいで良いのだと安易な妥協の生活をしているのが現実です。

先生は生者必滅であり、かつ毎日が生と死の真っ只中に同居しており、自分の自由にはならないものである。だから「生死はお任せ」なのだ1。 そして「生死はお任せ」なのだから、ドタバタする必要はない。己を空しくして、ゆったりと、どっしりと構えておれば良いのだと言っておられると思います。絶対他力の世界です。

親鸞の教えをまとめた『歎異抄』第3章の一節に次の言葉があります。

「自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざる・・」

煩悩の凝り固まった自己中心主義の凡夫の我々は、生死の問題を解決するなどとても出来ない。仏の働きにまかせるなら、真実の救いが得られるのだと親鸞は説いています。

では次に「生死はお任せ」は分かったとして、どうすれば良いのか。ここで先生の時間論が展開されます。即ち現在において過去も未来もなく現在(只今)しかない。しかも現在は現在から現在へ常に移り行き変化していくものである。従って我らは「只今(現在)に生きる」しかない。現在に生きる事がこの人生を生きることであり、ここに人生における現在の尊さがある2

今をどう生きるかに関連して、『碧巖録』第6則に「雲門日日好日」があります。雲門禅師が、過去のことは過ぎた事であるから問わない。即今只今をどう生きるかと弟子達に問いかけたら誰も答えられず、雲門自身が「日日これ好日」と答えたという有名な一節です。

先生は「日日これ好日」の好日だと好悪のとらわれた境涯がまだ残っている。私なら「日々非好日、日々是日々3と答えるとおっしゃった。現在は今・ここ・われの過去も裁断、未来も裁断した、所謂前後裁断した即今只今しかないと言われたのだと思います。まさに先生の面目躍如です。

明日死ぬかも知れない無常の命。生きている今、瞬間瞬間に全身全霊のエネルギーをぶち込んでいく事。それが生死を超えた生き方であり、永遠の今を生きる事になると説示されたのだと理解しています。

 更に「只今を生きる」と言っても如何なる生き方をするのか。これらについても明確に語られています*4。まず私達は多くの他(自然と社会)の力をお借りし、そのお蔭(即ち関係性=縁起)で生かされている。故にその事に感謝しながら、自ら発奮して目の前の仕事に「精進努力」せよ(自利的側面)。一方、同時に生かされている慈悲心の発露として感謝報恩行為を果たし、他のお役に立つ様、寄与貢献すべきである。その時に基本的態度として「勿体ない精神」と「思いやり精神」が必要である(利他的側面)。そして自利的側面と利他的側面に共通する根底の行動形態として、無心になり、対象と一体と成りきる事、所謂「三昧」が必要であると言われています。

そして、私は道元禅師の『正法眼蔵』「生死」の次の言葉は、先生の三昧の意味される所と相通ずるものがあるのではないかと思っています。

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて、仏のいえになげいれて、仏のかたよりおこな

はれて、これにしたがひもてゆくとき、ちからもいれず、こころをもつひやさずして、生死をはなれ仏となる」

稲葉先生の遺偈は、まさに先生が禅の修行により悟得された法境そのものであり、先生の一生は、人間として、学者として、宗教者として、教育者として遺偈の絶えざる実践であったと思います。そして先生の人生はそれを成就され、全うされた所に偉大さと崇高さがあり、換言すれば「大いなる尊ぶべき涅槃(悟り)の人生」だったと思います。

 釈迦は最後の旅のなかでアーナンダに次の言葉を残されました。

「アーナンダよ。私がそなたたちのために説示し、制定した法と律が、私の亡き後、そなたたちの師なのです」(『長部経典』第16「大般涅槃経」)

釈迦が言われた同じ言葉が稲葉先生にもまさに当てはまるのではないかと思います。

従って、先生が説示された教えは、先生の亡き後の師であると思います。即ち、先生の肉体は滅びても、私達にお示し頂いた教えは、先生の「いのち」であり不滅であり、私達の中で燃え続け、今後私達の行く先を明るく照らし続けて頂けると信じています。

その意味で、先生は私達の中で生き続けておられると思います。

最後に、私が何とか社会に出ることが出来、今生かさせて頂いているのは、般若団に入り、先生のご指導があったからに他なりません。本当に衷心より感謝申し上げます。

そして、釈迦の臨終の教え“「いかなるものも移ろい行きます。怠ることなく努めなさい」『長部経典第』16「大般涅槃経」にある様に、「諸行無常」「諸法無我」を身心に刻み、自利利他円満の成就を目指し怠ることなく精進努力し、少しでも他(社会・自然)に貢献する事及び道心ある方々との般若団OB活動の継続をあらためて心に誓い、先生のご冥福を衷心よりお祈り申し上げます。

(注)

1 & 2 稲葉襄著『「仏教的企業経営学」の思考』「只今に生きる」

  3 稲葉襄著『円相の経営』「唯嫌揀擇」

 *4 稲葉襄著『「仏教的企業経営学」の思考』

「人間生活と仏教」「生き甲斐」「人生の要諦」「只今に生きる」「自己と環境」

(追記)

 タイトルと直接関係ないので本文では触れませんでしたが、先生が言われた自作自戒の

お言葉の中に、「他依にして自縛、自依にして自由、無依にして自在」があります。

 「他を依り所とし他人に頼ってばかりいては自ら自己の啓発・発展を阻害し、調えられ

  し自己を依り所とし燈とすることに依り自由を得、自己をも含むすべてのものを依り

所としないことにより自在の境地になれる。他依自縛には無責任・怠惰・無気力が潜

み、自由には我利・勝手・高慢が潜み、自在には無我・無礙・感謝が潜む」

(稲葉襄著『これからの企業経営』序)

通常自燈明、法燈明と言われている言葉が、『長部経典第』第16「大般涅槃経」にあります。

「そなたたちは、自己を島とし、自己を依り所とし、他を依り所とせずに、法を島とし、法を依り所とし、他を依り所とせずに、住みなさい。」

先生は自燈明、法燈明とは同列には論じられない。自燈明では自己という念が残っている。
  法燈明即ち無依迄いかないと自在とは言えないし、本物ではないという事を示
しておられると思います。
  この先生の自燈明、法燈明の見解は他の諸賢にはない独自性を持った重要な見解だと思いますので付け加えておきます。


                                                      経済学部14回生 清水秀男

                                              目次へ戻る

4)岡田彬

      般若団東日本支部からの報告

                                   10回生 岡田彬

<東日本支部事始め>

 般若団東日本支部と俗称しておりますが、正確には般若団OB会・東日本支部であります。「般若団OB会」は、消滅した学生般若団を復活させたいという稲葉先生のご意思を受けて、15年前の平成3年に改めて発足した組織です。その端緒となった平成3年のつどい「稲葉先生を囲む般若団の集い」と「般若団OB会」の発足の経緯は森田先輩の稿に詳しいと思いますが、時を同じくして東日本支部も発足し、役員には、支部長・増本先輩(B2)、副支部長・森先輩(4回)、小倉先輩(6回)、幹事長に清水秀男氏(E14)等が選任された。

関東ではこれより先、昭和50年代終わりころ、当時東京に勤務されていた森田徹先輩や清水秀男氏が呼びかけ般若団東京支部として活動し、2〜3回集まりをもったものの機熟さず自然休眠していたところ、平成元年、前幹事長の西川勉氏(B16)、現幹事長の葉山研二氏(B17)らが呼びかけ人となって、16〜18回生を中心に7、8人が集まって、懇親会的交流を再開、その後、清水氏や現保寧寺住職・小崎無一和尚にも加わってもらって再結集して支部活動を再開した。その活動が平成3年、「般若団OB会・東日本支部」へつながり、現在に至っています。この間、坐禅会は年2回、平成4年度は文京区白山にある白山道場(小池心叟老師)、平成5〜9年は小崎和尚(注2)の指導される睡足軒、平成10年から保寧寺の坐禅会へ参加している、坐禅会および例会は60回を超えて続いております。



「稲葉先生を囲む集い」
を東日本支部では以下のごとく開催しました。

 @平成4年523日 於:東京凌霜クラブ21名出席

   ご講話演題:「三法印・四諦・四弘誓願」、21名出席

 A平成8年518日 於:KKR HOTEL TOKYO・・22名出席

 ご講話演題:「仏教と生死」、22名出席(小崎和尚も出席頂いた)

 B平成10516日 於:東京凌霜クラブ・・21名出席(小崎和尚も出席頂いた)

     先生はご体調不良のため出席かなわず、事前に御送り頂いた原稿を西川氏(B16)

ワープロ化して配布し、読み上げ、皆で味わった。 ご講話演題:「自己を問う」



(注1)  支部役員は次のごとく交代しております。(敬称略)

・平成3年10 支部総会 

支部長 増本嘉久(B2) ・副支部長 森博人(B4)、小倉達郎(B6) ・幹事長 清水秀男(E14) 、副幹事&会計幹事 和田哲雄(B21)、広報&名簿幹事 山本二郎(T16)

・平成8年10月役員改選

  支部長 増本嘉久(B2)、副支部長 小倉達郎(B6)、阪本恵一(B6)、幹事長 西川勉(B16)

副幹事長 葉山研二(E17)、広報&名簿 山本二郎(T16)、会計平山和孝(E22)
 平成13年幹事長が西川氏から葉山研二(E17)へ交代

・平成16年3月役員改選(現在の体制)

支部長 岡田彬(B10)、副支部長 宮地威(B12)、幹事長幹事 葉山研二(E17)
広報&名簿幹事
山本二郎(T16)、会計平山和孝(E22)


(注2)小崎無一和尚は、神戸の祥龍寺で得度され埼玉県新座市野火止にある臨済宗の専門道平林寺で修業された。
 平林僧堂を退出されたあと、平林寺門前で睡足軒という坐禅堂をつくられて坐禅指導をされていたが、
 平成9年保寧寺(埼玉県・騎西町)へ入られた。祥龍寺ご出身というご縁で、早くより支部団員が親しく指導頂いている。

小崎和尚は、この一泊坐禅会のほか、保寧寺で日曜坐禅会、新座、飯能、秩父で月例坐禅会を指導されるなど精力的に活動されている。なお、和尚が現在住持されている保寧寺は埼玉県の北部(北埼玉郡騎西町)やや不便の地にある。



<東日本支部最近の活動>

 「般若団OB会」発足当初より長く支部長をお願いしていた故・増本嘉久先輩(注)は健康を害され、かねてより支部長辞任を希望されていて、定年退職して時々例会に顔を出すようになっていた私を後任支部長に指名されました。私は、卒業後は坐禅に縁遠く、支部活動にも不熱心な団員でありましたので、適任の先輩方にお願いしていただきたいと固辞しておりましたが、大先輩の強いご説得があり、平成16年3月から支部長をお受けしております。



(注)稲葉ゼミの大先輩・増本嘉久先輩は、一昨年、支部長を継がせて頂いたころも、いくつかの病気を患っておられ、 電車を途中で降りて休まれたり、200m歩くと一休みしなければならないと云われておりました。それでも責任感のお強い先輩は例会へ顔をだされておりました。昨年1月、先輩に新たな病が発見され、その時は余命いくばくと言われるほどに病は進行していて、8月26日に安らかに永眠されたとのことであります。温厚で生真面目なお人柄でした、尊敬の念をもって今もお顔が思い出されます。

支部の定例行事は略、隔月に行っております。年2回、保寧寺坐禅会(一泊の接心会)へ支部行事として参加するほか、東京凌霜クラブで例会、忘年会または新年会を開催しています。行事は三十数名のOBの皆さんへ案内しております。最近の例会の出席者は多くて10名〜12、3名であります。


<凌霜クラブでの例会>

18時から21時まで、@椅子坐禅20分、A団員の研究発表またはNHK「心の時代」ビデオで禅僧方などのお話を聞く、Bディスカッションする、 が定型パターンです。

例会のあり方については、研究発表や読書会を増やしてはという提案も時にありますが、隔月の例会ではなかなかはかどらないし、短時間では、深い学習が出来ないこともあり、なかなか難しい。

以前、稲葉先生のご著書「企業経営哲学」を4〜5回に分けて分担して報告する勉強会をしましたが、その後読書会はやっておりません。個人発表では、宮地威氏(B12・副支部長)がインド仏跡巡礼の旅を報告し、岡田が原始仏教経典「シンガーラの教え」について報告しましたが、多く例会では、前記のビデオ視聴による学習をしております。

331日の例会では、稲葉先生追悼の心から、稲葉先生が平成5年に京都円福寺で僧侶・信者さんを前に行われた講演(「仏教と経営」)をビデオで拝聴しました。このビデオも清水氏の提供であったが、NHK「心の時代」ビデオも、毎回、清水氏が持参し、詳細なレジメも準備してもらっています。例会は座談が弾み、終了の定時9時には、なかなか終わらないことが多い。

凌霜クラブでの例会は60回を数える歴史がありますが、長年、世話役を引き受けていただいている幹事諸兄のお陰が大なることは言うまでもありませんが、清水氏の熱心さに負うところも大きい。(清水氏は、定年退職後、駒沢大学へ入学し本格的に仏教を勉強中である)

<保寧寺坐禅会>

小崎無一和尚が主催される保寧寺一泊坐禅会が年2回春秋にあり、般若団有志が参加しています。今年5月の坐禅会には般若団から7名の参加者がありました。近来にない良い出席率でした。(坐禅会は35名の参加者がありました)

坐禅会は僧堂の作法に準じて厳しく指導されますが、終了後には持参した般若湯で和尚を囲んで座談するのも恒例の楽しみであります。
「東日本支部」は、稲葉ゼミ色が比較的薄いのも、もう一つの特色かもしれません。役員5名のうち、稲葉ゼミは小生1人です。しかし、これは般若団が全学的に広がった結果であり、喜ばしい現象でもあります。稲葉ゼミOBでは10回松永成彬氏、13回三好幸正氏が例会の常連です。

上記のごとく支部活動は、密度が高いとは云えませんが、「継続性」だけは、稲葉先生からもご評価いただけた点でありました。



「般若団
OB会東日本支部」は、如何あるべきか?

   ――― 煩悩3題 ―――

@「般若団OB会東日本支部」は、如何にあるべきか

存続意義がなければ、いたずら存続だけに “執著”する必要はないことでありますが、折角のよきご縁の集まりを存続させたい気持ちも強い。「般若団OB会東日本支部は、如何にあるべきか、継続(発展?)できるのか」は悩ましく難しい問題であります。

以前、小崎和尚に相談に上がったとき、「般若団というのは、不思議な集まりだなあ・・」と感想を漏らされた。
 何を指して云われていたのか、余り詮索しませんでしたが

 20分程度の椅子坐禅では、坐った気にもならないし、

 ビデオ視聴では、深みも無く、余り有難くも無いであろうに、

 それでも、あつまりが続いているのは、摩訶不思議である

 ということもあったろうと思います。

2年前、この問題についてアンケートを取り、メンバーの皆さんの意見を集めました。ある程度予想されたことながら、「学生団員が無くなっては般若団でない」という意見、「般若団は修行集団でなければ意味が無い」という意見、「今まで通りでよい」「親睦集団でよい」という意見など、今後の活動のあり方には大きな温度差がありました。

 大先輩方には「般若団は修行団体である。坐禅の修行には正師が必要である」というお考えが総じて強く、稲葉先生からは「毎月集まれ、報告発表は励行せよ。凌霜会員へ働きかけて新会員を勧誘せよ」と、叱咤激励もいただきました。

 そのような高き理念で結集しつづけられるだろうか? 私はじめ、さほど「固き発願心」もなき者には戸惑いがあり、その一歩が踏み出せずに終わっております。支部のあり方は、これからも、屡、問い直される問題であろうと思われます。

A 拠点探し

 東日本支部には、東京凌霜クラブ(有楽町帝劇ビル地下)という便利な会場がありますものの、坐禅仲間のあつまり場所としては、必ずしも適切な場所ではありません。坐禅会に参加させてもらっている小崎和尚の保寧寺は埼玉県の端にあり、都心から遠く、東日本支部には「祥龍寺」のようなよい拠点がありません。また、木村老師や、溝口先生のような例会でご指導いただく師匠もありません。

坐禅の会でありながら、坐禅会が実質年2回だけでは淋しいことであるので、「都内に般若団が坐禅に集まれる拠点寺を探す」ということもかなり時間をかけて議論し、候補も絞り込みましたが、実働せず東京凌霜クラブ拠点のまま、今日に至っております。

 稲葉先生へ「東日本支部で、いまこのような議論をしています」と、ご病床の先生の無聊をお慰めできればとの軽い気持ちで、ご報告しましたところ、稲葉先生はご病床から、妙心寺派管長であられた西片老大師へお手紙され、「関東の般若団が都内で拠点の寺を探している、適当な寺がないか探してやってほしい」とお願い戴きました。妙心寺からすぐさま先生へご返事あり、先生から小生へ「妙心寺本山の某氏と連絡を取れ」とご指示がありました。

 これは大変ことになったと驚きましたが、稲葉先生のお力と般若団へのかわらぬご熱意を改めて思い知った出来事でありました。

顛末記 ―― 本山からお寺へも連絡していただき、古老であるこの住職に相談してください、と紹介いただいたのが谷中の天龍院でしたが、天龍院も般若団の希望(注)が合致せず、妙心寺派のお寺では、都内に格好のお寺は見つかりませんでした。


  (注)@交通の便がよい A坐禅会の開始時間が18時半〜19時 B指導者(老師の提唱があるなど) C独自の会合も出来る。

この「都内での拠点寺探し」は、小生にとっては大変よい体験でありました。

大学卒業以来、坐禅会に出ること殆んどなく、かつ小崎和尚の指導される坐禅会以外には出たことが無かった小生でしたが、実地調査の必要上、道場破りよろしく、都内7つの禅寺の坐禅会に相次ぎ参加致しました。各寺の坐禅会には、それぞれに家風あり、それぞれに熱心なあつまりがありました。

B 般若団東日本支部ホームページの開設

一昨年(平成16年)8月から般若団東日本支部ホームページを開設しております。

行も知も至らざる者が賢しらに、多少なり禅に関わるホームページを開設するなど、煩悩無尽、おこがましいことであります。稲葉先生にご相談したならば、「身の程を知れ!」と、一喝されたことは請け合いであります。

そのように思いつつも、定例行事への参加者は限られ、ますます縁遠くなる東日本支部の皆様とのコミニケーションをはかり、東西般若団OBの交流の場ともなれば、有難いこと思いまして、俄か勉強で開設しました。

開設以来、多くの皆様から寄稿をいただき、最近はホームページへの訪問者も増加していて、運営者としては有難いことと感謝いたしております。また思いもかけない人から話題にされることがあり、インターネットの力を再認識しております。

 ホームページには、機関紙「般若」(昭和31年〜54年・48号まで)へ稲葉先生が寄せられた巻頭言を転載採録中であります。

稲葉ゼミの皆様からの寄稿も多数ございます。時々、ご訪問いただければ幸甚です。

般若団HPアドレス:   (略)

キーワード「般若団」で検索いただいても検出できると思います。

               ★★★



<蛇足:個人的報告>

3年前に現役引退し、最近は家内との散歩を日課とし、近くに住む小一と幼稚園児の孫たちを楽しむばかりで、社会貢献活動に参加することもなく、稲葉先生の云われる“give”(社会へのお返し)にはほど遠い小市民的な日送りをしております。

坐禅は少し生活の一部となりまして、毎朝、30〜40分自宅でも坐ることを日課とし、火曜日には、先出の谷中・天龍院の坐禅会(PM600830)へ通っておりますが、宗教心は相変わらず「頭の中の宗教」のまま、篤い信仰心へ高まっているとは云えません。近頃、仏教では「原始仏教」に関心を持ち、また政治経済的関心から、中国の歴史も勉強したいと思いつつも、意欲ばかりで「積ん読く本」ばかりが増えております。


ここ2年ほど、「法句経」を「座右の書」としております。

ご存知「法句経(ダンマパダ)」は、本屋に解説書があふれておりますが、原始仏教経典(グッダカ・ニカーヤ)の中に収められていて423個の短い詩句からなっております。お釈迦様の時代に説かれたのであろう珠玉の言葉は、いまなお、いきいきとした生き方の指南書であります。2500年前のインドの社会を思いうかべるとさらに興味が深まります。

  

余計ながら、いくつの言葉を抜書きさせていただきました。(出典は注記、頭の数字は423詩句の整理番号、詩句あとの( )内は岡田の蛇足 )

   1. ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。
      もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。 
       ――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。


   35. 心は捉え難く、軽々とざわめき、欲するままにおもむく。
      その心をおさめることは善いことである。心をおさめたならば、安楽をもたらす。


  170. 世の中は泡沫(うたかた)の如しとみよ。世の中はかげろうのごとしと見よ。
      世の中をこのように見るひとは、死王もかれを見ることがない。


 273. もろもろの道のうちでは(八つの部分からなる正しい道)(=八正道)が最もすぐれている。
     もろもろの真理のうちででは(四つの句)(=四諦)が最もすぐれている。
     人々のうちでは(眼ある人)(=ブッダ)が最もすぐれている。

 
 372. 明らかな智慧の無い人には精神の統一がない。
     精神の安定統一していない人には明らかな智慧がない。
     精神の安定統一と明らかな智慧とがそなわっている人こそ、すでにニルヴァーナの近くにいる。

  (ニルヴァーナ=涅槃、涅槃は煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地

                        ――― 岩波仏教辞典より)

             ◇◇◇

   
   . 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
     ついに怨みの
()むことがない。
      怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

 (まことにまことに、むべなるかな!)


  50. 他人の過失を見るなかれ。他人のしたことしなかったことを見るな。
     ただ自分がしたことしなかったことを見よ。


 160 自己こそ自分の(あるじ)である。
     他人がどうして(自分の)主であろうか?
     自己をよくととのえたならば、得難き主を得る。

      (この句は友松博士の名訳がよく流布している。 ――― 

         おのれこそ おのれのよるべ おのれを措きて たれによるべそ

         よくととのえし おのれこそ まことえがたき よるべをぞ獲ん )


  183. すべて悪しきことをなさず、善いことを行い、自己の心を浄めること、
        
これが諸仏の教えである。

  (有名な漢訳の句「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」である)

             ◇◇◇

  62. 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。

   しかしすでに自己が自分のものでない。
    ましてどうして子が自分のものであろうか。
   どうして財が自分のものであろうか。


   33. うず高い花を集めて多くの(はな)(かざり)をつくるように、
       人として生まれまた死ぬべきであるならば、多くの善いことをなせ。

 116. 善をなすのを急げ。悪から心を退けよ。
      善をなすのにのろのろしたら、心は悪事をたのしむ。

 ◇◇◇

  「どこで坐ったの、どんな仏書を読んだか」など愚の骨頂なことだ。
    いつまで、他人の牧場で他人の牛を数えているのか! お前の実践だけが問題だ。 喝!!


 19. たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、
    その人は怠っているのである。 
   ――― 牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

 

 
(注)「法句経」はわが国で最もポピュラーな仏教経典の一つ、全訳本はいくつかあるのだと思いますが、小生は、
岩波文庫本:中村元訳「ブッダの真理のことば」を主として読んでおります。これは口語訳であります。
友松圓諦訳「法句経」(講談社学術文庫)がより有名かも知れません。こちらは詩訳で、法句経のことばとして引用されることばは友松本からが多いようであります。
岩波文庫には萩原雲来訳「法句経」があり、これはやや漢文調ですが絶版になっているかも知れません。
                                         以上

                       10回生 岡田彬(般若団OB会・東日本支部長)

                          (2006531日)

                                                 目次へ戻る



5)戸田千之氏 
    平成18年1月22日 戸田千之氏にお寄せ戴いた、特別寄稿・稲葉先生追悼文 です。

      
特別寄稿 稲葉先生追悼文
             六甲台の青空

                                                            8回生   戸田千之

 1月8日の午後、家人と放心して食卓の椅子に座っていると、娘が孫を連れてやってきた。
「どうしたの」と聞く。
  「稲葉先生が今朝亡くなられた」と答える。だれもが黙る。

 そのとき、「ああ、おれの時代もついに終わった」という思いが、強くこみ上げてきた。

  六甲台には赤松の林があり、その奥に南向きの研究棟があった。先生の研究室にはじめて伺ったときから、ちょうど50年の歳月が流れている。ゼミへの入門を許され、西宮の海清寺僧堂へ入るように勧められたのが、あのときの、あの研究室だった。

それ以来、経営学の研究開始、仏教の修行開始、大学院への進学、昭和電工への就職、結婚、大倉工業への転進、広島経済大学への兼務、発癌、広島経済大学への転進、これら人生の節目ともいうべき大きな出来事では、すべて稲葉先生に相談し、そのご教示やお世話を受けてきた。

わたしの人生の節目、そこには、すべて先生の姿があった。その姿がついに消えた。それが消えると同時に、年老いたわたし自身の人生も、残す節目はほぼ一つ、すなわち死という一事あるのみだ。
 わたしがずいぶん若いころであったなら、人の死は自分の出来事のようには思わなかっただろう。だが、先生がご長命であったこともあって、弟子であるいまのわたしは、すでに古希(数えの70歳)を迎えている。なんということだろう。これには、まことに不思議な、しみじみとした寂しさがある。人の死を、そのままそっくり自分自身の死に重ねる悲しさがある。

 八王子の天本病院へお見舞いに出向いたのは、昨年の11月19日のことだった。奥様とお嬢様が病院まで足をお運びになると聞いていたから、たいへん恐縮するお見舞いになってしまった。
 入室後、先生からの第一声は、近々発刊されるご著書に対するわたしの校正の労をねぎらわれるものだった。そのあと、「もう1冊ぐらいは書くかもしれない」と、笑いながらお話しになった。そのうち話題は転じ、般若団東支部の活動やそこに寄稿したわたしの旅行記などに関する話にもなる。

困ったことに、お見舞いの当日、わたしは朝から急に咳き込むようになっていた。熱がまったくないので、例年のアレルギー性のものだろうとは思っていたが、万が一にもこれが風邪であればうつしかねないと思うと、気が気でない。話題の途切れるのを待って早く失礼しなくてはならないと思っていた。
 そのようなわたしを見て、さながら遺言を伝えるかのように、先生は「きみは企業時代の経験を活かして、大学ではさぞかし有意義な講義をしたことだろう。だが、余すところ1年になったいま、そろそろ生死(しょうじ)について考えるべきときでもあろうね」と話された。このとき、先生の目はきらきらと輝いていた。

生死の問題、たしかにそれは、いまのわたしの最大のテーマになっている。うかうかすごすことはもはや許されない。そのようなわたしへの時宜を得た頂門の一針が、この先生のお言葉であった。
 病院の玄関を出て、冬の光を浴びながら歩いていると、『生死事大、無常迅速、可惜光陰』の言葉が、ひとしきり胸に迫ってきた。

丸亀に帰ったあと、先生に次のようなお礼の手紙を差し上げた。

          ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

病室でお教えいただいたこと、とくに教育現場から去ったあとになすべきことへのご示唆はありがたいものでした。ついつい一寸伸ばしのかたちでなおざりにしてきた仏教の学習、すなわち生死(しょうじ)の学習、これこそがわたしにとって最後にして最大のものであろうと確信しています。それを恩師から、さながら遺言のようにしみじみとお諭しいただいたことに深い因縁を覚え、感謝しています。

経営学の徒としては、先生の切り開かれた『仏教経営学』をより深く究明すべき立場にあるのでしょうが、わたし自身の現在の心境は、自分自身の日常の運営があまりに不十分であり、まずはここから整理するのがなによりも肝要かと思っています。
 ちなみに、自分自身の日常生活における身勝手さや傲慢さには、われながら度し難いところが多々あります。これをいくぶんでも制御しておかない限り、それこそ家族からは「百の説法、屁一つ」のそしりを受けかねません。
 般若団東日本支部の岡田氏から、仏教に関する寄稿の要請をたびたび受けながら、シルクロード旅行記など、氏の要請からはかなり的外れのエッセーで逃げているのは、自分がまだまだ仏教を論じる資格のないことを痛感しているからです。

自分を鍛えつつ、生涯のテーマとも言うべきものを鋭く絞り込み、それを研究して、先生の弟子としての責めを若干でも果たしたいと願っています。

          ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

六甲台の赤松林、その奥に稲葉先生の研究室があった。その研究室に向かう途中、松の上に広がる青い空を、たびたび仰ぎ見たものだ。

先生には、もはやお目にかかることができない。だが、たぶん、あの青空につながるこの世界を、あの世ならぬこの現世を、風となり雲となりながら、どこかでお笑いになっているにちがいない。
 先生の残してくださった数々の暖かい思い出、これを糧に、わたしも自分の終末期を静かに迎え、あの青空に帰っていきたいと願っている。

  思い出は 

  六甲台の

  赤松の 

  林の上の 

  空のことなど

                            以上    
                         8回生・大学院 戸田千之 (2006.01.22)
         
                  (戸田氏は広島経済大学教授)


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